QUEEN(バンド)

登録日:2011/07/03(日) 05:38:18
更新日:2024/04/24 Wed 13:42:07NEW!
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QUEENはイギリスのハードロックバンド。

1973年にデビュー。1991年11月のフレディ・マーキュリー死去に伴い活動停止。
ただし、それ以降もギターのブライアンとドラムのロジャーの二人は活動を継続しており、正式な解散発表は一度もない。
彼らがロック界、音楽界へ与えた影響は大きく、まさにロック界の女王と呼ぶにふさわしい。


【概要】

多重録音されたギター、分厚く聞き応えのあるコーラス、クラシック風味の曲作り、ファンタジックな歌詞、ジャンルの垣根を超えた作風が特徴。
この様式は二枚目のアルバム『クイーンⅡ』(74年)において完成している。
その翌年クイーンのオペラ風路線の傑作、音楽史に残る名曲『ボヘミアン・ラプソディ』を発表。
更に翌年、今までのクラシック風味の曲からシンプルなロックに移行した『世界に捧ぐ』を発表。
さらに1980年バンド初のシンセサイザー使用アルバム『ザ・ゲーム』発表。
中でも『地獄へ道連れ』はクイーンにおけるロックというイメージを覆した。
1981年に発表された『Hot Space』以降ソロ活動の開始などもあり低迷が続き、解散説まで飛び出ることに。
84年の『ザ・ワークス』を発表したあたりから復調、世界的な一大音楽イベント『ライブ・エイド』において、名だたるアーティストたちを圧倒するライブを魅せた。
しかし86年夏ごろ、ライブバンドとしても頂点にたつ最中、ボーカルのフレディは自分に残された時間が少ないことを知る。
新作の録音を急ぎ、状況を知ったメンバーも一致団結。1989年に『ザ・ミラクル』、1991年にフレディ在籍のクイーン最後のアルバム『イニュエンドウ』を発表した。
そして1991年11月にフレディ・マーキュリー死去。
バンドは翌年フレディ追悼コンサートを行い、95年には『メイド・イン・ヘブン』を発表。
ベースのジョンはフレディの死去および音楽業界全般に嫌気がさし、1997年にボーカルにエルトン・ジョンを迎えたコンサートを最後に引退。
残った二人は今なお精力的に活動している。

因みに活動時期の近いパンクロックバンド「セックス・ピストルズ」と仲が悪かったと言われる事もあるがこれは当時のメディアが囃し立てていただけで実際の所そこまで仲は悪くなかったらしい。
ただしフレディはパンクを非常に嫌っていた事とメンバー全員シド・ヴィシャスを嫌っていた事は事実。


【メンバー】


●フレディ・マーキュリー
ボーカル。前期から中期にかけてはピアノを弾く事も多かった。
前期は前歯が特徴的、後期は髭がらしい。
生名はファルーク・バルサラであるがQUEENとして活動する事を境に改名している。
メンバー中唯一イギリス出身ではなく、インド出身。
その事を非常に気にしていたらしく、インド出身である事はメンバー間でもタブーとなっていたとの事。
元々はバイセクシュアルであるが、70年代前半にゲイと自覚し、当時付き合っていたメアリー・オースティンと別れている。
とてつもない程の親日家で、お忍びで来日したこともある。後述するが、日本語の歌詞が入った曲も作っている。家には日本茶常備。
パワフルな歌声に個性的なパフォーマンスが素晴らしく、今なお世界最高峰の歌手として名高い。もちろん女装もね。
70年代は繊細で裏声を多用した歌い方だったが、80年代からはボイストレーニングを始め野太くパワフルな歌声へと変わっている。
前半の名曲の数々を生み出すなどQueenの独自性の象徴という面が強いが、後半はやや作曲のペースが落ち込んでおり、シングル曲もロジャーやブライアンに譲る事が多かった。
かの名曲ボヘミアン・ラプソディの構成は彼が提案した。
他にも様々な名曲を生み出した稀代の天才は1991年11月24日にエイズによる合併症、ニューモシスチス肺炎によって自宅で息を引き取った。享年45。


●ブライアン・メイ
ギター。メンバー1の長身(187cm)。
作曲面においては『ウィ・ウィル・ロック・ユー』『ハマー・トゥー・フォール』など、QUEENのロックな面を代表しているが、
まれに『セイブ・ミー』『ショー・マスト・ゴー・オン』などの極上バラードを作曲したりする。
ただ彼が作るラブソングはちょっと理屈っぽい。
そしてブライアンを語る上で欠かせないのが彼のギター、レッドスペシャルだ
友人の家の暖炉からもらった木(当時で100年前のものらしい)をベースにエンジニアをしていた父と共同で作ったものである。
このレッドスペシャルによるギター・オーケストレーションで数多くの楽曲を彩った。
初期のアルバムのクレジットに「ノー・シンセサイザー」と描かれる理由の一つでもある。
このギターでブライアンは数々の名ギターソロを生む。
ギターを弾くとき硬貨を使用するのはあまりにも有名。本人曰く「手首の動きを伝えやすいから」とか。
その為、一聴してそれと解る特徴のあるトーンである。
ボーカリストとしての一面も持っており、後述のロジャー同様ライブでは低音コーラスをとっていた。
若い頃はバンドと中学の物理教師を掛け持ちしていた宇宙科学者でもあり、還暦を過ぎてから論文を完成させて母校(名門インペリアルカレッジ)の博士号を取得。
JAXA以上の発信力で世界に向かって「はやぶさ2」情報を拡散している。
自身より若いロックバンドとの共演にも積極的であり、「FOO FIGHTERS」や「MY CHEMICAL ROMANCE」などともコラボ経験がある。

