飛騨川バス転落事故

登録日:2017/09/10 Sun 09:31:46
更新日:2024/03/23 Sat 12:57:25
所要時間:約 10 分で読めます





『飛騨川バス転落事故』とは、1968年8月18日に岐阜県加茂郡白川町で発生したバス事故である。

現在名古屋から国道41号線益田街道を下呂・高山方面へ走っていくと、左手に白い石の塔が建っている。
これは「天心白菊の塔」といい、この事故の犠牲者の慰霊のために建てられた慰霊碑である。

事故はこの白菊の塔から300m上流で起きた。


事故発生前の気象状況


1968年8月17日、名古屋周辺は日本海を時速50kmで北上する台風7号の影響で朝からにわか雨が降る悪天候だった。
岐阜地方気象台は朝のうちに大雨・洪水・雷雨注意報を発表していたが、午後になると所によって晴れ間も見えたことから、レーダー観測と照らし合わせて17時15分に注意報を解除した。
そして19時前の天気予報で翌日の岐阜県内は晴れると発表した。

一方、台風7号は北海道西側の沖合い400kmで温帯低気圧に変わったが、ユーラシア大陸に横たわる冷たい空気との間で寒冷前線が発生。
それに向かって太平洋から暖かい空気が入り込んで大気の状態が不安定になり、夜になると岐阜県内で直径数km程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生。
これを観測した富士山レーダーからの連絡を受けた気象台は20時に雷雨注意報を発表。2時間半後には大雨・洪水警報に切り替えた。
日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れが県内各地で発生し、高山本線は上麻生駅~白川口駅の間で復旧まで1ヶ月近くを要した線路崩落が発生した。


ツアーについて


この事故で犠牲になったバスの乗客は、名古屋市で団地の主婦を対象に無料新聞を発刊していた株式会社『奥様ジャーナル*1』が主催し、
『名鉄観光サービス』が協賛した「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」の参加者だった。
お盆休みの週末、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマ、飛騨高山の観光を手軽に楽しめる家族旅行向けの企画ということもあり、
ツアー参加者は主催の予想を大きく超えて700人以上が集まった。

当然のことだが、700人もの参加者をバス一台に乗せられるわけもなく*2、さらに依頼された岡崎観光自動車*3でも車両が足りず、
最終的に岡崎観光自動車を中心に4社から車両を手配した。
予定では名古屋市内の各団地をバスが周って乗客を拾い、愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺駐車場に全車集合。
休憩の後に出発し、岐阜県に入って飛騨川沿いに国道41号を北進、美濃太田、高山、平湯を経て翌朝4時30分に標高3000メートル近い乗鞍スカイライン畳平で御来光を迎え、夕方に犬山へ戻って解散予定だった。
夜行運転を含む片道160kmの行程で、ベテラン運転手にとっては慣れた道でもあった。


出発から予定変更までの流れ


ツアー一行は、主催者が乗った1号車を先頭に16号車まで合計15台*4のバスを連ねて22時10分ごろ犬山を出発した。
乗客725人、主催・運転手・添乗員48人の合計773人という大所帯だった。

出発直後から雨が降り出し、美濃加茂を通過した辺りから激しい雷雨に遭遇するも、ほぼ予定通りに休憩地点のモーテル飛騨に到着した。
運転手にとって慣れた道であり、激しい雷雨の中であっても問題なく走れたのだが、それでも毎時50mm以上という猛烈な豪雨と、
中山七里の入口付近で土砂崩れが発生したという情報が対向車からもたらされたことで、運転手・主催・添乗員が協議してツアーの続行を断念。
1週間延期することにし、各車の出発地点まで引き返すことにした。

引き返すルートは通過してきたばかりの道路にし、乗客をとりあえず帰宅させるという判断だったが、
本来乗客を安全に帰宅させるためのこの判断が、結果として危険地帯へと突っ込んでいくことになってしまった。


帰路・事故発生


日付が変わった8月18日の0時5分。
15台のバスを1号車から7号車までの第1グループ、8号車から16号車までの第2グループの2つに分け、激しさを増した雷雨のなかで名古屋への帰路についた。
出発から13分ほどで白川口駅付近にある飛泉橋を通過。ここで5号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた消防団に呼び止められ、ここから先は危険だからしばらく待った方がいいと勧告される。
しかし通行規制は敷かれていない上、1号車から3号車は既に橋を通過していたため追いかけることにし、6・7号車もこれに続いた。
一方やや遅れてきた第2グループは、消防団の勧告に素直に応じて待機し、深夜の豪雨をやり過ごした。

