物語論

登録日:2019/02/07 (木曜日) 02:25:16
更新日:2023/08/17 Thu 13:02:56
所要時間:約33分で読めます




※注意※
この項目は例として幾つかの作品のネタバレを含んでいます。







【概要】


物語論とは文学理論の一種。別名はナラトロジー。
構造という観点から物語の筋や、形式について研究する学問である。
要するに技法や仕掛けなど設計図から物語を分析しようというものである。

起承転結など「物語る」ことについての理論はプロット(創作)を参照。

【構造って?】


概要で述べたように物語論とは「構造」という観点から物語を分析していくものである。
これは物語論のバッグボーンには構造主義という考え方があるからだ。
では、そもそも「構造」とはなんなのだろうか?
一応物語論では以下のように定義されている。


「要素から全体を成り立たせるための関係性」


……うん、分かりにくいね。例を交えて説明していく。

google画像検索で「博麗 霊夢」について調べていただきたい。東方projectという作品の性質状、リアル体型、ロリ、ディフォルメ、など様々な絵柄の霊夢の画像が出てくるだろう。
しかしあなたはこれだけ異なった絵柄であるにもかかわらず、全て霊夢であると認識できたはずだ。なぜだろうか?

それは絵柄こそ違えど、全ての画像に「博麗 霊夢」という同一の構造が存在しているからだ。

霊夢の外見を分解してみると「ショートヘア」「黒色」「リボン」「赤色」「巫女服」「赤色と白色」「大きな瞳」「赤色」など様々な要素が現れる。
だが構造分析するのであれば全体を要素に分解するだけでは不十分である。
さらにここから、要素と要素を繋ぐ関係性のネットワークを見つけなければならない。

この場合は敢えてパーツと色で要素を分けたが、パーツと色の組み合わせが本来と違った場合はどうなるだろうか?
(作品の性質から2Pカラーに見えるかもしれないが)多分すぐに霊夢だと見分けるのは難しくなるだろう。
さらに言えば巫女服にショートヘアが生えているなど、要素間の位置の関係性が違えばより見分けるのが難しくなるだろう。
つまり要素だけではなく、要素間の関係性も同じでなければ、同じものに見えないのだ。
ちなみに要素が同じものを意図的に違う関係性にすることで結果的に別物にすることを「再構成」と言う。

このように何か物事を「全体」とみなし、それを「要素」に分けていき、さらにそれによって築かれる要素と要素の関係性が「構造」である。
そして物事の構造を見つけて研究するのが構造主義である。

なお今回は博麗 霊夢という目に見えるものを例に構造について説明したが、実際の構造主義では目に見えない概念的なものの構造を研究することに使われる。

例えば学生時代、社会科学の勉強法について「ただ単語を覚えるよりも、単語同士の関係性から全体像をとらえて覚えたほうがいい」と言われたことがある方もいるのではないだろうか。これも構造主義が概念的なものの分析に使われるためだ。

物語でも同じだ。まずは物語の仕組みについて見てみよう。

【物語って?】

アニメ、小説、ドラマなど様々なメディアで表現されている物語。
これの定義は一応以下のように定義されている。


因果関係によって描かれた出来事の推移

……やっぱりわかりにくいね。例を出して説明していこう。
関係、つまりは原因結果の関係性のことだ。
それによって何か状況が動いていくと、それは物語ということになる。
逆に言えば状況が動かなければそれは物語にはならない。「キョンはやれやれ系」「空条承太郎はスタンド使い」「江戸川コナンの正体は工藤新一」「俺がガンダムだ」は物語ではなくただの説明だ。

つまり例えばだが次のものは物語になる。


犬が歩いただから棒に当たった


赤い部分が原因で、青い部分が結果だ。
このテキスト上では、犬が棒に当たってしまったのは歩いたからだ。おそらく、歩くことがなければ棒には当たらなかっただろう。
そのため「歩く」という原因があって「棒に当たる」という結果があるのでこの文章には因果関係があるということになる。そして出来事が動いているため、これは物語である。

さてさて、では次の文章は物語と言えるだろうか?


「国王が死んだ」

結論から言えば、物語にはならない。
確かに王が「生きている」から「死んでいる」に状況は推移している。しかし何かが起こった結果「国王が死んだ」という状況になるなど、因果関係は存在しない。そのためこれは物語にはならないということになる。
それではこう付け加えてはどうだろうか?


「国王が死んだ。王妃が死んだ」

少しは近くなったが、まだ物語とは言えない。
何故なら、この文章のうちでは王妃が死んだことが原因となって国王が死ぬ結果になったとは書かれていないからだ。極論、酷が死んだ数十年後に全く関係のない事故で死んだとしてもこの文章は成り立つことになってしまう。
つまりさらにこう付け加えると物語になる。


国王が死んだその悲しみのあまり王妃が死んだ

これでやっと物語になる。王妃のメンタル弱いな、は禁句。
先ほどの文章とは違い、国王が死んだことが原因で王妃が死んだということがきちんと関連付けられている。そのためこの文章は明確に因果関係を持ち、かつ状況の推移を描いているので物語ということになる。

これが基本的な物語だ。
要するに因果関係を持っているということが重要な点である。というか因果関係のある文章なら大体自然と状況の推移もある文章になるものである。
現代でも話のつながりがあって、初めて物語になるというのは当然のこととして扱われる。
たとえばライトノベル「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」では……。


比企谷八幡は、高校でも友達が出来なかった。だから『一人ぼっち』を極めリア充を呪い続けていた。
だから平塚静に目をつけられて強制的に『奉仕部』に入部することになってしまった。だから奉仕部内で雪ノ下雪乃と出会った」

このようにあらすじレベルで見ればシーンとシーンがちゃんと因果関係を持って繋がっていることが分かる。
ちなみにだが因果関係は連鎖的に起こるというのが物語においてもうひとつ重要なことだ。
たとえば二つ目の「『一人ぼっち』を極めリア充を呪い続けていた」というのは「友達ができなかった」という原因から起こった結果だ。しかし同時に「『奉仕部』に入部することになる』ための原因でもある。つまり原因でも結果でもある。そもそも最初と最後の文章を除けばすべて原因であると同時に結果であることが分かるだろう。
物語はひとつ原因ができて、そうしたら結果が生まれた、で終わりではない。その結果が新しい原因になることによってまたあたらしい結果が生まれ、さらにその結果が……というようにひとつ原因があればそれに対して連鎖的に因果関係が生まれていくのだ。それによって築かれる状況の推移が物語ということになる。


