カーチス・エマーソン・ルメイ

登録日:2011/03/14 Mon 22:02:04
更新日:2023/10/07 Sat 17:08:13
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Curtis Emerson Lemey

国:アメリカ合衆国
生:1906年11月15日
没:1990年10月1日
軍歴:1928年-1965年
最終階級:空軍大将


アメリカ合衆国の軍人。戦略爆撃の専門家であり、第二次世界大戦では第3航空師団司令、第21爆撃集団司令を、ベトナム戦争では空軍参謀長を歴任した。

その戦略理論は、「戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求したもの」であり、
「戦略爆撃の父」として評価を受けている。


1965年に軍を除隊したが、前年の1964年に来日、日本の防空体制の弱点(夜間防衛)に関して多数の意見を出した。
またそのことが認められ、戦術指導に対する功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。















さて、専門家気取りはここまで。
大戦期には敵味方問わずして無能とか屑とかやりすぎとか不死身っぷりとか色々な逸話を持つ軍人は数多くいた。
日本では栗田健男牟田口廉也あたりが無能に当てはまるが彼、ルメイのことを語ろうとすると、無能とか屑とかそういう次元の話ではなくなってくる。




●空軍大佐時代(イギリス・42年9月〜43年5月)

時は第二次世界大戦…ナチス・ドイツは破竹の勢いで領土を拡大し、エースパイロット達が飢えた獣のように空を舞っていた。

ナチス・ドイツへの空爆任務を与えられた在英のB17爆撃部隊の兵士達は顔を真っ青にしたそうな。
事実対地爆撃任務での途中離脱の高さは問題視されており、ある研究資料ではその理由を以下のように結論付けた。

”死にたくない一心で、ちょっとしたことでも「非常事態だ」と嘘をつき、理由を付けては逃げ帰っている───”

兵士たちは戦場に身を置いているのである。「俺が死ぬのでは?」という恐怖は至極自然なものであり、その上敵はエース級パイロットが多数。ビビるどころかチビっても全くおかしくない。ついでにそのうちの幾らかは本当に緊急事態で離脱しているわけであるわけで…

ところが、そんなヘタレ兵士(同情の余地大有り)に対してブチ切れたのが、ルメイである。

ルメイ「今後は俺も出撃する!俺より先に逃げ帰った奴は残らず軍法会議にかけてやる!

結果、尻に火の付いた(両方の意味で)兵士達は次々にドイツの街を焼き払った。

※尚、最後尾は安全に思えるかもしれないが実際はかなり危険な位置である。
 理由は弾幕が薄い場所であり、かつ敵は同航戦を仕掛けられ長時間射撃できるため。
 特筆すべきは弾幕の薄さで、実際、独空軍はコンバットボックスの最後尾
 を狙って襲い掛かっていたらしい。また編隊から落伍した機体も狙われやすい傾向にあり、監視役がいて離脱できないのは一概に危険とは言い切れない側面もある。



●鬼畜ルメイ、爆誕

時は1945年3月…
先に述べておく。B29による無差別戦略爆撃(東京大空襲等)を計画・実行したのはルメイである。



ルメイの前任者であり実働部隊を指揮していたヘイウッド・ハンセル准将は当初工場のみを目標とした精密爆撃を行っていた。
航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将は彼に無差別焼夷弾攻撃を命じるのだが…

大将「無差別しろやゴラァ(#゚Д゚)」

准将「あんた民間人殺すつもり!?無理だぜそんなの!!」

大将「いいからとりあえずプランを練ってみろ。話はそれからだ。」

准将「分かりました(何考えてんだこいつ…)」

~~しばし後~~

准将「できました。気が進みませんが…」

大将「テメェ…俺の言う事が聞けねぇってのか!?左遷だ左遷!失せろ!!」

准将「ヒデエ…(´;ω;)」



という訳で実働部隊指揮官という大きな穴が空いたため、大将は当時成果を挙げつつあったルメイを招集した*1

大将「いい素材と聞いている。基本的なプランは出来上がってるから後は任せる」

ルメイ「刺激的にヤろうぜ」


どれくらい刺激的かというと
  • 高高度爆撃ではなく、低空爆撃(1800m以下)を主とする
  • 迎撃をかわすため夜間攻撃に限定
  • 搭載燃料は最小限、防御用の銃座は外す・機体への搭載は焼夷弾のみ、かつ最大積載とする