第1グループは飛泉橋からすぐの地点で小さな崩落現場に遭遇。
人力で除去できる量だったので、運転手・添乗員がずぶ濡れになって土砂を除去し進行した。
しかし上麻生ダムを過ぎて1km程で大規模な崩落が発生しており、名古屋まで進むのが不可能になった。
このため白川口駅まで戻ることにしたが、木材を積んだ大型トラックが1車線を塞ぎ、
更に大型バスが転回できるほど道幅もなかったため、1~3号車は右車線をバックして移動を開始し、5号車を先頭にした。
ところが25時35分頃に約600m後方でも土砂崩れが発生し、6台のバスは完全に動けなくなってしまった。

各号車の交代運転手は稲光と雷鳴が続く中、車外へ出てヘッドライトを外し、崖を照らして鉄砲水の警戒にあたった。

立ち往生から40分ほど経った26時11分頃、高さ100m、幅30mに渡る巨大な土砂崩れが発生。
崩れた土砂は5号車から7号車を直撃し、7号車は奇跡的にガードレールに抑えられた*5ものの、5号車と6号車は土砂によって飛騨川へと押し流されてしまった。
乗務員たちが混乱する傍らで寝ている乗客も多かったが、土砂崩れの大音響と振動に寝ていた乗客も飛び起き、特に大惨事を目の当たりにした7号車は騒然となった。
5・6号車以外にも、この時3号車の運転手が後方の様子を伝えるために5号車に移動しておりバスとともに行方不明、
逆に対策協議のために7号車に移動していた6号車の運転手は助かったものの、自車の最期を7号車から目撃することになった。

難を逃れた運転手と添乗員は乗客の安全を確保するために車外に誘導し、このうち4人が複数の崩落現場を通り抜けて対岸にある上麻生ダム見張所へ救助を要請するため向かった。
救助要請を受けた見張所職員は直ちにダム本部に連絡し、二次災害を防ぐために残りの乗員・乗客や一般ドライバーを見張所や水門機械室、資材倉庫に避難させた。

ダム本部から警察へ事故の通報が届いたのは、転落からおよそ3時間半経過した5時40分だった。


捜索


通報を受け、加茂警察署他4警察署機動隊、各地の消防団、さらに陸上自衛隊第35普通科連隊が捜索・救助に駆けつけた。
しかし現場付近は飛水峡と呼ばれる景勝地で、崖が切り立っており100人以上の乗員・乗客の安否は勿論バスすら発見できなかった。

事故の翌日、19日10時半に転落現場から約300メートル下流で5号車が発見された。
5号車は車体が押しつぶされ、タイヤを上にした状態で砂だらけの車内から3人の子供の遺体が見つかった。
このほか現場周辺で23人の遺体が発見されたが、6号車や他の行方不明者は見つからなかった。

普段から流れの激しい飛騨川が大雨でさらに増水しており、救助活動は難航。
行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。

これに対する答えは「川の水が邪魔なら止めてしまえばいい」というものだった。
ちょうど事故現場上流には上麻生ダムと名倉ダムという2つの発電用ダムが存在していたため、
この2つのダムを活用して飛騨川の水位をゼロにし、水の引いた僅かな時間で行方不明者の捜索を行う。
この案は名倉発電所が発電している限りは名倉ダムの満水を遅らせられること、上麻生ダムが莫大な水圧に耐えられるために可能であると判断され、水位ゼロ作戦と名付けられた。
バスを引き揚げるための重機を陸上自衛隊豊川駐屯地から、水中捜索を担当する潜水部隊を海上自衛隊横須賀基地より呼集し、8月22日の朝作戦決行が決定した。

作戦の流れは以下の通り

  • 8:00→上麻生ダムのゲートを全開にし、ダム湖を空っぽにする。同時に名倉発電所は全出力運転を行い、名倉ダムの貯水を可能な限り使用し下流への放水を抑える。
  • 9:50→名倉発電所の運転を止め、名倉ダムから放流開始。
  • 10:00→上麻生ダムのゲートを完全閉鎖し、貯水を開始。同時に上麻生発電所は全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。

このゲート完全閉鎖でダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、ため池のような状態になった。
そして6号車が事故現場からおよそ900m下流でようやく発見されたが、ゲート完全閉鎖からおよそ30分後、ダム湖が満水になり危険な状態となったため、再度上麻生ダムは放流を開始した。
水位ゼロ作戦は翌日・翌々日も実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功。
しかし車体は「く」の字に折れ曲がり、屋根や座席等も見る影もなく、子供の1遺体が発見されただけだった。
これで更に下流の捜索が必要であると判断され、捜索範囲を川辺ダムまで拡大。ダムの水をすべて抜いて捜索を行った。