●ジョン・ディーコン
ベース
だが元々はギタリストであり、更にドラムもこなせるマルチプレイヤー。
ただ音痴との事で歌う事は苦手としている。MVで歌っているように見えるシーンも殆ど口パクである。
カントリーやフォークが大嫌い。
学生時代はバイトをしながら音楽活動に打ち込んでいたが父親の急死を境に音楽から離れ学業に専念していた所を友人の紹介でQUEENのオーディションを受ける事になりメンバーとなる。
因みに元々ブライアン、ロジャーとは顔見知りであった。
80年代は短パン、半袖でライブをしている事が多い。
バンドでは最年少ながらもその温厚な性格で幾度もバンド解散の危機を繋ぎ止め、特に経済面には欠かせない重要な存在であった
六児のパパ。
作曲面においては一般的に寡作と言われているが、『地獄へ道連れ』、『ブレイク・フリー(自由への旅立ち)』等を出したヒットメイカーである。
前者はシングル曲としては最大級のヒット、後者は第三世界でバカウケするなど当たると物凄いヒットになるのが特徴。
とはいえ『永遠の翼』や『恋のゆくえ』等一般的にはヒットしていないがファンからの評価は高い所謂“隠れた名曲”も多く生み出している。
「フレディ以外にQUEENのボーカルは考えられない」と発言する程フレディの事を尊敬しており、1997年のエルトン・ジョンとの共演を最後に音楽業界から引退している。
現在はメンバー間での連絡も殆ど取っていないらしく、映画「ボヘミアン・ラプソディ」には初期段階の脚本の監修を行ったぐらいでその後は関与していない。


●ロジャー・テイラー
ドラム。バンド一女にモテる男で生粋のロックンローラー。
ハスキーハイトーンボイスを活かしたコーラスでクイーンを支えた
初期は余りヒット曲に恵まれなかったが『RADIO GAGA』以降『The Invisible Man』や『Breakthru』などポップでキャッチーな楽曲を多数作り後期Queenを支えた。
この曲の珍妙な名前の元ネタは彼の息子、フェリックスが言った「レディオ、カカ、カカ」という言葉である。

先鋭的なものを好む方針があり、あのYOSHIKIとコラボしてシングルCDをリリースしたことも。
1999年には当時としては非常に珍しかったネット配信ライブを実施している。
また、バンド「ザ・クロス」を結成する等ソロ活動も積極的に行っていた。
女性と見まごうほどの美貌・美脚もあってか、
「I Want To Break Free」のPVでの女装は、メンバーの中で一番ハマっており、
あまり可愛すぎたロジャーを見てメンバーが爆笑したという。
現在は加齢のせいか多少太ったが、そのイケメンぶりはほとんど衰えていない。
前述の女装もセルフパロディを実施した。

ここまでで気づいたかと思うが、オリジナルメンバー四人は全員ナンバーワン獲得曲を作った極上の作曲家でもある。


【「QUEEN+○○」メンバー】

フレディの没後は、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが中心となり、新たなボーカリストを迎えた『QUEEN+○○(ボーカリスト名)』という名義で活動している。
その中でも世界ツアーを行った二人を紹介する。


●ポール・ロジャース※2004年~2009年まで活動。
ブルースロックバンド、フリーとバッド・カンパニーの元ボーカリスト。
2004年より「クイーン+ポール・ロジャース」名義でアルバムを発表、世界ツアーも行った。
ブルースをルーツにしていることもあり、フレディより良い意味で”古い”フェイクを混じえた歌唱が特徴。
その場で歌った鼻歌が名曲になる、と言われるほどの歌唱力を持つ。
フレディとは異なるキャラクター性に賛否はあるが、世界ツアーを成功させるなど、現在までの活動を繋いだ功労者ともいえる。
若い頃はディープ・パープルのボーカル候補だったが、本人がバッド・カンパニーの活動に専念するため断った。
(後にロック・エイド・アルメニアにて共演した。この時ブライアンもメンバーの一人として参加していた)


