ウォルト・ディズニー

登録日:2018/04/13 (金) 15:39:00
更新日:2024/02/21 Wed 18:35:41
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与えることは最高の喜びだ。

他人に喜びを運ぶ人は、自分自身の喜びと満足を得る。



ウォルト・ディズニー(1901~1966)とは、アメリカ合衆国のアニメーター・実業家・映画監督・漫画家・声優である。
フルネームは「ウォルター・イライアス・ディズニー」。

間違いなく世界史上最大のアニメーターにして、アニメ・マンガ史上に最大級の影響を残した人物である。
アメリカはもちろん、日本のアニメ・オタク文化もこの人無くしては存在しない。
日本に与えた影響については、今さら強調するまでもないだろう。



【経歴】

◆幼少期・デビュー前

アイルランド系移民のイライアス・ディズニーの四男としてシカゴで生まれる。兄弟は他に妹が一人いた。
なおウォルトと呼ばれることが多いがこれは通称で、本名はウォルターである。

生まれはシカゴだが、職を転々としていた父に連れられて幼くしてミズーリ州マーセリーンに引っ越したので、こちらが出身地のように扱われることが多い。
父イライアスはアメリカでは少数派である敬虔なカトリックで、子供たちにも厳格に接した。一方で、1つの職を続けることができず、何度も転職と転居を繰り返しては家族に経済的負担をかけていた。
このためかウォルト及びロイ兄弟と父は後年まで不仲で、多くのディズニー作品で父親の影が薄いのはこのためではないかという指摘もあるほど。
一方、厳格なカトリックとしての価値観はウォルトにもしっかり受け継がれており、後に制作する作品にも色濃く反映されている。
例を挙げれば勧善懲悪・ハッピーエンド・ヴィランズの多くが魔術師・および類型的な性描写や人種描写など。

ウォルトが16歳の時、父イライアスが性懲りも無くまた仕事を変えてシカゴに移ることにしたため、ウォルトもシカゴに舞い戻ってマッキンリー高校に入学。
この頃に学級新聞に漫画を掲載し始めて評判になる。
なおその漫画の内容は思いっきり国粋主義的なものだったが、これは第一次世界大戦の直前で、アメリカ自身も移民問題を抱えていたという当時の世相も反映している。

翌年に第一次世界大戦が勃発すると、愛国少年ウォルトは学校を退学した挙句年齢を逆サバ読んでまで陸軍に志願。
が、別にアメリカも兵士の動員に困っていたわけでも無かったため、年齢が若すぎるウォルトは正規の兵士としては採用されず、
負傷者の治療や輸送を担当する後方部隊に配属されるという形でお茶を濁されてフランスに送られた。

確かに愛国心は美徳ではあろうが、一度こうと決めたらなりふり構わず後先も考えず突き進む、後年の為人の片鱗が見えるようである。
こういう男である。



◆アイワークスとの出会いとスタジオ設立(と倒産)

終戦後、アメリカに戻ったウォルトは父への反発もあって実家を出て、漫画家として身を立てていくことを目指す。
しかし仕事は少なく、その日の食事にも困る生活に陥った。
見かねた銀行勤務の兄(三男)・ロイがツテをたどり、広告デザイン会社にウォルトを就職させる。
ここでウォルトが出会ったのが、生涯の盟友にしてアニメーターとしては彼以上の天才と呼ばれることになるアブ・アイワークスである。

一年後、仲良く揃ってリストラされたウォルトとアイワークスは自分たちのデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を設立する。
……が、その直後にウォルトが大手のスタジオにアニメーターとして引き抜かれて移ってしまったので、会社はあっという間に消滅した。
アイワークスからすれば「ええー……」と言いたかっただろうが、ここからウォルトのアニメーターとしての経歴がスタートする。

セルアニメ制作の魅力に取りつかれたウォルトは、再び個人事務所を設立。
幸い最初に手掛けたアニメ『ニューマン劇場のお笑い漫画』が評判となったため、アイワークスをはじめとする仲間たちを呼び寄せてスタジオの規模を拡大していった。

