大阪近鉄バファローズ

登録日:2011/04/30(土) 05:13:05
更新日:2024/03/13 Wed 11:22:33
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大阪近鉄バファローズとは、1949年から2004年まで存在した大阪を本拠地としていたパ・リーグの球団。
親会社は大手私鉄の近畿日本鉄道で、1998年までは「近鉄バファローズ」の名称だった。

因みにセ・リーグの阪神タイガースは大阪のイメージはあるが本拠地は兵庫県の西宮市なので大阪の球団ではない

基本データ

リーグ優勝 4回
日本一 0回
最多勝 74勝
最多敗 103敗
最高勝率 .644
最低勝率 .230
連続Aクラス入り最長記録 5年
連続Bクラス最長記録 14年

全球団で唯一日本一を経験した事がない球団*1であり、また100敗した唯一の球団である。

本拠地は藤井寺球場および大阪ドーム。但し藤井寺には1984年までナイター設備が無かったため、森ノ宮にあった日生球場も併用して使用していた。
大阪ドーム移転後も藤井寺は球団消滅まで二軍本拠地として使用されていた。


○球団の愛称

1949年の創設時は「近鉄パールズ」の愛称だった。
パールス(Pearls)とは、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだもの。
だが万年Bクラス・最下位で「パ・リーグのお荷物」「ちかてつ」などと揶揄されるほどの最弱チームであった。近鉄の黒歴史である。
バファローズになったのは1958年現役時代「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんでファンの投票により近鉄バファローになった。

その後千葉茂の辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズとなった。

またバッファローズとよく勘違いされるが正式はバファローズである。これは統合後のオリックスでもよく間違われている。

○チームの特色

バファローズの代名詞といえばいてまえ打線である。良い悪い意味でも豪快で破壊力抜群な打線が特徴。
基本的には「強力打線と貧弱な投手陣」のチームであった(しかし優勝した年の中で89年は防御率2位に対しチーム打率4位と投高打低)。またしばしば意外性と型破りな逆転劇を演じることがあった。
例えば
  • 北川の代打逆転サヨナラ満塁本塁打によるリーグ優勝決定。
  • 10点差さえひっくり返す。
  • 2ヶ月足らず16ゲーム差を逆転させる。

そしてもう一つ欠かすことが出来ないのが、12球団ワーストと言われた選手待遇の悪さである。
例えば

  • 優勝旅行でもハワイ行きの飛行機はエコノミークラス、選手家族の飛行機代に至っては自腹*2
  • 野球教室のギャラは主力選手であっても15000円
  • 選手用の駐車場が無い藤井寺球場
  • 契約時と現実のギャップに愕然し、入団一か月で帰国した助っ人ドン・マネー選手
  • ロッカールームの汚さから感染症が蔓延

などなど、川崎時代のロッテと双璧をなす貧乏エピソードには事欠かさない。
そのため次項の再編問題以前から身売りの話が水面下で動いていたという。


○球界再編問題と消滅

そんな球団も親会社の近鉄がバブル崩壊後、不動産投資の悪化と大阪ドームへの移転*3から経営は火の車であった*4
赤字解消策の一つとして、2004年1月に球団名から「近鉄」を外し、命名権(ネーミングライツ)を売り出すという構想を発表したが、この構想は他球団からの猛反発を受けて撤回した*5
そしてその年の6月に球界に激震が走った。

そう、オリックス・ブルーウェーブとの合併発表である。

両球団のオーナー・経営陣は、あまりの事の唐突さに日本プロ野球選手会と野球ファンの猛烈な反発を受けた。
また一部の有力球団のオーナーは球団数を大幅に削減しようと考えており、最終的には8or10球団の1リーグ制を画策していたと言われる*6

その結果合併の話が他球団にも飛び火し*7、更には「手を挙げている企業があるのに合併・チーム削減1リーグ化前提はおかしい」と政財界やマスコミからも反発が相次ぎ、最終的には選手会は日本プロ野球史上初のストライキを決意。同年9月18・19日のカードが全て中止となった。
これら一連のゴタゴタに加え、同時期に発生した裏金問題(一場事件)もあってプロ野球ファンを辞める人も現れ、皮肉にも本件が「スポーツの多様化」のきっかけになったとも*8

