漸減作戦

登録日:2018/05/06 (日) 17:32:49
更新日:2023/12/28 Thu 22:20:12
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「何で旧日本海軍は大和型戦艦なんて時代遅れの兵器を造ったの?」

「日本の駆逐艦って、アメリカの潜水艦に沈められ過ぎじゃない? 艦隊の護衛が主任務なのに何故?」


ゲームや漫画の影響で日本の軍艦や太平洋戦争に興味を持ち資料を調べ始めたばかりの頃、上記の疑問を抱いた事がある人は多いだろう。

「空母を中心とした機動部隊による航空機の集中運用」という全く新しい戦術を生み出し真珠湾攻撃を成功させた旧日本軍。
だが、その一方では大艦巨砲主義の象徴にして終着点である大和型戦艦を建造。
ミッドウェーの敗戦後は、アメリカの潜水艦による通商破壊戦を受けて次々と沈没していく、対潜戦闘に優れるはずの駆逐艦。

何処かアンバランスな状況のその全ては、とある戦略構想に基づいて生み出された物であった。

漸減*1作戦とは、旧日本海軍の根本にあった戦略構想である。


歴史


序 マハンという男


「海上権力史論」という本がある。
これはアメリカの海軍軍人、マハン(1840年~1914年)が1890年に出した著書であり、ここで書かれていたことを一言で表すと「戦争は敵対する国家が保有する海上艦隊同士の交戦によって決する」となる。
彼は「海は有力な交易路であり、国内の港と海外の根拠地や植民地を繋ぐ洋上の交易路を海軍力で維持することで海洋国家は発展する。発展した海洋国家は強化した海軍力でより多くの海上交易路を維持し、更に発展し……」と説いた。
つまり海軍とは「海の交易路を維持する」ものである。

でもって同時に当たり前のことだが「戦力というものは集中させた方が勝つ」のである。
ランチェスターの法則に従うと「彼我の実際の戦力比はそれぞれの数を二乗したものになる」のだ。

その結果。
彼は制海権を握る手段として「互いの海軍が集中的に戦力を運用する」艦隊同士の決戦というものを重視した。てか重視しすぎた。
とはいえ実際に古い例では第一次英蘭戦争(1652年–1654年)ではオランダが商船護衛に軍艦を張り付けた結果、イギリスに各個撃破されているのである。
お互いに戦力分散なんて愚を犯すまい、と考える方が自然と言うべきだろう。
そんなんで彼の論は世界の海軍に受け入れられた。日本でも秋山真之が米国留学中にマハンから教えを乞いたという。

日本海海戦 ~全てはここから始まった~

時は日露戦争の終盤である、1905年(明治38年)5月27日。

ユーラシア大陸の反対側から7ヶ月の航海を経てはるばるやって来たロシア帝国海軍のバルチック艦隊を、東郷平八郎率いる連合艦隊が迎撃。
対馬沖で相対した両軍による会戦は、日本軍の勝利で終わる。これが後に「日本海海戦」と呼ばれる海戦である。

詳細はこことかこことか(これ…は違うな)に譲るが、とにかく大国ロシアとのジリ貧の戦いに決着を付けるきっかけとなったまさに「皇国ノ興廃、此ノ一戦二アリ」な戦いであった。

さて、ここで日本海軍はある思考に陥る。

「どんな大国相手であろうと、最後は互いの総力を決した決戦で勝てばいいじゃない」

ロシアを下した今、日本に立ちはだかるのは七つの海を制するロイヤルネイビー、イギリス。
そして太平洋を挟んで君臨し、今なお力を増し続ける後のチート国家、アメリカ。

いくら富国強兵が進んでも、彼等に比べれば日本は圧倒的に小国(あと貧乏)。
そんな日本が彼等と戦争になった場合、そのままぶつかれば敗北は必至である。

……だが、日本海海戦の様な互いの全戦力をぶつけ合う会戦。すなわち決戦で見事に勝利を収めれば…?
そんなこんなで日本の海軍は艦隊決戦思想に陥っていく。

漸減作戦の誕生

そんなわけで決戦思想に陥った海軍ではあったが、そんな作戦がすんなり上手くいくなんて事は流石に考えていなかった。
例えば此方の戦力が50だとして、敵国が100でぶつかって来れば戦力の削り合いで負けてしまう。
そこで海軍のお偉い人は考えた。

「だったら決戦前に、敵戦力を削ればいいじゃない」

これがのちに対米海軍作戦計画となった「漸減作戦」の始まりである。


漸減作戦の概要


  1. 敵国(というか米国)と開戦した。敵艦隊が日本に向かってくるぞ!
  2. こちらの主力艦隊はまず温存。水雷戦隊よ突撃だ!
  3. 熟練した水雷部隊の波状攻撃で、敵艦隊はボロボロだ!
  4. 満身創痍の敵艦隊へ向けて、主力艦隊出撃!!
  5. 日本海軍大勝利!! 希望の未来へレディゴー!!

