三毛別羆事件

登録日:2011/09/08 Thu 19:44:35
更新日:2024/04/17 Wed 18:57:26
所要時間:約 18 分で読めます




※この項目では実際に起こった凄惨な獣害事件を明記しています。閲覧には注意してください。

なお、本項目は木村盛武氏の著書「慟哭の谷」を元に加筆していますので実名が出ます。あらかじめご了承ください。
また本件についてはWikipediaにも詳細な記事が掲載されているので、詳しく知りたい方はそちらも参照ください。



三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、大正4年(1915年)に北海道苫前(とままえ)郡苫前村の三毛別(さんけべつ)で実際に起こった熊(ヒグマ)による獣害である。
六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)苫前羆事件(とままえひぐまじけん)とも呼ばれる。
日本国内で起きた獣害事件の中でも、最も大きな被害を出したと言われている。



事の始まりは大正4年11月。
開拓村のある家の畑に巨大なヒグマが現れた。
その際には畑の作物が僅かに荒らされるだけで済む。

開拓が始まったばかりの三毛別の土地で、熊の様な野生動物が現れるのはよくある事だったが、今回現れた熊の足跡の大きさは並みの物よりも遥かに大きかった。

それから数日後、再び同じ家にヒグマが姿を現す。
家の主人は、飼い馬への被害を避けるために2人の鉄砲持ち(マタギ)に熊の討伐を頼み、さらに数日後に三度現れたヒグマに発砲。
その際、仕留めるには至らなかったが、翌日に熊の足跡を追った先で血痕を発見。しかし、吹雪のため追撃は断念された。


これが全ての始まりであった……。



【ヒグマの襲撃】

◆12月9日

朝、三毛別川の上流に居を持つ太田家では、長松要吉(通称オド)と当主の三郎が仕事などで出掛け、家には三郎の妻マユと、近くに住む蓮見家から預けられていた幹雄という少年の2人が残っていた。

昼になり、オドが昼食のため家に戻ると、喉元を抉られ、側頭部に親指大の穴を穿たれ、こと切れた幹雄の遺体を発見。

居間は熊の足跡と血に染まった折れたまさかり、そして鮮血で溢れていた。
これは熊の襲撃にマユが抵抗した跡で、熊相手に必死に抵抗するマユが、やがて捕まったことを物語っていた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら窓から屋外の住処に連れ去ったと推測され、その証拠に窓枠にはマユと思しき人の髪が絡みついていた……。

またオドによると、幹雄の遺体を発見した際にはまだ暖かい蒸し焼きのジャガイモが転がっていたことから、襲われてからさほど時間は経過していなかったと推測された。
事実、10時半頃に太田家の近くを松永米太郎という人物が通る際、その時すでに太田家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線を目撃している。
だが松永は「マタギが兎を山から下ろして、太田家で休ませてもらっているのだろう」と考えて騒ぎ立てなかったのだ。
なおこの日の朝8時ごろ、三郎は川を下る途中に羆が畑を荒らした跡を目撃している。つまりその頃には例の羆が村内にいたのだ。

この事から2人が襲われたのは8時半~10時半の間で昼食の匂いを嗅ぎつけ襲われたとみられている。

オドによりもたらされたヒグマ襲撃の報に村は大騒動となり、一刻も早い熊の討伐が求められた。
そこで、まず役場と警察に連絡。話し合った結果、斉藤石五郎が使者となり、石五郎は明景安太郎の家に自分の妻子を預けた。
安太郎も所用から外出しなければならなかった為これを承諾、オドも男手として明景家に避難。
残された村人は警察が到着するまでにも対策及びマユの捜索を考えるも、12月の北海道は陽が傾くのも早く、無理に山に入るのは危険だった。


◆12月10日

明朝、熊の討伐とマユの亡骸捜索のため30人の捜索隊が山に向かった。

熊の足跡を追って森に入った彼らは、道中で太田家を襲撃したヒグマと遭遇、馬を軽々と越える程に巨大なヒグマは捜索隊に襲いかかった。
鉄砲を持った5人が銃口を向けたが、手入れの不備による不発が相次ぎ、まともに発砲できたのは谷喜八の1丁だけだった
熊の反撃で捜索隊は散り散りとなり宮本と川端の2人が取り残されたが、2人の死にもの狂いの行動にヒグマは何故か程なくして逃走に転じた為、2人に被害はなかった。

