曹丕

登録日:2012/01/22 Sun 01:21:00
更新日:2024/01/16 Tue 19:02:53
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曹丕(そうひ)とは、三国志の人物。
英雄・曹操の息子で、魏の初代皇帝
字は子桓。
諡は『文帝』。


【来歴】

【公子時代】

187年に、曹操の三男として誕生。
生まれた当時は母が側室だった為、庶子という立場だった。
しかしながら才は幼い頃から非凡であり、幼くして文章を巧みに書き、剣術や馬術にも秀でた文武両道の人物だった。

そして197年。当時、曹操は西方にて張繍・劉表の連合軍と戦っていた。
しかしその張繍は一度曹操へと降伏した。おりしも東の呂布、東南の袁術との戦いで手を焼いていた曹操は彼らの降伏を喜び、その拠点・宛城にて彼らを迎え入れた。
ところが、曹操が張繍の叔父の未亡人と密通したため、大激怒した張繍は謀反を起こした。
油断しきっていた曹操軍は壊滅し、従軍していた曹操の第一子・曹昂が戦死してしまう。

これで激怒したのが、曹昂の養母で曹操の正室だった丁夫人。
彼女は幼くして実母に死に別れた曹昂を愛しており、女の色香に迷った挙句に死に追いやった曹操を憎み、曹操と離縁した。
これによって、曹丕の実母である卞夫人が正室に立て直され、その子である曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになった。
曹昂のほかにもう一人、曹鑠という異母兄もいたが、彼も病気で早世したため、晴れて曹操の第一後継者となる。

その後、曹操の下、副丞相となり、曹操の留守を守るようになる。

曹操から正式に太子に指名されたのは217年。
曹操が「魏王」になったのがその前年なので、「太子」という称号がついたのはこの年ということである。

【君主時代】

220年にとうとう曹操が病没し、その後を継いで魏王に就任。
すでに漢王朝は有名無実のものとなっており、曹丕は規定コースを通って献帝に禅譲を迫り、皇帝の座に就いた
これにより、光武帝以来二百年続いた後漢王朝は滅亡し、新たな国号を『』とした。

曹操=魏というイメージがあるが、曹操が存命していた頃は肩書だけとはいえ漢帝国の時代であり*1、曹丕の代で禅譲が起こった事で魏帝国は誕生する。

一方、曹丕が漢帝国を滅ぼして魏帝国を立てたことに触発されて、劉備は漢帝国を引き継ぐ「漢帝国(蜀漢)」の皇帝を名乗り、かなり遅れるが孫権も「呉帝国」の皇帝を名乗る。
これにより、やっと形式の上でも三國鼎立を果たし、ようやく三国時代が始まるのである。
とはいえ曹操も関羽もすでに亡く、劉備も張飛も間もなく死ぬので、ここから三国志の面白さは急速に褪せていくのだが


皇帝となった曹丕は、まず内政を整備し国土の安定を図る事から始めた。
それまで、人材を評判により推挙させていた「郷挙里選」を改め、人材を「中正官」が九つのクラスに分ける「九品官人法」を定めている。
また、官渡の戦いで唯一自分たちの味方になって助けてくれたとして豫洲の潁川郡を一年間免税している。

一方、外政では呉に対し三度の大遠征を行うが、疫病の蔓延、呉の計略、川の凍結などにより三度の遠征のすべてに失敗してしまう
これは軍事面のみならず、外交面においても著しい失態であり、ただでさえ面従腹背を繰り返していた東呉を勢いづかせ、孫権の皇帝自称を引き起こす事となる。


その後、226年に風邪をこじらせて肺炎に陥り、40歳の若さで逝去してしまう。
皇帝に在位してからわずか七年のことだった。
曹丕の後は息子の曹叡が継いだ。


【三国演義の曹丕】

あまり変わった様子はない。むしろ地味な扱いとなっている。
そもそも曹丕自身、君主として目立ったのはわずか七年間と短い。
そのうえ、軍事面でパッとした成果を残さないというのであれば、なおのこと「三国演義」という物語では目立てなくなってしまう。