……が、アニメ制作にばかり没頭し、資金繰りや採算のことなどを全く考えていなかったため、あっという間に倒産した。
こういう男である。



◆ディズニー社・そしてミッキーマウスの誕生

20歳にしてすでに2つも会社を潰した汚名を背負ってしまったウォルトは一念発起、兄のロイと組んでハリウッドに進出する。
ここでは「ディズニー・ブラザーズ社」を設立し、最初はかつて作成した作品を販売する事業を手掛けていたが、やはり創作意欲には勝てなかったのか、続編の制作を決意。
再びかつての仲間たちを呼び寄せ、会社をアニメスタジオエリアに移転させた。
1922年のこの時をもって「ディズニー社の設立」と定義されることが多い。

この時作成していた『アリスコメディシリーズ』は、実写の少女とアニメの動物たちを合成するという趣向のもので、今見てもなかなか見ごたえがある。
実際このシリーズは好評を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗った。
ウォルトの生活もやっと安定し、1925年には結婚している。


……が、1928年、ディズニー社最大の黒歴史ともいうべき事件が起きる。


そもそも上述の『アリスコメディシリーズ』に登場するキャラクターの一人である「ジュリアス・ザ・キャット」は、当時人気で、現在でも有名な猫のキャラ「フィリックス・ザ・キャット」の明らかなパク……もとい模倣であった。
この件でフィリックスの作者のパット・サリバンから抗議を受けたディズニー社は、ちょうど『アリスコメディシリーズ』の人気が下火になっていたこともあって、新たなキャラクターシリーズの制作を迫られた。

そこでウォルトとディズニーが考案したのが、ウサギのキャラクター・オズワルド・ザ・ラッキーラビット(しあわせウサギのオズワルド)である。
これは全米でアリスシリーズ以上の大ヒット作となった。

が、このキャラクターのアニメを配給する際に、知遇を得ていたユニバーサル・ピクチャーズに頼んだことが問題の発端となった。

契約更新の際、ユニバーサル側からオズワルドの所有権を主張され、法外な使用料を要求されたディズニー側はこれを拒否。
するとユニバーサル側はディズニー社のアニメーターへの引き抜き工作を展開。
これにアイワークス以外のほぼ全てのアニメーターが応じてしまい、ディズニー社は大事なキャラクターもスタッフも一挙に失う羽目になってしまった。

現在に至るまでディズニー社が著作権に対して非常に厳しい姿勢を取っているのは、この時の苦い記憶に起因している。
もっとも、アイワークス以外の全スタッフが寝返ってしまったのは、ウォルトの経営姿勢にも原因があったのではないかという意見もあるが……。


ともあれ、一挙に倒産の危機に追い込まれてしまったウォルトの脳裏に、新たなるキャラクターの構想が生まれた。







そう、あ の ネ ズ ミ で あ る。






この世界のアニメ史上最大のキャラクターがどう生まれたのかについては、ウォルト自身の証言も含めて様々な伝説が存在する。
「ウォルトが修業時代に飼育していたネズミのことを思い出し、いくつかのラフスケッチを書いた。その際耳や目・足などはデフォルメし、より愛されるデザインにした」
という有名な話は、後年著作権関係の問題を処理するために作られた架空の話だとされている(そもそも後述するように、ウォルトはミッキーのデザインには寄与していない)。
また、
「ウォルトがある日スタジオに食べかけのサンドイッチを置いていたところ、ネズミがそれを食べに来て、それを見たウォルトがミッキーを着想した」
「ニューヨークでオズワルドの権利を手放して、失意のうちにカリフォルニアまで汽車で帰っていた時に思いついた」
といった話も、根拠の薄い俗説に過ぎない。

実際のところ、ウォルトはアリスシリーズやオズワルドシリーズの中で度々敵役として登場していたネズミを主役にしようというところからミッキーを着想したようである。
一般に思われているのとは違い、ミッキーのデザインを考案したのはウォルトではなくアイワークスである。
ウォルトのアイデアを基に、アイワークスがデザインを決定したのだ。
ちなみにウォルトは生涯ミッキーを正確に描くことができず、本人も気にしていたという。