長々と物語について解説してきたが、結局構造主義として使える点はどこだろうか?
それは「因果関係があるため、シーン同士がつながりを持っている」、ということだ。言い換えれば「シーンの連なりによって物語が生まれる」ということになる。
前述のとおり構造主義とは「「全体」とみなし、それを「要素」に分けていき、さらにそれによって築かれる要素と要素の関係性が「構造」である」という考え方だ。そのため要素の連なりによって全体をなすものであれば構造主義に使うことができる。
そして物語も要素同士でつながりがある。ということは、構造主義でも分析することができるということだ。実際後述の構造分析手法では(一部例外を除いて)因果関係を主とした分析をしている。
要するに構造主義と物語はやたらと相性がいいのである。




【物語論のルーツ】


まずは物語論が誕生するまでの歴史に触れておこう。

◆ロシア・フォルマリズム


まず原点となったのはロシア・フォルマリズムだ。フォルマと名付けられているように形式を重視している。
1910年代から1930年代のロシアにおいてシクロフスキーやヤコブソンたちが中心になって生まれた文学批評の思想だ。

当時のロシアでは書かれている内容や社会的背景などを分析していた。
だがフォルマリスト(=形式主義者)を名乗る彼らは違った。彼らの思想を大雑把に言えば

ぶっちゃけ物語をどう思うかなんて人によって違うし国や宗教で別れるんだから、内容を研究するなんて馬鹿らしくね?

というものだった。……乱暴だが一理あるだろう。
一応言っておくとロシア・フォルマリズムがそういう思想であるというだけで、この思想が完全に正しいというわけではない。本当に「一理ある」というものでしかない。内容の解釈から研究するのも立派な文学である。……まあ思想なんてそんなものであるが。
てか日本の国語教育は内容を解釈する方が主題であるし、文学界では形式主義者の方がやや肩身が狭い。

このように彼らは何が書いてあるかよりも、どのように書いてあるか(=誰を視点にするか、どこから書き始めるかなど)を分析することに力を入れた。
要するに彼らにとってテーマや主題は素材にすぎず、その素材をいかにして芸術作品にするかという形式の方が大切だったのである。
例えるなら絵画に近い。絵画はデッサンするモチーフの美しさよりもそれを芸術に仕立て上げる画力やセンスの方が重視される。
アニヲタWikiでも良項目クソ項目かの線引きは基本的に題材ではなく、内容の充実性や文章力など項目の魅せ方だろう。
彼らはそれを物語でも同じだと主張した。
……言ってしまえばかなり過激な思想である。

とは言っても、ジュネットの理論で解説するが形式がバカに出来ないものであるのも事実である。
例えば「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」は主人公扱いされるキャラクターがシン・アスカキラ・ヤマトアスラン・ザラなどに分裂しており、それぞれの心理描写に移り変わる。
対して「機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE」は主人公を一貫してアスラン・ザラにして特にその心理描写に寄り添っている。
形式次第で物語の見方が変わるという好例だろう。

上述の通りロシア・フォルマリズムは1930年代に消滅する。
形式主義とは裏を返せば「本質なんて必要ねえんだよ!」ととられかねない言葉であり「我々が本質的に正しいのだ!」という思想で士気を高めていた戦時中に出すにはあまりにも危険すぎる思想だったのである。
結果スターリンによって弾圧されてしまった。

ちなみにこの時代「昔話の形態学」という時代を30年程度先取りしたオーパーツを出版したウラジミール・プロップという人物がいるがそれについては後述する。

◆ソシュールの言語学


次は現代言語学の父と言われているフェルディナン・ド・ソシュールの言語学である。これが実質的に構造主義の前身となった。

まず彼がそれまでの言語学で言われていた「世界は事物によって分けられ、そこに言語がある」という考え方を否定して「世界はまず言語で分けられ、そこに事物がある」という真逆の考え方をした。
これも分かりにくい理論であるので例を入れて解説しよう。

ソシュール以前の言語学では、世界には様々な事物が存在し、言語とは事物を判別するための分類記号であると考えられていた。要するに世界には様々なモノがあり、それを人間同士のコミュニケーションのため指示対象として名前をつけていったのが言語、というのがソシュール以前の考え方だった。
当たり前じゃん、と思う方も多いだろう。あのプラトン先生もこの考え方に賛同している。

だがソシュールはそれを否定した。彼は世界が人間の言語によってまず分けられ、その先に事物があると主張した。

これは各国ごとに世界による言語の分け方が異なるということから生まれた考えである
例えば英語では食事のための机を「table」と表現し、作業用の机を「desk」と表現する。だが日本ではどっちにしても「机」と表現される。
逆に日本では二等親で年上の女性を「」と表現し、二等親で年下の女性を「」と表現する。だが英語では二等親の女性であればどちらも「sister」と表現される。

このように世界によって事物をどこまで細かく分けるかは変わってくる。そのためソシュールはまず言語があり、その先に事物があると考えた。
この考え方をさらに掘り下げれば「語の意味は、他の語との関係性によって決まる」と言うことが出来る。この考えが構造主義の基となる。

この考えはざっくり言えば言語は単独で成立せず、他の要素があることで初めてなんらかの意味を持つ、と言えるだろう。

要するに高尚な本を読んでいたらかわいい後輩にキラキラした目で「いい趣味ですね!」と言われるのと、エロ本が見つかって後輩に蔑んだ目で「いい趣味ですね……」と言われるのでは全く意味が異なってくるだろう。
これは同じ言葉でも周りの要素が違っているからだ。

先ほど出てきた「姉」という言葉であるが、この言葉も単独では成立しない。「弟」にしろ「妹」にしろ年下の二等親がいなければただの「娘」となるだろう。さらに言えば「娘」という言葉も「親」という言葉がなければ存在しない。

また先ほど博麗霊夢の構造分析で色を要素のひとつとしたが、もしこの世界に赤色しか存在しなかったらどうなるだろうか? おそらく「赤色」は「赤色」と名付けられず、せいぜい「色」という名前しかもらえないだろう。何しろ、色同士で区別する必要が無いのだから。

このように言語は単独では成立しない。他の言語があり、かつ他の言語たちとどのように意味が違うかという構造があって初めて言語は成り立つのである。

この「構造とは他の言語との意味の違い」ということが構造主義の原点となった。

つまり先ほど構造の本質である「要素間の関係性」とは掘り下げて言えば「要素と要素はどのように意味が違うのか」ということになる。

◆構造主義と物語論


そして1960年代、ソシュールの言語学が少し変形し、ついに構造主義の考え方が誕生した。
この時代クロード・レヴィ・ストロースという人類学研究者が『野生の時代』という神話を構造的に分析するという物語論のプロトタイプのようなことをやっている。ただ彼の理論は膨大なセンスと知恵が必要だったこともあり、あんまり流行らなかった。

またソシュールの言語学は、前述したヤコブソンを通してロシア・フォルマリズムに影響を与えることになる。ロシア・フォルマリズムがただ「形式から物語を見よう」と言っていたのが「形式から物語の構造を見よう」というように変化したのだ。

