多田野数人(プロ野球選手)

登録日 :2009/07/15 (水) 15:25:02
更新日 : 2017/04/05 Wed 00:59:57
所要時間 :約 6 分で読めます




――多田野数人
それは記録にも――記憶にも残るプロ野球選手である――

【プロフィール】
生年月日……1980年4月25日(いわゆる松坂世代)
身長……181cm
体重……80kg
出身……東京都墨田区
背番号65
ガチムチ体型で、江川卓(元巨人)氏が言う「理想的な投手」の体格である。

【経歴】
八千代松陰高校→立教大学→クリーブランド・インディアンス→3Aサクラメント・リバーキャッツ→北海道日本ハムファイターズ→石川ミリオンスターズ

【プレースタイル】
独特のフォームから繰り出させる140キロ台中盤の速球に、
キレのあるスライダー、フォーク、チェンジアップで打ち取る本格派右腕。
MLB時代には最速96マイル(約153km/h)を記録したこともある。
また彼が独自で編み出した超スローボールであるイーファスピッチは、
30キロ台の山なりなボールでタイミングを大きく狂わせる事を目的としている。

【解説】
八千代松陰高校から立教大学時代を通してエースとして大活躍。

高校時代には東千葉代表として夏の甲子園に出場(この年は節目の記念大会で千葉県は2枠あった)
ただし予選時のチーム打率が絶望的に低く(なんと. 196 )、ぶっちゃけ多田野一人で甲子園の舞台へとのし上げたようなもの。
いかに彼の実績が素晴らしいものだったのかが伺える。

それゆえ彼と同じ出身高校の選手は、彼を尊敬する選手として挙げることが多い(代表的なのはSB大場)。

大学時代は上重聡(現日テレアナ。だから大坊聡さんは関係ないだろ! いい加減にしろ!)と共に当時の立教大学を支え、
2002年のドラフトで横浜ベイスターズから自由獲得枠で指名されることが確実視された。

……が、その後色々と紆余曲折(後述)を経て2007年11月19日ドラフト会議にて、日本ハムファイターズから一巡目での指名を受ける。

この時の記者会見ではなぜか日本ハムのハムではなく ウインナーを持たされる という異様な会見となった。
スタッフは何を考えていたのだろうか。

この時、マック鈴木以来の逆輸入日本人選手が誕生した。

しかし、2008年の1月6日に都内をランニング調整中に転倒し左手首を骨折。
破片状になった骨の手術、リハビリで開幕から大きく遅れる事になるが……見事復活、たまげたなぁ。

5月2日に一軍登録され、同日の東北楽天戦にて7回被安打1無失点で初勝利を挙げ、堂々たるデビューを果たす。
プロのスコアッーラーをも「何を投げてるか解らない」と唸らせた。

その後も好調で前半で6勝とローテーションに定着する。

しかし、後半戦はアメリカとの気候の違いに加え蓄積疲労もあり失速し、僅かに1勝しか出来なかった。

浮き彫りになった日本とメジャーとのボークの違いや、一発病などの課題も見えた年となった。

2009年7月10日千葉ロッテ戦にて。
9回2死まで無安打無失点に抑えてあわやノーヒットノーラン達成かと思われたが大松尚逸に安打を許し、
球場全体が「 アッー…… 」と落胆に包まれるも、初完投初完封は見事に達成した。

だが、2010年10月1日ついに戦力外通告をうける。
そしてトライアウトの結果ソフトバンクホークスに入団が決定……かと思いきや育成選手契約だったので、日ハムと異例の再契約となった。
背番号が16から65になった。

2011年は好調だったものの一年を通して敗戦処理だった。

2012年は前年の活躍が認められ、4月16日・およそ2年ぶりに1軍の試合で先発登板し963日ぶりの勝利を挙げた。
以降も先発としての起用は増加して活躍。

11月1日、読売ジャイアンツとの日本シリーズ第5戦で、日本シリーズ初登板を果たす。
3回表2死2塁の場面で2番手として登板し無失点で切り抜けるが、
直後の4回表、加藤健への初球が危険球と判定されわずか三十分ほどで退場処分となった。
これは日本野球史でも初の判定であり、明らかな誤審だったこともあいまってファンからは「ふざけんな!(声だけ迫真)」と怒りの声があげられている。

2013年、2014年はともに数試合の出場に留まり、球団から二度目の戦力外通告を受けてしまった。
その後BCリーグの石川ミリオンスターズにコーチ兼任投手として入団。
投手としてマウンドに立つ一方指導者としても頭角を現し、自分と同じく阪神から戦力外通告を受けミリオンスターズに入団した西村憲を自らの指導によって
26試合登板、11S、防御率0.00 の怪物に育て上げた。たまげたなぁ・・・