曹操は恐るべき悪役・大魔王、アンチヒーロー、もしくはライバル、といった様々な属性を付与できるが、曹丕は何もないのだ。

唯一、東呉を攻撃する際に曹操同様に大船団で呉を攻めるも、徐盛の火計で赤壁の悲劇を再来させてしまうあたりが補強ポイントだが、
これも物語のメインは徐盛の活躍と、名将張遼の死の方に置かれており、身も蓋もないことを言ってしまえば曹丕は舞台装置である。


【人物】

幼い頃から優秀な人物だったと記されるが、非常に気難しい性格でもあったという。
好悪の念が激しい人物だったようで、司馬懿陳羣など気を許した相手には身分を越えた親愛を示し、重職に付けた。
一方で過去に遺恨のある人物や気に入らない人物、肉親には非常に苛烈で、陰湿な逸話が多く残っている。

主な例として

曹植
曹操の後継者の座を巡り対立したこと以外に、詩の才を父に気にいられ寵愛されていた嫉妬心から色々と迫害を受ける。
曹丕が太子に指名された頃から厳しい迫害が始まり、皇帝即位頃には側近の数人が粛清されている。
(曹丕と曹植のエピソードとして有名な『七歩の詩』もこの頃だが、近年は創作であるとの見方が強い)
実際に何度か殺されそうになるが、なんとか許されて生き永らえる。

《丁儀》
曹操から縁談を考えられるほど才能溢れる文官。
しかも丁氏は曹家と非常に縁深く、丁夫人のみならず曹操の母も丁氏出身で、当然ながら曹操の旗揚げにも尽力している。
だが上述のように丁夫人との間に子ができないまま曹昂の一件で離縁することになってしまったため、曹操にとって曹丕の姉との縁談は丁氏と関係を強化する絶好の機会でもあった。
しかし曹丕が「片目が小さく醜いから姉が可哀想だ」と言ってこれを潰してしまったがために、丁儀は深く恨むようになる。
その後は曹植派の中心人物として暗躍し、讒言によって人事の要で曹丕派だった崔琰を処刑させて毛玠も失脚させる。
このため曹丕が後継者となると曹植と共に逮捕された後に処刑され、一族の男子も全て誅されてしまった。
ちなみに件の曹丕の姉だが、俗物のボンクラと名高い夏侯楙に嫁ぎ険悪な関係を築いていた*2という。これを伝え聞いた曹操は「やはり丁儀のほうに嫁に出すべきであった」と大きく後悔して嘆息したとか。

《于禁》
歴戦の将だが、関羽に捕まり命乞いをして生き延びた。
魏に戻った時、曹丕は表向き慰めるが同時に于禁の顛末を絵に描いてなじり、彼を憤死させる。

《曹洪》
過去に金を借りようとして断られた恨みを根に持ち、何度か殺そうとする。
結局命は助けるが、所領に爵位、財産も一時没収。曹洪が復権したのは曹叡の代になってからであった。

《夏侯尚》
寵愛する友人だったが、愛妾を目にかけているのをなんとかして欲しいと親族だった彼の正妻から相談されたため、刺客を放って妾を暗殺する。
夏侯尚は悲嘆の余り精神を病み、妾の墓を掘り起こす奇行まで犯すようになり見限る。
体まで病むようになると曹丕も彼に対する処置を後悔し再び厚遇するが、夏侯尚はその甲斐なく死んでしまう。

《鮑勛》
清廉高潔な文官。
直言をズバズバ言うタイプで何度も曹丕と衝突していた。
それでも司馬懿や陳羣が勧めるので御史中丞に渋々任命したりしていた。
ある日劉曜という人物が罪を犯したので免職するよう上奏すると、その劉曜に「鮑勛は過去に罪の見逃しをしている」と上奏し返されてしまう。この上奏を受け曹丕は鮑勛を投獄。廷尉の高柔は懲役刑、三官は罰金刑が妥当だと判断するが、この判断にも曹丕はキレて三官を逮捕してしまう。その後も前述の高柔をはじめ鍾繇、華歆、陳羣など名だたる重臣が鮑勛の父鮑信の功績*3などを挙げ弁護するも曹丕は処刑を強行する。
その20日後に今度は曹丕が病死するので、「もっと早く曹丕がくたばっていればもう少し処刑が遅れていれば鮑勛は助かったのに」と嘆かない者はいなかったとか。

