籠城

登録日:2018/05/11 Fri 22:23:12
更新日:2024/03/14 Thu 21:34:05
所要時間:約 63 分で読めます





『籠城』とは、戦いにおける戦法の一種。
読んで字の如く「城」に「籠」もる事。

なお、城に限らず、現代の犯罪者やテロリストが建物や車両などに立てこもったり、引きこもりが意地でも出てこないことを「籠城」という事もあり、立てこもり全般を指す言葉になってきつつある。
本項目では「戦争で城などの拠点に立てこもる」本来の意味での籠城を扱う。


◇そもそも戦争での戦い方とは

籠城戦(攻城戦)とは戦争における戦い方の一環だが、その前に戦争における戦いの種類について説明する必要がある。
籠城のみ単体で理解しようとしても、戦争に置ける戦い方を把握していないと何故籠城するかについての理解が追いつきにくい。

まず、戦争は基本的に、「攻撃側が防御側の領土に攻め込む」という形で行われるのが通例である。
そして、個別的な戦場における中世や日本の戦国時代の戦い方については、大きく分けて
  • 野戦
  • 籠城戦(攻城戦)
の2つ。

野戦は城から出て平地などで戦うことを言う。
籠城戦は城といった防衛拠点の中に籠り、攻撃してくる相手に対する迎撃する戦いで、攻撃側は攻城戦という。
当然城を保有している側が籠城戦をするので、籠城戦は基本的に防御側の戦術と言うことになる。

中世や戦国での戦争は将が兵を引き連れて戦う形式が基本であり、勝利条件は
  • 相手の将が撤退を指示する
  • 相手の将を討ち取る・もしくは捕らえる
  • 最終的に相手の拠点(城・砦など)を占拠
これらが基本となる。

基本的にこの時代の一般兵は雇われの傭兵だったり農民だったりするので相手の将を下せばそのまま配下の兵は統率を失い、そのまま退却することになる。
通信技術の発達していない時代であるため、将を失っても統率を保つのは難しく、また将の強さありきである以上、それが亡くなれば求心力は自ずと失われる。(兵法三十六計の「擒賊擒王」はこの考え方である)

中世や戦国時代における城や砦は、周辺地域を勢力下に収めるための行政拠点でもある。
なのでその城がある限りは周りの土地を完全に支配することは難しく、撤退後は籠城側も攻め手が逃げた隙にある程度までの勢力を取り返すことができる。
攻撃側としては占拠すること、防御側としてはここを守り切ることが戦略目標になる。
攻撃側が相手の拠点を占拠した場合、そのまま拠点で物資の補給などを行え、勢いを失った防御側が奪い返すのは難しくなる。
城が陥落必至となり脱出を試みる場合には、あえて城に火を放つことでせめて城を敵に使わせないようにするというケースもある。

◇籠城の概要

ここで籠城の説明に入るが、城の中に立てこもり、城の防御力を活かして戦う戦術である。

上述の勝利条件を考えると、基本的に野戦で勝てる状況なら野戦を選択すべきである。
野戦であれば上述の相手の陣地に攻め込み、将を討ち取れる機会や相手の拠点を奪える機会がある。
一方、籠城戦ではそういった将は戦いの場から離れた所にいるため討ち取る機会はなく、打って出ないので相手の拠点占拠はまず無理である。

しかし、現実に防御側が野戦で勝つのは難しい場合が少なくない。
というのも、戦争は少なくとも初期状態においては攻撃側に主導権がある。
「そもそも戦争を仕掛けるか否か」「いつ攻めるか」「どこを攻めるか」という選択肢は、攻撃側が握っているのだ。
防御側が万全に野戦するつもりで待ち構えていても、準備した兵をかわして野戦を避ける選択肢がある。
これに対応するには防御側は広く薄い防御網を敷くしかないが、それでは局所的な有利を手放さざるを得ず、各個撃破の標的になってしまう危険性が高すぎる。
一応山あいの土地だったり沼地だったり高地に布陣していたり、また複雑な地形に対する知識の差による柔軟な動きますなど地の利を活かした場合はその限りではない。

もちろん、野戦に持ち込ませて、そこで勝利できるならばそれを選択するだろう。
しかしそのような場合は限られており、兵力、機動力、士気で劣っている場合など、野戦が危険である条件が揃っている場合に籠城を選ぶことになる。
偵察や野戦で戦った後などで、この様な条件が明らかになったなら籠城に移行。
拠点の守りを固めつつ、別の拠点の城主や主君に援軍を要請。
敵が攻めてきた場合にはしっかり守り、援軍が来るまで持ちこたえることになる。

籠城の目的は、拠点に将を置いて守り、将が討ち取られたり拠点が占拠されない様に時間を稼ぐことである。

あくまで時間稼ぎの戦術であるため、籠城における勝利条件は
  • 援軍が来て敵軍を倒す
  • 敵軍が撤退する
の2つになる。

前者はともかく、後者の「敵の撤退」はないだろうと思うかも知れないが、それについては後述。

ただし、援軍が来るかどうかや、敵がいつ撤退するかは防御側は一切分からないため、勝てる見込みはないという可能性も高い。
その間の防御側の士気を維持するのも重要になる。

最悪、援軍が見込めない場合は降伏することもあり得る。
将兵は城主やその上司に当たる主君から受けた恩の分は働くが、流石に不利になったり勝てない場合、命を賭けるほどの忠誠心がないなら相手側に降るのもやむなしである。
誰だって命は惜しい。そして降るために最も手頃な手土産は、「人間」にすぎない城主である。閉じている城門を開けるなどと言う手もある。
逆に言うと城主はこうならないように配下の忠誠心を維持し、戦闘に備えられる様に軍備や外交はしっかりしないといけない。
そして、城主の上司に当たる主君も、見殺しにしたりせず確実に援軍を出してくれる,援軍を出してくれれば勝てるという信頼を得ておくことが重要になるのである。
ましてや近代以前だと日本での国人衆、西欧の諸侯などの主君の直臣ではない在地勢力がいてそういう存在は戦況を見て裏切りやすいので尚更。


籠城戦における防衛側の戦術

基本的に籠城する側は城に籠もり、その防御力でひたすら近寄って来る敵を迎撃するというのが基本戦術である。
籠城戦における「城」とは攻めてくる敵を迎撃する為の防衛拠点になり、
  • 城へ近づくのを妨げる
  • 頑丈な素材で作られた内部への侵入を阻む 城壁
  • そして攻撃側を矢玉で狙い撃つ
これらを乗り越えねば城へ入れない。
更に城の内部も大勢の敵を突入させない、或いは少数で効率の良い守備が出来る様な作りとなっている。

一般的に、双方の装備や練度が互角なら城を落とすには攻め手側は守り手側の3倍の兵力が必要であると言われる。
つまり城に引きこもっていれば、3倍の兵力差でも守り抜くことも見込める。
攻め手の兵を消耗させ続ければ攻めきることは不可能になり、攻め手は撤退するしかない状態に持ち込める。

また、兵糧や武器の貯蔵も基本的にされているため、ある程度は補給拠点にもなる。

城に籠もることで相手の機動力を削ぐことが可能になるのもメリットである。
野戦の場合、機動戦術で相手の布陣の弱点を突くことは容易だが、防衛拠点の場合は不可能である。
援軍が来た場合は城から出撃し、挟撃すると言う手もある。
また、あえて城内に引き込んで、落とし穴や矢の雨などと行った罠を仕掛けて城内で有利な野戦を実施して消耗を強いる手もある。

出撃し敵を討ち取るということも可能だが、当然ながら敵の中に突っ込む形になるため激しい戦いになるし負ける可能性も高い。
少数の兵で遊撃隊を作り、出撃し夜襲を仕掛けて撹乱させ撤退する、などのヒットアンドアウェイ戦法は有効。だが敵がそれを読んでいた場合はイタズラに城兵が減ることになるため一長一短。

攻城側が撤退することになればその後は防衛側の逆襲が始まる。
「戦において最も難しいのは撤退戦」とも言われるように一度撤退すると決めてしまえば基本的に兵たちは逃げることしかできない。防衛側は城から打って出てその背後に襲いかかり激戦となる。
防衛側にどの程度の兵数があるか、撤退側の殿がどの程度奮戦できるか、にもよるが城攻めが失敗してしまえば攻城側は完全に攻守が逆転して大損害を起こしながら撤退するしかなくなる。

籠城戦における攻城側の戦術

逆に籠城している相手を攻める側の戦術であるが、普通に攻撃する「力押し」の他にも「別拠点への攻撃」「開城交渉」「内応」「兵糧攻め」「水攻め」といったものが挙げられる。

力押し

普通に攻め落とす方法。
ほとんどの場合は城壁や門を突破する必要があるため攻城兵器が用いられる。主に破城槌やカタパルトを利用し門や壁を破壊して道を作る方法と攻城塔や梯子等を用いて壁を乗り越える方法が主流。
籠城側の利点をフルに発揮させることになるため攻め手側は守り手側の3倍の兵力が必要の理論通りの状況になりやすい。
また近代以前の攻城兵器は基本的に現地で組み立てるのが主流であり、なおかつ野戦では役に立たないため、戦略的にも相手が籠城する前提で持ち込むことになる。
兵の士気の関係もあり、あまり損害度外視の力攻めがしづらいため、籠城側の拠点が大規模でかつ万全の状態と十分な兵数で籠城していた場合、無策の単純な力押しではたとえ兵数が3倍以上でも攻め落とすのは難しい。
単純に力押しのみで攻める場合もあるが、後述の他の戦術で弱らせてから力押しで攻め落とすというパターンも少なくない。

別拠点への攻撃

文字通り別の拠点を攻め、孤立させる方法。
堅牢な城、砦を直接攻めず、他の攻め易い拠点を攻め落として将来的な孤立を狙う。
あるいは君主のみを攻撃目標として攻め落とし、孤立した配下に降伏を促す方法もある。
反逆してきたり、助ける為に出撃してくる可能性も高いため、その備えも必要になるわけだが、それなら野戦に持ち込める。
仮に君主が救援に来なかったら来なかったで別拠点を落とせた場合、「君主は部下が攻められても助けに来ない」という印象を部下に植え付けることで忠誠心を落とすことができる。

開城交渉

降伏勧告の様なもので、籠城側に不利だと悟らせて攻めないで無血開城を促す形である。
降伏しても皆殺しと思えば城兵の必死の抵抗を誘発してしまうので、開城・降伏した場合の助命・優遇約束等が基本だろう。

内応

「内応」とは内部にいる人間に裏切らせて開城させることである。
防御側にとって、包囲されていて自由のない状況は心理的に堪え、「早く楽になりたい」という気分を誘発するものである。
また、大陸で「城」とは「城塞都市」を指し、大勢の庶民や政庁・宮殿まで抱えているのが普通である。
そのため、基本的に兵士だけで構成される包囲側に対して、籠城側は城内の人数=食料消費者の数がかなり多くなり、後述の兵糧攻めでなくとも飢餓が発生し得る。
おまけに、籠城の舞台が大都市である=もとから権力争いが渦巻いている場合は 普段の人間関係のこじれや野心に火が付き、味方が敵に呼応してしまう場合 がある。
軍人なら何とか耐えられる籠城も、何の訓練も受けていないごく普通の民間人にとっては耐えがたい場合が多く、その意味でも民間人の多い城での籠城は内応の危険性が大きくなる。
そのため、歴史には、虐げられていた民衆が城門を開けたり、クーデターを起こして主戦派を殺して包囲軍に投降する、などと言う例も見られ、籠城側が敗れる場合もそれはそれは多い。

攻撃側にとって、内応を狙った心理作戦は立派な作戦となる。
特に上記の「開城交渉」は内応狙いを併せ持った作戦としても使えるものであり、好条件での降伏容認をちらつかせれば城内に降伏派=内応者を作り出すことができてしまうと言う訳だ。
これと合わせて四面楚歌の故事のように、外部の情報を絶ったり偽情報を流して継戦意欲を削ぐことも有力な戦術である。

また内応役は戦争中でなくとも作れる。戦争以前から城内の有力者を事前に取り込んでおいたり、旅商等に化けたスパイを入れておき、侵攻・籠城時には城内で内応させるというのも一つの戦術である。


兵糧攻め

「兵糧攻め」とは守備側の拠点を包囲し、外部からの供給を絶つことで飢えさせる攻め方である。
力押し以外の攻城戦術としては特に有名であり、「籠城」=「兵糧攻めに遭う」=「飢えるものが大量に出る地獄絵図」というイメージを持つ人が多いが、実際は下記の時間の問題で気軽に行えるものではない。
逆に言うと有力な勢力がかなり計画的に「兵糧攻め」を行うと地獄絵図になる
兵糧攻め・包囲戦を得意とした豊臣秀吉は、状況と財力・戦力の有利を活かして大規模な事前工作を行い、その後文字通り数倍の戦力で敵を包囲、時には城まで建築する事で『戦わずに勝つ』事を実現している。(これによって敵側は凄惨を極めたので、まともに戦った方が攻められた側にはマシだったと思われるが)
後の徳川家康もこれを真似てか、大坂冬の陣などでは、血気流行る武将達を尻目に砲撃で嫌がらせを続ける策をとった。

水攻め

「水攻め」とは堰を作るなどの方法で城の中に近隣の川や湖沼の水を流し、疫病を流行らせるという手である。
簡単に行える上に有効打となる場合が多いが、水が用意できないなら無理である。
なお、疫病狙いの戦術としては、水攻めの他にも大型の弩等を使って城内に死体を投げ込んで伝染病を狙うということもあった。

攻城側が撤退(籠城が成功)するパターン

上述の様に主君や他の将の援軍が来て、それらによって敵を蹴散らして攻撃側が撤退、もしくは籠城の戦法で攻撃側が大きく損失を出す、というのが考えられる勝利の形式。
防御側としては、敵の油断を突いて突如出撃して野戦に持ち込んだり、逆に内応などに見せかけて城内にある程度誘い込み、罠を仕掛けて迎撃するというパターンがある。

攻城戦を行う側には他にも撤退する原因になるものがある。
一つが兵站の問題。
攻撃手側は長期戦に持ち込む場合、軍の補給を現地の畑から略奪…もとい接収*1するなり、補給線を整備するなりして改めて賄う必要がある。
上手くいかなければ兵士が飢えてしまうので、帰らざるをえない。

他には兵の時間的拘束の問題。
戦国時代日本の兵隊(足軽)は普段は農民であったり、他所から借りた兵*2だったりで長期の拘束が出来ない事も珍しくない。
ぶっちゃけ外国でも、兵隊と農民の分離が進むのはかなり後の時代まで待つ事が多い。
例えば楚漢戦争期の中国では、長い戦争で農民が兵士として徴用されすぎたせいで農業従事者が減少しすぎ、かなりの期間毎年凶作でどこの国の軍隊も補給に困る事態になっていた*3
これらの事から、長期戦に持ち込むのは攻め手にとってもリスクが大きい。

また、徴兵している兵は普段は自国の経済を担っている。軍事行動のせいで経済が停滞している国は現代でも珍しくはない。
籠城は攻撃側の兵を守備側付近に縛り付け、経済を停滞させ、多大な消耗を強いることになる。
更に1対1で戦争しているならまだしも、多数の勢力が乱立している状況下では第三勢力の横槍をも誘発しかねない。
それらも考慮すると、籠城戦の攻略に時間をかける事は、援軍到来などといった戦術レベルどころか戦略レベルでの大失点に繋がりやすい。
孫氏が『城を攻めるは下策』と言っているのは、経済・国際政治・国内政治全てに影響をするからなのだ。