結果近鉄バファローズは消滅したが選手会やファンの努力で1リーグ制は頓挫し、
バファローズの魂は新球団として東北楽天ゴールデンイーグルスオリックス・バファローズが受け継いだ。
選手は分配ドラフトにより主力と若手選手のほとんどがオリックスに吸収。
まああくまで「資金難により経営困難になった近鉄をオリックスが買収した」という形なので当然かもしれないが(楽天は新規参入扱い)。
そしてオリックスの初代監督には両チームで優勝経験のある仰木彬氏が就任、オリックス入りを拒んだ岩隈や礒部等と選考から漏れた選手が楽天へ。

オリックスは2球団の主力を合わせ躍進するかと思われた。しかし所詮は5位と6位の混合チーム。
翌年の成績もあまり伸びなかった。
それもそのはず礒部や吉岡などいてまえ打線を支えた強打のベテラン勢や、後に本塁打王として復活を遂げた山崎武司などが楽天側に流れているのである。
若手選手の獲得が実を結びオリックスがAクラスまで浮上するのは2008年のことであった。
しかしその翌年にオリックスは再び低迷して逆に楽天が初のAクラス入り。

その後2013年に楽天に初のリーグ優勝・日本一を達成された翌2014年、オリックスもあと一歩のところまで迫ったが、最後ソフトバンクに優勝を攫われ、そのまままたも低迷。

しかし2021年、ようやくオリックスも熾烈な争いを制し、「バファローズ」としては20年ぶりの栄冠に輝いた。しかし日本シリーズでは天敵ヤクルトに敗退。坂口が日本一になれたとポジるファンもいた模様。
大阪ドームに日本一の歓喜が訪れるのはいつになるのだろうか。

しかし2022年、オリックスがヤクルトにリベンジを果たして日本一を達成。ついに「バファローズ」を冠した球団が初めて日本一に輝いた。

ニッポン放送の実況を担当した洗川雄司アナが「大阪近鉄バファローズを愛した皆さん!バファローズの名を冠したチームが初めて日本一の座につきました!」と発した一言は、往年の近鉄ファン、および近鉄から変わらず応援するファンにとっては感涙もの。

かくして、近鉄百貨店で時を超えて初めてとなる日本一記念セールが開催される。


2022年の坂口智隆、そして独立リーグに所属していた近藤一樹の引退をもってプロ野球から元近鉄戦士は現役をすべて退いた。


しかし、その猛牛魂は決して消えることは無いだろう。


???(引退表明せず)「生涯現役でオファー待ってるで~」

○主な選手

【草魂】
1 鈴木啓示
近鉄の唯一の永久欠番で国内最後の300勝投手。
一方で通算被本塁打数560というメジャーリーグにも存在しない世界記録保持者でもある。
若手のころは剛速球の奪三振王として、後には正確無比なコントロールでその名を轟かせた。
監督?そんな事やってないよ。

【コンニャク打法、エイトマン梨田】
8 梨田昌孝
80年代の近鉄で捕手として活躍。
その後2000年近鉄の監督になり、その年こそ最下位フィニッシュするも、翌年優勝へと導いた。
2004年9月27日、球団最後のゲームの前日に選手に向けてのコメント「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」
その後、日本ハムで監督を務め2015年から2018年途中まで楽天で監督を務めていた。楽天監督就任時に「楽天は近鉄の生まれ変わり」と発言したことについてはオリックス側の近鉄ファンからは賛否両論

【ありなしコンビ】
24 有田修三
鈴木啓示専用捕手として梨田と併用された捕手。
名字から「ありなしコンビ」と呼ばれた。
鈴木引退後に淡口とのトレードで読売にトレードされる。

【優勝請負人】
4 チャーリー・マニエル
75年に最悪の不良外人・ペピトーンの尻拭い的な感じでヤクルトに入団し、78年に初のリーグ優勝&日本一へと導くも、オフに広岡監督が「打つだけの選手はいらない」と、近鉄にトレードされる。
すると79、80年のリーグ優勝に貢献した。ちなみにヤクルトはマニエル放出後に即最下位に転落した。
顎に死球を受けて骨折して離脱しても、アメフトのフェイスガードをつけたヘルメットをかぶって復帰した気迫の人。
引退後はメジャーリーグで監督になり、ワールドシリーズ制覇を達成している。

