改易

登録日:2019/07/23 Tue 21:03:19
更新日:2019/08/14 Wed 09:48:57
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改易とは、元々は当人を役職から罷免し同じ役職に別の人物を新任する、いわば首を挿げ替えること。
現在では主に日本の大名が身分を剥奪され所領などを没収されることに対してこの言葉が用いられることが多い。

●目次

概要

「改易」とは元々は律令制度において現職者の任を解き、新任者を補任することを指していた。
鎌倉時代に入ると守護や地頭に対して使われるようになる。
戦国時代や江戸時代では大名や旗本などの武士に対して使われることになり、それらに対しては当人から身分と所領などが剥奪・没収されることを意味する。

そして大名家の改易は概ね以下の理由が適用される。
  1. 世継がいなくなり断絶する(無嗣廃絶)
  2. 主家(江戸時代なら徳川将軍家)への敵対
  3. 幕府の法に反する等の罪科がある
  4. 軍規違反など武士として不適格
  5. 家中や領内の統制に失敗したり乱暴狼藉を働くなど、藩主として不適格
  6. 君主の気分

特に1に関しては、江戸時代の武士は基本生前に跡継ぎを上に届け出なくてはならず、江戸時代初期においては急死・急病などで急遽他から養子を探す「末期養子」は禁則事項とされた*1ため改易が頻発。
4代将軍の時代に末期養子は条件付きで許可されたが、それでもペナルティが課せられるケースがあった。*2
他にも
  • 若くして当主が死んだ場合兄弟などの別人を「当主本人」という形で挿げ替える。
  • 当主が死んだ場合に「病気で隠居」などという形で死亡時期をごまかし、その間に養子を決め、生前からの養子と取り繕う。
と言った不正行為の記録がある。
5代将軍の時代には主に譜代の大名が狙われ、その後は幕藩体制が確立したせいか改易・転封*3は減少していく。

大名も力を持った一勢力であり、武力で抵抗…という事も当然懸念される訳だが、実は江戸時代に入って以降武力抵抗の記録はない。
忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野長矩の筆頭家老である大石内蔵助も、反発して籠城しようという家臣たちの主張を抑えて城を明け渡している*4
それでも最初期の改易は、大名本人が家臣団と離れている時、もしくはそういう状況を意図的に作り出した上で改易を通告するなど、幕府側も細心の注意を払っていた。

改易をされれば、その大名に仕えていた武士たちは多くが路頭に迷う。
武士の間では「主君を変える」行為を不道徳とみなす考え方が強く、新たな大名に仕えることも難しい。
そもそも新しくやってくる大名にも元からいる家来たちがいるわけで、全員が再就職できるわけがない。
そうすると、一部の転職成功組を除いて彼らは武士でありながら定職を持たない浪人となった。当然生活は苦しい。
浪人は改易に関する幕府への不満と相まって島原の乱のような一揆や、慶安の変(由比正雪の乱)のような幕府転覆計画に加わろうとするなど、社会不安の一因となった。
また領民にとっても、それまでに獲得していた権利が認められなくなることがあったため、反対一揆を起こすことすらあった。

最初期の幕府はまだ権力的に完全ではなかったため、割とバシバシ改易をしてその権威を示す必要があった。
だが幕府権力が安定してくると、改易に伴う配置換えなどの手間*5や浪人の増加が無視できない問題になる。
結果として、末期養子を認める方向にチェンジしたり、功績・縁戚のある家系に多少の特例を認めたり、後期には改易を避けるための不正行為を黙認していたとみられるケースもあった。

所領のみが剥奪されたり減らされる除封・減封といった処分もあり、直接または改易を経てそういった処分を下されることもあるが、ここでは後者のみ取り扱う。
ここでは主に戦国時代以降の改易と、それをされた大名らについて解説・紹介していく。


改易の実例


佐久間信盛

領地:西三河、尾張知多半島、刈谷、近江国栗太郡など
理由:4,6
処分:追放、後に死去

幼少期から織田信長に仕え、「退き佐久間」*6の異名を持つ織田家の重臣。
桶狭間の戦いから長篠の戦いまで織田信長の主要な戦いには全て参加している他、吏僚としても活躍し足利義昭との交渉を含め畿内における様々な仕事を任されるなど文武両道に長けていた。
その為、領地は上記の様に多岐に渡り、それ以外に近畿地方にも部下を持っていたので最後の石山本願寺との戦いでは三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の計7ヶ国の与力がいた*7
しかし、その石山本願寺との戦いは信盛着任前から始まっていたとはいえ長期戦となり、5年の歳月を費やした上に結果的には降伏ではなく講和という形で決着した。
更に本来なら手に入るはずだった難攻不落の石山本願寺も失火で全焼させてしまった
その結果、講和から1ヶ月も経たない内に、いきなり信長から19項目にも及ぶいちゃもん折檻状を突きつけられて高野山に追放された。
因みに有名な折檻状の内容は非常に長いので要約すると

・何で本願寺を攻め落とさなかった?(第1、2条)
・そもそも最近お前はたるんでる(第3~11条)
・お前の息子に至ってはバカ息子過ぎて論外だ(第12~15条)
・こんな親子役立たず過ぎるから何処かで討ち死にするか、高野山に行くかどちらか選べ(第16~19条)

の様な感じで7年前の出来事*8やかなり個人攻撃を含んでおり、信長の執念深さが伺えるとする向きもある。
一方で信盛と同じ時期に尾張や美濃に領地を持つ複数の譜代の重臣も一緒に追放されており、仕事に見合わない大録を持つロートル老臣を整理して、強制的に部下の世代交代をしたのでは?という説もある*9
この後信盛は追放のショックが大きかったのか2年後の1582年に死去した。

なお信盛は実質的な信長の本拠地である畿内方面軍を統率しており、信盛失脚後にそれを引き継いだのは明智光秀であった。
結果的にこの改易は本能寺の変を起こす機会を与えたと言える。

林秀貞

領地:尾張春日井郡
理由:2(事実上6)
処分:追放、後に死去

信長が10歳で那古野城を与えられた時には筆頭家老として付けられた織田家の重臣。
だが、当時奇行を繰り返した信長を見放して実弟の信行を擁立して謀反するが一方で信長の暗殺の提案には拒絶するなどした為か稲生の戦いで信長が勝利した時に赦免されている。(ここ重要)
この時点で既に43歳と老齢に差し掛かっていた事もあり、その後は筆頭家老として主に外交面、内政面を中心に活躍する。
最晩年は信長から家督を譲れた信忠に付き尾張での内政に従事していた。
しかし、1580年に上述の佐久間信盛の追放と同時に何と24年前の謀反を理由に改易された。
一度赦免している事実から見ても明らかに口実に近く、実際は老齢(当時68歳)で仕事に見合わない大録を持つ秀貞を追放する事で家臣団を整理する目的があったのでは?と言われている。
信盛以上に追放のショックが大きかったのか同年の内に死去した。
因みに明智光秀は「当代記」によると秀貞とほぼ同年齢(この説に従うと当時66歳)の可能性があり、長年信長に尽くしていた秀貞ですら実力に見合わないと判断されるや改易された事から四国問題で躓いた事で近い将来の改易を憂いて本能寺の変を起こしたのでは?とも言われており、そう考えると信盛の改易も含めて秀貞の改易が本能寺の変を起こす上で大きな影響を及ぼした可能性がある。

仙石秀久

領地:讃岐に10万石、ただし2万石が十河氏領なので実質8万石
理由:4,6(軍規違反)
処分:追放、後に復帰

四国の諸将を取り纏める軍監という立場で、豊臣秀吉の命令により島津氏を降伏させるための九州征伐に参陣するが、「防備を固めて持久戦に徹しろ」という秀吉の命令に背いて、積極策を取って戸次川の戦いで大敗してしまう。
しかもその後何もせず、自分だけそそくさと所領に逃げ帰ってしまう
軍監ということは敗戦しても敗残兵を纏めて防戦し、本隊が来るまで持ち堪えて責を果たさなければならない。
なのに逃げたのであれば改易も仕方ないだろう。
まあ、まとめていた軍団が直前に降伏させた長宗我部や島津に押されまくって滅亡寸前だった大友だったり、
戦う相手が戦馬鹿の薩人マシーン軍団戦国屈指の戦上手の島津だったりと擁護できる点はあるが、敗戦後に逃げてしまったのは庇いようがない。そもそも命令違反もしてるし。