ここから、上の「ミッキーをデザインしたのはウォルト」という俗説とは逆に、「ミッキーは実際はアイワークスの功績で、ウォルトは他人の功績を利用しただけ」と言われることも多い。
が、これも事実とは言い難い。
ミッキーの作中における性格やセリフ回し、作品世界における躍動感ある動きなどはウォルトの功績であり、
現代日本のアニメで言えばアイワークスは「キャラクターデザイン担当」、ウォルトは「設定および演出担当」と言える関係である。
どちらが欠けていても、今日のディズニーの成功は無かっただろう。

実際、同時代に天才的なアニメーターや漫画家が揃っていたこともあって、ウォルト自身については
「実業家やテーマパーク設計者としての功績と比べたら、アニメーターとしての功績はさほどでもない」
と言われることも多い。
が、こと作品世界内でキャラクターを生き生きと描写するという技能に関しては、ウォルトは隔絶したものを持っていたと言っていいだろう。


こうして1928年にスクリーンに登場したミッキーマウスは瞬く間に大人気となり、オズワルドをスターの座から追い落とした。
ミッキーがスクリーンにデビューした「蒸気船ウィリー」は「サウンドトラック方式を初めて採用したアニメーション映画」*1であり、
アニメの歴史における最大級の転換点として現在まで語り継がれている。



◆長編アニメーション映画制作

ミッキーマウスの成功に加え、キャラクタービジネスにも活路を見出したウォルトが次に挑戦したのが「長編アニメーション」だった。

ここまで、アニメーションというのは短編であり、映画館では長編映画の上映の合間に見るようなものであるというのが常識であった。
セルアニメであった当時、90分にも及ぶようなフルカラーのアニメーションを作成するなどというのはそれだけで狂気の沙汰とも言えるものだった。
増して、あくまでアニメは子供の娯楽であり、大人が積極的に金を払って見るようなものだとは思われていなかったのだから猶更である。

しかしウォルトの決意とこだわりは尋常ではなく、四年の歳月と170万ドルの資金が投入された。
これは現在の価値に換算すると3億ドルほどになる。
ちなみに2013年に公開された「アナと雪の女王」の制作費は、その半分の1億5千万ドルである。
当時において、どれだけ桁違いのプロジェクトであったのかがうかがえるというものだ。

いかにミッキーマウスが成功していたとはいえ、当時のディズニー社はあくまで当時は亜流であった「アニメのスタジオにしては」成功していたというだけで、
資金が潤沢にあるわけでは決して無かったし、現在のような世界的企業とは程遠かった。
しかしウォルトは、ミッキーで稼いだ資金のほとんどを、成功するかどうかもわからない長編アニメーション制作に投じた。
こういう男である。


こうして「ウォルトの道楽」と散々揶揄されながら1937年に公開された「白雪姫」は、
ディズニー社の目標も一桁上回る6000万ドル以上の興行収入を挙げるメガヒット作となった。
世界初のフルカラー長編アニメーションという歴史的意義だけでなく、内容的にもアニメーション史・映画史に残る傑作とされている。



◆戦時下

このように次々と成功作を世に出していたウォルトであるが、ここまで見てきてもらってもお分かりのとおり、
彼は良くも悪くも強烈な個性の持ち主であり、それはしばしば周囲の人間には欠点にも映った。

上でも述べたように、「白雪姫」は結果的に成功したから良かったものの、経営的には無茶苦茶な行動である。
しかも、ウォルトはこれとほとんど同じような行動を幾度となく繰り返すのだ。



ウォルト「ミッキーマウスで稼いだ金全部白雪姫に注ぎ込むぜ!!」
ロイ「ええー……」

ロイ「白雪姫興行収入6000万ドル突破きた!! これで勝てる!!」
ウォルト「じゃ、その売り上げ全部注ぎ込んで次のアニメ作るから!!」
ロイ「Σ(゜д゜;)」


一事が万事、この調子である。
何度も繰り返すが、こういう男である。



この弟の狂った金銭感覚をコントロールしていたのが銀行家だった兄のロイで、彼の手腕のおかげでディズニー社は資金繰りの悪化を凌いでいた。

しかしいくら成功作を出し続けているからといって、下で働く身としてはこれでは堪ったものではない。
おまけにウォルトには精神的に不安定な部分もあったようで、周囲に当たり散らしたり、鬱状態になったりすることもしばしばだったという。
それでいて、芸術的なこだわりの強さ故に、細かく指示を出して一切妥協しない。
クリエイターとしてはともかく、上司としてはいいタイプとは言えない。
そしてこんな無茶ぶりのしわ寄せを最も食らっていたのが、現場のアニメーターたちである。