周囲を捜索した捜索隊は、松の根元に埋められたマユの遺体を発見。
それはもはや原型をとどめておらず、膝から下の部位と頭蓋骨の一部しかないほどに食い荒らされていたが、捜索隊はマユの遺体を回収し村へと運んだ。

しかし、人間の肉の味を覚えたヒグマはマユの亡骸を雪に隠し保存食にしようとしていた。
それを奪われたことで、奪われたものを取り返しに来る習性を持つヒグマは再び村を襲うことになるのだった。



夜になり、太田家では幹雄の実の両親や一部の住民計9人が大田家に集まった。
他の住民はヒグマの習性を恐れ近寄らなかったのである。
通夜開始直前、先ほどの捜索に参加していた谷喜八が訪れ、

「どうせ食われるのならもう二、三人食われりゃよかった。一緒に弔ってやるのにな。今夜は見てろ、九時ころ必ず熊がくるぞ。」

と悪態をついて行った。そしてその谷の予言は見事に的中してしまうのだった…。
そして通夜が行われた後、持参した酒を飲んでいる所にそこに再びヒグマが襲撃をかけてきた。
みんな恐怖に駆られ右往左往したが日露戦争帰りの青年・堀口清作が一人踏みとどまり、猟銃を発射した事でヒグマは撤退。
幸い怪我人や犠牲者は出なかったが、一同はいったん明景家に退避することにした。
この時パニックのあまりか蓮見嘉七(幹雄少年の父親)は妻のチセを踏み台にして天井に逃げたとのことで、後の取材にチセは生涯夫婦喧嘩が絶えず、嘉七は頭が上がらなかったとも答えている。なお取材当時彼女は82歳であった。

太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女子供らは火を焚き眠れぬ夜を過ごしていた。
が、明景家を護る護衛は太田家での騒動に駆り出され不在で、明景家の守りは無いに等しい状況になっていた。

太田家からヒグマが姿を消してしばらくした後、守り手のない明景家をヒグマが襲った。
大混乱の中、灯りの消えた明景家から、安太郎の妻ヤヨは四男の梅吉を背負い脱出を試みるも、その際襲いかかったヒグマの手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部に一撃を受けて深手を負わされてしまう。だが
次男の勇次郎が羆と母親の間にいたためクマは思うように力が出せず、ヤヨはなんとか一命を取り留めた。
そしてクマはオド(男手で唯一家にいた)が逃げようとしているところに気を取られ、その隙に親子は脱出した。


一方のオドは右腰あたりの肉を抉られてしまう。
次の攻撃の矛先を恐怖のあまり泣き叫んでいた女、子供へ向けた熊は、怯える男児2名(明景金蔵、斉藤春義)を一撃で即死させ、1名(斉藤巌)へ瀕死の重症を負わせる。

この様子に、野菜置き場に隠れていた斉藤タケが顔を出してしまい、彼女もまたヒグマの標的となった。
タケは腹の中に居た子供だけでも助けて欲しいと熊に懇願し続けるが、飢えている上に目の前の相手を獲物としか見ていない野獣にそんな慈悲などあるはずもなく、絶叫中にも肉を引きちぎられて気絶したタケは上半身から食われ始めた。
熊はこれに飽き足らず、すでに撲殺した子供達まで貪り始めた。

捜索隊の男達は激しい物音と絶叫、さらに逃れてきたヤヨから、明景家で何が起こっているかを知った。
駆け付けた男たちは明景家を取り囲むが迂闊には踏み込めず、膠着状態となる。
とにかく家の中に向けて撃とう、いや家ごと燃やしてやろう、という討伐隊員もいたが、まだ生存者がいるかもしれないからとヤヨが強く反対した。
結局二手に分かれて入口から熊を追い払うまで、中からはタケと思われる女のうめき声や肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響き続けていた。
この時も入口から出てきた熊に対してマタギの一人が撃とうとしたが、不発であった。

