周倉

登録日:2017/06/17 Sat 15:45:47
更新日:2024/03/18 Mon 17:14:47
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周倉とは、小説『三国志演義』に登場する武将。
元は大規模な民衆反乱軍「黄巾党」崩れの山賊だったが、関羽の義に惹かれてその配下となり、その死に至るまで忠実な部下として彼に付き従った。
中国では関羽の伴神として関平と共に信仰対象になっており、全世界の関羽廟で祀られている。


【登場】

演義28回で、曹操の下を辞した関羽が劉備の奥方を警護しつつその下に帰る道中、臥牛山を根城とする山賊の長として初登場。
馬超と同じく北の涼州の出身で、山賊になる前は黄巾党の一員として張宝に仕えていたが、その際に敵として見かけた関羽のファンになっていたらしく、関羽に熱烈に同行を願い出て許可された。

しかしこの部下になる過程はやたらと回りくどく、なるべく簡単に書いてもこうなる。

◆関羽一行が一夜の宿を求めた地主郭常の家で、そのドラ息子が関羽の乗馬である赤兎馬を盗もうとして失敗する。

◆ドラ息子はつながりのあった山賊裴元紹に助けを求め、共に赤兎馬を強奪しようと道中で関羽を待ち伏せする。

◆しかし裴元紹は相手が関羽であることを知ると態度を一変させ、ドラ息子を張り倒し土下座して許しを乞う。

◆関羽が「なぜ私の名前を知っている?」と聞くと、裴元紹は山賊仲間である周倉から常々関羽将軍の勇名を伺っていた、と言って周倉の話をする。

◆するとその直後に当の周倉がかけつけてきて、関羽に「ずっとファンだったっス!部下にして欲しいっス!」と熱烈アピールする。

◆その熱意に免じて関羽も周倉とその配下たちの同行を許したが、奥方に拒否されたためこれをキャンセル。

◆しかし周倉がどうしても同行をと願ったため、「まあ一人二人ぐらいならいいかな……」と奥方も折れ、晴れて部下にしてもらえることになった。

◆周倉は「奥方を無事送り届けたら迎えに来るので、それまで部下をまとめておいてくれ」と後を裴元紹に託して出発する。

という流れになっている。これ別に裴元紹とか郭常とかいらなくない?
しかも「関羽を慕う山賊が、部下にしてくれと頼む」という展開はこの直前にも廖化でやったばかりであり、なかなか天丼にもほどがある展開である。

まあそれはともかく、この後周倉は関羽の許可を得て裴元紹と配下たちを迎えに行くのだが、既に裴元紹はある旅人(趙雲)の馬を奪おうとして返り討ちにされ、山賊団も乗っ取られてしまっていた。
周倉は怒って趙雲に挑むもまったく相手にならず、半殺しにされて命からがら関羽の下に逃げ帰ることになった。

この28回というのは、曹操の下にいた関羽、山賊化していた張飛、浪人化していた趙雲、関羽の養子になった関平、そしてこの周倉などが一斉に集い、袁紹の元から離れた劉備の新たな再出発を彩るというお祭り回である。

……その割には長年の友人を殺されるわ部下を失うわ三か所も手傷を負わされるわで、周倉1人痛い目を見ている感じがしなくもないのだが。


【活躍】


しかしフラグ管理が複雑そうなイベントを経て仲間になった割に、周倉はそれほど目立った活躍をしていない。次に登場するのはなんと66回、作中時間で20年近くが経過してからのことである。

当時呉と蜀は荊州の領有問題を巡ってモメており、蜀側の不誠実極まりない態度に怒った孫権魯粛は共謀して「会談を設けて関羽を呼び出し、あくまで荊州を返さないならその場で殺そう」作戦を発動した。

周倉はこの会談に関羽のお供として参加するが、会談中に「天下の土地は徳のあるものが治めるべきで、呉の独占すべきものではない!」どう考えても盗人猛々しい発言をしたため、関羽の叱責を浴びて退出させられた。

