公正世界信念

登録日: 2018/02/22 Thu 01:06:08
更新日:2023/11/26 Sun 12:01:12
所要時間:約 8 分で読めます





公正世界信念とは、現実の世界は人間の行いに公正な結果が返ってくる世界だ!!という信念…早い話が思い込みである。

社会心理学の分野では1960年代にメルビン・ラーナーによって提唱された。
人間の行いに対する公正な結果を信じることで、人間は必要以上の警戒をせずに生きられる、という考え方である。

公正世界信念とは?


幸運なことはいい人に起こり、不運なことは悪人に起こる。
努力した者が報われ、努力しなければ報われない。
正しい行いをしていればいつか報われるが、悪事を働けば法の罰や天罰が下る。

皆さんはそんな言葉を生まれてからどこかで一度は聞いたことがあるはずだ。
「アリとキリギリス」をはじめ、絵本やおとぎ話の教訓でも日常的な話である。

世界はそういう風に作られている。
仮に目で見える所で罰や報いがなくとも、いつかそういった公正な扱いを受けられるはず。


そういう考え方を公正世界信念と言うのである。(公正世界仮説・公正世界誤謬ともいう)



公正世界信念を持つメリット


公正世界信念を持った人たちはどう考えるだろうか。

人々はすぐに結果が出ず、なかなか先の見えない努力であっても「努力すれば報われる」と考えることで続けることが出来る。報われないと思って努力を続けられる人は少ないだろう。

例え警察に捕まらなくても悪事を慎み、人々を思いやることが出来るようになる。情けは人の為ならずと言うやつである。

公正世界信念に従うことで、人々は「公正に暮らしていれば自分は安心だ」と信じ、常に不安と戦う負担を避けることもできる。

そんな訳で、公正世界信念を皆が持つことは決して悪いことばかりではない。
多くの人が公正世界信念を持つことで、社会は皆が努力して研鑽に励み、悪事を慎む。
それは社会がよい方向に向かっていくことに他ならない。

そんな風に、公正世界を疑似的にでも作れるように、警察や司法は犯罪者を取り締まったりもするし、努力し成果を上げた者は優れた者として評価されていくのだ。



本当に世界は公正なのか?


本当にいい人だけが幸運なのか。
本当に努力した者だけが報われるのか。
本当に悪事は罰されるのか。

残念ながら努力したのに報われない場合も世の中にある。
努力すれば皆が報われるなら、皆が1位を目指して同じだけ努力すれば、皆が1位になるという訳の分からない事態が起こることになる。

何の努力もしていないのに、ラッキーで利益を得る人もいる。
宝くじで一等をあてることに、努力は関係ない。

悪事を働いた者が法の罰を受けず悪事の利益でウハウハとなり、つつましやかに生きてきた人々が被害を受けて泣き寝入りということもある。
警察がどんなに頑張っても全ての犯罪者を捕まえることはできない。

つまり、公正世界信念は社会に有用だが、公正世界信念そのものは正しくないのだ。
現実世界では往々にして「憎まれっ子世にはばかる」「やったもん勝ち」ということになってしまいがちである。
そもそも悪事に走ったり、他人を害する目的が「自分が優位に立つため」なので当然ともいえるが…。
そういった弱肉強食の世の中に道徳を根付かせるため、古来宗教によって「善人は神に救われ天国へ行き、悪人は神罰が下り地獄へ落ちる」と説かれたりもする。
公正世界信念もそれと同じような役割を果たしているといえる。

世界は不公正なんだと信じ込んでしまうと、多くの人々はやる気を失い、悪事に抑止力は働かず、研鑽されない人の力は下止まりになってしまう。
現実の国家にも「無法地帯」「失敗国家」と呼ばれる地域があるが、公正世界信念を含む正義・道徳崩壊の極致ともいえる。


公正世界信念に拘り過ぎると?


