改易

登録日:2019/07/23 Tue 21:03:19
更新日:2024/03/18 Mon 22:34:48
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改易とは、当人を役職から罷免し同じ役職に別の人物を新任する、いわば首を挿げ替える事。
現在では主に日本の大名(封建君主)が身分を剥奪され所領などを没収される事に対してこの言葉が用いられる事が多い。



概要

「改易」とは元々は律令制度において現職者の任を解き、新任者を補任する事を指していた。
鎌倉時代に入ると守護や地頭に対して使われる様になる。
戦国時代や江戸時代では大名や旗本などの武士に対して使われる事になり、それらに対しては当人から身分と所領などが剥奪・没収される事を意味する。

そして大名家の改易は概ね以下の理由が適用される。
  1. 世継がいなくなり断絶する(無嗣廃絶)
  2. 主家(江戸時代なら徳川将軍家)への敵対、戦後降伏後の処置
  3. 幕府の法に反する等の罪科がある
  4. 軍規違反など武士として不適格
  5. 家中や領内の統制に失敗したり乱暴狼藉を働くなど、藩主として不適格
  6. 君主の気分

特に1に関しては、江戸時代の武士は基本生前に跡継ぎを上に届け出なくてはならず、江戸時代初期においては急死・急病などで急遽他から養子を探す「末期養子」は禁則事項とされた*1ため改易が頻発。
4代将軍の時代に末期養子は条件付きで許可されたが、それでもペナルティが課せられるケースがあった。*2
にもかかわらず
  • 若くして当主が死んだ場合兄弟などの別人を「当主本人」という形で挿げ替える。
  • 当主が死んだ場合に「病気で隠居」などという形で死亡時期をごまかし、その間に養子を決めて生前からの養子と取り繕う。
と言った不正行為の記録が残っている。

大名も力を持った一勢力であり、武力で抵抗…という事も当然懸念される訳だが、実は江戸時代に入って以降武力抵抗の記録はない。
抵抗を検討した大名も居たと思われるが、幕府の体制に隙が少なかったことや関ヶ原とその後の改易などのダメージにより、そんな余裕が無かった事やリスク計算していた事がうかがえる。
忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野長矩の筆頭家老である大石内蔵助も、反発して籠城しようという家臣たちの主張を抑えて城を明け渡している*3
もちろん幕府側も最初期の改易は、大名本人が家臣団と離れている時、もしくはそういう状況を意図的に作り出した上で改易を通告するなど、細心の注意を払っていた事がうかがえる。

改易をされれば、その大名に仕えていた武士たちは多くが路頭に迷う。
しかし江戸時代の武士の間では「主君を変える」行為を不道徳とみなす考え方が強く、主君の家系ならばともかく全く別の大名に仕える事は難しい。
そもそも新しくやってくる大名にも元からいる家来たちがいる訳で、全員が再就職できる訳がない。
そうすると、一部の転職成功組を除いて彼らは武士でありながら定職を持たない浪人となった。当然生活は苦しい。
そんな浪人は改易に関する幕府への不満と相まって島原の乱のような一揆や、慶安の変(由比正雪の乱)のような幕府転覆計画に加わろうとするなど、社会不安の一因となった。
領民にとっても、それまでに獲得していた権利が認められなくなることがあったり、
悪政が原因の改易ならば大抵政策が良くなるが、そういう理由ではないことが多かったので悪化することもあり、多くの餓死者を出したり反対一揆が起きることすらあった。

最初期の幕府はまだ権力的に完全ではなかったため、割とバシバシ改易をしてその権威を示したり、外様大名を弱体化させる目的で隙あらば改易していった。
しかし幕府権力が安定してくると、改易に伴う配置換えなどの手間*4や浪人の増加などのデメリットが無視できない問題になってきた。
更に浪人は例え貧窮していても特権階級である事には変わりないため、彼らを養う最低限の責任が幕府にはあり、財政をどんどん圧迫する要因にもなっていった。
外様が一通り収まった後の5代将軍の時代になると主に譜代の大名が狙われ、その後は幕藩体制が確立したせいか、あるいはデメリットが大きくなりすぎたからか改易・転封*5は減少していく。
こうして徐々に末期養子を認める方向にチェンジしたり、功績・縁戚のある家系に多少の特例を認めたり、後期には改易を避けるための不正行為を黙認していたとみられるケースまである。


所領のみが剥奪されたり減らされる除封・減封といった処分もあり、直接または改易を経てそういった処分を下される事もあるが、ここでは後者のみ取り扱う。
ここでは主に戦国時代以降の改易と、それをされた大名らについて解説・紹介していく。


改易の実例


佐久間信盛

領地:西三河、尾張知多半島、刈谷、近江国栗太郡など
理由:4,6
処分:出奔(追放)、後に死去

幼少期から織田信長に仕え、「退き佐久間」*6の異名を持つ織田家の重臣。
桶狭間の戦いから長篠の戦いまで織田信長の主要な戦いには全て参加している他、吏僚としても活躍し足利義昭との交渉を含め畿内における様々な仕事を任されるなど文武両道に長けていた。
その為、領地は上記の様に多岐に渡り、それ以外に近畿地方にも部下を持っていたので最後の石山本願寺との戦いでは三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の計7ヶ国の与力*7がいた*8
しかし、その石山本願寺との戦いは信盛着任前から始まっていたとはいえ長期戦となり、5年の歳月を費やした上に結果的には降伏ではなく講和という形で決着した。
更に本来なら手に入るはずだった難攻不落の石山本願寺も失火で全焼させてしまった
信長も秀吉より先に石山本願寺の地に大坂城を築く予定だったとか。
その結果、講和から1ヶ月も経たない内にいきなり信長から19項目にも及ぶいちゃもん折檻状を突きつけられて高野山に出奔した*9
因みに有名な折檻状の内容は非常に長いので要約すると

・何で本願寺を攻め落とさなかった?(第2条)
・そもそも最近お前はたるんでる。相談や報告をしろ。あと周りは皆必死に戦っているか、手柄を立てているぞ。(第3~7条)
・城や土地を預けたのに何故人を追放する?何故雇用しない?貯蓄しか考えてないのか?(第8~10条)
・与力の負担が大きく親子共々卑怯な振る舞いが多い上に考えが分からないので、与力や家臣に恐れられているぞ。それと家臣を召し抱えて領地を活用しろ(第11~17条)
・どこかを攻め取って名誉を挽回するか、討ち死に覚悟で頑張るか、高野山に行くか選べ*10(第18~19条)
筆が乗りすぎたのか後半はどんどん文字が小さくなっている

の様な感じで中には7年前の出来事*11や親子に対してかなりの個人攻撃も含んでおり、信長の執念深さがうかがえるとする向きもある。
一方で信盛と同じ時期に尾張や美濃に領地を持つ複数の譜代の重臣も一緒に追放されており、仕事に見合わない大録を持つロートル老臣を整理して、強制的に部下の世代交代をしたのでは?という説もある。
他にも仮に追放した場合には家臣団に与える影響が大きいことは信長も当然分かっていた筈なので、実は難癖ではなく本当にそう思って発破をかけただけ(途中筆が乗りすぎた)の可能性も割とある。*12
この様に色々と有名だが謎のある出来事になっている。

この後信盛は2年後の1582年に死去した。
なお信盛は信長の実質的な本拠地である畿内方面軍を統率しており、信盛失脚後にそれを引き継いだのは明智光秀であった。
結果的にこの改易は本能寺の変を起こす機会を与えたと言える。
また、それまで仲が悪くなかった高野山と敵対するきっかけにもなった。これでそこまで関係悪化したことは佐久間父子も信長も予想外だったと思われるが。
そして高野山に報復を行ったため更に関係が悪化し、後に信長の孫で織田家の嫡流である清須会議の三法師こと織田秀信がここに追放された際、僧たちから邪険にされたそうな。


林秀貞

領地:尾張春日井郡
理由:2(事実上6)
処分:追放、後に死去

信長が10歳で那古野城を与えられた時には筆頭家老として付けられた織田家の重臣。
当時奇行を繰り返した信長を見放して実弟の信行を擁立して謀反するが、一方で信長の暗殺の提案には拒絶するなどした為か、稲生の戦いで信長が勝利した時に赦免されている(ここ重要)。
この時点で既に43歳と老齢に差し掛かっていた事もあり、その後は筆頭家老として主に外交面、内政面を中心に活躍する。
最晩年は信長から家督を譲られた信忠に付いて尾張での内政に従事していた。

ところが1580年に上述の佐久間信盛の追放と同時に、何と24年前の謀反を理由に改易された。
一度赦免している事実から見ても明らかに口実に近く、実際は老齢(当時68歳)で仕事に見合わない大録を持つ秀貞を追放する事で家臣団を整理する目的があったのでは?と言われている。
なお、老齢だったためか改易同年の内に死去した。
因みに明智光秀は「当代記」によると秀貞とほぼ同年齢(この説に従うと当時66歳)の可能性があり、長年信長に尽くしていた秀貞ですら実力に見合わない*13と判断されるや改易された事から、
四国問題で躓いた事で近い将来の改易を憂いて本能寺の変を起こしたのでは?とも言われており、信盛や秀貞の改易が本能寺の変を起こす上で大きな影響を及ぼした可能性がある。


安藤守就

領地:美濃北方城
理由:2(事実上6)
処分:追放、後に一族ほぼ滅亡

元々は稲葉一鉄・氏家卜全と共に「西美濃三人衆」として齋藤氏に仕えていたが、信長の美濃侵攻戦の際に織田方に寝返った。
その後は信長直属の武将として各地の戦に参陣していたが、佐久間・林の追放に続いて突然改易された。
「信長公記」では「先年信長公が苦闘していた時に野心を持ったため」とされ、守就または長男の定治が武田氏に内通して謀反を画策したとされている。他の西美濃三人衆だった氏家直昌(卜全の子)はこの一件に関しては何らの処分はなく、稲葉一鉄に至っては守就の旧領をそっくり与えられているので、事実の可能性もある。一方で林の時同様、大録を持つ美濃在住家臣団の整理の為、安藤氏が謀反の疑いをでっち上げられた可能性もある。
その後、本能寺の変で信長と嫡男で美濃の領主だった信忠の死の隙をついて北方城を奪還したものの、一鉄の反撃により守就以下一族が悉く討ち果たされるという壮絶な最期を遂げた。
ただ甥の可氏が生き延び、後年山内一豊に仕えて土佐藩家老として明治まで続き、男爵家として残ったことはわずかな救いかもしれない。



仙石秀久

領地:讃岐に10万石、但し2万石が十河氏領なので実質8万石
理由:4,6(軍規違反)
処分:追放、後に復帰

四国の諸将を取り纏める軍監という立場で、豊臣秀吉の命令により島津氏を降伏させるための九州征伐に参陣するが、「防備を固めて持久戦に徹しろ」という秀吉の命令に背いて、積極策を取って戸次川の戦いで大敗してしまう。
しかもその後何もせず、自分だけそそくさと所領に逃げ帰った
軍監ということは敗戦しても敗残兵を纏めて防戦し、本隊が来るまで持ち堪えて責を果たさなければならない。
なのに逃げたのであれば改易も仕方ないだろう。

そもそもこの状況、上方勢が大友勢を救援に来たのに大友勢の動きが鈍く味方を見殺しにしかねないので、救援を待っていられずにやらざるを得なかったという戦である。
まとめていた軍団も直前に降伏させた長宗我部や島津に押されまくって滅亡寸前だった大友だったり、すっとろい救援を率いていたのがクズ義統だったり、
戦う相手が戦馬鹿の薩人マシーン軍団戦国屈指の戦上手の島津だったりと擁護できる点はあるが、敗戦後に逃げてしまったのは庇いようがない。そもそも命令違反もしてるし。

さらに言えば、この時長宗我部家の跡取りとして期待されていた信親を戦死させてしまったため、非常に恨まれた。
これは長宗我部元親にとって相当な痛手であったらしく、以降は性格が激変。
度量や器の大きい人物であったはずが、狭い了見で無理難題を強引に通すようになり、反対するものは皆殺しも辞さず、
すっかり英雄としての覇気を失ってしまったという。そして長宗我部家は関ヶ原の戦いにて崩壊した。
江戸時代通じて土佐一国を治めた山内家が地元民からの評判が悪いのもあり、長宗我部家崩壊のキッカケを作った秀久は一部の高知県民からは半分冗談であるものの未だによく思われていない。

仙石秀久を主人公とした漫画『センゴク権兵衛』においては
  • 元親や十河存保も評定で積極策に同意する。
  • 序盤は優勢だったが、島津家久の采配が神がかりすぎていた。
  • 家臣団や信親、存保は自ら殿を引き受けて戦死した。
と史実からすると凄まじい量のフォローが入れられたが、それでも敗戦後に逃亡したことについてはフォローしきれなかった辺り、失態の深刻さが分かるというものである。

当の秀久は後に北条征伐において浪人衆を率いて参陣し功を挙げて許され、信濃国小諸5万石で復帰した。
このときはかなり目覚ましい働きをしており、秀吉も上機嫌になっていた*14ため、武将としての能力は及第点以上であったのは確かだろう。
「どうせなら讃岐の大名になりたい」と主張した挙句に家康に「イカンのイ遺憾の意」を表し申されたのは漫画だけで史実ではないと思われる。
その後も肥前名護屋城の築城工事で功績を上げたり、内政に尽力しすぎて農民を逃散させてしまったりしているなど、それなり以上に働きを残している。
関ヶ原の戦いの際は色々と不幸があったとはいえやらかした秀忠のフォローを行い、外様ながら秀忠から信用され準譜代扱いされるなどやはりそれなりにはできるところを見せている。


尾藤知宣

領地:讃岐宇多津5万石
理由:4,6(臆病)
処分:追放、後に斬首

羽柴四天王の一人。仙石秀久の後任として軍監となり、こっちは消極策を取る。
だが消極過ぎるあまり根白坂の戦いにおいて攻撃を受けている味方に援軍を出さず、見殺しにしかけている。
藤堂高虎らが手勢で奮戦してなんとか押し返し、黒田官兵衛、小早川隆景の知将コンビの奇襲によって攻撃に参加した島津軍はほぼ全滅に近い損害を出し、島津四兄弟は撤退。まさにこれ以上ないほどの追撃のチャンスである。
だが尾藤は総大将・豊臣秀長に深入りは無用と進言、島津軍壊滅のチャンスをみすみす逃してしまうはめに。
秀吉がこれらを問題視したため改易となった。
後に北条征伐の戦勝時に、秀吉の元へ剃髪した姿でやってきて「佐久間安政・勝之兄弟」の例を挙げながら*15弁明しつつ許しを請うものの、逆に秀吉の逆鱗に触れてその場で斬首された。
言葉より働きで示せということだろうが、二回怒らせたとは言え二度目は罪とまでは言えず、いきなり斬首するのか?といった所もある。

こうなった原因として説得に使った佐久間兄弟は、秀吉が深く惚れ込んでいたが斬首せざるを得なかった佐久間盛政*16の弟である。
そのため苦心してでも弟兄弟を寝返らせ召し抱えたと思われ、そこにこのような形で触れるというのは全力で地雷を踏み抜く行為と言える。
更に似たような立場には許された上記の仙石秀久と、九州征伐後に帰参を願い許されず切腹となった神子田正治*17がおり、その比較も考えれば苛烈な性格の秀吉が激怒することも理解できる。
弁解の際には状況や題材を選び相手の機嫌を取ることも重要なのだが、知宣は全てにおいて最悪を選んでしまったと言える。
斬首までされたのは本当に相手が悪かったとしか言えないが。


小笠原貞慶

領地:讃岐半国
理由:6
処分:所領全て没収

某歴史SLGシリーズで本体の家宝目当てに特に意味もなく処断されたり、モノだけ取られて追放されたり、そのついでに俸禄MAXにしておくことで爆弾扱いされることで有名なかわいそうな人。
武田信玄に本領である信濃を追われて以来、紆余曲折と様々な遍歴を経て秀吉の家臣になり*18、軍功をあげて讃岐半国を与えられる。
が、その直後の上記の尾藤知宣の件において彼を庇護していたことが発覚したというだけで家宝領地を全て没収されるという、とばっちりだが爆弾が爆発しリアルにかわいそうな目に遭っている。
秀吉としては明確に4にあたる行為だったのかもしれないし尾藤和宣があまりにも機嫌を損ね過ぎたというのもあるだろうが、裏切り者という訳ではないので全没収までしたのは理不尽に映る。
その後は子の秀政と共に再び家康の家臣になり、秀政に与えられた下総古河3万石に移った。
なおその秀政は家康の娘を娶り譜代格となったが、家督を譲った長男とともに大阪夏の陣の天王寺口の戦いで戦死してしまった*19