さらに言えば、この時長宗我部家の跡取りとして期待されていた信親を戦死させてしまったため、非常に恨まれた。
これは長宗我部元親にとって相当な痛手であったらしく、以降は性格が激変。
度量や器の大きい人物であったはずが、狭い了見で無理難題を強引に通すようになり、反対するものは皆殺しも辞さず、
すっかり英雄としての覇気を失ってしまったという。

秀久は後に北条征伐において浪人衆を率いて参陣し功を挙げて許され、5万石で復帰した。


尾藤知宣

領地:讃岐宇多津5万石
理由:4,6(臆病)
処分:追放、後に斬首

羽柴四天王の一人。仙石秀久の後任として軍監となり、こっちは消極策を取る。
だが消極過ぎるあまり根白坂の戦いにおいて攻撃を受けている味方に援軍を出さず、見殺しにしかけている。
しかも藤堂高虎らが手勢で奮戦してなんとか押し返したのに、深入りは無用と島津軍壊滅のチャンスをみすみす逃してしまうはめに。
秀吉がこれらを問題視したため改易となった。
後に北条征伐において戦勝時に許されに秀吉の元へ剃髪した姿でやってきて例を挙げながら弁明しつつ許しを請うものの、逆に秀吉の逆鱗に触れてその場で斬首された。
言葉より働きで示せということだろうが、二回怒らせたとは言え二度目は罪とまでは言えず、いきなり斬首するのか?といったところも少しある。
似たような立場の上記の仙石秀久と比較されてしまったのかもしれない。


小笠原貞慶

領地:讃岐半国
理由:6
処分:所領全て没収

某歴史SLGシリーズで本体の家宝目当てに特に意味もなく処断されたり、モノだけ取られて追放されることで有名なかわいそうな人。
紆余曲折と様々な遍歴を経て秀吉の家臣になり*10、軍功をあげて讃岐半国を与えられる。
が、その直後の上記の尾藤知宣の件&彼を庇護していたことが発覚したというだけで家宝領地を全て没収されるという、とばっちりでリアルにかわいそうな目に遭った人。
秀吉としては明確に4にあたる行為だったのかもしれないが、尾藤知宣は裏切り者というわけではないので、全没収までしたのは理不尽に映る。
その後は子の秀政と共に再び家康の家臣になり、秀政に与えられた下総古河3万石に移った。
なおその秀政は家康の娘を娶り譜代格となったが、家督を譲った長男とともに大阪夏の陣の天王寺口の戦いで戦死してしまった*11


大友義統

領地:豊後国41万石
理由:4,6(敵前逃亡)
処分:隠居、後に関ヶ原で敵対したため幽閉

源氏に繋がる名家である大友家の当主なのだが、自他共に認めるクズ。
文禄の役で小西行長隊が明軍と交戦し救援要請を受けたが、家臣から戦死したという誤報を受け確認もせず城を放棄し勝手に撤退。
行長は命からがら撤退できたものの、義統は報告を受けた秀吉に激怒され殺されそうになる。苦戦している味方を見捨てて逃げた形になっているので当然である。
しかし名家であるため死一等を減ぜられ改易とされた。
その後の関ヶ原では毛利に乗せられ、元家臣の諫めも聞かず豊後で西軍として挙兵。しかしクロカンに勝てるわけもなくあえなく鎮圧された。
大友家自体がキリスト教の問題で家庭崩壊してたりするのもあるが、どうしてこうなったのか…
ちなみにその元家臣は敵軍に突撃、旧知の友人に手柄を挙げさせるために自害した。義統?降伏して生き延びました。


秀次事件

理由:6(表向きは2)

豊臣秀吉が甥の秀次を「謀反の疑いあり」として、出家させた後に切腹させた豊臣家のお家騒動で秀次関係者の大勢が改易となった。
表向き両者の関係が良好に見えていたこと・被害を被った者が多い上に刑罰もチグハグだったりする上に、理由も実はあまり公にしていないらしく衝撃的な出来事だったことは疑いようがない。
表向きの理由は不審な点が多く、まだ赤子だった実子の秀頼に地位を継がせる為の行動が目立っていたこともあり、それが主な原因とみられているが諸説ある*12
この中で最上義光、細川忠興、伊達政宗などは秀次と懇意であったが徳川家康のとりなしで改易は逃れており*13、後の関ヶ原で彼らが東軍に与する一因となった。
豊臣恩顧の武将が激減し、逆に徳川家康側の勢力が急激に増した最大の要因とも言える(他にもいくつかの要因や事件もあるが)。
更に、恐らく足軽か農民出身で一族の勢力が小さい豊臣家が内ゲバを起こしてしまった為、信用できる身内が少なくなってしまったことも致命的であった。
結果として豊臣家を滅亡させる原因となってしまった。


関ヶ原の西軍

理由:1,2

言わずもがなだろう。数が非常に多いためよっぽどのことがなければ割愛する。
ただし島津家のみ島津義弘らの決死の退却の成果もあってほぼ無傷であった*14。豊久は行方不明になったが。


立花宗茂

領地:筑後国柳川13万2000石
理由:2
処分:所領没収後、浪人時代を経て大名に復帰+旧領に返り咲く

関ヶ原の戦いで西軍についた為、改易となる。
しかし軍才や人望を惜しまれ、改易にした家康本人に召し抱えられ大名に復帰するという措置を受けた*15
その後坂崎直盛の事件が起きた時には、直接対処にあたった柳生宗矩に計謀を与えたとされる。
そうした功績もあり筑後柳川10万9200石を与えられ旧領に返り咲きを果たした。
関ヶ原の戦いに西軍として参戦しながらも元の領地に戻れたのは宗茂のみである。
その後も秀忠・家光に仕え、島原の乱では夜襲を予告して命中させたり、兵糧攻めを進言したり、原城攻城時には一番乗りを果たしたりしている。



これ以降は江戸時代になるため、藩という括りになる。


武田信吉

領地:常陸国水戸藩25万石
理由:1(無嗣廃絶)
処分:所領没収(後に異母弟徳川頼宣に与えられる)

徳川家康の五男。
甲州征伐により武田宗家が滅亡後、武田信玄の娘である見性院は自身の息子である武田信治が死去した事により武田家の再興を考えており、同じ武田家の家臣の秋山氏の娘が家康の側室となり信吉を産んだ事から武田家を継ぐ事になった*16
その後関ヶ原の戦いで西軍に付いた疑惑を持たれて秋田に転封となった佐竹氏に替わって所領の水戸を与えられたが、生来病弱な体質で跡継ぎに恵まれないまま1603年に21歳で亡くなってしまった。
旧武田遺臣を付けてもらって武田家の再興は達成していたのだが…
その後水戸の所領は異母弟に当たる徳川頼房が引き継ぎ、頼房の同母弟の徳川頼房に与えられ幕末まで御三家の1つ、水戸藩として続く事になる。
武田家も信玄の次男である海野信親の息子信道によって継がれ、その孫信興が高家旗本として存続していく。


松平忠吉

領地:尾張清洲藩52万石
理由:1(無嗣廃絶)
処分:所領没収(後に異母弟徳川義直に与えられる)

徳川家康の四男。
徳川秀忠の同母弟に当たる。
生まれてすぐに親戚筋に当たる東条松平家の養子となる。
その後関ヶ原の戦いでは舅に当たる井伊直政に付き従い初陣を飾るが、運悪く島津義弘らの決死の退却に遭遇し負傷してしまう。
その結果、福島正則が治めていた尾張・清州52万石を与えられるが戦での負傷から病気がちになり、異母弟の信吉、舅の井伊直正が亡くなってから4年後の1607年に28歳で死去した。跡継ぎが早世した子しかいなかった為、所領は異母弟である徳川義直に与えられ幕末で続く御三家の1つ尾張藩として続く事になる。


天野康景

領地:駿河興国寺藩1万石
理由:3,5(殺害人引渡の拒否、出奔)
処分:所領没収

幼少期から家康に仕えた譜代家臣で、三河三奉行とも呼ばれる名奉行の一角。
領内で蓄えていた竹木を盗んだとして、家臣が天領の農民を殺傷。
天領の代官が殺害の下手人の引き渡しを要求、更に難を逃れた農民が徳川家康に直訴したため問題化した。
家康は幼少期から知っている康景について「康景は根拠の無いことを行う者ではないし、どう見ても直訴している方が嘘をついているのでは」と処分を保留。
家康の仰せで本多正純(下記参照)が康景の説得に訪れるが、「相手は地方民とは言え公儀の民であり、そちらの家臣は私兵である。どんなに自分の義を立てようにも、どうして公儀の権威を損ねるようなやり方をするのか」という言葉に康景は激怒。
「正しいことを曲げて間違ったことに従うのは自分の心がけに相反する」として、息子の康宗ともども城地を放棄して出奔したため改易となった。
その後息子は許されて、家は旗本として存続した。