●アダム・ランバート※20012年より活動。
子役、舞台俳優として活動後、ミュージカル俳優およびロックバンドThe Citizen Vainのフロントマンとして活躍。
オーディション番組「アメリカン・アイドル」で「ボヘミアン・ラプソディ」を披露したところ、ゲスト出演していたブライアン・ロジャーの二人がその才能に惚れこみ、メインボーカルとして招聘。
以降「クイーン+アダム・ランバート」名義で活動を開始し、日本を含む全世界でツアーを実施している。
色気のあるパフォーマンスと世界有数の高い歌唱力が特徴で、現在のバンドを支えるフロントマンとして活躍している。
自身も同性愛者であることをカミングアウトしている。


【日本との関係】

フレディの項でもあるように、日本との関係がこの時代の洋楽アーティストとしては珍しく深めなのが特徴の一つでもある。
これには理由があり、三枚目のアルバムである『シアー・ハート・アタック』が大ヒットし全米ツアーをやる事となったが、フレディが喉を壊してしまい数公演がキャンセルとなってしまったり、一作目からずっと音楽評論家からはクソミソに言われ続け、
さらにマネジメント会社ともトラブルを抱えるなどバンドには逆風が吹き荒れ、メンバーは士気阻喪状態となっていた(ただし、当時の英国でも楽曲がヒットするなど、着実に人気を集めているバンドではあった)。
そんな1975年4月、武道館公演で来日した際の日本で待ち受けていたのは「英国からやってきたスーパースター」としての待遇であった*1
空港には出待ち1200人、東京タワーに観光に行けば子供が群がりホテルに缶詰状態を余儀なくされるなど、まさに「ビッグ・イン・ジャパン*2」であった。

なんでこんなに当時本国すら凌駕する人気があったか?というと、前述の注釈の通りに当時の洋楽マニアの世論を半ば策定していたとさえ言われる雑誌「ミュージックライフ」がQueenをゴリ押ししていたからであった*3
また、当時宝塚歌劇団で人気を博していたミュージカル「ベルサイユのばら」を彷彿させるビジュアルも非常にウケたとか。
これらに日本にありがちな海外スターワッショイワッショイするミーハー基質が合わさって、本国での地位以上のスーパースターとして遇するという事態につながったのであった。

前述の通り、士気阻喪状態だったフレディ以下メンバーはスター扱いされて一気にやる気を取り戻すことが出来た。
やる気が出たついでにマネジメント会社とのトラブルもきっちり解決。
そして余裕が出たところで遮二無二作り上げたアルバムこそが「オペラ座の夜」であり、そのアルバムの代表曲こそがかの「ボヘミアン・ラプソディ」であった。
こうして半ばビッグ・イン・ジャパン化ルートに足を突っ込んでいた状態から世界的アーティストへと飛躍していった、という経緯があるため、メンバーはフレディ以外も基本的に親日家である。
後述の楽曲以外にもツアーで来日した際にセットリストを日本ファン好みに調整したり、ベストアルバムに日本盤限定ボーナストラックを入れたりと特別視してくれていた。
現在でもCMソングでちょくちょく起用されるのは他の洋楽アーティストより向こうからの許可が降りやすいということもあるという。ちなみにパチンコにもなっている。

1980年代に入って貴公子フレディがヒゲマッチョになって人気が落ち着いても、南アフリカでライブをやって爪弾きにされたり*4、リオのフェスでブレイク・フリーを歌った時にサービスのつもりでPV再現の女装で出ていったら総スカンを喰らったりして失意の中日本ツアーに来たらいつものように呑気な感じで迎えてもらって少し気分転換になった部分があったり*5
いきなり21世紀に入って人気が爆発して、それに触発されたかのようにポール・ロジャースやアダム・ランバートを迎えてツアーを始めるなど節目節目で日本が多少なりとも影響を与えていたりする。

余談だが、特に親日家のフレディは新宿二丁目に行きつけのバーがあったそうである。
また、ロジャーとジョンの2名は『笑っていいとも!』にもゲスト出演経験があったり。


【アルバム】

※代表曲は筆者の私見なのでなんで抜けてんだよとかあったら追加してください。

戦慄の王女(QUEEN) 1973年7月13日

記念すべき1stアルバムだが、諸般の事情でリリースが完成から二年近く遅れてしまい陳腐化してしまう。
結果的にイギリスの評論家にケチを付けられる嚆矢となってしまったが、多重コーラスやギターオーケストレーションを活用した、シンセサイザーを使わない音作りはこの頃から既に発揮されている。

代表曲
  • 炎のロックンロール(Keep Yourself Alive)
  • Liar

クイーンⅡ(QUEENⅡ) 1974年3月8日

捲土重来を期した2ndアルバム。
レコード面をブライアンらが中心になって作った楽曲を収録したサイドホワイトと
フレディが作った楽曲を収録したサイドブラックに分けるなど白と黒一対のコンセプトを徹底したアルバム。
評論家は相変わらずだったが、アクセル・ローズは「棺にこのアルバムを入れてくれよ」という程のお気に入りだという。
初期クイーンサウンドはこの時点でほぼ完成されており、「オペラ座の夜」に勝るとも劣らない人気を誇る名作。

代表曲
  • 輝ける七つの海(Seven Seas of Rhye)