《甄氏》
正妻も被害を受けている。
美人だからということで見初めて妻にされたのだが、当然時を経るにつれ抱かれることは少なくなり、曹丕は後宮の若く美しい娘に手を出すようになっていった。
この現状について曹丕に恨み言を述べたが曹丕はいきなりキレた。そして死を命じられた。
その名誉が回復され謚号が送られたのは彼女の子である曹叡の代になってからである。


以上の様な逸話が多く残っており、曹丕の性格は冷酷で神経質だったとされる。

しかし、幼少期から権謀術数が交錯する宮廷で育ち、なおかつ後継の座を争う兄弟が二十人以上いるという環境で育てば、ここまで苛烈になるのも頷けなくもない。
陰険陰湿といっても、歴史には彼ぐらいのは普通にいる。むしろ曹操が明るすぎるぐらいであろう。

それと曹植*4、丁儀*5、于禁*6、曹洪*7は私怨を別にしても権力や人格面、失策等で無視できない問題点を抱えていた。
曹丕自身は曹操と異なり、曹操が残した優れた親族衆や人材たちを敬わせるような軍事的実績は持っていない。政治家としてどれ程優れていようと、それだけでは血気に逸る武官がついてこない。
優れた親族衆の多い曹一族の中で自らの権威が落ちれば、親族衆による実質的な簒奪すら招く。
親族の重鎮や兄弟であっても失態は苛烈に罰することは、自前の力がない曹丕が君主権力を確立する中で避けては通れない道であったとも考えられる。
実際忠義を示した者に対しては手厚く報いたエピソードもあり、誰彼構わず遠ざけるようなタイプではない。

また、父同様にかなりの現実・合理主義者だったようで、自らの葬儀に関して「副葬品も墓の飾り立ても不要」と言い残しており、反儒教的な考えを持っていたという。

陳寿は曹丕を評して
「文学の資質には天稟といえる趣があり、博聞強記の学識と技芸の才能を兼備していた。これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の賢君もどうして縁遠い存在であっただろうか」
との文章を残している。
パッと見では「(。´・ω・)ん?」となるこの文章だが、要は、
「文学は天才で知識もあるしいろんな技や芸もできるんだけどな~、度量が広くないし、誠意が公平じゃないし、徳の心も充実してないからな~、古代の名君主には及んでないな~」
ということを言っているのと同じであり、つまり『かなり否定的な評価』をされてしまっている。

【功績と失態】

外政で3度の遠征失敗という汚点こそあるが、彼が重視した内政面においては多くの功績を残している。
国内の法制度を制定し、内政の諸制度を整え、後漢衰退の原因となった宦官や外戚の台頭を防ぐ整備を敷くなど、後漢の失敗を鑑みた政策を多く実行している
曹丕の代で行われた内政の充実は、彼が統治している間は諸葛亮ですら下手に北伐を敢行できないほどだった。

しかし、曹丕の在位が七年と短かった為に、発足した魏国の基盤を築くには不充分でもあった。
ここでの内政の不充実が魏王朝の寿命を縮める結果に繋がったという見方も強い。
(ただ、漢の高祖劉邦も二代目の恵帝劉盈も在位年数は七年だったし、生前譲位したが唐の太祖李淵の在位年数も八年なので、短すぎもしないが……)

また、親族衆の力を削ぎすぎたために後に司馬一族の台頭を親族衆が抑えられなかったとも見られている。
曹叡まではよかったが、その跡を継いだ曹芳は血筋すらはっきりしない。
曹真の息子である曹爽が後に司馬懿に敗れて曹一族が権勢を失い、司馬氏の簒奪の途ができてしまう訳だが、元々曹爽自身親族衆ではあってもそこまで近い親族ではなかった。
親族衆でさほど血縁が近くなく能力的にもイマイチな曹爽が最有力だった時点で、曹一族の力がいかに落ちていたかを示している。

