ジャイアント馬場

登録日:2019/07/16 (火) 22:13:29
更新日:2023/09/16 Sat 23:39:32
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みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます

●目次

◇ジャイアント馬場(ばば)

“世界の巨人”『ジャイアント馬場』は1938年1月23日生まれの日本のプロレスラー、元プロ野球選手、タレント。
本名は馬場(ばば) 正平(しょうへい)
1999年1月31日没。享年61歳。戒名顕峰院法正日剛大居士

全日本プロレスの創始者として知られ、師匠の力道山、日プロ時代の同期、弟分で思想的な意味でも最大のライバルとされたアントニオ猪木と並ぶ、日本プロレス界のカリスマである。
身長2mを優に超える巨漢であり、身長については現在でも歴代の日本人レスラーで一番である。

伴侶の元子夫人は兵庫の旧家出身で、実家が巨人軍のパトロンであったとも言われるのが縁で、キャンプ中に自宅で催された酒宴に馬場も呼ばれていた時に初めて出会った。
二人は1966年には結婚していたが、長らくその事実は伏せられ、馬場が1982年に公表するまではプロレスマスコミすらも知らなかった。
夫妻に子供は居らず、馬場は弟子の大仁田厚や三沢光晴を養子にすることを考えたこともあったという。
元子夫人は馬場が逝去した後も墓を作らなかったことでファンや関係者から責められたが、これは、馬場が生前に「一緒に墓に入ろう」と言っていた約束を夫人が頑なに守っていたためで、2018年4月に元子夫人も逝去したのに伴い、兼ねてから夫婦の墓所とすることを決めていた元子の実家の墓がある明石市本松寺に元子の四十九日が過ぎてから揃って埋葬され、ファンにとっても漸く馬場を偲ぶ場所を得られることとなった。

一線を退いた80年代以降はタレント活動でも知られ、大きな身体と優しい笑顔で親しまれた。
名前にかけた、グリコのアイス・ジャイアントコーンのイメージキャラクターでもあった。
レギュラー出演していた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』では頓珍漢な解答をしたり、馬鹿力でセットを破壊したりといったキャラだったが、本人曰く「わかっててノっていた」らしい。

実際、後から付けられた好好爺的なイメージに反して、クレバーで計算高い面もあったと言われており、相当に頭も回り行動力もある人物であった。

2016年に故郷である新潟県三条市議会に提出された議題によって、三条市名誉市民に全会一致で選出されている。

◇来歴

【生い立ち】

新潟県三条市四日町出身。
八百屋の次男として生まれ、兄と姉がいる。
学校に通うようになってから野球を始めるが、信じられないことに学校に通うまでは小さい方だったという。
しかし、三年生頃から急激に背が伸びるようになり(ホルモン異常とも言われる)、長身を活かしてミットに直接投げ込むと例えられた投球を身に付けて活躍した。

身長は高校に進んでからも伸び続けたが、今度は足も大きくなっていったことから馬場に合うスパイクが無く、一度は野球部を離れて美術部で絵を描いていた。
とはいえ渋々とやっていた訳ではなく、野球で活躍する一方で読書家だったし絵を描くのも好きで風景画を好んだ。
風景画は晩年まで趣味としており、初めて訪れて以来、魅せられたハワイに引っ越して絵を描きながら隠居生活をするのが夢だと語っている。

馬場の回想によれば、この時期には靴が無かったので新潟の豪雪の中を野菜を運ぶ母の大八車を、下駄履きで押して手伝ったという。

こうした境遇と馬場の才能を惜しんだ周囲の協力もあって、馬場にはカンパで特注のスパイクがプレゼントされて再びマウンドに立つことが出来た。
高校でも馬場の投球は冴え渡り、地元新聞では巨漢の強投手として紹介される程だったが甲子園出場は叶わなかった。
この頃、バッテリーを組んでいたチームメイトの誘いで、トンボユニオンズ(後に千葉ロッテマリーンズに繋がる)のプロテストを受けてみる流れとなっていたが、その前に読売巨人軍のスカウトから声をかけられて高校中退、1955年に十代にしてプロデビューする運びとなった。


【巨人軍時代】

同期には森祇晶や国松彰が居た。
この頃から時代小説好きで、森と国松は「物静かで、いつも文学全集のような本を抱えていた」と述懐している。
馬場は、自分が新潟で初めてのプロ野球選手であると自負していたが、それは勘違いであるという。
当時の監督の水原茂が「若手は二軍に行って基礎造りをするもの」という持論を持っていたことから、馬場も先ずは二軍に行き、56年と57年には二年連続で二軍の最優秀投手賞を獲得する。

57年10月の中日戦で初めて一軍のマウンドを踏み、5回まで無失点に抑える力投を見せたもののチームは勝てなかった。
中日のピッチャーは当時のエースの杉下茂であり、この試合は杉下の200勝記念試合となった。

悔しい結果なれど実力が通じ、次の機会を心待ちにしていた馬場だったが、運命は馬場を野球選手には留めておかなかった。

一軍のマウンドで投げた直後から馬場は急激な視力の低下に見舞われ、調べてみると脳腫瘍であることが判明した。
当時の技術では成功の確率が低い手術で、主治医からも「マッサージの勉強をしておきなさい」*1と言われたものの手術は成功し、翌月には頭に包帯を巻いた状態でキャンプに合流した。

翌、58年は目立つ活躍はしなかったものの、次の59年には三度目の最優秀投手賞を獲得する。
しかし、馬場の後ろ楯となっていた藤本英雄コーチが退団してしまったことから、故障の可能性のある馬場は年内で自由契約選手となった。

クビになった馬場に声をかけたのが、巨人から大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に移っていたコーチの谷口五郎であった。

こうして、テスト生としてキャンプに合流し、内定まで貰っていた馬場だったが、何と宿舎の風呂場で転倒して巨体をガラス戸にぶつけて左肘を17針も縫う怪我を負ってしまった。
この怪我の影響で、左手の第3、4指が伸展出来ない状態が続いたことからプロ野球からの引退を決意。
確かな才能を持っていた筈の馬場青年は、チャンスに恵まれないままに夢のプロ野球人生を終えることになったのだった。

……尚、この時の左手の異常は後に自然回復したとのことで、矢張り、運命が馬場を導いたのかもしれない。


【日本プロレス時代】

こうして、野球は廃業した馬場だったが、得意のスポーツで身を立てたいという思いは強く、一人になってからもボクシングジムに通い、鍛えていた。
そして、過去に面識のあった力道山を訪ねるも力道山はブラジルに行っていて不在。