【執念のバックホーム】
9 平野光泰
70年代後半~80年代のレギュラー外野手。ちなみに佐々木・梨田・羽田とは同期入団。
主に「1番センター」を任された外野手で、79年の近鉄前期優勝*9が決まった試合ではチームの負け越しの危機を救う好バックホームを見せたことが語り草となっている。

【10.19最後の打者】
3 羽田耕一
70年~80年代の主力打者。後に読売からトレードされた淡口は高校の1年先輩。
10.19第2試合では近鉄最後の打者となった。
現在は母校の監督。

【コンコルド打法】
7 淡口憲治
打席で数回お尻を振る仕草で子供たちがよくまねをした左打者。
元々は読売にいたが有田とのトレードで移籍した*10
10.19第2試合では地面ぎりぎりで外野前に落ちそうな打球をノーバウンドキャッチするというファインプレーを見せている。

【18歳の4番打者】
3 土井正博
18歳にして入団即主砲という重責を任された、60~70年代の主力打者。
引っ張り専門の大砲にして無冠の帝王………だったが、福岡時代のライオンズにトレードされた75年に本塁打王を獲得した。
最終的に所沢に移ったライオンズで引退。その後清原和博や松井稼頭央などの数々の強打者を育てた名コーチに。

【ミスタートルネード】
11 野茂英雄
トルネード投法とフォークを武器としていた日本人メジャーリーガーのパイオニア。
一人で寿司100カンを食べた伝説があるなど、かなりの大食漢としても有名。
そのせいか現在では現役時代の面影がないほど太ってしまった。

【トレンディエース】
14 阿波野秀幸
新人王も獲得した10.19の2戦目の先発。
日本ハム西崎、西武渡辺と並びトレンディエースとしても人気があった。
肘の故障や草との対立などもあり、巨人へのトレードや中継ぎ転向を経て横浜でも優勝・日本一に貢献。
在籍した近鉄・巨人・横浜はいずれも86年ドラフトで阿波野を1位指名した球団であり、その全てで優勝を経験した。

【史上最強助っ人】
20 タフィ・ローズ
助っ人外国人通算最多本塁打保持者にして元・シーズン本塁打のタイ記録保持者。
かつては俊足巧打の選手とされており、ホームランバッターになりたくて日本に来たというのは結構有名な話。優勝した2001年もしれっと9盗塁している。
陽気な性格でたびたびナンパしたり、居酒屋で焼き鳥とビールを飲みながら店員や居合わせた客と関西弁で談笑していたことは有名。
しかし短気で、退場数も多かったりする。
「ゼッタイ ユウショウ スルゾー! ヨッシャー!」

【いてまえ大将】
6 金村義明
甲子園では荒木大輔と投げ合った、80~90年代の主力野手。
選手会長として劣悪な環境の改善を訴えるなどしたものの、
球団への不信感が積もり積もって近鉄初のFA宣言を行い中日へ移籍。
しかし活躍できず西武にトレードされ、カズ山本と同じ日に幕張でひっそりとラストゲームを終えた。
引退後は主にラジオや関西のテレビに出演して当時の悲惨な近鉄やパ・リーグの姿を今に伝える語り部として、また解説者としても活躍している。

【大ちゃん】
4 大石大二郎
金村などと並ぶ80年代近鉄の主力野手。
世界の盗塁王・福本豊から彼が13年守った盗塁王のタイトルを奪い、江川のオールスター9連続奪三振を阻止したバッターでもある。
89年日シリでは第1戦初回先頭打者弾を放つもそれ以降は打棒を封じられてしまった。
応援歌が鉄腕アトム
2008年途中からはオリックスの監督も務めた。

