3DO

登録日:2019/06/22 Sat 07:43:08
更新日:2024/01/09 Tue 23:37:59
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『3DO』とは、かつて米国に存在していた会社名であり、同社が保有していた規格名。
及び、その3DO社とのライセンス契約により、幾つかのメーカーから発売されていたインタラクティブ端末据え置き型ゲーム機である。
読みは“スリーディーオー”が一般的。

日本からはMSX規格にも最後まで参加していた松下電器産業(現:パナソニック)が真っ先に名前を挙げて『3DO REAL』を発売しており、同規格を代表するハードとなった。
普通に3DOと言えば『3DO REAL』を指し、人々の記憶に残るハードである。
世界でも初めて、拡張機器としては存在していた光メディア(CD-ROM)を専用媒体としたハードである。

名称は3D(3Dimension)にAudioやVideoに倣い、末尾に“O”を付けて、それらの様に普及することを願っていた。
日本では、次世代ゲーム機戦争として知られる第5世代ハードの中でも、最も早くに登場して注目を集めたものの、諸々の事情により3DO自体はシェアの構築に失敗してしまった。


【登場まで】

元々は、米国第2位のゲームソフトメーカーである、エレクトロニック・アーツ(EA)の創業者の1人であるトリップ・ホーキンスが、次の時代のプラットホームとなる新しいゲーム機の開発を目指し90年に独立したのが始まりである。
ホーキンスは、SMSG(San Mateo Software Group)という企業を立ち上げて、数年をかけて基本となる仕様を作り上げた。

ホーキンスは、93年1月のコンシューマー・エレクトロニクス・ショーにて、16ビット機時代の末期に現行ハードの2倍のビット数を誇る32ビットマルチメディア端末である『3DO』を公開し、更には『3DO』は統一規格であるとして、ライセンス認可を受けたい企業や、任天堂やセガよりも安いロイヤリティでサードパーティーを広く募集した。
これに伴い、SMSGは3DO社(3DO COMPANY)に名称を変更している。

その際に公開した、当時の覇権ハードであるジェネシス(メガドライブ)やSNES(スーパーファミコン)には不可能な3DCGを利用した美しい映像は大きな注目を集めた。
当時は、まだセガの新ハードや、任天堂と袂を分かったソニーの新規参入ハードの情報も全く出ていなかった頃で、時代を変えるハードとして3DOは持て囃されることになった。

しかし、その後のプロモーションでも3DOはマルチメディアやインタラクティブを強調するばかりで、ゲーム機としての方向性が見えてこない状況が続いた。


【発売されてから】

そして、米国では93年10月に、日本では94年3月に『3DO REAL』が発売開始される。
米国では約1ヶ月後に発売され、当初はライバルとなると見られていたアタリ ジャガーとは違い、松下が関わっていることから、業界の最先端であった日本での流通にも支障がなく有利な条件にあった。

……しかし、米国では699.99ドル、日本では54,800円と、とんでもなく高額で資金力のあるマニアしか買わなかった。*1

これだけ高くなってしまったのには、契約によって3DO社はライセンス受託社やサードパーティーがハードやソフトを売る度にロイヤリティを受け取れるが、松下の様なライセンスを受けてる側はロイヤリティを払う側であり、幾らプロモーションを行い、ハードを作って売ってソフトが売れてもロイヤリティが入らず、自社製ハードの様に後の回収を計画出来もしないために、利益を上げる為には高く売るしかなかった……という事情がある。
松下の自社販売網でも扱われたが、そうした店では店の利益を上げるために商品の値段を下げれなかった為に、ゲームショップの様なハードの値下げは不可能であった。

また、3DO社が本機を「ゲーム機」として扱う事を頑なに拒み、あくまでも「マルチメディア端末、家電」であることに拘った事もあり、日本でも主にゲーマーが普段は立ち寄らない家電量販店がメインの流通先となり、ゲームショップでもあまり取り扱われる事が無く、仮に取り扱われていても高額なままの為に手を出せないユーザーが多かった。

94年10月には三洋電機から『3DO TRY』が同価格で発売されたが、松下より弱い販売網では認知度すら低く、更に普及しなかった。

尚、3DOは販売直後からのソフトのラインナップの数自体は決して悪くはなかったとのことだが、殆どが歴史を持たないポッと出のソフトばかりでキラータイトルが存在せず、日本人からしてみると当時は大味でつまらないとされていた洋ゲーの邦訳版ばかりで、やっぱり購入が進まないという状況が続いた。
米国ではEAが、日本ではコナミやカプコンといった大手も参入したのだが……。

当時、シリーズが移植されてきていたSFCや、他の現行ハードでは移植されなかった『スーパーストリートファイターⅡX』が唯一移植されて注目を集めたものの、単発的な人気に留まった。