シアー・ハート・アタック(Sheer Heart Attack) 1974年11月8日

先行シングルのキラー・クイーンが結果を残して発売された3rd。
アメリカでもそこそこの売れ行きを残し英国から世界を視野に入れる事ができた、といえるアルバムとなった。
当時のメンバーはインタビューで「先の二枚とこのアルバムの冒頭2曲でとりあえずやりたいことは全部やった」と語っており、この後の全米ツアーの顛末やらなんやらを含めてモチベが一旦萎えかけていたのかもしれない。
レコーディング中にブライアンが胃潰瘍で離脱したため、あとで付け足すために何曲かはギターをレコーディングしないまま仕上げたとか。

ちなみにアルバム名になったシアー・ハート・アタックだが、同名の楽曲は録音こそこの時期に行われているもののこのアルバムに収録されていないので注意しよう。

代表曲
  • キラー・クイーン(Killer Queen)
この曲がスマッシュヒットしたことがスター街道の始まりとなった。

オペラ座の夜(A Night at the Opera) 1975年11月21日

ついにイギリスチャート1位を獲得した記念すべき4thアルバム。
先行シングルのボヘミアン・ラプソディはその特異性や複雑な構成が受けて9週連続1位を獲得。
世界でも大いに売れるなどついに世界レベルのタレントへと昇華したといっても良い結果を残す。
このアルバムも無論世界で大いに売れに売れ、Queenの数あるアルバムの中でも屈指の名盤と評価が高い。
ブライアン曰く「このアルバムがとちったら解散していた」という渾身の一作であった。

代表曲
  • ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)
バラード、オペラ、ハードロックのトリプルコンボな大名曲。
この曲のコーラスはブライアン、ロジャー、フレディの三人で行われ、180回以上の録音では1日12時間以上歌い続けたという。
演奏時間6分は当時としては長時間の部類に入った。
有名なプロモーションビデオがあるが、これは商業目的で制作した世界初の作品とされる。
  • '39
ブライアン作詞作曲だが珍しくほぼ全編に渡ってアコースティックギターで構成されている1曲。
日本での知名度は低めだが本国イギリスやアメリカでの人気が高く、ライブでリクエストされる事も多かったらしい。
因みに内容は相対性理論のウラシマ効果について歌った曲。

華麗なるレース(A Day at the Races) 1976年12月18日

前作のオペラ座の夜と対になったコンセプトのアルバム。今作はQueenのメンバーによる初のセルフプロデュースとなった。
サビが日本語詞で有名な手をとりあってが初収録されたのもこのアルバム。
ビルボードでも1位を取るなど、初期Queenのピークとなった。

代表曲
  • 愛にすべてを(Somebody to Love)
アレサ・フランクリンに大きな影響を受けたゴスペルチックな一曲。
QUEENの特徴であるコーラスを存分に楽しめる。
歌詞が切実すぎる。
フレディが最も気に入っている曲だったらしい。
  • 懐かしのラヴァー・ボーイ(Good old fashioned loverboy)
こちらはオペラチックなポップなラブソング。
サビが第三者による煽りという中々珍しい構成となっておりQUEENの特徴を表した1曲。
因みにイギリスBBCで披露された時はややピッチが早くなっている。
「マツコ&有吉 かりそめ天国」の冒頭で流れているのはこの曲。
  • 手を取りあって (Let Us Cling Together)
5作目のアルバム「華麗なるレース」に収録。サビに日本語が入っている。
この手の曲は当時結構他の外タレも歌ってはいたが、日本限定シングルだったりするのが常であった。
しかしこれは前述の通り世界に向けて放たれたアルバムに収録、ということで日本のファンは大いに沸き上がり、華麗なるレースはオリコン初登場1位を飾り、日本でのQueen人気の絶頂を飾るアルバムとなったのであった。
2020東京オリンピックの開会式でもこの曲が流された。



世界に捧ぐ(News Of The World) 1977年10月28日

今までにあった一種の閉鎖性や複雑なスタイルを変え
外部から様々な音楽を積極的に取り入れ始めた中期の始まりとなった6th。
世界のスポーツアンセムとなったウィー・ウィル・ロック・ユーと伝説のチャンピオン(We Are the Champions)が1曲めと2曲めを飾る、強い(確信)
他にもようやく収録されたシアー・ハート・アタックや永遠の翼(Spread Your Wings)など名曲揃いである。
本国とアメリカの売上が逆転するなど、アメリカ人好みに変容していったと言えるだろうか。
シアー・ハート・アタックが収録されているのはこちらである。

代表曲
  • 伝説のチャンピオン(We Are the Champions)
優勝したら流れるアレといえば皆さんご存知な一曲。
華麗なるレースの時点で完成はしていたが「まだ早いな」というフレディの考えでここまで寝かされていた。
  • We Will Rock You
「ズンズンチャ、ズンズンチャ」といえばわかるだろう名曲。
別の楽曲『ストーン・コールド・クレイジー』と並びラップの原形とも言えるボーカルとブライアンのギターが光る。
  • Sheer Heart Attack
クイーンの中でもバリバリのハードロックな曲である。アルバムタイトルなのにここまで寝かされていた。
  • 永遠の翼(spread your wings)
ジョン・ディーコンが作詞作曲した中で好きな曲は?て聞かれると必ず上位に来る名曲。
ジョン自身の半生を歌った曲と言われており、イントロのピアノ演奏はジョンが演奏している。
因みにMVの撮影場所はロジャー邸の庭である。