……かと思いきや、これは事前に打ち合わせてあった手筈通りの行動だった。
外に出た周倉は関平率いる兵500を乗せた船に合図を出し、会談場へと漕ぎ寄せさせる。
それを知っていた関羽は酔ったふりをして魯粛を拉致し、殺気だった呉軍への盾とすることで無事船へとたどり着き、そのまま逃走することに成功したのである。

その後関羽は魏征討のため、北上して樊城・襄陽を攻めた。
入蜀戦~漢中戦と、益州組(劉備・張飛・趙雲・黄忠etc)の活躍が続いた後の久々の関羽回であり、周倉も関羽のお供として大活躍……できなかった。

この襄陽戦において、関羽の相談役&狂言回しを務めるのはもっぱら関平の仕事であり、周倉は当初忘れられたかのように全く登場しないのだ。
関羽の侵攻が始まった73回では、関平、廖化、馬良伊籍らの諸将が配置を決められるシーンがあるが、なんと周倉は名前すら挙げられていない。あくまで関羽の従者であって、兵を率いていないのだろうか。

しかし続く74回、関羽の水攻めで于禁率いる魏軍が壊滅し、投降を拒否したホウ徳が一人で戦い続けるシーンで突然再登場。
周倉はホウ徳の船に筏をぶつけてホウ徳を水に落とすと、素早く自身も水の中に飛び込み、身動きが取れなくなったホウ徳を捕まえることに成功した。
実は周倉は元から泳ぎの心得があったが、荊州にいた数年間でさらにその腕に磨きをかけていたのである!というとってつけたような設定も明かされる


【殉死】

しかしその後、呉軍の裏切りで関羽の本拠地である南郡一帯が奪われ、また徐晃率いる魏の大規模な援軍が到着したため、関羽はついに敗れて撤退することになった。

魏と呉の二方面からの攻撃に耐えつつ南の麦城にたどり着いた関羽軍だったが、既にその兵は5、600程度にまで減っており、程なくして呉の大軍に包囲されてしまう。
からくも脱出した廖化が上庸の劉封孟達に援軍を求めたがこれも拒否されてしまい、いよいよ関羽は進退窮まることになる。

そして関羽は趙累の勧めでついに決断し、自ら劉備に援軍を乞うべく関平と趙累、そして200の兵を連れて脱出を図った。
この時周倉は王甫と共に城の守備として残されるが、これが関羽との永遠の別れになった。
城を脱出した関羽たちは間もなく呉の伏兵に囲まれて捕縛され、関羽と関平は孫権の前で首を打たれてしまったのである。

一方の王甫と周倉はいまだ麦城を守っていたが、その城門の前に関羽と関平の首が晒されるに及んでついに抵抗を諦め、王甫は城壁から身を投げて自殺し、周倉は自らの首を刎ねてその死に殉じた。


【史実における周倉】


そんな人はいません。

ただし、関羽の配下に「呂布」という者がおり、彼がモデルになっているという説もある。もちろんあの有名な呂布とは同姓同名の別人。
しかし呂布という名前が最早三国志ではパワーワードと化している為、演義に出す際に名前を変えたという事である。ちなみに周倉というのは彼の字だったとか。
もっともこの呂布(蜀)自体実在が怪しく、更に呂布=周倉というのも「元大徳九路本十七史考」という若干怪しい物がソースな為、やっぱり結論としては

そんな人はいません。
の可能性が高い

【創作作品における周倉の歴史】


とはいえ周倉は、『三国志演義』成立の段階で唐突に生まれたキャラクターというわけでもない
『三国志演義』は羅貫中が一人で書き上げた小説というわけではなく、それまでに作られた講談や戯曲、説話や民間伝承などの集合体に近いものなのである。

よって演義の周倉にも、「元ネタ」即ち創作上のオリジンが存在するわけなのだが、実はこれが現代においても未だに謎に包まれている。
演義に登場するオリジナルキャラクターには、大別して