上記したとおり、公正世界信念は努力の原動力になるなど、人々をよい方向に導く考え方でもある。
だから人々は公正世界信念を疑わない。
安易にそれを疑うことは、努力を否定し、正しい行動をすることにメリットがないと宣伝すること。
自分を含め努力し、見ていない所でも法を犯さず正当に生きている人々を不安に陥れること。
それは、社会の秩序を乱すことでもあるのだから。
実際、人間、努力すれば成功につながる確率は上がるし、他人を助けることで信頼や尊敬を集め人間関係に恵まれる機会も多くなる。

だがこれは「うまくいきやすくなる」だけであって、「絶対」ではない。
公正世界信念から外れた事態…例えば理不尽な事件が起きて、善良に暮らしていながら被害者が出てしまうと言うような事態が人々の目に突きつけられることがある。
居眠りや飲酒運転の車に跳ねられるかもしれないし、自暴自棄になった通り魔に襲われるかもしれない、突如大震災に見舞われ何もできず命を落とすかもしれない。
平和な日本に限ってさえ、今日と同じ明日を迎えられる保証なんてありはしないのだ。

公正世界信念に基づく『世界は公正である』という認知と、『理不尽な事件で被害者が出るという不公正な事態が起きている』という認知。
どう考えても両者の間には埋めがたい溝がある。
こうした認知の間の溝を前にして、『現実は非情である』と素直に現実を受け入れ、『世界は公正である』と言う認知を改める、少なくとも公正でないことも世の中にはあるのだと考えるのが本来持つべき思考回路である。

だが、こうした自らの持っている認知を改めるのは、それ自体が心理的に苦痛なことでもある。自らの認知の誤りを認めるというのは決して楽なことではない。(こうした現実と理想のズレを認識することに伴う苦痛を認知的不協和という。)
それに、多くの人は世間が実は公正でないなんて認めたくない。世間は実は公正だと考えて安心して生きていきたい。

こうした世間の公正さに関する認知的不協和を解決する方法として、人は「世界は公正だが、このような事件が起きた」とこじつけて考えてしまうことが多いのだ。
思想を現実に合わせるのではなく、現実を思想に合わせてしまうのである。

そしてこのこじつけ、実はかなりやばいのだ。
どうやばいかは、3つの例を出してみよう。



公正世界信念の暴走~性犯罪の例~


とある女性。夜道で性犯罪の被害に遭ってしまったことが報道された。

「本当にこの犯人クズだな。被害者の人がかわいそうすぎるよ…」

『聞こえますか…世界は公正なものなのです…。その被害者の方が被害に遭ったのも公正な結果にすぎないのです…』

ハッ!!

「この世界は公正なのだ。そんな被害がある訳がない!!
この被害者の言っていることはインチキだ!!インチキの被害を訴えるデマ野郎だ!
「な、なんだってー!!」

この世界は公正なのだ。つまり、被害に遭ったような人々の結果も公正なのだ!!
つまり、被害に遭った人は性犯罪の被害に遭っても仕方ないんだ!きっと男を釣るような服を着て誘っていたのが原因だ!!つまり被害者の自業自得なんだ!!
「な、なんだってー!!」

「この世界は公正なのだ。つまり、被害に遭ったような人々の結果も公正なのだ!!
被害に遭った人はふしだらな女だったから、天罰が当たったんだ!!
「な、なんだってー!!」


傍から見れば、被害者にいわれのない人格攻撃がされているようにしか見えないだろう。
だが、報道から事件や被害者の情報を全て知ることはできない。プライバシーだってあるのだから当然である。
そして公正世界信念を疑わない人々が分からない情報を公正世界信念に従って想像すれば、被害者が被害に遭ったのは「公正な結果」となってしまう。その公正さを保つために、被害者にこんないわれのない非難が始まるケースも少なくない。
ほんのわずかな落ち度があると(例:詐欺は騙される方が悪い、いじめはいじめられる方が悪い)、そこがとっかかりとなってしまい、これでもかと誇張される場合もある。

犯罪にあった被害者の行動を検証することは、卑劣な犯罪のターゲットにならない方法を探り、似たような犯罪の被害を防ぐ方法が見つかるので、悪いわけではない。
だが、こうした行動検証と公正世界信念が合わさると、「犯罪被害者が責められる」という笑えない事態が現実に起こってしまうのだ。
日本では、性犯罪被害を訴えると、こうしたあらぬ憶測が被害者の方を襲うため、被害者が被害を訴え出ることが出来ない、と言うことが言われている。

こうした考え方は、犯罪被害者に限らず、人種差別や貧困差別に理由を与えて正当化してしまったり、ときには被害者が自分で自分を責め始めるという事態にもつながってしまうのだ。

公正世界信念の暴走~とある3割バッターの例~


プロ野球で首位打者を目指し、1軍レギュラーとして定着したとある3割バッター。
一流選手と呼ぶにふさわしい実力だが、どうしても首位打者にはなれない。
自分の楽しみもなしにしてとにかく体を鍛え、コンスタントに打ち続けてもいつまでも首位打者になれない。

「こんなに努力しているのにトップになれない…」
「あの首位打者は特別製だよ、十分君も一流選手じゃないか。チームの中で役割を果たせればそれでいいじゃないか。」


『聞こえますか…世界は公正なものなのです…。その3割バッターが首位打者になれないのも公正な結果にすぎないのです…』

ハッ!!