【九品官人法】

曹丕が始めた後漢王朝時代とは異なった新しい官吏登用法。
漢代の人材発掘システムは、人々の推薦で行われる「郷挙里選」だった。
これは地方官や名士が「この何某は頭が良く、忠誠心に満ちています」「こっちの何某は勉強はよくありませんが武術の腕は一品です」と推挙し、任用されていくシステムである。
しかしそれによって後漢末期は、実績も中身もないのに虚名づくりに躍起になる人間*8、実務能力はなく儒教的な徳目ばかりの人間がはびこるようになった。
そればかりか、郷里で推挙する地方官や名士、そして地方豪族のもとに「推挙してください」と頼み込む人間が増え、賄賂を贈るなどやりたい放題し始めた。
曹操が実務能力を求めて出した求賢令も、効果を挙げているとは言い難い状況であった。

曹丕が定めた「九品中正」とは、公平な「中正官」が人材を見極めて九つのクラスに区分し、虚名や徳目、地方有力者(豪族)の利権から分かれた、「能力主義的な人材発掘」を進めることにあった。


【文学】

その他に曹丕を語る上で欠かせない物、それが『詩』である。
父・曹操や弟・曹植と同様優れた文人としても有名で、漢文のテキストなどにも取り上げられる詩を多く残している。
曹丕の作風は、父や弟に比べ繊細優美なのが特徴。
穏やかな詩風から、中々のロマンティストだった様子。
曹操、曹植と並んで『三曹』と称され、名詩文家の代表とされた。

曹丕が編纂した中国史上初の文学論文書『典論』には
文章は経国の大業にして不朽の盛事なり』という言葉が掲載されており、世の士大夫の矜持を示す名文句としても広く人口に膾炙した。

また、こちらも中国史上初の志怪(「しかい」言わばオカルトホラー)小説集『列異伝』を編纂・執筆されたとされている。
しかしほどんどが散逸し現在50条程しか残っておらず、その説話の中には曹丕死後の事件を扱ったものが含まれており、
晋の張華の著とする説もある。
もし、本当に曹丕が著とするのが本当であれば、皇帝が小説を書いたと言う唯一の例となる。

【後世の評価】

上記の様に内政面で治世をもたらすなど、曹操らに比べ地味ながら大きな功績を残した曹丕だが、
献帝から禅譲を行った経緯によって簒奪者の汚名を着る事が多く、また魏王朝そのものが長続きしなかったこと、ある意味でその元凶でもあることなどから、後世の評判は非常に悪い
特に劉備を主人公にした三国志演義による蜀漢正統論の影響も手伝って、父の曹操と共に悪役として見られる事が多い。

曹植や于禁などへの冷遇の逸話も相まって、後世の批評家などからも辛辣な評価を与えられがち。
特に于禁の件については、(一応)魏を正統王朝として描いている陳寿ですらが批判している*9


【名君か簒奪者か】

後世での評価は酷評が多いが、一方で人格的な問題を改めれば為政者としての長所もまま多いため、長生きしていれば相当な名君になっただろう、というような評価も多い。
実際に曹丕が在位中、国内で大きな反乱などが起きていないことからも、曹丕の内政は概ね成功しており、治世をもたらしていたと言える。
曹丕の皇帝の諡、文帝の『文』とは政治に優れた君主に与えられる事が多い諡であり、曹丕の内政での功績を示している。

しかし、漢王朝の再興を目指す劉備が正義という見方が強い流れから、禅譲を強行した曹丕を簒奪者として悪とみなす考えが多いと思われる。

実際、彼が在位したのはわずか七年という短い期間であり、大きな功績を残すには時間が無かった。
彼が早世さえしていなければ、曹操をも超える名君になっていたという可能性も捨てきれないのである。