実はアイワークスも、ディズニーの上記のような姿勢(特にアニメーターの個性を無視しようとしたこと)に嫌悪感を抱き、1930年に一度袂を分かっている。
ウォルトにとっては幸いなことに、1940年にアイワークスはディズニーに戻るが、ウォルトのやり方は変わらなかった。


そして1941年、ついに ア ニ メ ー タ ー が キ レ た。



低賃金による長時間労働(時間外労働も常態化していた)、どれだけ功績を上げても待遇が変わらない不満*2
ウォルトの専制的な態度などに不満を募らせていたアニメーターたちが、ウォルトと折り合いが悪かったグーフィーの生みの親であるアート・バビットがクビになったのを契機に
「スタジオに貢献しているアニメーターを何だと思っているのか」と遂に怒りが爆発、ストライキを決行した。
これは5週間続いた後グダグダな経緯で和解に至り、結果的に多くのアニメーターやクリエイターがディズニーを去った。

ウォルトは「あんな聞き分けのない奴らを掃除できてせいせいしたわ!!」と負け惜しみにも聞こえることを言っているが、この時ディズニーを出たアニメーターたちが作ったスタジオの
ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカは、この後40~50年代にかけてアニメーションのシェアを一時的にディズニーから奪うことになる。


この一件で家族のような絆で結ばれていた(もしくはウォルトだけがそう思っていた)ディズニー社の人々の心はバラバラになり、ウォルトも深い失望を味わった。
一方この頃のウォルトが力を入れ始めたのが国策プロパガンダアニメーションの作成である。

ストライキ騒動と同じ年に真珠湾攻撃が起こり、アメリカが第二次世界大戦に本格参戦すると、ウォルトは戦意高揚・戦争協力への呼びかけのためのプロパガンダアニメを多数制作するようになる。
特に日本では誤解されやすいが、これらはアメリカ政府や軍がウォルトに依頼して作らせたものではなく、ウォルト自身が自ら持ち込んだ企画である。
有名なのはドナルドが主役の総統の顔や、日本が空襲で焼き尽くされる描写のある「空軍力の勝利」など。

これらについて、一応「アニメが売れなくなったので仕方なく時世に合わせた政治的なネタを扱っただけで、そこまでノリノリで作ったわけではない」*3
という説もあるが、学生時代から国粋的なマンガを描いていたことや生涯保守的な思想の持ち主だったことを考えると、ちょっと首を傾げざるを得ない意見かもしれない。


◆テーマパーク建設

上述のストライキ事件によって「スタジオの空気が最悪です」になってしまったこともあって、ウォルトは徐々にアニメへの情熱を失っていった。
変わって彼が構想し始めたのは「テーマパーク」である。
彼の考えたテーマパークは、従来の遊園地とは異なり、「ある世界観で統一された、そこだけが異世界のような空間」であった。

戦後の1948年頃からこの計画は具体化していったが、まずは土地探しと資金集めが難題だった。
紆余曲折の末、土地はカリフォルニア州アナハイムに確保し、さらに資金集めの手段として新興のメディアであるテレビに着目した。
ウォルトは「ディズニーランド」という紀行番組を放映し、その中で自分が構想中のテーマパークを宣伝した。
この手法は成功し、多くのスポンサーが現れた。
またこの番組は日本でも放映され、日本へのディズニーの紹介に大きな役割を果たした。

こうして1955年7月、世界一有名な遊園地「ディズニーランド」は正式にオープン。
開園スピーチの中で、「大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しい」というスピーチを行った。