しかし、そこでプロレス入りを薦められ、力道山が帰って来た所で改めて直訴に行き、その場でスクワット100回のテストに難なく合格した所から入門を認められた。
力道山はこの時点で、嫌でも人目を引く馬場の巨体と、それに見合わぬ高い身体能力が必ず客を呼ぶと確信し、本来は給料が出ない練習生なのに、馬場に関しては前職も鑑みて巨人軍時代と同じ5万円の給料を払うことを約束した。(大卒初任給が1万6千円の時代である)
尤も、翌月には試合もしていないのに高過ぎるとして3万円に減額されたそうだが、何れにしても破格の待遇であった。
因みに、この時に力道山がブラジルから連れ帰ってきたのが弱冠17歳の猪木であり、優れた肉体を見込まれて拾われた筈の猪木だったが、日本に来てみて、いきなり自分よりもデカい身体で、元野球選手という肩書きまである馬場に、お株を奪われる形となったのである。
……そして、猪木の受難はこれがらが本番だった。

この頃の思い出として猪木からも馬場からも語られているのが現在の常識から考えると無茶としか言えない、何千回にも及ぶスクワットで滴り落ちた汗が、床に数cmも貯まったというものがある。

同年9月にプロレスデビュー。
相手はジョバー役の田中米太郎で、リーチを活かした股裂きによりギブアップ勝ちを収めている。
尚、同日に猪木もデビューしたが、相手は一年先輩で若手の有望株であった大木金太郎で、此方はヘッドバットの連打から腕固めで敗北。

……これに関しては、マッチアップの時点で勝敗が見えていた(決まっていた)組み合わせといえ、馬場は華々しい道が約束されたのに対し、猪木は泥に塗れた道を歩むこととなった。

61年には、嘗て力道山と戦った強豪外国人との仕合が組まれ、力道山からの期待が高いことを窺わせた。
後に、馬場は愛弟子となった鶴田に対しても同様の試合を組んでやっている。

そして、同年7月には有力選手と共に早速アメリカ遠征に出発。
馬場はNWAを初めとした有力なテリトリーを渡り歩き、アメリカでも尚も目立つ巨体と身体能力で瞬く間にメインイベンターへと成長する。

しかし、当時の日本人、日系レスラーは悪役(ヒール)専門であり、性格が真面目な馬場は、慣れない悪役に海を眺めては泣いていたという。
また、この遠征の中で唯一の癒しとなったのが、アメリカで聞こえてくる耳慣れない外国の曲ばかりの中で唯一、日本語で聞こえてくる坂本九の『上を向いて歩こう(SUKIYAKI)』だった。
馬場は、夜の町に出る度にジュークボックスで、このヒットナンバーをかけては自分を慰めたといい、これが、後年の全日本プロレスで試合後に同曲が流されていた理由でもある。

このように苦労もした馬場だったが、アメリカ遠征は馬場に幾つもの大きな収穫をもたらした。

先ず、その大きな身体とスピードを活かしてアメリカンマット流のロープワークを多用して立体的に動き回るプロレスを会得した。
もしかしたら50代位のプロレスファンですらイメージ出来ないかもしれないが、白黒映像の中の馬場は猛スピードでリングを走り回っているのである。

力道山との縁で馬場のマネージャーに付いたグレート東郷*2の働きによって、力道山すら勝てなかった、真剣勝負(シュート)にも通じた実力者フレッド・アトキンスを師匠としてテクニックも磨いた。
この時期に16文キックや32文ロケット砲(ドロップキック)を身に付けて必殺技としている。

1962年2月には時のNWA世界王者バディ・ロジャースを倒してNWA世界王座を獲得するも、その後の予定されていた5度の防衛戦中にアクシデントが起こり、特に5戦目に予定されていたロジャースとの再戦前に、ロジャースが控室でビル・ミラーとカール・ゴッチに襲われて負傷するアクシデントがあったことから試合をこなせず、正式な奪取と認められないということになってしまった。
テリトリー時代のタイトル管理が複雑な理由により、なかなか移動が認められなかったり、アメリカでの長期サーキットが出来なかった日本人には獲得のチャンスが回らなかったりしたエピソードの一つと言える。
尚、自分が勝ったとはいえ、馬場は体格的には寧ろ小柄でショーマンシップの権化とも呼べるキャラクターながらも高いプロ意識とテクニックを持ち、何より華のあったロジャースを憧れの選手、最高の選手と評している。
その名声は日本にも伝わっていたものの、早くに引退したこともあってかタイミング的に日本への招聘のチャンスに恵まれなかった。
因みに、ロジャースのスタイルをそっくりと引き継いだのがリック・フレアーであり、フレアーと、フレアーの先輩でロジャースの次にNWA王座の象徴となったハーリー・レイスは全日本プロレスに幾度も招聘され、特に、レイスとはお互いを最大のライバルの一人として認めあった。

ロジャースとの試合の後にはWWA世界王者のザ・デストロイヤーと戦って勝利するも、ここでは反則勝ちだったのでタイトルは移動しなかった。

馬場は、ロサンゼルスでは“ショーヘイ“ビッグ”ババ”、ニューヨークでは、ニューヨークテリトリーのボスで、この後でWWWF(現:WWE)を発足させるビンス・マクマホンSr.によって“ババ・ザ・ジャイアント”のリングネームが付けられていた。
そして、1963年3月の凱旋帰国の際には、後者を直訳したジャイアント馬場が新聞社によって使われ、これが、プロレスラー馬場正平の新しいリングネームとなった。

最後に、流暢な英会話力も身に着けていた。これは後の外国人レスラー招聘の際に大きく役立ったと思われる(全日本プロレス時代は、勿論通訳も使っていたが)。

帰国した馬場に、力道山は一流所の外国人選手を当て、自らも本場でメインイベンターに成長していた馬場は、今度は互角の立場で応じた。
力道山は馬場とタッグすら組み、ワールドリーグ戦でも好成績を残し、人気絶頂のままで再び10月にアメリカへと出発する。

……しかし、12月に力道山が急死。
日本に帰ろうとする馬場に対し、グレート東郷はワンマン経営の力道山が死んだ後の日プロは先行きが不安になると予測し、アメリカに残れば高いギャラを約束すると誘ったものの、当時のプロレスラーとは個人営業で何処かのプロモーターに拾われて決まったテリトリーで仕事をするもので、人気レスラーも稼げなくなったら保証も無しに苦しむ羽目になる……という姿を見ていた馬場は断ったという。