【三振かホームランか】
16 ラルフ・ブライアント
80年代後半から90年代にかけて活躍した助っ人。実は元々中日の選手で外国人枠の都合で一軍に上がれなかったところ、近鉄のある外国人が麻薬所持で逮捕されたため緊急補強。
10.12のダブルヘッダーでの4打席連続弾、東京ドームのスピーカー直撃による認定弾など様々な記憶に残るホームランを放った近鉄の主砲。
…だが、三振も極めて多く、1993年に記録したシーズン204三振は現在でもプロ野球記録。
そしてファンからも愛され、自らもファンや近鉄を愛した。解雇決定後もファン感に飛び入り参加はその最たる例。

【ハゲ魔神】
14 佐野重樹
ピッカリ投法。
実は中継ぎとして最初の1億円プレイヤー。野茂の盟友だったのだが…。

【アゴ】
23 門倉健
とにかくその 長 い ア ゴ が有名な選手。
数々の球団を渡り歩いているが、その中でも近鉄はFA取得までの4年間在籍しており彼のキャリアの中では長くいる方。
近鉄時代に10勝10敗はできてない。
先発と中継ぎで活躍しており、優勝した2001年は防御率6点台と大爆発してしまったがそれをローテで回さざるを得ないのが近鉄。

【一発屋助っ人】
14 ナルシソ・エルビラ
2000年に入団した助っ人右腕。
入団した年に20世紀最後の無安打無得点を達成するが好不調の波が激しく、翌年のシーズン途中に解雇された。
これ以降、パ・リーグの試合での無安打無得点は12年間なかったりする。
その後は韓国のサムスン・ライオンズで活躍したが、2020年に息子共々武装グループに射殺されてしまった。
それ以前にも2015年に誘拐事件に巻き込まれたこともあり、無安打無得点達成試合のインタビューで語った「ベリーベリーハッピー」とは程遠い、災難続きな引退後の人生だった。

【いけめん】
7 大村直之
1番打者として打率3割をマークしながら二桁本塁打を放つなど走攻守揃った選手。
当時ロッテに大村巌とサブローこと大村三郎がいたので近鉄の方はモー村などと呼ばれたりした。奇しくも全員外野手。
近鉄消滅時にはFA宣言しホークスへと移籍する。
後にオリックスへトレードされ戦力外通告を受け、獲得する球団が現れないまま通算1865安打で日本球界から姿を消した。

【天使か悪魔か、驚弾炸裂】
5 中村紀洋
黒くなったり白くなったり。
上記にあるよう力はあるはずだが…。
ヒットはホームランの打ち損ね」
近鉄の消滅後は様々な球団を渡り歩いた。そして「(死ぬまで何かに挑戦し続けるという意味での)生涯現役」宣言をしており、野球教室を開く傍ら高校生を指導したりYouTubeで技術を教えたりしていたが、2022年に立浪新監督に誘われ中日の打撃コーチに就任した。
あまり語られないが守備にも定評があり、サードでGG賞を取っている他、たまにショートも守ったりしていた。

【巨人はロッテよりも弱い】
30 加藤哲郎
1989年の日本シリーズ、開幕3連勝で日本一に王手をかけた試合で勝利投手になるも、ヒーインでこの発言をしてでの発言がマスコミによって上記のように誇張されてしまったことで、近鉄の日本一をパーにした投手。
自身も第7戦で駒田徳広に先制ホームランを打たれて敗戦投手になるなど手痛いしっぺ返しをくらった。
ある意味近鉄の歴史を語る上でもっとも欠かせない選手。
こいつがあの時あんなこと言ってなければ、近鉄は日本一になれていたのに・・・まさに記録よりも記憶に残る選手。

引退後は紆余曲折を経た後に麻雀教室を開いていたが、2023年8月に日本プロ麻雀連盟に入会することを表明。プロ雀士として新たなステージに立つことになった。
ちなみに、日本プロ麻雀連盟には前述の駒田徳広の娘である駒田真子もプロ雀士として所属しており、加藤と真子はプロ雀士になる前から麻雀を通して直接交流がある。

【奇跡を呼び込む男、スマイリー北川】
46 北川博敏
この人も近鉄の歴史を語る上で欠かせない選手の1人。
元は阪神でキャッチャーをしていたが、活躍できないまま8年目の2001年にトレードでやってきた。
その2001年は代打として大暴れし、伝説の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランを打ち全国区の知名度を得る。
その後怪我に悩まされながらもオリックスでも主力として活躍し、2012年に引退した。
現在は阪神に戻りコーチをしている。

