ヨハン・パッヘルベル

登録日:2010/03/07(日) 16:35:43
更新日:2020/12/22 Tue 21:32:33
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ヨハン・パッヘルベル(1653年9月1日 - 1706年3月9日)とは、ドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派を代表するオルガニスト。

生前から大人気音楽家だったパッヘルベルは、ドイツ中部・南部の多くの作曲家、あの大バッハにも影響を与え、
バロック中期における最も重要な作曲家の一人とされる。

おい誰だ、世界一の一発屋と言ったのは!


生涯
1653年にワイン業を営む家庭に生まれる。

少年時代から音楽教育を受け、学問も優れていたパッヘルベルは1669年に大学へ進学。
そこで教会のオルガン奏者となるが、大学は経済的な理由で1年で退学してしまう。
それでもパッヘルベルは奨学生となって他校で勉学に励み、学外でも音楽を熱心に学んだ。学生や教授は、そのパッヘルベルの姿と学才に感動したという。

1673年頃にウィーンに移り住み、聖シュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となる。そこでヨーロッパ各地の音楽に触れ、大きく影響される。


1677年にはアイゼナハで宮廷オルガン奏者となる。そこではあの大バッハの父親と知り合い、子供たちの家庭教師を任せられた。
しかし宮廷音楽家の大量解雇でパッヘルベルは職を失い、僅か1年でその地を去る。

1678年、上司からの紹介状でエアフルトの教会でオルガン奏者として雇われた。
エアフルトでの12年間で、パッヘルベルはドイツを代表するオルガニスト・作曲家の地位を確立した。それには多大な努力と苦労があったという。

また、この地でもバッハ家と交流する。


1690年、シュトゥットガルトの宮廷音楽家・オルガン奏者に就任、しかし大同盟戦争勃発で2年で辞める。その後、ゴータ市のオルガン奏者や教会に勤める。


晩年はニュルンベルクで市からの支給金で過ごし、多くの楽曲を作曲した。

1706年、52歳で死去。


作品
当時あった様々なジャンルの音楽を作曲し、その作品は200曲以上ある。
特にオルガン曲で自身が確立した様式「パッヘルベル・コラール」は、あのバッハにも影響を与えた。

ここでは特に有名な楽曲を紹介する。

【三つのヴァイオリンと通奏低音の為のカノンとジーグ 二長調】
特に第1曲のカノンが最も有名で、かつ一般人に知られている唯一の楽曲。「パッヘルベルのカノン」の原曲である。
三つのヴァイオリンと通奏低音の為の作品で、カノンの後に短いジーグが続く。

現在は幅広いジャンルの音楽でフレーズが引用され、またBGMとして人気がある。
真面目な音楽からアニソンまで引用されているため、あげてくとキリがないかもしれない。


パッヘルベルが一発屋と呼ばれる全ての元凶・・・である。


その他
1681年に市長の娘と結婚して一人息子を授かるが、2年後に妻子を伝染病で亡くす。1684年に2度目の結婚をし、5男2女をもうけた。

実は「パッヘルベルのカノン」は生涯唯一のカノン(様式)である。


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最終更新:2020年12月22日 21:32