1964年に入ると、NWA(王者ルー・テーズ)、WWWF(王者ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(王者フレッド・ブラッシー)と、日本でも名高い強豪達と、テリトリーを越えたビッグタイトルマッチを続けて行った。
これは、前述の様にそれぞれのタイトルのテリトリー毎に支配地域が分かれ、それぞれのタイトルの価値を守る為にも、事実上の不可侵条約が敷かれていた当時のアメリカマット界では前代未聞のことであり、如何に当時の馬場の選手としての価値が高かったのかが理解できる。
もしかしたら、日本に帰る馬場へのプロモーター達の餞別だったのかもしれない。
馬場憧れのロジャースを倒してニューヨーク(WWWF)の絶対王者となったサンマルチノとは親友で、愛車としてキャデラックを贈られた経験から、以降の買い替えでも、最初のカラーリングと同じ、クリーム色のボディで黒い革張りの屋根のキャデラックを選び続けた。
巨体の馬場にはピッタリで、最後に乗っていたキャデラックは武藤敬司体制下の全日本プロレスでチャンピオンとなった、元横綱の曙に譲られている。

同年4月に日本に帰国。
力道山の後を継いでエースとなっていた先輩の豊登と組んで、日プロを引っ張っていくことになった。
そして、その陰で漸く力道山の影響下から抜け出した猪木がアメリカへの修行に出発している。

1965年11月には、強豪ディック・ザ・ブルーザーを反則勝ちで降して、力道山の象徴であったインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。

何れにしても、名実共に力道山の後継者となった馬場だったが、それを先輩の豊登が面白く思うわけがなかった。
尤も、豊登が不満を漏らしてみても、力道山以来の殴る蹴るの見慣れた日本風プロレスしか出来ない豊登と、巨体を縦横無尽に走らせるスケールの大きな馬場のアメリカンプロレスではアピール力に格段の差があった。
そして、同年12月には自らのギャンブル癖に会社の金を使い込んでいた放漫経営の責任を取るという形で豊登は日プロを去り、馬場は日プロの単独エースとなるのであった。

この頃の言葉なのか、馬場は自分と豊登の差を「豊さんは米しか食えないが俺はパンも食える」と語ったという。

1966年はインターナショナル王座の防衛に明け暮れ力道山の記録を更新。

1967年には、帰国予定の猪木が豊登に引き抜かれて新団体東京プロレスが誕生するという事件があったものの、日プロの妨害と矢張り問題となった豊登の杜撰な金銭管理から僅か3ヶ月で崩壊。
猪木の才能が欲しい日プロはコミッショナーの自民党幹部の働きもあり、寛大な措置を取られて馬場に続く男として迎え入れられた。

この時期、豊登は上記の理由で去り、若手時代は馬場、猪木と共に三羽ガラスと呼ばれていた大木は、同胞の兄貴分である力道山を失ったことから生まれ故郷の韓国に帰っていたことから、日プロは完全なダブルエース体制で馬場と猪木を売り出し、最強タッグ“BI砲”を組ませて、強豪タッグチームと戦わせた。

BI砲は快進撃を続け、無敗でこそ無いものの敗れたのが“たったの3チームだけ”という、とんでもない勝率を誇った。
敗れたのはウィルバー・スナイダー&ダニー・ホッジの超絶的なテクニックを持つ玄人コンビ、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの圧倒的なタフネスと喧嘩の強さを誇る暴走コンビ、ドリー・ファンクJr.&テリー・ファンク兄弟による“ザ・ファンクス”の3チームである。

やがては、日本テレビのみならずNETテレビ(現:テレビ朝日)も中継に加わり、日本テレビは馬場を、NETテレビは猪木を追うようになり、ここで猪木は馬場に追い付くことになった。
二人は若手時代に対戦して全て馬場の勝利となっていたが、今ならば実力的にも格的にも馬場に勝てると踏んだ猪木は馬場との対戦、インターナショナル王座への挑戦を主張するも、もはや一介の若手を抜け出していた日本人同士の対決を力道山の教えに従う日プロが認める筈がなかった。

そして、1971年に役員が自分達よりも高い給料を取り、その上で不透明な金の流れが当たり前になっていた日本プロレスの体制に疑問を感じた猪木が、後援会長や親しい社員と共に改革案を突き付けて経営陣の刷新を図ろうとした事件が起きる。
これには、馬場を含めて全ての選手が賛同していたものの、猪木が自分と親しい人間とだけで主導していることに疑問を感じた馬場が上田馬之助を掴まえて聞いた所、猪木が乗っ取る形となって自分を追い出す可能性もある……と知った馬場が経営陣に計画を漏らし、猪木の行動はクーデターであると見なされて、猪木は解雇されることとなった。

……この流れについては証言に食い違いもあってハッキリしておらず、特に、馬場は上田を掴まえて聞いたのは自分だ、と明かしているものの、上田が馬場に密告して計画を潰した、とする説も根強く残っている。
また、若手時代は仲が良く、肩を並べていたBI砲も、この頃には相手の人気が自分よりあるかどうかが気になる、という所まで来ていたとの証言もあり、互いに相手を邪魔と思っていてもおかしくない(猪木は対戦アピールしていたものの)、といった所であったらしい。


【全日本プロレス時代】

しかし、この時に猪木を追い出したことはそのまま日プロの崩壊に繋がった。
或いは、馬場以上の視聴率を稼いでいた猪木の中継を失った穴埋めにNETテレビは馬場の試合の中継を要求。
収入源を失いたくない日プロはこれを承諾したものの、たまったものではなかったのが日本テレビで、契約不履行として日プロとの契約を打ち切ると、馬場に接触して、新日本プロレスを旗揚げしていた猪木同様に馬場にも新団体を作ることを勧め、過剰とも言える厚待遇による全面的なバックアップをも約束したのである。

猪木の“クーデター”を伝えたとはいえ、結局は自分も日プロ経営陣に不満があった馬場はこれを了承。
日プロに辞表を提出し、百田家も馬場に協力して新団体となる全日本プロレスの設立に協力するのだった。

こうして、1972年10月に全日本プロレスは旗揚げ。
いきなり、日本テレビによる中継が付き、馬場自身が渡米して声をかけたことにより、プライベートでも仲の良かったサンマルチノやフリッツ・フォン・エリック、ドリー・ファンクSr.といったビッグネームを招聘して豪華な旗揚げ戦を行った。