津田信成、稲葉通重ら複数人

領地:山城御牧藩1万3000石、美濃清水藩1万2000石
理由:4(乱暴狼藉)
処分:所領没収、流罪

その他8人と共に京の祇園の辺りで、豪商(後藤家・茶屋家)の女性を無理やり酒屋に連れ込んで酒を飲ませたり、その従者を木に縛り付けて「もし声を出せば斬り捨てる」などと脅すなどといった乱行を行った。
酒屋の者により家康にそのことが訴えられ、改易となった。


前田茂勝

領地:丹波八上藩5万石
理由:5(表向きは発狂)
処分:所領没収、身柄は堀尾家に預けられる

織田家家臣からのし上がり加賀100万石を収めるようになった加賀前田家ではなく、五奉行前田玄以の前田家。
玄以は西軍に与していたが、公家に顔の効く貴重な人材であったため所領を安堵されている。
だが後を継いだ息子茂勝はキリシタン*17の上、徒党を組んで乱暴狼藉を働く傾奇者。宿屋の主とケンカした奴をしょっ引いたらこいつだったこともあったとか。
ある日ノリで複数の重臣*18をぶっ殺して「連座*19で」とか結構ふざけた理由をつけたのが問題視され改易された。
表向きの理由こそ発狂だが、まともではなかったのは間違いないだろう。


松平忠頼、水野忠胤

領地:遠江浜松藩5万石、三河水野藩1万石
理由:5(殺害事件、連座)

処分:松平は末期養子を認めず一旦所領没収→後年に嫡男忠重が大名として返り咲く、水野は切腹
忠頼は桜井松平家当主で、母親が家康の異父妹に当たる。忠胤は水野勝成の弟。
忠胤が主催した宴席に忠頼が参加した際、忠胤の家臣が囲碁(一説には武道とも)の勝敗を巡って刃傷沙汰を起こす*20。忠頼がその仲裁に入った際、逆上した一方の家臣に殺害されてしまった
忠胤は宴席の主催者であったため連座で切腹となった。
忠頼嫡男の忠重は当時9歳であり、また殺害されるに至った経緯から継承を認められず、一旦改易となった。ただし翌年に8000石を与えられ、その後上総佐貫藩1万5000石→駿河田中藩2万5000石→遠江掛川藩4万石として大名に返り咲いている。


有馬晴信

領地:肥前日野江藩4万石
理由:3(長崎奉行の殺害企図)
処分:晴信は切腹を拒否し斬首、嫡男直純が家督を継ぎ所領も安堵

有名な岡本大八事件が理由。
事件をざっくり説明すると、有馬晴信と長崎奉行の長谷川藤広の不和を利用して本多正純の家臣・岡本大八が詐欺を働き露見したというものである。
まあ殺害企図と言っても「今度会ったらあいつ沈めてやる!」って口走っていた程度であるとされる。
が、
・岡本が偽の家康の朱印状を用意
・岡本が詐取した額が6000両という大金
・晴信が旧領回復を目論んだのが騙された原因
・有馬、岡本の両氏がキリシタン
・事件の背景にポルトガル貿易や修道会の思惑も絡む
となると流石に状況が悪すぎた。
事件後幕府はキリシタン排斥や鎖国へ向かっていくこととなる。

なお本来は切腹だったのだが、キリシタンであった晴信はそれを拒否*21。よって大名としては珍しく斬首となった。

また、子の直純は徳川家康の側近を務めていたこともあったのか、珍しく減封も転封もされずに後を継ぎ、有馬氏は明治維新まで続いている。
でもって直純の後見になったのはよりによって長谷川藤広。彼はポルトガル貿易周りで何度かやらかし、それがこの事件にも繋がっているのだが結局お咎めなしであった…*22


大久保長安事件

理由:3,6

家康の下で都市や金銀山の開発で辣腕を振るっていた大久保長安が私腹を肥やしていたことが発覚したとされる事件。6名+下記2名の大名が改易される。


富田信高、高橋元種

領地:伊予宇和島藩12万石、日向延岡藩5万石
理由:3,6(罪人を匿った&大久保長安事件の連座)
処分:所領没収され、身柄はそれぞれ鳥居忠政と立花宗茂に預けられる

粘着キチガイ坂崎直盛の甥を匿ったところ証拠が漏れてしまい訴訟され大惨事に。
富田信高の弟佐野信吉も大久保長安への連座で処分されているので、兄弟そろって踏んだり蹴ったり。
一方その訴訟した当人はというと…(3つ下)


大坂の陣

理由:1,2

豊臣秀頼の他、古田織部などが密通密通を疑われるなどして改易されている。
上述の上総小河藩の藩主小笠原秀政と長男忠脩も壮絶な討死を遂げた。


松平忠輝

領地:越後高田藩75万石
理由:4(大坂夏の陣での遅参),5(直参旗本殺害、参内の懈怠),6
処分:所領没収の上流罪、後に身柄は金森重頼・諏訪頼水に預けられる

徳川家康の六男。容貌が醜いという理由で家康には嫌われていた。切腹させられた家康長男の信康に似ていたともされる。家康臨終の際にも面会を許されなかった。
家康死去の3か月後に改易。理由は大坂夏の陣での遅参があったこと、進軍中に忠輝の軍列を追い越した直参旗本を殺害したこと*23、大坂の陣の戦勝を朝廷に参内して奏上する時に、病を理由に欠席したが、実際は川で舟遊びをしていたこと、などとされている。
他にも、正室が伊達政宗の娘でキリシタンだったことや、大久保長安との関係などから色々と警戒されたためとする見解もある。
改易後、伊勢→飛騨→信濃と転々とさせられ、67年後の1683年に92歳という高齢で死去。なお、徳川宗家からの赦免は約300年後の1984年である。

横山光輝の漫画になっているので知名度は高い方かもしれない。


坂崎直盛

領地:石見津和野藩4万石
理由:1(武装蜂起)
処分:当人死亡、所領没収

大坂の陣後に千姫の処遇を巡り幕府と対立。色々あって屋敷を囲まれて自殺した。
人を呪わば穴二つというが、呪う性格自体に問題があるからそう言われるのかもしれない。


福島正則

領地:安芸広島藩49万8000石
理由:3(城を無断で修理する幕法違反)
処分:高井野藩4万5000石へ減転封、翌年2万5000石を返上

修築は本多正純に届けていたというが、その頃正純が干されかけていたのもあってか受理されていなかったらしい。
修築部分の破却を求められていたが不十分だった上に、色々やらかして改易までされてしまった。
福島家は戦国男塾だったので引き渡しの際に戦になるのではないかと思われていたが、滞りなく終わったという。
ちなみに転封後に返上したのは、正則が隠居し息子に家督を譲ったのにその息子が亡くなってしまったため。


最上義俊

領地:出羽山形藩57万石
理由;5(御家騒動)
処分:大森藩1万石に減転封され、次代で5000石に削減

祖父は最上義光だが、その祖父の晩年からの後継者騒動で家中が分裂(最上騒動)。
江戸時代初期によくあった有名武将の次代がクセの強い家中をまとめられなかった事例。


本多正純

領地:下野宇都宮藩15万5000石
理由:3(謀反、ただし証拠はない)
処分:所領没収の上流罪

サドの神こと本多正信の不肖の子。
正信はどんな加増も固辞して清廉潔白を貫いたが、正純はそうではなく家康死去の後「遺命で」10万石もの加増を受けるなど欲目があった。一応本人は固辞したらしいが…
そうした部分もあり先代からのヘイトが向けられた結果、謀反の疑いがあると罪状が突き付けられた(宇都宮城釣天井事件)。
先代からの忠勤に免じて以前の5万5000石で減転封となりかけていたが、身に覚えがないと固辞したため*24、怒った秀忠により更に重い処分が下されることとなってしまった。


福島正則(二度目)

領地:信濃高井野藩2万石
理由:3(正則死後、検死役が到着する前に火葬された)
処分;所領没収

家臣が勝手に遺体を焼いてしまった。
生きてる間に改易されたのに死んでも改易されてしまう市松であった。
二度改易された例としては旗本の酒井忠重*25などがあるが、大名で二度も改易されたのは市松だけである。