攻撃側の勢力・兵站が大きく上回っているケースは限られていたため、攻撃側が撤退・籠城側が勝利するケースも珍しくない。



籠城が失敗するパターン


守備側が万全な状態で籠城戦に持ち込んだ場合は援軍が来たり、敵兵の時間切れで勝てる。
逆にそうでない、以下の様な条件の場合、守備側が攻めきられ負ける。

  • 兵糧・物資不足、練度不足などといった籠城側の準備不足
  • 攻城側の兵站の確保が十分ある
    • これに加えて相手の兵糧などを減らすために事前に経済戦争を仕掛けておく&それが出来る財力・政治力を有する
  • 第三勢力の横槍を回避できる攻城側の外交的優位
  • 長期間に渡る攻城に兵を駆り出すことができる攻城側の内政的成功

歴史的に有名な攻城戦の成功については、これらの条件が大抵揃っている。

また、裏切り・急襲・敗戦して逃げ切れなかった場合など、戦術的に火急の対応により守備側がやむを得ず籠城を選択した場合、防御要員が不足することが多い。
大きな城というものは硬い代わりに大人数でなければ完璧に運用することができないといったケースも多く、防御が不十分になりやすい。

また、籠城した場合でも上述の様に3倍以上の兵力差の場合は普通に攻めきられることもある。
勝ち戦の勢いで攻め倒されるケースもある。*4

また、援軍が来るまでの間に攻城側が正攻法で急戦で挑んでくることもある。
この様な場合、攻め手も城攻めは大変だから嫌なんてことは言ってられないため、凄まじい戦場となりやすい。


◇籠城戦の歴史

中世以前

ローマ圏・中国圏・イスラム圏と城塞都市が栄えた時代。
敵対者や異民族の攻撃を防ぐため、塔や城壁などは とりあえず高く 建築するのが基本。
都市が拡大すると更に外側に城壁を作った。
素材はレンガ・石・木・土。強度数千年とも言われるローマン・コンクリート*5なる、オーパーツじみた物も使用されている。
一方で万里の長城など外敵からの防御のみを目的とした 永久要塞 もこの時期から出現している。
攻撃側は破城槌や投石機による防衛設備の破壊、城壁へ兵を侵入させる雲梯(うんてい)・攻城塔で戦い、
防衛側は投石・落石熱した油糞尿腐った食べ物などで応戦した。
余談だが、欧州を制圧したローマは都市拡張の障害になる城塞を捨てて、街道整備による軍団移動力・輸送力の上昇と国境に長く築いた城壁を利用する機動防御を重視する方針を採ったりしている。
いわば国家自体を1つの大きな街のようにしたと言うべきか。
ゲルマン大移動後は戻ったが。

中世

火器、特に大砲の出現により高い建造物がジェンガの如く崩れまくった時代。
それに応じて城も高さより 深さ を重視するようになった。更に城壁を壕で埋め、籠城側が射撃を行う際に円状城壁では死角が生じる問題を解決するためヨーロッパでは星形要塞が登場した。
このころになると防御側の建築技術の高速化も進み、
頑張って落とした堀などが翌日には戻っていたとか、あんまり包囲戦が長期化し過ぎたせいで
都市の住人がまるごと土木のエキスパートに変貌したなど、笑い話のようなことも起きた。
アニヲタならばゲートの自衛隊基地のものと言えば分かるだろう。
しかし火器導入(軍事革命)と共に一度の攻城戦に必要な経費も膨張、籠城側優勢の戦闘形態、小氷河期による欧州暗黒時代も手伝って全体的に戦争は縮小した。
また、この時期には防衛設備を持たない城*6も多数登場しており、永久要塞としての城とは区別が必要。

日本ではそもそも異民族の侵入が元寇くらいしか起きなかったため城塞都市が発展せず、砦の発展として山や川などの天然の地形を活かした山城が主流であった。
だが戦国時代中期には防御力以上に政治的支配の能力も求められ、平地に築かれた平城が多く出現し、江戸時代以降は軍事的要素が縮小し城=政庁として扱われている。

近代

攻城戦大嫌い皇帝ことナポレオンと産業革命の時代。
要塞ガン無視で政治中枢を直接攻撃するナポレオン式機動戦術と国民皆兵戦略の有用性などで、中世とは比較にならない速度で軍事技術が発展。
防衛拠点も政治・経済的機能を備えた「城」「城塞都市」から軍事的な機能を集約した「要塞」へと変化していく。
第一次世界大戦時には鉄条網と塹壕による簡素な野戦築城が要塞に準ずる防御力を獲得した。

ところが、第二次世界大戦では戦車・航空機にとって代わられ、高価で動かぬ要塞は存在意義を一気に失っている。
その代わりに塹壕が非常に重要となったために、凄まじい塹壕跡があちこちに出来た。
対塹壕用兵器なども開発されていたり、ドーザーブレードを装備した戦車*7で埋めてしまうという直接的な対策もあるにはあるが、
対塹壕用兵器は大抵が非人道的と言われても当然なほどにえげつない性質or破壊力であることが多い上に、一発単位でとてつもないお金がかかるモノを多数使用しないといけなかったりする。
燃料気化爆弾でまるごと吹き飛ばすとか猛烈な空爆で焼き尽くすとか。
また埋めてしまう対策についても敵兵を生き埋めにしてしまうという場合も当然ながらあったらしく、それは戦争行為の範疇に収まるのか議論されていたりもする。

いずれにせよ、作りやすい上に十分嫌がらせとして機能するため、環境にもよるが現代に至るまで塹壕は重要なものとして掘られ続けている。

現代

ミサイルなどの長射程精密誘導兵器が一般化された今日の攻撃優位な軍事技術では、城塞やコンクリートによる 防御 は無力である。
そのため電子戦や迎撃ミサイルによる 妨害 や、重要拠点の 隠匿 が攻撃側の軍事行動を防ぐ手段として主流になっている。
現代戦で文字通り「籠城」しようと思ったら、地下シェルターにでも引き籠って息を潜めているしかない。

籠城に代わって防戦側が取るようになったのが、都市部における市街戦である。
高層化した現代建築は、視界を常に妨げるだけでなく、わずかなバリケードなどで簡易な要塞、防衛拠点に変貌する。
このため攻撃側は無人であっても安全のためにビルを一棟一棟確保していくなどの労力を要求されることとなった。
中東における戦争などがその典型であるといえるだろう。

目下、どんな堅牢な要塞よりも強い抵抗力を有しているのは、人間の精神力と団結力である。
900日の包囲と飢餓作戦を耐え抜いたレニングラードや、15年間の空爆を受けてなお戦い続けたベトナム、狂信的目的をひっさげあちこちの都市に潜伏するテロ組織などなど。
城という明確な目標が消滅した事で、人は戦う意思がある限り戦い続けることが可能となってしまった。

軍事技術の飛躍的発展は、軍事拠点としての城・要塞を消失させた。
しかしそれは、古代から長らく行われた籠城戦が城の壁から人の壁へと移り変わっただけとも言える。
戦争が存在する限り、籠城戦も姿・形を変え存在し続けることだろう。


◇有名な籠城戦のエピソード

成功例

晋陽の戦い(前455)

趙襄子(籠城)VS知伯瑶・魏桓子・韓康子(包囲)
中国・春秋戦国時代では最も有名な籠城戦。簡単に言うと、中原の大国だった晋国内部の覇権争い。

当時、晋国は公室が力を完全に失っており、「知」「趙」「魏」「韓」の四つの名門貴族が半ば独立勢力となっていた。
そのうち、飛び抜けて強大だった知伯瑶(知氏の当主)が、韓康子(韓氏当主)と魏桓子(魏氏当主)を脅しつつ、三勢力連合で趙氏を攻撃した。勝利の暁には趙氏の領土を三人で分けようというのである*8

しかし、趙氏当主・趙襄子が逃げ込んだ晋陽城は入念に籠城準備がなされており、包囲した連合軍は大苦戦。それでも大雨が降ったので、晋陽城の水源の汾水を氾濫させて水攻めにした。
ところが、普段から粗暴だった知伯は趙子のみならず韓子・魏子からも恨まれていた上、これほどの猛攻を受けながらも堪えた趙の参謀・張孟談が韓・魏と渡りをつけてきたため、
韓・魏はついに趙氏と連合。一夜にして敵味方が入れ替わり、知氏は三方から攻められて滅亡した。

この舞台となった晋陽城だが、先代城主の董安于はここを治めるにあたり、
  • 「垣根には矢の素材として最適な木を植える」
  • 「宮殿の材料を大量の銅にして武器の素材にする」
  • 「領民に普段から恩沢を施しておき、籠城となれば各家庭の備蓄を供出させるよう手配しておく」
などなど、籠城を想定してあらゆる準備をしていた(董安于はこの戦いの以前に自殺)。
しかも、普段はそれが警戒されないようにあえてボロボロの八方破れとしていた。それゆえ、普段はボロ城であったのに、実戦では三ヶ月の籠城にもたじろがず、天災にも持ち堪える金城鉄壁となった。
それだけではなく、張孟談が積極的に謀略を仕掛けて包囲網を切り崩し、逆転にまで持っていった、まさに見本のような籠城戦である。

ちなみに、この戦いは「唇亡びて歯寒し」「天下の方に肘足する時」などの名言が絡んだほか、この結果として韓・魏・趙の独立国家への決定的転機(同時に晋国滅亡への最後の一押し)となったり、
知氏残党の豫譲の敵討ちのエピソードが派生したり「知己」の言葉を生み出したりと、興味深い話がいくつも生まれたという意味でも「春秋戦国で最も有名な籠城戦」である。

シラクサ攻防戦(前214)

シラクサ(籠城)・スパルタ(援軍)VSアテナイ(包囲)
ペロポネソス戦争を決定付けたと言える包囲戦。

シチリアのシラクサはドーリア系の都市で、スパルタを中心としたペロポネソス同盟諸国に軍需物資を輸出しかねない厄介な国であった。
スパルタと一時休戦を結んだアテナイは将軍アルキビアデスを中心に軍艦134隻と重装歩兵5000を主力としたシラクサ遠征を決定。
しかし、紀元前415年の遠征軍の派遣中に司令官のアルキビアデスが失脚して、何とスパルタに亡命。
スパルタにシラクサ遠征の詳細を暴露してしまう。
スパルタは救援に乗り気ではなく、スパルタ人とヘロット(農奴)の混血であるギュリッポスに急編成部隊を与えて派遣。
しかし、このギュリッポスと言う男は混血故にスパルタ人離れした発想力の持ち主で、手勢とシチリア人騎兵からなる遊撃隊の基地をアテナイ軍の包囲網の外に複数箇所築いて、背後から執拗にアテナイ軍を攪乱。
アテナイ軍も増援部隊である軍艦73隻と重装歩兵5000を派遣するも、ギュリッポスの健闘に奮起したシラクサ艦隊の逆襲、日和見をしていたシチリア諸都市のシラクサ側に付いての参戦も重なり、シラクサ軍は遂にシラクサ近海の制海権を奪い返す事に成功し、ギュリッポス率いる遊撃隊とシチリア諸国連合軍の重囲に陥ったアテナイ軍は壊滅した。
この敗戦で第一線のガレー船200隻と重装歩兵1万を中心とした万単位の兵力を失ったダメージからアテナイは回復する事が出来ず、最終的にエーゲ海の覇権を失う事になった。

合肥新城の戦い(253)

張特(籠城)vs諸葛恪(包囲)

253年、呉の諸葛恪(諸葛瑾の子、諸葛亮の甥)が前年に魏軍を痛めつけたのに気を良くし、合肥新城の攻略をはかった。
2か月に渡る攻囲に城は陥落寸前となったが、守将張特が一計を案じた。

「魏の法律では、包囲されて100日経っても援軍が来ない状態で降伏したなら家族が罪に問われない。
100日目になったら降伏するからそれまで待って。」

諸葛恪はこれを信じて攻略を止めていた。
ところが張特の約束は真っ赤な嘘であり、攻勢が止んだ隙に張特は城を修繕してしまった。
激怒した諸葛恪は今度こそ合肥新城を陥落させようとしたが、この貴重な時間に援軍が到来、呉軍は撤退を余儀なくされた。
諸葛恪はこの敗北が原因で呉国内で孤立、遂には誅殺されてしまった。

なお100日経っても援軍が来なかったら降参してよいというのは他の戦いでも記述がみられ真実であるらしい。
絶対に降参を認めないと、本国としては自軍兵に不信を抱かれるわけにはいかないので、どんな城も救援しなければならなくなる。
援軍を送ってもどうにもならない城や戦略的価値が薄くなった城であっても救援しなければならなくなり、戦略的失敗を招くのである。

千早城の戦い(1333)

楠木正成(籠城)VS鎌倉幕府(包囲)

後醍醐天皇の家臣、楠木正成が籠城した千早城を鎌倉幕府の精鋭部隊が包囲した戦い。
正成の兵力はおよそ1000。鎌倉幕府の兵力は具体的な記述はないが、およそ 数万 とされる。
城の防御力を加味してもどう見ても絶望的な兵力差であり、実際幕府軍もこの直前に赤坂城を落としていたこともあって、「この程度の小城ならば勢いに乗じて落とせる」と確信していたはずである。
だが、楠木正成の巧みな戦術に翻弄され、結果的に幕府軍は千早城を陥落させることができないまま撤退。
結果論であるが、どうてもいい小城である千早城にこだわり過ぎた結果、倒幕勢力の結集を許してしまい、鎌倉幕府の滅亡に繋がることになる。

有田合戦(1517)

毛利元就(援軍)・小田信忠(籠城)VS武田元繁(包囲)

尼子経久に与して安芸内での勢力拡大をもくろむ武田元繁は毛利家が当主興元の若死にで動揺したすきを突き、毛利家と同盟関係にある吉川元経の有する有田城を攻略しようと5000の手勢を率いて出陣し相手側の降伏の打診を握りつぶし力攻めで攻め落とそうとする。対する毛利側の手勢は1000ほどで主家の大内氏は京に主力を展開してたため援軍は望めない状態であった。

が、興元遺児の幸松丸の後見人となったこの時若干二十歳の弟の元就が大将として出陣し、まずは安芸武田側の副将の一人である熊谷元直を討ち取る。
それに激怒した武田元繁はこちらが多勢なのを頼りに毛利側を蹂躙しようとするが、川まで軍をすすめたものの進軍速度が落ちたすきを元就側につかれ弓矢の一斉射撃の逆襲に遭い大将元繁がまさかの返り討ちにあってしまう。
これにより安芸武田側の士気が一気に崩壊、圧倒的優勢から主君を討ち取られたことに動揺した香川行景と己斐宗瑞は伴繁清の退却論を無視して突撃し彼らも討ち取られ毛利側の圧勝となってしまった。

後の元就自身の厳島の戦いや織田信長の桶狭間の戦いに隠れがちだが、この戦いは元就の初陣にして華々しい勝利であったため以降は彼の意発言力は安芸の国人の中で拡大した。
一方の安芸武田氏は圧倒的優勢にもかかわらず総崩れしたため一気に求心力が低下。戦死した副将格の後継となった熊谷信直・香川元景・己斐直之はそろって毛利氏に鞍替えしたため滅亡してしまった。ちなみにその一族の末裔が安国寺恵瓊である。

パヴィアの戦い(1525)

オーストリア(籠城)VSフランス(包囲)
1525年に行われたオーストリア・ハプスブルグとフランスとの決戦。

此の戦い、異様に長篠攻囲戦と似た流れを辿っている*9
強力な騎兵を擁するフランス軍がパヴィア城を攻囲したのだが、城兵の奮闘に手古摺っている間に援軍が到着。
大軍の援軍本体と睨み合っている隙に、オーストリア軍は鉄砲と長柄槍(パイク)多数を装備させた精鋭を分遣して、フランス軍の背後を取ってしまう
唯一、長篠攻囲戦と違うのはフランス軍騎兵は援軍主力ではなく、別動隊の方に突撃した点だけだったが、精強な長柄槍と銃兵が守りを固めている陣地に正面から騎兵が突撃するのはハイリスクなのは長篠攻囲戦同様であり、結局は城兵、援軍主力、援軍別動隊に包囲されて長篠の武田軍同様に攻囲軍側が全滅してしまった。