簡単に言えば、この2と3にあたるのが漸減作戦である。

日本は小国である以上、決戦用の大型艦を揃えられる数には限りがある。
そこで巡洋艦に率いられた駆逐艦による水雷戦隊に魚雷艇といった補助艦艇で向かってくる敵艦隊の戦力を削り、最後に戦艦を中心とした部隊で会戦を仕掛ける。

一見すれば非の打ち所の無い作戦である。欠点というか問題点については後述。


漸減作戦用兵器の誕生

そんなわけで、日本海軍の艦艇はこの漸減作戦を念頭に置いて建造が進んでいった。
巡洋艦や駆逐艦は高性能な酸素魚雷を積み、魚雷艇といった小型艦、潜水艦すらも攻撃偏重に。
全ては少ない戦力で敵艦隊に痛手を与え、背後に控える主力艦隊を支援する為に。

言うなればある時期の日本軍の全ての艦は「漸減作戦用戦闘艦」だったのである。

その後に潜水艦や航空機といった第一次世界大戦で台頭した新兵器も、その多くは「漸減作戦用兵器」として設計開発される。

……まあ航空機については、まさかそれが戦争の全てを塗り替えるとは想像していた人は少なかっただろうが。


漸減作戦用兵器の特徴

  • 長大な航続距離
 最重要事項。敵艦隊を本土から離れた地点でいち早く撃破する為。
  • 重武装
 強大な敵艦隊相手に少しでも戦果を上げる為。


これが日本の漸減作戦兵器だ!

吹雪型駆逐艦(特型駆逐艦)

ワシントン軍縮条約により、主力艦艇の保有制限を受けた大日本帝国海軍の新たなる希望。
前級である睦月型駆逐艦に比べ、基準排水量は400トン程増加し大型化。兵装も大幅に強化され、12.7cm連装砲三基に61cm三連装魚雷発射管三基を備える重武装駆逐艦の登場は、列強各国に衝撃をもたらした。
また大型化したことにより居住性や遠洋での航海性能にも優れる。
……が、やり過ぎとも言える重武装化により艦のバランスは悪化。ロンドン海軍軍縮条約の都合で吹雪型より後発だが小型になった初春型・白露型にまで徹底した結果、後に「友鶴事件」「第四艦隊事件」等の重大事故を引き起こすことになる。
とはいえその後も重武装の駆逐艦は改良が続けられ、朝潮型を経て完成系の「甲型駆逐艦」と呼ばれる陽炎型・夕雲型まで計八十八隻が建造され、太平洋戦争で主力を担う事になるが……。

重雷装巡洋艦

「長大な射程距離を誇る酸素魚雷を大量に発射して、遠方の敵艦隊にぶち込む」という最高に頭悪い発想で生み出された珍兵器。
当時旧型となっていた球磨型軽巡洋艦の北上・大井を転用し、61cm四連装魚雷発射管10基という片舷20射線発射可能な重雷装艦が誕生した。
……なお、実戦には参加することなく遠距離雷撃の有効性も疑問視された為、戦争の途中で高速輸送艦に改造された。

伊号潜水艦

前大戦では通商破壊戦で猛威を振るった新兵器・潜水艦も、日本海軍は通商破壊戦ではなく漸減作戦のための性能に全振り
大型の船体を持つ伊号潜水艦として、水上艦隊と共に行動し水雷襲撃を行う高速重雷装の海大型、
そして長大な航続距離と水上偵察機の搭載によって高い偵察能力を持つ巡洋潜水艦という二枚看板が揃う。
太平洋戦争の序盤は想定していた運用と違う通商破壊戦や敵空母への雷撃で一暴れするが、巨体ゆえの静音性の低さが仇となり……。

千鳥型水雷艇

ロンドン海軍条約により、駆逐艦等の補助艦艇にも保有制限が掛けられた事で「条約対象外の600トン以下の艦艇」として開発されることになった。
速力や兵装を犠牲にすることなく船体の小型化と重量軽減を徹底した結果、誕生したのは当時の二等駆逐艦を上回る重武装を備えた変態艦艇であった。
なお後に「友鶴事件」を引き起こしたのはこの三番艦「友鶴」である。
また後継として鴻型水雷艇が開発されるも、その頃にはもう軍縮条約が破棄される事が決定していたため、16隻建造が計画されていた所を8隻建造で打ち切られた。