刺激的ってレベルじゃないよ!?(B29がいくら頑丈でも)高射砲で墜とされちゃうよ!?
というのも、ルメイは「東京の防空が比較的手薄である」と踏んだ上で、長距離爆撃の大敵であった太平洋上空のジェット気流と不安定な気象の影響を避けるために低空侵攻を指示したのである。

更に通常の焼夷弾では物足りないのか、日本の木造家屋を効率良く破壊するため延焼しやすい専用焼夷弾を開発。

ルメイ「木造家屋とは良く出来た体制だ。纏めて殺るには最適だ」

ちなみにこのとき、形の上ではルメイの計画・実行によるものとされているが、上司であるアーノルドは陸軍上層部に「軍関連施設への精密爆撃をしている」とだけ伝えていた。もし非難が抑えられないならルメイに責任を押し付けて別の部下を呼び、続けさせるつもりだったとされる。

そして東京大空襲

兵士「はぁ?低く飛べですと?葉巻の吸い過ぎじゃないですか?危ないですよ」

ルメイ「なんでもいいから低く飛べ(#゚Д゚)

兵士「ちょ、待っ…危なっ……」


東京一帯が焦土と化し、その被害たるや一度の作戦で死者10万・負傷者11万人。
だが同時に投入325機中撃墜12機、被弾42機という損害を被ることになった。そりゃ費用対効果は悪くはなかったかもしれないが、少なくない戦友を失ったアメリカ兵はルメイに詰め寄った。

兵士「なぜ低空で…一体B29が何機失われて、乗員が何人死んだと思ってる!?」

ルメイ「一晩で大日本帝国の首都を灰にし、少なくとも10万は殺せた。明日は名古屋、明後日は大阪、その次は神戸だ。1週間で日本を灰にして石器時代に戻せ!

と、何事も無かったかのように平然と答えた。


その後6日間、日本の各都市は焼き尽くされることとなる。だが7日目、ルメイは爆撃停止命令を出した。
これは別に良心の呵責を感じたわけではなく、
南太平洋全域に備蓄していた爆弾を全て使い果たしたからである。


民間人への被害が表沙汰になるにつれ、攻撃に反対する声も米国内に当然あった。呼び出しを食らったアーノルド大将は…

陸軍「無差別爆撃なんて聞いてないぞ!民間人への攻撃は国際法違反だ!反米感情煽る気か!?」

アーノルド「民間居住区に軍需物資工場が点在してるのでこうなりました。工場だけ壊すのは無理。全部燃やすしかないです。」

陸軍「しかし、民間人が…」

アーノルド「細けぇこたぁいいんだよ!

陸軍「ヒィッ…(;゚Д゚)」

という感じで、ゴリ押しで続けたのである…

再び焼夷弾を調達し、今度は大都市のみならず市町村単位での爆撃優先度リストを作成、徹底的に民間人を叩きに入る。

さらに空前の大爆撃に味をしめたルメイは、鉄道網への爆撃をも立案する。物流を絶ち、軍需物資はおろか生活物資さえ行き渡らない状況にする事が狙いだった。

が、この事がトルーマン大統領の耳に入ったらしく、鉄道網への攻撃は中止となった。大統領命令かどうかは不明だが、何にせよトルーマンGJ

戦後、米爆撃調査団はこの中止を「戦略的過失」としている。しかしこちらにしてみれば物流が守られたのだから、不幸中の幸いである。トルーマンマジGJ


なお、ルメイは自分の爆撃について絶対の自信を持っていた…というよりは、米軍の日本本土上陸より前に焼夷弾だけで都市をほぼ焼き尽くせると考えていたため、原子爆弾は必要ないと考えていた。
原爆投下を推し進めたのは、ソ連への牽制、人体への影響の確認などの事情を抱えていたトルーマンである。トルーマンBJ

だがある陸軍将校は「このまま空軍の焼夷弾攻撃を続けさせるより原爆で終わらせた方がむしろ犠牲が少ないのでは…」との思いから原爆投下に賛成したという記述を残しており、原爆投下を推進した側面もあるようだ。

ただルメイ自身、原爆に反対していたわけではなく、むしろ「アメリカ将兵に無駄な犠牲を出さずに済んだ」として評価する立場をとっている。

当時のルメイについてJFK大統領時の国防長官ロバート・マクナマラは、彼の事を最高の戦闘指揮官と認めつつも「異常に好戦的で、残忍だ」と述べている。
誰だって能力そのものは高いがこんなある意味、有能かつ人道的に無能な吹っ飛んだ上司は嫌だ。





かくして大東亜戦争はひとまず終結。しかし悪夢はまだ続く…


今までは序の口


ここからが本番


●人類種の天敵未遂(キューバ危機)