フランス側の負けっぷりは辛うじて大将を脱出させた武田軍より酷く、国王フランソワ一世が生け捕られるという大惨敗を喫してしまった

フランス側はハプスブルグ家当主カール五世が唯一頭が上がらない父方の叔母で育ての親でもあるベルギーの支配者マルグリット女公にフランソワ一世の生母が平身低頭の説得を行い、何とか息子を返して貰えた。


吉田郡山城の戦い(1540)

陶隆房(援軍)・毛利元就(籠城)VS尼子晴久(包囲)

戦国時代初期の中国地方は周防の大内氏が大勢力を築いていたが、当主大内義興の死と九州で小弐氏や大友氏との戦いに明け暮れている間に出雲の尼子氏が勢力の急拡大を開始。
伯耆・備後・備中・因幡・備前・播磨等の国の既存勢力を悉く打ち破り、大内の勢力圏である石見・安芸の一部の勢力まで味方につける大暴れっぷりを見せ上洛を狙っているのではという噂が出るほどであった。
しかし大内氏が九州での戦がひと段落つき、中国地方での活動を再開し始めると尼子晴久は安芸武田や厳島神主家、吉川氏などの安芸の親尼子勢力の救援をするべく、1万5千~3万とされる大軍勢を以って出陣。
その道中に存在するのは...安芸の親大内勢力の中心格である毛利元就が籠る吉田郡山城で城兵はわずか2400人。

そうして始まった吉田郡山城の戦いだが、毛利勢はたびたび城から打って出ては城に戻るという戦法で尼子軍を翻弄。小早川氏、宍戸氏、杉氏といった近隣勢力の後詰めもあって尼子軍は攻めあぐねていた。
その後も尼子軍はあの手この手で城下に攻めよせるが何度も撃退にあい、この頃になると尼子軍も大内軍からの援軍に備えていたのか、城攻めも散発的になり小競り合いが続く。だが元就はこの間にも尼子軍に奇襲を仕掛け
少しずつ損害を与えていく。
そうした膠着状態になっている間に、西から陶隆房率いる大内家の援軍が到着して、城から打って出た毛利家も含め尼子家との決戦に移行。
この戦いで尼子軍は晴久の大叔父であり経久の弟である尼子久幸を失うなど劣勢になっていき、不利を悟った晴久は撤退。毛利及び大内家の勝利となった。

その後は元就と隆房は間髪入れずに安芸の尼子勢力を駆逐していき、中国地方各地でも反尼子勢力の逆襲が始まった。
一方大内義隆や毛利元就はこの大勝利を幕府に報告。一気に日本中に名声をあげたのだった。…のだが。

第一次月山富田城の戦い(1542~翌43年)

尼子晴久・新宮党(籠城)VS大内義隆・毛利元就(包囲)

吉田郡山城の戦いから続いて発生した戦であり、戦国時代における「国人衆」という存在の厄介さが存分に表れた戦。
吉田郡山城の戦いの戦いの後、尼子氏は領地を大幅に失陥したうえ、国人衆の大内氏への大量離反を許す形になり、その影響は本国・出雲にすら及ぶことになり、一気に存亡の危機に立たされることになった。
安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、尼子経久が死去したこともあり義隆は尼子の本拠地である富田城へと進軍を開始した。
この戦に対して義隆は室町幕府からお墨付きをいただくという大義名分を得ることに成功し、一説には父・大内義興と同じく、尼子氏を破ったのちに上洛する腹積もりだったのではとも言われる。
大内軍の陣容は陶隆房(周防)、内藤興盛(長門)、杉重矩(豊前)、弘中隆兼(安芸)など各地を治める重鎮や、九州の大友氏からの援軍、安芸・石見・備後国の主だった国人衆ほぼ全員とそうそうたるメンツ。無論その中には毛利元就もいた。

が、途中の赤穴城の攻略にてこずり本格的な富田城攻撃は翌年にずれ込み、更には尼子一門の新宮党の奮戦やの土一揆に後方をかく乱された大内軍は大いに士気が低下。そうこうするうちに尼子氏麾下から大内氏に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶・三沢為清・本城常光・吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。一説によると城攻めをするふりして堂々と籠城側の富田城に入城し加勢したという。

こうして手詰まり状態となった大内軍は撤退することになったが、尼子側はそのすきをついて逆襲し義隆の嫡男晴持や福島親弘や右田弥四郎が戦死するという大損害を被ってしまう。殿をやらされた元就も大損害を受け自害を覚悟したほどだったが、家臣の渡辺通が影武者としてひきつけたすきに何とか本土に逃げ帰ることができた。

この戦いで嫡男を喪った義隆はすっかり腑抜けてしまい、以降は文治派と武断派の内部抗争を捌ききれず最終的に陶隆房の反乱で討ち取られ一気に大内氏は衰退。
勝ったほうの尼子氏もこの戦いで活躍した新宮党が増長して晴久や他の家臣と軋轢を生んだり、大内・毛利・山名相手にジリ貧なのは変わらず伸び悩む。
一方の元就は帰国後吉川興経を粛正するなどして地盤の足固めに尽力。徐々に力を蓄えていくのであった。

川越夜戦(1545~翌46年)

北条氏康(援軍)・北条綱成(籠城)VS上杉朝定・上杉氏竹・足利晴氏(包囲)・今川義元(黒幕)・武田晴信(同盟者)

後北条家の台頭を阻止するため、今川義元の鶴の一声で手を結んだ山内・扇谷両上杉家と足利古河公方(100年も喧嘩してたのに)
今川・武田連合の河東侵攻と連携し、80000を号す大連合軍で川越城を包囲した。
しかし兵3000と十分な兵糧を備えていた川越城は、守将綱成の奮戦もあり半年も耐え抜き膠着状態となった。
一方で後北条家の新人当主氏康は、甲斐の武田晴信(信玄)の斡旋で河東を放棄する屈辱的和睦を結び、自身は8千の兵で義弟綱成が守る川越城に急行。
しかし着いたと思えば偽の降伏状やら詫び状を出しまくり、小競り合いには戦わずに逃げるヘタレっぷりを連合軍に見せ付ける。
長陣による士気低下、軍律の弛緩、兵力差とヘタレ氏康を見ての楽勝気分。
全て相模の獅子の計算通りだった。
春風が吹く子の刻、鎧兜を脱いだ北条兵は音も無く連合軍に突撃。綱成も「勝った勝った」と叫びながら場内より出陣し、大混乱の果てに扇谷上杉家当主朝定を始め連合軍方の諸将が討死。
この戦いにより室町以来の旧来勢力を一掃した北条家は、関東制覇へ邁進し始めたのだった。

厳島の戦い(1555)

熊谷信直・己斐直之・坪井元政(籠城)・毛利元就(援軍)VS陶晴賢(包囲)
主君義隆を討ち取り傀儡の主君を立てて大内家を牛耳った陶隆房あらため晴賢だったが、その強引な領地運営に配下や周辺の国人たちから不満が続出。
吉見正頼を降伏させるべく出撃した三本松城の戦いの際に、晴賢が元就の許可なく密かに安芸の国人達にに直接出兵を要求する密使を派遣したことが密使を捕縛した平賀弘保によってばれてしまい、ついに元就は晴賢との全面対決を選ぶ。

前哨戦の仁保島城戦で香川光景に撃退され攻めあぐねていた晴賢は、弘中隆包の「狭い島に大軍を派遣するとかえって身動きが取れなくなる」という忠告を無視して中国地方の制海権の拠点の一つである厳島宮尾城を攻略することにした。
とはいえ安芸国の制海権を取られていると背後から回り込み放題なので結果論なだけで悪い判断ではない。
これは晴賢本人の決断という説と元就の計略であるという説がある。

水源を断たれてもなお粘る宮尾城を攻めあぐねているうちに、村上水軍を調略して軍船をかき集めた元就は暴風雨の中明かりを最小限にして厳島に急行し陶軍の背後から奇襲をかける。
嵐のため背後の警戒を怠っていた陶軍は船を焼かれ城側と海側から挟み撃ちにされ狭い島で大群が身動き取れない状態で総崩れ。
狼狽する陶方の将兵たちは我先と島から脱出しようとして、舟を奪い合い沈没したり、溺死したりする者が続出した。
弘中隆包・三浦房清・大和興武らが手勢を率いて駆けつけて防戦に努めるが、大混乱に陥った陶軍を立て直すことはできず、晴賢は島外への脱出を図るもその船も失われ、追いつめられた晴賢は自害し陶側は壊滅した。

実務のトップを喪った大内氏は毛利のその後の攻勢を防ぎきれず、傀儡の大内義長も自害させられ周防・長門は毛利の手中に握られた。
これにより大内氏に代わる中国地方の大勢力となった毛利氏は残りの尼子も攻め滅ぼし中国地方の覇者となった。



掛川城の戦い(1569)

今川氏真・朝比奈泰朝(籠城)VS徳川家康(包囲)

桶狭間の戦いで当主のや有力な家臣を失った今川家は、麾下の国人であった松平元康が徳川家康を名乗って独立するなど勢力を大きく減じた。
1568(永禄11)年には同盟を破棄して侵攻してきた武田家により本拠地の駿府館を失陥、今川氏真は掛川城に落ち延びるが、こちらでも徳川家康の軍勢に包囲されてしまう。

しかしながら、城主の朝比奈泰朝をはじめとした今川軍の将兵はよく戦い、籠城すること半年近くにも及んだ。
この間に周辺勢力…というか武田家があやしい動きを見せるようになったため、家康も掛川城だけにかかずらっていられなくなり、和議を模索し始める。
最終的に氏真の身の安全の確保と引き換えに開城することで話がまとまり、氏真・泰朝は翌1569年(永禄12年)に掛川城を明け渡した。

その後、氏真は正室(早川殿)の実家を頼って北条領に向かった。泰朝の消息はよくわかっていない。
戦国大名としての今川家はここで滅亡したものとみなされているが、氏真本人は1615(慶長19)年まで長生きし、子孫によって家名も存続した。
なお攻め側の家康とは生涯に亘って親交を深めたらしい。不思議な縁である。

ちなみに、当時の掛川城はいまの掛川城(江戸時代の御殿や、1994年に再建された天守がある場所)と同じ場所にあったとされているが、そこから北東に500mほど離れた子角山(ねずみやま)という小高い土地にも城郭の備えがあった*10
掛川城の戦いにおいて、子角山の城は徳川方の陣地として掛川城の今川方と対峙していたとも、今川方の出城として掛川城と連携して徳川方に対抗していたともいわれている。


三方ヶ原の戦い(1573)

徳川家康(籠城?)VS武田晴信(包囲?)

三方ヶ原の野戦でコテンパンに敗れた徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ込んだ。
強力な武田軍を前に城門を閉じて籠城戦に移るのが本来のセオリーである。しばらく持ちこたえれば、織田信長の援軍も期待できる。
だが、家康はなんと城門を全開にして大量のかがり火をたくという暴挙を敢行。

武田軍に攻め込まれてはひとたまりもなかったはずだが、武田軍は
何だ、この入って来いと言わんばかりの状態は。突入すると何か罠でも仕掛けてあるのでは…
と疑心暗鬼に陥り、兵を引き上げてしまった。

これが兵法三十六計の第三十二計、いわゆる「空城計」である。
野戦でフルボッコにされ、兵の多くが城から出た直後では籠城すらおぼつかない故に取られた作戦であった。

もっとも、三方ヶ原の戦いにおける空城計は創作説も根強い*11
仮に創作でなかったとしても武田軍も最初から城を陥落させる気はなかったから引き揚げただけという説や、
逃げ帰る兵を迎えるために城門を開けたのが結果的に空城計になったという説もある。

合戦そのものは浜松城を落とすことはできなかったものの周辺の城を攻略した武田側の圧勝であったが、肝心の信玄の持病が悪化したことと補給の限界が響き武田軍の侵攻速度はガクンと落ち、最終的には信玄の死去で武田軍は領内に撤退。そして後継問題を処理している間に織田と徳川が盛り返し、信長は足利義昭を京から追放し浅井朝倉を殲滅して領土を拡大、家康も奥平定能・貞昌親子を調略して逆襲し下記の長篠の戦いへとつながることになる。

長篠城の戦い(1575)

奥平貞昌(籠城)VS武田勝頼(包囲)

武田軍との決戦に備え、家康から要衝である長篠城を任された奥平貞昌。
だが、奥平の手勢500に対し、武田勝頼は 15000 の大軍勢で長篠城を包囲。
絶望的な状況な上に火矢で食料庫まで焼けてしまい、籠城側の士気も落ち込む中、皆の希望を託して派遣されたのが「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)*12
鳥居は厳重な包囲の中、なんとか徳川方に到着し長篠城の窮状を知らせることに成功。
既に織田軍と一緒に出陣の準備を進めていた徳川軍は、数日のうちに38000の軍勢を伴って長篠城に援軍に駆け付けることを約束する。
危ないので援軍と一緒に行こうと言う信長・家康に対して、この吉報をいち早く伝えるために鳥居は長篠城に帰還しようとしたのだが、その道中に武田軍に捕まってしまう。
本来ならばその場で切って捨てられるところだが、武田軍は粘り続ける長篠城を落とすべく、鳥居にこう囁く。
「援軍は来ないと奥平軍に伝えろ。そうすれば命は助けてやる」
鳥居はこの要求を了承。武田軍の監視の下、城内に向けて大声で叫んだ。
「すぐに援軍が来る!ほんの二、三日の辛抱だ!それまで耐えてくれ!」
無論、激怒した武田軍はその場で鳥居を処刑。だが、彼の勇気ある行動で士気を取り戻した奥平軍は、連合軍が設楽ヶ原に到着すると 勝頼がなぜか長篠城攻略拠点の鳶ヶ巣山を手薄にして主力を渡河させるという強硬策に出たため 見事に援軍到着までの二日間を耐え抜き、酒井忠次を中心とした連合軍の別動隊が鳶ヶ巣山残存部隊を壊滅させ合流することができ生き延びたのであった。

決戦の設楽ヶ原の戦いそのものは謎に包まれた部分も多いが、後方が河で退却が難しいという文字通りの背水の陣で連合軍に突撃した武田軍は逆襲に遭いに武田四名臣といわれる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀をはじめとして多くの武将が討ち死にし*13、勝頼も甲斐にぼろぼろの状態で逃げ延びるという武田の惨敗に終わり以降は立て直しにも失敗して最終的には滅亡することになった。


忍城の戦い(1590)

成田甲斐(籠城)VS石田三成(包囲)

後述の小田原城攻囲戦の裏話とも言える戦い。

忍城は後北条氏の重臣・成田氏の城で、当主の氏長が小田原城に籠城しており、城は氏長の娘・甲斐と叔父・泰季(籠城中に病死)、従弟・長親が留守番をしていたのだが、其処に石田三成率いる2万人を超える豊臣軍が押し寄せて来る。

城側は正規兵が500人、領民に武装をさせた民兵2000人強と圧倒的な劣勢であったが、川や湿地が多い現地の土地勘を活かして意外と健闘する。

一方、石田三成は万単位の大軍を率いるのは初めてであった上、直江兼続や佐竹義宣の様な歴戦の大身武将を指揮下に回されていた。
兼続も義宣も三成を嫌っていた訳ではないが、キャリアで上回る彼等に三成が遠慮せざるを得なかった事は想像に難くない。
苦戦する三成を見兼ねて、秀吉は水攻めを指示。
三成は現地の地形を見て、水攻めには懐疑的だったとされているが、他に打開策が思い浮かばない以上、水攻めの準備を進めるが・・・水が溜まったタイミングで豊臣軍の陣地を直撃する箇所を城兵に破壊され、鉄砲水で700人以上が溺死、負傷者多数の大惨事になった上に、城の回りの湿地が更に通り難くなり城が難攻不落に。