加藤忠広

領地:肥後熊本藩51万石
理由:3,5(詳細は不明)
処分:出羽丸岡に一代限り1万石を与えられ減転封

父は加藤清正。
改易理由は諸説あるため不明だが、家中はうまくまとめられていなかった。


徳川忠長

領地:駿河府中藩55万石
理由:3,4,5(数々の不行跡)
処分:蟄居の後、所領没収の上切腹

徳川家光の弟。
幼少の頃から鴨を手に入れる為に兄家光が住む西の丸の堀に鉄砲を撃ち、兄に対する反逆行為だとして父秀忠に激怒されるなど粗暴な一面を見せていた。
だが問題が本格的に表面化したのは駿河55万石の大名になってからで、

・「自分が駿河55万石程度では納得が行かないから、100万石くれるか大阪城城主にして」と父秀に嘆願して激怒される
・家光の京都上洛の時に、武家諸法度で禁止されていた大井川の架橋を無断で行う
・祖父徳川家康が元服をした由緒ある浅間神社付近で殺生が禁止されているにもかかわらず鷹狩りを行い、この神社で神の使いとされている猿1240匹を殺害する。
・更にその鷹狩りから帰城中に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺して殺害する
・その翌年の鷹狩りの際にも些細な理由で家臣を手打ちにする

といった通常の大名なら1回で即改易、下手すりゃ切腹レベルの諸行を何度も繰り返した為、遂に兄・家光の堪忍袋の緒が切れてしまい甲府に蟄居させられることになった。
父秀忠も存命中ではあったが上記の行為からか完全に息子に匙を投げており、危篤になった時も面会を拒絶したという。
秀忠の死後にようやく遂に改易となり高崎へ追放された挙句、切腹を命じられた。
因みに切腹した寺には今も切腹の際に使用した短刀が残っていたりする。

幼い頃は兄を差し置いて将軍位を狙っていたとか、春日局の策により徳川家康を引っ張り出して阻止したとか、色々な逸話がある人でもある。悪い意味で。
継ぎたかったのに継げなくて行状が荒んでいくという事例は後々出てくるので、その先駆けとも言えなくもない。


酒井重澄

領地:下総生実藩2万5000石
理由:4,6(勤務怠慢)
処分:所領没収の上身柄は水野勝成に預けられる、後に自害

病気と称して登城せず4人も子供を作っていたことを知った徳川家光に仮病じゃねえかとキレられた。
実際は何の病気だったのかは不明。サボりぐせの可能性もある。パワプロかよ


竹中重義

領地:豊後府内藩2万石
理由:3(密貿易)
処分:所領没収の上切腹

竹中半兵衛の従弟。
長崎奉行として、松倉重政(下記)と共にキリシタンの苛烈な弾圧をおこなった。
朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易を行ったことが発覚し、切腹させられた。


鳥居忠恒

領地:出羽山形藩24万石
理由:1,3(養嫡子を拒否して断絶)
処分:所領没収、異母弟鳥居忠春に信濃遠江藩3万石が与えられ立藩

最上家改易(前述)によって表高57万石実高100万石以上とも言われるほどの所領が空いたが、東北には譜代の大大名がいなかった。
そこで東北諸大名の監視のため忠恒の父鳥居忠政が、娘婿の酒井左衛門尉忠勝*26(庄内藩14万石)・妹婿の戸沢政盛(新庄藩6万石)・従弟の松平重忠(上山藩4万石)と共に揃って跡地に移封された。
万一の際には忠政がこれらの兵を動員して対応するというわけである。
そして忠政は軍備を整えるため早々に増税して領民から反感を買い、更に匠としての腕を振るい山を切り崩して川の流れを変えて川と城下の井戸を枯らし、山形城を雨が降ったら水浸しになるよう生まれ変わらせた。なんということをしてくれたんでしょう。

こんなにされた跡を継いだ忠恒だったが、悲劇的ビフォーアフターのおかげで病弱だった上に、異母弟の忠春親子と全く反りが合わなかった*27
嫡子にも恵まれなかったため家臣からも忠春を養嫡嗣にするようせっつかれていたが断固拒否。亡くなる直前に同母弟で戸沢家を継いでいた戸沢政家に継がせるよう遺言を残した。
これは末期養子の禁に触れており、受け容れられずに改易されることとなった。

しかし祖父の鳥居元忠が捨て石になることを覚悟の上で関ヶ原の前哨戦となる伏見城の戦いに臨み戦死を遂げたことを「父祖の勲功」として評価され、特別に忠春が跡を継ぎ立藩することとなった。
この時幕閣であった保科正之と領地を交換させられる形になっている。
だが24万石もの大藩を継げなかったという事実は、忠春に大きな陰を落とすことになる(後述)。


松倉勝家

領地:肥前島原藩4万石
理由:5(天草・島原の乱を引き起こす悪政)
処分:所領没収の上斬首

父重政は10万石相当の規模と言われる島原城を築いたり、徳川家光にキリシタン弾圧がぬるいとダメ出しされると拷問にかけまくりルソンにまで出兵しようとしてその費用として重税をかけるなど空回りしがちなタイプだった。
そして勝家は父をも凌ぐ重税を課し過酷な取り立てを行い、キリシタンに苛烈な拷問を行っていた。
島原から海を隔てた隣の天草でも唐津藩による過酷な取り立てがあったため、両地が呼応し天草・島原の乱に繋がってしまう。
乱は鎮圧されたものの幕府はこの責任を重く見たようで、勝家には切腹でなく斬首という重い処分が下された。
上記の有馬晴信は本人の選択により斬首となったが、こっちは問答無用での斬首処分。
大名が名誉の刑としての切腹が許されなかったのは江戸時代で唯一である。


加藤明成

領地:陸奥会津藩40万石
理由:5(御家騒動)
処分:吉永藩1万石へ減転封

父は地味加藤こと加藤嘉明。
「重臣がナメた真似したんで殺させてください!なんでもしますから!」「ん?今なんでもするって言ったよね?」
またしても家臣をまとめられなかった事例。
明成は器量に欠け、また一分銀を集めるのが好きでたまらなかったという。ちなみに件の重臣は無事ぶっ殺させてもらえた。


池田輝興

領地:播磨赤穂藩3万5000石
理由:5(発狂)
処分:所領没収の上身柄は池田光政に預けられる

池田輝政の六男。母は家康の次女であり、家康の外孫に当たる。
兄の政綱が亡くなり改易になりかけていたところを家康の孫ということで特別に赤穂藩を継ぐことを許された
就任当初は城下町の開発や検地をおこなったり、日本初の水道工事ともいわれる上水道整備など名君と呼べるほどの働きを見せていた。
ところがある時、突如として発狂し正室(黒田長政の娘)や侍女など数人を殺害、所領没収された。
なお、池田家の後に赤穂藩に入ったのがあの浅野家であり…(後述)


池田輝澄

領地:播磨山崎藩6万8000石
理由:5(譜代の家臣と新規の家臣の対立)
処分:池田光仲に預けられた後、因幡鹿野1万石を与えられ蟄居

池田輝政の四男で上記の輝興の同母兄にあたる。
当初は3万石の大名で彼も城下町や道路の整備などを行っていた。
上記の弟である輝興が赤穂に転封になった際に輝興の領地も引き継ぎ6万8000石となった。
ところがこの合併により元からの譜代の家臣と合併の際に召し抱えた家臣との間で対立が起こってしまう。
輝澄もこの時の新参の家臣である小河四郎衛門を重用したため、譜代の家臣である伊木伊織らが反発しついに伊木派の家臣100名以上が脱藩騒動を起こしてしまう。
幕府は伊木ら譜代の家臣ら20名に切腹を命じ、輝澄も家中を取り締まれなかったことを咎められ改易となった。
輝澄は甥の鳥取藩主・池田光仲に預けられた後、家康の孫であったこともあり因幡鹿野1万石を隠居料として与えられそこで余生を過ごした。


寺沢堅高

領地:肥前唐津藩8万3000石
理由:1(自害、断絶)
処分:所領没収

島原の乱のもう一つの原因。乱が「島原・天草一揆」とも呼ばれる理由。
父寺沢広高は関ヶ原の恩賞で飛び地となる肥後天草領を加増されていたのだが、ここで天草に実高の倍の4万石という重税をかける一方で本体の唐津藩の負担を減らし居城周辺の住民を慰撫するという政策をとっていた。
堅高もその政策を継承したのだが島原で勃発した乱が天草に飛び火。その責任を問われ天草領を召し上げられ実質的な減封処分となり、失意の日々を送る中ついに自害してしまった。
現在でも唐津において寺沢氏は名君と伝えられているが、その陰で天草の犠牲があったことはあまり知られていない。

ちなみに天草藩の石高が実情に見合った2万石に修正されたのは1659年のことであった。約60年ぶりのことである。
その間に復興に関与した者たちにより大名による統治は難しいと判断され、天領となって明治維新を迎える。