しかし、このディズニーランドが成功すると、「一つ成功すると、採算も見通しも度外視してそれを上回るものを作りたくなる」という生来の悪癖が頭をもたげ、
すぐさま2つ目のテーマパーク・それも今度はホテルなども一緒になった「ディスニー・ワールド・リゾート」の構想に着手する。
そしてフロリダに土地を確保して建設に乗り出したが、完成を見ずに1966年に死去した。
死因は肺癌で、晩年まで吸っていた煙草が原因といわれている。
志半ばで倒れたウォルトの意思を反映してか、各地のディズニーランドは「未完のテーマパーク」として、リニューアルや拡張を絶えず繰り返す、終わらない夢の舞台として人々を迎えている。


カリフォルニアのディズニーランドには、ウォルトが建設中のパークで寝泊まりできる用に園内に作らせた消防署風のアパートが現在でも内装・外観全て当時の状態のまま残っている。
ウォルトの死後も「ウォルトがその部屋でパークを見守っている」という想いを込めて、アパートの窓際に設置されたランプは今も灯ったままになっているという……。



【逸話】

現代日本で言うところの「鉄オタ」で、自宅の庭に本当に乗れるミニチュアの機関車を設置していたほど。ちなみにアイワークスも鉄道好きだったらしい。


肩書に「声優」があるのは、ミッキーマウスの初代声優はウォルト自身であったため。
それもスクリーンデビュー時から、1955年までの30年近くも担当していた。
また、最初期の作品ではミニーやピートの声も彼がやっていて、声優がウォルト一人なんてことも。後の山寺無双である。


思想的にはバリバリの保守派で、特に女性差別・人種差別については生前から度々非難されていた。
作品内の描写にとどまらず、ディスニー社の要職には女性や有色人種は決して就けなかったとか、『南部の唄』の公開舞台挨拶の際に直前になって黒人俳優を「目出たい場に相応しくない」と舞台から降ろしたとかいう逸話がある。
もっともこれは別にウォルトだけが異常だったわけではなく、むしろ当時のアメリカの白人男性としてはごく普通の感覚だったと言っていい。
何しろ有色人種に対する差別が違法とされたのは、ウォルトの最晩年にあたる1964年である。
彼の生涯を見てみると、積極的に差別思想を受け入れていたというより、作品制作にのみ情熱を注ぐあまり、幼い頃に身に着けた偏見を是正することにあまりに無頓着だったと言ったほうが近いだろう。
ただし、業界内でもこの辺についてかなり強硬派だったことは知られていたようで、『南部の唄』の際には、普段はウォルトと同じような思想を公言していた白人仲間からすらも「いくらなんでもあれはまずいだろ」と苦言を呈されたという話もある。
なお、時代が経つにつれ価値観も変わっていくなかで、同作は内容的にもポリティカルにコレクトではない、ということで現在は封印作品に近い扱いを受けている
……が、東京ディズニーランド有数の人気アトラクション「スプラッシュマウンテン」のモチーフになっている。でも元ネタが事実上封印作品になっているので、由来を知っているゲストは何人いるやら。
おまけに本家ではすったもんだの末に、モチーフが『プリンセスと魔法のキス』という別作品に挿げ替えられる始末で、『南部の唄』がモチーフなのは東京だけになった。

戦時中に日本を揶揄するようなアニメを多数作っていることから、日本のネット上ではしばしば「反日」とレッテルを張られることもあるが、実際には上記したように、日本がピンポイントで嫌いというより、有色人種全般に対して偏見があったと言ったほうが正確。
なお東京ディズニーランドの建設計画は日本側から出されたものだが、ウォルトの生前には門前払いされており、その死後にようやく計画が動き出したのだ。

当然ながら反共主義者で、ストライキ事件の経験から労働運動を嫌悪していたが、セルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことや旧ソ連にアニメ『3匹の子豚』を売ったことなどから、
赤狩りの嵐に巻き込まれて取り調べを受けたことがある。
このために、自身の潔白を示すためにFBIに知人らの情報を売り飛ばしていたという不穏な説もある。


このように凄まじくクセのある人物だったのは確か。だが、その功績についてはケチのつけようがないのも事実である。
むしろここまで白人中心・男性中心・資本主義大好きな価値観の持ち主であったにもかかわらず、人種や性別に関わらず多くの人に愛される作品を量産したことを評価すべきかもしれない。