2006年に発売されたPS2専用ソフト「実況パワフルメジャーリーグ」ではインディアンスの選手として多田野が登場。
メジャー時代の多田野が登場する唯一の野球ゲームである。

ファイターズの応援番組FFFFF(エフファイブ)内のコーナー「フィフティーンボーイス」にて、
「チーム内の一番のせっかち」にチームメイト 15人中10人 に挙げられた、チーム1の早漏野郎。
まるでTNOKみたいだぁ……(直喩)
オウ早くしろよ。
また、同番組にて「中々人には出来ないことをやりたいタイプ」と発言している。
いくらなんでもやりすぎではなかろうか。
ともあれ、この意気込みがあったからこそホモビデオ出演者でありながら、
メジャーリーグでの勝利を成し遂げるという、ある意味パイオニアのような存在になれたのかもしれない。

挙げられた声。
  • 投球間隔が短く投げてすぐグラブを上げボールを催促する
  • よってボークが非常に多い
  • 車の運転が酔うほど荒い、ブレーキを踏んだ様子がない
  • 車のバックも速い(意味深)
  • ゴルフで玉を置いたらすぐさま打つ
  • 麻雀で テンパイせずにリーチした

なお、本人曰く「生きてる一分一秒を無駄にしたくない」とのこと。
彼が後述するスキャンダルにより、
日本球界でのデビューに大きく出遅れてしまったことを考えると、かなり説得力のある言葉である。




【スキャンダル】
多田野がプロ入りの道を一度は断たれた原因。
2002年夏頃に2chや週刊誌などで真夏の夜の淫夢というホモビデオに彼そっくりの男性が出演していると噂になる。

そして、週刊誌の記者が立教大学野球部監督の元を訪ねビデオを見せた所、
「うわあ……これはA(多田野)ですね……。こっちはB(DB)でこっちはC(HTN)、間違いない。なんだこれは……たまげたなあ」
と多田野が野球部の後輩と共にホモビデオに出演していた事実を認めた。
たとえ事実でもシラを切れよ。
自業自得とはいえ、多田野は恩師の手で死刑執行のボタンを押されてしまったのである。
週刊誌の執拗さを考えれば、明るみに出るのは時間の問題だっただろうが。

当時ドラフトの目玉候補だった多田野を横浜ベイスターズが指名するはずが、
この一件が報道されたことでイメージダウンを避けるため、多田野を指名しなかった。
代わりに福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)が指名したが、
同期の和田毅が あいつだけは勘弁(切実) と多田野を拒否したので結局多田野はプロ入りはできなかった。

その後、アメリカに渡った多田野だったが、彼が淫夢に出演していた事はすぐに伝わった。
アメリカスポーツ界において同性愛がタブー視されていた事、
そのような事は前代未聞だった事もあり、マスコミや関係者からコメントを求められた。

それに対し多田野は記者会見で、
「大学時代に(そのような)ビデオに出たことがあり、今はとても後悔しています。
 当時は若くお金が必要でした。たった一度の過ちであり二度と同じ間違いはしません」
「僕はゲイではありません。これだけははっきりと真実を伝えたかった」
と説明した。

これを機に多田野は受け入れられ、現在では所属している日本ハムでもジョークのネタにされているほどである。
ただし過ちは一度ではなく、問題のビデオ以外にも出演作が一本確認されている。
これについては一つの契約で二本撮りだったなどの説もあるが、詳細は不明。

以前からネットではヤマジュンや、ホモビバレ後の現象だがレスリングシリーズなどのホモネタが定番の人気コンテンツであった。
彼のスキャンダルをきっかけに、時を経て和製ゲイポルノという新たなネタが見いだされることとなってしまった *1

現在に続く野獣先輩KBTITヒゲクマ調教師などの人気も、全ては彼のホモビ出演に端を発していると言って良い。

そして2015年10月27日に満を持してニコ生初登場。
ホモネタいじりは不快でないのかという直球な質問に 「人それぞれ意見というか色々考え方を持ってるのは当然だと思うんで、本当に反応してくれるだけで有り難いというか…」
と言うまさかの好意的なコメントで多くのファンをたまげさせた。
多田野は人間の鑑。

2017年2月、石川ミリオンスターズの合同練習の挨拶で
「失敗して当然だからね、 多分この中で一番デカい失敗したのは俺だけども
と、公然の秘密とは言え余りに凄まじい自虐ネタをかました。器がデカ過ぎる(感動)。
その際一瞬周りは緊張に包まれるも自然に和やかな雰囲気になったため、ホモビ出演のことはチームメンバーからもネタとして受け入れられていると思われる。



追記・修正はイーファスピッチでホームランを打てる人にオナシャス!


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