熊が去り、明景家に入った男たちの目に映ったのは、血の海に横たわる無残に食いちぎられた二児とタケの遺体であった。
巌はまだ息があったが、左足大腿部が骨しか残っていないほど食いちぎられており、皮がボロ布のようにまとわりついている状態だった。
重傷の巌と胎児は救出されたものの、両名ともその日のうちに絶命した。

唯一明景家の長男力蔵(この惨劇の唯一の証言者、襲撃時物陰に隠れて上記の惨劇を目撃した)と
長女ヒサノ(ショックで失神しており、ヒグマは何故か彼女には攻撃しなかった)の2人の子供は無事だったが、
2日間で6人、胎児を含めると7人が犠牲になった。

明景家の人達。一番左から集合写真、明景ヤヨ氏、明景力蔵氏、明景ヒサノ氏


因みにこの日の夜、この事件の主役とも言うべき男・山本兵吉が討伐隊へと合流した。


◆12月11日

すべての住民が避難し、ここでようやくヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決めた。
役場と警察にヒグマ襲来の報を届け出て帰還中の石五郎が下流の三毛別にたどり着くが、
そこで妻子を失った事を知った彼は崩れ落ち、ただ慟哭するだけであった…。


◆12月12日

ヒグマ出没の報が北海道庁にもたらされると、近隣の青年会や消防団などで構成された討伐隊が組織され三毛別に集まった。
当初討伐隊は村に現れた熊の討伐程度の考えだったが、太田・明景家の惨状を目の当たりにし、討伐隊は自分達の手に負える事態ではない事を悟り始めていた。

それでも討伐隊は昼間に山に入るが、ヒグマの発見には至らなかった。

夕暮れ時が近づき、手応えを得られない討伐隊本部は、ヒグマの獲物を取り戻そうとする習性を利用し、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せる待ち伏せ作戦が採用された。
もちろん当初は討伐隊の間では反対意見があったものの、結局他に案がないこともあり、討伐隊の指揮官である警察署長が代表となって遺族と住人にこの作戦について説明。
署長は遺族から罵倒されるのも覚悟の上での決断だったが遺族は誰一人反対せず、それどころかその場に残っていた六線沢住人全員がこの作戦に賛成。もはやそれほどまで事態は切迫していた。

そして惨劇の舞台にもなった明景家に、犠牲になった巌を除く5名(マユ、幹雄、金蔵、春義、タケ)と胎児の遺体を置き、天井の梁の上に6名の討伐隊が待ち伏せて、おびき寄せたヒグマを撃つという作戦を取った。

しかし熊は一旦は明景家の周辺に現れたものの、討伐隊がいることに気づいたのか(熊は警戒心も強く、また犬以上に嗅覚に優れている)、
周囲をグルグル回るなどして警戒し近づかず、結局逃げていった。
作戦は失敗に終わったのだった…。


◆12月13日

討伐隊は警官や消防団などで構成されていたが、その本部はこのままでは手に負えない事態と判断、ついに旭川の陸軍第7師団に出動を要請。
それに対し歩兵第28連隊が事件解決のために投入される事になり、軍将兵30人が出動した。
だが、軍の到着には時間がかかり、その間にも熊は三毛別を出て他の村を襲うと予想された。
その間ヒグマは無人となった家々に次々と侵入し、破壊の限りを尽くした。
皮肉にも襲われたのは右岸の家ばかりで、3人の犠牲者を出した斉藤家(左岸)の家には近寄りもしなかった

後述の様にこの時ヒグマは「女性の物」を執拗に破壊した形跡が見られ、湯たんぽ用の石を噛み砕いている音を山本平吉に聞かれている。
山本の証言によればこのヒグマが天塩で最初に殺害したのが女性であり、以後女性を多く襲ったのもそれが原因だという。