松平定政

領地:三河刈谷2万石
理由:3(表向きは発狂)
処分:所領没収の上身柄は松平定行に預けられる

家康の異父弟の子で、血縁上は甥にあたる。
家光死後、幕政を批判する内容の建白書を提出し、更には無届で出家し、自分の領地などを旗本救済に充てて欲しいと申し出た上、息子や家臣と共に黒衣姿で経文を唱えながら江戸市中を練り歩いた。
本来なら切腹にも相当する行為であるが、「狂気の沙汰」のためとして所領没収と永蟄居処分となった。一応給米2000俵を貰い暮らしには困らなかったと伝わる。
なお、慶安の変の首謀者・由井正雪は定政の行動を評価していたようで、幕府の対応について「忠義の志を欺く行為」と遺言に記していた。


高力隆長

領地:肥前島原藩4万石(二度目)
理由:5(失政)
処分:所領没収の上身柄は伊達綱村に預けられる

またしても島原。
祖父の高力清長は三河三奉行と呼ばれる名奉行の一角で、父親の忠房は不毛の地と化していた島原の地の復興に尽力し成功と親子二代で見事な政治力を見せている。
しかしこいつは政務への関心が低く、財政が芳しくないならとりあえず税を増やせばいいんじゃね?と適当にやったところ思いっきり反発された。当たり前だ。
結局この後譜代の松平忠房がやってきて、島原は本格的に復興への道を進んでいくことになる。


堀田正信

領地:下総佐倉藩12万石
理由:3(幕政批判、無断帰城)
処分:所領没収の上脇坂安政→酒井忠直→蜂須賀綱通に預けられた後自害

3代将軍徳川家光に仕え佐倉藩初代藩主となった堀田正盛の息子。稲葉正休に殺された堀田正俊の兄でもある。
父正盛は家光から寵愛され一代で1000石の旗本から12万石の譜代大名にまで異例の出世を遂げており、そのためか家光の死後に殉死している。
正信はその跡を継いだが、突如幕閣への直訴状を出し勝手に佐倉へと帰国したため問題となり、最終的に「狂気の沙汰」とみなされ改易に。
改易後は実弟の脇坂や叔父の酒井の元に預けられるも、酒井の家にいた時勝手に外出し京まで行ったため罰が重くなり蜂須賀家に配流された。
その後、4代将軍家綱の死の直後、ハサミで喉を突いて自害した。
その後正信の息子堀田正休は罪を赦され一万石の大名となり、佐倉藩も複数の大名を経た後堀田正俊の末裔に治められ存続した。

ちなみに彼の改易に纏わる伝承として「佐倉惣五郎伝説」なるものがあり、「正信の時代その圧制に抗おうとする惣五郎が、苦悩の末将軍に直訴して叶うがその代償として処刑。その祟りにより正信は改易された」と物語られている。

また彼の直訴状が残っていないため確かなことはわからないが、上記の松平定政の出家隠遁事件が影響を与えていたのではないかと言われている。


加賀爪直清

領地:武蔵高坂藩1万3000石
理由:3,4(表向きは領土問題での紛争や書類の不備)
処分:所領没収の上身柄は石川総良に預けられる

改易する要因こそ生んでしまったものの、直清は言うほど悪くない。
加賀爪氏は元は今川氏に迎えられ駿河に土着した上杉家の庶流というなかなかの名門である。
だが直清の叔父であり養父でもある直澄は、大名でありながら「旗本奴」と呼ばれる傾奇者の一団で、水野勝成の庶子を父に持つ親子三代DQNの成之とつるんで「町奴」と呼ばれる町人出身の傾奇者と江戸の町で衝突を繰り返していた。
更に徳川綱吉の跡目に反対していた酒井忠清と親しかったとされ、そんな傾奇者でありながら寺社奉行にもなっている。
そんな直澄は嫡子が先立たれてしまっていたため直清を養嗣子として家督を譲って隠居したのだが、直清は旗本の成瀬正章と領土問題を起こした。
そこで待ってましたと言わんばかりに難癖を付けられて加賀爪家は改易、親子は引き離されて預けられることとなった。
理由は上記の通り成瀬正章との領土境界問題であるが、そもそもの原因は直澄が加増された時に境界を確認せず受け取ったからである。本当にとばっちり。


真田信直

領地:上野沼田藩3万石(幕府への申告は14万4000石)
理由:3,5(勤務怠慢、失政)
処分:所領没収の上身柄は奥平昌章に預けられる

松代藩13万石藩主の病弱な上に苦労人気質の短命なお兄ちゃんこと真田信之の孫で、長子信吉の次男。
幕府の公式史書である「徳川実紀」には「真田信利」と表記され、一般的には知られている。
しかし「信利」という名前を実際に名乗ったことが確認できる史料は発見されていない。
読みが同じ「信俊」とは一時期名乗っていたのだが…

元々沼田藩は松代藩の領地だったのだが、信之がいつまでも隠居を認められないうちに長子に先立たれてしまい、次男信政に家督を譲ったものの信政にも先立たれ、わずか2歳の信政の子幸道に相続させようとする。
だが信利は自分が家督を相続すべきとこれに反発し騒動を起こし、信之が幸道を後見するという形で決着し家督こそ継げなかったものの、信之の父昌幸からの土地である沼田藩3万石で独立することを許された。
なお信之は(恐らく心労で)翌年(93)で死去したが、再度騒動になることはなく内藤忠興が引き続き後見人になっている。もっと長く生きれたろうに…
こうして3万石を相続した信利は俺の家こそが主家だと言わんばかりにいきなり石高を自称14万4000石にまで引き上げるとんでもない重税を課した。
当然長続きするわけもなく、ついに幕府の普請を滞らせた上に悪政の不満も噴出し改易。
沼田藩は幕府が管轄する天領となるが、その際検地し直したところ実高は6万石しかなかったという。
代表越訴型一揆の代表的存在である杉木茂左衛門が直訴の罪で磔刑になったのはこいつのせい。


伊達宗勝

領地:陸奥一関藩3万石
理由:4
処分:所領没収、身柄は山内豊昌に預けられる

仙台藩の支藩である一関藩藩主であったが、本家の当主に幼少の綱村(当時は亀千代)が就いたためその後見となる。
しかしいわゆる伊達騒動で仙台藩が荒れに荒れ、藩政の実権を握っていたので当然責任を取らされた。
項目があるので詳細はそちらに譲るが、これで一件落着、かと思いきや……


稲葉正休

領地:美濃青野藩1万2000石
理由:3(刃傷沙汰を起こし殺害)
処分:その場で斬られ死亡、所領没収

春日局が家光の乳母になったということで堀田氏と共に出世した稲葉氏の分家の一族(父正吉は春日局の夫、稲葉正成の10男にあたる。但し春日局の実子ではない)。
その父正吉は5000石の旗本なのに男色のもつれで死んでおり、それを継いだ正休は若年寄に抜擢されその際加増を受け大名となった。
淀川の治水事業において商人・川村瑞賢と共に視察を行ったが、そこでの試算を盛ってしまったことが春日局の養子でもある大老・堀田正俊にバレて治水事業から外されてしまう。
正休は正俊を部屋の入口まで呼び出して刺殺したが、その場に同席していた老中3名により滅多斬りにされ死亡した。
事前に刀鍛冶に数本の刀を特注、試し切りの末に一番出来の良いものを持って登城するという計画的犯行であった。

ちなみに正俊は成り上がりに対するやっかみもあるだろうが、元々なんでもずけずけ言うタイプで人望がなかったと言われ、死後正休は称賛されたらしい。
そのせいで「(直言タイプの正休が嫌になった)将軍が関与していたのでは?」などという説が流れるはめに。


鳥居忠則

領地:信濃遠江藩3万2000石
理由:5(失政、家中取締不足)
処分:所領没収、嫡子の鳥居忠英が1万石で立藩

上記の通り、不和によって24万石から3万石になってしまった鳥居忠春は荒んだ性格になって領民に威張りくさって当たり散らし、更に石高を取り戻そうと幕府の普請を受けまくった。
だがそんなことが続くはずもなく、ついに医師に斬られて横死するという因果応報の結果を招き、息子の忠則が後を継ぐことになる。
当然ながら財政は火の車になっていたのだが忠則にそれを巻き返せるだけの力はなく、商人からの借金を踏み倒そうとして幕府に訴訟されるなどしている。
そんな中で江戸城守衛の役を務めていた家臣が、持ち場を離れてとある旗本の屋敷を覗き見するという問題を起こしてしまう。
これによって閉門処分にされている間に忠則は急死。問題の家臣も口を割ることなく自害したため家督相続が認められず改易処分となった。