【投げるジャニーズ】
21 岩隈久志
終末期のエース。そのイケメンぶりと関西ジャニーズが黄金期を迎えた時世だったことからか、付いたのが上のあだ名。
2001年後半戦、壊滅的な先発事情を支えてリーグ優勝に大きく貢献。
初期楽天で田中マー君とともに厳しい投手事情を支える活躍をしだしたころからしか見てない人は驚くだろうが、近鉄時代から楽天初年度に故障するまでは独特の二段モーションだった。
先述の通り分配ではオリックス行きとなるも、オリックス入りを拒み楽天へ。怪我やボーク基準変更で苦しんだが楽天のエースとして君臨。後にを渡りシアトルでノーヒッターを達成したりと頑張っていたが、故障に悩まされ放出された2018年オフに帰国し巨人へ入団するも、故障が癒えないままで2020年限りで引退し、そのままコーチに就任した。

【近鉄史上最強のストッパー】
19 赤堀元之
プロ野球史上で類を見ない記録を持つ選手。
上述したように近鉄は投壊が常のチームであるが、そのしわ寄せはリリーフにやってくる。
彼はそれを一手に引き受け、92年に2度しか先発登板していない*11にもかかわらず規定投球回を投げ、最優秀救援投手と最優秀防御率のタイトルを獲得し二桁勝利を挙げている。リリーフが最優秀防御率のタイトルを獲得することはあったが同時は唯一である。
なお当の赤堀はこの先発登板2試合中1試合で完封勝利しており、これにより先発に転向したいと考えるようになり、大塚が抑えに定着した98年以降はその希望通りに先発に挑戦するも、酷使のツケか故障に悩まされて思うような投球ができなくなり、近鉄の消滅と共に現役を引退した。

【帝京魂】
3 吉岡雄二
野球ファンならつい観てしまう、リアル野球BANにおける石橋軍団屈指の強打者。
甲子園を沸かせた投手だが、巨人時代は伸び悩み控えとしての出場が大半。
そんな中の1997年に石井とのトレードで入団するとファーストに定着し、ローズ・中村に次ぐ強打者として活躍。2001年の優勝を支えた。
だが2004年、オープン戦にてアキレス腱断裂の大怪我を負ってしまい、近鉄消滅時にはケガと年齢を考慮してか楽天へと分配されている。
その後ケガからは復帰するものの2008年に戦力外通告を受け、米球界への入団を目指しメキシコに渡るものの2010年に引退を表明して帰国、独立リーグのコーチになった。石橋軍団に入団して大活躍するようになるのはその翌年からである。
2017年オフには日本ハムの二軍打撃コーチに就任することが決定。リアル野球BANで同僚だった杉谷と土下座させた中田翔がいるんだが一体どうなってしまうのか・・・

【お騒がせ投手】
28 前川勝彦
リーグ優勝した2001年には12勝を挙げエース格としてチームに貢献するも制球が悪く防御率は5.89と不安定な投手だった。西武に強かったのも大きいが、何より死球と暴投がリーグ最多じゃね・・・
プレー外で話題になることが多く、「12月1日」に設定された契約更改をすっぽかし「11月31日だと思った」と言い訳して大目玉を食らったエピソードは特に有名。
近鉄時代にスピード違反などで免許取り消しを食らっていたにもかかわらず、のちに無免許運転の上ひき逃げをしたとしてクビにまでなっている。
ちなみに96年のドラ1で、下の二人は同期である。