クマは冷たい水を嫌うという習性から、討伐隊はクマが通るであろう氷の橋に防衛線を張り、ここに撃ち手を配置し夜通し警戒に当てた。
そして夜、警備の一人が対岸の切り株の本数が1本多く、しかも微かに動いていると気付く。
署長は念のため「人か、熊か!」と三度呼びかけたが返答はなかった。

意を決し、撃ち手が対岸や橋の上から銃を放つと影は動き、そのまま山に向けて逃げて行った。


◆12月14日

朝、対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を発見。
熊は負傷していると見た一行は、急いで討伐隊を差し向ける決定を下し、今度こそヒグマを討ち取らんと山に入る。
だが、彼らとは別行動をしているマタギがいた。
その名を山本兵吉(事件当時57歳)。事件を聞きつけ、10日深夜に三毛別入りした男である。
兵吉は若い頃にサバ裂き包丁一本でヒグマを仕留めた事から「サバサキの兄(あにい)」という異名を持つ人物で、酒に酔うと粗暴な一面を見せたりもするが、普段は優しく面倒見もよい好漢で、マタギとしての評判も高く、彼が11月のヒグマの出現を知っていたならば、此度の惨劇は起こらなかったはずと誰もが悔しがったという。

追っ手を混乱させるヒグマ独特の足取りに惑わされず慎重に追跡し、いち早く山頂へ到達した兵吉はそこで200m先に熊を発見。
物音も立てず20mの距離までにじり寄り、近くの樹に身を隠した。

ヒグマは山を登ってくる討伐隊を見据えていて、単独で背後に忍び寄る兵吉に気づかない。
狙い定めた兵吉は熊目掛け初弾を放ち、心臓付近に命中させる。

一撃では倒れず、兵吉の方を振り返ったヒグマだったが、そこで2発目の弾丸が頭部に命中。
(ちなみに銃は連射式ではなく、1発づつ弾込めが必要なものであった)

この弾丸は2発とも熊の巨体を貫通しており、致命傷には十分なダメージを与えていた。そしてクマはようやく息絶え、時に12月14日午前10時。
村を未曾有の恐怖に陥れた悪魔は、ついに斃れたのだった。


ちなみに氏の使用したライフルは、写真からロシア製ベルダン-タイプ2 モデル1870と推測される。
ドライゼ-ニードルガンからモシンナガンライフルに繋がるボルトアクションライフルの系譜に連なる物で、
弾薬は10.75x58ミリベルダンボクサー-非被覆黒色火薬弾-ラウンドノーズ、威力にして7.62×54R弾薬とほぼ同等。
当時としては精密性と信頼性が高く、狩猟用としても製造されたライフルではあるが、いかんせんコーティングのされていないソフトポイント弾のため、こんなグリズリーみたいな化け物熊の頭蓋骨をブチ抜くにはかなり貫通力不足が心配される事を述べておく。
古い銃器に詳しい人なら、アメリカの45-70弾とトラップドアライフルを思い浮かべると大体そんな感じ。
日露戦争後には7.62×54R弾薬に改造されたものもある。
氏は本銃を日露戦争で鹵獲し十年以上継続して使用していること、そして弾がヒグマを貫通した事実から、熊撃ち用の弾薬を自作ないし調達していたのだろうと思われる。


ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。
しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。
すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。雪は激しい吹雪に変わり、そりを引く一行を激しく打った。
言い伝えによれば人食いクマを殺すと空が荒れるという。その罪深さから黄泉入りを拒まれて行き場を失くし、哭き叫ぶクマの声なのだと…
この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。
これが後の小説『羆嵐』のタイトルの由来となる。


【その後】

絶命し倒れたヒグマは、重さ340kg、体高3.5mにおよぶ破格の巨体を持ち、さらに胴体に比べ頭部が異様に大きいオスだった。
胸から背中にかけて白毛が通った「袈裟懸け」模様が特徴であったため、この羆の通称もまた「袈裟懸け」となった。
討伐隊の隊員たちは、怒りや恨みから、ヒグマの遺体を棒で殴り、蹴りつけ、挙句肛門に木の棒を刺す者までいたほどだった。
そしてようやく熊の恐怖から解放された安堵からか、誰ともなく万歳を叫びだした。