そして構造主義の流行っていたフランスに、ロシア・フォルマリズムの考え方が輸入される。根底が似ているだけあってすぐに連結して使われるようになった。
そしてツヴェタン・トドロフという人物がこのふたつを融合し物語を構造的に捉える研究を『ナラトロジー』と名付けた。

ここまでが物語論の生まれた背景である。
全く関係の無いような思想が合流したりと結構ややこしい。

まあ、そもそも文学理論自体が経済学や心理学など様々な学問を闇鍋してつくられたものであるのでその一部と考えればまあ妥当なのだが……。




【物語の構造分析】


このように物語論は構造主義とロシア・フォルマリズムが融合して生まれた
つまり物語の構造を見つけることによって形式を分析するというのが物語論だ。
物語の内容に対して解釈を行う一般的な文学理論とは違い、物語の形式に対して分析を行うのが物語論だ。

例えば復讐ものの物語を見たとする。「復讐はダメだ」とも「こんな境遇なら復讐をしても仕方がない」ということも出来るし、さらに踏み込んで「復讐者の心理」について読み取りをすることも出来る。この三つは内容について踏み込んでいる。
対して「復讐者をどのように書いているか」となれば物語の内容ではなく仕組み(=形式)に踏み込んでいるので物語論だと言える。

だが繰り返しになるが解釈をするというのも立派な文学理論であるし、そちらの方が文学界では一般的なものだ。

さて、物語論の目的のひとつは物語の裏にある構造から話の類型を見つけること。
先ほど博麗霊夢の例のように同じだと思うものには深層に同一の構造が潜んでいる。
つまり悲しい物語には悲しい物語の構造が存在し、面白い物語には面白い物語の構造が存在することになる。それを見つければ「如何に書けば面白い物語や悲しい物語になるのか」という構造を知ることが出来るのだ。
そこから踏み込んでいけば「文学性とは何か?」という文学界における根源的な課題に答えを見つけることができるかもしれない。
それが物語論の基本理念だ。

……もっとも、現代の物語の多様化によって物語論だけでは分析しきれないというものも増えてきたのだが。

実際にどのような構造分析方法があるのか解説していこう。

◆ウラジミール・プロップ


まずは世界で初めて物語の構造分析を行った「物語の形態学」を出版したウラジミール・プロップだ。
彼はロシア人の文学者であったためロシア・フォルマリズムの考えに影響を受けており、その考えをもとにした「物語の形態学」を1928年に出版した。

プロップは「イワンのばか」や「魔法の馬」といったロシアの魔法物語(おとぎ話のようなもの)を分析していった。その結果ロシアの魔法物語が似通っていることに気が付き「あらゆる魔法物語が、その構造の点では単一の類型に属する」と結論付けた。
そして「単一の類型」を31の機能に分けた。


全て覚える必要はない。なんとなく構造が分かれば十分である。
すごい抽象的に言えば「目的があって、それを達成させるために行動し、成功させる」というのが基本的な類型である。

「単一の類型」と聞いてロシアの魔法物語を読んだことがある人であれば「全部違う物語じゃねえか」と思っただろう。しかしプロップが言っているのは「構造」という点だ。
そして構造主義は内容は度外視して分析する。
つまり構造自体は同一だが、内容(=設定や登場人物)が異なることが物語のバリエーションとなり、結果的に別の物語に見えるということだ。
例えば機能の14番に「魔法の手段の提供・獲得」とあるがどのような魔法を獲得するかは内容によって変わってくるだろう。

平成ライダーシリーズ』では(例外は多々あるが)第1話で主人公が仮面ライダーの力を手に入れて怪人と戦う。パターン化した流れでありこれも仮面ライダーの類型と言えるだろう。
だがどんな力を手に入れるか、どのようにして手に入れるかは作品ごとに違う。
そのため「変身する」という同じ類型だったとしても結果的に違う物語に見える。

また全ての魔法物語が31の機能全てを使うわけではなく、どれかが省かれたりする(ただし順番が変わることはない)ためそれもバリエーションとなる。

さて、プロップの構造分析で最も重要な功績は「機能」を発見したことである。まずは機能について詳しく説明しよう。
機能について重要なポイントは「物語の展開を直接進める人物の行為」ということだ。

まずひとつ目の「物語の展開を直接進める人物の行為」とは、言い換えればカットしてしまうと物語が成り立たなくなるシーンのことだ。

コードギアス 反逆のルルーシュ」を例に見てみよう。第1話で主人公のルルーシュ・ランペルージはひょんなことから虐殺に巻き込まれ、その結果「ギアス」という超能力を手に入れ、自身と妹を傷つけた祖国ブリタニアへの復讐を決意する。
しかしもしもルルーシュがギアスを手に入れるシーンをカットされたらどうなるだろうか。
話が進まなくなってしまう。そしてコードギアスという物語は成り立たなくなってしまうだろう。
つまりルルーシュがギアスを手に入れるというのは物語が成り立つために必要な行為=「機能」であるのだ。

機能の中でも重要なものを抽出して並べたものがあらすじだ。
なぜあらすじだけで本編の内容が大体わかるかと言えば、重要な機能はあらすじと本編両方で同じであるため結果的に構造が同じになるからだ。構造が同一であれば同じものに見えるというのが構造主義の考え方だ。
実際コードギアスはDVDや劇場版など様々な総集編があるが、重要な機能は保っているため大体のストーリーは把握できる。

また31の機能の2番で「禁止」され3番で「違反」されることによって4番で敵による「捜索」が始まる。だが禁止され時、もしも言いつけを守ってそれを破らなければ話が進まず、物語が成立しなくなってしまう。

このように機能の意味である「物語の展開を直接進める人物の行為」がなければ物語は成り立たない。

そして「機能」を構造主義における「要素」とみなすことによって物語の構造を分析する。それがプロップの提唱した物語論であった。

さらにプロップは登場人物について「七つの行動領域」とまとめた。
前述の「主人公が目的を達成する」という物語を前提にデザインされている。
プロップにとって登場人物で大切なことは何をするかという役割の方だった。
20世紀初めころということで登場人物のキャラクター性自体を楽しむという文化は存在しておらず(『罪と罰』とか『嵐が丘』とか偶にキャラが濃ゆいのもあったケド)物語と言えば話の筋だけだった。そのため言ってしまえば登場人物とは機能を行い、物語を進めるための舞台装置に過ぎなかった。
つまり「行動領域」とは登場人物の役割ごとに行える行動(=機能)の範囲のことである。例えば主人公は敵対者の行動である機能の4番「捜索」は行えない。言い換えれば範囲外である。
そのうえで七つの行動領域」とは「敵対者(加害者)」「贈与者(提供者)」「助力者」「王女(探求される者)とその父親」「派遣者(送り出す者)」「主人公(探求する者)」「ニセ主人公」である。