馬場自身の実績に裏付けられた人脈と、前述の通り百田家のお墨付きを得た馬場には、既にエース格を二人も失った日プロも妨害工作が出来ず翌年には崩壊することになる。

旗揚げに際し、馬場はミュンヘン五輪での活躍を見て注目した鶴田友美=後のジャンボ鶴田を、自ら声をかけて誘った。
馬場は鶴田を自分の後継者とするべく、知己のあるザ・ファンクスのファンク道場に送り一年に渡る修行をさせた。

馬場は全日を日プロ同様の日本人対外国人の構図とし、日本側の人数が足りないことから国際プロレスと協力を結んだり、馬場との縁で全日に長期参戦することになったザ・デストロイヤーが日本側に入る等していた。

また、全日旗揚げと共に馬場が創設したのが全日本プロレス認定世界ヘビー級王座=後のPWF王座で、これは百田家が管理していたオリジナルのインターナショナル王座であった。
馬場は日プロ退団と共にインターナショナル王座を返還しているが、馬場が巻いていたのは新調されたベルトで、元々力道山が巻いていたのはこのベルトであるという、事情があった。
馬場は、現在よりもタイトル戦のペースが早い時代とはいえ、この王座を38回も防衛して記録を作り、PWF王座は馬場の代名詞となる。
尚、ベルトは後で更に新調されて三冠ヘビー級王座の一本となり、オリジナルはヒューストンのプロレス博物館に寄贈された。

1973年10月に日プロの崩壊後に合流していた上田と松岡巌鉄が離脱。
馬場は、元々日プロ残党を受け入れるのに難色を示しており、日本人でも旗揚げ組や鶴田と、ベテランであるにも関わらず日プロからの合流組の待遇にあからさまな差を付けていたのが原因であった。
1974年1月には嘗ては共に肩を並べていた大木も離脱。

ただし、冷たいとも言える馬場のこの判断だが、船出したばかりの新興団体なのに自分について来なかった人間を複数雇う立場である事を考えると同情すべき側面もある。
また、結果的に鶴田の成長を促し、替わりに日本人側=ベビーフェイス側に付いたザ・ファンクスがアイドル的な人気を獲得する等、日本プロレスとは違う、全日本プロレス独自のカラーとなった。
馬場は自身も親しんだアメリカンプロレスの善玉対悪玉を表現してみせ、これが“王道プロレス”と呼ばれる理由になった。

こうして、軌道に乗った全日だったが、馬場自身に目を向けると、既に全盛期のピークを過ぎてしまっていた事実があった。
当時の馬場は35歳と、まだまだ現役で行ける年齢なのだが、馬場には前述の様にホルモン異常の可能性があり、それ故に人より早く老けたのではないか、という推察がある。
理由はともかく、実際のリング上の動きから見ても、馬場の全盛期は日プロ時代だったというのは定説である。

全日は、馬場自身も親しんだ伝統的なアメリカンプロレスのスタイルを80年代まで頑なに守ったが、旗揚げから約一年でNETテレビを付けて軌道に乗った新日の、猪木の異種格闘技戦を初めとした過激な仕掛けによる注目に曝されることになる。

また、全日を旗揚げした頃から下り坂に入った馬場に対して、新日の旗揚げと共にピークを迎えた猪木の勢いは凄まじい魅力を放ち、猪木による度重なる挑発的発言も繰り返されるようになっていった。

一方、馬場はハーリー・レイスやジャック・ブリスコを相手にタイトルマッチを行い、念願のNWA世界王座を3度獲得。
しかし、何れも保持期間は1週間と短命に終わっており、これについては、最初の対戦相手であるジャック・ブリスコが自伝で衝撃的な裏話を書いている。(注釈参照)*3

1980年デビューから20年で通算3000試合を達成。
相手はザ・シークであったが、馬場自身は「知っていればもっとまともな相手を選んだ」と、辛辣なコメントを残している。

1981年ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして、新日本プロレスで猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントと激闘を繰り広げ、最強外国人の名を欲しいままにしていたスタン・ハンセンが出現し、ザ・ファンクスに場外でラリアットを食らわせて襲いかかった。
これにエキサイトした馬場と鶴田は次の試合の為に待機をしていた所でハンセンの暴挙に立ち向かい、いきなりハンセンを流血させる等、衝撃的な移籍を果たした。
これは、新日と全日による熾烈な有力外国人レスラーの引き抜き合戦の中でも最大の事件にして、余りの痛手に新日側が白旗を上げた程だったと伝えられる。
……実況の倉持隆夫と解説の山田隆の茶番絶叫も印象的な場面だが、この引き抜きには馬場自らハンセンの説得に向かっており、アドバイザーも務めていた『ゴング』編集長で解説の竹内宏介にも知らされていたようである。

こうして全日に定着したハンセンに対し、40代に達していた馬場は最後のライバルと定めて戦いを挑んだ。
1984年4月、ハンセン&ブロディのプロレス史上最強のコンビとも言われる超獣コンビ(ミラクルパワーコンビ)との試合中にハイジャックパイルドライバー(合体パイルドライバー)を受けて首を負傷し、プロレス人生初の負傷欠場に追い込まれてしまった。

そして、翌1985年7月のPWF王座戦にてハンセンに敗れ、限界を痛感した馬場は第一線から退くことを決意。

以降は自分を兄貴と慕うラッシャー木村や、百田光雄とファミリー軍団を結成して悪役商会と戦う前座での出場に落ち着いていく。

1990年4月の新日本、全日本、WWFの協力による『レスリングサミット』をきっかけに“東洋の巨人”は“大巨人”と出会い意気投合。
こうして、馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントとのコンビを実現してデモリッションと対戦している。

共に、全盛期を過ぎての出会いだったとはいえ、二人の巨人の相性は抜群で、アンドレはWWF離脱後の最後の戦場を全日本プロレスとした。
同年10月にはアントニオ猪木デビュー30周年セレモニーに出演した後で、ジャイアント馬場デビュー30周年セレモニーにてハンセンと組んでアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んだ馬場と初対戦。
11月には世界最強タッグにも出場して快進撃を続けるが、帯広でのザ・ファンクス戦で場外に転落した馬場は大腿骨を骨折する重傷を負い欠場。
馬場の負傷が無ければ優勝していた可能性もあったが、これが大巨人コンビの最後のチャンスであった。
尚、このリーグ戦で大型コンビのランド・オブ・ジャイアンツと対戦した際には、馬場が一番背が低いという珍しい光景が見られた。