とはいえ、新しい映像表現を使える3DOに注目したクリエイターが居なかった訳ではなく、コナミの小島秀夫は本機で真っ先に『ポリスノーツ』の移植を行い、当時は個人のクリエイターとしては無名であったワープ代表の飯野賢治が『Dの食卓』の成功により注目を集め、時代の寵児となっていったが、それらのゲームは後には後続で勢いのあるプレステやサターンにも移植されてしまい、3DOの存在意義はあっという間に無くなってしまった。
小島は『3DO』用にMSX2で展開していた『メタルギア』シリーズの新作として、3D表現を用いた『メタルギア3』を発表する予定であったが、阪神淡路大震災で本社が被災したことによる影響で開発が遅れ、その間に3DOが下記の様に撤退を表明した為に、3D表現に長けるプレステでの発表に切り替えられ、それが後々までの大ヒットシリーズとなる『メタルギアソリッド』シリーズとなったことが後に明かされている。

また、謎の肩書きとしてネタにされるハイパーメディア・クリエイターを名乗っていた高城剛も3DOでゲーム製作していた。

この他、後に『トゥームレイダー』シリーズを手がけるクリスタル・ダイナミックスは積極的に力を入れていた事で知られ、中でも2Dアクション『ゲックス』は同社を代表する名作として評価されている。

90年代生まれにとって馴染み深いドラえもんズは、3DOのゲーム「ドラえもん 友情伝説ザ☆ドラえもんズ」で初めて世に出た。
(当初はゲームだけのオリジナルキャラであり、派生作品や映画で活躍するのは先の事。)


【撤退へ】

3DOのメインの牽引役となった松下電器だが、前述の様に当初はリスクを背負った展開を行えず、プロモーションに関しても「ゲーム機ではなく、あくまでもマルティメディア端末、家電である」という、3DO社の意志を反映したものばかりを行っていた。

しかし3DOの国内登場から半年以上が経過し、94年11月にセガサターン(SS)が、12月にプレイステーション(PS)が発売されると、漠然としたイメージしかなった3DOに対して、文字通りの次世代ゲーム機としての性格が色濃い両ハードは着実に売上を伸ばし、95年には早々に3DOの居場所を奪ってしまった。

この事態に、松下電器は漸く本腰を入れることを決定。
SCEを真似たのか、パナソニック・ワンダーテインメントを設立すると、96年2月に業績不振に喘ぐ3DO社から、3DOばかりか、更なる次世代機計画であるM2の権利を買い取って、漸く、ゲーム機としてのプロモーションを開始した。
REALの値下げを敢行し、更にはM2のプロモーションを展開、97年の4月か6月の発売を予告し、現行の3DOにも何かしらのアップグレードを宣言し、97年には松下と韓国のLG電子(旧:金星電子。現:LGエレクトロニクス)からM2の試作機が発表されて反撃の狼煙を上げた……筈だった。

だが最早手遅れだった。松下電器のプロモーションはあまりにも遅過ぎたのだ。
最早ゲーム業界の情勢は大きく変わってしまっており、今更3DOが割り込める余地など微塵も無くなっていたのである。

これらの発表が行われた96年から97年は、プレイステーションが爆発的に売れた期間だったのだ。
特に、96年には1年のみで1,000万台を売上、この時点で最大のライバルであったセガサターンの最終売上にも2倍近くの差を付けていたことになる。
また、値下げをしても尚、計画的な値下げを実行したプレステや、値下げは不可能だとされていながらも強引な値下げに応じたサターンよりも高額で、決して性能では劣っていないとされつつも、ゲーム機としての扱い易さや完成度で劣る3DOでは、最早存在感を出すことは難しくなっていた。

こうして、M2の発売予定であった97年6月に松下電器はゲーム業界からの撤退を宣言。
M2の開発計画も含む、全ての3DO関連の展開を中止することとなった。

もしプレイステーションやセガサターンが世に出る前に、松下電器が迅速なプロモーションを行っていたならば。
もし3DO社が本機を「マルチメディア端末」である事に拘らろうとせず、最初から「ゲーム機」として本腰を上げて宣伝していたならば。
性能自体は当時の3台巨頭だったスーパーファミコン、PCエンジン、メガドライブよりも遥かに勝っていた事から、もしかしたら本機は一定の成功を収める事が出来ていたかもしれない…。


【マルチメディア機】

3DO社は、本規格をあくまでも単なるゲーム機ではない、マルチメディア(複合媒体)、インタラクティブ(双方向)端末であるとしていた。

CM展開に於いても、アインシュタインをイメージキャラクターとして使う等、革命的な規格であることを強調していた。
アメリカで放映していたCMに至ってはSNES(スーパーファミコン)とGENESIS(メガドライブ)をおもちゃ箱に投げ入れ、しまい込むという衝撃的なCMを流し
このハードがただの玩具ではないということを強くアピールしていた。

しかし、当時のDVDも普及していない世界では、3DOで再生出きるのはフォトCDやビデオCD位のもので、しかもビデオCDにおいては別売のビデオCDアダプターが無ければまともな再生もできないと、名称の割には半端な機能しか持っていなかった。

今後の発展計画としてネット対応等も目論んでいたとも言われるが、僅か数年とは云え、日進月歩で発展しまうメディアの中では、余りにも世の中に出るのが早すぎた計画であったと言える。