小田天庵

領地:常陸手子生城主
理由:2
処分:所領没収、後に結城秀康の客分となる

みんな大好き戦国の不死鳥・うじ太くん。
秀吉の小田原侵攻直前に、佐竹氏の占領下にあったかつての本拠・小田城奪回の兵をあげる。結果?いつもと一緒だよ!
いつもだったらこの後も懲りずに次の機会を狙うのだろうが、ボス猿関白秀吉の前に頼みの綱の北条氏は降伏。天庵もよりによって『豊臣氏に従属していた』佐竹氏を攻めたことを責められて所領没収の憂き目にあう。
後に娘が側室になっていた結城秀康の客分となり、越前で没した。


織田信雄

領地:尾張国清洲
理由:2(転封拒否?)
処分:所領及び官位没収の上流罪、後に大名復帰

織田信長の次男で、あの信長の息子でありながら無能ということで定評がある。
織田信孝の失脚を狙った秀吉により織田家当主になるも、既に名目上のもので秀吉が地位を簒奪する気は見え見え(何されるか知れたものではない)だったので当然後に敵対。
「小牧・長久手の戦い」を起こすも、織田家の武将は大半が秀吉に味方し、それなりに拮抗はするも同盟者である家康に黙って秀吉と講和した。
ここで講和したことと秀吉の官位が信雄を上回ったために、実質だけではなく名目上でも秀吉との主従関係が逆転することになる。

しかし名目上でもと書いたように小牧・長久手の戦いが始まる前から秀吉の勢力が大きいせいで自前の戦力に乏しかったため、
・同盟含めても戦力に大差があり、戦争継続しても最終的に勝利できる可能性はかなり低かった
・内乱の形が続いているためあまりもたつくと織田家や同盟の徳川自体も危険だった
・そもそも仮に秀吉を倒せたとしても体制を整えるのに時間がかかる状況下で、今度は勝利の立役者として織田家でも大きな権力を握ることになるだろう家康がそのまま脅威になる。
・同盟はなるべく尊重すべきだが、ここで家康が「小牧・長久手の戦い」で勝利したのでその勢いで攻め立てようとか言い出したら厄介だったので黙って講和は仕方ない面があるし、信雄視点では結果オーライになった。
・当然家康に何の相談もせずに講和したのはよくないことだが、戦略的に見れば依然秀吉が優勢な状況で、家康も講和のタイミングは探っていたので「こちらが勝っているのに講和してしまった」というのは徳川史観的な見方。
・相手は戦に長けた秀吉である。そんな中でも織田家重臣で戦に長けていた池田恒興や森長可を討ち取っている
というほとんど詰んでいる情勢と成果を考えると、「小牧・長久手の戦い」で勝利しつつその勢いで講和出来たことは無能どころかむしろ上手く立ち回れたとも言える
少なくとも秀吉視点では大義名分を得ながら信雄を滅ぼしたいのにそれが難しくなった上で、結果的に家康にもかなり配慮しなければいけなくなり(信雄との講和の後も徳川征伐を狙っていたが天正大地震で中止)、凄い嫌なムーブだった。

その後は豊臣政権の下、武功を上げたり交渉を行ったりなどした。*20
そして小田原征伐の後、徳川家康の関東移封が決まったことで信雄も秀吉から尾張の代わりに家康の領土である隣国、三河・遠江への転封を指示されるが信雄はなんとこれを拒否。怒った秀吉により改易処分となってしまった。
尾張に拘った(と見るのが有力)信雄が改易されてしまったことはその土地と蜜な関係であるという武士の仕組みが変わってしまったと言えなくもないかもしれない。

だが文禄の役の頃に、家康の執り成しで大和国にて1万8千石をもらい小大名に復帰する。*21
しかし信雄なので大名に戻れて安心という訳もなく…


大友義統

領地:豊後国41万石
理由:4,6(敵前逃亡)
処分:隠居、後に関ヶ原で敵対したため幽閉

源氏に繋がるとも言われた名家*22である大友家の当主。
……なのだが、自他共に認めるクズ。上述のように戸次川の戦いの敗因にもなっているし。
文禄の役で小西行長隊が明軍と交戦し救援要請を受けたが、家臣から戦死したという誤報を受け確認もせず城を放棄し勝手に撤退。
行長は命からがら撤退できたものの、義統は報告を受けた秀吉に激怒され殺されそうになる。苦戦している味方を見捨てて逃げた形になっているので当然である。
しかし名家であるため死一等を減ぜられ改易とされた。

その後の関ヶ原では毛利に乗せられ、元家臣の諫めも聞かず豊後で西軍として挙兵するが、クロカンに勝てる訳もなくあえなく鎮圧された。
というのも黒田家は現当主長政とその主力は出張っていたもののクロカンを長く支えてきた家臣たちは九州に残っていたうえに蓄えて財を使って兵を集めていた。
大友家自体がキリスト教の問題で家庭崩壊してたりするのもあるが、どうしてこうなったのか…
ちなみにその元家臣は敵軍に突撃、旧知の友人に手柄を挙げさせるために自害した。義統?降伏して生き延びました。
しかも息子の義乗は東軍として参加し、口約束とはいえ家康から豊後一国を保証されていたため本当に無駄な行動だった。もちろん反故にされている。
義乗は許され旗本となり、何代か後には高家として大友家は再興した。


秀次事件

理由:6(表向きは2)

豊臣秀吉が甥の秀次を「謀反の疑いあり」として、出家させた後に切腹させた豊臣家のお家騒動で秀次関係者の大勢が改易となった。
表向き両者の関係が良好に見えていたこと・被害を被った者が多い上に刑罰もチグハグだったりする上に、理由も実はあまり公にしていないらしく衝撃的な出来事だったことは疑いようがない。
表向きの理由は矛盾や不審な点が多くて疑わしいため、当時まだ赤子だった実子の秀頼に地位を継がせる為の明け透けな行動が目立っていたことから、それが主な原因とみられているが諸説ある*23
この中で最上義光、細川忠興、伊達政宗などは秀次と懇意であったが徳川家康のとりなしで改易は逃れており*24、後の関ヶ原で彼らが東軍に与する一因となった。
豊臣恩顧の武将が激減し、逆に徳川家康側の勢力が急激に増した最大の要因とも言える(他にも幾つかの要因や事件もあるが)。
更に、恐らく足軽出身(農民説は現在よく疑問視されている。但し生まれの身分は高くなかったとは思われる)で元々一族の勢力が小さい豊臣家が内ゲバを起こしてしまった為、信用できる身内が更に少なくなってしまったことも致命的であった。
秀吉の死後、過剰に信頼していたと言われるこの人の失脚なども痛く、結果として豊臣家を滅亡させる原因となってしまった。


宇都宮国綱

領地:下野国18万石
理由:3か4か5(諸説あり)
処分:所領没収後、宇喜多秀家に預けられ、その後徳川家康に仕官。

宇都宮氏は鎌倉時代より続く名門であったが、国綱が幼少で継いだせいか家臣が相次いで離反し戦も負け続き。
ついには北条氏に居城であった宇都宮城を追われ秀吉に縋るしかないという酷い有様であった。
しかし小田原征伐に参陣したことで下野18万石を安堵され、以降は豊臣姓を下賜されるなど秀吉の力で家中を統制していった…かに見えたが突如改易を言い渡された。
理由は諸説あるが、重臣の芳賀氏の反発を抑えきれずバックについていた浅野長政の不興を買い讒言されてしまった模様。

その後秀吉からは朝鮮で戦功を挙げれば再興を許すと言われて武功を挙げたが、当の秀吉が死んでしまったことで反故に。
関ヶ原の戦いでは家康の配下で東軍だったものの、弟二人が西軍だったためまたも再興はならなかった。
望みを絶たれた国綱は諸国を流浪し、浅草で失意の内に病死してしまった。

国綱の死後、嫡男の義綱が水戸藩に召し出されて、1000石扶持の家老として明治まで続いたのがわずかな救いだろうか。


関ヶ原の西軍

理由:1,2

言わずもがなだろう。数が非常に多いためよっぽどのことがなければ割愛する。
但し島津家のみ島津義弘らの決死の退却の成果もあってほぼ無傷であった*25。豊久は行方不明になったが。
主犯格の一つである石田家は当然改易だが三成の子は男女を問わず見逃されるなど割と寛大な処置。
なお、西軍所属の武将の多くが改易された最大の要因と言える裏切り組は元々東軍側に内応していて安堵されたり伝達ミスで改易されたりその後の活躍で大名に復帰したりと様々な末路を辿った。
最も有名な小早川は後述。


立花宗茂

領地:筑後国柳川13万2000石
理由:2
処分:所領没収後、浪人時代を経て大名に復帰+旧領に返り咲く

関ヶ原の戦いで西軍についた為、改易となる。
しかし軍才や人望を惜しまれ、改易にした家康本人に召し抱えられ大名に復帰するという措置を受けた*26
その後坂崎直盛の事件が起きた時には、直接対処にあたった柳生宗矩に計謀を与えたとされる。
そうした功績もあり(柳川を治めていた田中家が無嗣断絶したというのもあるが)筑後柳川10万9200石を与えられ旧領に返り咲きを果たした。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦しながらも元の領地に戻れたのは宗茂のみである。
その後も秀忠・家光に仕え、島原の乱では夜襲を予告して命中させたり、兵糧攻めを進言したり、原城攻城時には一番乗りを果たしたりしている。「武士たちが緊張感を持つように戦が続けばいい(意訳)」と物騒な発言をしたりした。

高橋直次

領地:筑後国三池郡江浦1万8000石
理由:2
処分:所領没収後、常陸国筑波郡柿岡5,000石の旗本になる。子供の代に大名に復帰し三池藩藩主
前述の宗茂が立花氏の養子となったことを受けて高橋家の家督を継いだ宗茂の弟。
朝鮮出兵の際には兄を体を張って守り抜き、宗茂からは「世に主膳ほど大剛の者なし」とまで言われた。こちらも兄同様の理由で改易されたが、旗本として復帰し、息子の代に5000石加増されて大名の地位を取り戻している。


丹羽長重

領地:加賀国小松12万石
理由:2
処分:所領没収。後に大名に復帰し、最後は陸奥白河藩10万700石

織田家の重臣中の重臣丹羽長秀の息子。
父の代には越前、西加賀123万石の領地を持っていたものの長重の代になってからは秀吉の弱体化政策により大きく領地を削減される。
関ヶ原の戦いでは東軍にして五大老の前田利長の侵攻を圧倒的戦力差をものともせずに押し返す活躍を見せるも、関ヶ原本戦での西軍敗北により降伏し改易に遭う。
その後は常陸で小大名になり、大坂の陣で活躍したり徳川秀忠の御伽衆になるなどして徐々に出世し続け最後は白河の地にて10万石を超える大名となった。
西軍に属し改易された大名で6桁以上の石高を持つ大名に復帰したのは立花宗茂と彼のみ。

宮部長房

領地:伯耆鳥取5万石
理由:2
処分:所領没収後、田中吉政→南部利直に預けられる

浅井家から秀吉に仕え中国攻めや小田原攻めで活躍し、大きく信任された宮部継潤の息子。
関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋や朽木元綱のような西軍から東軍に寝返った武将は有名だが、長房の場合は舅の池田秀氏に唆され東軍から西軍に寝返ったのが運のつき(規模が大きすぎてどちらが勝つか全く読めなかったこともあって判断はおかしくはない)。
西軍に合流しようと熱田から桑名へ向かおうとしたが、熱田の渡しは東軍の見張りがいて昼間には渡れないためこっそり船を一艘購入し夜に渡ろうとする。
船が小さいため夜に部下を置いてわずかな側近とともに港に向かったのだが、引き渡すはずの船が見当たらず一晩探し回っても結局見つからない。
仕方なく自陣に帰るとなんと自分の兵が一人もいなかった。
夜中に長房がいなくなったことに気づいた宮部兵は途方に暮れ、元々父の部下で縁のあった東軍の田中吉政の元についてしまったのである。
たった一晩で兵を失った長房は陣中で茫然としていたところをこのことに気付いた東軍に捕縛され、岡崎城に幽閉されてしまった。(但しこの後田中吉政と共に佐和山城を攻めた記録がある)
さらに長房が留守の際に所領である鳥取は亀井茲矩と戦後東軍に寝返ろうとした斎村政広によって焼き払われている、ふんだりけったり。

戦後この関ヶ原での長房の行動が問題視され死罪の可能性もあったが、長房の父に仕えていた恩から田中吉政が助命嘆願を行ってくれたため側近だけが切腹となり、長房は吉政に預けられた後盛岡藩の南部利直に預けられた。
だが吉政の取り成しで助命されたにも拘らず、長房は「自分の寝返りは田中吉政に騙されたからだ!」という書状を出すという恩を仇で返すゲスな行為を行っている。
しかし吉政をはじめとした当時の証人たちはすでに没していたため、相手にされずにそのまま生涯を終えた。

なお信長の野望・革新において長房の義理はなんと1という最低の値であり、その上で義理1なのは松永久秀、斎藤道三、藤堂高虎と錚々たるメンツばかり*27であり、ギリワン四天王の中で圧倒的な低能力であることがネタにされている。
東軍から西軍へ大チョンボな寝返りをするわ、今度は佐和山城を攻めるわ、自分の助命を嘆願した吉政を陥れるなどがギリワン扱いされた原因だろう。


斎村政広

領地:但馬竹田2万2000石
理由:2
処分:所領没収の上、政広は切腹

西軍から東軍に寝返っても、予め内通を約束しておくなど口添えなどがしっかりしていなければ許されない。信用できないからね。
ただ彼の場合はそうした事情もあるが、身勝手に裏切られたと言うのが正しいだろう。
鎌倉時代より続く赤松氏の中でも、宗家を凌ぐ石高を持っていた龍野赤松氏の政広は、本戦には参加していないものの弟共々西軍に味方していた。
諸将と共に細川幽斎の篭る田辺城を攻めた政広だったが、降しこそしたものの本戦には間に合わず西軍の敗報を聞き本領へと帰った。

その頃亀井茲矩*28が鳥取城を攻めていたのだが、なかなか陥落させられないため領地が近かった政広に「手柄にして寝返り、しよう!」と提案してきた。
生き残り戦略のためにその気になった政広は、援軍として茲矩に加勢し、その指揮の下で上述のように焼き討ちして落とした。
これで口添えもしてくれるしお家安泰だろうと思って城で沙汰を待っていた政広であったが、返ってきたのは所領没収と切腹という寝返り組の中で唯一かつあまりにも重い処分であった。
焼き討ちの様子があまりにも酷かったのか報告の際に咎められた茲矩は、政広がその場にいないことや弱い立場をいいことに全責任を押し付けたのだ。
宗家を継いでいた則秀も西軍についていたため自害し、弟の祐高は改易され浪人となったあと大坂の陣で大阪方につきやはり自害。
子孫は帰農し、赤松氏は庶流の有馬氏を除き大名の座を失うこととなった。
亀井茲矩の処罰?2万4,200石加増で3万8,000石になったうえ、明治維新まで大名家として続きました。


余談だが、政広の龍野赤松氏は南北朝時代の宗家の先祖からの分家であり、その戒名・竜徳寺延齢性松にあやかり戒名において「性」が通字になっていた。
これにより性具だの性通だの死んだのに死にたくなるような戒名が出来ていたが、これを嫌がったのか政広の戒名は乗林院殿可翁松雲大居士である。
性雲も性松もいたから避けたのだろうか?