三成の不甲斐なさに、秀吉は相婿の浅野長政、旧友の前田利家、戦上手で知られる真田昌幸・信幸父子を増派し、兼続の主君である上杉景勝も加勢に参陣したが・・・更なる格上の来援に三成は指揮どころではなくなってしまう。
遂に、浅野長政が主導する形で攻囲戦を再開し、本城・小田原城の開城時に投降した城主・氏長が説得する事で漸く開城の運びとなった。

成田氏は忍城を奪われるものの、烏山城2万石の大名として生き残り、甲斐は秀吉の側室となったが、秀吉死没直前の醍醐の花見で「可い」の署名で和歌を詠んだのを最後に歴史の表舞台から消える。
一方の石田三成は「上杉の精鋭や前田利家・真田父子の様な名将を擁しながら女と留守番に撃退された」として、武名を大いに落としてしまい、後々までそれが響く事になる。
同時期に豊臣家の文官仲間だった加藤清正が1万の兵力を指揮して、天草の一揆鎮圧の増援に派遣されて複数の城を落城させているので、余計に三成の敗戦が目立ってしまった。
大名一年生と言える当時の三成にキャリアが上回る利家達を心服させろと言う方が無理が有り、新任とは言え自前の兵力で主力を構成出来た清正と比べても編成面でのハンディは大きかったのだが。
その一方、秀吉没後の対応で決別した浅野長政*14を除く攻城軍の面々が秀吉没後も三成に協力的だった事は留意するべきだろう*15


上田合戦(1585・1600)

真田昌幸(籠城)VS徳川軍(包囲)

真田家と徳川軍の上田合戦が二度行われているが、真田家の大勝で有名なのは1585年の第一次上田合戦の方。
そもそも真田軍2000、徳川軍8000弱と兵力的にも「守備側3倍の法則」*16を考えればそこそこ拮抗している状況だったので、勝敗にはあまり違和感はない。
だが、徳川軍の被害は1300、一方真田軍の被害はわずか40ほどと結果的には徳川軍の大敗で終わり、真田家の戦の巧みさを世間に知らしめた一戦である。

関ヶ原の戦いの前哨戦である「第二次上田合戦」も同様に籠城戦で有名。
これは「昌幸に足止めされて関ヶ原に遅刻した徳川秀忠」と秀忠の無能さを嘲笑うように語られることが多いが、
秀忠に参戦命令が下った時期を考えると「元々関ヶ原に間に合うはずがない」状況なのでこれはいくら何でも秀忠を貶めすぎであるかもしれない。
徳川軍に致命的な損害があったわけでもなく、予想外に上田城が硬く攻めあぐねていたので、参戦命令を機に徳川軍が撤退した、というのが正確。
結果的に秀忠軍の遅刻は関ヶ原の大勢には影響を与えなかったので、「戦術的には引き分け、戦略的には真田家の敗北」と言ったところか。
ただし近年の研究で、秀忠軍こそ譜代の武将で固められた本当の徳川主力軍であったことが判明しており、彼らが来着せず外様のみで関ヶ原を戦わなければならなかったことは戦後処理にかなりの影響を及ぼしており、政略的には相当大きなダメージになっていた。
もしかすると、真田が曲がりなりにも生き残れたのも、家康が東軍外様大名の声を無視できなくなったためかもしれない。

長谷堂城の戦い(1600)

志村光安・鮭延秀綱(籠城)・最上義光・留守政景(援軍)VS直江兼続(包囲)
関ヶ原の戦いの裏話の一つとも言える戦いで「北の関ヶ原」とも言われる。

出羽国山形の大名最上義光はかねてより上杉氏とは庄内平野での領土問題があり、徳川家康と親睦を深めていたため、家康による上杉景勝討伐が始まると甥の伊達政宗と共に参戦、東北方面の総大将として政宗や南の徳川軍とともに上杉の本拠地会津まで乗り込む手筈となっていたが、上方で西軍が打倒徳川家康を掲げて挙兵すると状況は一変、徳川軍は北関東に結城秀康を残し引き上げ、東北諸将にとっては梯子が外された状態となった。
一方で上杉家内では家宰の直江兼続は追撃戦で関東まで攻め込むよう提案するが、当主景勝は東北という後顧の憂いを残して南進するのは厳しいだろうと考え、江戸攻めは取りやめとなった。
一説にはこの時の上杉家は「伊達・最上らを屈服させ、常陸の佐竹氏をこちらに引き込んだうえで彼らと連合して関東に攻め込む」といった計画を企んでいたともされる。ついでに旧領の越後で国人一揆を扇動している。
これに対し、最上、伊達両家は上杉と和睦しようとし、伊達の方は一時的に成立させるが最上に関しては時間稼ぎであることが看過され、上杉家は最上家侵攻を決意、直江兼続率いる2万5千、庄内方面から3千の兵を最上領に差し向け戦は始まった。

上杉軍が2万を超える軍勢なのに対し最上家が動員できる兵力は7000と明らかに劣勢、義光は兵を分散させず南に兵力を集中させることを決意、そして伊達を含む東北諸将に援軍を要請した。
が、伊達は静観を決め込み、南部氏は領内で"なぜか"一揆が起こり撤退、安東氏は戸沢氏とのいざこざで出陣できず、また自身と因縁のある小野寺義道が西軍で挙兵するなど散々な状況だった。
そうこうして上杉軍は最上領に侵入し、支城の一つ畑谷城を攻撃し、1000人近い死傷者が出るもののたった2日で攻略し城兵を皆殺しにした。更に庄内で最上方が起こした一揆を鎮圧したり、長谷堂城、上山城を除く山形城の支城をことごとく陥落させるなど圧倒的兵力差で快進撃を続けた。ここまでたったの10日前後である。
そして上杉軍は1万8千の軍で志村光安以下城兵1000人が守る長谷堂城を攻撃する。この城は最上の本拠地山形城の南西8キロに位置するという山形城防衛に最も重要な支城であり、これが落ちれば最上はいよいよ山形での最終決戦か上杉に降伏するかしかなくなってしまう。
あまりに兵力差に差がありすぎる状況だが長谷堂城は全長230mの山の上に立ち、さらに城周辺の土地がぬかるみになっているという天然の要害であり山形からの援軍で城に入った酒延秀綱との連携もあり上杉軍の総攻撃を何度も跳ね返したり、時には城から出陣して上杉軍を翻弄する活躍を見せた。
この頃になると伊達政宗も上杉領の切り取り次第の書状や東軍優勢の情報などから積極的に上杉戦線に参戦。最上領に叔父の留守政景ら3千の兵を送り、それに応じて義光も山形から4千の兵で後詰に出陣。上杉軍は攻めにくい状況となり、また長谷堂城の城兵の士気は激増することになった。
それでもなお上杉軍は関東攻めの前哨戦の山形城攻めの更に前哨戦であるこの戦に時間をかけるわけにはいかず再び総攻撃を仕掛けるも焦りは油断。また城兵の反撃を許し主将格の一人上泉泰綱が戦死するほどの損害を出した。
そして戦が始まっておおよそ1か月後には中央にて関ヶ原の戦いにおける西軍が敗北したという情報が伝わることになり、直江兼続はついに撤退。最上・伊達軍の追撃戦が始まった。
義光自ら陣頭に立ち、狭い街道を大軍で逃げざるをえないという状態の上杉軍に果敢に攻めかかり大激戦となるもここは兼続自らが殿を務め奮戦、義光の兜に銃弾が命中するというアクシデントもあり上杉軍は大きな損害を出さずに会津に帰還することになった。この撤退戦には敵である義光も賞賛したという。

その後は最上軍は態勢を整えて庄内方面軍への反撃を開始、あっという間に最上領の奥にまで来ていた敵を降伏させ春を待ち庄内に逆侵攻、短期間で見事に庄内を奪取することに成功。伊達軍は大軍を率いて上杉領に攻めるが福島城の本条繁長を前に苦戦して切り取れたのは2万石分だけだった。なおこの件について政宗は「最上軍が弱すぎて追撃戦しくじったせいで上手く攻められなかった」と愚痴を残している。
上杉家は会津、庄内、佐渡を没収され120万石から米沢30万石という大減法を受けることになってしまった。一方で最上家は家康から大きく評価され57万石の大大名となったのであった。


第二次ウィーン包囲戦(1683)

オーストリア(籠城)・ポーランド(援軍)VSオスマン・トルコ(包囲)
バルカン半島を中心とした東欧の歴史の転換点となった戦い。

バルカン半島のみならず、イラン高原を除く中東・北アフリカを支配していたオスマン・トルコであったが、皇位を継承した皇子以外皆殺しを続けた結果、皇族が激減してしまい、尚且つ皇室と釣り合う家が無くなったので、ハーレムで女奴隷に産ませた皇子を大量育成する政策に舵を切った。
然し、そんな環境では皇室の人材が劣化して行くのも当然であり、内部では退廃が進んでいた。

そんな折、30年戦争で衰弱したライバル・オーストリア=ハプスブルグを叩こうと、フランスのルイ14世は友好国であったオスマン・トルコを扇動。
遂に、1683年の7月にトルコ軍15万が国境を越えてオーストリア領に雪崩れ込み、首都ウィーンを包囲してしまう。
ウィーンの守備隊は1万5000、しかも皇帝レオポルド1世は市民や守備隊を置いて首都を脱出してしまう。
兵力差は1:10。
絶望的な戦いかと思われていたが、包囲されたウィーン守備隊と市民の義勇兵部隊は死に物狂いで抵抗を続け、2か月間、何とか持ちこたえることに成功する。

其処に、北方からポーランド軍3万を主力とする6万5000の援軍が到着する。
其れでも、疲弊したウィーン守備隊を加えてもオスマン・トルコ軍の半数程度。
オスマン・トルコ軍はポーランド軍もこの大軍を前に下手に仕掛けて来ないだろうと踏んでいたのだが…
戦場に到着したポーランド軍は切り札の重騎兵部隊フサリアの波状攻撃でいきなりオスマン・トルコ軍の本陣に殴り込みをかけ、5倍の大軍相手に無双を始める。
ポーランド王・ヤン三世は事前に派遣した先遣隊に付近の地理とオスマン・トルコ軍の布陣を念入りに調べさせ、突撃の最適路を解明していたのである。

オスマン・トルコ軍は予想外のポーランド軍の戦意の高さと強さに僅か1時間で総崩れとなり、ウィーン守備隊と市民の歓呼の中、ポーランド軍はウィーンに入城した。

オスマン・トルコ軍はベオグラードで体勢を立て直そうとするも、軍の再編中に内輪揉めで総大将が処刑されるという失態を犯し、勢いに乗って追撃を掛けて来たオーストリア・ポーランド連合軍に連戦連敗。

結局、オスマン・トルコはハンガリーやトランシルヴァニア等のバルカン半島北部を丸々失う結果となり、東欧の覇権を失う事になってしまった。

イッター城の戦い(1945)

イッター城駐留部隊&アメリカ軍(籠城)VS第17SS装甲擲弾兵師団残党(包囲)
WW2史上最も奇妙にして唯一である複雑なドラマの末にアメリカとドイツが手を組んでの戦いとして知られている。
舞台となったイッター城はオーストリアにある小さな古城で当時は高級収容所として名誉囚人、つまりは高級将校や政治家といった価値の高い囚人を中心に収容していた場所であった。
大戦末期、そのイッター城の実質的な管理者となっていたクルト=ジークフリート・シュラーダーSS大尉は階級章が示す通り、所属こそかの悪名高いSSではあったがとても穏健な人物であり、また既に敗戦を確信していた事もあって部下達と一緒に囚人達と交流を深めながらもNSDAPへの批判も憚らなくなっていた。
そしてシュラーダー大尉の予想していた通り、彼が城に住むようになってから程なくしてベルリンは陥落しヒトラーは自殺。
この情報を入手した大尉はすぐに降伏を決意。部下達も元々そのつもりでいた為に混乱は起きなかった。
しかし城のあるイッター村周辺にはSS装甲師団の中でも最強最悪の一角として悪名を馳せていた第17SS装甲擲弾兵師団の大規模な残党が以前に勝手にやって来た挙げ句我が物顔でのさばっており、堂々と降伏を宣言すれば何をしでかすか分からなかった為、シュラーダー大尉は部下だけでなく囚人達とも話し合いをした上で、雑務担当の囚人の中でチェコヴィッチとクロボットという2人の囚人を選出し、チェコヴィッチにはアメリカ軍宛の、クロボットにはイッター村一帯の本来の管轄部隊の指揮官であるヨーゼフ・ガングル陸軍少佐宛への救援を求めるメッセージを託し、城からの脱走という形で送り出した。

まず先にチェコヴィッチが運良くアメリカ軍第103歩兵師団と接触し、情報を伝える事に成功。
師団のジョン・T・クレイマーズ少佐はただちに部隊を率いてチェコヴィッチの案内の元、救出に向かおうとするも師団の参謀長から部隊が別の部隊の活動区域に侵入していると退去を命じられる。
クレイマーズ少佐は救出対象の中には要人も含まれていると重要性を主張したものの受け入れられず、業を煮やした少佐は部隊そのものは下がらせたものの、自身は命令を無視してチェコヴィッチと部下2人、そして従軍記者2人の計6人だけで城へと向かう。

それから少し遅れて、ヴェルグルという街にいたガングル少佐の下にクロボットが現れ、シュラーダー大尉と囚人達からのメッセージを見せた。
元々このガングル少佐はオーストリアのレジスタンスを裏で支援していた人物であり、何よりシュラーダー大尉とはかつて同じ部隊で死線を潜り抜けた親友同士ということもあって、その彼からの救援要請に二つ返事で応じ部隊の全面降伏を決意。
部下の兵士や同僚の将校達に伝えて了承を得ると、直属の運転手と二人だけで白旗を掲げた車に乗り、アメリカ軍部隊と接触すべくヴェルグルを出発。
偶然にもそのヴェルグルを目指してジョン・C・"ジャック"・リー・ジュニア大尉率いる部隊が進行しており、程無く接触出来たガングル少佐は全面降伏とシュラーダー大尉から預かったメッセージを伝え、ここに漸くこの戦いにおける主役3人が出揃う事になる。

一方で師団残党側にもイッター城の部隊が降伏するという噂が広まっており、SSの掟である「敗北主義者には死を」の言葉に従って攻撃の準備が進められていた…。

まずリー大尉は大隊長にガングル少佐と彼が携えてきた全面降伏とイッター城への救援要請の事を伝えた上で、部下一人と共にガングル少佐の車に同乗してヴェルグルとイッター城の偵察に向かう。
ヴェルグルでは全面降伏を受け入れたが、不穏な動きを見せている師団残党への為に武装解除まではさせず、リー大尉はガングル少佐と彼から紹介された地元のレジスタンスの幹部らと話し合い、翌日にその幹部も伴って城へと向かう。
だがその道がてら、師団残党らが設置したバリケード等の障害物を回避しなければならず、それを見たガングル少佐とリー大尉はあまり時間が残されてないことを悟る。
そしてどうにかイッター村の教会でシュラーダー大尉と合流する事に成功したガングル少佐とリー大尉の一行はシュラーダー大尉の案内で入城。囚人達とも含めてまた話し合いを行い、城では囚人達も徹底抗戦の意志があることと、リー大尉は必ずアメリカ軍の援軍を向かわせる事を約束。
一先ずヴェルグルまで戻るとそこでレジスタンス幹部とも別れた後に、リー大尉とガングル少佐はアメリカ軍の駐留するクーフシュタインという街まで向かう。
リー大尉は城での話し合いの結果をガングル少佐と共に大隊長へ伝え救出部隊の編成を願ったが、大隊からは出せるのは戦車が2両だけでそれ以上は付近を管轄する第36歩兵師団へ要請せよと渋られる。