このように物語論の核心をついている『物語の形態学』であり当時は飛ぶように売れた……わけでもなく、むしろ全く売れなかった。理由は大きく分けてふたつ。

ひとつ目がロシアの魔法物語のみと分析範囲があまりにも狭すぎたことだ。
魔法物語のみが対象であるため、それ以外の分析ではあまり使えない。実際に日本昔話で31の機能に当てはまるか考えてみると分かりやすいだろう。結論から言うと全くできない。特に「禁止」が序盤ではなくほぼラストシーンである「浦島太郎」とか目も当てられない。

現代でもプロップの理論は物語論の概念を説明するためには使われるが、実際の作品の分析のために使われることは滅多にないと言っていい。
ただ、面白い物語の構造のひとつではあるので創作をするのに使うのであれば結構役に立つ。実際「STAR WARS」とかはまるっきりプロップを使っている。

ふたつ目の理由、こちらの方が大きいのだが時代にそぐわないオーパーツであったこと。
『物語の形態学』が出版されたのは1928年。対して物語論が流行しだしたのは60年代ごろで、ジュネットが完成したのは70年代。30年くらい早い。

当時は構造主義の思想などなく、ロシア・フォルマリズムが隆盛していた時代である。
確かにルーツの項で見たようにロシア・フォルマリズムと構造主義は親戚のようなものである。
しかしロシア・フォルマリズムは「形式で物語を分析しよう」と物語論のご先祖様のような思想であったにも関わらず、プロップは的確に物語論の概念を作り出してしまったのである。
ちょっと時代を先取りしすぎている。
レーザーディスクの流行っていた時代にブルーレイディスクのひな型をつくるようなものである。

北アメリカ先住民民話を研究していたアラン・ダンダスは1964年、プロップの形態学をさらにシンプルな形に整理し、31の機能を 対になる「モチーフ素」 にモチーフ素を挟み込む構造にあるとして、ロシアの魔法民話と似ても似つかない北アメリカ先住民民話にも適用可能な構造を見出した。
  • 欠乏 欠乏の解消
これが基本。欠乏がなく満たされている状態であれば目的は生まれず、物語は成立しないだろう。
なお最もシンプルな先住民民話の中には本当にこれだけという話もあるとか。
  • 課題 課題の達成
  • 禁止 違反
違反して終わりという話は少なく、大抵は''課題課題の達成''に繋がる。
  • 欺瞞 成功

またA.J.グレマスは、プロップの形態学の登場人物の相関図を下記のように整理した。

敵対者 送り手
↓     ↓
主体 → 対象
↑     ↓
援助者 受け手

◆クロード・ブレモン


このような経緯からプロップの研究は忘れ去られていたのだが、1958年に英訳されフランスに輸入されたことによって、やっと注目されるようになった。
時代が追い付いたのである。

そしてプロップの理論を受け継いだのがブレモン。
しかし受け継いだと言ってもブレモン自身、前述の理由からプロップの理論をそのまま使うのは無理だということに気が付いていたため、「機能」という名前を使ってこそいるが中身は別物になっている。

ブレモンはプロップの機能を突き詰めれば、登場人物が行為を行うことを選択するということだと考えた。つまりブレモンにとって機能=(物語を直接進める人物の行為)は選択することだった。

ブレモンは「機能」を行動が起こる前行動が進行中行動が終結の三段階に分けた。
何か出来事があれば、それについてどう対処するかの選択肢が読者の中で論理的に生じ、その中のひとつを選ぶことで物語が展開する、というのがブレモンにとっての「機能」だ。

例えばファンタジー世界で勇者がダンジョンでモンスターに出会ったとする。するとそれに対して「戦う」や「逃げる」などどのようなアクションをするか必然的に生じるだろう。この段階が「行動が起こる前」である。要するに次のアクションについての選択肢が生じる展開が「行動が起こる前」だ。

そして「行動が進行中」でそれらの行動のうちどれかひとつが選ばれる。「戦う」を選んだのであれば必然的に「勇者は勝った」「勇者は負けた」などの選択肢が新しく生じるし、「逃げる」を選べば「モンスターが追ってくる」「モンスターが追ってこない」などの選択肢が新しく生じる。

プロップとの最大の違いは「物語の筋は最初から決まっているものではない」と考えたこと。
プロップの場合は31の機能があるように最初から物語の筋は決まっている。
対してブレモンにとって物語の筋はあらかじめ決まっていない。
さまざまな行為が出現する可能性が絶えず生まれ、そのうちのひとつを選択することによってまた次の行為の選択肢が生まれるというように、次の行動の選択肢が複雑に絡み合ったものが物語の筋と考えた。

要するにプロップが「すべての物語を分析して、その中にある構造を見つけよう」と研究したのに対し、ブレモンは「それだと時間が足りないから物語ひとつひとつの構造を見つけられるようにしよう」としたのである。

また選択肢のなかからひとつ行動を選ぶと新たな選択肢が生まれ、また選択肢のなかからひとつ行動を選ぶ……というようにこちらでも機能の連鎖反応が起きており、その点ではプロップと同じである。

そして物語から機能を抽出し、その機能同士の因果関係から物語の構造を分析するというのがブレモンのやり方である。


◆ロラン・バルト


プロップの理論を受け継いだもうひとりの研究者がバルトだ。
バルトの理論は比較的どんな物語でも使える汎用性の高いものであり、現代ではジュネットに並んで使われている。

彼の理論では機能は人物の行為だけではなく、物語の筋を展開させるもの全てということになっている。

バルトはプロップの機能をさらに綿密に分けた。
枢軸機能体」「触媒」「指標」の三つだ。

まず「枢軸機能体」はプロップの機能に一番近い意味を持っている。
つまり物語を直接進める人物の行為のことだ(正確にはバルトの理論は物語を進めれば人物以外の行為も全て機能とみなすが)。
バルトの場合はブレモンと少し似ており、次の行動を二択にせまることによって物語を進める行動、もしくはその二択のどちらかを選択した行動と定義した。。

例えば「電話が鳴る」というシーンは「電話を取る」「電話を取らない」と次の行動を二択に分けられるため枢軸機能体であるということが出来る。
「電話を取る」を選んだ場合「電話相手を知っている」「電話相手を知らない」などさらに次の行動を二択に分けられるためこれも枢軸機能体だ。

つぎは「触媒」だ。
触媒は物語を進める機能であるが、副次的なものと定義される。

実例として『涼宮ハルヒの憂鬱』から見てみよう。

「なあ」
と、俺はさりげなく振り返りながらさりげない笑みを満面に浮かべていった。
「しょっぱなの自己紹介のアレ、どのへんまで本気だったんだ?」
腕組みして口をへの字に結んでいた涼宮ハルヒはそのままの姿勢でまともに俺の目を凝視した。
「自己紹介のアレって何」
(『涼宮ハルヒの憂鬱』13ページから14ページを引用)