織田信雄(二度目)・秀雄親子

領地:大和国に1万8000石・越前国大野郡5万石
理由:2
処分:所領没収、後に信雄のみ大名復帰

家康のおかげで大名に復帰できた信雄だったが、自身は関ヶ原の際に中立だったものの息子の秀雄が西軍に与したことで改易された。
一説には信雄は家康に情報を流しつつ内心東軍寄りだった秀雄を西軍にそそのかしたらしいが、その説でもトータルで見て背信行為であることに変わりはない。

その後信雄は豊臣家に出仕。
大坂の陣の際には淀殿と同じ織田家ということで織田家当主となるはずだった信雄の兄・信忠を見捨てた叔父の有楽斎と共に豊臣方から誘われ、徳川の世での無能扱いとは裏腹にその家格やこの頃には貴重な戦国を知る人間で複数の有力武将を打ち取った経験すらあるのでまさかの総大将信雄という噂まであった…が、わざわざそこまで重いリスクを犯すほどの義理が家を乗っ取った豊臣家にあるわけないからか戦役直前に揃って徳川方となる。
どうやら大阪城内でも徳川方に情報を流していたらしく、その働きあってか戦後は大和国宇陀、上野国甘楽等を合わせた計5万石の大名に復帰した。
精神面はもとより経歴を考えると豊臣家相手にはいつ何をされてもおかしくなかったため、むしろここも上手く立ち回れたのかもしれない。
そんな訳で激動の人生だったが、戦国の世を大名として生き残ることには成功した。また同じく大名として残った有楽斎の家*29が断絶の危機になった時には、信雄の子孫が養子入りしたことで改易の危機を免れており、結果として明治維新まで生き残った織田氏の大名家は全て信雄の系統で残ることになった。
一方の秀雄はどこにも出仕することなく閉居し、信雄に先んじて死去している。

木下勝俊

領地:若狭後瀬山8万1500石
理由:4,6(敵前逃亡)
処分:所領没収されるが、後に父の遺領を相続し大名に復帰

勝者である東軍にも改易となった者がいる。
秀吉の正室・高台院(北政所・ねね)の甥であり家康の命で伏見城の守りに当たっていたが、西軍に異母弟の小早川秀秋がいたことから微妙な立場になってしまう。
守将である鳥居元忠はそんな厄介な奴と共に戦えないと考え、「伏見城から出ていけ、自分から出ないならこっちからぶっ殺してやる!」と到底味方とは思えぬ脅迫を受けて伏見城から退去、叔母を頼って京へ向かった。
そして脅されて退去したにもかかわらず、戦後は敵前逃亡をしたと咎められ所領を没収。
更にこの時嫁からは三行半を突きつけられ、少し前に生まれた唯一の男児も連座を避けるため死んだことにされて匿われ別姓を名乗ることとなっている。
追い出した理由は分かるが勝俊視点で考えると理不尽もいいところである。
ちなみに追い出した鳥居元忠は伏見城の戦いで戦死しており、鳥居家がたびたび父祖の勲功で救われることとなっている。
この数年後に備中足守藩2万5000石の大名である父の高定が死去し、高台院の働きかけもあってその遺領を弟の利房と半分に分け合うということで大名に戻れる運びになったのだが…


これ以降は江戸時代になるため、藩という括りになる。

小早川秀詮

領地:備前国岡山藩55万石
理由:1(無嗣廃絶)
処分:所領没収

江戸時代の改易第一号。いきなりのビッグネーム。
羽柴秀俊と名乗っていた12歳の時から酒宴酒宴アンド酒宴、小早川姓になってもやめられず関ヶ原の辺りで十代にして肝硬変と思しき症状が出ていた。
末期には酒乱の気もあり家臣らも見限っていく始末、結局子を為せないまま21歳で死亡した。
あちこちから借金もしていたので、死ななくても間違いなく改易されていただろう。
だが幕府に憚ってか余裕がなかったのか、毛利氏族は沢山いたのに江戸時代に小早川家が復興されることはなかった。
何故か明治になって適当に復興されたらしい。適当に。


武田信吉

領地:常陸国水戸藩25万石
理由:1(無嗣廃絶)
処分:所領没収(後に異母弟徳川頼宣に与えられる)

徳川家康の五男。
甲州征伐により武田宗家が滅亡後、家康は甲斐支配の正当化のために降将である穴山信君*30と武田信玄の娘である見性院の息子である穴山勝千代を武田信治と改名させたうえで武田家を相続させていたが、若死して断絶した事により別の者での武田家の再興を考えた。
そこで同じ武田家の家臣の秋山氏の娘*31が家康の側室となり信吉を産んだ事から武田家を継ぐ事になった*32。ちなみに信吉の母は早くに亡くなり、その後の養育にあたったのは先述の見性院だった。
その後関ヶ原の戦いで西軍に付いた疑惑を持たれて秋田に転封となった佐竹氏に替わって所領の水戸を与えられたが、生来病弱な体質で跡継ぎに恵まれないまま1603年に21歳で亡くなってしまった。
旧武田遺臣を付けてもらったりして武田家の再興は達成していたのだが…
その後水戸の所領は異母弟に当たる徳川頼房が引き継ぎ、頼房の同母弟の徳川頼房に与えられ幕末まで御三家の1つ、水戸藩として続く事になる。
武田家も信玄の次男である海野信親*33の息子信道によって継がれ、その孫信興が高家旗本として存続していく。


松平忠吉

領地:尾張清洲藩52万石
理由:1(無嗣廃絶)
処分:所領没収(後に異母弟徳川義直に与えられる)

徳川家康の四男。
徳川秀忠の同母弟に当たる。
生まれてすぐに親戚筋に当たる東条松平家の養子となる。
その後関ヶ原の戦いでは舅に当たる井伊直政に付き従い初陣を飾るが、運悪く島津義弘らの決死の退却に遭遇し負傷してしまう。
その結果、福島正則が治めていた尾張・清州52万石を与えられるが戦での負傷から病気がちになり、異母弟の信吉、舅の井伊直政が亡くなってから4年後の1607年に28歳で死去した。
跡継ぎが早世した子しかいなかった為、所領は異母弟である徳川義直に与えられ幕末で続く御三家の1つ尾張藩として続く事になる。
ただし東条松平家は再興されなかった。なんで……


天野康景

領地:駿河興国寺藩1万石
理由:3,5(殺害人引渡の拒否、出奔)
処分:所領没収

幼少期から家康に仕えた譜代家臣で、三河三奉行とも呼ばれる名奉行の一角。
領内で蓄えていた竹木を盗んだとして、家臣が天領の農民を殺傷。*34
天領の代官が殺害の下手人の引き渡しを要求し、更に難を逃れた農民が徳川家康に直訴したため問題化した。
家康は幼少期から知っている康景について「康景は根拠の無いことを行う者ではないし、直訴している方が嘘をついているのでは」として処分を保留。
家康の仰せで本多正純が康景の説得に訪れるが、「相手は地方民とは言え公儀の民であり、そちらの家臣は私兵である。どんなに自分の義を立てようにも、どうして公儀の権威を損ねるようなやり方をするのか」という家康・康景双方の思惑と真逆の言葉をかけられ康景は激怒。
「責任があるとすれば、警備の強化を指示した自分にある」「正しいことを曲げて間違ったことに従うのは自分の心がけに相反する」として、息子の康宗ともども城地を放棄して出奔したため改易となった。
その後息子は許されて、家は旗本として存続した。


津田信成、稲葉通重ら複数人

領地:山城御牧藩1万3000石、美濃清水藩1万2000石
理由:4(乱暴狼藉)
処分:所領没収、流罪

その他8人と共に京の祇園の辺りで、豪商(後藤家・茶屋家)の女房ら女性数名を無理やり酒屋に連れ込んで酒を飲ませたり、その従者を木に縛り付けて「もし声を出せば斬り捨てる」などと脅すなどといった乱行を行った。
酒屋の者により家康にそのことが訴えられ、改易となった。


筒井定次

領地:伊賀上野藩20万石
理由:5(実際は6)
処分:所領没収、身柄は鳥居忠政へお預け、後に切腹

かのボンバーマン松永久秀と大和国で死闘を繰り広げた筒井順慶の養子。
順慶の死後、秀吉によって伊賀へ転封され、関ヶ原の戦いでも東軍に就いたことで、所領安堵の沙汰を得ていた。
しかし定次が家督を相続してから、家臣団の対立が絶えず、島左近や松倉重政などの功臣が出奔する羽目になっている。ちなみに松倉重政の子は…(下記)
そして、彼らを事実上追放し筆頭家老となった中坊秀祐が、定次の悪政を幕府に訴え出たことにより、改易処分となった。
しかしこれには裏があり、対豊臣戦を想定した時に要地となる伊賀に外様大名がいることを警戒した幕府が、中坊を引き込んで定次を陥れたのが真相とされている。現に中坊はこの後、3,500石の大身旗本となり、さらに定次の後に伊賀を領有したのは、外様でありながら譜代並みの扱いを受けていた藤堂高虎であったことから信憑性は高いとされている。
改易された定次は陸奥へ流され、さらに大坂冬の陣後に豊臣側への内通を理由に、嫡男の順定共々切腹となってしまった。一方の中坊秀祐も旗本への取り立て半年後に死亡しているが、筒井旧臣による暗殺との説がある。


前田茂勝

領地:丹波八上藩5万石
理由:5(表向きは発狂)
処分:所領没収、身柄は堀尾家に預けられる

織田家家臣からのし上がり加賀100万石を収めるようになった加賀前田家ではなく、五奉行前田玄以の前田家。
玄以は西軍に与していたが、公家に顔の効く貴重な人材であったため所領を安堵されている。
だが後を継いだ息子茂勝はキリシタン*35の上、徒党を組んで乱暴狼藉を働く傾奇者。宿屋の主とケンカした奴をしょっ引いたら茂勝だったこともあったとか。
ある日ノリで複数の重臣*36をぶっ殺して「連座*37で」とか結構ふざけた理由をつけたのが問題視され改易された。
表向きの理由こそ発狂だが、まともではなかったのは間違いないだろう。
改易後はまともなキリシタンとして暮らしたらしい。いったいどういうことなの?


木下勝俊(二度目)

領地:備中足守藩2万5000石
理由:2,6(弟の利房と半々で分け合うはずの遺領を独占する幕命違反)
処分:所領没収、後年に利房が大名に復帰+旧領に返り咲く

高台院の働きかけで2万5000石の遺領を弟の利房と分け合って大名に戻るはずだった勝俊だったが、高台院は勝俊と仲が良かったので幕命に背いて遺領を全て勝俊に渡すということをやらかした。
梯子を外された利房は家康に泣きつくしかなく争議となったが折り合いがつかず、翌年に家康の鶴の一言で所領は全て没収という処分となってしまった。二者全領損である。
後に利房は大坂冬の陣に参戦。またもトラブルを起こしかねない高台院の監視役を果たしたことを功績として認められ、当時天領となっていた足守藩2万5000石をそのまま与えられた。
結果的に利房が遺領を全て継いだ一方、勝俊は改易後は主に長嘯子と名乗り高台寺の近くに隠居して歌人として名を馳せた。


松平忠頼、水野忠胤

領地:遠江浜松藩5万石、三河水野藩1万石
理由:5(殺害事件、連座)
処分:松平は末期養子を認めず一旦所領没収→後年に嫡男忠重が大名として返り咲く、水野は切腹

忠頼は桜井松平家当主で、母親が家康の異父妹に当たる。忠胤は水野勝成の弟。
忠胤が主催した宴席に忠頼が参加した際、忠胤の家臣が囲碁(一説には武道とも)の勝敗を巡って刃傷沙汰を起こす*38。忠頼がその仲裁に入った際、逆上した一方の家臣に殺害されてしまった
忠胤は宴席の主催者であったため連座で切腹となった。
忠頼嫡男の忠重は当時9歳であり、また殺害されるに至った経緯から継承を認められず、一旦改易となった。但し翌年に8000石を与えられ、その後上総佐貫藩1万5000石→駿河田中藩2万5000石→遠江掛川藩4万石として大名に返り咲いている。


有馬晴信

領地:肥前日野江藩4万石
理由:3(長崎奉行の殺害企図)
処分:晴信は切腹を拒否し斬首、嫡男直純が家督を継ぎ所領も安堵

有名な岡本大八事件が理由。
事件をざっくり説明すると、有馬晴信と長崎奉行の長谷川藤広の不和を利用して本多正純の家臣・岡本大八が詐欺を働き露見したというものである。
まあ殺害企図と言っても「今度会ったらあいつ沈めてやる!」って口走っていた程度であるとされる。
が、
・岡本が偽の家康の朱印状を用意
・岡本が詐取した額が6000両という大金
・晴信が旧領回復を目論んだのが騙された原因
・有馬、岡本の両氏がキリシタンで、事件の背景にポルトガル貿易や修道会の思惑も絡む
となると流石に状況が悪すぎた。
事件後幕府はキリシタン排斥や鎖国へ向かっていくこととなる。
ちなみに家康の偽朱印状まで持ち出した岡本は切腹すら許されず、火あぶりの刑で処刑された。

なお本来は切腹だったのだが、キリシタンであった晴信はそれを拒否(キリスト教では自殺は罪とされるため)。よって大名としては珍しく斬首となった。

また、子の直純は徳川家康の側近を務めていたこともあったのか、珍しく減封も転封もされずに後を継ぎ、有馬氏は明治維新まで続いている。
でもって直純の後見になったのはよりによって長谷川藤広。彼はポルトガル貿易周りで何度かやらかし、それがこの事件にも繋がっているのだが結局お咎めなしであった…*39


大久保長安事件

理由:3,6

家康の下で都市や金銀山の開発で辣腕を振るっていた大久保長安が私腹を肥やしていたことが発覚したとされる事件で彼の息子7人である藤十郎、藤二郎、青山成国、雲十郎、藤五郎、権六郎、藤七郎が切腹させられた。この他にも6名+下記2名の大名が改易される。


富田信高、高橋元種

領地:伊予宇和島藩12万石、日向延岡藩5万石
理由:3,6(罪人を匿った&大久保長安事件の連座)
処分:所領没収され、身柄はそれぞれ鳥居忠政と立花宗茂に預けられる

宇喜多忠家の娘をそれぞれ後妻、正室に持ったことで義兄弟の関係にあった2人。
夫人の甥が義弟の家臣を殺害する事件を起こし、義父である忠家から信高の下で匿ってくれとの依頼を受け引き取ったのだが、問題なのはその義弟というのがかの坂崎直盛だったということ。
直盛が直接信高の城*40に乗り込んで捜そうとする事件も起きたが、信高の家臣に止められて激怒し、人のメンツをつぶした信高をぶっ殺そうとまでした。匿ってるという証拠がなかったので思いとどまったが。
だが当の甥が元種の元に身を寄せた後にトラブルを起こし、関係者が直盛にタレ込みを入れてしまい発覚。
狂喜した直盛が直接幕府に訴え出て、罪人を匿っていた2人はまとめて改易。信高の実弟佐野信吉*41も大久保長安への連座で処分されているので、兄弟みんなで踏んだり蹴ったり。すべてが終わるまでに8年かかったが…
ちなみに事の発端となった忠家はすでに死んでた。
一方その訴訟した当人はというと…(4つ下)


大坂の陣

理由:1,2

豊臣秀頼の他、古田織部などが密通を疑われるなどして改易されている。
上述の上総小河藩の藩主小笠原秀政と長男忠脩も壮絶な討死を遂げた。
また、上総大多喜藩2代目藩主の本多忠朝も討死を遂げた為、後述する忠朝の嫡男である本多政勝の陰謀やその子政利の改易の遠因にもなった。


松平忠輝

領地:越後高田藩75万石
理由:4(大坂夏の陣での遅参),5(直参旗本殺害、参内の懈怠),6
処分:所領没収の上流罪、後に身柄は金森重頼→諏訪頼水に預けられる

徳川家康の六男。容貌が醜いという理由で家康には嫌われていた。あるいは切腹させられた(あるいはさせた)家康長男の信康に似ていたともされる。家康臨終の際にも面会を許されなかった。
家康死去の3か月後に改易。理由は大坂夏の陣での遅参があったこと、進軍中に忠輝の軍列を追い越した直参旗本を殺害したこと*42、大坂の陣の戦勝を朝廷に参内して奏上する時に、病を理由に欠席したが、実際は川で舟遊びをしていたこと、などとされている。
話は分かるがどうにもどれも明確な理由とは言い難かったり真偽が疑わしいため、他にも、正室が伊達政宗の娘でキリシタンだったことや、大久保長安との関係などから色々と警戒されたためとする見解もある。
いずれにせよ確たる理由があるにせよなきにせよ家康にかなり嫌われていたことは疑いようが無い。
改易後、伊勢→飛騨→信濃と転々とさせられ、67年後の1683年に92歳という高齢で死去。なお、徳川宗家からの赦免は約300年後の1984年である。
ちなみに息子は配流に同行することが許されず阿部重次に預けられたが、冷遇されたため火事を起こして18歳という若齢で焼身自殺した。