結局リー大尉は自分と副官がそれぞれ搭乗していた戦車2両、加えて戦車大隊から戦車5両と別の歩兵師団から3個歩兵分隊の提供を要請して何とか救出部隊を編成。
ガングル少佐の部隊も加えて救援に向かうも師団残党が橋を崩落させておく等の妨害工作を行っていた為に、戦車3両と歩兵の一部が進行不可能となって引き返し、またヴェルグルでもレジスタンス側の頼みで更に戦車2両と歩兵の一部を置いていくことになる。
そしてヴェルグルからイッター村へと通じる橋へと差し掛かった所へ丁度バリケードを張ろうとしていた師団残党らと遭遇しこれを撃破するも、念の為と副官の戦車と更に部隊を割くことになってしまう。
城へと辿り着いた頃にはリー大尉とガングル少佐の率いてきた援軍は小規模になってしまっており、囚人達は若干不安がったものの、シュラーダー大尉は戦略でカバーするしかないと宥め作戦を練った。

果たしてリー大尉とガングル少佐の予想通り、師団残党らは援軍が到着した翌日の早朝に攻撃を仕掛けてきた。
これに対してシュラーダー大尉は城の正門前にリー大尉の戦車を配置し、城に備蓄されていた銃火器を全て引っ張り出して全員で城壁から撃ち下ろすもそれでも師団残党の数、装備の質、練度に押され始める。
それでもシュラーダー大尉は何とか電話でヴェルグルのレジスタンスに加勢を願ったり、自ら救援を呼びに行くと志願してきた囚人の1人ボロトラという男を農民に変装させて送り出す等して必死に抵抗の指揮を取るが、次第に残党らが城壁に取り付きだし更には寸前で脱出こそ出来たもののリー大尉の戦車が撃破され、ダメ押しとばかりにガングル少佐も敵からの狙撃により戦死し、絶体絶命のピンチに陥る。

しかしそこへ他部隊に合流を要請して戦力を増やしたクレイマーズ少佐の救援、更にはボロトラが連れてきたあの橋の警備に当たらせていた副官の戦車部隊と途中で合流したアメリカ軍歩兵部隊、加えてレジスタンスの戦力が続々と到着し一気に形勢は逆転。
逆に自身らが包囲される形になった師団残党らは忽ち総崩れとなり、まるでフィクション映画のような逆転劇でイッター城の戦いは防衛側の勝利に終わったのだった。


失敗例

原城の戦い(中国)(前635)

原伯貫(籠城)VS晋の文公(包囲)

「はらじょう」ではなく「げんじょう」、日本・島原の乱ではなく中国・春秋戦国時代のことである。
放浪の末に晋の君主になった文公は、ある時原城(原国の首都)を攻めた。この時文公は「三日だけ攻撃する。三日以内に攻略できなければ、撤退する」と広く布告させた。
晋軍は猛攻を掛けたが、ギリギリで落とせず三日目となり、文公は撤退命令を出した。
しかし晋軍の間諜は原城が限界に近いのを報告し、参謀も文公に留まるよう進言。ところが文公は「これには自分の『信』がかかっている。原を得ても信を失っては、何の意味があろうか」と語り、撤退。
この文公の意思に感激した原城の住民は、なんと領主の原伯貫を無視して城門を開き、文公に降伏してしまった*17
晋の国力などを考えると始めから原側に勝ち目はなく、文公も余裕綽々・手加減プレイだったとはいえ、城郭都市における籠城の難しさ*18がよく分かるエピソード。

ティルス(テュロス)城攻城戦(前332)

ティルス市(籠城)VSマケドニア(包囲・指揮官はアレクサンドロス大王)
マケドニアのアレクサンドロス三世が勃興する中、沖合2キロに浮かぶ島の上の城塞都市であるティルス市(現在のレバノン)が独立を宣言。
示しがつかずマケドニアはティルス市の攻略を図った。
マケドニアは最強クラスの軍を持ってはいたが海戦には向いていない。
徒歩で進軍するための堤防を作ろうとしたがティルス海軍の妨害にあい攻めあぐんだ。

しかし、マケドニアにフェニキア・キプロス・ロードスなどの海軍がついたことで、海軍の勢力が逆転。
ティルス市は勝ち目がないとみて艦隊決戦を避けたが、結果として頼みの海軍が港に封鎖され、堤防は支障なく作られてしまった。
ティルス側は一発逆転を狙って港を封鎖するマケドニアの海軍に奇襲をかけたが、逆に戦力を分散したと判断したマケドニアはこれを機に猛攻。
激しく抵抗したティルス市であったがマケドニアの敵ではなく陥落した。


アレシア攻略戦(前52年)

ウェルキンゲトリクス(籠城)VSガイウス・ユリウス・カエサル(包囲)VSナポレオン・ボナパルト(研究)

ローマ帝国によるガリア(現在のフランス・ベルギー)の支配権を確立させた決戦。
同時にカエサルVSナポレオンと言う時代を超えた英雄同士の対決でもある。
第一回三頭政治でローマで政権奪取したカエサル、クラッスス、ポンペイウスは、先ずはカエサルを執政官に当選させて、ポンペイウス配下の兵士の退職後の土地と職の斡旋・クラッススの主張していた徴税請負人制度の改革を実行した後、カエサルをガリア総督として南ガリアに派遣する。

当時のガリアは多数の部族が分裂していた上に、技術力と組織力でローマに劣勢に陥り、尚且つ東からのゲルマン系諸部族の圧迫に苦しみ、ローマに対して独立を主張する勢力と恭順を主張する勢力に割れて、その隙を突く形でカエサルは急速にガリアを制圧。
地の利と騎兵戦術を活用したエブロネス王のアンビオリクスの様にローマの大軍相手に勝利する例も有ったものの、組織力に劣るガリア側は各個撃破されていき、アンビオリクスも遂に領土を失ってゲルマニアに亡命してしまう。

しかし、ローマ本国でカエサル唯一の嫡出子であるポンペイウス夫人ユリアが難産の末に子供諸共に死亡し、中東戦線でクラッススが戦死した事でローマにおけるカエサルの立場が悪化。
此処がガリア最後の独立のチャンスと見たローマのガリア人部将であるウェルキンゲトリクスがガリア全土を扇動して大蜂起させてしまう。
当初、ウェルキンゲトリクスは焦土作戦とアンビオリクス得意の騎兵戦術でローマに対抗しようとしたが、「自分達の住む場所まで燃やし尽くしてどうやって生活するんだ?」と言う周囲からのツッコミで焦土作戦が不徹底に終わった事でカエサルの逆襲を許してしまう。
其れでもガリア軍のゲリラ戦術に手を焼いたカエサルは一旦、現在の北イタリアに撤退して兵力の再編を狙うが、ウェルキンゲトリクスが8万の兵力で追撃を開始。
が、此処で集結していたローマ軍7万に返り討ちに遭って敗残兵はアレシアに逃げ込む羽目になる。
ウェルキンゲトリクスは戦力にならないアレシアの女子供を敵前に放り出して籠城を行い、カエサルは其れを包囲。
ガリア全土から集まった26万人もの援軍を返り討ちにして遂にウェルキンゲトリクスを捕虜にした。

…と言うのがガリア戦記の概要だが、この本とアレシア周辺の地理を研究して異論を唱えたのはナポレオン。
大まかな戦いの流れは否定しなかったものの、「ガリア全土の人口が400万人程度の時代に組織力や交通インフラが整っていない状況で20万人を超える援軍を集中させる事は無理。多く見積もってもローマ軍7万と大差無い7~8万人が限界」とガリア側の人数を真っ向から否定した。
ナポレオン自身がプロイセン王国との決戦である1806年のイエナの会戦に動員した兵力が20万人であり、師団制度の整備やナポレオン金貨の採用による現地買い付けの効率化、そしてカエサル時代とは段違いに増えた人口を持って漸く編成出来た数であり、其れでも軍を3つに分けて分散進撃させざるを得なかったという人数である。
現在ではナポレオン説の方が信憑性が有ると考えられている。


易京城の戦い(199)

公孫瓚(籠城)VS袁紹(包囲)
三国志の一戦。詳細は公孫瓚の項目を参照。
これ以前に同じ組み合わせで「故安城」という城での籠城戦もあったが、そちらは公孫瓚が大勝している。
易京城は非常に堅固で食料も大量にあり、最初は袁紹軍も一年間落とせないまま包囲側の食糧が尽き、そこを突いた公孫軍に大敗した。

しかしその後の長期戦で、公孫瓚は「女か子供しか近づけない」「助けを求める部下を『死力を出させるため』に見捨てて他の部下達に不信感を抱かれる」など異常行動を見せる。
さらに袁紹軍の背後を突くよう依頼した張燕への使者が捕まり、増援が断たれるどころか、「狼煙を合図に挟み撃ち」という作戦計画を逆に利用され、嘘の狼煙で城外につり出され、出撃した公孫軍が壊滅。
最終的に袁紹軍が「地下から穴を掘って壁を崩す」という作戦で乗り込むと、部下たちは次々と降伏して易京城は陥落、公孫瓚は自刃した。

鄴城の戦い(204)

審配(籠城)VS曹操(包囲)
秦・中華無双と化した前236年の鄴の戦いもあるがこちらは三国志時代の方。
河北の雄・袁紹死後、袁家は後継争いで内部分裂。その隙を狙って曹操が河北最大級の都市である鄴城を攻め落とそうとした。
袁家に昔日の力はなく、次から次へと内応者が出る絶望的な戦いとなったが、守将の審配は粘りに粘った。

同僚・蘇由が寝返り計画をしていたが開戦前に察知、開き直った蘇由と市街戦を展開するがこれを撃退。
更に部下の馮礼が城門を開いて曹操軍を迎え入れてしまったが、事前に察知すると故意に引き入れて城内に入った曹操軍を全滅させた。

手強いと見た曹操は城に水攻めを敢行*19、城内は過半数が餓死する惨状となる。
危機を聞きつけた主君の袁尚が援軍に来たがそちらも散々に破れ、袁紹の遺品が曹操の手に落ち、見せびらかされるという神経戦までされた。
そして籠城半年、審配の甥審栄が内応して城門を開いたことで城は陥落したが、それでも審配は疲労困憊の兵を率いて市街戦で激しく抵抗した。

審配の抗戦を見て曹操は感服、降伏して自身に仕えるよう勧めたが、審配は頑として首を縦に振らず処刑された。
審配は袁家の後継争いの振舞いは佞臣と言ってもいいものだったのだが、この籠城戦の奮戦だけで後世にそれなりに評価されるようになった。

コンスタンティノープル攻城戦(1452)

東ローマ帝国(籠城)VSオスマントルコ(包囲)

ある種のネタ的な意味合いで有名になっている籠城戦。

4世紀から続いていた東ローマ帝国は15世紀中ごろには完全に衰退しており、首都コンスタンティノープル*20周辺しか領土がなくなっていた。
しかしながら過去に何度も敵軍を跳ね返してきた三重壁を筆頭に、首都コンスタンティノープルの堅固さは健在。
オスマン帝国が攻め寄せた際にも7000の兵で10倍以上のオスマン帝国軍を相手におよそ50日にわたる果敢な防衛戦を展開していた。
欧州各国からわずかながらも集まった者たちによる加勢もあった。

最後の日。
オスマン帝国軍の総攻撃に城壁が一部崩れたが、なおも東ローマ軍は殺到したオスマン帝国軍を押し返していた。
ところが…

「あっ、この城門カギ閉めてねーぞ!!」

ケルコポルタと呼ばれる小さな門でまさかのカギの閉め忘れ。
これがオスマン帝国軍に発覚し、そこから城内に侵入されてしまっては兵力に劣る東ローマ帝国には打つ手がなかった。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は、敗北を悟ると皇帝の衣服を脱ぎ捨てて少数の部下と共に敵中に特攻した*21と伝わっている。
遅かれ早かれであったとはいえ、1000年を超える歴史を誇る東ローマ帝国はカギの閉め忘れで滅んだのである。

なお今日ではケルコポルタの名は役立たず、能無し等を意味するスラングとして残っている。
残当とか言わない

第三次長島城攻略戦(1574)

本願寺(籠城)VS織田信長(包囲)
信長の畿内への勢力拡大に危機感を抱いた本願寺顕如は信長の排除をもくろんだ足利義昭の暗躍もあり信長包囲網に参加することを決意。婚姻関係のあった武田信玄*22や各地の一向宗に激を飛ばし連携して織田・徳川連合軍と激戦を繰り広げる。そういった本願寺の拠点のひとつが木曽三川が伊勢湾に流れ込むデルタ地帯にある願証寺で湾に浮かぶ島にある長島城や大鳥居城や篠橋城や屋長島城や中江城がゲリラ拠点となっていた。

だが、第二次長島侵攻までが不完全に終わった信長は周辺の船主の中で一向宗に与する者を徹底排除し船を悉く徴収することで一向宗側の補給網を寸断。
こうして過去の反省を踏まえて展開した第三次侵攻は、諸島にある長島側の支城の連携を寸断し兵糧攻めにしてまずは大鳥居城を制圧。
篠橋城の部隊は偽りの降伏を申し出て本丸長島城に合流しようと目論んだが、逆に信長は『寧ろ兵士や非戦闘員を一か所に集めて包囲し兵糧の消耗を促進させ飢えさせたほうが効果的』と見抜き、あえて長島城に誘導したことで一気に
兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、総司令官の首を条件に降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。これに怒った一揆衆800余が、織田軍の手薄な箇所に破れかぶれの特攻をし、虚を突かれた織田信広等が討ち死にたためその綻びから一部は石山城への脱出に成功するも、そのほかは皆殺しにされた。
一説によると本願寺側は同盟勢力の武田に援軍を出して徳川を圧迫し織田を揺さぶるよう要請したそうだが、経済政策を進めて四六時中動ける織田やいざとなれば織田からの補填が期待できる徳川と違い、農繁期には兵を出せない武田にはどうすることもできなかった。

こうして長島は織田に完全掌握され、後方の憂いをなくした信長はそれまで高天神城を手放す羽目になるなど当時隆盛していた武田勝頼の攻勢に耐えに耐えていた徳川家康を援護できるようになり、上述の長篠の戦いで武田軍を完膚なまでに叩きのめしたのであった。

一方で、兵糧攻めやその後の苛烈な処遇から”織田信長の残虐性を如実に示した戦い”とも後世からは認識されている。

七尾城攻略戦&手取川の戦い(1576)

畠山春王丸・長続連(籠城)柴田勝家(援軍)VS上杉謙信(包囲)遊佐続光(内応)
長篠の戦の跡に越前に侵攻し一向一揆を殲滅したため国境を接することになり危機感を抱いた上杉謙信は、それまで同盟していた織田信長と手を切り一向一揆側に同盟する。そうした情勢の中で両社の激突の舞台となったのが能登畠山家の居城七尾城である。
とはいってもこのころの畠山家は長家や遊佐家といった有力国人の傀儡状態で、実質的には親織田の長氏と親上杉の遊佐氏の争いといってよかった。

長続連の指導の下で周囲の勢力も謙信に立ち向かわせ果敢に抵抗した畠山だったが、謙信は着実に周囲の抵抗勢力を潰し籠城側を圧迫した上に、悪いことに七尾城に疫病が蔓延し幼君春王丸をはじめとして病死者が続出。これを好機と見た遊佐続光らは内応し城内にいた長一族を皆殺しにして城門を開けて上杉軍を招き入れた。

が、謙信はこれを偽装し援軍に来た柴田勝家をおびき寄せ手取川を渡らせてしまう。そして援護失敗で士気が低下し雨で増水して退却が難しくなった時を見計らって強襲して柴田を敗走させたのが手取川の戦いである。