Jazz 1978年11月14日

様々なジャンルの曲が目白押しな7th。
バイシクル・レースやドント・ストップ・ミー・ナウなど有名曲が多数収録されている。
ちなみに意味するところは音楽ジャンルではなく「ナンセンス」などの意味がある俗語の方である。

代表曲
  • Bicycle Race
PVが全裸の女性がチャリ乗り回す映像が入るのでようつべ公式がR-18というネタを持つ楽曲。
ひたすら「チャリ乗りてぇ…気分良くチャリ乗りてぇ…」と繰り返すサビが一部で大人気。
ちなみに歌詞には「スター・ウォーズ」や「ウォーターゲート事件」等当時のアメリカをイジるネタも出て来る。
  • Don't Stop Me Now
日本では岡村さんがひたすらブレイクダンスするCMで一躍有名になった曲。
それ以外でもCMで耳にする機会が非常に多い。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」ではエンドロールを飾るが曲順が卑怯と大評判。
空耳まみれである。カニ味噌バレンタイン

The Game 1980年6月30日

アメリカでの人気がピークに達し、第二次黄金期の頂点となったアルバム。
地獄ヘ道連れ(Another One Bites the Dust)などブラックミュージックの影響が強い楽曲の登場や
フラッシュ・ゴードンのサントラ制作で使い始めたシンセサイザーを本格的に起用するなどサウンドの変化もより著しい一作。

代表曲
  • 地獄へ道連れ(Another One Bites the Dust)
終始ミドルテンポで突き進む。ダークな雰囲気漂う名曲。
地味なベーシストというイメージが強かったジョンがついに大ヒットをかっ飛ばした、そんな一曲。
前述の通りブラックミュージック、特にファンクあたりの影響が強い。
当初はジョンのこだわりで恐ろしく演奏難易度が高いこともあってツアーでも歌われないなど、シングルカットの予定がなかったが
マイケル・ジャクソン*6の「シングル化すべき!」という進言を容れてシングルカットすると世界中で馬鹿売れ。
日本を含めた多数の国で1位を獲得。特にアメリカでの人気は凄まじいものがあった。
しかし英国のファンは「なんだこの曲!?(激憤)」とスタイルが変化しすぎたことに難色を示したか最高位7位で終わった。
あのパロディ歌手アル・ヤンコビックに『another one rides a bus(遅刻へ道連れ)』という名前でカバーされた。
因みにメンバー間でも評価が分かれた曲でもあり、特にロジャーは嫌すぎるあまりレコーディングの際も終始やる気が無かったらしい。
  • 愛という名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)
フレディが入浴中に思い付いた事で有名なエルビス時代のロックンロールっぽい楽曲。
アメリカで大人気であり、『地獄へ道連れ』と並び中期Queenのアメリカ人気を確立した一曲。
エレキギターを全く使わない都合上ブライアンからの反発を予想したフレディの意向により最初のレコーディングはブライアン抜きで行われている。
因みに後に合流したブライアンはフレディの予想通りこの曲に不満を示したらしいがそれでもキッチリアコースティックを担当する辺り流石はプロと言うべきか、
ライブではフレディがギターを弾く珍しいナンバーとして知られ、ライブエイドなどでも演奏された。
\Until I'm ready/\Ready Freddie/


Flash Gordon 1980年12月8日

同名映画のサントラ盤。本格的にシンセサイザーを活用し始めた嚆矢となった。
シンセっぽい音こそ出していたが、アルバムにシンセ使ってないぞと記載していたようにシンセサイザーには否定的だったQueenにとっては大きな変化となった。
しかし音楽としての評価は高く、フラッシュ・ゴードンのファンも太鼓判を押すほどの見事なメインテーマは必聴。
なお映画はずっこけた。

代表曲
  • フラッシュのテーマ(Flash's Theme)
フラッシュ!アア~というフレーズが結構有名。
フジのF1中継のOPに使われたりした。


Hot Space 1982年5月25日

「地獄へ道づれ」の成功で気を良くしてブラックミュージック好きのフレディとジョンが中心になって傾倒していったら
ファンがそっぽを向いたでござるの巻、そんな一枚。
とくに英国ファンが冷淡であり、デヴィッド・ボウイとのコラボ曲であるアンダー・プレッシャーは大人気であったがアルバム売上は散々であったという。
"ブラックミュージックに傾倒した失敗作"というイメージで語られることも多いが実際は最初の4曲が立て続けにそうなだけで、アルバムの後半はクイーンらしいサウンドの曲も意外に多いため現在は再評価される向きもある。