隆慶一郎の小説、そしてそれを原作にした横山光輝の漫画になっているので知名度は高い方かもしれない。


藤田信吉

領地:下野西方藩1万5000石
理由:1または1、4、6(諸説あり)
処分:所領没収

滝川一益に領地を追われ身一つで逃げ込んだ上杉家で功を立て続け重臣となれたが、直江兼続の讒言でやむなく徳川家に出奔し旧領に返り咲けたという凄い経歴を持つ武将。
しかしその改易理由と最期は諸説あり、はっきりしていない。

一つは大坂の陣での失態。
榊原康勝の軍監として出陣したのだが、「勝手な戦闘は慎むように」という幕府の命を守ったため八尾・若江の戦いで交戦していた井伊直孝軍と藤堂高虎軍を見殺しにしかけてしまう。また高虎が軍監に足を引っ張られてる…
そのため榊原康勝らはしばらくの傍観の後に加勢、徳川方が勝ったものの井伊・藤堂両軍は大きな損害を出してしまう。
この不備があった上に更に戦功に対する不満もつい口に出してしまったらしく咎められて改易され、後に自害したという説。
もう一つはここでは改易されてはおらず、その後は息子がいないので養子を取ろうとしたものの湯治のため諏訪で療養、しかし悪化したため更に良い湯で湯治を行うため上洛しようとして道中で死去したという説である。

ちなみにこの「勝手な戦闘は慎むように」という命令だが、松平忠直の用兵の失敗や別の場所での戦闘でも同じような戦闘の傍観があって軍監が改易されたりといったことを招いている。


坂崎直盛

領地:石見津和野藩4万石
理由:1(武装蜂起)
処分:当人死亡、所領没収

大坂の陣後に千姫の処遇を巡り幕府と対立。色々あって屋敷を囲まれて自殺した。
人を呪わば穴二つというが、呪う性格自体に問題があるからそう言われるのかもしれない。


大須賀忠次

領地:遠江横須賀藩6万石
理由:その他(榊原家の家督継承のため)
処分:横須賀藩は一時的に廃藩。忠次は榊原家の家督継承

忠次の母方の祖父である大須賀康高は家康の元で新参でありながら徳川四天王に劣らないほどの功績をあげ、徳川二十将の1人にも数えられるほどの武将であった。
元々大須賀家は康高の娘婿が徳川四天王の一人である榊原康政であったり、子供がいなかった康高の養子として康政の長男である忠政が大須賀家を継ぐことになるなど榊原家とはつながりの深い家であった。
大坂の陣の後に康政の息子である康勝が子供がいないまま早逝してしまったため榊原家は無嗣断絶の危機に陥る。*43
家康は徳川四天王である功臣の家が断絶することを惜しみ、榊原家の縁戚に当たる大須賀家の当主である忠次(上記の忠政の息子で血縁上では榊原康政の孫にあたる)に榊原家の継承を命じた。
しかし大須賀家も忠次以外に家督を相続できる者がいなかったためにやむを得ず横須賀藩は廃藩、大須賀家は断絶することとなった。
横須賀藩の地には後に能見松平家が入り復帰、幾度か藩主家を変えながらも明治時代まで存続した。


福島正則

領地:安芸広島藩49万8000石
理由:3(城を無断で修理する幕法違反)
処分:高井野藩4万5000石へ減転封、翌年2万5000石を返上

修築は本多正純に届けていたというが、その頃正純が干されかけていたのもあってか受理されていなかったらしい。
修築部分の破却を求められていたが不十分だった上に、色々やらかして改易までされてしまった。
福島家は戦国男塾だったので引き渡しの際に戦になるのではないかと思われていたが、滞りなく終わったという。
ちなみに転封後に返上したのは、正則が隠居し息子に家督を譲ったのにその息子が亡くなってしまった為。


最上家信

領地:出羽山形藩57万石
理由:5(御家騒動)
処分:近江大森藩1万石に減転封され、次代で5000石に削減

祖父は最上義光だが、その祖父の晩年からの後継者騒動で家中が分裂。
後を継いだ三男の家親が、異母弟の義親を粛清したのを始め中央集権化を進めていたが、中途で急死。
その跡を継いだのが家親の長男である家信だったが、義光時代からの功臣と義光の息子たちなどの一門による対立、さらに若年の家信に対する不安と不満によって、ついには「佞臣を侍らす家信を支えることはできない」と訴えるものまで出る始末(最上騒動)。
幕府も仲裁に乗り出したが、聞く耳持たない家臣団についにキレた幕府は改易処分を下した。
江戸時代初期によくあった有名武将の次代がクセの強い家中をまとめられなかった事例。

家信は壮年になれば6万石に加増するという話であったが、そこまで長くは生きられず没した。さらに嫡男の義智が2歳だったことを理由に、5000石を没収され大名ですらなくなってしまった。
これをもって室町幕府の名門である斯波氏は、大名として完全に潰えてしまった。
因みに山形城受け取りの使者となったのが…(後述)。


本多正純

領地:下野宇都宮藩15万5000石
理由:3(謀反、但し証拠はない)
処分:所領没収の上流罪

サドの神こと本多正信の不肖の子。
正信は自分のようなポジションの人間が出世すればどうなるかを察しており、どんな加増も固辞して清廉潔白を貫いたが、正純はそうではなく家康死去の後「遺命で」10万石もの加増を受けるなど欲目があった。一応本人は固辞したらしいが…
加えて正純は家康側近から幕府の要職にスライドしてきたため、幕府の中心である秀忠やその側近から疎まれていた。
そうした部分からヘイトが積み重なった結果、謀反の疑いがあると罪状が突き付けられた(宇都宮城釣天井事件)。ちなみに罪状を突きつけられたのは、最上氏改易のため赴いた山形城。
先代からの忠勤に免じて以前の5万5000石で減転封となりかけていたが、身に覚えがないと固辞したため*44、怒った秀忠により更に重い処分が下されることとなってしまった。


松平忠直

領地:越前福井藩67万石
理由:2,3,5(数々の乱行)
処分:所領没収の上流罪、身柄は竹中重義・日根野吉明に預けられる。嫡男光長が後を継ぎ弟忠昌と所領を交換し実質減転封。

結城秀康の嫡男。俗説では秀康は家康から嫌われていたとか言われているが、忠直は逆に秀忠のお気に入りとなっていた。
若年ながら家を継ぐと秀忠の娘を娶ることになり、これでお家は安泰…のはずだった。
だがその翌年領民の諍いが重臣同士の武力衝突に発展するという越前騒動が起き、一転窮地に陥る。
しかし秀忠の娘婿であり大阪方の不穏な動きを掴んでいたためか、忠直自身は不問とされた。ゆ、許された…

そして大坂の陣が勃発。忠直は用兵の失敗こそあったものの、真田信繁を討ち取り大坂城に攻め入るなどなかなかの戦功を挙げた。
その恩賞は天下三肩衝の一つ・初花肩衝と茶壷。領地こそ与えられなかったものの、金時殿が目を覚ますほどの素晴らしいものと言える。
だが忠直はこれが不満だったのか元からそうだったのか、暴君へと変貌していく。
初花の茶壷を打ち砕いたり、酒にふけって秀忠の娘である嫁を殺害しようとしたり、家臣を惨殺したり、参勤交代に遅参したり無断帰国したりと問題行動が目立つようになっていった。
こうなっては秀忠も無視できず改易を言い渡され、母親の説得でなんとか受け容れた。ゆ、許されなかった…
(但し乱行の類は確度の低い史料由来だったり詳細が曖昧なものもあるため、暴君というほどではなかった可能性も結構ある。とはいえ秀忠が改易を命じる時に武力で脅している事から反抗的と思われていたことは確かだろう。)
だがやはり処分は甘く、福井藩は50万石に減らされた上で実弟の忠昌が継ぎ、嫡男光長は忠昌が治めていた越後高田藩25万石に移ることとなった。
なお初花肩衝は光長に受け継がれて、茶壷は後に修復されて、どちらも現存している。


福島正則(二度目)

領地:信濃高井野藩2万石
理由:3(正則死後、検死役が到着する前に火葬された)
処分:所領没収

家臣が勝手に遺体を焼いてしまった。
生きてる間に改易されたのに死んでも改易されてしまう市松であった。
二度改易された例としては旗本の酒井忠重*45などがあるが、江戸時代に二度も改易されたのは市松だけである。


青山忠俊

領地:上総大多喜藩2万石&クソデカ藩邸
理由:6(諌言が鬱陶しがられる)
処分:所領没収の上蟄居

老中であり徳川家光の指導役だったのだが、どこでもそういう立場の者は疎まれるもの。
伊達の爺さん大好きなフリーダム将軍からは特に煙たがられていたようだ。
言われ続けて遂に堪忍袋の緒が切れたのか解任された上に5万5000石から2万石に減転封され、更に改易にまでされてしまった。

当然藩邸も没収となるのだが、これの土地面積が現代で言うと最低でも青山霊園と赤坂御用地を含む一帯辺り*46の数十万坪位はあったようでクソデカい。
現在は明治神宮となっている彦根藩邸が18万坪なのでそれより余裕でデカい。
これは父青山忠成が家康から「ここからスタートして馬で一回りした分を屋敷の土地にしてやるぞ」と言われ、文字通り馬が死ぬまで駆け回って貰ったとされる。
この区画は他の大名に切り売りされ多数の武家屋敷が立ち並んだ。

後に子の宗俊が大名に復帰した際にクソデカ藩邸の土地の一部が返され、その中でも一番大きい下屋敷が現在の青山霊園になっている。
それでも10万坪以上と御三家クラスの面積はあるので数万石の小大名が持つにはかなりでかい。
江戸中期~末期にどこの藩も貧乏になるので、結果的にはある意味ファインプレーになった


別所吉治

領地:但馬八木藩2万石
理由:3
処分:所領没収

秀吉が織田家の中国方面軍司令官だったころに反旗を翻した播磨の国人・別所長治の従兄弟で、上述の福島正則の甥(姉の子)、さらに秀吉の又従弟にもあたる。
仮病で参勤交代をサボって鷹狩りに興じていた、というのが表向きの理由だが、実際のところは豊臣氏に近いことを危険視された(何しろ秀吉の血縁者)、領内にある中瀬金山を幕府が手に入れる為に難癖付けられたともされている。
幕府にとってこじ付けられる理由をいくつも持っていたのが、吉治にとって不運だったとしか言いようがない。


加藤忠広

領地:肥後熊本藩51万石
理由:3,5or2,5(詳細は不明)
処分:出羽丸岡に一代限り1万石を与えられ減転封

父は加藤清正。
改易理由は諸説ある為不明だが、家中はうまくまとめられていなかった。
というのも清正の代で朝鮮などへの度重なる出兵や熊本城建設などの事業により農村には重税がかけられていた。
加えて通常は重臣と言えど知行として石高を給すものだが、清正は所領を直接渡し城と軍勢を所持させ統治させていた。
有事に備えようとしたことは理解できるが、通常は大名が家中をまとめて家を安泰させるため中央集権に苦心していたのに対し真逆のことをしていたのではまとまらないのも当然だろう。

別の説として、嫡男の光広が家臣をとんでもない理由でからかったことが露見したというものがある。
その家臣は愚鈍で冗談が通じず真に受けてしまうため、ことあるごとに光広はからかっていた。
ある時に光広は大軍を率いて大阪城を奪って天下を取る、その大将にお前を任じるという幕府を支配を揺るがしかねない理由でからかい、偽の絵図や連判状まで見せつけた。
もちろんその家臣は真に受けてしまったが、その際なんと老中の土井利勝の元に駆け込んで洗いざらい話してしまった。
さすがに幕府要人だけあって冗談でありその家臣がからかわれただけだというのはすぐに見抜いたが、冗談でもこんなん許されへんし…ということで親の忠広が改易にされたというもの。
当時の光広は12~3歳とやんちゃ盛りであり年齢を考えれば間違いを犯すのも仕方ないことではあるが、事が大きくなりすぎて廃嫡どころではすまなくなってしまった。


徳川忠長

領地:駿河府中藩55万石
理由:3,4,5(数々の不行跡)
処分:蟄居の後、所領没収の上切腹

徳川家光の弟。
幼少の頃から鴨を手に入れる為に兄・家光が住む西の丸の堀に鉄砲を撃ち、兄に対する反逆行為だとして父秀忠に激怒されるなど粗暴な一面を見せていた。
だが問題が本格的に表面化したのは駿河55万石の大名になってからで、

・「自分が駿河55万石程度では納得が行かないから、100万石くれるか大阪城城主にして」と父秀忠に嘆願して激怒される
・家光の京都上洛の時に、武家諸法度で禁止されていた大井川の架橋を無断で行う
・祖父徳川家康が元服をした由緒ある浅間神社付近で殺生が禁止されているにもかかわらず鷹狩りを行い、この神社で神の使いとされている猿1240匹を殺害する。
・更にその鷹狩りから帰城中に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺して殺害する
・その翌年の鷹狩りの際にも些細な理由で家臣を手打ちにする

といった、話が本当ならば通常の大名なら1回で即改易、何度も切腹しているレベルの諸行を繰り返していた。
それでも母・お江が生きていた間はその庇護下にあったので無事であったが、その死後に問題行動が悪化していく。
そして、上記のうち一番下の家臣を手打ちにした事で、遂に兄・家光の堪忍袋の緒が切れてしまい甲府に蟄居させられることになった。
父・秀忠も存命中ではあったが上記の行為からか完全に息子に匙を投げており、危篤になった時も面会を拒絶したという。
それでも父親の生きていた間は命だけは守られていたが、その父親が死んでしまうと忠長を守る人間は誰もいなくなった。
秀忠の死後にようやく遂に改易となり高崎へ追放された挙句、切腹を命じられた。
因みに切腹した寺には今も切腹の際に使用した短刀が残っていたりする。

幼い頃は兄を差し置いて将軍位を狙っていたとか、春日局の策により徳川家康を引っ張り出して阻止したとか、色々な逸話がある人でもある。悪い意味で。
継ぎたかったのに継げなくて行状が荒んでいくという事例は後々出てくるので、その先駆けとも言えなくもない。

また、忠長が切腹を命じられた頃には家光は病気で臥せっていた時期なのでは?という説もあり、幕閣が後々の問題とならないように殺すことにしたのではないかとも言われている。
かつては将軍の親族が問題を起こして改易されても、上記の松平忠輝や松平忠直のように捨扶持が与えられていたのだが…
但し行儀が悪い程度ならばともかく、あまりに酷い逸話だらけであることは現状確度の低い史料や創作由来だと思われ、
家光との権力闘争(これは徳川実紀に記載されている)の関係で盛られた可能性が否定できない。


酒井重澄

領地:下総生実藩2万5000石
理由:4,6(勤務怠慢)
処分:所領没収の上身柄は水野勝成に預けられる、後に自害

飛騨高山藩主金森可重の七男だったが、家光の小姓となりアッー!な関係になったことから寵愛を得たことで、酒井氏の名跡と生実藩を与えられた。
だが病気と称して登城しなくなった上その間に4人も子供を作っていたため、そのことを知った徳川家光に仮病じゃねえか!とキレられた。
実際は何の病気だったのかは不明。うつ病かもしれないが、ただのサボりぐせの可能性もある。パワプロかよ


竹中重義

領地:豊後府内藩2万石
理由:3(密貿易)
処分:所領没収の上切腹

竹中半兵衛の従弟。
長崎奉行として、松倉重政(下記)と共にキリシタンの苛烈な弾圧をおこなった。
だが朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易を行っていたことが発覚し、切腹させられた。


蒲生忠知

領地:伊予松山藩24万石
理由:1
処分:所領没収

信長に「その目つき只者ではない、娘の婿に迎えたい」と見込まれた蒲生氏郷の孫。
蒲生氏は氏郷一代で、近江日野4万石から陸奥会津92万石まで急成長した家であったが、秀吉が氏郷の死後跡を継いだ嫡男の秀行が若年だったのと美人で有名だった氏郷の正室に振られたのを恨んだため、宇都宮国綱(上記)の改易で空いた下野宇都宮18万石へ減封されてしまった(秀行の正室の父が家康であり、家康派の勢力削減を狙った石田三成などの策略との説もある)。
その後関ヶ原の戦いの功績により、上杉氏への宛行分と伊達氏への加増分を差し引いた60万石で会津へ戻ることができた。
しかし、急成長した家につきものの急拡大した家臣団の争いは蒲生氏でも例外ではなく、その心労のためか秀行は30歳、後を継いだ嫡男の忠郷も26歳で急逝してしまう。
元来であればここで無嗣改易となっていたが、忠郷が家康の外孫であったことから同母弟で別家*47を立てていた忠知が後を継ぎ、何とか存続を許された(但しペナルティとして、加藤嘉明と入れ替わる形で伊予松山へ6割減の24万石で転封となったが)。
それでも家中の対立は収まらず、おまけにようやく生まれた嫡男も夭折してしまった。そして正室が2度目の懐妊をしたという朗報の中、忠知も31歳の若さで亡くなってしまった。
2度目の改易待ったなしの状況だったが、家康の外孫であることを憚って、子が生まれるまで待とうとなったが、
・生まれた子が男子だったら家督相続→女子でした。
・ならその子が成長したら婿を取ってお家再興→3歳で亡くなりました。
という踏んだり蹴ったりな結果で、蒲生氏は途絶えることになってしまった。