こうしていったんは上杉のものとなった能登だが、謙信の急死後の後継者争いである御館の乱が勃発し上杉が弱体化。織田側はそのすきをついて逆襲し能登を奪還した。信長との連絡役を受け持ったため生き延びていた長連龍*23は遊佐一族を滅ぼし前田利家の配下となった。

第二次鳥取城攻略戦(1581)

吉川経家(籠城)VS羽柴秀吉(包囲)

歴史上稀に見る凄惨な兵糧攻めのエピソードで知られる籠城戦。
別名、 鳥取の飢え殺し ゆるキャラには向かない
ちなみに秀吉はこれ以前にも三木城で同様に兵糧攻めをやっている(三木の干殺し)。
時間的余裕があるなら、急いで功を焦らず安全・兵の温存策を取るという秀吉の方針が見て取れる。
またこの時点では秀吉が一方面軍の大将に過ぎなかったため、長期間の攻城戦をしても戦略的な損害は大きくなかった点も重要である。
とはいえ、三木城を落とすのに2年もかかったことの反省からか、鳥取城の兵糧攻めはより周到な計画が立てられた。

1581年に2万の軍勢で鳥取城を包囲した秀吉は、無理に攻めかかることはせず、まず鳥取城への物資の流入ルートを完全に断ち切ることを選択。
毛利勢がと河川から兵糧を運搬することを見越して、河口にも兵を配備した。
折り悪く鳥取城では米の不作による米価の高騰から、多くの米を鉄砲などに換えてしまっており、食料の備蓄が非常に少ない状態だった。
この辺りの情報も秀吉は掴んでいたと思われ、あらかじめ因幡国に商船を送り込み米を高値で買い占めさせて、城が備蓄をできなくなるよう手を回していた。

そして秀吉はとにかく「嫌がらせ」に徹する。昼夜問わない鉄砲での攻撃、絶え間ない威力偵察。
周辺の村を襲撃し、村人たちを城に避難させることで兵糧の消耗を加速させた。
元々乏しい食料は一月ほどであっという間に尽き、遂には 人肉食 までもが城内で発生するように。
籠城側は頑張って頑張ってこの地獄絵図を 4か月 も耐えきったが、遂に降伏。
経家に対しては抗戦継続派の家臣らの切腹で済ませ、経家自身は敵将とは言え秀吉と信長の二人からその能力を高く評価されており、軍門に降る事で許そうとしたものの経家は 「それでは死んだ者達に顔向け出来ない」 と言って頑なに拒否。
最終的にはその才能を惜しんだ秀吉が自ら説得するも考えを変える事は出来ず、困り果てた末に信長に相談すると信長も渋々ながら経家の切腹を了承し、それに以って城内の兵の命を救うことを約束。
そして切腹後、介錯を受けたその首は丁寧に整えられた上で秀吉の元に送られ、それを検分した秀吉はその死を惜しむあまり 「哀れなる義士かな…!」 と号泣したという。
その後首は信長の元にも送られ、信長もまたその死をとても惜しみせめてもの詫びとして、自らの手で丁重に葬った。
だが、城門を開いた瞬間、飢えた兵が食料に飛びつき、 急いで大量の食事を詰め込んだせいでせっかく生き延びた多くの兵が死んでしまった という、経家にとっては何とも報われない結果になってしまった……*24


備中高松城攻略戦(1582)

清水宗治(籠城)VS羽柴秀吉(包囲)
三木城、鳥取城と並ぶ秀吉三大攻城戦の一つ。
秀吉は堅固で名高い高松城に対し、二度強行突破を試みたがいずれも失敗に終わる。
さらに毛利側への援軍の情報を掴んだ秀吉は、対抗するために信長に援軍を要請。それは了承されるも、信長は同時に「一刻も早い高松城の攻略」を命じる。
せっかちで知られる信長の到着を前に悠長に兵糧攻めなどしていられなくなった秀吉は、黒田考高(後の官兵衛)の具申を元に水攻めを決定。
足守川の周囲に3~4kmの堤防を築き、川の水を高松城に流し込む大規模な作戦を決行した。折しも梅雨時ということもあり、あっという間に高松城は浸水
(これには異説もあり、もともと高松城近辺は窪地で水はけが悪く南方もわずかな部分を除いて自然の土手があったため蛙ケ鼻という場所を300mほど埋め立ててしい上流から水を流し込んでしまえば付近一帯を水没できたという説もある。)
後詰めとして駆け付けた毛利輝元らの軍勢も、足守川を無理に渡れば退路を断たれた状態で高所から羽柴側に責められるという背水の陣状態となってしまうため高松城に入城できない有様であった。

しかし、高松城の降伏も時間の問題と思われたその時、世紀の大事件「本能寺の変」が勃発
「信長死す」の報を毛利軍に伝えようとした伝令を間一髪のところで捕縛した羽柴軍は、
「もはや信長・光秀の援軍はない」という事実を必死に隠したまま毛利軍と講和を結び瞬く間に軍を撤収。光秀との決戦に備え、京都に引き返したのであった。
俗に言う「中国大返し」である。

「戦術としては秀吉の完勝だが、戦略的には非常に危ういところだった」という戦い。
仮に信長の死が先に毛利軍に伝わっていたら、間違いなく講和を結ぶことは叶わず、あれほど早くに秀吉が光秀との決戦に臨むこともできなかったであろう。
そういう意味では歴史の奥深さがよくわかる一幕である。


小田原征伐(1590)

北条氏政・氏直(籠城)VS豊臣秀吉(包囲)

秀吉は後北条氏に対し服属を迫っていたが、最終的には決裂して戦争となった。
北条氏は戦争を踏まえ徴兵をし、領国の関東のあちこちに支城を建てるなどの対策を取っており、準備は十分であった。
しかも本城の小田原城は日本では他に類を見ない、都市ごと城壁の中の城郭都市。兵糧も数年分あった。
過去にはあの長尾景虎や武田信玄といった武将らから守り抜いたという実績もある。
籠城している間に東北の伊達政宗が援軍に来ればこちらの勝ち…と北条方は読んでいた。

だが、小田原城の攻城戦は僅かに3か月で、北条氏は投降してしまった。
食料も城壁もまだ問題はない状況下で北条氏が投降したのは、「人心」であった。

①北条方は投降か籠城継続かで会議が全くまとまらない。(紛糾する会議を指す「小田原評定」の語源である)
②北条方の支城が次々落城の報が入る上、降参した北条方の有力武将が次々豊臣方に情報をリーク。
③伊達政宗は豊臣方についた。
④秀吉は一夜で石垣山城を建て*25温泉旅行に行くわ妻子を呼ぶわとやりたい放題。
⑤小田原城は徴兵していたとはいえ農民などを急ごしらえした兵が多く、戦意をなくしやすい。

こんな状況下で、氏政の母と後妻は自殺、有力武将が徳川家康らによる開城交渉に屈して次々勝手に降参。
小田原城そのものにはまるで傷のない状態で籠城戦が終わってしまった。
精神論だけで戦争に勝てるはずはないが、精神的な支えをなくしても籠城戦は続かないのである。
落城寸前に陥りながら、精神力で数日の籠城を持たせた長篠城攻城戦とは対照的とも言えよう。


九戸城の戦い(1591)

九戸政実(籠城)VS蒲生氏郷・南部信直(包囲)

豊臣秀吉の天下統一最後の戦といえば一般的には「小田原征伐」とされるが、その後にも日本で秀吉に反抗する戦はいくつかあった。そのうちの一つがこの「九戸政実の乱」である。

九戸政実は陸奥国最北部を治める南部氏の一族の一つであったが、弟の実親が石川氏出身の南部信直に事前に南部一族を懐柔するという強硬策によって後継者争いで敗れたことによって不満を募らせ、ついには自身こそが南部家の正当な当主であると自称するようになっていた。
しかし豊臣秀吉が小田原征伐をやりつつ東北地方の武将の臣従を求める活動を行い、そこに信直が参陣したことで南部信直が明確に大名として公認。その他の南部一族は独立を認められず信直の家臣となることとなった。
それが我慢ならなかった政実はついに挙兵を決意。信直派の将の襲撃を始めたことで「九戸政実の乱」は始まった。
なお、この頃の奥州には同じく豊臣政権の奥州への裁定に不満を持つものが「大崎・葛西一揆」「和賀稗貫一揆」などを起こした。

政実は先代の南部晴政の代に大活躍した猛将。序盤の南部氏の内での戦にはまず優位に立つ。
しかしこの乱を含む東北地方で起こった反乱を鎮めるために豊臣政権は総大将に後継者豊臣秀次を派遣。
更に東北諸将、蒲生氏郷や浅野長政などの現地にいた豊臣勢、徳川・前田・上杉・佐竹など関東や北陸の諸将という東日本オールスターともいえる将たちが参戦することになった。
そうなると各地の一揆はつぎつぎと鎮圧されることになり、政実も支城を次々と落とされついには自身の居城九戸城に5000人で籠城することになった。豊臣軍の総勢はおおよそ6万人。あまりにも多勢に無勢である。
だが意外にも九戸勢は崖や川を使った城の天然の要害も活かしてかなり善戦。城兵が半分近く討ち取られてもなお抵抗を続けて豊臣軍の攻撃を何度か跳ね返し続けた。
そこで豊臣軍は一計を案じ、地元の僧に依頼して九戸勢に城兵開放や助命を条件に降伏勧告を行った。少々怪しい気もするが政実の方もこれを承諾し家臣と共に城を降りる。
だが豊臣軍はなんとこの約束を反故。再び城を包囲して城兵を二の丸に押し込め攻撃を開始、城兵は皆殺しとなった。
政実の方も秀次のもとに送り届けられたあと普通に処刑され、この乱は収束した。
少し汚い気もするが豊臣方としては奥州の武将への見せしめにしたかったのだったの考えられる。
なお九戸城はその後改修され、南部信直のものとなり、これからは南に向けるべきという豊臣家からの助言により(おそらくへの牽制)1598年に盛岡城ができるまで南部氏の居城となった。自身の居城が怨敵の拠点になってしまった政実の気持ちはいかに。
ちなみに同じく南部氏に反旗を翻していた津軽地方の大浦為信は、南部氏よりも早く豊臣家に臣従することで領地を確約されるなど、政実と違い強かに立ち回った結果津軽の弘前藩として生き残った。
そんな為信が謀反に成功した要因の一つが、政実がたびたび不穏な動きを見せたことで南部家の対処が後手に回ったことにあり、これに為信なりに恩義を感じていたらしく、政実の遺児を密かに落ち延びさせたという伝承が残っている。


岐阜城の戦い(1600)

織田秀信(籠城)VS福島正則・池田輝政(包囲)

関ヶ原の戦いの前哨戦の一つであり、本戦の戦局を大きく変えることになった戦い。

徳川家康が会津の上杉景勝の討伐を行おうとしている途中に上方(近畿)で石田三成、毛利輝元、宇喜多秀家などが反徳川家康で挙兵したことにより始まった西軍と東軍の戦いであるが、美濃国では大垣城に石田三成が入城し、美濃の多くの諸将を味方に入れるなど西軍優位の状態となる。
その西軍に味方した将の一人が、岐阜城13万石の大名であるあの織田信長の嫡孫・織田秀信、清州会議において出てきた「三法師」という名前が有名だろうか。
彼は紆余曲折を経て元信長の居城である岐阜城の城主となっていたが、織田家を更に盛り立てたいという野心があったようで西軍から美濃・尾張といった織田家にまつわる二国を持ち掛けられたことで西軍に与することを決定。
一方で東海道はというと、尾張の福島正則を始めとする豊臣系の武将が全員東軍として挙兵し、4万近い軍勢で尾張国清州城に入城、ここに美濃尾張国境の木曽川が西軍と東軍の勢力の境界となることが確定し、岐阜城の戦いが始まる。

家康から「先に出陣して忠誠心を見せてくれないと自分は出陣できない(意訳)」と言われた諸将は木曽川を渡ることを決意、豊臣系武将のリーダー格である福島正則と岐阜城の城主を務めた経験があり徳川家と婚姻関係である池田輝政の2名が大将格として部隊を分かれ美濃に進軍。
織田勢単体では多勢に無勢であるため織田家中では籠城するべきという意見が出るが秀信は「戦わないうちから籠城するのは武士の恥」とし、まるで桶狭間の戦いにおける祖父のように野戦にできることを決意。
とはいえ確かに岐阜城は険しい山の上に立った堅城ではあるが
・あまりに斜面すぎて大軍を収容できない
・水の確保が雨頼りで安定しない
・曲輪が狭すぎて敵の大軍に攻められたら防ぎきれない
といったデメリットを抱えているため討って出るのは悪くない。そもそも支城との連携や木曽川を利用した防衛ラインの構築こそ岐阜城の持ち味である。
しかし、ただでさえ敵と比べて小勢である上に敵が木曽川のどこから渡ってくるのかわからないので広く浅く布陣するという上記の守備側が野戦を行うことによるデメリットがもろに刺さる形になり、結局東軍には渡河されたうえで支城の竹ヶ鼻城を落とされることになり、自身も米野の戦いで池田輝政相手に敗戦。西軍側の大垣城と犬山城に援軍を要請しつつ岐阜城に敗走して籠城の構えをとった。
だが、犬山城は既に東軍の調略がかかっており、大垣城からの援軍は黒田長政や藤堂高虎らによりあっさり撃退、援軍は来なかった。
そうして始まった城攻めだが先の敗戦の影響もあり岐阜城はそれなりに抵抗するもののあっという間に総構えを落とされ、次々に砦を突破されることになった。
特に元岐阜城主の池田輝政は城の構造を熟知していることによって、非常に急峻だが最短距離である水手口をあっさり突破し本丸に一番乗りすることになった。
敗戦を悟った織田秀信は家臣全員に感状をしたためた*26あと自害しようとしたが福島正則が助命するからと説得し岐阜城は開城。こうしてかつては織田信長の居城でもあった堅城岐阜城はたった一日で落城することになった。

この結果は西軍はもちろん徳川家康にも予想外だったようで、元々は信濃を進む秀忠が合流してから城を落とす→自分が出陣する。という流れを想定していたがこの結果を受け、豊臣勢だけで西軍に勝ってしまって徳川勢のメンツが落ちることを恐れ、秀忠に急いで美濃に向かうよう指示しつつ自身も江戸からものすごい速さで西上することになった。
一方西軍としても本来は東軍が膠着状態になっている間に中央を抑えきり、上杉と共に挟撃することを想定していたが、この敗戦によって戦略を大幅に転換することとなった。
その後は美濃国内で福束城の戦いや郡上八幡城の戦いにも負けるなど後手後手になり、徳川家康の美濃着陣と小早川秀秋の松尾山占拠によって一気に関ヶ原の戦い本戦が幕を開けることになったのだった。その後の結果は知っての通り。
大げさに言ってしまえば、この岐阜城の戦いは関ヶ原の戦いの勝敗そのものを決定づけるものになった。と言えるかもしれない。


大坂冬の陣&夏の陣(1614・1615)

豊臣秀頼・淀殿(籠城)VS徳川家康(包囲)

家康と事を構えるにあたり、真田信繁(幸村)らは元より援軍のない戦いであることを踏まえ、出撃して勝利することで、家康に従う元豊臣恩顧の大名の寝返りを期待する戦略を主張。
これに対して豊臣家の宿老たちは大坂城の堅固さをあてにした籠城戦を主張。

結局籠城戦となった。
大坂方の兵力は元々幕府より寡兵の上、浪人が主で組織だった兵運用が難しかったと思われ、出撃野戦はあまりにもリスクが大きいという判断は、割と妥当である。