まぁ可能性という点では暴君になる可能性も当然否めないが
とかく暴君という類の人種は強欲や陰湿であり、更に猜疑心の強い人間がなってしまう事が多い。
曹丕は後者の陰湿かつ猜疑心が強いがドンピシャで当て嵌まっている。


【甄氏との晩年】

三国無双シリーズでも登場する、曹丕の妻で絶世の美女甄氏(後の甄皇后、無双シリーズでは甄姫)。
無双では最後まで仲良く描かれているが、前述のように史実での両者の晩年はかなり悲劇的である。
甄氏は曹丕の妻になり、息子の曹叡(後の明帝)を産む。
しかし、次第に曹丕からの寵愛が薄れていき、曹丕の心は郭貴人(郭皇后)に傾いていく。
そして最後には曹丕の恨み言を述べた事で曹丕の逆鱗に触れ、死を賜る事になる。

そんな甄氏との晩年の不和の原因に関しては、いくつか興味深い説が存在する。

  • 曹叡の父親説
曹丕の長子で2代目の魏皇帝である曹叡は、正史「三国志」において、239年に数え36歳で死んだ、とされている。
そこから逆算すると彼の生年は204年となるが、204年の8月までは、まだ母である甄氏は袁紹の息子袁煕の妻でだったのである。
曹丕に見初められて妻になった直後、妊娠が発覚し、産んだ子供が曹叡だった。

ここから、曹叡の父親が実は曹丕ではなく、袁煕だったという説が出てきた。
当然ながら当時に父親を判別する手段などがある訳でもなく、間違いなく曹叡の父親が袁煕であるという確証こそないが、曹丕の実の子だという確証もなかったのである。
それにより、猜疑心の強い曹丕の癪に触れ、甄氏との不和に繋がったという説である。

だがこの説はそもそも近代(中華民国時代)の史家である盧弼が初めて唱えた説であり、その論拠も
「曹叡は最初曹丕に冷遇されていたのは、多分実子じゃなかっただったに違いない!」「証拠は『魏略』に載ってるある文官(吉茂)に関する記述だ!」
というちょっと・・・いやだいぶガバガバなもの。

それ以前には、正史の文帝(曹丕)記、明帝(曹叡)記にある「220年、数え15歳の曹叡が武徳侯に任じられた」という記述から、206年に生まれたと逆算するのが一般的で、死亡年の矛盾は単に陳寿の記載ミスだったとされていた。
また曹叡が実際に204年内に生まれたと仮定した場合、どう考えても計算が合わないことは周囲にモロバレなはず(なにしろ甄氏が曹丕の妻になってから、204年が終わるまでは4カ月もない)だが、同時代の史料にも曹叡の出自を疑わせるような記述は全くない。

つまりぶっちゃけ相当な暴論・トンデモ論の域を出ないのだが、なぜか現代日本では「隠された事実!」みたいに思われている節がある。まあそっちの方が物語性があるし?

  • 郭氏の陰謀説
史書の中には、文帝が体調を崩すと、郭氏は「体調が優れておられないのは、甄氏が呪いをかけているからだ」と讒言し、文帝が激怒した。という話がある。
その他にも、串刺しにされた曹丕の名が書かれた人形が甄氏の部屋から見つかり、曹丕の怒りをかった。(それを仕組んだのは郭氏)という話もある。

これらに関しては後代の書であるため、創作である可能性も高い。


【現代創作】

  • コーエー三国志シリーズ
軍事面を現す統率や武力はほぼ70。低くはないがぱっとしない数値で、ハッキリ言うと二流武将。
知力・政治力・魅力値は全て80台で安定しており、内政向け……というよりも、特徴のないのが特徴といわんばかりの器用貧乏。
全てのステータスが70~80で安定と考えると地味にすごいが……残念ながらゲームの駒としてはあまり目立った存在ではない。
かといって本国にふんぞり返ってもらおうとすると、低い義理と高い野望が気がかりになる困ったちゃん。
君主になっているシナリオもあるが、数年で寿命を迎えて死ぬので君主としても目立たない。