代表曲
  • Under Pressure
地球に落っこちてきた異星のロックスターことデヴィッド・ボウイとのコラボ曲。
初収録となったのはホット・スペースのちょっと前に発売となった初のベストアルバムである「グレイテスト・ヒッツ」。
PVは爆破の映像や世界恐慌、学生運動、何故か東京の通勤ラッシュ等様々な映像で構成されており、当人たちは一切登場しない(クイーンとデヴィッド・ボウイがどちらもツアー中で撮影のスケジュール調整がつかなかったため)。
  • Body Language
フレディ作の猥雑な雰囲気が強烈なディスコチューン。
歌詞は明らかにゲイの視点で描かれたもので、PVも「ゲイサウナのような場所で男女が戯れる」という卑猥な内容だった。
本作の先行シングルとして発売され、アメリカでは11位まで上昇したが、イギリスでは受け入れられず25位止まりであった。
また上記のPVも規制の厳しいアメリカでは放送禁止とされてしまい、色々と出鼻を挫かれる結果となってしまった。
  • Life Is Real (Song For Lennon)
1980年に暗殺されたジョン・レノンに捧ぐ一曲。
「Imagine」や「Mother」といったジョン・レノンの楽曲の要素がオマージュされている。

The Works 1984年2月27日

一気にサウンドの方向性を前々作あたりに戻した一枚。
世界的大ヒットのRADIO GA GA、抑圧されていた南米アフリカでバカウケしたブレイク・フリー(自由への旅立ち)(I Want to Break Free)などヒット曲多数となっている。
しかしこの後そのアフリカや南米で色々やらかし、ソロ活動も本格化していたことでメンバー間に亀裂がビキビキ入っていた頃であり
このアルバムを引っさげたツアー後に解散するのでは?と噂されていた。*7

代表曲
  • RADIO GA GA
レディ・ガガの芸名の由来だったり、GTAⅤではPVや作中ラジオへの起用がされており若い世代もそこそこ知っていそうな曲。
本作のPVはSF映画の傑作として知られる「メトロポリス」の映像を一部使用し、その世界に4人が入りこんだというもので、途中で過去のクイーンのPVも登場する*8
使用に際しては交換条件として同時期に公開された「メトロポリス」リマスター版のサントラにフレディが参加することでOKをもらったとか。
ライブではPVの振り付けで客が大いに沸く。ライブエイドの映像を見てみよう。
  • ブレイク・フリー(自由への旅立ち)(I Want to Break Free)
寡作だが当たるとでかいジョン作曲。前述の通り南米やアフリカの被抑圧者にバカウケしてそれらの地域にファンを増やすことが出来た。
PVはイギリスの昼ドラ『コロネーション・ストリート』を元ネタにしたもので、メンバーが女装しているのが特徴*9
ロジャーの女装が美少女すぎる、訴訟。
  • Hammer To Fall
ライブエイドやウェンブリー公演など名演にこの曲が在った。
欧州圏で人気の一曲。

カインド・オブ・マジック(A Kind of Magic) 1986年6月2日

1985年のライブエイドにおける伝説的パフォーマンスで再び結束を取り戻した後にリリースしたアルバム。
円熟味を増し、バンドとして別の味が出始めた一作である。
このアルバムを引っさげての欧州ツアー、特にホームであるロンドンのウェンブリー・スタジアムで二日間行ったライブは
ライブ盤がリリースされるほどの人気を誇り、ライブバンドQueenの名声をより高めた。
しかし、このツアーが最後のライブツアーになってしまったのである。

代表曲
  • ONE VISION
アルバム発売に先駆けてシングルカットされた。
クイーンの再結束を象徴させるノリの良い楽曲となっている。
PVはボヘミアン・ラプソディの10年後というショットから始まり、レコーディングスタジオの様子やメンバーのオフショットを映している。

  • Princes of the Universe
映画「ハイランダー」の主題歌。
アニソンっぽいビートのきいたいかにも主題歌なノリの楽曲。
PVでは映画の主演俳優クリストファー・ランバートがゲストで登場する。
  • カインド・オブ・マジック(A Kind of Magic)
アルバムのタイトルナンバー。ハイランダーの主人公が不死の存在というところから発想を得たとか。映画使用版とシングル盤では曲調が異なっており、前者は若干テンポが遅い。
PVは廃劇場にやってきたフレディ扮する魔術師が、ホームレスの3人に魔法をかけてクイーンに変身させるというもの。
Queen版ボーン・トゥ・ラヴ・ユーにHa ha ha,it's magic!!というフレーズが流用されている。