【新・ドクターK】
11 大塚晶文
近鉄二人目のメジャーリーガー。名前の読みは「あきのり」。
ルーキーイヤーに82.2回を投げ抜群の安定感と脅威の奪三振率13.83を記録。以降、赤堀に代わり近鉄の守護神に君臨した。
優勝した2001年は勤続疲労からか打ち込まれたが、終盤に持ち直している。
翌年ポスティングでの海外挑戦を表明したがオファーがなかった。そして自由契約となって中日に移籍し再度のポスティングでようやくメジャーに渡った。この中日移籍の際に正しく呼んでもらえるよう登録名を大塚晶にしている。
ここまでして近鉄を出て行ったことについてはノリさんと不仲だったとか、二度目のポスティングを認められてなかったとか言われるが定かではない。
念願のメジャーでも活躍、第1回WBCでも守護神として優勝に貢献するも、右肘を故障。手術を受けるもプロ球界への復帰は叶わなかった。
ちなみに現役時代は見事な活躍だったにもかかわらずタイトルはNPB時代の最優秀救援1度きりである。新人王も56盗塁を記録した小坂誠に奪われている。

【得点圏の鬼、近鉄最後の選手会長】
8 礒部公一
元は捕手として入団するも、打撃を見込まれた(のと盗塁阻止率が悲惨なことになってしまったため)外野手へコンバート。
2001年には得点圏打率.417と驚異的な成績を残すも、同時にゲッツーを叩くことも多く、この人がゲッツーロボ化する前はネットでは代名詞となっていた。
2004年には近鉄最後の選手会長として合併反対運動の中心となり、合併が決定した後は志願して楽天へ。
楽天草創期は主力として活躍し、宮城球場がフルキャストスタジアムになったあと最初のホームランも打ったものの、相当衰えが来ていたためか徐々に出番を減らし、楽天初のAクラスを見届けて引退した。
その後は楽天でコーチを務めたあと野球解説者に転身した。

【量産型岩隈、近鉄最後の敗戦投手】
48 阿部健太
フォームや痩身の体躯がそっくりだったことからこのように呼ばれていた。
しかし成績までは岩隈そっくりとはいかず、近鉄時代は最後の試合に登板して敗戦投手となっている。
その後オリックスに分配された後阪神へトレード、トライアウトを経てヤクルトと落ち着かない現役生活を送り現役を引退。打撃投手兼スコアラーとなった。ちなみに阪神へのトレードは濱中おさむ・吉野誠⇔平野恵一・阿部健太と割と豪華。
しかし現役生活はそこで終わっておらず、チームがケガ人続出で二軍の野手が足りないほどヤ戦病院化。投手が野手をやる事態を避けるためオフまでの契約で育成選手として現役復帰した。打撃投手ならいいのか?
この電撃復帰は、同じく元近鉄で楽天でブルペン捕手をやっていたがこの前月に同様の事情で現役復帰した横山徹也共々近鉄戦士が増えたなどと言われた。

【不屈のバットマン】
92 山本和範
右耳に難聴を持ちながらも活躍した、NPB最後の70年代入団戦士。ダイエー時代の登録名・カズ山本としても有名。
最初に入団した時には入団直後に野手転向するも芽が出ず戦力外となり、その後テスト入団した南海→ダイエーで主力に成長するも1995年にケガと不振のダブルパンチでこちらでも戦力外に。
しかし佐々木監督の鶴の一声でテスト入団という形で近鉄に復帰。指名打者や代打の切り札として活躍した。
1996年のオールスターゲームでは自身初のファン投票選出を果たし、第1戦で代打決勝弾を放ちMVP。
そして1999年の引退勧告を受けて臨んだ最終戦の最終打席にこのシーズン14連勝無敗のダイエー篠原から決勝弾を放ち、「これ以上の感動を与えることはもう無理」として現役を引退した。

【近鉄史上最高の2番打者】
9 新井宏昌
こちらは南海から近鉄にやってきた。
南海では常に地味な印象がつきまとったものの、近鉄では35歳ながら初の首位打者を獲得するなど主力として活躍。また主に2番を打った関係からか2000本安打だけでなく300犠打も達成している。
引退後はコーチとして活躍。鈴木一朗、佐藤和弘の登録名「イチロー」「パンチ」の名付け親としても有名である。