だがここで再び父祖の勲功による特例が適用され、嫡子の鳥居忠英が能登下村藩1万石を立藩することになる。
忠英は鳥居家にようやく出てきた名君で若年寄にまで抜擢され、後に壬生藩3万石に転封され廃藩置県まで存続した。
また干瓢の栽培を奨励したことにより現代栃木県が干瓢の生産量第1位となる礎も作っている
ヤケを起こさず最期まで地道に頑張る方が良いという教訓かもしれない。


稲葉紀通

領地:丹波福知山藩4万5700石
理由:5(2つの説あり)
処分:自害、もしくは部下により殺害

上記の正休とは違いこちらは稲葉良通(一鉄)の子の重通を祖とする稲葉氏の本家筋の一族(ただし上記の稲葉氏が譜代大名であるのに対してこちらは外様大名である)*28
田丸藩、中島藩を経て福知山藩へと移封される。

改易になった経緯には2つの説が存在する。
1つは福知山に移封されてきた紀通は狩猟の獲物が得られなかったとして60人もの近隣の村民を殺害する、福知山城の空堀に水を満たすなどの違法行為を働いた。
これを知った幕府は紀通に弁明を命じ、近隣の諸大名にも動員準備を命じるなど緊迫した状況となるが紀通は切腹自害し稲葉家は改易となった。
もう1つは紀通が隣の宮津藩主の京極高広に対して寒ブリ100尾をねだったところ、京極側はこれを幕府への賄賂に使われることを恐れ首を切った状態の寒ブリを差し出してきた(打ち首を意味しており武士の贈り物としては不適当に値するものである)。
これに怒った紀通は以降、福知山を通行する宮津藩の領民や飛脚を次々と殺害。この行いに上記のように幕府に弁明を命じられ紀通は自害した。
死因については切腹とも、幕府の命令に抵抗して火縄銃を乱射してから自害したとも、火縄銃の乱射に手を焼いた部下により殺害されたともいわれている。
ちなみにこの騒動の関連人物でもある京極高広であるが、彼も後に悪政と息子である高国との親子喧嘩が理由で改易の目にあっている。


本多政利

領地:陸奥大久保藩1万石
理由:5(失政)
処分:領地没収の上身柄は酒井忠真に預けられ、後に水野忠之の下で幽閉

九・六騒動と呼ばれるお家騒動の中心人物。
平八郎系本多家には、幼少の子に家督を継がせてはならないという家訓がある。
そのため政利の父、政勝は庶流でありながら当時6歳の政長を差し置いて本家の家督と大和郡山藩15万石を継ぎ、その後政長を後継者にすることになった。
だが政勝は「自分の子政利に家督を継がせたい」という、あってはならない欲望を抱いてしまう。
その思いを継いだ政利は父の死後すぐに老中酒井忠清に取り入って工作した上で家督騒動を起こし、結果政利は15万石のうち新田藩6万石を相続することになる。
だが宗家を継げなかったことを不満に思った政利は、数年後政長を毒殺し再度騒動を巻き起こす。
これで工作もすればついにお鉢が回ってくる・・・と思いきやその頃酒井忠清は失脚していて工作は意味を為さず、次に宗家を継いだのは水戸徳川家からやってきた政長の従兄弟の子本多忠国。
更に宗家を継いだ忠国は9万石から陸奥福島15万石へ増転封、政利は播磨明石藩6万石に転封となった。
親子二代の野望が潰えた政利は周囲に当たり散らし悪政を行い、陸奥大久保藩1万石に減転封。そこでもまた当たり散らしたためついに改易された。
そして身柄が酒井忠真に預けられた後も素行が改まらなかった上毒殺も発覚、死刑もあり得たものの「狂気の沙汰」として減免され、水野忠之の下で幽閉され一生を終えた。


森衆利

領地:美作津山藩18万6000石
理由:3(表向きは発狂)
処分:所領没収の上兄の森長直の元に預けられる。父の森長継が西江原藩2万石として再封

森長可の末弟の磔右近こと森忠政から始まった、森氏の5代藩主。
甥の藩主森長成が発病し亡くなる前に末期養子として立てられた。
それから1ヶ月と経たない内に生類憐みの令のために家臣が死んだりしたため、幕府をつい批判してしまう。
酒の席だったからと弁明するも、発狂ということで改易処分にされてしまった。
確かに3なのだが、とても可哀想。
因みに森家は父長継が再封された後、すぐ上の兄長直が本家を相続し赤穂藩に入った他、更に上の兄である長俊の家と長継の弟の家の計3家が残った。


小笠原長胤

領地:豊前中津藩8万石
理由:5(失政)
処分:所領は4万石に減知の上で弟小笠原長円が家督を継ぎ、本人の身柄は本家の小笠原忠雄預かり

小笠原氏の受難は続く。大坂の陣の後秀政の次男忠政*29の系統が本家筋となり、忠脩の家系は庶流となった。
その庶流を継いだ長勝は贅沢が大好きで、藩政を顧みず適当に増税するなどの悪政を行った。幕府から注意を受けても改めなかった。
その後病気に倒れ、甥であった長胤が末期養子として跡を継いだ。

長胤は養父の悪政によって悪化した藩政に積極的に関与した。
が、積極的過ぎて治水工事で財政を困窮させて結局増税したり*30、どうしようもないので家臣の半知借り上げ*31を行ったりと泥沼化。
挙句の果てには養父と同じような悪政を行うようになり、譜代家臣を追放して新参を重用するになったり、贅沢を極めるようになっていった。
こうなっては流石に幕府は無視できず一旦改易処分となった。

だが先述した大坂の陣での功績が大きいとして、「父祖の勲功」により減封の上で弟が継ぐことを許されるという、かなり緩めに処分された。
ちなみに追放された家臣は帰参したものの、長円は藩政を顧みないで酒池肉林の日々を送った。兄弟揃ってどうしようもねえ…


内藤忠勝

領地:志摩鳥羽藩3万5000石
理由:3(刃傷事件)
処分:永井尚長殺害の罪で切腹、改易

徳川家康に仕えた内藤清長の支流、忠重を祖とする譜代大名。
兄である忠次が病で家督を辞退したため彼が後継となった。
芝の増上寺において徳川家綱の77日法要の際に警備役を命じられるが、その際に同じ警備役であった宮津藩主の永井尚長を殺害。
元々尚長とは仲が悪かったようで、尚長が上席であったため彼が忠勝を侮り、法事の指示を示した奉書を忠勝に見せなかったことが原因であった。
取り押さえられた忠勝は西久保の春龍寺で切腹を命じられ、鳥羽藩内藤家は改易となった。

なおこの忠勝の甥(忠勝の姉の子)こそが下記の浅野長矩である。
忠勝も長矩も短気で癇癪持ちであるうえに、家督を辞退した忠次の病気が精神病であるという説があるなど内藤家は精神病の家系であったようでそれが長矩にも遺伝したという説が存在する。

一方被害者である永井家は尚長に子がいなかったために改易となったが後に尚長の弟の直圓が大和新庄藩1万石で大名として復帰を許された。


浅野長矩

領地:播磨赤穂藩5万3000石
理由:3、6(刃傷事件だが、処分したことではなく処分内容に幕府の意向が混じっている。問題ないのでは?という説もあるが、そもそも赤穂事件後の吉良家の扱いの中で幕府が吉良義央にも問題があったという旨の裁定を下している)
処分:所領没収の上切腹

忠臣蔵で有名な赤穂騒動。いわゆる内匠頭。
殿中で突発的に吉良義央を斬り付けたとされるが吉良は一命を取り留め、長矩はろくに調べもされず即日切腹とされ、一方の義央には咎めが何もなかった。
だが殿中での刃傷沙汰は慣例に従えば「喧嘩両成敗」により両者死罪だが、義央が無罪なのに主君だけが死んだ&追い打ちで浅野家側のみ改易で赤穂城を幕府へ明け渡し
当然ながら当の赤穂藩士たちにとってはあんまりな話である。
更に少なくとも浅野長矩が吉良義央に何らかの恨みを抱いていたことはほぼ確実なことも合わさり、多数の藩士が浪士となって自死する覚悟で復讐心を持ち、赤穂事件が起きた。

吉良義央が将軍の親戚筋にあたることや*32、一応吉良は逃亡するのみで脇差に手をかけてすらいなかったため、そもそも「刃傷沙汰」と認定されなかったということらしい。
また、朝廷の使者をおもてなしをする準備をしていた時に起こしたということも影響したと言われている*33