The Miracle 1989年5月22日

しばらくの活動休止とそれぞれのソロ活動を経て3年ぶりにリリースされたアルバム。
シングルのカップリングにもアルバム曲になれなかった曲を収録するなど
意欲と活気に満ち溢れていたが、ツアーは行わないことが明言されていた。
フレディがメンバーにエイズにより残された時間がそう長くはないことが告げたのがこのアルバムの製作期間中と見られるため*10、活気と意欲に満ち溢れていたのはもしかしたらフレディが残された命を全て音楽に叩きつけるという意志の現れだったのかもしれない。
そしてQueenのメンバーもわだかまりを完全に捨て、一丸となって付き合うことを決断した…のだろうか。
また、本アルバム収録楽曲のPVは巨大なセットや鉄道路線を貸し切っての撮影、当時は珍しかったCG合成を使うなどいずれも豪華なものとなっている。
このアルバムから作詞作曲のクレジットが全てQueen名義に変更された。


代表曲
  • The Miracle
アルバムのタイトルナンバー。世界平和を歌った作品。
PVは小学生ぐらいの男児の4人がクイーンに扮して歌うというもので、最後にメンバーが登場してものまね番組のご本人登場のようなセッションを見せる。
  • I Want It All
ハードロック調の楽曲に乗せて「欲しい、全部だ、今すぐ寄越せ」と激しく力強く主張する楽曲。
ブライアンの歌声も聴けるぞ!
バージョン違いが結構あるのも特徴。
  • Scandal
フレディの体調不良を詮索するな、俺(作曲者はブライアン)の離婚沙汰を詮索するなという意志のこもった曲。
PVもタブロイド紙を模したセットを用意している。
パパラッチは○ね精神。

Innuendo 1991年2月5日

フレディの遺作となったアルバム。
この頃にはもはやエイズが進行し免疫が機能せず、様々な日和見感染に悩まされ衰えていく一方となっていたが
喉だけは奇跡的にほぼノーダメージだったのようで、収録曲は全て歌いきることが出来た。
メンバー全員で素材を持ち寄って一曲に仕上げていくスタイルが取られており
バリエーション豊富で様々な色を感じられる出来に仕上がっている。
フレディのスワンソングをぜひ聞いてみて欲しい。

代表曲
  • Innuendo
別名『裏ボヘミアンラプソディ』と言えるほど複雑な構成が特徴で、初期クイーンを彷彿とさせる作風が受けたのか全英シングルチャート1位を獲得した。
途中のスパニッシュギターはプログレッシヴロックバンド・Yesのスティーヴ・ハウが演奏している。
バンドの終焉を予告している曲で、PVにはメンバーが登場しない(過去作からの流用シーンはある)。
  • 輝ける日々(These Are The Days Of Our Lives)
フレディ生前に撮影された最後の公式映像がこの楽曲のPVである。
やせ衰えた姿をメイクで何とか隠そうとしているのがちょっとしんどい、そんな映像になっている。
この頃はまだエイズを公式に認めていなかったものの、この映像を見たらいろいろと察するものがあっただろう。
作詞作曲はロジャーで、これまでのフレディとのバンド人生を肯定するような内容の歌詞になっている。
  • The Show Must Go On
フレディ在籍のQueenとしては最後のシングル。
「ショーは何があろうと続けなければいけない」という演劇業界の言葉から来ている。
病に冒されようと俺は歌い続ける、ということだろうか…
因みにボーカルはもうエイズが進行し弱り切っている中、高音が多いにもかかわらず一発録りらしい。
フレディの全魂を注いだ絶唱に前が見えなくなること必至。
PVは過去のPVやライブ映像を編集したものではあるが、歌詞や演奏と映像が合うような編集がされており感動的である。
以下、ブライアンのコメント。
「ある朝、この曲をフレディのところに持っていった。彼がどう受け取るか少し心配だった。でもこう言ってくれたんだ。
『ダーリン、僕はそれを歌うよ。そして僕の全てを注ぎ込む。』ってね。」

Made in Heaven 1995年11月6日

Queen史上最高売上を記録した「天国からの贈り物」。
フレディが生前に残した音源を切り貼りしたりフレディのソロ曲をアレンジして演奏を録音したりして作り上げた。
前述の通り売上は史上最高となり、フレディロスだったファンからも熱狂で迎えられたが
何分死者の素材をいじってるしソロ曲も結構大きくアレンジしたため批判的な声もいくらかはあった。