【拝啓】
3 石井浩郎
90年代に入団し即主砲として活躍。藤井寺末期の中心選手で、4番として試合に出続けた。
しかし故障した上に契約面で球団と揉めて石毛・吉岡とのトレードで巨人に移籍し、後にロッテ・横浜と渡り歩くも完全復活には至らず引退。
実は早稲田大学に一般入試で入学したという経歴の持ち主。引退後はその頭脳を生かし実業家として活躍後参議院議員に当選、政界入りした。
「拝啓」というのは巨人時代にザ・サンデーでやっていた石井特集「拝啓、石井浩郎です」のこと。硬派キャラをウリにし、後に中日・川上憲伸に引き継がれた。
妻はシンガーソングライターの岡村孝子。

【前略】
26 三澤興一
2001年途中に読売からトレードで移籍してきた中継ぎ投手。
ビハインド要員として優勝に貢献した。成績?この年の近鉄がどんなチームだったか考えたらお察ししていただけるかと。
こちらも『ザ・サンデー』において質実剛健キャラの石井や川上に対抗し、ゆるキャラの「前略・三沢興一です」のコーナーが設けられていた。なお、このコーナーは近鉄移籍初期まで放送された。

【235戦無敗】
13 柴田佳主也
90年代後半の近鉄を左のワンポイントとして支えたリリーフ。
この手のワンポイントとしては抜群の安定感で1997年にプロ唯一の敗戦を喫してから引退するまで実に235戦無敗という記録を打ち立てた。
優勝の年に戦力外になってからは三年連続で戦力外になり、最終的に近鉄の消滅とともにダイエーの選手としてユニフォームを脱いだ。

【ヨッシャー】
5→68 佐々木恭介
70年代に活躍した好打の外野手。
肝炎に倒れて若くして引退するも、スカウトとして村上隆行を見出したり、コーチとして村上、金村や中根仁、阪神で亀新コンビを育てたりした。
96年に草の後任で監督に。結果は残せなかったもののタフィ、クラークの両外国人や若手の手本としてベテランのカズを獲得したり、ノリさんや礒部の成長を見守ったりした。
なお、最初の「ヨッシャー」というのは96年のドラフト会議で7球団競合1位・福留孝介のクジの当たりを引き当てた時に叫んだ雄叫び。
その福留は意中でなかったこともあり入団拒否し後に中日に入団したものの、佐々木が監督退任後に中日でコーチとなった時に再会。内野から外野にコンバートさせ、伸び悩んでいた福留を覚醒させた。
また2003年終盤には監督代行を務め、引き受けた地点で5位に沈んでいたチームを何とか2位に浮上させた。
またヨッシャーもチーム内で流行し、特に大塚やタフィが気に入っていた。

【びっくり箱】
2 的山哲也
メガネがトレードマークの2001優勝時の正捕手。この人も片耳難聴持ち。
かなりの強肩で知られ、また短気な前川の制御役でもあった。
バッティングでは低打率だが、思わぬ所での一打を放つ意外性を自ら「びっくり箱」と呼んでいた*12
その最たる例が2002年松山で行われたオールスターゲームで、負傷者代替で選出され、さらに試合では勝利打点を挙げたことからMVPに選出。これには本人も梨田監督も驚いた。
オリックスとの統合前後に眼鏡を外すようになり、その後出番を減らし最終年はソフトバンクへ。その後コーチとして現在まで在籍している。

【親子バッテリー】
27 古久保健二
豪打一発~\ワッショイ!ワッショイ!/
ありなしコンビの世代交代期に登場した捕手。
野茂専属捕手兼山下和彦&光山英和→的山&礒部に次ぐ控え捕手としての役割が多かったが、初代「びっくり箱」として、また2001年は不調に悩む抑え大塚の専属「抑え捕手」、17歳年下の岩隈との「親子バッテリー」で話題を集めた。
また、9月26日のオリックス戦9回無死満塁で回ってきた打席では北川が代打に出され、その結果が代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランとなった。
なお、1989年と2001年の優勝を両方とも近鉄戦士として見届けたのは古久保だけである。
翌年に引退したあとは現在に至るまで国内外でバッテリーコーチとして活躍している。