陸上攻撃機

海軍が保有する陸上から発進する航空機。
海軍なのに陸上? という時点で何かおかしいと思ったあなたは正しい。
上記のロンドン海軍条約の保有制限で水雷戦隊のみによる漸減作戦が困難になったため、「空飛ぶ水雷戦隊」として1930年代から着目された。
これも漸減作戦の一翼を担うために開発された兵器であり、日本本土に向かって来る敵艦隊を太平洋上の島々に配備された陸上攻撃機が迎撃する。
九五式の事は忘れるとして日本海軍初の近代的双発攻撃機「九六式陸攻」は、他国の爆撃機を凌駕する長大な航続距離と高速を兼ね備えた傑作機であった。
その後継機である「一式陸攻」も高速化や防御銃座の強化と順当な強化を重ね、太平洋戦争で主力を勤めた。

航空母艦および艦載機

良くも悪くも第二次世界大戦以降の戦争を塗り替えてしまった二大兵器。
しかし当初の漸減作戦において期待されていた役割は艦載機自身による爆撃・雷撃ではなく、偵察・触接・観測といった水雷戦隊と戦艦のサポートであった。
1930年代前半までは技術的限界から航続距離も短く、空母は「遥か後方から艦載機を飛ばして長距離攻撃を行う主力艦」などではなく、
巡洋艦と共に積極的に前進し、出会った敵の偵察艦隊と砲戦になったりしつつも敵位置を通報する、という偵察巡洋艦の延長にある存在であった。
赤城・加賀やレキシントン級といった初期の空母が巡洋艦の主砲並みの砲を持っていたのも、砲戦になりかねない距離まで前進するからである。

なお、後に艦載機も航続距離等の諸性能が向上してくると、遠く離れた敵艦隊や敵基地を艦載機単独で攻撃・撃破する目的が重視されるように運用法が変わっていく。
代表とも言えるのが真珠湾攻撃、そしてマリアナ沖海戦におけるアウトレンジ戦術である。


漸減作戦の欠点

まあそんなわけで日本海軍は漸減作戦での仮想敵国であったアメリカと戦争をする事になるのだが……。

漸減作戦が成功したかと言えば、ぶっちゃけ失敗している。というか、漸減作戦その物が既に時代遅れの代物だったのだ。

漸減作戦の欠点

  • 敵が都合良く全戦力をぶつけて来るとは限らない
日露戦争のように敵艦隊が総力を挙げて日本にやって来ず、小艦隊に分けて侵攻された時点でこの作戦は破綻する。

  • 通商破壊戦術への不備
制海権を握るための艦隊決戦。それ自体は良い。
だが艦隊が常に制海権を握った範囲どこでもすぐ駆け付けられるわけではない。
……もし敵がこちらの監視を掻い潜って、あっちこっちの海上交易路を攻撃してきたら?
しかもそれがこちらの砲撃で撃退出来ない方法、そう例えば海の下に隠れることが出来るものだったら?

  • 仮に敵戦力の漸減に成功したとして、敵がそのまま侵攻を続けてくれるとは限らない
相応の被害を受けた時点で司令官が撤退の命令を下す可能性もある。ある意味で作戦は成功したと言えるが、敵艦隊の脅威は残ったまま。

  • そもそも漸減作戦が成功したからといって、それが戦争の勝利条件になるとは限らない
最大の問題。総力戦と化した第一次大戦以降は艦隊を叩き潰せたとして勝利となるわけでは無いし、では逆に攻め込もうにも決戦を経た時点でこちらの艦隊もボロボロである。
しかも相手は月刊空母、週刊軽空母、日刊駆逐艦のチート生産国家であり……。


そんなわけで「敵艦隊が全力で真正面から突っ込んできて」かつ「多少の被害を受けても撤退しない」という理想に理想を重ねた作戦が漸減作戦なのだ。
前提の一つとなった日露戦争の日本海海戦ではロシア海軍は、バルト海からはるばるやって来ていたので日本海軍の待ち構えた先のウラジオストックにしか帰るべき場所が無かった、というのがいつの間にか消え去っていたのだ。
更に時代は第一次世界大戦を経て、戦争は国家の総力をぶつけ合う「総力戦」へと移り変わっていた。一度きりの決戦で全てが決まる戦争は終わりを告げ、大量の兵器を生産し、そして互いの生産力を削りあう戦争へとシフトしていた。
第一次大戦では大戦中最大の海戦であったユトランド沖海戦をしてもドイツもイギリスも相手に白旗を上げさせるどころか、相手の海軍を壊滅に持ってゆくことすらが出来なかったのだ。
こうして漸減作戦は半ば形骸化したと言える。