大坂城の堅固さ、真田丸における真田信繁らの奮戦と相まって家康も攻めあぐね大坂方と講和する。
短期的な籠城戦として見れば一応は成功した籠城戦であると言える。

だが、この講和の際に大坂城はその堅固さを支えていた堀を埋められ、大坂城の堅固さは大幅に低下。
翌年に夏の陣で大坂方は籠城不能と見て寡兵での出撃野戦を挑まざるを得ず、数日で皆殺し、大坂城も炎上・落城となった。
その後家康による徹底的な残党狩り(藩によって協力度合いは異なるが)も行われて豊臣家の勢力は滅亡。
堀を埋めたのは家康の罠とする説と最初から講和条件であったとする説があるが、長い目で見れば外交戦まで用いた攻城側の勝利と言える。


原城の戦い(1637)

天草四郎(籠城)VS松平信綱(包囲)
島原の乱最後の戦いである籠城戦。
島原藩兵を追い込んだ一揆軍であったが、幕府からの援軍が来たことで籠城戦を選択。
海に突き出した城である原城は本来幕府の一国一城令で廃城となっていたが、十分に破壊されていなかったことに目をつけた一揆軍が立てこもり、幕府軍に抵抗した。

一揆軍の期待は、多くの宣教師を派遣していたポルトガルからの援軍であり、士気は非常に高かった。
第一次攻城軍の板倉重昌は、外様揃いで反抗心の強い九州の諸大名を統率しきれず、堅固な作りである原城を攻めあぐねていた。
業を煮やした幕府は、老中松平信綱の派遣を決定*27。立場を脅かされた重昌は、統率しきれない軍勢を率いての総攻撃という愚策に走ってしまい、戦死する。

跡を継いだ信綱は重昌の前例を重く見て、陸と海からの完全包囲による兵糧攻めに作戦を切り替える。
さらに、当時ポルトガルと貿易の利権をめぐって対立していたオランダに援護砲撃を要請。オランダもこれに応じる。
なおこの時オランダは本国でいわゆる三十年戦争の真っ最中である。ある意味プロテスタントVSカトリックの対立構造もあると言えるかもしれない。
だが、これは「国内の反乱に外国の手を借りるとは何事か!」という幕府内からの反対意見もあってすぐに中止になった。
しかし「ポルトガルからの救援」に期待を寄せていた籠城側への心理的ダメージは極めて大きかった。
その他、「苛政で一揆を起こしたのか?投降すれば税を安くする」「無理にキリシタンにされたなら助ける」などと矢文を打ち込み、内側の切り崩しを狙った。
「一揆」という性質もあって多くの非戦闘員を抱えていた原城は瞬く間に備蓄が尽き、海に面した部分に流れつく海藻などを食べてしのぐばかりとなる。

幕府軍としては、長期化すると九州各地のキリシタンや幕府に好意的でない外様大名が乱に乗じる危険を考え焦っていた。
そして、食料を求めて城外に出てきた一揆勢の 腹を切り裂き まともな食料がほとんど残っていないことを知った幕府軍は総攻撃で城を落とすことを決定。
幕府軍の一部の部隊が抜け駆けをしてやむなく総攻撃を繰り上げるという締まらない事態も発生したが、弾薬も尽きた一揆勢にはまともな反撃も叶わず、原城はあっさりと落城。

籠城軍は女子供などの非戦闘員を含めてほぼ全員が皆殺しになり、生き残りは元々幕府軍と通じていた南蛮絵師一人であったとされる。
ただ、脱出者や見逃された者はそれなりにおり、幕府が禁教政策を採るにあたって誇張されたのではないかという説もある。元々一揆軍には迫られてイヤイヤ参加している者も少なくなく、陥落前から降伏者がちょいちょい出ていたようだ。

また、原城の廃城が十分でなかったために籠城されて手こずったことから、この乱以降一国一城令による城の破壊がより念入りに求められることになった。

第一次旅順攻囲戦(1894)

清軍(籠城)VS大日本帝国(攻撃)

籠城戦よりも戦闘後が問題になった例。
旅順要塞はその重要な軍港・要塞とされていたが、清側があまりにふがいなさ過ぎたためわずか一日で戦意をなくして敗走し日本側の勝利に終わった

しかし、此処で、アメリカの新聞社『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン特派員が「日本軍が女子供を含む旅順市民6万人を虐殺して肉を切り刻んだ」とセンセーショナルな報道を行って大騒ぎになる。
一方の日本軍は捕虜にした清国の役人に確認を取りつつ調査した結果、便衣兵(民間人に偽装した兵士)と便衣兵の攻撃や清軍の残虐行為に逆上して暴れ出した日本兵の攻撃を受けた民間人を合わせて多く見積もって1600人と真っ向から反論。
結局、永世中立国であった駐日ベルギー公使館が調査を行い、ダネタン公使が「攻囲戦の数日前に女性や子供は避難しており、殺されたのは主に便衣兵であった」「日本軍はジュネーブ条約を尊重していた」「ニューヨーク・ワールドの記事は多分に誇張されたもの」と結論付けた事で漸く鎮静化した。
日本側はベルギーの公正な調査で救われた事に恩義を感じており、後にベルギーが第一次世界大戦で中立侵犯を犯したドイツ帝国に攻められて国家存亡の危機に陥った際には巨額の軍資金と義援金を送って瀕死のベルギー軍と戦災被害者を支えている。


第二次旅順攻囲戦(1904)

ロシア(籠城)VS大日本帝国(攻撃)

日露戦争最大級の激戦の一つ。
日清戦争の後、旅順要塞は1895年に清から租借したロシアによって世界最強クラスの要塞に強化されていた。

総司令官のクロパトキンの退却戦術が裏目に出て鴨緑江をあっさりと突破した*28日本軍は乃木希典大将率いる第三軍を遼東半島に向かわせて旅順要塞守備軍をロシア極東方面軍主力と分断。
当初は、抑えの兵を置いておけば無害化出来ると踏んでいたが、強力な艦隊が居る上に、バルト海から回航されて来るバルチック艦隊と合流されれば日本艦隊の2倍近い戦力になるので、各個撃破する必要を海軍から指摘される。
機雷戦で旅順艦隊司令官マカロフ中将を葬り、1904年8月10日の黄海海戦ではその後任のヴィトゲフト少将を倒して旗艦ツェサレーヴィチを大破させて中立国に逃走させる事に成功するが、戦艦レトヴィザンを中心とした太平洋艦隊主力は旅順に逃げ込んでしまう*29

結局、日本軍10万VSロシア軍5万の旅順要塞でのガチの決戦が始まった。
ロシア軍は要塞前司令官で関東州司令官のステッセリ中将と要塞司令官スミルノフ中将が権限争いをすると言う問題を抱えつつも、ステッセリ中将は工兵少将のコンドラチェンコを起用して防衛線を強化。
ロシア軍が機関銃で日本軍歩兵を掃射したかと思えば、日本軍は本来要塞設置用の対艦砲である28cm榴弾砲でロシア軍陣地を蹂躙すると近代兵器の猛威を振るい合った。

結局、両軍共に1万5000人以上の死者と3万人を超える負傷兵を出す激戦となったが、ロシア側は203高地からの観測で艦隊を壊滅に追い込まれ、実戦を主導していたコンドラチェンコ少将が戦死し、更に要塞の東北方面を奪取されてしまう。
この時点で弾薬と穀物はかなり残っていたが、野菜を中心とした生鮮食品と医薬品の欠乏は深刻であり、尚且つ其れまでの激戦で何とか動けるのは1万人強で負傷や病気で動けなくなった3万人を超える重傷者・重病者を抱えては*30もう抗戦不能と遂にステッセリ中将は投降した。

この戦いでは上述の通り日本海軍も長期間の拘束を強いられたが、ロシア帝国が事態の打開を図るべく増援として派遣したバルチック艦隊は、日本の同盟国のイギリスの横やりと艦隊そのものの運営のまずさで大幅に行程が延び*31、ようやくたどり着いたころには日本艦隊は損耗を修復し終えておりウラジオストクへの進路を読まれて行軍を阻まれ、東郷平八郎率いる日本海軍に日本海海戦で惨敗し、この敗戦でロシアの厭戦空気が限界に達して戦争の趨勢が決定してしまった。

+ 第二次旅順攻囲戦の日露司令官に関する余談
この戦い、日露両軍でロシア側、特に司令官ステッセリ中将の評価がかなり異なる。
日本側は自軍に大損害が出た点と重傷者・重病人で溢れ返る旅順要塞内の惨状を多くの人間が目撃した事で、ステッセリは良く健闘した方だと評価した。
一方ロシア側ではステッセリが旅順で負けたのが日露戦争の敗因だと彼を糾弾する声が要塞司令官のスミルノフ中将を始めとした面々から出ており、長らく愚将扱いされていた。
尤もこれは上述の通りクロパトキンが戦力の消耗を嫌い後退しすぎたため、あっというまに乃木軍が旅順にたどり着いてしまい、更にはほぼ無傷の師団をいくつも保持しながら碌に援護に回らずステッセリたちを孤立させてしまったという作戦ミスの面も大きい。
後述のようにクロパトキンは奉天会戦でも敵の猛攻で判断を見誤り”退却将軍”という不名誉なあだ名通りに後退して敗北している。

一方の乃木のほうも黒木為楨がクロパトキンの退却癖も相乗しての連戦連勝で快進撃をしたことの反動も相まって自宅に石を投げられるほどの批判を浴びるも、攻略後は水師営の会見での互いの健闘ぶりを称えあう武人ぶりから世間からも評価が変わっていった。
司馬遼太郎のように無能論を主張する者もいたが「乃木は当時の要塞戦で必要なことは一通りやっており後の第一次世界大戦でも手探り状態だったから批判するのは後知恵でアンフェアだ」「苦戦したのは大本営の旅順の情報が不十分だったこともあるし、のちの奉天会戦ではMVPだった」と現在は名将であるという意見が定着しつつある。
とはいえ攻略はしたものの自身の息子を含め自軍に多大な戦死者を出したことは彼に自責の念を抱かせるものであったことは確かであり、のちに責任を取って自刃したいという旨を明治天皇に伝えた際に「今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」と思いとどまらせたようだ。

戦後、一度は死刑判決を受けたステッセリだったが、乃木を始めとする面々からの助命嘆願で命を拾い、余生を旅順戦で親を失った孤児4人の養父として過ごした。一方のクロパトキンは満州軍総司令官をはく奪され降格された以外はとくに処罰されず、帝政ロシア崩壊まで将官を務めた後退役して生き延びている

奉天会戦(1905)

ロシア(籠城)VS大日本帝国(攻撃)

籠城と言う戦術を逆用した戦闘の好例。

奉天に集結したロシア軍36万人に対して、日本軍24万人が攻撃を開始。

ロシア軍は迎撃準備を十分に整えており、数でも優る優位な体勢を築いており、尚且つ後退しても次の防衛線を用意している状況であった。

正面で第一軍を主力とした日本軍とロシア軍が四つに組み合っている状況で、日本軍司令部は西側に布陣した乃木希典率いる第三軍と騎兵を中心とした秋山支隊にロシア軍連絡線への攻撃を指示。

先の旅順包囲戦で要塞の性質を熟知した乃木はロシア軍防衛線の要塞化された部分に軽いジャブ攻撃を加えて、ロシア軍を籠城戦の構えに移らせると即座に転進、と言う戦法を連発。
結果として、数に勝るロシア軍のかなりの数が籠城により死兵化してしまう。
無論、ロシア軍自慢の機動戦力であるコサック騎兵隊も日本軍の猛進撃を阻もうとするも、空冷式機関銃*32と山砲を大量に配備し、当時の常識では騎兵支隊にあるまじき大火力を有していた秋山支隊の猛射で足止めを喰らった処に大軍の第三軍が雪崩れ込んだのでロシア軍の連絡線は危機的状況に陥ってしまう。

ロシア軍は主力から大軍を抽出して第三軍の迎撃に当たらせてお互いに大被害を出し合うが*33、そうすると正面から攻めて来る第一軍への対処能力が落ちてしまう。

連絡線が切られて、援軍来援も後退も不可能になる可能性が出て来たので、遂にロシア軍の総司令官のクロパトキンは後方の防衛線への後退を指示するが、此処で連絡線遮断の危機感に神経を擦り減らしていたロシア軍の戦意が遂に崩壊。
連絡線が切られる前に退却しようと、元々は想定した経路を使っての組織的な退却の筈が、指揮系統が崩壊して潰走の体を擁してしまう。

この戦いで日本軍は攻勢の限界を悟って防戦体制に移り、ロシア軍も指揮崩壊の影響が大きくて反撃に移る余力が失われ、対馬沖での最終決戦に賭ける事になる。

総じて、『一旦籠城態勢に入った軍は防備を解いて追撃や転進が容易には出来なくなる』と言う性質を上手く利用した乃木の名采配と言える。

青島要塞攻略戦(1914)

ドイツ・オーストリア(籠城)VS日本・イギリス(攻撃)

第一次世界大戦を世界大戦にしなかった大きな要因。

バルカン半島でオーストリアとロシアが激突した事で始まった第一次世界大戦であったが、イギリスの要請が二転三転したと言うハプニングは有ったものの、同盟国のイギリスと経済同盟を結んでいたフランス両国の要請で、遂に日本軍がドイツ極東方面軍に襲い掛かり、最大の拠点である青島要塞を包囲する。

内容は正に多勢に無勢であり、数に圧倒的に勝り強力な兵器と熟練した兵士を揃えた日本軍の前に青島要塞はあっという間に陥落して守備隊全員が生け捕りにされ、青島要塞所属の艦隊は辛うじて脱出するもこれまた数と質で圧倒する日本軍には敵う訳もなく、主力は南米沖まで逃げて英軍の追討艦隊に壊滅させられ、通商破壊を挑んだ巡洋艦エムデンも日豪連合艦隊が護衛中の輸送船団から分遣された護衛艦に沈められた。

太平洋からインド洋の制海権を同盟国である日本が握って輸送船の護衛と警備を一手に引き受けた結果、イギリス海軍は主力を北海に集中させる事が出来、ドイツ海軍を数で圧倒。
北海の制海権をかけたユトランド沖海戦でもドイツ軍の撃退に成功し、最終的な勝利につなげた。

余り知られていないが、当時のアメリカの民主党ウィルソン政権は日露戦争時代の共和党T.ルーズベルト政権と比べると反日英、親独傾向が強く、ドイツにもかなりの軍需物資を輸出していた
太平洋・インド洋方面でドイツ軍が瞬殺されて、アメリカの縄張であるグアムやフィリピン周辺の制海権を連合国側が得た上に、アメリカ本国も連合国の日英加三国に包囲される体勢に陥った事と、険悪だった米墨両国に対してドイツが二股外交で両者を煽って味方に付けようとしていた事が露呈して両国共に激怒させると言う大失策が無ければ、アメリカがドイツ側に立って参戦していた可能性も高かった。
正に、大火災をヨーロッパに留めた目立たないが重要な勝利と言える。

マジノ戦線(1940)

フランス軍(籠城)VSドイツ軍(無視)

「世界一堅固な要塞作ったぜぇ!さぁ来い、ナチ公どもぉ!」→「じゃあベルギー迂回してパリ攻撃するわ、じゃあの」

……どんだけ硬い要塞作って籠城しても、無視されたら意味ないよねというお話。
ただ、「一番通りやすいところに要塞作ったんだから侵攻はできねーだろ」とフランス軍が考えたのは別におかしなことではなく、当時の常識からしても間違った考えではない。
政治的な配慮や予算制約もあってベルギー側までは築城されなかったが、こちらには機動的な軍隊移動でドイツ軍とがっぷり4つで対抗しようという戦略であり、第一次大戦シュリーフェンプランの轍を踏む気はさらさらなかった。
そして戦端が開かれ、ドイツ軍は英仏の目論見通りベルギー側から侵攻。事前の想定通りに軍団を集結させ、ベルギー戦線に移動させさあ本格的な決戦だ!
…と思ったらアルデンヌの森を抜けたドイツ装甲軍団に背後取られて軍団丸ごと包囲されました\(^o^)/
主力軍を包囲・無力化された英仏はその後のドイツ軍の侵攻に対抗する術をなくし、ダンケルク撤退戦まで負け続け大陸から追い出されるハメに。
世界最高の戦略家と称えられるマンシュタインの大戦略と、その価値を正しく見抜いたヒトラーの完勝といえる戦いだった。