キョンとハルヒが初めて話すシーンだ。
「しょっぱなの~」というキョンの台詞は、もしもなかったら物語が進まなくなってしまうし、この台詞から「ハルヒが返事をする」「ハルヒが無視する」とハルヒの行動を二択にせまることが出来るため枢軸機能体だと言えるだろう。
「自己紹介のアレって何」は「ハルヒが返事をする」という選択を選んだ枢軸機能体だ。

対して二つの枢軸機能体の間にある「腕組みして~」の部分はどうだろうか。
言ってしまえば削除してしまっても問題はない。
たとえば「凝視した」とあるが、ハルヒがキョンに目を合わせないまま返事をしたとしても物語の大筋は変わらないだろう。
これが触媒だ。つまり触媒とは枢軸機能体の間をつなぐ行動や展開のことだ。
筋の展開には作用するが、カットしても物語の展開自体は変わらないため枢軸機能体に比べると弱く、副次的なものである。
逆に枢軸機能体は削除すれば物語の筋が変わってしまうものである。

最後の「指標」は物語の筋の展開には関係ないが、キャラクター性や雰囲気、心理描写など情報を伝えるためのものである。

長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャをつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち。意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』11ページより引用)

ケチのつき始めのドミノ倒し、その一枚目を俺は自分で倒しちまったというわけだ。
だってよ、涼宮ハルヒは黙ってじっと座っている限りでは一美少女女子高生にしか見えないんだぜ。たまたま席が真ん中だったという地の利を生かしてお近づきになっとくのもいいかなと一瞬血迷った俺を誰が責められよう。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』13ページより引用)

それぞれハルヒの外見についての説明のシーンと、キョンがハルヒに話しかける直前の心理描写だ。
これらの文章は特に物語の筋を進めるものではない。
しかし「美少女なのに変人」という点はハルヒのキャラクター性を際立たせるために必要なものであるし、キョンの心理描写も作品の雰囲気づくりに貢献している。
というよりもこの作品の地の文の大半はキョンの独白(むしろそれ以外は作文などを除くと無いと言ってもいい)だがそれがなくなったら最早『涼宮ハルヒの憂鬱』ではないというのは読んだことがある者には周知の事実だろう。

バルトは機能を枢軸機能体、触媒のように動的なものと、指標のような静的なものの2種類に分けた。
どっちが大切か、と言われれば時と場合によって異なると言える。

例えば意外な展開が次から次に起きたり、様々な事件に立ち向かっていったりするエンターテイメントの場合は動的な機能が重視される。
対して物語の筋よりもキャラクター性や心理描写、世界観の雰囲気を描きたい場合には静的な機能が重視されることになるだろう。

ただし動的と静的のふたつの機能は完全に分割できるものでもない。
例えば「まともに俺の目を凝視した」は前述の通り触媒であるが、同時にハルヒの異常性を表現するための指標でもある。
続く「自己紹介のアレって何」も話を展開するための枢軸機能体だが、同時にハルヒの無愛想さを表現するための指標だ。

またバルトは枢軸機能体のまとまりのことを「シークエンス」と呼んだ。

例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』で有名なハルヒの初登場シーンを分解してみると「入学式→担任教師の話→自己紹介→ハルヒの発言」という枢軸機能体の集合体であると分析できる。
逆に枢軸機能体をシークエンスと見なして、さらに細かい枢軸機能体に分解することもできる。バルトは「挨拶」のシークエンスを「手を差し出す→手を握る→手を離す」の枢軸機能体の集合だとしている。

さらに小さなシークエンスは他の小さなシークエンスと組み合わさることによってさらに大きなシークエンスを形作る。
ハルヒの初登場シーンというシークエンスは「ハルヒの初登場→ハルヒとキョンの交流→ハルヒが部活をつくることを思いつく」というように他のシークエンスと組み合わさり「第一章」という大きなシークエンスとなる。
さらに「第一章→第二章→第三章……」と他のシークエンスと組み合わさることで最終的に『涼宮ハルヒの憂鬱』という大きな物語になる。
シークエンスも機能と同じように因果関係でつながっている。

ちなみにシークエンスが始まることを「開く」、終わることを「閉じる」と表現する。


やや余談になるがバルトがシークエンスの観点で面白い物語のつくりかたのひとつとしてシークエンスが閉じないうちにまた新たなシークエンスが開くことを提唱している。

「これからあなたが困った状態に置かれたとき、その言葉を思い出して欲しいんです」
「七人の小人とか魔女とか毒リンゴとかの、アレですか?」
「そうです。白雪姫の物語を」
「困った状態なら昨日あったばかりですが」
「そうではないんです。もっと……そうですね、詳しくは言えないけど、あなたの側には涼宮さんもいるはずです」
 俺と? ハルヒが? 揃って厄介ごとに巻き込まれるって? いつ。どこで。
(『涼宮ハルヒの憂鬱』210ページから211ページより引用)

キョンが未来の朝比奈さんから忠告を受けるシーンである。
このシーンでは近い未来キョンとハルヒに危機が訪れることを暗示しているが肝心の危機の内容は教えてもらえない。
バルトの理論で言えば謎が提示されるシーンであり「答えが明かされる」「答えが明かされない」という二択にせまる枢軸機能体だ。
実際に第七章では二人が閉鎖空間に囚われるという危機が訪れる。
要約するとこれは「謎の提示→答えが明かされる」というシークエンスだ。

だがすぐに答えが明かされるわけではない。「謎の提示」と「答えが明かされる」という枢軸機能体の間には朝倉さんの家を訪ねたり、ハルヒの過去を知ったり、古泉の秘密を知るなど様々なシークエンスが挟まれている。

つまり「謎の提示」という枢軸機能体は進むことなく宙ぶらりんなままでしばらく放置されるのだ。終わらずに停滞したシークエンスは人をハラハラさせる。
この後何かが起こるとは分かるが、実際に何が起きるかは分からない。
それが人を不安にさせ、「はやく続きが知りたい」と思わせ、それが面白いという想いにつながることになる。
見知った言葉で言えば「伏線を張る」と言えるだろう。

これを効果的に使っているのが「新世紀エヴァンゲリオン」だ。
この物語では「使徒とはなんなのか」「綾波は何者なのか」「まだ精神的に不安定な主人公・碇シンジ」「シンジとゲンドウの間にある確執」など序盤から様々なシークエンスが一度に開いていき、閉じることなくさらに多くのシークエンスが開かれていく。これにより見ている視聴者をやきもきさせ、「早く続きが見たい」と思うようになる。
さらに多くのシークエンスを開きながらも、1話単位で見れば「使徒の襲来→EVAによる撃破」というバトルアニメの王道的なシークエンスを行っており見ていて飽きが来ないのも人気の秘密だろう。
結局閉じないシークエンスの方が多い? 知らんな。