ただしあくまでも斬りかかった理由は不明である。例えば当時の武家においては悪口を言われた程度でも斬りかかるに値する(場の状況的に無罪にはならないが)。
仮に喧嘩を売られていたとするならば、むしろ喧嘩を買わずに逃げる方が不名誉であるなど、必ずしも斬りかかった側のみが悪いとは言い切れない社会である。
赤穂事件後に幕府がこの件に異なる判定を出していること*34もあり、理由によっては公正な判定とは言えないことにも留意する必要がある。
そもそも刃傷事件を起こした理由についてもたくさんの説が存在している*35のではっきりとしないのが正確なところである。幕府の沙汰も「世論に流された結果」とも考えられるし。

なお義央を斬り付けたことを聞いた二本松藩主丹羽光重は又甥の不手際に対し「突いていたら吉良を確実に殺せた」と不快感を露わにした。
正休の例まであったのにねえ…


松平忠充

領地:伊勢長島藩1万石
理由:5(乱行)
処分:所領没収

久松松平家の家督を次いでしばらくして家臣を些細なことで追放。
その後重臣3人を切腹させその子4人を死刑にするというとんでもないことをやらかし幕府に露見、当然改易された。
しかし久松松平家は家康の異父弟の家系で、その嫡流ということから特別な配慮をされ子供は旗本になったという。
なお久松松平家嫡流は忠充の叔父憲良が無嗣廃絶で改易となり、その後忠充の父康尚がやはり家柄ゆえ復興を許されていたりする。踏んだり蹴ったり。

またトリビアの泉でも紹介された寝ぼけて切腹して死にそうになった武士というのはこの忠充の息子の忠章である。忠充とは違い文武両道で聡明な人物であったが父との仲が悪かったためストレスの末にこんなことをしてしまったと言われている。
切腹した後に腸を引っ張り出して木にかけ晩飯食って寝た人もいるし、凄いね武士って。
なおこの騒動のあと忠章は廃嫡されてしまった。


前田利昌

領地:大聖寺新田藩1万石
理由:3(刃傷事件)
処分:所領没収の上切腹(後に所領は大聖寺藩に還付される)

織田家家臣からのし上がり加賀100万石を収めるようになった加賀前田家の分家大聖寺藩*36の分家*37
赤穂浪士の討ち入りから6年後の1709年、5代将軍徳川綱吉の葬儀における中宮使饗応役であったが、よりにもよって葬儀が行われている寛永寺において大准后使饗応役であった織田秀親*38を厠で殺害した。
皮肉にも元家臣の末裔が元主人の末裔を殺害したのである。
元々仲の悪かった事に加えて秀親が6代将軍家宣の行動予定表を故意に見せなかった事で激高、その場で殺害しようと企てるも何故かそこでは思いとどまり、その夜家老の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求めた。

利昌「何故、浅野内匠頭は義央を討ち損じたのか?
木村「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた

と返答した。余計な入れ知恵するなよ
そして翌日、木村に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上でえげつないまでの憎悪に満ちた方法*39刺殺した。
言うまでもなく、即取り押さえられて3日後に利昌は切腹となった。
本来であれば所領も没収だが、利昌の大聖寺新田藩自体が名前にもある様に新田支藩という位置付けの藩だった。この場合「大聖寺藩の新田開発で増えた土地から所有や土地経営は実質的に大聖寺藩のまま、利昌の元に石高分を支給されていた」*40のと、新田については大抵幕府が公認する石高(表高)には含まれていないので幕府の管轄下にないことで、没収のしようが無かった為にそのまま大聖寺藩に戻される事になった。
一方突如として藩主を失った織田家も本来なら無嗣断絶になってもおかしくなかったが、事情が事情なだけに「病死」扱いにした上で実弟を養子に迎えた形に書類を捏造するという本来であればモロ違反な家督相続を幕府も黙認したという。
この家督相続の手口は幕末に桜田門外の変で死亡した井伊直弼から長子井伊直憲が相続する際にも使われた。


小笠原長邕

領地:豊前中津藩4万石(二度目)
理由:1(無嗣断絶)
処分:所領没収、弟小笠原長興が1万石で立藩

小笠原氏の受難はまだ続く。贅沢三兄弟の末弟長円が亡くなり僅か2歳で継いだ長邕だったが6歳で亡くなってしまったのだ。
いくら親が絶倫でも、長邕がこの年では子供は出来ず流石に詰んだ…と思いきや、例によって大坂の陣での「父祖の勲功」で弟の長興が減封・移封の上でだが大名返り咲き。ご先祖様に足を向けて寝れません。
長興も18で亡くなるが、亡くなる前に藩籍返還を申し出たところ特別に末期養子を本家から貰うことを許された。その後は特に問題もなく、ようやく受難は終わりを告げるのだった。
親子二代で戦死したが、家は明治維新まで続いたので報われたといっていいだろう。
忠脩の家系も長円の兄長宥が伝えている。


水野忠恒

領地:信濃松本藩7万石
理由:3(刃傷沙汰)
処分:所領没収の上秋元喬房に預けられ、後に叔父水野忠穀の下で蟄居

松の廊下事件パート2
嫡男ではなかったため本来は家督を継ぐ立場になく、酒に溺れるわ弓矢や鉄砲をみだりに撃つわといった奴だった。
ところが兄が早世し、急に家督が回ってきた。しかし、やる気も無かったらしく藩政は家臣任せにして自分は酒と狩猟ばかりしていたとか。
そんな中で、忠恒は自分の領地が取り上げられて毛利師就(後の長門長府藩主)に与えられることになる、という噂だか妄想だかにとりつかれ、自分の祝言の報告をしに江戸城に登城した際、松の廊下で師就に斬り付けてしまった。
師就は刀を抜かず鞘で応戦し、一命を取り留めた。だから殺すなら突けっつってんだろ!
これにより忠恒は改易となったものの、叔父忠穀に7000石が与えられ、後に忠穀の子・忠友は駿河沼津藩3万石の大名となっている。
ちなみに毛利側はもちろんお咎めなしだった。吉良のおじいちゃんも鞘で抵抗すれば武士としての格好はついたかもしれない。
島津といい鳥居といい水野といい、忠恒という名前にはキチガイの血を暴発させる何かがあるのかもしれない


金森頼錦

領地:美濃八幡藩3万8000石
理由:5(失政)
処分:所領没収の上南部利直に預けられる

江戸時代も中期になると、平和で生活も概ね安定していた。
すると下層の人々が知恵を付け、こっそり裏収入を得て裕福になったり、広い横の繋がりを作り様々な手段で既得権益を守る活動を行って役人の施策に対抗しようとするのである。今でいうプロ市民といったところである。
もちろん私利私欲を貪る腐敗した役人もいるし横暴な施策もあるので、対抗できるようにすることは悪いことではない。
だが相手の都合も聞かずに一方的に理解を拒めば、互いに潰し合っただけで誰も得しない結果しか生まれないものである。
統治する武士の方も、森忠政のように「全領一揆起こされたけど数百人磔にしたら静かになりました」とはいかなくなってきた。

父金森頼時の代に美濃八幡藩に転封されてきた金森頼錦は、奏者番*41に任命され今まさに幕閣の出世コースを歩もうとしていた。
だが幕閣として出世していくには贈り物とかを用意しなくてはならないのでとにかく金がかかるし、頼錦自身も浪費家なので私財はいくらあっても足りない。そこで頼錦は増税を行おうとした。
頼錦側からすれば決して無理なものではなく、ただ毎年の実際の出来高に近付けようとしただけである。
だが八幡藩の農民たちはプロ農民と化していた。藩レベルで一揆を起こして抵抗したのだ。
頼錦側も和解に向け努力したものの、説明文書を一揆側が奪い捨てるなど理解を拒み様々な手段で対抗してきたため泥沼化した。
またその一方で力のある農民たちを強引に追放して支配権を確立したところ、追放した農民たちが多数餓死するという地方も出てきた。
こうして不毛な争いを繰り広げた結果幕府でなければどうにもならない状態となったため、頼錦は改易され藩の役人も処罰された。
しかしそこまでに至る過程で多くの農民が犠牲になっており、やはり不毛な結果となった。
後にこの騒動は「郡上一揆*42」「石徹白騒動」と呼ばれるが、泥沼過ぎてこれ以上は書くのも説明するのも難しいので、興味のある人はWikipediaでも見て欲しい。