鳥居忠恒

領地:出羽山形藩24万石
理由:1,3(養嫡子を拒否して断絶)
処分:所領没収、異母弟鳥居忠春に信濃高遠藩3万石が与えられ立藩

最上家改易(前述)によって表高57万石実高100万石以上とも言われるほどの所領が空いたが、東北には譜代の大大名がいなかった。
そこで東北諸大名の監視のため忠恒の父鳥居忠政が、娘婿の酒井左衛門尉忠勝*48(庄内藩14万石)・妹婿の戸沢政盛(新庄藩6万石)・従弟の松平重忠(上山藩4万石)と共に揃って跡地に移封された。
万一の際には忠政がこれらの兵を動員して対応するという訳である。
そして忠政は軍備を整えるため早々に増税して領民から反感を買い、更に匠としての腕を振るい山を切り崩して川の流れを変えて川と城下の井戸を枯らし、山形城を雨が降ったら水浸しになるよう生まれ変わらせた。なんということをしてくれたんでしょう。

こんなにされた跡を継いだ忠恒だったが、悲劇的ビフォーアフターのおかげで病弱だった上に、異母弟の忠春親子と全く反りが合わなかった*49
嫡子にも恵まれなかったため家臣からも忠春を養嫡嗣にするようせっつかれていたが断固拒否。亡くなる直前に同母弟で戸沢家を継いでいた戸沢政家に継がせるよう遺言を残した。
これは末期養子の禁に触れており、受け容れられずに改易されることとなった。

しかし祖父の鳥居元忠が捨て石になることを覚悟の上で関ヶ原の前哨戦となる伏見城の戦いに臨み戦死を遂げたことを「父祖の勲功」として評価され、特別に忠春が跡を継ぎ立藩することとなった。
この時幕閣であった保科正之と領地を交換させられる形になっている。
だが24万石もの大藩を継げなかったという事実は、忠春に大きな陰を落とすことになる(後述)。
ちなみに最近は最上復古の一環で山形城を再現しようとしているが、この悲劇的アフター版でやろうとしてるらしい。もっとちゃんと考証しては?


松倉勝家

領地:肥前島原藩4万石
理由:5(天草・島原の乱を引き起こす悪政)
処分:所領没収の上斬首

父重政は10万石相当の規模と言われる島原城を築いたり、徳川家光にキリシタン弾圧がぬるいとダメ出しされると拷問にかけまくりルソンにまで出兵しようとしてその費用として重税をかけるなど空回りしがちなタイプだった。
そして勝家は父をも凌ぐ重税を課し過酷な取り立てを行い、「水牢」「蓑踊り」などキリシタンに苛烈な拷問・処刑を行っていた。
島原から海を隔てた隣の天草でも唐津藩による過酷な取り立てがあったため、両地が呼応し天草・島原の乱に繋がってしまう。
乱は鎮圧されたものの幕府はこの責任を重く見たようで、勝家には切腹でなく斬首という重い処分が下された。
上記の有馬晴信は本人の選択により斬首となったが、こっちは問答無用での斬首処分。
大名が名誉の刑としての切腹が許されなかったのは江戸時代で唯一である。


加藤明成

領地:陸奥会津藩40万石
理由:5(御家騒動)
処分:石見吉永藩1万石へ減転封

父は地味加藤こと加藤嘉明。
「重臣がナメた真似したんで殺させてください!なんでもしますから!」「ん?今なんでもするって言ったよね?」
またしても家臣をまとめられなかった事例。
明成は器量に欠け、また一分銀を集めるのが好きでたまらなかったという。
ちなみに件の重臣は無事ぶっ殺させてもらえたが、隣の領地の実弟の明利*50と義兄の松下長綱*51まで連座で改易させられた。


池田輝興

領地:播磨赤穂藩3万5000石
理由:5(発狂)
処分:所領没収の上身柄は池田光政に預けられる

池田輝政の六男。母は家康の次女であり、家康の外孫に当たる。
同母兄の五男・政綱が亡くなり改易になりかけていた所を家康の孫ということで特別に赤穂藩を継ぐことを許された
就任当初は城下町の開発や検地をおこなったり、日本初の水道工事ともいわれる上水道整備など名君と呼べるほどの働きを見せていた。
ところがある時、突如として発狂し正室(黒田長政の娘)や侍女など数人を殺害、所領没収された。
なお、池田家の後に赤穂藩に入ったのがあの浅野家であり…(後述)


池田輝澄

領地:播磨山崎藩6万8000石
理由:5(譜代の家臣と新規の家臣の対立)
処分:池田光仲に預けられた後、因幡鹿野1万石を与えられ蟄居

池田輝政の四男で上記の輝興の同母兄にあたる。
当初は3万石の大名で彼も城下町や道路の整備などを行っていた。
上記の弟である輝興が赤穂に転封になった際に、輝興の領地であった佐用郡や家臣団も引き継ぎ6万8000石となった。
ところがこの合併により元からの譜代の家臣と合併の際に召し抱えた家臣との間で対立が起こってしまう。
輝澄もこの時の新参の家臣である小河四郎衛門を重用したため、譜代の家臣である伊木伊織らが反発しついに伊木派の家臣100名以上が脱藩騒動を起こしてしまう。
幕府は伊木ら譜代の家臣ら20名に切腹を命じ、輝澄も家中を取り締まれなかったことを咎められ改易となった。兄弟揃って共倒れである。
輝澄は甥の鳥取藩主・池田光仲に預けられた後、家康の孫であったこともあり因幡鹿野1万石を隠居料として与えられそこで余生を過ごした。


寺沢堅高

領地:肥前唐津藩8万3000石
理由:1(自害、断絶)
処分:所領没収

島原の乱のもう一つの原因。乱が「島原・天草一揆」とも呼ばれる理由。
父寺沢広高は関ヶ原の恩賞で飛び地となる肥後天草領を加増されていたのだが、ここで天草に実高の倍の4万石という重税をかける一方で本体の唐津藩の負担を減らし居城周辺の住民を慰撫するという極端な政策をとっていた。
堅高もその政策を継承したのだが島原で勃発した乱が天草に飛び火。その責任を問われ天草領を召し上げられ実質的な減封処分となり、失意の日々を送る中ついに自害してしまった。
現在でも唐津においては寺沢氏は名君と伝えられているが、その陰には天草の犠牲があったので「名君」という言葉の意味について考えさせられるものがある。

ちなみに天草藩の石高が実情に見合った2万石に修正されたのは1659年のことであった。約60年ぶりのことである。
その間に復興に関与した者たちにより大名による統治は難しいと判断され、天領*52となって明治維新を迎える。


松平定政

領地:三河刈谷藩2万石
理由:3(表向きは発狂)
処分:所領没収の上身柄は松平定行に預けられる

家康の異父弟の子で、血縁上は甥にあたる(久松松平家)。
家光死後、幕政を批判する内容の建白書を提出し、更には無届で出家し、自分の領地などを旗本救済に充てて欲しいと申し出た上、息子や家臣と共に黒衣姿で経文を唱えながら江戸市中を練り歩いた。
本来なら切腹にも相当する行為であるが、「狂気の沙汰」の為として所領没収と永蟄居処分となった。一応給米2000俵を貰い暮らしには困らなかったと伝わる。
なお旗本救済について、家光の代のころにもなると浪人が溢れ*53、立身出世する道もほぼ無くなっていたことから百姓・町人になったり、場合によっては盗賊になる者もいた情勢。
そのため慶安の変の首謀者・由井正雪は定政の行動を評価していたようで、幕府の対応について「忠義の志を欺く行為」と遺言に記していた。


高力隆長

領地:肥前島原藩4万石(二度目)
理由:5(失政)
処分:所領没収の上身柄は伊達綱村に預けられる

またしても島原。
曾祖父の高力清長は三河三奉行と呼ばれる名奉行の一角で、父親の忠房は不毛の地と化していた島原の地の復興に尽力し成功と見事な政治力を見せている。
しかし隆長は政務への関心が低く、財政が芳しくないならとりあえず税を増やせばいいんじゃね?と適当にやった所、思いっきり反発された。当たり前だ。
結局この後譜代の松平忠房がやってきて、島原は本格的に復興への道を進んでいくことになる。


堀田正信

領地:下総佐倉藩12万石
理由:3(幕政批判、無断帰城)
処分:所領没収の上脇坂安政→酒井忠直→蜂須賀綱通に預けられた後自害

3代将軍徳川家光に仕え佐倉藩初代藩主となった堀田正盛の息子。稲葉正休(後述)に殺された堀田正俊の兄でもある。
父正盛は家光とアッー!な関係になったことから寵愛され一代で1000石の旗本から12万石の譜代大名にまで異例の出世を遂げており、そのためか家光の死後に殉死している。
正信はその跡を継いだが、突如幕閣への直訴状を出し勝手に佐倉へと帰国したため問題となり、最終的に「狂気の沙汰」とみなされ改易に。
改易後は実弟の脇坂や叔父の酒井の元に預けられるも、酒井の家にいた時勝手に外出し京まで行ったため罰が重くなり蜂須賀家に配流された。
その後、4代将軍家綱の死の直後、ハサミで喉を突いて自害した。
彼の死後、正信の息子堀田正休は罪を赦され上野吉井藩→近江宮川藩1万石の大名となり、その末裔は再び改易されることなく明治維新を迎えた。佐倉藩も複数の大名を経た後堀田正俊の末裔に治められ存続した。

ちなみに彼の改易に纏わる伝承として「佐倉惣五郎伝説」なるものがあり、「正信の時代その圧制に抗おうとする百姓惣五郎が、苦悩の末将軍に直訴して叶うが代償として処刑。その祟りにより正信は改易された」と物語られている。

また彼の直訴状が残っていないため確かなことはわからないが、上記の松平定政の出家隠遁事件が影響を与えていたのではないかと言われている。


加賀爪直清

領地:武蔵高坂藩1万3000石
理由:3,4(表向きは領土問題での紛争や書類の不備)
処分:所領没収の上身柄は石川総良に預けられる

改易する要因こそ生んでしまったものの、直清は言うほど悪くない。
加賀爪氏は元は今川氏に迎えられ駿河に土着した上杉家の庶流というなかなかの名門である。
だが直清の叔父であり養父でもある直澄は、大名でありながら「旗本奴」と呼ばれる傾奇者の一団で、水野勝成の庶子を父に持つ親子三代DQN(で最近じゃコレチラッと名前が出てきた)十郎左衛門成之とつるんで「町奴」と呼ばれる町人出身の傾奇者と江戸の町で衝突を繰り返していた。
更に徳川綱吉の跡目に反対していた酒井忠清と親しかったとされ、そんな傾奇者でありながら寺社奉行にもなっている。
そんな直澄は嫡子が先立たれてしまっていたため直清を養嗣子として家督を譲って隠居したのだが、直清は旗本の成瀬正章と領土問題を起こした。
そこで待ってましたと言わんばかりに難癖を付けられて加賀爪家は改易、親子は引き離されて預けられることとなった。
理由は上記の通り成瀬正章との領土境界問題であるが、そもそもの原因は直澄が加増された時に境界を確認せず受け取ったからである。
境界確認は基本中の基本なので成瀬正章がそこを突くのも当然の流れであり、直清本人のせいではないので本当にとばっちり。


松平光長

領地:越後高田藩25万石
理由:5,6
処分:所領没収の上身柄は身柄は松平貞直に預けられる

上述の忠直のおかげで領地を半分以下に削減されたが、光長は腐ることなく頑張って領地を発展させていった。
だが親子揃って男児にあまり恵まれておらず、一人息子である嫡男の綱賢が先に逝ってしまった上に綱賢には男児がいなかった。
そこで養子を迎えることになったのだが、誰を迎えるかを巡り家臣が対立。収拾できなくなった光長は幕府に裁定を仰ぎ甥である綱国を迎えることで決着した。ゆ、許された…

だが光長と仲の悪い綱吉が将軍に就任すると綱吉は裁定を差し戻し一転改易処分に。家臣が大量に処分された上綱国も流罪とされた。我…二代で不許可を得たり!
後に放免された時には綱国とすっかり不和になっていたため、最終的には遠い親戚である長矩*54が養子となり光長の隠居と共に美作津山10万石が与えられることとなった。


真田信直

領地:上野沼田藩3万石(幕府への申告は14万4000石)
理由:3,5(勤務怠慢、失政)
処分:所領没収の上身柄は奥平昌章に預けられる

松代藩13万石藩主の病弱な上に苦労人気質の短命なお兄ちゃんこと真田信之の孫で、長子信吉の次男。
幕府の公式史書である「徳川実紀」には「真田信利」と表記され、一般的には知られているが、実際に名乗ったことが確認できる史料は発見されていない。
読みが同じ「信俊」とは一時期名乗っていたのだが…

元々沼田藩は松代藩の領地だったのだが、信之がいつまでも隠居を認められないうちに長子に先立たれてしまい、次男信政に家督を譲ったものの信政にも先立たれ、わずか2歳の信政の子幸道に相続させようとする。
だが信利は自分が家督を相続すべきとこれに反発し騒動を起こし、信之が幸道を後見するという形で決着し家督こそ継げなかったものの、信之の父昌幸からの土地である沼田藩3万石で独立することを許された。
なお信之は翌年(93歳)で死去したが、再度騒動になることはなく内藤忠興が引き続き後見人になっている。
こうして3万石を相続した信利は俺の家こそが主家だと言わんばかりにいきなり石高を自称14万4000石にまで引き上げるとんでもない重税を課した。
当然長続きする訳もなく、ついに幕府の普請を滞らせた上に悪政の不満も噴出し改易。
沼田藩は幕府が管轄する天領となるが、その際検地し直した所、実高は6万石しかなかったという。
代表越訴型一揆の代表的存在である杉木茂左衛門が直訴の罪で磔刑になったのはこれのせい。凄くかわいそう。


伊達宗勝

領地:陸奥一関藩3万石
理由:4
処分:所領没収、身柄は山内豊昌に預けられる

東北のDQN独眼竜伊達政宗の十男。
仙台藩の支藩である一関藩藩主であったが、本家の当主に幼少の綱村(当時は亀千代)が就いたためその後見となる。
しかしいわゆる伊達騒動で仙台藩が荒れに荒れ、藩政の実権を握っていたので当然責任を取らされた。
項目があるので詳細はそちらに譲るが、これで一件落着、かと思いきや……


稲葉正休

領地:美濃青野藩1万2000石
理由:3(刃傷沙汰を起こし殺害)
処分:その場で斬られ死亡、所領没収

春日局が家光の乳母になったということで堀田氏と共に出世した稲葉氏の分家の一族(父正吉は春日局の夫、稲葉正成の10男にあたる。但し春日局の実子ではない)。
その父正吉は5000石の旗本なのに男色のもつれで死んでおり、それを継いだ正休は若年寄に抜擢されその際加増を受け大名となった。
淀川の治水事業において商人・川村瑞賢と共に視察を行ったが、そこでの試算を盛ってしまったことが春日局の養子でもある大老・堀田正俊にバレて治水事業から外されてしまう。
正休は正俊を部屋の入口まで呼び出して刺殺したが、その場に同席していた老中3名により滅多斬りにされ死亡した。
事前に刀鍛冶に数本の刀を特注、試し切りの末に一番出来の良いものを持って登城するという計画的犯行であった。

ちなみに正俊は成り上がりに対するやっかみもあるだろうが、元々なんでもずけずけ言うタイプで人望がなかったと言われ、死後正休は称賛されたらしい。
そのせいで「(直言タイプの正俊が嫌になった)将軍が関与していたのでは?」などという説すら流れたりも。