馬場の年齢や身体の大きさでは完全復活も危ぶまれたが懸命なリハビリもあって91年6月に復活。
待っていたアンドレと合流し、大巨人コンビは91年の最強タッグでも優勝候補に残る活躍を見せた。

しかし、この時を境にアンドレの体調が悪化。
92年は小橋健太と組んでアンドレとのタッグを見送る中で、1993年1月29日にアンドレの訃報が馬場に届いた。
アンドレの死後、馬場にアンドレの遺族から愛用していた特注の椅子が贈られており、最期の友となった二人の巨人の絆を感じさせるエピソードとなっている。

尚、1990年前後にメガネスーパーが大型資本を投入して発足したSWSが全日本プロレスを退団した天龍源一郎を獲得したのをきっかけに、まだ契約が残っている全日所属選手までもが引き抜かれる事態に発展して大打撃を被った。
天龍の獲得については認めた馬場だったが、契約の残っている選手まで移籍したことについては激怒。
出ていった選手らに法的措置を取るのみならず、
どちらから声をかけたのか、馬場は乗っただけだったのかについては異論もあるのだが、当時の『週刊プロレス』編集長で、賛否はあれどプロレスファンの心に記事を書いていたターザン山本に金を渡して記事を書かせ、SWS批判の論争を煽ったと言われる。
(これが縁となったのか、ターザンは馬場のブレーンとして働いたともされるが、そのまま全日本偏重、新日本批判の誌面作りを続けた末に、主観でしかない「新日本は地方で手を抜く」とする記事を書いたことで、実際の売上に結び付く方の新日本プロレスから取材拒否を食らってしまい売上が激減。
ライバルで此方は新日と親しい『週刊ゴング』に反論され、論争も申し込まれたが反証も出来る筈が無い。
これを理由に、ベースボールマガジン社は週プロ編集長から山本を解任した。
その後、興味もなくて退屈で、給料も安い別部署(東欧文学前述関連)に回されたことで退社。
こうして、ターザン山本はプロレスマスコミの表舞台から追放されたのだった。
尚、山本は同時期にSWS側からも批判記事を書かないことを約束して金銭を受け取ったことも証言して批判されている。)

1995年1月の阪神淡路大震災の折に、元子夫人の実家を見に行って被害の惨状を目の当たりにしたことからガスコンロや生活用品を買い集めた後で、全日本プロレスファンクラブ“キングスロード”の会員宅を周り、自ら支援物資を手渡して歩いた他、無料で興行を開いて震災で落ち込んだ人々に娯楽を与えた。

また、全日本プロレスの興行から出た売上を明石ロータリークラブに義援金として寄付し、巨人時代にキャンプで訪れていた明石公園に「阪神淡路大震災記録碑」が建立された。

……馬場は、動けなくなる直前の1998年12月まで興行に参加。
しかし、年明けから入院していた東京医科大学病院で大腸癌の肝転移による肝不全により死去。
病状は元子によってギリギリまで伏せられており、社員でも知っていたのは、どうしても接触する運転手も務めていた和田京平と、秘書であった仲田龍のみ。
鶴田や、馬場に変わって現場を仕切るようになっていた三沢にも知らされていなかったという。

同年4月17日の武道館で行われたチャンピオンカーニバル最終戦にてファン葬が行われる。
そして、5月2日の東京ドーム前大会にて、TV中継も含むセレモニーが行われる。
最も長く最強外国人の地位を務め、晩年には組むことも多くなったハンセンの先導で、デストロイヤー、サンマルチノ、ジン・キニスキーが入場。
セレモニーは試合という形式で行われ、馬場が生涯最高の試合と語る死闘を演じたキニスキー、親友でもあったサンマルチノ、ライバルとして盟友として長い付き合いとなったデストロイヤーが別れの言葉を述べ、10カウントの後に、デストロイヤーがリングに置かれていた馬場のリングシューズを手に去っていった。
この“試合”を裁いたのはジョー樋口。立会人はPWF会長のロード・ブレアーズ。

プロ野球 巨人軍のエースを夢見たかつての少年が、レスラーとして選んだ最後のリングは“東京ドーム”でした。 実況:平川健太郎


◇ファイトスタイル

80年代以降は甘いもの好きの影響で糖尿病を患う等して痩せてしまい、動きの遅さをネタにされるようになった馬場だが、元々は巨体でありながら驚く程のスピードで動いていた。
寧ろ、現在では若い時代を知らない世代が殆どなので、白黒時代の動画を見て驚くまでがデフォ。

公称身長は208(209)cm、体重は135kg(全盛期は145Kg)だが、巨人軍時代は203cmと記載されており、日本のプロレス界では力道山以来5cmサバを読む伝統があるため、後者の方が正確かもしれない。

どちらにしても日本人の常識外の巨漢であり、その上でウドの大木などでは無かったことは野球でもプロレスでも大きな武器となった。


【主な得意技】


  • 16文キック
所謂プロレス式ハイキック=ビッグブーツで、馬場がアメリカ遠征中に履いていた靴に16と書いてたのを見た日本人記者が16文と勘違いして紹介したのが名前の由来。
馬場の、最も基本的なフィニッシュホールドである。
実際の馬場の足の大きさは34cmで、16文(38.4cm)にも16インチ(約40cm)にも及ばない。
馬場曰くアメリカでタッグパートナー(スカル・マーフィ)に「キックだ!」と言われて咄嗟に出したのが最初で、本人も足応えを感じて日系の空手の先生に習い完成させたという。
利き脚は右なのに瞬間的に左が上がったのは、野球の投球の際に左足を振り上げてたからだろうと自己分析している。
前述の骨折からは足に負担をかけないようにロープに寄りかかって身体を支えてから出すようになっており、文字通りにただ足を出してるだけの攻撃で試合が決まることに90年代以降のファンはツッコミを入れていたが、そうなったのもこうした経緯によるものである。
元々は瞬間的に繰り出され、それこそアンダーテイカーばりのタイミングと勢いで蹴り込んでいた。