ついでに言うと、漸減作戦の為に開発された兵器も欠点を抱えていた。

  • 重武装化による艦のバランス・復原性の低さ
千鳥型水雷艇の友鶴が荒天により転覆し、多くの犠牲者を出した「友鶴事件」
演習中の艦隊が台風により大きな被害を受けた「第四艦隊事件」といった事故を受けてようやく解決する。

この辺は米軍も似たようなもので、第二次大戦の真っただ中に台風相手にダメージを受けていることも指摘しておきたい。
ウィリアム・ハルゼー大将指揮の第38任務部隊がコブラ台風、と名付けられた台風に遭遇し、駆逐艦3隻が沈没、100機以上の航空機を損失、という深刻な被害を受けている。
……ただコブラ台風騒動が起きたのが1944年の12月で、日本にとっては少々遅かった神風というか神風が吹いても相手が悪かったというか。

  • 対空、対潜能力の不足
主に駆逐艦に顕著な欠点。敵艦を葬る事に重点を置きすぎて肝心の艦隊護衛に必要な能力である対空・対潜能力は連合国に比べて大幅に劣る。
まあこれは航空機の進歩の早さに追いつけなかったり、ソナーやレーダーといった電子機器に対する開発力の無さもあるのだが……
というか、朝潮型駆逐艦までは竣工時に爆雷は積んでいても、肝心のソナーを積んでいなかったり。

太平洋戦争ではアメリカ軍の潜水艦により、本来彼女等に対する対抗手段として活躍するはずの駆逐艦が数多く沈められている。
これは戦後の海上自衛隊が絶対潜水艦沈めるマンと化した一因でもある。


終わりに

ここまで漸減作戦の駄目な所を述べてきたが、流石に一介のアニヲタwiki住人でも分かる事を当時の軍人が分からなかったとは思えない。
だからと言って開発及び建造まで金と時間が掛かるのが兵器である。
結局のところ開発された漸減作戦用兵器は、機動部隊は真珠湾攻撃を行い、潜水艦は通商破壊、陸上攻撃機は陸上目標への攻撃と本来の目的とは違った運用をされる事になった。
駆逐艦は本来あまり重視されなかった護衛任務に就き、敵潜水艦に次々と沈められる。
一式陸攻やゼロ戦は戦争序盤こそ活躍するものの、後継機に恵まれぬまま米軍の新鋭機の前に散っていくのだった。


創作における漸減作戦


創作においては「漸減作戦」ぽいものは結構存在する。
強大なボスに対し、こちらの戦力を次々にぶつけて少しでも戦闘能力を削る。戦力の逐次投入とか言ってはいけない
おっと、ここから先はオレを倒してから行きな」とか「腕が動かない…まさかさっき戦った雑魚にやられた傷がっ!!」なんてのはよくあるパターンである。

艦隊これくしょん」における「漸減作戦」

第二次世界大戦における擬人化された艦船が登場する艦これでは、ちらほらとこの「漸減」の名称*2が出てくる。

……というかこの作戦を使ってくるのは、主にイベント海域における敵であると言える。

1個艦隊をボス撃破の為に出撃させるこのゲームでは、ボスと相対する前に複数の敵艦隊を相手取る必要があり、その道中で「深海潜水艦部隊待伏群」「水上阻止艦隊」といった名称のイヤらしい強力な艦隊と対峙しなければならない。
先制攻撃で一発大破だったり、強大な火力で一発大破だったりとボス目前にして撤退を余儀なくされたり、損耗を受けてしまうのだ。
ボスへの対策を減らして道中の対策をするか(例えば潜水艦部隊であれば対潜装備を強化する等)、応急修理要員を積んで強行突破するか、はたまた自らの強運を信じて強行突破するか。
提督の決断が試される。そして提督の資材がハゲる

銀河英雄伝説」における「漸減作戦」(っぽいもの)

銀河帝国内の内乱『リップシュタット戦役』の序盤において、反乱軍の首魁であるブラウンシュヴァイク公が、似たような作戦を立案している。
概要は、『本拠であるガイエスブルク要塞までの道のりにある中継拠点に戦力を小分けして配備』→『正規軍はその中継拠点の戦力を消耗しながら排除しつつ前進』→『その消耗した正規軍に対し、万全な状態の本隊で決戦を挑む』というもの。もろに漸減作戦(っぽいもの)である。
しかし、実戦司令官であるメルカッツ提督に『敵がいちいち中継拠点をつぶしていくとは限らない』『そのままガイエスブルク要塞に直進したら、配備した隊は遊兵となるし、それらが欠けた戦力で挑まなければならない』と論破されて断念することになった。


追記修正は「漸減」の読み方が分かる人がお願いします。


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最終更新:2023年12月28日 22:20

*1 ぜんげん/ざんげん

*2 西方海域4-5「深海東洋艦隊漸減作戦」等