那須資徳

領地:下野烏山藩2万石
理由:3,5(世継となれる実子がいながら養子を取る幕法違反)
処分:所領没収

改易された時の大名は資徳だが、やらかしたのは父である那須資弥なので言うほど悪くない。
那須家は先祖代々与一の名を継いできた、由緒正しい名家である。
戦国末期には分裂したり汚い重臣が現れたり、統一できたと思ったら汚い重臣の三人の息子と秀吉の命によって領地を殆ど奪われたりと散々だったが、関ヶ原で東軍に参戦してなんとか大名には復帰できた。
しかし順風満帆とはいかず無嗣断絶により改易、その後養子に資弥を迎え、再び大名として元の領地に返り咲いた。
資弥は更に加増も受け再び那須家を盛り立てていきたい所だったが、ここで再び後嫡の問題が出てきた。
長男正弥を実兄の末期養子に出してしまったため、手元には粗暴な次男資寛しか残っていなかったのだ。
ここで資弥は資寛の存在を隠蔽して養子を迎えるという危険な賭けに出たが、資徳が継いだ時に資寛の母が訴え出てしまったため企みは潰え改易。
その後那須家は旗本として存続することとなったが、三度大名に戻ることは出来なかった。
幕末にも真っ先に朝廷に従ったのに爵位が貰えなかったり、近代には冤罪まで着せられたりと酷い目に遭っている。
因みに前述の汚い重臣の末裔・大田原氏と大関氏は明治維新まで大名として存続している。子孫に罪はないとはいえ踏んだり蹴ったりである。


鳥居忠則

領地:信濃高遠藩3万2000石
理由:5(失政、家中取締不足)
処分:所領没収、嫡子の鳥居忠英が1万石で立藩

上記の通り、不和によって24万石から3万石になってしまった鳥居忠春は荒んだ性格になって領民に威張りくさって当たり散らし、更に石高を取り戻そうと幕府の普請を受けまくった。
だがそんなことが続くはずもなく、ついに医師に斬られて横死するという因果応報の結果を招き、息子の忠則が後を継ぐことになる。
当然ながら財政は火の車になっていたのだが忠則にそれを巻き返せるだけの力はなく、商人からの借金を踏み倒そうとして幕府に訴訟されるなどしている。
そんな中で江戸城守衛の役を務めていた家臣が、持ち場を離れてとある旗本の屋敷を覗き見するという問題を起こしてしまう。
これによって閉門処分にされている間に忠則は急死。問題の家臣も口を割ることなく自害したため家督相続が認められず改易処分となった。

だがここで再び父祖の勲功による特例が適用され、嫡子の鳥居忠英が能登下村藩1万石を立藩することになる。
忠英は鳥居家にようやく出てきた名君で若年寄にまで抜擢され、後に下野壬生藩3万石に転封され廃藩置県まで存続した。
また干瓢の栽培を奨励したことにより現代栃木県が干瓢の生産量第1位となる礎も作っている。
ヤケを起こさず最後まで地道に頑張る方が良いという教訓かもしれない。


稲葉紀通

領地:丹波福知山藩4万5700石
理由:5(2つの説あり)
処分:自害、もしくは部下により殺害

上記の正休とは違いこちらは稲葉良通(一鉄)の子の重通を祖とする稲葉氏の本家筋の一族(但し上記の稲葉氏が譜代大名であるのに対してこちらは外様大名である)*55
伊勢田丸藩、摂津中島藩を経て福知山藩へと移封される。

改易になった経緯には2つの説が存在する。
1つは福知山に移封されてきた紀通は狩猟の獲物が得られなかったとして60人もの近隣の村民を殺害する、福知山城の空堀に水を満たすなどの違法行為を働いた。
これを知った幕府は紀通に弁明を命じ、近隣の諸大名にも動員準備を命じるなど緊迫した状況となるが紀通は切腹自害し稲葉家は改易となった。
もう1つは紀通が隣の丹後宮津藩主の京極高広に対して寒ブリ100尾をねだった所、京極側はこれを幕府への賄賂に使われることを恐れ首を切った状態の寒ブリを差し出してきた*56
これに怒った紀通は以降、福知山を通行する宮津藩の領民や飛脚を次々と殺害。この行いに上記のように幕府に弁明を命じられ紀通は自害した。
死因については切腹とも、幕府の命令に抵抗して火縄銃を乱射してから自害したとも、火縄銃の乱射に手を焼いた部下により殺害されたともいわれている。
ちなみにこの騒動の関連人物でもある京極高広であるが、彼も後に悪政と息子である高国との親子喧嘩が理由で改易の目にあっている。


本多政利

領地:陸奥大久保藩1万石
理由:5(失政)
処分:領地没収の上身柄は酒井忠真に預けられ、後に水野忠之の下で幽閉

九・六騒動と呼ばれるお家騒動の中心人物。
平八郎系本多家には、幼少の子に家督を継がせてはならないという家訓がある。
そのため政利の父、政勝は庶流でありながら当時6歳の政長を差し置いて本家の家督と大和郡山藩15万石を継ぎ、その後政長を後継者にすることになった。
だが政勝は「自分の子政利に家督を継がせたい」という、あってはならない欲望を抱いてしまう。
その思いを継いだ政利は父の死後すぐに老中酒井忠清に取り入って工作した上で家督騒動を起こし、結果政利は15万石のうち新田藩6万石を相続することになる。
だが宗家を継げなかったことを不満に思った政利は、数年後政長を毒殺し再度騒動を巻き起こす。
これで工作もすればついにお鉢が回ってくる・・・と思いきやその頃酒井忠清は失脚していて工作は意味を為さず、次に宗家を継いだのは水戸徳川家からやってきた政長の従兄弟の子本多忠国。
更に宗家を継いだ忠国は9万石から陸奥福島15万石へ増転封、政利は播磨明石藩6万石に転封となった。
親子二代の野望が潰えた政利は周囲に当たり散らし悪政を行い、陸奥大久保藩1万石に減転封。そこでもまた当たり散らしたためついに改易された。
そして身柄が酒井忠真に預けられた後も素行が改まらなかった上毒殺も発覚、死刑もあり得たものの「狂気の沙汰」として減免され、水野忠之の下で幽閉され一生を終えた。


本多重益

領地:越前丸岡藩4万3000石
理由:5(失政、家中取締不足)
処分:所領没収の上身柄は池田仲澄に預けられる

ここまでに二人出てきた三河三奉行の最後の一角、鬼作佐こと本多重次の子孫。
重次はめんどくさい三河武士そのものであったためあまり出世できず大名にはなれなかったが、嫡子成重が上述の松平忠直の附家老から石高そのままに大名へと転身した。
附家老は主家が潰れた場合大概連座させられたりするものだが、それだけ忠直がどうしようもなかったということだろう。
こうして立藩してやってきたものの、この重益は家臣に政務を丸投げして酒に溺れ子供も作っていないという体たらく。
このため家臣らは見切りをつけ、養子を立てて病気と称し拘束し隠居してもらうといういわゆる押込をしようと画策し始めた。
仕える家が潰れては元も子もないため家臣らがこうして無理矢理代替わりさせること自体はあるっちゃあることなのだが、今回は「でもこいつ馬鹿だし代替わりさせなかったら俺が好き勝手できるじゃんw」と思って重益を擁護する奸臣が現れ失敗した。
この様な状況になると重益は報復のため一転して活動的になり、その結果逃げた家臣が江戸市中で大立ち回りを繰り広げるなどの大騒動にまで発展。
このため幕府の調査を受け、洗いざらい知られてしまい改易された。好き勝手はできましたか?
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野と呼ばれ活躍した三河三奉行。彼らの家はみな裁かれる側に回って潰れてしまったのだった。
後に恩赦が出され、旗本として復帰した。


森衆利

領地:美作津山藩18万6000石
理由:3(表向きは発狂)
処分:所領没収の上兄の森長直の元に預けられる。父の森長継が備中西江原藩2万石として再封

森長可の末弟の磔右近こと森忠政から始まった、森氏の5代藩主。
甥の藩主森長成が発病し亡くなる前に末期養子として立てられた。
それから1ヶ月と経たない内に生類憐みの令のために家臣が死んだりしたため、幕府をつい批判してしまう
酒の席だったからと弁明するも、発狂ということで改易処分にされてしまった。
確かに3なのだが、至極当然の批判でとても可哀想。
因みに森家は父長継が再封された後、すぐ上の兄長直が本家を相続し赤穂藩2万石に転封した他、更に上の兄である長俊の家*57と長継の弟の家*58の計3家が残った。


水野勝岑

領地:備後福山藩10万1000石
理由:1(無嗣断絶)
処分:傍系の水野勝長が能登西谷藩1万石として再封

DQNなのに名君へと変貌を遂げた水野勝成から数えて4代目の藩主である水野勝種には、とんでもないことが起きていた。
僅か3歳ながら跡目を継がされ藩主となって以降重臣らの支えもあってかそれなりにうまくやっていたのだが、なんと6人の男児が揃って早逝。7人目ができた年には勝種自身が亡くなってしまった。
このため7人目の子である勝岑が後を継いだが、大名となったからには将軍に御目見えをしなくてはならない。
だが福山から江戸までとなると大変長く乳児にとっては過酷だったようで、なんと道中で病気に罹り急死してしまった。
そして容赦なく無嗣断絶で改易。
この理不尽さに福山藩の下級藩士や領民などが決起しようとして一触即発の事態となったが、家老らが必死で説得して回りなんとか収めた。
その後名家だからと惜しまれて家督を祖父の従兄弟に当たる勝長が継いで遠くの能登に再封されることとなったが、幼少であったことは全く考慮されなかった。本多家のような家訓があったなら…

なお亡くなった日付が5月5日だったため、水野家の関係者の家では鯉のぼりを掲げなくなったという。


小笠原長胤

領地:豊前中津藩8万石
理由:5(失政)
処分:所領は4万石に減知の上で弟小笠原長円が家督を継ぎ、本人の身柄は本家の小笠原忠雄預かり

小笠原氏の受難は続く。大坂の陣の後秀政の次男忠政*59の系統が本家筋となり、忠脩の家系は庶流となった。
その庶流を継いだ長勝は贅沢が大好きで、藩政を顧みず適当に増税するなどの悪政を行った。幕府から注意を受けても改めなかった。
その後病気に倒れ、甥であった長胤が末期養子として跡を継いだ。

長胤は養父の悪政によって悪化した藩政に積極的に関与した。
が、積極的過ぎて治水工事で財政を困窮させて結局増税したり*60、どうしようもないので家臣の半知借り上げ*61を行ったりと泥沼化。
挙句の果てには養父と同じような悪政を行うようになり、譜代家臣を追放して新参を重用するになったり、贅沢を極めるようになっていった。
こうなっては流石に幕府は無視できず一旦改易処分となった。

だが先述した大坂の陣での功績が大きいとして、「父祖の勲功」により減封の上で弟が継ぐことを許されるという、かなり緩めに処分された。
ちなみに追放された家臣は帰参したものの、長円は藩政を顧みないで酒池肉林の日々を送った。兄弟揃ってどうしようもねえ…


内藤忠勝

領地:志摩鳥羽藩3万5000石
理由:3(刃傷事件、ただし表向きは乱心)
処分:永井尚長殺害の罪で切腹、改易

徳川家康に仕えた内藤清長の支流、忠重を祖とする譜代大名。
兄である忠次が病で家督を辞退したため彼が後継となった。
芝の増上寺において徳川家綱の77日法要の際に警備役を命じられるが、その際に同じ警備役であった宮津藩主の永井尚長を殺害。
元々尚長とは仲が悪かったようで、尚長が上席であったため彼が忠勝を侮り、法事の指示を示した奉書を忠勝に見せなかったことが原因だったらしく、
この話が本当なら、二人は同じ立場なので上席程度の関係で命令される筋合いはなく、当時の武士としてはそうおかしな話ではない。
むしろ売られた喧嘩は買わなければ武士として恥である。
もちろん取り押さえられた忠勝は西久保の春龍寺で切腹を命じられ、鳥羽藩内藤家は改易となった。
幕府としては突発的な乱心扱いとしており、親族は連座の対象とならなかった。

なおこの忠勝の甥(忠勝の姉の子)こそが下記の浅野長矩である。
一方被害者である永井家は尚長に子がいなかったために改易となったが後に尚長の弟の直圓が大和新庄藩1万石で大名として復帰を許された。


浅野長矩

領地:播磨赤穂藩5万3000石
理由:3、6(刃傷事件だが、処分したことではなく処分内容に幕府の意向が混じっている。問題ないのでは?という説もあるが、そもそも赤穂事件後の吉良家の扱いの中で幕府が吉良義央にも問題があったという旨の裁定を下している)
処分:所領没収の上切腹

忠臣蔵で有名な赤穂騒動。いわゆる内匠頭。
殿中で突発的に吉良義央を斬り付けたとされるが義央は一命を取り留め、長矩はろくに調べもされず即日切腹とされ、一方の義央には咎めが何もなかった。
だが殿中での刃傷沙汰は慣例に従えば「喧嘩両成敗」により両者死罪だが、義央が無罪なのに主君だけが死んだ&追い打ちで浅野家側のみ改易で赤穂城を幕府へ明け渡し
当然ながら当の赤穂藩士たちにとってはあんまりな話である。
更に少なくとも浅野長矩が吉良義央に何らかの恨みを抱いていたことはほぼ確実なことも合わさり、多数の藩士が浪士となって自死する覚悟で復讐心を持ち、赤穂事件が起きた。

吉良義央が将軍の親戚筋にあたることや*62、一応義央は逃亡するのみで脇差に手をかけてすらいなかった上に、仕事中*63に背後から切りかかられた状況だったため、そもそも「刃傷沙汰」と認定されなかったという理由付けらしい。
また、朝廷の使者をおもてなしをする準備をしていた時に起こしたということも影響したと言われている*64

但しあくまでも斬りかかった理由は不明である。例えば当時の武家においては悪口を言われた程度でも斬りかかるに値する(場の状況的に無罪にはならないが)。
仮に喧嘩を売られていたとするならば、むしろ喧嘩を買わずに逃げる方が不名誉であるなど、必ずしも斬りかかった側のみが悪いとは言い切れない社会である。
これは内匠頭と義央両者共に当てはまる『士道不覚悟』に相当する武家の在り方そのものに関わる概念なので、「逃げるのが基本だろ。jk…」と現代日本の尺度で考えるのは禁物*65
赤穂事件後に幕府がこの件に異なる判定を出していること*66もあり、理由によっては公正な判定とは言えないことにも留意する必要がある。
そもそも刃傷事件を起こした理由についても様々な説が存在し、正確な所ははっきりとしていない(否定された説から主流説まで本当に沢山ある。どれを採用するかでまるっきり印象が変わってしまう)。
ちなみに近年ネットを賑わせている精神病だったからとの説の根拠となる当時の直接的な一次資料は事件直後に事情聴取された吉良と事件について綱吉に諮問された老中・稲葉丹後守正往の主張程度しかなく*67、他の内匠頭関連の史料からは現在そうとれる記述も見つかっていないため決定的とは見られていない*68*69
同時代の讃岐高松松平家当主松平頼常の手記や2016年に西本願寺で発見された当時の資料から、当時から乱心=精神疾患説は流布していたが、稲葉老中の慎重論を将軍・綱吉が押し切る形で長矩が処刑されたので確定的な証拠を得られなかった。
後の幕府の沙汰も「世論に流された結果」とも考えられるが、そもそもの話ロクに調べず即処刑して時間も多少経っていたので幕府も真相を知らなかった疑いが濃厚*70
まあ、勅使の接待日に、御台所の代理人にスケジュール変更を説明している真っ最中の相手に切りかかったので、「将軍と御台所の公務を妨害」「天皇への不敬罪」まで加算される形で現行犯逮捕されており、
綱吉「余程反逆罪で処刑されたいようだな・・・!」
と激怒させてしまった結果なので自業自得の面も強いが。

なお義央を斬り付けたことを聞いた二本松藩主丹羽光重は又甥の不手際に対し「突いていたら吉良を確実に殺せた」と不快感を露わにした。
正休の例まであったのにねえ…

結局のところ、戦国時代の暴力的な気風から法と道徳で穏やかに治める文治政治への移行に将軍や与党が音頭を取っている最中に事件を起こしたので
  • 将軍や比較的現代人に近い価値観*71の文化人には違法と暴力を糾弾される
  • 戦国気質を残している武人には仕事中の老人を背後から不意打ちしても殺せなかった点を軽蔑される
と双方から不評を買い、遺臣達を追い詰めてしまったと言える。