本邦の手塚治虫とは、「史上有数のクリエイター」「それぞれの母国のサブカルチャーに多大な影響を残した」という点から、
「金銭感覚ゼロ」「下っ端のアニメーターの待遇には無頓着」というマイナス面まで含めて共通点が多い。
最大の違いは、ウォルトはディズニー社を世界有数の企業にまで育てたのに対して、手塚は虫プロを倒産させてしまったことだろう。
これは前述したように、ウォルトには兄のロイという経営面を任せられるパートナーがいたが、手塚にはいなかったというのが大きい。
なお、1930年代から40年代にディズニー社を始めとする多くのアニメスタジオで起きたストライキ騒動によって、
アメリカのアニメーション業界は日本のようなアニメーターの低賃金重労働問題を免れている。


手塚治虫は自ら「ディズニー狂い」と称するほどのディズニーマニアで、劇場で『白雪姫』は50回以上、『バンビ』は130回以上見たという。しかも映画館にスケッチブックを持ち込んで模写をしていたとか……
後にディズニーの『ライオンキング』が『ジャングル大帝』の盗作ではないかと騒がれたことがあったが、手塚は若い頃に
ディズニー映画を勝手にコミカライズして売るという、今だったら炎上必至なことをしている…が、21世紀になって何とディズニー側からの依頼により復刊。まさかの公認となった。
また、『ジャングル大帝』には明確に『バンビ』からの影響が見られることなども指摘されている。


東京ディズニーランドのエントランス近くのエリア「ワールドバザール」は、ウォルトが少年時代を過ごした20世紀初頭のミズーリ州マーセリーンの街並みをモデルに作られている。
当時は絶対に現地に無かったであろう日本食レストランが「アメリカでも和食の美味しさが知れ渡ったから」という設定で開かれているが。

【デマ・俗説】

手塚治虫がウォルトを日本に招いた時、レストランの食品サンプルに興味を示したので、手塚はウォルトにお土産としてプレゼントした。
するとウォルトは大層喜び、後日その食品サンプルとミッキーたちの人形を一緒に撮った写真を手塚に送ってきた。

ウォルトのお茶目さを示すエピソードとして流布されている逸話であるが、そもそも少なくとも公式に確認できる限り、ウォルトが来日したことは一度もない。
一応ウォルトの最晩年に当たる1964年に、博覧会場で2人は会っているが、わずか一分足らずの出来事であり、これが最初で最後の面識である。
交わした言葉も社交辞令の範囲でしか無かったようだ。
この逸話は後世の作り話、というより「一休さん頓智話」などと同レベルの、「歴史上の人物を題材にした小噺」のようなものであろう。

また、「博覧会場で出会った時に、手塚がウォルトからなぜミッキーの指が4本なのかを教えられた」という逸話もネット上を中心に散見されるが、これも全く根拠がない。
上記のように、手塚とウォルトの会話はわずか一分足らずであり、社交辞令しか交わさなかった。


ウォルトに関する噂として、FBIのスパイ説と並んで根深いのが薬物中毒説である。
ただし、具体的な根拠とされるのは「ダンボのピンクのゾウのシーンがヤバすぎる」という一点である。
確かにディズニーアニメ有数のトラウマシーンであるが、「酔っぱらうとピンクのゾウが見える」というのは欧米では古くからある言い回しで、そんなに奇異な発想ではない。
ウォルトは前述したように精神的に不安定な部分があり、晩年には実際に酒に溺れていたため、このような話が生まれたのかもしれない。










この項目が完成することはない。
世の中にアニヲタwikiがある限り追記・修正され続けるだろう。




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最終更新:2024年02月21日 18:35

*1 「世界発のトーキーアニメーション」という説明は厳密には間違い

*2 これでも当時のアニメスタジオの中では労働環境はかなりマシな部類だったと言われる

*3 ニール・ガブラー「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」。これはウォルトの伝記にしては珍しくディズニー社によるチェックを受けておらず、全体的にもさほどウォルトを擁護しているとは言えない内容である。そのため、プロパガンダアニメに対するこの分析はそれなりに説得力はあるかもしれない