闘魂三銃士

登録日:2011/11/03 (木) 21:04:26
更新日:2023/09/13 Wed 19:07:51
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◆闘魂三銃士◆


闘魂三銃士(とうこんさんじゅうし)」は嘗て新日本プロレスに在籍していた、84年入団組の蝶野正洋武藤敬司橋本真也のトップレスラー3名によるユニット、及び彼らへの敬称。
同世代であるライバル団体の全日本プロレス四天王と共に90年代の日本マット界に於けるトップブランド、象徴として存在し、現在でも影響を与え続けている。

3者共に体格、才能、スター性を兼ね備えた天才型のレスラーであり、天性の運動神経を持つ武藤が若手時代にはずば抜けた印象を与えていたが、
後には橋本が新時代のエースとして、燻し銀的な技巧派であった蝶野はヒール(悪役)に転向する事でマット界屈指のカリスマに成長する等、大化けしている。

因みに、レスラーとしての三銃士は僅か5年程で世界レベルに達しており、
あの「時は来た」発言で知られる、アントニオ猪木との対戦や伝説的タッグチームであるロードウォリアーズと三銃士が互角以上の戦いを演じたのは、
何と僅かキャリア6年目の時点の話であった。



【歴史】

前田日明らUWF勢の離脱や長州力らジャパンプロレスの離脱により屋台骨が揺らいでいた新日本プロレスが、
88年7月に新時代のスター候補として米マットに海外遠征中であった武藤敬司と蝶野正洋の2人に同期の橋本真也を加えて、
有明コロシアムに於いて「闘魂三銃士」の名で試合を行わせたのが歴史の初まり。

この当時の「闘魂三銃士」は会社から勝手に名付けられたものに過ぎず、
海外マットで成功を収めていた武藤にとっては日本に帰国する意志も無く煩わしいものでしか無かったらしい。

90年までには武藤と蝶野も帰国し、以降は日本マット界に定着する事となるが、
時を置かずに橋本真也がユニットとしての「闘魂三銃士」は解散だとのコメントを発表している。
しかし、この「闘魂三銃士」と云う名称は、その後の3者の活躍と共に彼らへの敬称として残ってゆく事となり、
後には三銃士自身も自分達の絆を象徴する言葉として当人達も愛着を持って使用していく事になる。

因みに、三銃士に長州力率いるジャパンプロレス出身の同世代の佐々木健介、馳浩を加えた「白浪五人男」と云うユニットも存在していたが、此方は全く定着しなかった様だ。

新日本プロレスの発展と共に、三銃士の名声も頂点を迎えたが、
彼らを重用した坂口征二時代の終焉と共に、新日本プロレスが純プロレスから方向を転換し「迷走」とも称される時代を迎える中で武藤と橋本が新日本プロレスから退団。
それでもブランドとしての三銃士は日本マット界に残り続け、04年にはデビュー20周年を越えての「三銃士興行」も話題に上がったが、
当時の新日本プロレス社長から待ったが掛かる中で05年7月に橋本真也が死去。
この事は、現在でも関係者やファンから実現出来なかった事を惜しむ声が多い。



【総論】

ライバルとされた全日本プロレス四天王が激しい戦いの中で、90年代中頃までに自然発生した概念であるのに対し、
前述の様に三銃士は元々は興行の企画から誕生した存在である。
それが後代まで残る事になったのは、偏に三銃士のレスラーとしての存在、タレント性がズバ抜けていたからに他ならない。

尚、レスラーとしては3者共に非常に独特なスタイルにあり、ラリアットパワーボムといった当時の流行技を基本的に使用しなかった(隠し技や駆け引きとしては使用した事がある)。

ストロングスタイルの継承者と見なされていたのは橋本のみだが、新日本プロレス出身者らしく3者共にグラウンドレスリングも得意としており、
非常に幅広いタイプのレスラーと好勝負を展開出来る実力を持っていた。

その独特のスタイルは、三銃士世代以降のレスラー達にも強く影響を与えている。



【メンバー】
※詳細は当該項目を参照。


蝶野正洋
当初は、地味な燻し銀のテクニシャンと云う扱いであったが、後にヒールに転向すると共に業界全体は勿論、一般層にまで広がる評価と知名度を得た。
「G1クライマックス」以外のシングルタイトルには余り縁が無かったが、これは技巧派レスラー、ヒールレスラーとして負けブックを呑む事も多かった結果とも思われる。
しかし、業界でも安心してメインを任せられる選手として高い信頼を得ていた事が蝶野の非凡さを示す、何よりの証拠と言えるであろう。
反体制を掲げた蝶野が、三銃士では最後まで新日本プロレスに在籍したのは意外な気もするが、10年に遂に退団。
個人事務所に移るも、現在は選手としてはセミリタイヤ状態にある。



武藤敬司
日本が世界に誇る不世出の天才レスラー。
未来にもこれ以上の才能を持った選手は他には出ないであろう。
自分の才能のみを武器に世界を渡り歩いた、ストロングスタイルに生まれた最大の異分子にして、新日本プロレスを象徴する存在であったが、
02年に迷走する新日本プロレスに別れを告げ、斜陽の全日本プロレスに移籍、存亡の危機を救う(参加選手の不祥事により11年に社長からは退任)。その後は全日本を退団し、追随した多くの選手とともにWrestle-1を旗揚げした後、2021年にNOAHに入団。
単純なレスラーとしての評価は3者の中でも最大で、膝に致命的な爆弾を抱えつつも、唯一現役として活動している。



橋本真也
新日本流のストロングスタイルとしては異分子であった武藤と蝶野とは違い、団体のエースとして新日本プロレスを支えた破壊王。
当代最強と評された全盛期の実力の他、トンパチ(トンボにハチマキ=業界用語で破天荒、バカ)と称された私生活での豪快なエピソードで知られる。
三銃士の中では唯一、猪木との師弟関係と確執に巻き込まれており、全盛期の輝かしい記録に対し、新日本退団からZERO-ONE設立までの混乱や晩年の不遇を嘆かれる向きもある。
盟友である武藤、蝶野との対談で「三銃士興行」への夢を膨らませていたが05年7月に急逝。

……しかし、11年には破壊王の遺伝子を引き継ぐ遺児、橋本大地のZERO1でのデビューが話題となった(デビュー戦の相手は蝶野)。






【余談】

●同期のライバルであり、新日本プロレスの道場を預けられていた馳浩曰わく、
才能、体格ともにズバ抜けていたが3人揃ってナマクラ(怠け者)なのが欠点で、真面目に練習していれば「5回に1回は勝たせてもらえるかな」と思っていたとの事。

●あの前田日明が山本小鉄の高級車の音を聞いただけで震え上がったと云うエピソードが伝えられる位に厳しい事で知られた新日本プロレスの寮生活の規律だが、
三銃士が寮長を勤めていた時代にすっかりと崩れてしまったらしい。

●現在新日本プロレスで活躍する柴田勝頼・棚橋弘至・中邑真輔の三名が「新闘魂三銃士」と呼ばれている。
ただし、それぞれのファイトスタイルや姿勢が違い過ぎるため三人とも快く思っておらず、事あるごとに解消したがっている。






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最終更新:2023年09月13日 19:07