  • 32文ロケット砲
アメリカ遠征中に、ドロップキックの名手であるペドロ・モラレスに習い、当時の日本では珍しかった横飛び~回転式のドロップキックを会得しており、これが代名詞の32文ロケット砲となった。
名前の意味は16文キック×2だから。
当時は、選手によってはドロップキックをフィニッシュとする選手も存在していたが、馬場程のサイズで飛べる選手は他には居らず、一撃必殺の威力を獲得した。
また、自爆しやすい正面飛びではなく、うつ伏せに着地するフォームであったことから、大型のゴリラ・モンスーンやタフなボボ・ブラジルには連発式で放たれた。
晩年は身体能力の低下により見られなくなり、伝説の技と化した。

  • ランニング・ネックブリーカードロップ
馬場が69年のドリー・ファンクJr.との試合で初公開したオリジナルホールドで、通常のネックブリーカー を使用していた馬場が、より自分の体格を活かした技として、32文ロケット砲のタイミングをヒントに考案した。
相手の首に自分の腕を引っ掛けた状態で勢いよく倒れ込むことで相手を引き倒し、頭部や背中からマットに叩きつける。
現在でも多くの選手が使うが、普通の体格では精々チェンジオブペースといった所の威力なのに対し、馬場の巨体では一撃必殺の技となった。
特に、初公開から全盛期のカウンターとして放った一撃は相手も自分も水平に一直線になる程の勢いで決まり、説得力も充分だった。
32文ロケット砲とは違い、打点は低くなっても仕掛け易い為か、還暦記念試合でもフィニッシュとしている。
実は、ジャイアント馬場最大の必殺技とはこの技である。

  • 河津落とし
晩年にかけての馬場が得意とした、柔道(禁じ手)や相撲にある河津掛けをプロレス技に応用し、組んでから勢いよく倒れ込む形でアレンジしたもの。
実は、馬場の巨体で自ら後ろに倒れ込むというのは人体構造上から見ると相当に危険らしく、プロレス関係者ではない所から驚きの声が上がったとか。
また、動きが落ちたとはいえ、馬場が晩年まで高い受け身の技術を持っていたことが解る。
国外ではロシアン・レッグスイープとも呼ばれる。

  • ココナッツクラッシュ
相手の頭を掴んで、勢いよく自分の膝に叩きつける技。
晩年は「これが出ると調子がいいんです」と実況されるのが定番だった。

  • ジャイアントバックブリーカー
馬場のオリジナル技で、若手時代に考案してから晩年まで使い続けた。相手にコブラクラッチをかけて、そのまま背倒背中側から倒して自分の膝に相手の背中を押し付けて逆に反らせていく技である。
どちらかと言えば拷問技だが、馬場との身長差からか、ジュニアヘビーのトップスターアントニオ・ロッカを落としたことがある。
太陽ケアや渕正信がレパートリーに取り入れていた。

  • ジャイアントコブラ
馬場が猪木の必殺技を“盗んだ”と言われる技だが、使用自体はアメリカ遠征中からだったらしい。
しかし、馬場がBI砲を組んでいた当初は全く使っていなかったことは事実である。
完成度は猪木と比べられるものではないが、巨漢の馬場が出すことで不思議な魅力を発揮し、突如として馬場がコブラツイストを使ったことが猪木に卍固めを身に付けさせるきっかけになったと言われる。
有名な所ではタイガー“ジェット”シンからギブアップを奪っている。

  • ジャイアントDDT
晩年に使用していた技で、元々が長身の選手が使うのに適した技のために、直ぐにコツを掴んだ。
本人も余りの手応えと使い勝手の良さからもっと早くに使えば良かったと語った程。

  • 逆水平チョップ
力道山から受け継いだ技で、馬場は余り振りかぶらずにショートレンジで使用していた。
力道山式のカウンター式が多かったが、本人がデカいので軽く打って見えても相手を軽々と宙に舞わせた。

  • 脳天唐竹割り
相手の脳天に落とすチョップ で、これが所謂“ババチョップ”と呼ばれていた技。
普通はブレーンチョップと呼ばれる。
力道山と共に泊まった遠征先の旅館でうっかり敷居の角に頭をぶつけ、そのあまりの痛さに悶絶した事から閃いた。
部位的に効果に疑問を持たれたり、晩年はもっさりな動きになっていたのでネタ的な技として捉えられたりしていたが、考案時に「使っていいか?」と聞いたら力道山に「並みの奴なら兎も角お前がやったら死人が出る」と止められたり、UWFインター出身の垣原賢人は威力に驚いたと語っており、稲中卓球部などでもバカにされていた馬場の実際の技の威力が窺える。(実際、角の付いた鈍器で頭を思いっ切り殴られると想像すればかなり危険である。)
また、タフな相手には応用で耳削ぎチョップも出した(実際に削いだ事は無かったが)。エグい。

※この他、昔はスピードに乗ったジャンピングニードロップやギロチン(レッグ)ドロップがフィニッシュになったりしていた。
また、晩年にはラリアット等も使っていたが、その時には頭に“ジャイアント”と付くお約束があった。
異種格闘技戦をこなし、実戦的な技を意識していた猪木に比べて、プロレスらしいプロレスに終始していたが、アメリカ時代の師匠のフレッド・アトキンスからシュートの技術も仕込まれていたと真しやかに囁かれており、唯一の異種格闘技戦となった、馬場よりも長身の空手家ラジャ・ライオン戦では器用に腕ひしぎ逆十字固めを極めている。
持論として「シュートを超えたものがプロレス」という名言を残しており、これについては昔のプロレスラーには数々の武勇伝がつきまとい、実際の技術は低いが危険な荒くれ者が多く居た時代を生きてきた者だからこそ出た言葉だったのかもしれない。


◇その他

【馬場さん】

当初、単に肉体に張りがなくなり、動きが遅くなった時には観客に心ないヤジを飛ばされもした馬場だが、一線を退いた後で自ら解説席に付いて蘊蓄ある解説を披露したことでファンから感心され、タレント活動でついた雰囲気もあってか、晩年までに“馬場さん”という呼び名が定着していった。
四天王プロレスに魅せられて入った世代からは最初から“馬場さん”であり、人員に限りがあるのを少数精鋭のブランドイメージを付けて売り出した四天王プロレスが熱狂的なファンに神格化すらされたのと同様に、聖人的なイメージのみが語られてもいた。

晩年は会場毎のグッズ販売売り場に陣取り、自ら売り子やファンのサインに応えるのも定番となっていた馬場だが、タバコを咥えて応じていたりと、決して態度が良かった訳ではないとも言われている。
しかし、馬場がこうしたサービスを始めたのは90年代に入ってからで、その頃には上記の様に加齢や病気、怪我からの復帰の影響があった。

