塚原卜伝(剣豪)

登録日:2009/11/23 (月) 12:02:24
更新日:2023/12/09 Sat 08:39:44
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1489年生~1571年没

戦国時代の剣豪。
名前の読みは『ぼくでん』。卜伝は号で、諱は高幹(たかもと)。
鹿島神宮に仕える吉川(卜部)覚賢の子として生まれ、塚原安幹の養子となる。

小さい頃から剣術に親しみ、義父から神道流、鹿島古流を教わり、やがて自ら新しい流派である『新当流』を開いた。
その強さたるや凄まじく、『卜伝遺訓抄』によると「真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、疵一ヶ所も被らず、矢疵を被ること六ヶ所の外、一度も敵の兵具にあたることなし。凡そ仕合、軍の場とも、出逢ふ所の敵を討取ること一分の手にかけて二百十二」

つまり

合戦に参加する事37回
真剣勝負に勝つ事19回
斬り捨てた剣客の数212人
そして負傷は矢傷六か所だけと伝えられる

ただし、『卜伝遺訓抄』は

①元亀二年(1571年)冬に成立した「卜伝百首」*1
沢庵和尚による序(おそらく寛永年代後半以降成立)
③卜伝の弟子の加藤信俊の孫が書いた後書(②より後)

で構成されている。
そして上記の記録は③に「言い伝えによると」と前置きした上で、書かれており信憑性はかなり低いと言わざるを得ない

ただ剣の達人であったことは確かなようであり、その名声は京にまで届き、時の将軍・足利義輝や大名である北畠具教に剣術を指南、免許皆伝まで育て上げ、奥義(後述)を授けたという

以下、弟子一覧(ごく一部)

林崎甚助(居合の始祖)
上泉信綱(新陰流の始祖)
師岡一羽(一羽流の始祖)
足利義輝(将軍)
北畠具教(大名)
今川氏真(大名)
細川幽斎(大名)


奥義【一の太刀】について

足利義輝などに伝えられた新当流の奥義であるが、一の太刀に関する資料は余りにも少ない。
現在では、
「一の太刀とは『二の太刀要らず』の事で、一撃で相手を必殺…つまり一刀目で殺す事で、こちらが殺される危険自体を無くしてしまう、
という新当流剣法そのものの理念である」

という見解が強い。
単純に見えて非常に難しい。


【逸話】
  • 突然の攻撃を鍋の蓋で受け止めたことがあったらしい。その時の敵は宮本武蔵だったという説があるが、『鹿島史』によれば卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に死去したとされ、一方の武蔵は天正12年(1584年)生まれ*2と考えられているので後の世代による創作と言われている。
また有名なコントの元ネタである。

  • 渡し舟の上でいきなり真剣勝負を迫られたが、相手を小島に置き去りにして相手にしなかったとされる。この際、尚も泳いで追ってきた相手を一喝して追い払ったとも。


【ゲームでの卜伝】

信長の野望シリーズでは武将ではないこともあって登場頻度は高くないが、登場した作品では最上位クラスの武力を持つ。

太閤立志伝5では、上泉信綱と並ぶ剣豪プレイのラスボス枠で、天覧仕合の壁として有名。剣豪プレイがフィーチャーされていることもあり、剣聖が伊達ではないことを身をもって体感できる数少ない作品。
通常攻撃がワンパン即死~瀕死という異様な火力を持つ上、それを耐えても高火力必中の《一の太刀》の追い打ちでやられるのは誰もが通る道。《一の太刀》はゲーム仕様上必ず「二の太刀」になることは密に、密に
距離をとっても当然のように《神妙剣》で刀ビームを飛ばして遠距離攻撃してくる。
《羅刹》で気力を溜めるのが数少ない隙になるがタイミングをミスると上記の《一の太刀》即死コンボが待っている。
一応《一の太刀》を始めとする新当流の奥義は卜伝以外にも沢山いる弟子達から教えて貰えるので、全秘技取得プレイなどで倒せなくて困ることはあまりない。
無論、天覧試合エンドを見たかったり卜伝の主人公札を入手したいならタイマンで勝つ必要があるが。
普段は鹿島の町で新当流の道場を開いており、他の流派と同じく武芸師事を受けたり弟子入りしたりすることが出来る。

2011年にはBSでドラマ化。
幼年期から一の太刀を会得する辺りまでが描かれた。
演じたのは堺雅人。『武士の家計簿』では剣術からっきしの算盤侍を演じていたが、今回は見事に剣の達人を演じた。



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最終更新:2023年12月09日 08:39

*1 飯篠某が聞書したものを加藤信俊がさらに転写したものであり、卜伝の直筆という訳ではない

*2 著書『五輪書』の冒頭にある「歳つもりて六十」という記述に従えば、寛永20年(1643年)に数え年60歳となり、生年は天正12年(1584年)となる