この事件での犠牲者は最終的に7名死亡(胎児を含めば8名)、重傷者3名。

解剖の際になると、アイヌの夫婦が「こいつは雨竜郡でも女性を食害したヒグマだ、腹を裂けば女性の赤い肌着の切れ端が出てくる」と主張。
さらにあるマタギが「旭川で女性を食ったヒグマだ、肉色の脚絆が出てくる」と主張。
さらにさらに、山本兵吉も「天塩で飯場の女性を食い殺して3人のマタギに追われていた奴に違いない」と主張。
そして腹を解剖してみれば、胃の中から赤い布、肉色の脚絆、マユが着用していた葡萄色の脚絆が絡んだ頭髪と共に見つかった
さらには後ろ足からは古い銃弾も摘出された
そう、このヒグマは六線沢以前にも何人もの人を食い殺した、文字通り「魔獣」というべき動物だったのだ。

また後になってわかった話だが、このヒグマは周辺で女性が湯たんぽに使う石(当時は石を火で熱し、それを布で包んで使っていた)を噛み砕いていた。
理由は、石を包む布についていた女性の匂いと推測される。
上記のように六線沢前の犠牲者はどれも女性であり、また太田家を襲撃した際も、マユは足と頭蓋骨の一部以外のほぼ全身が食われているのに対し、幹雄の遺体はほとんど食われていなかったという。
明景家の惨劇の際も一番食われていたのはタケの遺体であった。
熊の習性として「一つのエサに執着する」というものがあるが、このヒグマの場合そのエサは「人間の女性」だったのだ。何故ヒサノだけが襲われなかったのかは未だ不明。

ヒグマの肉は犠牲者の供養のために鍋で煮て配られたが、元々人食い熊の肉ということで食欲が湧くわけがなく、
さらに肉自体も筋張っているせいで食べられたものではなかったという。
毛皮は剥がされた後、青年会館に飾られていたが北海道各地から訪れた見学者によって木の棒で叩かれるなどの悪戯が相次ぎ、現在は失われている。

警察署長の要請を受けていた歩兵第28連隊は13日深夜に旭川から出立していたが、14日の夕刻に羆射殺の報を受け引き返した。

ちなみに当初は「熊一匹で大げさな事件」と報道されたこともあったが、そのあまりにも大きな被害と羆の様相が知られるとそのような報道は消えていった。

重傷を負ったオドはその後無事回復したものの、翌年の春に川に転落して死亡。
ヒグマに襲われながらもなんとか無事だった明景勇次郎は戦死、噛まれた梅吉は約3年後に傷が元で病死している。
事件の舞台となった三毛別の六線沢からは、事件後村人が離れていき、今は廃村となっている。
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、その後昭和25年に92歳で亡くなった。
彼が生涯で倒したヒグマの数は300頭を超えるという。

山本兵吉

当時はまだヒグマに対する間違った教訓の多くが有効だと信じられており、それらが惨事を拡大させたともいわれている。
特に「クマも獣なのだから火を恐れる」というのは大間違い。むしろその逆でまったく恐れないのだ。

なお三毛別地区区長・大川与三吉の息子春義は、後にマタギとなる道を選んだ。
当時対策本部が置かれた区長宅にて、事件の一部始終を見聞していた彼は、被害者の墓前で事件の犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを斃し仇を討つという誓いを立て、生涯で102頭のヒグマを仕留め引退。犠牲となった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓神社に建立した。
また春義の息子、高義もハンターとなり、1980年には、父・春義も追跡していた体重およそ500kgにも達する大ヒグマ「北海太郎」を、5年後には他のハンターと2人で体重350kgの熊「渓谷の次郎」を仕留めている。