松平忠充

領地:伊勢長島藩1万石
理由:5(乱行)
処分:所領没収

家康の異母弟松平康元を祖に持つ譜代大名。
久松松平家の家督を次いでしばらくして家臣を些細なことで追放。
その後重臣3人を切腹させその子4人を死刑にするというとんでもないことをやらかし、幕府に露見。当然改易された。
しかし久松松平家は家康の異父弟の家系で、その嫡流ということから特別な配慮をされ子供は旗本になったという。
なお久松松平家嫡流は忠充の叔父憲良が無嗣廃絶で改易となり、その後忠充の父康尚がやはり家柄ゆえ復興を許されていたりする。踏んだり蹴ったり。

またトリビアの泉でも紹介された寝ぼけて切腹して死にそうになった武士というのはこの忠充の息子の忠章である。忠充とは違い文武両道で聡明な人物であったが父との仲が悪かったためストレスの末にこんなことをしてしまったと言われている。
切腹した後に腸を引っ張り出して木にかけ晩飯食って寝た人もいるし、凄いね武士って。
なおこの騒動のあと忠章は廃嫡されてしまった。


前田利昌

領地:大聖寺新田藩1万石
理由:3(刃傷事件)
処分:所領没収の上切腹(後に所領は大聖寺藩に還付される)

織田家家臣からのし上がり加賀100万石を収めるようになった加賀前田家の分家大聖寺藩*72の分家*73
赤穂浪士の討ち入りから6年後の1709年、5代将軍徳川綱吉の葬儀における中宮使饗応役であったが、よりにもよって葬儀が行われている寛永寺において大准后使饗応役であった織田秀親*74を厠で殺害した。
皮肉にも元家臣の末裔が元主人の末裔を殺害したのである。
元々仲の悪かった事に加えて秀親が6代将軍家宣の行動予定表を故意に見せなかった事で激高、その場で殺害しようと企てるも何故かそこでは思いとどまり、その夜家老の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求めた。

利昌「何故、浅野内匠頭は義央を討ち損じたのか?
木村「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた

と返答した。余計な入れ知恵するなよ
そして翌日、木村に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上でえげつないまでの殺意に満ちた方法*75刺殺した。
言うまでもなく、即取り押さえられて3日後に利昌は切腹となった。
本来であれば所領も没収だが、利昌の大聖寺新田藩自体が名前にもある様に新田支藩という位置付けの藩だった。この場合「大聖寺藩の新田開発で増えた土地から所有や土地経営は実質的に大聖寺藩のまま、利昌の元に石高分を支給されていた」*76のと、新田については大抵幕府が公認する石高(表高)には含まれていないので幕府の管轄下にないことで、没収のしようが無かった為にそのまま大聖寺藩に戻される事になった。
一方突如として藩主を失った織田家も本来なら無嗣断絶になってもおかしくなかったが、事情が事情なだけに「病死」扱いにした上で実弟を養子に迎えた形に書類を捏造するという本来であればモロ違反な家督相続を幕府も黙認したという。
この家督相続の手口は幕末に桜田門外の変で死亡した井伊直弼から長子井伊直憲が相続する際にも使われた。


毛利元次

領地:周防徳山藩4万石
理由:3(土地境界問題で宗家と争論)
処分:所領を萩藩に没収された上で流罪。藩は3年後復興する

長州(萩)藩毛利家の分家にあたる徳山藩の3代目藩主。毛利輝元の孫にあたる。
「万役山事件」とも呼ばれるこの改易は萩藩と徳山藩の境界に位置する高さ10m程の万役山を巡る争いが端を発している。この小さな山で起きた殺人*77が原因となって現場レベルで解決せずとうとう本藩と支藩同士のいざこざになり

毛利吉元(萩藩藩主)「毛利元次が自分たちのいう事を聞いてくれない*78ので隠居させてもらえませんか?」
と徳山藩藩主の隠居を訴え出た所…

幕府「なに、支藩の分際で言うことを聴かぬとはけしからん!徳山藩は改易だ!

毛利元次「えっ?
毛利吉元「えっ?

といきなり改易となってしまった。なんてこったい。
元次は新庄藩に預けられ徳山藩の所領は萩藩に戻り一件落着…

かと思いきや幾らなんでも予想外の裁定過ぎたために、幕府の予想外の方向に事態が動き始める。
旧藩士の奈古屋里人が中心となり主家再興運動が始まり、萩藩、農民、町人、縁戚を問わず様々なルートを駆使してお家再興を嘆願した。
少なくない犠牲(農民が一揆を計画したとして4名ほど島流しに合っている)があったものの、
そもそも当事者の萩藩ですらも内願しており、事件から3年後に元次の長男毛利元堯に3万石が与えられてお家再興を果たした。
因みに元次はお家再興直後に京都で病死し、元堯も江戸で相次いで亡くなり元次の次男広豊が跡を継いだ。
広豊は46人もの子供を設けた艶福家で孫の1人は後に世継ぎが絶えた毛利本家を継いでおり、もし徳山藩が復興しなければ萩藩の運命も大きく変わっていた可能性がある。


佐久間勝親

領地:信濃長沼藩1万石
理由:3(出仕拒否) 6?
処分:所領没収

賤ヶ岳の戦いで秀吉軍を追い込んだ鬼玄蕃こと、佐久間盛政の弟の勝之を祖とする。
元々は高鍋藩秋月種信の子供であったが秋月家の江戸屋敷の二軒お隣に佐久間家の上屋敷があったため両家は仲が良く、1683年に佐久間勝豊の養子となり勝豊の娘を娶る形で当時の将軍である綱吉に認められ長沼藩の当主となる。*79
だが数年後の1688年、その綱吉から側小姓になるよう通知がくると勝親は病と詐称して即日これを拒否。これが綱吉の逆鱗に触れて改易を言い渡された。
この時の綱吉は1684年に片腕であった上記の堀田正俊が稲葉正休に暗殺されて以後に側用人の柳沢吉保を重用して幕閣を遠ざけ、儒学に基づく政治を行いはじめるなど非常にピリピリしていた時期である。
このため勝親は逆らったものはこうなるという、見せしめにされたと見られている。

勝親はその後二本松藩に預けられたが改易から三年後に亡くなった。
だが綱吉の怒りは凄まじかったのか、改易の際には長沼城の破却というかなり厳しい処分を下したり、勝親が死去した際にはわざわざ二本松にまで幕府の使者に検死させにいくという綱吉が嫌った某下馬将軍と同じような措置をとっている。しかも実父である秋月種信も勝親の改易の責任として二ヶ月の閉門処分が下されるというとばっちりを受けることとなった。

小笠原長邕

領地:豊前中津藩4万石(二度目)
理由:1(無嗣断絶)
処分:所領没収、弟小笠原長興が1万石で立藩

小笠原氏の受難はまだ続く。贅沢三兄弟の末弟長円が亡くなり僅か2歳で継いだ長邕だったが6歳で亡くなってしまったのだ。
幾ら親が絶倫でも、長邕がこの年では子供は出来ず流石に詰んだ…と思いきや、例によって大坂の陣での「父祖の勲功」で弟の長興が減封・移封の上でだが大名返り咲き。ご先祖様に足を向けて寝れません。
長興も病弱のため18歳で隠居した*80が、その際に藩籍返還を申し出た所、特別に末期養子を本家から貰うことを許された。その後は特に問題もなく、ようやく受難は終わりを告げるのだった。
親子二代で戦死したが、家は明治維新まで続いたので報われたといっていいだろう。
忠脩の家系も長円の兄長宥が伝えている。


水野忠恒

領地:信濃松本藩7万石
理由:3(刃傷沙汰)
処分:所領没収の上秋元喬房に預けられ、後に叔父水野忠穀の下で蟄居

松の廊下事件パート2。DQN勝成の異母弟・忠清の玄孫。
嫡男ではなかったため本来は家督を継ぐ立場になく、酒に溺れるわ弓矢や鉄砲をみだりに撃つわといった奴だった。
ところが兄が早世し、急に家督が回ってきた。しかし、やる気も無かったらしく藩政は家臣任せにして自分は酒と狩猟ばかりしていたとか。
そんな中で、忠恒は自分の領地が取り上げられて毛利師就(後の長門長府藩主)に与えられることになる、という噂だか妄想だかにとりつかれ、自分の祝言の報告をしに江戸城に登城した際、松の廊下で師就に斬り付けてしまった。
師就は刀を抜かず鞘で応戦し、一命を取り留めた。だから殺すなら突けっつってんだろ!
これにより忠恒は改易となったものの、叔父忠穀に7000石が与えられ、後に忠穀の子・忠友は駿河沼津藩3万石の大名となっている。
ちなみに毛利側はもちろんお咎めなしだった。吉良のおじいちゃんも鞘で抵抗すれば武士としての格好はついたかもしれない。
島津といい鳥居といい水野といい、忠恒という名前にはキチガイの血を暴発させる何かがあるのかもしれない


植村恒朝

領地:上総勝浦藩1万石
理由:3(虚偽申告)
処分:所領没収の上植村家道に預けられる

旗本の朝比奈百助が病死し、葬儀の前の湯灌をしている際、百助の妾と用人が乳繰り合うような動作があり、百助の子・万之助がそれを見咎め叱り付けた。
二人がこれを否定した所、万之助はカッとなって斬り殺し、その騒ぎから逃げ出そうとした下女にも斬り付けてケガを負わせた。
その騒ぎを見て、万之助の義兄(妻の兄)の植村千吉が万之助を取り押さえようとしたが、万之助に殺害されてしまい、万之助もその場で自害した。
千吉は恒朝の一族の者(恒朝の叔父の孫)であったため、植村家中にて協議が行われた結果、外聞が悪いとして千吉を病死として幕府に届け出た。
しかし、朝比奈家とは擦り合わせを行わなかったらしく、朝比奈家の報告と植村家の報告が異なっている状況が発生したため、幕府から咎めを受け、改易となった。
本来なら死刑または流罪に該当する事案であるが、時期が徳川吉宗死後2か月という時期だったため、恩赦として本家の大和高取藩主植村家道に預けられるという処分で済んだ。その後家名は2000俵の小普請として存続がなされた。


金森頼錦

領地:美濃八幡藩3万8000石
理由:5(失政)
処分:所領没収の上南部利雄に預けられる

江戸時代も中期になると、(場所や時期にもよって大きく異なるが)平和で生活も概ね安定していた。
……のだがその一方で、大名たちの財政はどんどん厳しいことになってきていた。
これは貨幣経済が発展する一方、大名の収入源である米の価格が生産量の増大によって下落し、実質な歳入が目減りしたためだった。
なので幕府や諸藩では、この時期から増税が一大ブーム(?)となったのだが、しかしいきなり明日から年貢倍な!とか言っても農民が素直に受け入れてくれるわけもない。

当時の農民というのは、「虐げられる無力な下層市民」では全然なく、必要とあれば徒党を組んで強訴・越訴・逃散、場合によっては一揆も辞さないたくましき自力救済マンである*81
また統治する武士の方でも、森忠政のように「全領一揆起こされたけど数百人磔にしたら静かになりました」とはいかなくなってきた。

なので増税とは言っても簡単にはいかず、事前に念入りに根回しするなり、何らかのアメと抱き合わせにするなり、慎重に段階を踏んで行うのがベストだった。

…だったのだが……

父金森頼時の代に美濃八幡藩に転封されてきた金森頼錦は、奏者番*82に任命され今まさに幕閣の出世コースを歩もうとしていた。
だが幕閣として出世していくには贈り物とかを用意しなくてはならないのでとにかく金がかかるし、頼錦自身も浪費家なので私財は幾らあっても足りない。そこで頼錦は増税を行おうとした。

最初は細かな増税や新税の創設で小銭を浅く広く集めていったが、しかし次第にそれでは飽き足らなくなったのか、ついに頼錦は税収の柱である本年貢(米)に手を付ける。
しかしこれが領内の農民たちの大反発を招き、大規模な一揆を引き起こしてしまったのである。
さらに発生後も、藩側の処置は監禁投獄や秘密処刑などといった苛烈な、しかし場当たり的な処置に終始したため、一揆は徐々に長期化していった。
さらにさらに長期化する一揆の裏で、「石徹白騒動」と呼ばれる別の事件が発生。
これは一揆とは直接関係はなく、単にある神社の神主と奉行の癒着による騒ぎだったのだが、500人以上の農民が追放刑にされて死者多数を出したために大問題となった。

これらの八幡藩で連続する騒ぎに対し、幕府もついに重い腰を上げ調査に乗り出したのだが、そこで衝撃の事実が明らかになる。
この不始末が幕閣で問題にならなかった影には、なんと頼錦の義父だった老中、本多正珍とその取り巻きのもみ消し工作があったことが判明したのである。
これは重大な幕法違反だったため、ことは大いに紛糾。紆余曲折を経て、最終的には
  • 一揆勢……死刑10数名、追放など40数名
  • 金森頼錦……改易&永預け
  • 本多正珍……老中罷免&左遷
  • 正珍派の幕臣……改易1名(本多忠央)、他罷免、左遷など処罰者多数
  • 馬場文耕(?)……江戸の講釈師。この事件を擦った講談を出版したために死刑
といった感じで、喧嘩両成敗ならぬ喧嘩全成敗といった実に不毛な有様に終わった。
ちなみに大名領の一揆に関して、幕府内で処罰者が出たのは江戸時代を通じてこの1件だけである。

後にこの騒動は「郡上一揆*83」と呼ばれるが、泥沼過ぎてこれ以上は書くのも説明するのも難しいので、興味のある人はWikipediaでも見て欲しい。


小堀政方

領地:近江小室藩1万630石
理由:3、5(失政)
処分:所領没収の上、大久保忠顕に預けられる。

「へうげもの」にもなぜかカマっぽく登場した小堀遠州の玄孫。祖先から続く「遠州流茶道」の七世家元でもある。
兄で養父でもある政峯の時に譜代大名格になり、小藩の大名ではあるものの中央での出世も夢ではなくなった。
そこで政方は当時の権力者であった田沼意次にすり寄り、大番頭や伏見奉行*84職を得た。

じゃあその経費はどこから出てくるのかというと、天領である伏見の町民からの徴税である・・・え?
御用金の名目で11万両を不正徴収し、自藩の借金返済や自身の贅沢のために費やしたのである。
折からの天明の大飢饉で困窮していた伏見町民はこれにブチ切れ、町年寄7人が寺社奉行に訴え出る挙に出た。これにより政方は服務規程違反などの罪に問われ、伏見奉行を罷免されることになった(伏見町民一揆)。
更に罷免された翌年、田沼が失脚し松平定信が首班となったことで後ろ盾を失った政方は、伏見奉行時代の悪行を理由に改易され、相模小田原藩に預けられそこで没した。
小田原に流された後は、茶道の家元として作法の書を記し、遠州流茶道を後世に伝えたことで名を遺した。家を潰したという意味で、大名としてはクソもいいとこだけどな!