しかし14PKでは敵軍全能力ダウン+自軍士気上昇と超強力な固有戦法「活殺自在」を手に入れ、一転して戦争でも内政でもエース格として戦えるようになった。

  • 三国無双シリーズ
曹丕(三國無双)を参照。

乱世の姦雄として、どんな人材でも使う曹操に反するかの如く、異才であっても国家に背くのであれば処刑する怜悧な統率力を以って描かれる。
己の世について「奸雄の類が棲めぬ世だ!」と断言し、曹操亡き後に曹操を追わない気概を吐く。

「青き焔の孔雀」曹丕ガンダム。演者はガンダムX
アニメは本格登場前の時系列で終わったためチョイ役だが、続編構想があったのか、声優は本家シリーズで主役経験もある阪口大助と妙に豪華な配役になっている。
父・曹操ガンダムが赤壁の戦いで行方不明になった後に皇帝として「機駕」を建国する。
曹操が多忙だったためにほとんど親子としての交流がなく、いざ曹操が帰還した際には「今さら父親面するな!」と反発。しかし曹操から「仮にも皇帝ならもっと大局を見ろ」と正論と共にブッ飛ばされ、皇帝の位を剥奪される。
「星凰剣」「威天剣」という宝剣二振りを所持しており、これらによる二刀流は劉備ガンダムすら上回る腕前であり、その上本来は「黒翼刀」による一刀流の方が得意分野でそちらの方が強い……という裏設定があったが、宝剣は曹操に皇帝の位と共に没収されるわ、その後は一刀流で戦う見せ場もないわと割と散々な扱い。
エピローグでは正式に曹操の跡を継いで皇帝に返り咲く。
三国伝公式サイトでは、司馬懿サザビーの策略により 今更になってシスタープリンセスにドハマりする *10姿を見せたため、ファンからは シスプリ皇帝 の渾名でネタにされて親しまれている。
キットは曹操と同じ翼マントや、ディバイダーを模した組み替え武装などシンプルながら遊びごたえのある造り……ではあるのだが、親父のパワーアップ要員としてパーツをもぎ取られる運命にあり、ここでも妙に不憫。



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最終更新:2024年01月16日 19:02

*1 正確には「後漢帝国の内部に、魏公爵国/魏王国が封建されている」という形式になる。

*2 一説によれば、夏侯楙は数多くの娼妓を囲ってそちらと遊んでばかりいて、曹丕の姉のことは持て余して放置していたらしい。

*3 反董卓連合で酒宴ばかりしている諸侯にキレて出陣した曹操と共に徐栄と戦う、戦死した上司の劉岱の後任を曹操にしようとする陳宮の動きに賛同する、最後は寡勢で青州黄巾党の大軍と遭遇戦になってしまった曹操を脱出させ戦死

*4 優秀な取り巻きが多数おり彼らの動き次第では曹操亡き魏に内乱の可能性があった。また、左遷先で大酒によるトラブルが多数あった。

*5 上述の通り曹植派の中心人物。曹丕派の人物を何人も失脚させている。

*6 この時曹操は漢中を放棄する羽目になって「遷都を考える程に」ヤバい状況での降伏。おまけに新参のホウ徳が潔く死んだこともあり流石にお咎めなしはあり得ない状況である。

*7 曹操の旗揚げ時から曹操を上回る権力と財力を持ち、自分の取り巻きの罪人を曹操の親戚と言う立場で無罪にしようとして機転を利かせた文官が先手を打って処刑したと言うエピソードもあり、放置すれば曹丕を脅かす存在となるのは確実であった。

*8 「水鏡」「臥竜」「鳳雛」「馬氏の五常」「司馬の八達」など中二病じみた二つ名を名乗るのもその一つ。

*9 ただ、陳寿は魏の役人ではなく晋の役人である。曹丕や魏朝を美化しすぎると今度は晋朝の正統性を損ないかねないので、そこは難しいところではあろうが……

*10 シスタープリンセスは2000~2003年に展開、三国伝に曹丕が登場したのは2009年頃