松前章広

領地:蝦夷松前藩3万石
理由:その他(幕府の対露政策のため)
処分:武蔵埼玉群5000石、陸奥梁川藩9000石を与えられた後、復領

ご存知アイヌから搾取を行っていた松前藩9代目当主。
この時ロシアがアイヌと接触を持ち次第に南下を始めており、ロシア側が幕府に通交を求めてきたことから幕府が警戒。
対ロシア政策のために松前家の領土の大半を取り上げた。
その代わりに章広に武蔵埼玉郡5000石を与え、後に陸奥9000石を与えられた。
後にロシアの脅威が去ったため(父である道広が幕府重鎮たちに賄賂工作を働いたとも)、旧領に復帰した。
なお改易理由にはほかにも、父である道広の放蕩・散財が激しかったためとも、北方に対する防御・警備を怠ったなどの説もある。


林忠崇

領地:上総請西藩1万石
理由:2、3(新政府に対する反抗、領地の無断放棄)
処分:所領没収、及び降伏後唐津藩邸に幽閉→林家新当主林忠弘の元に預けられる。

現在の千葉県木更津市地域にあった小藩を治めていた大名。明治維新時20歳だった。
戊辰戦争時旧幕府軍への協力を願うも、藩内恭順派(新政府支持)の反発ゆえに自ら陣屋(居城)を焼き有志と共に脱藩し参戦。大政奉還・江戸開城で幕府から政治を引き継いだ新政府により改易され、最後の改易大名となった。
林家自体は前藩主の息子で忠崇の甥の林忠弘が継ぐも、他の新政府敵対勢力と違い明確な降伏手続きをとれなかったせいで地位回復が大幅に遅れる羽目に。
ちなみに忠崇は軟禁処分が解かれた後各地を流離っていたが、明治26年林家が華族となった時共に名を連ね一応復権し、なんと1941年(昭和16年)に92歳で他界。「最後の大名」とも称されている。

追記・修正は所領没収御家断絶の上切腹させられた後お願いします

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*1 当主を暗殺して「実は養子になってたんだよ!!」などという形で傀儡に挿げ替えたり、乗っ取ったりすることなどを防止するため

*2 松の廊下で浅野に斬りつけられた吉良義央も息子が上杉家の末期養子になったが、そのせいで上杉家の所領は半減している

*3 所領を別の場所に移すこと。恩賞的なものも存在したが、ほとんどは懲罰的なものだった

*4 浅野の弟による家名存続を図っていたため、余計な抵抗は逆に家名にとどめを刺す恐れもあった

*5 支配に穴をあける訳には行かず、近隣の藩に引き取らせるか、幕府直轄にするにしても幕府の代官やその家臣団を新たに対応させなければならない

*6 戦において最も難しいとされる殿を数多く務めた為付けられた

*7 追放された時点で柴田勝家や羽柴秀吉を凌ぎ最大規模の勢力であった

*8 一乗谷城の戦いの直前にあった刀根坂の戦いにおいて、戦場から撤退する朝倉義景軍に対して信長が陣頭指揮をとって追撃をしたのだが、織田軍の先手武将たちは事前通告を受けていたにも関わらず遅れてしまい追撃を怠った形になった。そのことに対して信長の叱責を受けたのだが、それに対して信盛は涙を流しながら「そうは言われましても我々のような優秀な家臣団はお持ちになれますまい」と口答えをしてしまった。当然信長は更に激怒し厳罰を与えられそうになったが、他の家臣団のとりなしでその場での処罰は辛うじて免れた。しかし信長はこのことを相当根に持ったようである

*9 折檻状でバカ息子呼ばわりされていた息子の信栄が父親の死の直後にあっさり赦免され息子の織田信忠に仕える形で復帰した事もこの説に信憑性を持たせている。

*10 足利義栄→足利義昭→織田信長→徳川家康。その間に上杉謙信や会津蘆名氏、三好三人衆の所にもいたりする。秀吉の家臣になったのは嫡子が石川数正の下にいたせい

*11 よって次男が跡を継いだ。しかしこの時の秀政の戦死は、後年小笠原家が改易の危機に陥る度に「父祖の勲功」として救われる一因となった

*12 現在のところ、信憑性が高めの史料の中にも謀反を企んでいたとずばり書いているものは存在しないとのこと。また秀次の行動や評価を記したものとしては信憑性が疑わしくなってきた『太閤さま軍記のうち』やそれ以後に書かれた史料の影響もあり、諸説の再考も進んでいる。

*13 ただし最上は秀次の嫁に出した娘を処刑されている

*14 勿論これだけが要因ではなく、徳川重臣で関ヶ原で島津と闘った井伊直政が仲介役として擁護にまわったことや、関ヶ原に来ていた島津軍は少数で本国薩摩の兵力はほとんど減っていなかったこと、島津の領地が江戸から遠い九州南端の薩摩なので長期戦になると他の反徳川派が反乱を起こす可能性があったなどの理由で島津に武装蜂起させたくなかったことなどが要因である

*15 そもそも改易になった原因の1つに豊臣家への忠誠心があり、浪人にしておくと豊臣家に召し抱えられる危険性があった為とも言われている

*16 当時家康には後継者として秀忠がいた為、自身の産んだ息子たちを養子に出していた

*17 なお玄以は生前キリシタンだからという理由で長子を廃嫡している。茂勝とは何が違ったのか…

*18 上記の問題行動を諫言した家臣とも言われる

*19 本人だけでなく家族や関係者にも罰を与えること

*20 原因は忠頼が懇意にしていた方の家臣に肩入れして助言したことだとされており、まさに碁盤の裏にある「血溜まり」の語源と近い事態となってしまった

*21 キリスト教では自殺は罪とされる

*22 藤広が幕府の対外貿易とその政策を担う重鎮であり代えがいなかったこと、また藤広の妹が家康の愛妾であり駿府城の金庫番でもあったことが理由とされる

*23 ただし当時、戦中の追い越しは斬り捨て御免とされており、本来は咎められることではない

*24 実際将軍秀忠が部下に宇都宮城を調査させた結果、不審点がないことを確認している

*25 酒井左衛門尉忠勝の弟。出羽国白岩4000石の石高を倍にして餓死者を1000人も出す失政で改易され所領のみ没収。石高を禄として給されるようになり兄忠勝に預けられるが様々な事件を起こし後を継いだ忠勝の嫡男から絶縁されて追い出され、娘の嫁入り先と論争になり再度改易され蟄居処分

*26 当時酒井忠勝が二人おり、もう片方は若狭国小浜藩主で大老にまでなった酒井雅楽頭忠勝。項目内に何度か登場する酒井忠清は雅楽頭の方の嫡子で同じく大老になっている

*27 忠春の母は心が狭く身勝手であり、忠恒が実母のように尽くしたにもかかわらず家督を忠春に譲らないことを恨んで寺に走って訴えようとした。なんとか忠恒が説得して連れ戻すものの、これによって不仲になったと伝えられる

*28 譜代稲葉家の祖である稲葉正成は稲葉重通の幼女である福(後の春日局)の元に婿養子入りした人物であり、外様稲葉家は重通の実子と重通の兄の貞通の実子からなる家である。なおその重通の子が上記の稲葉通重と紀通の父である道通である

*29 当初は小笠原忠真という名前であったが、秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗った

*30 農業に関してはプラスに働いたが、それが効いてくる前に眼の前の財政が更に悪化してしまった

*31 家臣の俸禄や知行などを藩が借りる形で支給停止すること。この場合は半分持って行かれる。借りるとは言っているが実際に返済が行われることはまず無く事実上の減給であり、批判もかなり多かった

*32 そのためか将軍から見舞いの言葉もかけられ、復帰も促されている

*33 この時将軍綱吉は、母親の位階を上げるように朝廷に工作中であった。その朝廷の使者への歓待をしている最中に事件を起こしたため。

*34 吉良義央の刃傷事件の時の振る舞いを「内匠に対し卑怯」としている

*35 否定されたものから主流説まで本当にたくさんある。どれを採用するかでまるっきり印象が変わってしまうのだ

*36 加賀藩第3代藩主前田利常の次男の利次を祖とする

*37 前田利家の玄孫に当たる

*38 織田信長の末弟である織田有楽斎の玄孫に当たる

*39 胸を刺した後に喉から口を串刺しにさせたという

*40 分家に土地を分けて独立した支藩を興すのはデメリットも多く、本家に従属的な関係の支藩を作ることがしばしばあった。これを内分分知と言う

*41 将軍に贈られる大名や旗本などからの贈り物を管理・報告する職務。幕閣として出世するための登竜門とも呼ばれる職務であった。通常は譜代大名から選出されるが頼錦は異例の外様大名から抜擢された

*42 八幡藩は郡上藩とも言われていた