この事件に関しては昭和30年代に木村盛武が当時生存していた関係者に取材してまとめた「慟哭の谷 The Devil's Valley」が詳しい。
木村氏は、実際にヒグマを目撃した蓮見チセ、明景力蔵、池田亀治郎(通夜に参加した1人)の3名、討伐隊員4名、関係者6名を含む30名から聴取しており、慟哭の谷の前身(加筆・修正が加わる前)である「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を読んだ生存者の一人・明景力蔵氏(当時56歳)は、
木村氏に対し「正確にまとめすぎていて、息子と読んでいて失禁しそうになった」という賞賛の手紙を送っている。

なお、後にこの事件を元に吉村昭が取材、執筆した作品として『羆嵐』がある。
文庫化されており比較的入手しやすいため、興味あるかたは一読するのもあり。

また、釣りキチ三平で有名な矢口高雄氏の手により、『野生伝説 羆風』の名でコミカライズされた。


【他の獣害事件との関連】

今でこそ日本最大(それどころか世界で見ても最大クラス)の獣害事件として認知されているが、実は当時は獣害事件としてはそこまで有名ではなかった。

というのも、1878年(明治11年)に起きた札幌丘珠事件(死者3名、重傷者2名。日本史上では3番目に大きな獣害事件)において、
事件解決後に狩られたヒグマの剥製を明治天皇が見学していた。
「天皇陛下が直々にご見学なされた」ということから当時メディアでも大きく取り上げられ、
その結果こちらが「日本を代表する獣害事件」として認知されていたのである。
当時の事件を体験した六線沢出身者達が口をつぐんでいたのもあり、認知されるのは上記の木村盛武の「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」が出版されてからであった。

事件の原因について、「冬眠に失敗し狂暴化した羆による凶行」とされている。
当時ヒグマ追跡にあたったマタギの一人は「この巨体では入れる巣穴が見つからなかったのだろう」と推測している。
近年では「開拓の範囲が熊の生息地に侵食しすぎたが故の悲劇」ではないかとも言われている。
理由としては「穴持たず」でもここまでの凶行を犯した羆は現在においても他に例がないこと等が挙げられる。
近年、知床などでは羆が人間の残したゴミを喰う、距離感を測れない観光客やカメラマンによる至近距離での撮影などが横行しており、
事実北米でも「グリズリーマン」と呼ばれていた映像作家が、無警戒にグリズリーへ接近しすぎた結果、恋人ともども生きたまま食い殺される事件が発生している。
またいつ人を餌と認識した羆が出るとも限らない情勢は続いている、といえる。

三毛別の事件よりも巨大なヒグマはその後もそう滅多には現れなかったが*1、奇しくも事件から100年後となる2015年に紋別市で三毛別の個体を超える400kgのヒグマが駆除されるという出来事があった。
このときはトウモロコシ畑*2の被害状況から巨大な個体であるとハンターが判断し、2人掛かりで対応して仕留めた。
三毛別の個体も1人で倒せたのは運が良かったというレベルなので、2人掛かりで対応したのは賢明な判断だろう。
冬眠前に餌を求めてトウモロコシ畑を荒らし回っていたところを射殺されたため、トウモロコシ畑こそ大損害だったが人的被害は出なかった。
しかしこのヒグマも三毛別のヒグマのように冬眠に失敗した場合、悲劇が繰り返されたとしても不思議ではない。
まあ、この個体はトウモロコシの食い過ぎでデブになっていたが故の巨体らしいのであんな凶暴には暴れない可能性のほうが高い。
…どっかで人を食っていたなら話は別だが。


【余談】

GBAゲーム「パワプロクンポケット7」には本事件を題材にしたと思われるイベントがある。
ゴルゴ13』の作者であるさいとう・たかを著の漫画『サバイバル』では、真冬の無人島にて熊が登場し、主人公サトルに襲い掛かった。
作中では「食糧不足で冬眠が出来ないこのような熊は“穴持たず”と言われ、気が立っていて非情に危険な存在」と紹介されている。



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最終更新:2024年04月17日 18:57

*1 450㎏の北海太郎や、最大級の個体だと鮭鱒孵化場で捕まった520㎏の個体もいた。ちなみにヒグマの世界記録はコディアックヒグマの1tオーバー。

*2 食用ではなく、所謂「デントコーン」と呼ばれる、家畜飼料用の加工品