どちらの勝ちとも言えない


ビサンティオン攻囲戦(前478)

ペルシャ(籠城)VSギリシャ(包囲)

紀元前478年の第二次ペルシャ戦争の実質的な最終戦となった戦い。
先のサラミス海戦でアテナイ将軍テミストクレス率いる艦隊がアテナイに迫ったペルシャ軍主力艦隊を壊滅させ、続いてのプラタイアの会戦ではスパルタ王子パウサニアスの活躍でペルシャ陸軍を大将戦死に追い込んだ。

パウサニアスはペルシャ軍のヨーロッパ大陸における橋頭保であるビザンティオンが落ちない限り、圧倒的な経済力と人口を誇るペルシャからの増援を絶てないと悟り、キプロスのペルシャ軍を叩いて海からの援軍を妨害してからビザンティオンの攻略に着手。
なんと、攻城戦能力劣悪なスパルタ軍を中心とした兵力でビザンティオンを落として多数のペルシャ人を捕虜にする大勝利を挙げてしまう。
しかし、プラタイアに続き、キプロス、ビザンティオンと華々しい勝利を挙げた挙句に、ペルシャ人捕虜を厚遇したり*34、ペルシャ文化に熱を入れ始めたりするパウサニアスに国内の反対派は猛反発*35
ペルシャとの内通容疑でパウサニアスを失脚させ、最終的には粛清してしまった。

同様にテミストクレスも反対派による策謀で陶片追放で母国を追われ、ペルシャで厚遇されるものの、ペルシャのギリシャ遠征にアドバイスを求められた結果、「母国に弓退く事も、敵である自分を保護してくれた恩義あるペルシャ王に背く事も出来ない」と自害。
戦闘に勝ったギリシャ側だったが、強力なリーダーシップを発揮出来る数少ない人材であるパウサニアスとテミストクレス亡き後はペルシャの国力に戦々恐々としながら過ごす事になるので、ビザンティオン攻囲戦は戦術的にはギリシャの勝利、長期戦略的にはギリシャの自爆で終わってしまった。

パウサニアスの内通容疑は、20世紀になってドイツでパウサニアスとペルシャ王クセルクセスの行動日程の差から「本格的な内通は不可能」と結論付けられる迄長らく定説扱いされていた


第四次川中島の合戦(1561)

武田信玄(籠城)VS上杉謙信(籠城)

お互いに籠城していたら、野戦になってしまったと言う戦闘。

武田の海津城を攻略すべく、背後の妻女山に砦を築いて布陣した上杉謙信であったが、信玄率いる武田の主力2万が海津城の城兵に合流したので、お互いに籠城したまま手出しが出来なくなってしまう。

数は武田2万と上杉1万3000+善光寺の別動隊5000とほぼ同数であり、お互いに堅固な城と砦に立て籠もっていては決定打に欠く・・・状況に痺れを切らした信玄が、妻女山砦に夜襲を仕掛け、飛び出して来た上杉軍を撃破する作戦を立案。

しかし、兵の移動準備の動きを上杉方に悟られ、裏を掻いて交戦前に砦から脱出した上杉軍と交戦で疲弊した上杉軍を待ち伏せする心算だった信玄率いる武田軍が鉢合わせしてしまう

戦闘の結果は武田軍が川中島一帯を守り切るも、信玄の弟・信繁が戦死、跡取り息子・義信が負傷後送され、信玄自身も負傷する大損害を受け、信濃方面の北進は不可能な程の打撃を受けてしまう
一方の上杉軍は武田軍に近い大損害を出して川中島周辺の制圧に失敗するも、主要な部将は無事であり、善光寺の別動隊との合流も有り武田軍が北進したとしても迎撃出来る体制は維持出来ていた

川中島周辺の支配権を維持出来たと言う戦局的な視点では信玄の、越後に攻め込める兵力を削ると言う戦略的な視点では謙信の勝利と言えるが、結局、双方に大被害を出しただけで戦闘前とあまり変わらない結果に終わってしまった。


石山合戦(1570)

本願寺顕如(籠城)VS織田信長(包囲)

石山本願寺に立てこもった一向一揆集に対する包囲戦。
この戦いの特徴的なところは、なんと籠城期間が 10年 にも及んだことだろう。
なぜそんなに長期間落とせなかったかというと織田軍の海上封鎖が上手くいかず、毛利・村上水軍による海からの物資輸送を許してしまっていたため。
また、途中から司令官となった佐久間信盛が積極攻勢に出なかったことも要因(しなかった理由の推察はいくつかできるが、いわば上司である信長ですら想像でその理由を記しているぐらいに報連相すらしなかった模様)。

最終的にあまりに長期に渡る戦いで双方が疲弊しすぎたことなどから、「顕如達一向宗は石山本願寺を明け渡す。その代わり信長は一向宗をこれ以上攻撃しない」という形で講和を結ぶことになる。
教如が諦め悪く石山に残り続けたりもしたが、結果的にはどちらも明らかに最終目的を果たせないままの不完全燃焼で終わっている。


安濃津城攻防戦(1600)

富田信高(籠城)VS鍋島勝茂(包囲)VS鍋島直茂(内通)

関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ。
東軍側に付いた安濃津城主・富田信高に上杉討伐軍に参戦する心算が、京都で石田三成に説得された鍋島勝茂が襲い掛かった。
鍋島軍は毛利軍や長曾我部軍と合流し、総兵力は3万近く、対する富田方は1700人と人数差は20:1近く。

そして、遂に城主の信高まで西軍側の囮作戦で城門前で敵兵に取り囲まれ、集中攻撃に晒されてしまうが・・・
謎の美少年武者が槍一本で敵の部将を護衛諸共に瞬殺して信高を救出してしまう。

信高「何処の何方か知りませんが、助太刀感謝します!!」
美少年「何処の何方・・・?・・・貴方の妻です!」

兜を取った顔は紛れもなく信高夫人の美貌であった。
囮作戦が失敗した西軍は持久戦に持ち込み、最終的に信高を投降させるのに成功するが・・・

直茂「徳川殿にこの食料を慰謝料として献上しますので・・・何卒息子をお許しを・・・」

その頃、勝茂の父である直茂が有り金全部で尾張・美濃方面の食料を買い占めて、慰謝料として東軍に差し出していたのだ。
信高夫妻の時間稼ぎと直茂が差し出した糧食のお陰で尾張・美濃方面では先述の岐阜城攻略作戦が大成功し、関ヶ原の決戦の布石が完成してしまった。

総じて、戦術的には西軍が勝ったものの、時間稼ぎと内通で戦略的には東軍の勝利と言えるだろう。

因みに、勝茂の方は父親による平謝りのお陰で特に改易も減封もされずに肥前半国の領主として残りの人生を全うし、信高の方は伊予宇和島に加増転封されるも、妻に命を助けられた恩義と腕っ節の強さに生涯頭が上がらなくなり兄妹喧嘩の巻き添えを喰らって改易されてしまった。


セヴァストポリ攻囲戦(クリミア戦争)(1854)

ロシア(籠城)VSイギリス・フランス・オスマン・サルデーニャ連合軍(包囲)

籠城・包囲両軍がガバプレイをかましまくった戦い
ロシアのオスマンいじめに待ったを掛けた英仏連合がクリミア半島に逆侵攻。
杜撰な指揮系統で敗退を繰り返す露軍は黒海艦隊根拠地セヴァストポリに籠城した。
しかし連合軍も、偽装情報に引っかかりまくる・現地情報をサボって補給物資が嵐にさらわれる・そもそも兵が少な過ぎて完全包囲に失敗(しかも防御が強固で補給妨害も出来ない南側だけ包囲)と大ポカを連発。
兵が少ない=籠城する部隊を拘束するほど戦力を割く余裕が無いのでナポレオン式スルー戦法も出来ない、
という事で 近代で塹壕戦が主流でもないのに一年にも及ぶ籠城戦となった (一応塹壕は作られたが機関銃や鉄条網が無かったため影響は少なかった)。

しかし産業革命の力で海運輸送+鉄道建設を敵地でやり遂げた連合軍。対し前時代的な陸路の馬車輸送に頼ったロシア軍。輸送効率では圧倒的に前者が優れていた為包囲軍は籠城軍より長期戦に弱いという一般論が破綻した
黒海艦隊自沈、水兵と艦載砲を要塞に転用する等のロシア籠城軍の涙ぐましい努力も補給能力の差を埋めることは出来ず、戦闘維持困難となったロシア軍はセヴァストポリを放棄。
一方で連合軍側も戦争目的の違いや戦費負担、 カフカス方面でセヴァストポリ陥落を帳消しにするほどオスマン軍が大敗 していたことなどから講和交渉が加速し戦後セヴァストポリは返却。
軍事的には籠城側の敗北だったが籠城で粘ったことでセヴァストポリは返ってきたと言えるかもしれない。
なおオスマンはイギリスに半植民地にされた………あれ?

ヴェルダン要塞攻囲戦(1916)

フランス(籠城)VSドイツ(攻撃)

第一次世界大戦最大の激戦。
塹壕戦が膠着した西部戦線を打開すべく、ドイツ軍はヴェルダン要塞を囮にして援軍として駆け付けたフランス軍を磨り潰す作戦を立案。
軽便鉄道一本を残してヴェルダンを包囲・・・したは良いものの、フランス軍のペダン将軍は自国のタクシーを始めとした多数の自動車を動員し巧みに使った補給作戦でドイツ軍の想像以上の速度で援軍と補給物資を派遣。
この戦術で戦争に於ける自動車の有効性が見直され後の自動車化歩兵、そして機械化歩兵へと繋がるのは有名な話である。
結局、フランス軍に大打撃を与えたが、ドイツ軍も同等に近い損害を受けたので無意味と言う戦局にはまるで寄与しない結果に終わってしまった。



追記・修正は籠城しながらお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 籠城
  • 戦国時代
  • 戦法
  • 戦術
  • 援軍なかったら負けフラグ
  • ジリ貧
  • 城攻め
  • 楠木正成
  • 兵糧攻め
  • 秀吉の得意技にやられる側
  • 引きこもり
  • マジノ戦線
  • 昔『城攻めには3倍の兵力が必要』→現代『ミサイル撃ちこめ』
  • 龍驤 ←ではない
  • 孫子『城を攻めるは下策』
  • 要塞警察
  • アラモ砦
  • ゲリラ戦
  • 長期戦
  • 立て籠もり
  • アラモ
  • わらの犬
  • 持久戦
  • 壮絶
  • 真夜中の処刑ゲーム
  • リオ・ブラボー
  • ゲリラ戦争
  • 包囲戦
  • 包囲
  • 包囲網

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月14日 21:34

*1 当然この対策兼自軍の補給のために大抵収穫されたり焼かれたりしている

*2 と言っても「援軍」でない場合は大抵同じ武将に仕える者同士ではある

*3 だからこそ徴兵と補給を両立させていた蕭何の評価が凄い高い

*4 この場合勢いに乗り過ぎて失敗するという印象に残りやすい結果となることもあり、その場合後世で目立ってしまう。

*5 一般コンクリは50~100年

*6 いわゆる宮殿

*7 ブルドーザー

*8 魏氏、韓氏、趙氏を恫喝し領土を割譲させようとした。韓氏と魏氏は屈して領土を割譲したが、趙氏は拒絶したので兵を起こした

*9 起きたのはパヴィアの戦いの方が早いので厳密に言えば長篠攻囲戦がパヴィアの戦いに似ている

*10 遺構が現存しており、掛川古城と呼ばれている。

*11 三国志演義の第一次北伐で諸葛亮司馬懿を撃退した空城計の焼き直しという説がある

*12 もう1人いたのだが、彼は織田軍と一緒に戻り生き延びたので無名

*13 一説では一万以上の死者を出したともいわれる。多聞院日記では「甲斐国衆千余人討死」と書かれているが、「国衆」を国人級の武士だとするとこちらでも半数以上が討ち取られたと解釈できる

*14 秀吉死没時の五奉行の会議で三成が主張した「取り敢えずは徳川家康と前田利家にも秀吉の死を秘す」と言う議決に長政が従ったにも拘らず、三成が家康と利家に密かに秀吉の死を知らせた為に長政を激怒させてしまった

*15 家康の腹心である本田忠勝の娘婿である真田信幸は関ケ原の合戦で東軍に付いているが、三成との書簡を家宝として後世に伝えている事から個人として三成を嫌っていた訳では無さそうである。

*16 一般に城を攻め落とすには守勢の3倍の兵力が必要という目安

*17 原伯貫は城こそ奪われたが、殺されはしなかった

*18 内側から崩れることがある

*19 反撃防止用の浅い掘と見せかけて掘ることで、審配にあえて妨害させる意欲をそいだとされる。

*20 現トルコのイスタンブール

*21 遺体は見つかり、晒された後に丁重に弔われたが、本物かどうかは疑問とされる。

*22 当初は織田信長と同盟を結んでいたがこれ以降武田家は反信長となる

*23 続連の三男

*24 かつては極度の飢餓状態で萎縮した胃に突然食物が送られることで胃が破裂した、あるいは胃痙攣を起こしたと考えられていたが、現在では「リフィーディング症候群」と呼ばれる「飢餓状態からの急激な栄養補給で生じる一連の代謝合併症」によるものとされている。

*25 実際は森に隠して建て、森を伐採することであえて一夜にして建てたように見せかけ、戦意低下を図ったと言われている。

*26 「この者は絶望的な戦況の中、最後まで主君を守って戦った勇敢で忠義な人間です」と言う保証を出した訳で、生き残った兵士達にとっては最高の再就職切符となった。

*27 信綱は重昌が既に攻略しているのを前提に、戦後処理役として派遣されていたとする説もある。

*28 守備を担当していたロシア軍は「有色人種が白人に敵う訳がない」と楽観視して、2倍近い数を集中させた日本軍を相手に兵力を分散配備した挙句、正面に展開した囮部隊に注意を逸らされた隙に、側面に回り込んだ日本軍精鋭砲兵部隊の猛射を受けて大敗してしまった。

*29 実際、ロシア艦隊の戦艦は大破しており、スペアパーツと職工不足で修理の目途が立たなかったのだが、日本軍が其れを知るのは要塞陥落後である

*30 戦死者と傷病者、稼働人数の和が籠城人数5万人を超えているが、此れは当初は籠城メンバーにカウントされていなかった軍艦を大破させられた海軍の水兵を防衛に回したのに加え、非戦闘員として戦力外の女子供も負傷兵の護送や看護に駆り出された際に榴弾片を浴びて負傷したり、病気に罹患して傷病者としてはカウントされた為である

*31 加えて、ロシアの保護国であったモンテネグロ公国が独断で日本に宣戦布告して、日英同盟が何時でも発動可能になると言うとんでもないやらかしをしでかした事も響いた。

*32 ロシア軍が採用していた水冷式機関銃と比べると連射性能に劣る代わりに、軽い上に、素早く発射、撤退の体勢切り替えが可能

*33 最終的にロシア軍は10万人もの大軍を乃木・秋山に当たらせていたが、実際には4万人そこそこの日本軍がロシア軍と互角以上に戦う様を見て日本軍も10万人以上の大軍を当てていると誤解して更に指揮系統の混乱を助長した

*34 戦死したスパルタ王レオニダスの報復に戦死者の晒し首や捕虜の処刑を主張する自国兵を「王を晒し首にしたペルシャを野蛮と非難しておいて、自分達も同じことをするのは筋が通らない」と一蹴したりしている

*35 スパルタの国体が王の独裁権力防止に重点を置かれていたのに対して、王子が生きたままギリシャの大英雄になったので国体護持が出来なくなるとの危機感を生じた。