【イケメンスラッガー】
5 村上隆行(嵩幸)
パンチ力のある打撃と器用さ、そして明るいムードメーカーとして80年代後半から90年代近鉄を支えたユーティリティプレイヤー。
そして何よりもそのイケメンぶりでも知られ、女性人気も高かった。
背番号5は担当スカウトの佐々木から受け継ぎ、のちに自身の妹を嫁にもらった中村ノリに受け継がれた。
2001年西武の選手として近鉄の優勝を見届けて引退。解説者をしながら、独立リーグのチームで監督をした後、2019年より門倉や阿波野・赤堀共々中日のコーチに就任。
なお、ノリさんのほか現在広島カープで活躍する中田廉も村上の縁戚にあたる。

【道産子パワー】
2 鈴木貴久
この人も80年代後半から90年代の近鉄を支えた外野手。
10.19一戦目での梨田のタイムリーで生還した場面も有名である。
また開幕戦に強く、大阪ドーム第1号本塁打も打っている。
引退後はコーチを務めるも、2004年5月に急性気管支炎のため40歳の若さで急死した。
その魂はこの年レギュラーに定着した大西宏明に受け継がれ、合併を経て大西が引退した後も鈴木の命日には応援団により応援歌が演奏されることが恒例となっている。

【最後の近鉄戦士】
27 坂口智隆
2002年のドラフトで近鉄入り。高井雄平の抽選を外した上での外れ1位としての入団だった。翌年のドラフト(近鉄最後のドラフト)は自由枠を使用したため、彼が近鉄最後のドラフト1位選手である。
近鉄時代は期待の若手として数試合に出場した程度だが、ルーキーイヤーに安打を放っている。
分配ドラフト後のオリックスでは2007年から不動のリードオフマンとして活躍。
その後2016年からはヤクルトに移籍。1番から下位打線まで担うベテランとして息長くチームに貢献。2021年にはオリックスとの日本シリーズにヤクルトの選手として出場した。


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最終更新:2024年03月13日 11:22

*1 正確には2004年の近鉄球団消滅時に存在した12球団のうちである。日本一を経験せずに消滅した球団は2リーグ制以降に限っても松竹ロビンス(1952年消滅、セリーグ初代優勝球団)や西日本パイレーツ(1950年消滅)などがある。

*2 通常その手の費用は全て球団が負担し、座席はもちろんファーストクラスである。

*3 ドーム自体の経営悪化に加え、立地が近鉄の沿線外で近鉄電車の運賃収入が大きく減少したことが理由。ちなみにドーム近くを通り、近鉄電車と直通運転を行う阪神なんば線の開業は2009年である。

*4 中村紀の年俸を推定5億円にするなどのどんぶり勘定が原因であったと言われる。その豪快さが魅力ではあったが…

*5 販売先に消費者金融のアコムが挙がっていたのも反発が大きくなった理由の一つ。

*6 仮に10球団とした場合、運営に支障をきたすため1リーグにするか両リーグを5チームずつにするしかない。しかし奇数ではリーグ進行に問題があるため結局1リーグになってしまう。

*7 後によるとダイエーとロッテの合併が協議されたという。

*8 特にテレビ中継は多大な影響を受け、この翌年以降全国放送の本数が大幅に削減され、現在はデーゲームや日本シリーズ・オールスター含めて20試合程度しか放送されなくなった。

*9 当時のパ・リーグではペナントレースは前期・後期制で行われており、前期優勝チームと後期優勝チームがプレーオフ5番勝負を戦い、先に3勝を挙げたチームがシーズン優勝チームになるという時代だった。なお、前期後期どちらも同じチームが優勝すれば、当然プレーオフは行われないでそのチームが優勝となる。

*10 最初は主力投手で後にタレントとして知られることになる定岡正二が移籍する予定だったが、定岡は移籍を拒否して引退したのでその代わりとして淡口が選ばれた

*11 その2回もシーズン終盤に規定投球回数への期待が高まったことから実現、いわゆる「タイトルを取らせるための采配」である

*12 どれだけ打てなかったのかというと、上記の前川が阪神移籍の時の会見で「打撃でも貢献したい。的山さんよりは率を残してみせる」と、バカにするかのような発言をしている程。当然、「投手(しかもDHがあるので基本的に打席には立たないパ・リーグの投手)のお前に言われる程打てなくはねぇよ」みたいな感じで的山は不快感を示した