代表曲
  • It's a Beautiful Day
HONDAのCMでお馴染み。
晴れ上がった晴天の日をイメージさせるキレイなピアノに乗せてちょっと暗い歌詞が続く。
このアルバムが初出の新曲だが、フレディの歌声とピアノは1980年「The Game」のレコーディングセッションで録音されたもの。
  • ボーン・トゥ・ラヴ・ユー(I Was Born To Love You)
フレディのソロアルバムである「Mr.Bad Guy」収録の楽曲をアレンジしたもの。
なので元々はQueenの楽曲ではない。
原曲とは趣が違い「大好きだよ~」とポップに伝えるのが原曲なら
「君に出会うのは運命だった(迫真)」ってな塩梅なのがこちらのバージョンである。
キムタクのドラマ『プライド』やカップヌードルのCMにも使われ、日本での再ブレイクのきっかけになった。
  • Let Me Live
ゴスペル風のコーラスが特徴。
ボーカルはフレディ、ロジャー、ブライアンが交互に取っている。
因みに「僕を生かしてくれ」とひたすら叫ぶ内容なため晩年の曲っぽいが、元々は1976年「華麗なるレース」のレコーディング時にロッド・スチュワートとのコラボ曲として制作されたが収録されなかった「Another Little Piece Of My Heart」という楽曲が元ネタ。
その7年後、1983年「The Works」のレコーディングにロッドが訪れ再び制作に取り掛かったが、またしても完成には至らなかった。
本アルバムで聴けるフレディの歌声はその1983年のセッションでレコーディングされたものであり、まだ死から遠い時期のボーカル素材である。
  • Too Much Love Will Kill You
ブライアン作の名バラード。
フレディの歌う美しいメロディのブライアンの泣きのギターソロが感動的。
楽曲自体は1988年に完成しており翌年発売の「The Miracle」に収録される予定であったが、当時のクイーンは作詞作曲のクレジットをバンド名義にしていたため、この曲をブライアンと共に作った人物との権利関係が整理できずに収録を断念していた。
1992年発売のブライアンのソロアルバム「Back To The Light」にはブライアンがボーカルを務めたバージョンが収録されており、同年にウェンブリー・スタジアムで行われたフレディの追悼コンサートでも披露された。

Jewels 2004年1月28日

日本のEMIが企画したベストアルバム。前述のドラマ「プライド」に合わせての企画であるが
イギリス本国やQueenとも打ち合わせの上で作られたもので、タイトルはブライアン考案だしQueenのwebショップで普通に販売されていた。
ブックレットに初心者向けと書かれた通り、有名楽曲が目白押しである。
入門編にはもってこいなので「ボヘミアン・ラプソディ」を見た後はコイツを買うといいんじゃないかな。買え(豹変)
好評だったのかJewls 2も発売された。

その他
  • La Japonaise
アルバム「バルセロナ」収録。QUEENの曲ではなく、フレディがオペラ歌手モンセラート・カバリエとコラボレーションした曲。「手を取り合って」以上に日本語が多く含まれており、彼が日本好きなのがよくわかる。
なお、「バルセロナ」の1曲目「Barcelona」は1992年のバルセロナオリンピックのテーマとなり、彼ら2人が開会式で歌う予定であったが、フレディが亡くなったためホセ・カレーラスが代役を務めた。


手軽に聴きたい場合は日本独自の企画盤「Jewels」がおすすめである。もうちょっと聴きたい方は「Greatest Hits」シリーズもいいし、そこからオリジナルアルバムを聴くのもよし。
特に初期の「Queen」「QueenⅡ」の曲はあまりベスト盤に入っていないことが多いので、オリジナル盤がおすすめ。





たいしたことじゃない。
本当に僕はたいしたことじゃ無いのさ。

どっちみち、追記修正されるのさ…。

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最終更新:2024年04月24日 13:42

*1 当時の『ミュージック・ライフ』の若手編集者で、後にデスクも務めた東郷かおる子の紹介による。東郷は雑誌お目当てのバンドの前座であったQUEENを見て、彼等のビジュアルと曲は日本の女子にウケると確信し、自分の記事での特集を開始。この目論見はピタりとハマり、QUEENは十代から二十代の女子に支持されるという、従来のロックバンドとは別の現象を見せた(この為、当時の日本では男がQUEENを好きとは言いにくい風潮があった)。東郷自身も、米国での取材中に公然から出会ったロジャーに雑誌を紹介、当時の欧米の音楽雑誌がパルプ誌だったばかりの所に、日本の綺麗な印刷の雑誌に自分達が載っていることに感動したロジャーは、マネージャーを通さずに東郷の取材を受けてバンドに紹介。これが縁でQUEENは来日を決め、大フィーバーに繋がることになるのである(ブライアンは最初の会見で感謝と共に戸惑いを口にしている)。東郷曰く「元々は日本なんて国々知らなかった」という彼らだったが、この歓迎ぶりを受けるばかりか、日本が古来からの独自に発展した文化先進国であることを知ると、プライベートでも訪れる程の日本好きとなったのである。

*2 日本で本国より大人気になるアーティストを半ば揶揄して言う言葉、ベンチャーズなどが典型例とされる。

*3 他にもツアー招聘に動いたのが現在でも芸能界の大手事務所である渡辺プロダクションだったため、相当手厚く待遇されたという。

*4 アパルトヘイトへの制裁で文化的活動も禁止された中で強行して国連にブラックリストにぶち込まれてしまった。

*5 日本ツアー後、最初の公式の場があのライブエイドイギリス会場での伝説のライブであった。

*6 マイケルとコラボが計画されており、デモ音源も残っているがいろいろあって決裂し結局リリースはなかった。

*7 ちなみに日本がツアーの最終公演の地であった。

*8 PVのラストには謝辞のクレジットが入っている。

*9 セクシュアリティがゲイという理由でフレディ発案と思われがちだが、ロジャー発案である。

*10 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が実際と一番異なるのがここらへん