…このイメージもあってか馬場の逝去後も全日のグッズ売り場には「馬場さんがいつ来てくれても良いように」と、ファンからの願いもあり必ず一つの空席が設けられる習わしが出来た。

尚、昔気質の馬場は弟子達に髪を染めることや襟の無い服を着ることを許さず、裾もズボンに入れるように指導したという。
このため、全日系のレスラーは私服でポロシャツを着る人間が多く、時にダサいと囁かれる要因であった。
晩年の馬場に逆らったことがあるのが秋山準で、裾を出しているのを注意された後でこっちの方が格好いいんですと答え、これには馬場も苦笑しつつ赦したという。

上記の様に大らかな性格のイメージがあり、実際にその通りなのだが、同時に警戒心が強く繊細でありながら傲慢な面もあった。
世話好きな性格で自分に従う者に対しては手厚く保護する反面、一度でも自分に逆らった人間は決して許さず、
記者達と談笑していても見知らぬ顔があると話を中断したり、ムッとすることがあると黙り込んでしまったりもしたという。

趣味人であり、前述の様に読書家で絵を描くのが好き、他にも民謡が好きで尺八をたしなみ、歌も相当に上手かったとの証言がある。

TVでは『水戸黄門』の大ファンで、他の番組は見なくてもこれだけは欠かさずに見た。
初代黄門様の東野英治郎と会えた時には直立不動で頭を下げ、中谷一郎や高橋元太郎を見かけたときにはそれぞれに「弥七」「八兵衛」と呼び捨てにしたという。
『水戸黄門』しか知らないのでこれ以外で芸能人の顔も知らず、松田聖子や高倉健と出会っても知らないと答えたり、シカトする形となったとの証言がある。

【金銭感覚】

プロレスが稼げる時代に稼いだ人なので、自分が稼いできたことを自負していた。
実際、当時は王貞治や長嶋茂雄が語っていた年俸よりも稼いでいたそうである(この2名はあまり年俸に頓着しない気質でもあった)。
猪木が次々と事業を広げて失敗して無一文となったのを横目で見てほくそ笑んでいたとも言われる。

プロレスや普段の生活からも解るように保守的で、猪木や力道山の様な博打はしなかった。


【選手待遇について】

尚、晩年になって三沢達が馬場への改革を迫った背景には、馬場が待遇面で外国人を偏重して、日本人選手には保険や負傷欠場時の保障制度を満足に用意しなかった……と言われるものがある。
また、全日本プロレスでは選手のグッズを元子夫人が代表を務めるジャイアント・サービスのみにロイヤリティが入る形としていた為に選手には給料以外の金銭が入らず、契約量自体は新日本プロレスより高いと言われながらも、同格程度の選手で三倍もの収入格差が全日と新日では生じてしまっていたとも言われている。

ただし、B型肝炎を発症して長期欠場となった鶴田には出場中と同じ給料を振り込み、内蔵疾患で長期欠場となったロッキー羽田にはポケットマネーで治療費を援助したが、制度としては導入されていなかった。
後に大日本プロレスを設立したグレート小鹿は、全日本プロレス時代に負傷欠場したら直ぐに解雇されてしまったことに思うところがあると語っており、人によって扱いが違っていたようである。
馬場は、自分と同じ大型選手や大柄な人間にシンパシーを感じていたようで、この後も田上明に自分のガウンをプレゼントしたり、UWFインター出身の高山善廣にアドバイスし、馬場の言葉を受けた高山は純プロレス路線にシフトし、数年後にはプロレス界の帝王と呼ばれるまでの活躍をすることになった。

馬場と鶴田に続くことを期待されて迎えられた天龍は、新人なのに自分が目をかけられ過ぎていることに対して、反対に疑問を感じたと語っている。

また、谷津嘉章がSWSに移籍したことについて治療費をだしてくれなかったからと答えたのに対し、馬場はその分の領収書を提出すれば精算してやると反論しているものの、後に三沢と共に四天王プロレス時代を支えた川田利明は物が二重に見えるといった障害が出ても給料制のままでは満足に治療出来ないために、フリー契約に切り替えてギャラを前借りして出して貰って治療に当てていたとの証言もしている。

三沢光晴が、馬場からマッチメイク権の委譲や経営の是正を迫ったのにはこうした事情の改善が理由としてあった。
また、本来は一つ一つの技を大事にして同じ技を出さないルールを守っていた馬場が、自分達には大技であっても二度、三度と出すようにと指導した四天王プロレスをやることを迫ったことについてターザン山本や市瀬英俊の影を感じていた三沢は、その部分でも見直しをしたかったとの噂もある。この他に新聞のインタビューでは、若手選手は黒のショートタイツしか着用を許されず、試合で出していい技も限られていたと答えている。

しかし、馬場の死後も元子夫人は“馬場さんの時代には無かった”の一点張りで譲らず、結局は三沢体制の全日本は、僅か一年半程度……奇しくも、00年に鶴田の訃報が知らされた僅か一月後に、三沢以下の選手、スタッフが大量離脱してプロレスリングNOAHを設立することが発表された。

これについて、厚遇を受けていた側のジャンボ鶴田夫人は「主人は三沢くん達を応援するだろうけど三沢くんに全日本プロレスを潰す権利は無い」として批判していたものの、後に内情を知ると「三沢くん達は正しい、元子さんはひどい」との感想を記している。

尚、馬場自身は生前、三沢に自分の死後の変革ならば認める発言をしていたらしい。

このようにケチのイメージが強い馬場社長だが、近年ザ・グレート・カブキや谷津から、今まで知らなかったがずっと年金を払ってくれていたという証言が出ている。
後者は先述の違約金を示談で10分の1にしてくれたとも証言している。


◇物真似している人物


  • 関根勤
若手の頃から馬場の物真似を得意のネタとしており、馬場の口癖とされる「ポー」「アポー」を広めた。
これに対して、直に顔を合わせた馬場は「僕はアポーなんて言わないよ」と抗議したものの、関根は「指で汗をぬぐい大きく息を吐く動作なんです」と説明すると、馬場は細かく見ている関根に感心して、自分に似ているのを認めて公認を与えた。
この件で打ち解けた馬場は共演の際にアドリブでチョップのモーションを入れ、関根も馬場の真似で応えるといったやり取りも見せた。
2008年末の『笑ってはいけない』特番に於ける最後の山崎vsモリマン内のエキジビションでは、馬場としてアントキの猪木と対戦。
大足を付けたふざけた格好だったが、通しで馬場の動きを再現し、16文キックで勝利を修めている。

  • ジャイアント小馬場
西口プロレス所属の馬場の物真似レスラー(お笑い芸人)。
尚、西口プロレスにはアントニオ小猪木も居るが、対峙した際に小猪木以上に猪木の物真似ムーブを見せつけるというのが定番ネタになっている。


【モチーフとしたキャラクター】


  • 大巨人(浦安鉄筋家族)
記憶喪失の大巨人。
記憶を無くしたまま小鉄のリコーダーに操られている。……本当は何処かのプロレス団体の社長らしい?