こうやってバルトは物語の筋をシークエンスの集合体として分析した。
物語の筋によってシークエンスの形は変わってくる。
例えば群像劇でとあるひとつの行動の結果二人の人間が全く違う行動に出たとする。それは「ひとつのシークエンスからふたつのシークエンスが生じた」と言えるだろう。
逆に異なる行動をしていた二人の人間が最終的に合流すれば「ふたつのシークエンスがひとつのシークエンスにまとまった」と言える。
またひとりの人間がでも全く異なるふたつの目的のために行動していれば「ひとりの登場人物からふたつのシークエンスが生じた」と言える。

このようにプロップの機能を進化させシークエンスの概念を提唱したのがバルトの理論である。

◆ジェラール・ジュネット


さて、現代で最も物語の構造分析で使われているジュネットの理論だ。
物語論で実際に一番使われているものだ。
ただ小説を分析することを前提としているため、アニメや漫画など他のメディアでは使いにくい(最も物語論は文学理論なのでそれが普通なのだが)きらいがある。

ただジュネットの理論はここまで解説してきた3人の理論とは全く異なる。
ジュネットは物語を機能ではなく、叙述から物語を分析しようとした。
「叙述トリック」などで偶に耳にする「叙述」であるがどのような意味なのだろうか。

叙述
[名](スル)物事について順を追って述べること。また、その述べたもの。「事件をありのままに叙述する」
(コトバンクより引用)

……やっぱり分かりにくいね。
結論から言えば叙述から分析するジュネットの理論は、形式を重視するロシア・フォルマニズムの行きつく先と言えるものである。

要するに叙述とは出来事に対して、地の文で実際に述べていくものである。
ジュネットは物語の出来事に対しどのように述べたのか、それによって物語の構造を分析しようとした。
前述の通り形式が変われば同じ内容でも違った印象を受ける。それがジュネットの着目した点だった。

例えばドラえもんのエピソードに「ぞうとおじさん」がある。戦時中に殺処分された動物園のゾウを助けるためにドラえもんたちが奮闘するという物語だ。その中で戦時中だからと何が何でもゾウを殺そうとする軍の将校が登場する。「ゾウを助ける」というドラえもんたちの目的を阻害する彼はプロップの「七つの行動領域」で言えば「敵対者」にあたるだろう。
しかし戦時猛獣処分の項目を見れば分かるように、戦時中に万が一襲撃などで猛獣が逃げ出せば大惨事になるため将校の行動は一概に咎められるものではない。ではこのエピソードはそのような事情を描けていない駄作か、と言われればそういうわけではない。最初に言ったように内容は同じでも違う形式で描くことができるのだ。
つまり今回はドラえもん目線の形式だったが、飼育員目線で「ゾウが謎の少年たちに助けられる物語」にも出来る。将校目線で「ゾウの殺害が謎の少年たちに妨害される物語」にも出来る。おじさん目線で「小さいころに殺されたはずのゾウと運命的な再開を果たす物語にも出来る。
これ以外にもいろいろあるだろう。今回はキャラの目線を例にしたが、これ以外にも形式を分ける方法はある。
つまり「ぞうとおじさん」はこの無限にある形式の中からひとつ、ドラえもんたちを選んだに過ぎない。

これがジュネットの言う「形式が変われば同じ内容でも違った印象を受ける」ということだ。
そしてどのような形式であるのか、その形式にすることによってどのような効果があるのか、その観点から分析していくのがジュネットの物語論だ。

ジュネットは物語を「物語内容」「物語言説」「物語行為」の3つに分けた。
物語論にとって重要なのは形式であるため「物語内容」は省かれることが多い。
「物語言説」は要するに形式のこと、「物語行為」は実際に語ることだ。

物語言説は大まかに分ければ「時間」「叙法」「」の3つに分けられる。
ひとつずつ解説していこう。

まず「時間」はさらに「順序」「持続」「頻度」の3つに分けられる。

順序」はどのような順番で物語を展開していくかというものだ。
例えば『シャーロック・ホームズ』シリーズの物語はたいてい依頼人が事件解決を頼みに来るところから始まる。そこから依頼人に何があったのかを回想で語り、ホームズが事件を調査することになる。そしてホームズの推理で犯人がどのような行動を取ったのかが明かされる。つまり時系列的には犯人の行動→依頼人が事件に巻き込まれる→ホームズに依頼が来る、という順番ではあるが実際の物語ではその逆の順番で語られている。
「当たり前じゃないか」と思う方も居るかもしれないがそんな当たり前のものを理論化していったのがジュネットである。

持続」は物語の進むスピードについてだ。考え方としてはバルトの動的、静的な機能に似ている。
これはさらに4つに分けられる。スピードの遅い順に見ていこう。

まずは「休止法」だ。心理描写や設定説明、風景描写などを説明するものだ。つまり物語の進むスピードはゼロであり停滞している。

一番ポピュラーなのが情景法だ。物語内容の時間と、物語言説の時間がほぼイコールであるというものだ。要するに一文進めば物語の時間が確実に進む。

3つ目が「要約法」だ。名前通り要約して物語を進めていく。一文で1時間が進むこともあれば、一文で1年が過ぎることもある。

最後が「省略法」だ。要約法と併用されることが多い。例えば10歳の話の次に12歳の話をすれば11歳の話が省略されることになる。つまりあったはずの話が省略されているものだ。

このように話のスピードは様々なものがあり、それによって物語の印象は変わる。

余談だが『新機動戦記ガンダムW』のノベライズ版において、シュールなことで有名なヒイロの救急車強奪シーンは「そうしているうちにヒイロは救急隊員を殴り倒し救急車を奪っていった」の一文で済まされる。……これも一種の要約法だろう。
シュールさが増しているのは気のせいだろうか?