行方不明者は全て飛騨川へと投げ出され、遺体は事故翌日には知多半島にまで流れ着いており、捜索は下流の広い範囲にまで拡大された。
最終的に陸上・海上・航空自衛隊員9000名以上、警察・消防、バス会社・名鉄グループ関係者などおよそ36000人が投入された。
期間は1ヶ月以上に渡り、最終的に95人の遺体が発見された。発見された遺体は航空事故並に損傷が激しく、DNA鑑定のない時代故に取り違えも多く発生した。

結局2台のバスに乗っていた乗客・乗員合計107人中104人が死亡する大惨事となり、9人の遺体が見つからないままとなった。
3人の生存者は5号車の運転手、添乗員、家族4人でツアーに参加していた男子中学生で、
いずれもバスが転落する時に割れた窓ガラスから車外へ投げ出され、たまたま立木などに引っかかったことで奇跡的に生還した。
助かった中学生は家族全員を失うことになったが、祖母や親戚の支えもあって大学進学を果たしている。

事故後、取材のために大阪からタクシーで現場入りした産経新聞の記者がこんなエピソードを伝えている。

小学校か中学校かの体育館だったが、二晩めだったか、かなり身許も判明してきて嗚咽と悲鳴と線香の煙が支配している中で、目前の40代前くらいの男性がひとつの棺の前で身じろぎもせずたたずんでいた。
声をかけて驚いた。「これは家内です。あと娘2人を待ってます」という。家族は、と聞くと「家族4人です」。息をのんだ。家族ほぼ全滅の悲劇だ。
しかし、この男性は大声で泣くでもなく淡々と「神の試練です」という。
仙台で暮らしていて夫人の実家に帰っていた3人が犠牲になったのだ。言葉のはしばしからクリスチャンなのはわかったが、少し冷たいのではないかとさえ思えた。

さらに二晩過ごした昼過ぎ。遺体はかなり流されて伊勢湾の河口近くで見つかるようになっていた。
片手しか見つからなくて、自宅から持参したコップからとった指紋で名前が確認された遺族が「片手だけでお葬式をします」というようになっていた。
そんな時、現場に「遺体がひとつあがった。こどものようだ」というニュースが流れた。私も駆けつけた。あの男性もいた。

消防団員がこどもの遺体を抱きかかえて、はるか下の岸辺に立っていた。そのときである。
あの男性が「XX子!」と叫ぶと50メートルはあろうかという崖を駆け下りた。
転んだときのためにみんなが手を差し出す用意をしていたが、一度も転ばず駆けつけ、我が子を抱きしめた。
周りの男がもらい泣きをするなか、この人はまた崖を登り始めた。
それにしても不思議だった。あの距離からどうして我が子と分かったのだろうか。書くのもはばかられるほど痛みが激しく、私には男女の別もわからなかった。
それに4日もたっているのに、下流に流されず現場近くで見つかったのも不思議だった。
*6


原因

気象観測技術が進歩した21世紀を迎えても集中豪雨の予測は非常に難しい。
しかも当時は携帯電話もインターネットもなく、気象警報をリアルタイムで知るにはラジオに頼るしか無かった。
ただしバス車内でラジオをつけるのは寝ている乗客を起こしてしまうことになり、難しかった。

偶発的な誤った判断が起こした人災に悪い偶然が重なるという自然災害に起因する大惨事にありがちな悲劇と言えよう。


事故後

1969年8月18日、事故現場から約300m下流に冒頭でも記述した「天心白菊の塔」が建立された。*7
偶然にもこの日、現場から1km下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。

そしてこの事件を契機に雨量規制による通行止制度の制定や道路の改良工事等が行われ、計画されていた東海北陸自動車道の開通が急がれるようになった。
また道路交通情報を集約し告知する必要性が認識され、日本道路交通情報センターが1970年1月に警察庁と建設省の認可のもとで発足した。



追記・修正は天気予報をきちんと確認してからお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 事故
  • 飛騨川
  • バス
  • 転落
  • 転落事故
  • 飛騨川バス転落事故
  • 岐阜県
  • 集中豪雨
  • 土砂崩れ
  • 天心白菊の塔
  • みんなのトラウマ

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月23日 12:57

*1 今日で言うフリーペーパーの走りとも言える存在。2014年に廃刊

*2 現在の観光バスでも最大で60人程度

*3 後の名鉄東部観光バス→名鉄観光バス

*4 号車番号は16まであるのに台数が15台なのは、4号車が「死」を連想させることから験を担いで欠番になっていたため。つまり5号車が4台目になる。

*5 事故当時の新聞によると、7号車も本来押し流される位置に停車していたのだが、5・6号車より後方にいたので土砂の直撃に一瞬猶予があり、土砂崩れに気が付いた運転手がバックしたため間一髪で助かったという。

*6 出典:ブンヤのたわ言(http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/tawagoto.html#hida

*7 その後、6キロほど上流の「よいいち41美濃白川」敷地内に移設されている