日本プロレス界の象徴。身長2メートル越えの大巨人。
板垣が連載を勝ち取る際に訴えた「馬場が飛び後ろ廻し蹴りをする漫画なんて面白くない訳がないでしょう」で描かれたキャラで、この登場エピソードから刃牙の人気も出たという。
ちなみに特別篇『グラップラー刃牙 外伝』で斗羽のライバルで猪木がモデルのアントニオ猪狩との試合も行われた。
ジャイアント馬場が死去、アントニオ猪木が引退し、プロレスラーとしての両者の記憶が完全には薄れていない当時だからこそ描かれた作品であり、作者自身もが「描くタイミングは今しかない」と語っていた。
これは現実世界ではついに実現しなかった「ジャイアント馬場vsアントニオ猪木」であり、漫画愛好家のみならずプロレスファンにも一見の価値あり。
ネットで散見される「それは私にとってすべてに優先されることです」というコマはこれが出展。
2021年9月に期間限定で刃牙シリーズの無料公開が行われた際には、多数のファンがこの外伝だけでも読むことを勧めた。(そして数日後にはこち亀の全作公開が行われ、立て続けの長寿マンガのお勧めエピソードのプレゼン大会の様相を呈した)

「なめるなっ メスブタァッ」
プロレス王者。殆ど猪木だが馬場も入ってる(名前とか)。
しかも力道山(力山大山)の愛人の子となってるっス。

  • カイザー武藤(餓狼伝)
社長を務めていた東海プロレスの倒産で借金を背負い、猪木ポジの巽との契約でシュートに参加する巨漢レスラー。
46ながら身体・技術ともに未だ高いレベルにあり、プロレスじみた真剣勝負もできる。
新・餓狼伝では主人公丹波と死闘を展開する。

  • グレート司馬(ファイヤープロレスリング)
「太平洋プロレス」の巨漢の看板選手。
肖像問題で夫人から苦情が入ったりして出なかった時期もある。

アニメオリジナル『ベイ・オブ・ザ・リベンジ』に登場した千葉県警刑事。
部下はアントニオ猪木がモデルの猪木刑事。

この他、実名で登場させられていた初代『タイガーマスク』では、正体バレバレのグレート・ゼブラに変身してタイガーを助ける役で、その後も定番のネタにされている。
後に現実のプロレス(新日本)でも、正体バレバレのジャイアント・マシンが出現している。


◇余談


  • 全盛期の食事は牛肉(主にビーフステーキ1キロ分)とジャイアント・スープ(鶏ガラと卵や野菜をふんだんに使った大盛りスープ)と呼ばれる特製スープを主に摂っていた。プロレスラーの為、食べる量も尋常ではなく、1日の食費は1万円以上かかっていた。

  • 酒に非常に強く、全く酔えないということから甘いもの好きになった。
    特にアンコが好きで、小豆の缶詰めを携帯している程だった。
    特に大好きな大福を、自分が死んだときには棺桶に入れておけと公言している程であったが、お菓子好きが元で糖尿病になっている。

  • かつて存在していたキャピトル東急ホテルを東京ヒルトンホテルの名称の頃から定宿としており、全日本関連の記者会見も同ホテルで行われた。
    中でも、深夜まで営業しているコーヒーラウンジ「オリガミ」は、取材記者が都内で必ず馬場を捕まえられる場所と言われる程に頻繁に利用しており、店内には馬場専用の椅子も用意されていた。
    鈴木みのるはホテルの廃業直前に「馬場さんの味を食す」という企画を主宰している。

  • 馬場と言えば葉巻というイメージもあり、実際に昔は一本数万円もする高級品や、それを吸わなくなっても一本千円の葉巻を吸っていたが、出演番組で親交を深めた逸見政孝が胃癌で入院したときには願掛けで禁煙。
    その後も葉巻を吸うことはなくなった。

  • 過去の経験からか晩年まで巨人のOB会には参加していなかったが、平成6年のOB会に参加した時に先輩で二軍の監督だった千葉茂に「おーい馬場」と話しかけられて嬉しそうにじゃれついた。
    いつからか仰がれるだけとなっていたので、後輩扱いされたことが嬉しかったのだろうと言われる。
    その後の試合では敢えなくアウトとなり、後輩の王に「頼むよ馬場さん」と言われてしまっている。

  • 空想科学読本』の著者である柳田理科雄もジャイアント馬場のファンであり、怪獣最強議論の研究に際して「ジャイアント馬場が120㎏のバーベルを2秒で2m80㎝持ち上げることの何倍か」というジャバという指標を考案している。

  • 短く刈り込んでいたので気づかれ難いが、実は天然パーマだった。
    昔、少し伸びた時にはパーマを当てたと勘違いされたそうな。



追記、修正にアンコ乗せて出してきて。

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最終更新:2023年09月16日 23:39

*1 手術に失敗して盲目になってしまった場合の転職先として、マッサージ師を勧められた

*2 当時の日系レスラーでは一番の悪役。丈の短いタイツに髭の田吾作スタイルの元祖とも言われ、プロモーターとしても活躍。漫画『空手バカ一代』なんかにも出てることで知られる。

*3 自伝によると日本での遠征開始直後にテリー・ファンクが訪れて「馬場がNWA王座を日本滞在中”預けてほしい”と言ってる」と話し、ブリスコはNWA王者の供託金(王者の期間中はNWA本部に2万5000ドルを預ける裏ルールがあった。言うまでもなくNWA本部に無断で王座を明け渡すと没収されてしまう)の件があるので断るとテリーは「供託金についてはこちらで負担する」と言った為、供託金+通常のギャラ(2000ドル)の4倍を条件に王座を”預けた”と書いている。ブリスコはこの件をNWA本部に報告したそうだがそれでもNWA本部が王座移動を認めた背景にはNWAの有力なプロモーターでもあった馬場への配慮があったと推察されている。