次の物語形式は「叙法」だ
漫画やアニメと違い、小説は文字でしか物語を表現できないので、出せる情報は限られてくる。その中でいかに情報を出しているかを分析するのが「叙法」だ。
叙法は「距離」と「焦点化」に分けられる。

まず「距離」は物語が再現的であるか、要約的であるかを分けたものだ。「時間」の「持続」に考え方としては近い。
例えば次の3つの文章を見てみよう。3に近づくほど再現的になる。

1.語られた言説
私は彼女に結婚したいという意思を伝えた。

2.間接話法
私は貴女と結婚したい、と私は彼女に言った。

3.直接話法
私は彼女に「私は貴女と結婚したいのです」と言った。

再現的に書けば物語に臨場感が生まれる。対して要約的に書けば物語と読者の間には距離があるように感じられる。このことからジュネットは再現的か要約的かの違いを「距離」と表わした。

「焦点化」は物語の視点からの分析だ。
「視点」ではなく「焦点化」という言葉を使っているのは地の文には視覚だけではなく五感の全てが使われているからだ。

視点によって物語はたとえ同じシーンだとしてもまったく別物となる。

恋愛ゲーム「D.C.II 〜ダ・カーポII〜」を例として見ていく。
この物語は主人公の桜内義之が焦点化されている。彼の見た物、聞いたものや内面が地の文に描かれる。
恋愛ゲームの攻略対象としてのヒロインの内面は描かれない。基本的にヒロインは内面に何か秘密を持っており、後半でそれが明かされるという物語の構造になっているからだ。
またこの作品は隠しルートとして物語の真相に一番近い人物である芳乃さくらの視点で物語の裏側を描いていく「da capoルート」が存在する。彼女は物語の真相を知っているため、主人公の義之と同じものを見ていたとしても感じるものは真逆となる。

また『名探偵コナン』『金田一少年の事件簿』などは探偵が犯人を見つけるという探偵視点の物語だ。しかし犯人を焦点化とすれば内容が同じだったとしても全く違う物語「犯人が探偵から逃げ切ろうとする物語」になるだろう。
分かりやすい例としては、ダークなパロディに金田一少年の事件簿 星見島 悲しみの復讐鬼が、ライトなパロディに金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿があげられよう。

つまり同じ内容だとしても、視点となる人物が違えば受ける印象を異なる。

3つ目の形式は「」だ。これは語り手と内容の関係性について分析するものだ。
これも「語りの時間」「語りの水準」「人称」の3つに分けられる。

まずは「語りの時間」だ。
語りの時間は語り手が物語をどの時点から物語を語っているかというもの。
例えば『舞姫』のようにすべてが終わってから回想という形式で物語をかたることもできるし(=過去の出来事を語っている)、一般的な物語のように語り手と物語が同じ時間にいることも出来る。また例は少ないが、『百年の孤独』のように未来の出来事を語ることも出来る。

語りの水準」はよく聞く言葉で言えば「メタ」だ。物語の世界の外側か内側かどちらで話しているかで分析される。
物語に登場しない人物が語っていれば語りの水準は外側になるし、登場人物が語っていれば語りの水準は内側になる。

人称」は一人称や三人称といった言葉で聞いたことがあるだろう。
人間が語りをしていれば「一人称小説」であるし、していなければ「三人称小説」になる。

「語りの水準」と「人称」はダブっているように見えるが、実は19世紀前半までの小説は三人称なのに「私はこの登場人物のことを〇〇と思う」などいきなり地の文が主観を交えて話し出すことがよくあった。
つまり人間が語っている一人称小説だが、同時に物語に登場しない人物が語っているため語りの水準が外側になっている。
このようなケースにも対応するため「語りの水準」と「人称」をジュネットは分けて考えた。


長々とジュネットも理論を解説したが、要するにジュネットが言いたいことは「描写によって物語は良くも悪くもなる」ということだ。
どんなによい設定、キャラクターだったとしても、描写されなければそれは存在しないことと同じだ。
またどんなに良い内容の物語だったとしても、どうでもいいシーンに尺を取ったり、逆に重要なシーンを説明不足にしたりすれば、結果的にクオリティは下がる。

上述の通りジュネットの理論はロシア・フォルマリズムから始まった形式主義をブラッシュアップしていった結果のものだ。
当時のその思想は過激と言われるものだったが、ジュネットはそれを理論と言えるほどに精密化させることに成功したのだ。


◆クロード・レヴィ・ストロース


レヴィ・ストロースは社会人類学者であり、アメリカ先住民へのコンタクトや現地へのフィールドワークなど様々な活動を行っていた。
その活動のひとつとして神話の構造分析をしていた。神話の深層(=構造)を知ることによって古代人類の根幹を研究しようとしていたのだ。
彼の手法は現代の構造分析に直接つながるものであるが、分析対象が神話であったり、分析方法が他の研究者の誰とも違うものであったりと、かなりの異端。まあ良くも悪くもプロトタイプ構造分析と言えるだろう。

ただ、前述の通りこの手法は20世紀有数の天才であるレヴィ・ストロースの頭脳と社会人類学の研究で培われた並外れたセンスが必要だったということもあり、ぶっちゃけ現代での実用性は低い。

彼の構造分析で一番焦点を当てられているのが対義語の関係性、彼の言葉で言えば二項対立の関係性だ。構造は突き詰めれば「要素間の意味の違い」でつくられているが、意味が一番違うのは対義語同士である。
彼は対義語の中心にある類義語の関係性によって神話の構造を分析しようとした。

よく間違われるが、対義語というのは類義語の一種である。
例えば「」と「」という言葉は「年上」と「年下」という観点では正反対だが、それ以前に「二等親の女性」という意味が両方に含まれていなければ「姉」と「妹」は対義語ではなくなるだろう。
同じ意味が両方に含まれているから言葉同士を比べることが出来、それ故に対義語という概念が生まれるのだ。共通点が全くない「」と「海」では対義語にならないだろう。

つまりわざわざ対比関係にあるのだからその間にあるものは重要なファクターであるだろうというのがレヴィ・ストロースの考えだ。
要するにレヴィ・ストロースは他の研究者と違い、物語の筋ではなく、テーマのようなものから構造分析しようとした。

その上でレヴィ・ストロースの構造分析方法だが……繰り返しになるがクソ難しいのでせめて彼が実際に分析した『オイディプス神話』を基に見ていこう。

『オイディプス神話』のあらすじは無駄に難解なうえに解釈が結構別れるものであるので各自で調べて見て欲しい。

そしてレヴィ・ストロースは『オイディプス神話』を『シェーマ』という機能のようなものに分け、さらにそのシェーマを内容の種類ごとに分類した。
それが以下の図である。


Ⅰ群 Ⅱ群 Ⅲ群 Ⅳ群
ガドモス、ゼウスにさらわれた妹エウロペを探す。
スバルトイ族、お互いに殺し合う カドモス、竜を殺す ラブダゴス(ライオスの父)=足が不自由
オイディプス、父ライオスを殺す ライオス(オイディプスの父)=不器用
オイディプス、スフィンクスを殺す
オイディプス、母イオカステと結婚 オイディプス=腫れた足
エテオクレス、兄弟ボリュケイネスを殺す
アンティゴネー、禁を破り兄ボリュネイケスを埋葬
過大評価された親族関係 過小評価された親族関係 人間の土からの出生 人間の土からの出生の否定