松平頼徳

領地:常陸宍戸藩1万石
理由:3(反乱)
処分:切腹

水戸徳川家の分家である常陸宍戸藩主。
時代は幕末、桜田門外の変の後、水戸藩は尊王攘夷派が暴威を振っていた。
特に常陸筑波山で決起した水戸天狗党は活動資金獲得の為に、栃木や真鍋*85の街を襲って放火殺人強盗を繰り広げていた。
当然の事ながら北関東諸藩は藩主から領民まで一致団結して激怒して幕府と水戸藩に猛抗議し、江戸駐在を義務付けられていた水戸藩主・徳川慶篤は分家の頼徳に自分の代理として治安回復を依頼。幕命で水戸に向かった。
此処で頼徳が尊王攘夷派の巨頭・武田耕雲斎を連れていた事で、水戸城に駐在していた保守派が猛反発し、入城を拒否。
遂に那珂湊で大乱戦に発展し、水戸天狗党は頼徳側に立って参戦。
暴徒の鎮圧・逮捕に向かった筈が、その暴徒と共同戦線を張るとは何事だ、と幕府を激怒させる結果となり改易・切腹に。
因みに、水戸天狗党は尊王攘夷派と言ってもほぼ全員が討幕の意思は無く、寧ろ水戸徳川家出身の徳川慶喜を頼ろうとしていたぐらいだが、被害を受けた北関東諸藩と遺族一同の怒りがそんな理由で収まる訳もなく、敢え無く慶喜に見捨てられ降伏した。1865(元治2)年に耕雲斎ら352名が斬首され、さらに保守派によって水戸に残った妻子も処刑されたが、戊辰戦争勃発と前後して、耕雲斎の孫・武田金次郎を首領とする天狗党残党が蜂起し、保守派を粛清し水戸藩の実権を握った。
一方の宍戸藩も、前藩主である頼位が朝廷より藩の復旧を命じられ、復活を果たした。





松前章広

領地:蝦夷松前藩3万石
理由:その他(幕府の対露政策のため)
処分:武蔵埼玉群5000石、陸奥梁川藩9000石を与えられた後、復領

ご存知アイヌから搾取を行っていた松前藩9代目当主。
この時ロシアがアイヌと接触を持ち次第に南下を始めており、ロシア側が幕府に通交を求めてきたことから幕府が警戒。
対ロシア政策のために松前家の領土の大半を取り上げた。
その代わりに章広に武蔵埼玉郡5000石を与え、後に陸奥9000石を与えられた。
後にロシアの脅威が去ったため(父である道広が幕府重鎮たちに賄賂工作を働いたとも)、旧領に復帰した。
なお改易理由にはほかにも、父である道広の放蕩・散財が激しかったためとも、北方に対する防御・警備を怠ったなどの説もある。


林忠崇

領地:上総請西藩1万石
理由:2、3(新政府に対する反抗、領地の無断放棄)
処分:所領没収、及び降伏後唐津藩邸に幽閉→林家新当主林忠弘の元に預けられる。

現在の千葉県木更津市地域にあった小藩を治めていた大名。明治維新時20歳だった。
戊辰戦争時旧幕府軍への協力を願うも、藩内恭順派(新政府支持)の反発ゆえに自ら陣屋(居城)を焼き有志と共に脱藩し参戦。大政奉還・江戸開城で幕府から政治を引き継いだ新政府により改易され、最後の改易大名となった。
というか自ら脱藩する大名なんて改易以外どう処分すれば良いのか
林家自体は前藩主の息子で忠崇の甥の林忠弘が継ぐも、他の新政府敵対勢力と違い明確な降伏手続きをとれなかったせいで地位回復が大幅に遅れる羽目に。
ちなみに忠崇は軟禁処分が解かれた後各地を流離っていたが、明治26年林家が華族となった時共に名を連ね一応復権し、なんと1941年(昭和16年)に92歳で他界。「最後の大名」とも称されている。


追記・修正は所領没収御家断絶の上切腹させられた後お願いします

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最終更新:2024年03月18日 22:34

*1 当主を暗殺して「実は養子になってたんだよ!!」などという形で傀儡に挿げ替えたり、乗っ取ったりする事などを防止するため

*2 松の廊下で浅野に斬りつけられた吉良義央も息子が上杉家の末期養子になったが、そのせいで上杉家の所領は半減している

*3 浅野の弟による家名存続を図っていたため、余計な抵抗は逆に家名にとどめを刺す恐れもあった

*4 支配に穴をあける訳には行かず、近隣の藩に引き取らせるか、幕府直轄にするにしても幕府の代官やその家臣団を新たに対応させなければならない

*5 所領を別の場所に移す事。恩賞的なものも存在したが、ほとんどは懲罰的なものだった

*6 戦において最も難しいとされる殿を数多く務めた為付けられた

*7 有力武将に従う下級武士のこと

*8 追放された時点で柴田勝家や羽柴秀吉を凌ぎ最大規模の勢力であった

*9 信長としては自分が正当であると周囲に示すために追放扱いにした。

*10 実質一択や脅迫の様にもとらえられることが多いが、信長は戦功を挙げた者や勇敢に戦い戦死した者はかなり厚遇しているので前二つを選んでいたら折檻状内でも書いている通りに信長からの評価も変わっていたことは確実。信盛の行動の是非は誰にも分からないが、当時の勢力の大きさや他の重臣の状況を考えてもとてつもない無茶ぶりという選択ではない。

*11 一乗谷城の戦いの直前にあった刀根坂の戦いにおいて、戦場から撤退する朝倉義景軍に対して信長が陣頭指揮をとって追撃をしたのだが、織田軍の先手武将たちは事前通告を受けていたにも関わらず遅れてしまい追撃を怠った形になった。そのことに対して信長の叱責を受けたのだが、それに対して信盛は涙を流しながら「そうは言われましても我々のような優秀な家臣団はお持ちになれますまい」と口答えをしてしまった。当然信長は更に激怒し厳罰を与えられそうになったが、他の家臣団のとりなしでその場での処罰は辛うじて免れた。しかし信長はこのことを相当根に持ったようである

*12 折檻状の前半にもあるように他の主な家臣が忙しい中最大勢力なのにろくに動きがなかったため、粛清までいかずとも引き締めを図らなければ示しがつかない情勢だった。勢力拡大により多数の大事業が控えているので働いて貰わなければ困る事情もあった。また、佐久間のことは皆よく知っていたことや、佐久間父子の与力達に『佐久間父子を追放した』という書状を『佐久間父子が出奔した後に出した』ことなどから、半ば無理やりにでも影響を抑えようとした形跡がうかがえる。そのため信長が最大勢力の佐久間ですら追放する気だったとは断言しがたい所がある。信盛の死後ではあるが、息子の信栄は信忠の家臣として復帰することを許しているし。

*13 こちらも佐久間同様にこの年代ではあまり動いていなかった

*14 自分の使っていた金の団扇を、秀吉自らの手で与えて褒めたたえていたほど

*15 二人は元々柴田勝家に仕えていたが後に後北条氏に仕え、それでも赦され紆余曲折を経て秀吉の直臣となっていた

*16 弟らと同じく柴田勝家に仕えていたが、落ち武者狩りをしていた農民に捕縛され秀吉に突き出された。秀吉は幾度となく自分の下に降るよう説得したが盛政は拒否し、遂に秀吉の方が折れた。なおこの時盛政を突き出した農民たちは全員死罪にされ、農民らはこれに大きなショックを受けたのか落ち武者狩りに消極的になり、関ヶ原の敗戦から生還する武士が多数現れた

*17 羽柴四天王の一人。竹中半兵衛が称賛するほどの軍才を持っていたが、鼻持ちならない言動を繰り返し遂に秀吉と衝突し追放された

*18 足利義栄→足利義昭→織田信長→徳川家康。その間に上杉謙信や会津蘆名氏、三好三人衆の所にもいたりする。秀吉の家臣になったのは嫡子が石川数正の下にいたせい

*19 よって次男が跡を継いだ。しかしこの時の秀政の戦死は、後年小笠原家が改易の危機に陥る度に「父祖の勲功」として救われる一因となった

*20 小田原戦前の官位は正二位内大臣で秀吉の弟・秀長や家康(従二位権大納言)より上

*21 この時は越前国大野郡に5万石を領していた息子秀雄の後見に復帰しただけで、大名として復帰するのはもう少し後という説もある。

*22 大友家初代の大友能直が頼朝に大抜擢され、頼朝の落胤とも噂された。最も鎌倉後期に編纂された大友家の系図では出自を秀郷流藤原氏としている

*23 現在の所、信憑性が高めの史料の中にも謀反を企んでいたとずばり書いているものは存在しないとのこと。また秀次の行動や評価を記したものとしては、信憑性が疑わしくなってきた「太閤さま軍記のうち」やそれ以後に書かれた史料の影響もあり、諸説の再考も進んでいる。

*24 但し最上は秀次の嫁に出した娘を処刑されている

*25 勿論これが直接の要因ではなく、徳川重臣で関ヶ原で島津と闘った井伊直政が仲介役として擁護にまわったことや、何よりも関ヶ原に来ていた島津軍は少数で本国薩摩の兵力はほとんど減っていなかったこと、島津の領地が江戸から遠い九州南端の薩摩なので長期戦になると他の反徳川派が反乱を起こす可能性があったなどの理由で島津に武装蜂起させたくなかったことなどが要因である

*26 そもそも改易になった原因の1つに豊臣家への忠誠心があり、浪人にしておくと豊臣家に召し抱えられる危険性があった為とも言われている

*27 余談だが道三は未だ不明瞭な点が多いので除外するが(国盗りは実際には親子二代に渡る動きだった)、久秀や高虎は主君に対して裏切っている訳ではなかったり特に高虎は高潔な武将だったことを示すエピソードが多々あるため、悪評は後の脚色が強かったせいで現在はむしろ義理堅い武将だったのでは?と考えられている。

*28 因幡鹿野1万3800石

*29 大和芝村藩1万石と大和柳本藩1万石]

*30 信君の母は武田信玄の姉。

*31 秋山氏は武田宗家の支流であるため、血縁関係がないわけではない

*32 当時家康には後継者として秀忠がいた為、自身の産んだ息子たちを養子に出していた

*33 見性院の同母兄。盲目だったため廃嫡されていた

*34 この家臣達は先に泥棒に成功されているので、康景から警備強化を指示されていた。不法侵入と窃盗未遂なので普通に逮捕案件であるし、抵抗すれば殺されてもおかしくはない。

*35 なお玄以は生前キリシタンだからという理由で長子を廃嫡している。茂勝とは何が違ったのか…

*36 上記の問題行動を諫言した家臣とも言われる。

*37 本人だけでなく家族や関係者にも罰を与えること。

*38 原因は忠頼が懇意にしていた方の家臣に肩入れして助言したことだとされている。まさに碁盤の裏にある「血溜まり」の語源と近い事態となってしまった

*39 藤広が幕府の対外貿易とその政策を担う重鎮であり代えがいなかったこと、また藤広の妹が家康の愛妾であり駿府城の金庫番でもあったことが理由とされる

*40 当時は伊勢津城主

*41 下野佐野藩3万9千石

*42 但し当時、戦中の追い越しは斬り捨て御免とされており、本来は咎められることではない

*43 実は康勝には勝政という息子がいたが3人の家老により秘匿されていた。その後このことが発覚して家老たちは処分。勝政は旗本に取り立てられ、後に勝政の家系から二度も本家へ養子を出すこととなった

*44 実際将軍秀忠が部下に宇都宮城を調査させた結果、不審点がないことを確認している

*45 酒井左衛門尉忠勝の弟。出羽国白岩4000石の石高を倍にして餓死者を1000人も出す失政で改易され所領のみ没収。石高を禄として給されるようになり兄忠勝に預けられるが様々な事件を起こし後を継いだ忠勝の嫡男から絶縁されて追い出され、娘の嫁入り先と論争になり再度改易され蟄居処分

*46 赤坂御所は紀伊藩の屋敷のあった場所だが、土地を拝領したのは忠俊の改易後で周辺には不自然に青山家の屋敷が隣接している

*47 出羽上山4万石

*48 当時酒井忠勝が二人おり、もう片方は若狭国小浜藩主で大老にまでなった酒井雅楽頭忠勝。項目内に何度か登場する酒井忠清は雅楽頭の方の嫡子で同じく大老になっている

*49 忠春の母は心が狭く身勝手であり、忠恒が実母のように尽くしたにもかかわらず家督を忠春に譲らないことを恨んで寺に走って訴えようとした。なんとか忠恒が説得して連れ戻すものの、これによって不仲になったと伝えられる

*50 陸奥二本松藩3万石。明成の騒動後まもなく死去している

*51 陸奥三春藩3万石

*52 幕府直轄の領地

*53 上述もしているが、これは家光だけの責任ではなく江戸幕府の政治そのものの穴。ただ家光亡き後の混乱から改易を減らす方向にシフトしたため浪人問題は多少マシになった。

*54 従兄弟である陸奥白河藩主・松平直矩の三男

*55 譜代稲葉家の祖である稲葉正成は稲葉重通の養女である福(後の春日局)の元に婿養子入りした人物であり、外様稲葉家は重通の実子と重通の兄の貞通の実子からなる家である。なおその重通の子が上記の稲葉通重と紀通の父である道通である

*56 打ち首を意味しており武士の贈り物としては不適当に値するものである

*57 播磨三日月藩1万5千石

*58 備中新見藩1万8千石

*59 当初は小笠原忠真という名前であったが、秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗った

*60 農業に関してはプラスに働いたが、それが効いてくる前に眼の前の財政が更に悪化してしまった

*61 家臣の俸禄や知行などを藩が借りる形で支給停止すること。この場合は半分持って行かれる。借りるとは言っているが実際に返済が行われることはまず無く事実上の減給であり、批判もかなり多かった

*62 そのためか将軍から見舞いの言葉もかけられ、復帰も促されているなど、行動だけ見れば両成敗になるはずがその対応には天地ほどの差がある。

*63 将軍御台所からの贈り物係だった梶川頼照にスケジュール変更の説明をしていた

*64 この時将軍綱吉は、母親の位階を上げるように朝廷に工作中であった。その朝廷の使者への歓待をしている最中に事件を起こしたため。余談だが当の朝廷側は義央を嫌っていたこともあってこの事件にむしろ喜んでいたという文が残っている。

*65 前述の赤穂浪士達も後になんやかんや言われていることもあれば資金繰りなどの計算もしているのだが、この「武士として恥じない行動を取る」みたいなことも散々記している。この様に武によって特権階級に位置する武士にとっては存在意義に関わることであり生死と同じ位に重たい価値だった。

*66 刃傷事件の時に義央は逃げるばかりだったため、後にその振る舞いを「内匠に対し卑怯」としており、当時の世情もだがこれだけ見ても武家として当然の対応だったと言えないことがうかがえる。

*67 無論、事件の当事者と事件直後の捜査内容を纏めた責任者の意見なので、稲葉老中の同僚の秋元但馬守と土屋相模守も「乱心の可能性を含めて慎重に捜査すべきではないか」と稲葉老中の意見を尊重している。

*68 吉良は背後からの刃傷直後で切りかかられた直接の理由を事情聴取時点で理解していなかったと思われる。仮に思い当たる節が有っても、罪から逃れるために嘘をついた可能性も有り得るし、何より浅野家側も処罰の軽減や連座対象の縮小などのメリットが有るので賛同すると想像した筋も否定出来ない。稲葉丹後守も「乱心なら連座対象を減らせる」と言う先例から事を穏便に済ます為に主張した可能性が有る。結局、当時の捜査方針の指針や一次資料として価値は有るが、双方共に乱心説に落とし込む動機が有るので全面的に肯定出来るものでもない。

*69 仮に精神病だったとしても肝心の動機が不明のまま。更にそれとは別にこれをもって義央側はやましいことは何もないとはならない

*70 前述の様に、事件時点で老中5人のうち3人は捜査と判決に慎重論を唱えていた

*71 柳沢家のお抱え学者の荻生徂徠が典型例で、「腹が立つ事が有ったとしても公務中の殺人未遂は重罪だし、其れを褒める等言語道断!」「恨む相手は被害者じゃなくて、処罰命令を出した将軍様じゃね?」と切り捨てている

*72 加賀藩第3代藩主前田利常の次男の利次を祖とする

*73 前田利家の玄孫に当たる

*74 織田信長の末弟である織田有楽斎の玄孫に当たる

*75 胸を刺した後に喉から口を串刺しにさせたという

*76 分家に土地を分けて独立した支藩を興すのはデメリットも多く、本家に従属的な関係の支藩を作ることがしばしばあった。これを内分分知と言う

*77 双方の主張が食い違っているが境界を侵犯した萩藩側の農民を徳山藩側の武士が殺害した事は共通している

*78 背景にはこの事件の前に毛利本家の跡継ぎがいなくなった際に毛利輝元の孫で本家筋に近い元次が無視されて傍系出身(輝元の祖父の毛利元就の4男の子孫)の吉元が毛利本家を継いだ事が原因で仲が悪かったのも影響している

*79 ちなみに秋月種信の母、すなわち勝親の祖母も藩祖勝之の娘にあたる

*80 その後出家し75歳まで生きた

*81 ちなみに江戸時代を通じて一揆は3000件以上発生しているので、単純計算で1月に1回ぐらいの月刊ペースで一揆ってることになる。ゴウランガ!

*82 将軍に贈られる大名や旗本などからの贈り物を管理・報告する職務。幕閣として出世するための登竜門とも呼ばれる職務であった。通常は譜代大名から選出されるが頼錦は異例の外様大名から抜擢された

*83 八幡藩は郡上藩とも言われていた

*84 祖先の遠州も伏見奉行を20年以上務めた

*85 現在の茨城県土浦市