時は1960年代…米ソがにらみ合い、あわや全面核戦争勃発という一触即発の時に…

ルメイは核を積んだ爆撃機をキューバ領空ギリギリで待機させていた。

ルメイ「90秒でハバナに落とせるぜ!」

ルメイ「離脱?駄目だ、ヤらせてくれ!攻撃指示はまだか!?」

とホワイトハウスに打電しまくっていたが、JFK大統領とマクナマラは必至の説得を続けていた。

マクナマラ「やめないか!全面核戦争になるぞ!」

ルメイ「弾(核弾頭)の多い方が勝つに決まってんだろ!今なら勝てんだよ!」


またルメイは軍情報部を脅し、「キューバに核は配備されていない」「カストロの猿芝居だ」と上申をさせたりもしていた。

注:ルメイ含め空軍上層部は、現行の航空戦力のみでソ連を壊滅できると考えており、核配備はデマと思っていた。

実際の所キューバには160発を超える核弾頭が配備されており
カストロ、フルシチョフは領空侵犯した瞬間にニューヨークとワシントンに核をブチ込むつもりだったらしい。見当違いも甚だしい。


最終的にホワイトハウスはルメイの抑え込みに成功、全面核戦争は回避された。
手が滑っていたら世界は破滅していたかもしれない。誇張でもなんでもなく、これは虚構ではない事実。


ベトナム戦争

時は1965年、アメリカとベトナムの間で小競り合いが起こっていた。

ある時、ベトナムのブレイク(地名)にあるアメリカ軍基地が南ベトナム解放戦線により壊滅、将校が多数殺害されるという非常事態が発生した。
激怒したジョンソン大統領は、航空機による北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を即日命令。
空軍参謀長として北爆を推進していたルメイにとって、まさに夢のような作戦だった。
(北)ベトナムを石器時代に戻してやるぜ!
と、待っていましたとばかりにB52部隊の再編を開始。

そして宣言通り、瞬く間に北ベトナム全土がB52の爆撃と空襲にさらされた。
ところが当の本人は北爆に満足したのか、1965年に自ら除隊。呆気ない幕引きである。


●来日

1964年航空自衛隊創立10周年に航空幕僚長の浦茂の招待を受け来日、前述の通り綬章を授与された。
勲一等に叙する勲章は授与に当たって天皇から直接渡される(天皇親授)のが通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。

つまり…


●戦略爆撃に固執した理由

上司のアーノルド大将とともに、敵国民間人への徹底した無差別攻撃を実行したルメイだが、その思想はアーノルドが師と仰ぎ、無類の海軍嫌いで知られたウィリアム・ミッチェル少将から受け継いだものと言われている。
彼は著書で空軍力と戦略爆撃の重要性を説いており「敵国の国民は戦争を間接的に支えており、攻撃対象に含まれる。都市・市街地を爆撃すれば民間人は戦意を喪失し、敵国政府は戦争を継続できなくなって降伏する。そうすれば戦争は早期に終結し、結果として全体の犠牲は少なくて済む。空軍力の優れた国家が勝利する」という理論を大真面目に提唱していた。
そして同時にこの戦略爆撃という理論は、当時各国軍隊において決して珍しいものではなかった。
しかし戦後、戦略爆撃調査団などの研究によって「戦略爆撃で民間人の戦意を失わせることはできない」と判明しており、今ではこれらの理論は否定されている。


●評価

ルメイの行為*2は、多くの罪の無い民間人の殺戮に加え、貴重な文化財(寺院・仏閣・城郭など)を灰燼に帰す結果をもたらしたため、現在ではあらゆる方面から強く非難されている。
特に日本ではルメイは残虐な無差別戦略爆撃の父との評価がお決まりのようになっているのが実際のところであるが、彼の名前があまりに知れ渡ってしまったために都市爆撃を命じたアーノルド大将や、爆撃計画の作成を行ったハンセル准将などの関係者へ目が向きにくくなってしまった感はある。

仮にアメリカが敗戦国となっていた場合、ルメイらは戦争犯罪人として処罰された可能性も決して否定できない。

またマクナマラは後の回顧録にて「私もルメイも立派な戦争犯罪人だ」と述べている。
しかし当のルメイは「国の為に任務を果たしたんだ、そんなもの捨ててしまえ」と発言している。



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最終更新:2023年10月07日 17:08

*1 実際ルメイの指揮下の爆撃部隊の爆撃成功率は前任のハンセル准将よりもかなり良かった

*2 もちろんルメイのみならず当時の米空軍の行為であるが