「この世界は公正で、首位打者の結果も努力の結果として公正だ。
つまり、3割バッターは努力が首位打者に比べて足りないんだ!!
素振り300本?500やるんだよ。500でダメなら700やれよ!!
努力しすぎて体を壊した!?それも体作りと言う努力が足りないからだよ!!」
「な、なんだってー!!」

「この世界は公正なのだ。
つまり、首位打者になれないのは努力の質が悪い!!
あるいは君の努力は人並より上と言うだけで首位打者に届く訳がないんだ!!
「な、なんだってー!!」


スポーツの世界でトップを争うとすると、厳しい練習に励まなければならない。
初心者なら、ある程度訓練すればすぐに目に見える成果が出るが、トップクラスになれば、辛い訓練をしても僅かな成果しか出ない。
それどころかケガや老い、強力なライバルたちとも戦わなければならず、逆に力が落ちることさえある。
「努力すれば報われる」公正世界信念を持っていなければやってられない世界である。

だが、公正世界信念が一度いびつな形で現れると、上記のような無茶な根性論になってしまったり、怪しい宗教に引っかかる心の弱さの原因になってしまうのである。
もちろん、そんなことを言う人たちは、その3割バッターが体を壊したり、成績が落ちたところで責任を取ったりせず、やはり公正な結果と信じ込むだけである。

確かにフィジカルスポーツなら野球のイチローやフィギュアの羽生結弦、頭脳スポーツでも将棋の羽生善治や囲碁の井山裕太といったトップ選手たちは常人では計り知れない努力をしていることだろう。
だが、優れた指導者やコーチとの出会いや、本人自身の才能や肉体的資質と言う幸運な要素も合わさらなければそこまで行くことはできない。
また、他の敗れたライバルたちについて、どんなメニューをこなしているのかも検証せず、結果だけ見て努力が足りないと見下すのは、無礼極まる考え方でもある。
せめてどんなメニューをこなしているのかくらいは見て判断すべきであろう。

公正世界信念の暴走~ハンセン病患者の差別~


日本ではハンセン病患者に対して、陰惨な差別が行われてきた。
こうしたハンセン病患者に対する差別にも、公正世界信念が関係していると言われている。

「この世界は公正なのだ。ハンセン病患者なんかになるのは前世からの業があるからだ!!
だからハンセン病患者には手が差し伸べられず苦しむのは全く当然のことなんだ!!
「そうだそうだ!ハンセン病患者なんか差別されて当たり前なんだ!」

結果、ハンセン病は「天刑病」とすら呼ばれた。
患者に対して手を差し伸べないにとどまらず、意図的に行われる差別は、「患者が悪いのだ」と正当化されてしまった。
ハンセン病の伝染力が低いことが解明され、特効薬も見つかるまでは、百歩譲って患者への隔離も仕方なかったかもしれない。
だが、ハンセン病が科学的に解明された1950年代以降も、患者は隔離政策や家族まで含めた陰惨な差別に苦しむことになってしまった。
「患者が悪いのだから、何で人権擁護のために頑張ってやる必要があるのだ」という視線が、差別を生んだだけでなく、患者の救済を大幅に遅らせる結果となったのである。




こんな風に、公正世界信念は病者はもちろんのこと、謂れのない社会的な弱者や障碍者、人種を理由にした差別を「差別ではなく区別」と正当化してしまうことがある。

公正世界信念は必要な考え方だが、正しい考え方ではないのだ。
そのことを忘れずに付き合っていかなければ、いつか被害者や社会的弱者にいらぬ鞭を打ち、無茶を強要する加害者になってしまうことを忘れてはならないのである。

追記・修正されないのは建て主の努力が足りないからだ!! 



この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 公正世界信念
  • 公正世界仮説
  • 旧約聖書
  • ヨブ記
  • 自業自得
  • 心理学
  • 社会心理学
  • 無茶ぶり
  • 根性論
  • 精神論
  • 思い込み
  • 幻想
  • 現実逃避
  • 願望
  • 誤謬
  • バイアス
  • 因果応報
  • アリとキリギリス
  • こじつけ
  • 言いがかり
  • 公正世界誤謬
  • 心理学
  • 天国と地獄

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年11月26日 12:01