また、あくまでもマルチメディア端末に拘っていた為に前述の様に日本では主に家電屋で発売される羽目となり、欧州への輸出の際にはEUの判断により“情報端末”と位置付けられ、多大な関税が加えられて、更に高額となってしまい、当然のようにここでも普及が進まなかった。

こうした、3DOが目論んでいたゲーム以外にも使える用途のハードは、00年代以降のゲームハードによって漸く叶えられていくことになる。


【日本の3DO】


3DO REAL(FZ-1)

  • 松下電器産業
最も最初に発売された『3DO』で、日本、アジア、北米、ヨーロッパと、最も早く、最も広く普及した機種である。
3DOと言えば本機を指すという程に記憶に残っているが、高額過ぎて販売実績は高くなかった。

3DO REALⅡ(FZ-10)

  • 松下電器産業
1995年に発売されたREALの改良機。
本格的にゲーム機としてのプロモーションを始めたこともあり、形状がよりゲーム機らしいものに改められた他、CDトレイの形式変更*2など全体のスリム化、軽量化が計られている。

ROBO

  • ナイスティック
FZ-1の業務用改造機で、ビデオCDアダプターを標準で装備し、五枚ものCDを切り替えて使用出来る。
ラブホテル用に500台程製作された。

3DO TRY

  • 三洋電機
日本のみで発売された機種。有名企業のサンヨーの商品ながら、REALの影に隠れて全く売れなかった。
形状もビデオデッキの様で、更にゲーム機らしくない。


【海外の3DO】


3DO ALIVE

  • 金星電子産業(現:LG電子産業)
韓国で発売され、形状はREALに似ているが中身は違う。
ファイル処理数の制限により、幾つかのソフトが動かないとされる。

3DO ALIVEⅡ

  • LG電子産業
社名の変更により韓国国内でのみ流通。
この他、韓国では三星からも発売予定であったが、予定のみで終わっている。

3DO Blaster

  • クリエイティブ
PC用のISA拡張カードとして発売。
PCで3DOをプレイする為に二倍速CD-ROMとコントローラーが付属する。


※この他、マルチメディア端末というだけあり、米国では家電に組み込まれた物もあったとのことだが、現物は不明である。


【ソフトの傾向】

3DCGを利用した見た目が派手だが中身のないゲームや、実写、アニメを利用していても肝心のゲーム性には欠けるゲーム等、先行していたCD-ROM拡張機と似たような展開がされた。
まだまだ3D表現を活かしたタイトルは登場しておらず、そうしたゲームはPSやSSから生まれていくこととなってしまった。

一方で、前述の様に海外製のゲームが多かったことは日本の市場ではマイナスに働いてしまった。
アダルト表現を用いたゲームも存在しており、3年程の販売期間の中で200本程のソフトが発売されているが、当初の期待値からすると少ないと言える。


【余談】


  • 権利を譲渡した後の3DO社はPS、SS、PC向けのソフト供給会社となったものの、03年に連邦倒産法第11章を申請して破産している。
    パナソニック・ワンダーテインメント社も、3DOの展開を中止した後は他社ゲームのサードパーティーとなるとしていたものの、実績のないままに99年に解散している。
    松下電器として任天堂と共にゲームキューブの開発に携わり、互換機『Q』を発売するも、ゲームキューブ自体が初代以上に普及してしまったプレイステーション2の牙城を崩せずに短命に終わり、今度こそゲーム業界から去っていった。The Jungle?はてなんのことやら。

  • 計画が中止されたM2は97年にコナミのアーケード用基板『タランチュラ』として採用されるが、CD-ROMドライブが標準装備されていたが為にアーケードとしては致命的なロード時間の長さ等から評価も低く、僅か5本のゲームに採用されただけだった。
    また、98年から業務用機器として松下電器産業から商品化されており、建築プレゼンテーション用ソフト『visHouse』の専用ハードや、キオスク端末、ATM、自動販売機の組み込み用として利用された。

  • 日本でのM2のプロモーション開始時に唯一人手を挙げたワープでは『Dの食卓2』の発売を宣言。
    M2を利用した、当時としては最高表現と言われたトレイラームービーを公開していたものの、M2の販売延期や販売戦略の見直しの挙げ句の企画中止に巻き込まれた結果、何度も作り直しをする羽目となった後で99年にドリームキャストにて『D2』の漸くの発売に辿り着いた。
    しかし、当初のプロモーション内容やトレイラームービーとは全く別のゲームとなり、ファンの期待を大きく裏切ることとなった。
    飯野はM2についてNINTENDO64の2~3倍程度の性能だがそれ以上ではなく、ドリームキャストは反対にM2の3~4倍程度の性能がある、と証言している。
    一方、3DOの登場以降の波に乗って知名度を獲得した飯野とワープもまた『D2』の不振により、長い期間に渡ってゲーム業界から離れることになった。




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最終更新:2024年01月09日 23:37

*1 当初は79,800円で販売する予定であったが、3DOの登場した頃には同程度の値段のゲームハードが他にも存在しておりそちらも売れていなかった。

*2 REALのフロントローディング方式(機器の側面からCD-ROMを出し入れする方式)からトップローディング方式(機器上部にCDドライブを設け、蓋を開けてCDを出し入れする方式)に変更した