左から右、上から下というように見れば順番通りの内容の神話になる。

……分かりやすいところから解説していこう。
まずⅠ群は『過大評価された親族関係』でⅡ群は『過小評価された親族関係』だ。
これは分かりやすいだろう。Ⅰ群のシェーマは親族関係についてプラスのことをについて描いているし、Ⅱ群のシェーマは親族関係についてマイナスのことについて描いている。
そしてこの二項対立の間にある『親族関係の評価』がオイディプス神話の重要な点のひとつということだ。

残るⅢ群の『人間の土からの出生』とⅣ群の『人間の土からの出生の否定』は少しややこしい。
Ⅲ群はまだ分かる。人間と敵対する生物を殺すということによって『人間の土からの出生』を描いている。問題はⅣ群だ。足が不自由であることのどこが『人間の土からの出生の否定』になるのだろうか?
言ってしまえば半分くらいはこじつけである。普通に分類していったのではⅢ群と二項対立になるものが無いので、整合性を取るためにⅣ群のシェーマを無理矢理神話の中から抽出した。
……これがレヴィ・ストロースの神話分析に知恵とセンスが必要と言われる所以である。一般人にはまず無理。
とにかくⅢ群とⅣ群の二項対立の間にある『人間の土からの出生』がもうひとつオイディプス神話の重要な点だ。

よってレヴィ・ストロースはこの神話分析によって『オイディプス神話』から『親族関係の評価』と『人間の土からの出生』という二つの点が深層に潜む構造であることを明かした。

レヴィ・ストロースの神話分析のややこしさは3つ。
1つ、(機能を使う構造分析全てに言えるが)シェーマをどれくらい細かく分けるかが不明瞭

2つ、シェーマの分類方法が不明瞭であり、正直センスの問題

そして何より3つ、Ⅳ群の例のように二項対立の整合性を取るためにシェーマを無理矢理抽出・分類するのがややこしい。一歩間違えば主観性全開の分析になってしまうだろう。

……凡人が手を出していいものではない。



【物語論の問題点】


このようにかなり理論だってつくられている物語論だが、根底の部分は思想であるためどうしても一長一短なものであり問題点も存在する。

・最終的には個人のセンスが問われる
文学理論の大体が引っかかる問題点のひとつ。
物語論は要するに物語分析を科学(=誰が分析しても同じ結果になるようにする)ものではあるが、物語は最後は人間の心理の自己投影がファクターになるために分析もまた100%客観的にやることは難しい。仮にできたとしてもそれはもう「物語」ではなく「批評」になる可能性が高い。
例えば先ほど霊夢をパーツと色で分解したがそれは分解方法の一例でしかない。人によって分け方は違うだろうし、正解はないだろう。
レヴィ・ストロースの神話分析とか分析結果が一致する方が珍しいと言えるかもしれない。
物語論で言うならバルトの理論で枢軸機能体をさらに小さな枢軸機能体に分解できる、と解説したがどこまで細かく分析していくかは決まっておらず、大まかな筋はともかく細かい筋になるほど人によって分析結果が変わってくる。そして細かい筋の方に重点が置かれているというのは物語ではよく見られるケース。
要するに人間の心理は複雑なのであるし、物語論だけで物語の全てが分かるほど甘くはないのだ。

・構造しか分析できない
こっちは構造主義が引っかかる問題のひとつ。
物語論の考え方を使えば物語の中にある構造を抽出することはできる。しかし構造主義はそこまでしか分析が出来ない。
つまりもしも面白い物語がどのような構造になっているかを知ることが出来たとしても、「何故この構造であれば面白い物語になるのか」ということを分析することはできないのだ。それを知りたいのであれば心理学など他の理論をつかって考えるしかない。
例えばツンデレヒロインとの恋愛物語を分析すれば、どのような構造であればツンデレに見えるのかは分かるだろう。しかし、「なぜツンデレは素晴らしいのか」という点について知ることはできない。

・物語の筋しか追えない
物語論の登場から幾分時間が経ったため生まれた問題。
ここまで見てきた通り、物語の筋を基にして分析が行われている。そのためキャラクター性、心理描写、設定の秀逸さなどから物語を分析するのはかなり難しい。
特に最近はライトノベルなど登場人物についての面白さ(=キャラ萌え)や場面や状況の面白さ(=シチュエーション萌え)などが物語の筋よりも重視される作品が増えているため物語論は肩身が狭くなってきている。
前述の通り構造分析は目に見えない概念的なモノが対象であるため、分析できないわけでもないがまだ理論としては不十分である。

【参考書籍】


『ナラトロジー入門 プロップからジュネットまでの物語論』
橋本陽介・著
「物語論初心者のための参考書といえば?」という質問に対して大体返されるのがこの一冊。
「分かりにくいことを分かりやすく言う」がモットーである橋本陽介氏らしく、物語論のとらえ方、プロップからジュネットまでの物語論、物語論が生まれるまでの歴史、などを分かりやすくかみ砕いて解説している。ヘタにバルトやジュネットの著書をいきなり読むよりもこちらを読んだほうが分かりやすい。
ただ、様々な研究家の理論を一冊にまとめ、かつ要約して伝えているので、どうしても「広く浅く」になってしまっているのが数少ない問題点か。

『物語の構造分析』
ロラン・バルト・著
バルトの物語論についてのエッセイ集。
一番詳しく機能について踏み込んでいるのは『物語の構造分析序説』だがそれ以外も十分参考になるものが載っている。

『物語のディスクール』
ジェラール・ジュネット・著
語りについての物語論が掲載された一冊。『ディスクール』の意味である『言説』が示すように形式について学べる。

とりあえずこの3冊は物語論スターターセットともいえる内容で、これを押さえておけば大体の基礎知識は手に入る。あとは実際に分析したりさらに他の理論を勉強したりするだけだ。
というか、この項目はこの3冊を基に構成されている。

『物語論 基礎と応用』
橋本陽介・著
ナラトロジー入門をエンターテイメント分析のために再構成した一冊。前半の『理論編』は再録だが後半の『分析編』は新規収録のもの。『分析編』は『シン・ゴジラ』から『ビラウド』まで様々な作品を幅広く分析しておりなかなか読みごたえがある。

『アスディワル武勲詩』
クロード・レヴィ・ストロース・著 西沢文昭・訳
神話分析の方法を学びたいというもの好きなあなたへ。
実際にレヴィ・ストロースが神話分析をしていきながら解説するので比較的レヴィ・ストロース本の中でも分かりやすい部類に入る。
間違っても『野生の思考』とかいきなり読んじゃいけない。あれは概念か何かだ。
あと『レヴィ・ストロース入門』も読んではいけない。入門書なのに逆に分かりにくくなるという地雷。





追記・修正は良項目の構造を参考にしながらお願いします。


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最終更新:2023年08月17日 13:02