A.展開上の必要性から創作されたキャラ
誰かの武勲に華を添えたり、ストーリー展開の都合上どうしても必要なので名前と個性を与えられたキャラクター達。
夏侯恩夏侯傑などの量産型夏侯や、祝融兀突骨などの南蛮組、あるいは前述した郭常などが代表的。

B.輸入されてきたキャラ
物語上の必要性ではなく、その人気故に別系統の創作などからスピンアウトされて登場したキャラクター達。
代表例としては、三国志モノの美女キャラとして定番だった貂蝉、「関索もの」で人気を博していた関索などがいる。

の2タイプがあるのだが、周倉はB、即ち輸入型キャラであることだけはほぼ確実視されている。しかしその「輸入元」については原型となったキャラや輸入に至るまでの経緯を含め、全くの不明なのである。
起源としては一応

道教の武神「周将軍」が変化した説。

② 漢の祖劉邦に仕えた実在の将軍「周昌」が神格化され、それが変化した説。

③ 上記の呂布の字から取られた説。

の3つの説が有力とされているものの、いずれも現段階では決定的な根拠となる史料を欠いている。


◎ 周倉in宋代 ◎

宋の時代までは、まだ「周倉」にあたるキャラは全く確認されていない。
しかし宋代は当時の大規模な道教ブームを反映して、それまではややマイナーなキャラだった関羽の人気が急上昇した時代である(当時の関羽は道教分野での武神として有名だった)。
そして関羽に対する信仰は道教よりもむしろ仏教分野が先であったためか、当時から絵や像などにおける関羽には複数の「脇侍」*1がつけられることが多かった。
この脇侍達がのちの周倉の原型………と見ることもできなくはないが、周倉との直接的な関係性は希薄である。


◎ 周倉in元代 ◎

現存する文献では、この時代に初めて「周倉」の名前が登場する。
しかし当時の三国志モノでは全く異なる2パターンの周倉が確認されており、どちらが順序として先なのかわかっていない。
1つは戯曲(元曲)の演目『関大王独赴単刀会』にでてくる周倉で、こちらは関羽の従者として魯粛との会談で発言するという、演義とほぼ同じポジションの周倉である。
しかしもう1つの白話小説『三国志平話』では、周倉は孔明の北伐の時期にその部下として登場するという、関羽とは全く関係のない蜀の一武将として登場している。

この為周倉は「元々関羽とは独立したキャラであり、輸入後に変化して関羽のお供として落ち着いた」という説と、「元々関羽の関係者として生まれ、輸入後に人気から活躍が増えた」という説の二つがある。

さらにこれは演義の系統からはやや離れるが、関羽の架空の子、関索を主人公とした『花関索伝』と呼ばれる三国志(?)の1ジャンルも、大筋はこの時期に成立したとみられている。
その1つである『新編足本花関索下西川伝』においても周倉は登場するのだが、成都へ侵攻する劉備軍の下に立ちはだかって姜維を打ち破るが、次に登場した花関索に敗れるという清々しいほどにぶっ飛んだキャラになっている。
しかし(花)関索と言うことで関羽の関係者とは言えなくもないし、同様の花関索伝系の『新編全相説唱足本花関索貶雲南伝』では関羽の従者として登場するなど、同一の系統の作品でもかなりブレがあることがうかがえる。


◎ 周倉in明代 ◎

明代の初頭、ついに白話小説『三国志演義』が完成。これが明代を通じて急速に普及し、↑の本文のような「関羽の従者」としての周倉像がほぼ定着した。

前述したように、演義では関羽と周倉の出会いがやたらと冗長で回りくどいことになっているが、これは
「元々『関羽が周倉率いる武装盗賊団を討伐して、仲間にする話(収周倉)』的な演目が講談などに存在し、それが短縮されたものが演義に挿入されたからでは」
とも考えられている。

つまり演義が成立した頃には、既に「関羽の従者」としての周倉像が既に一般的になっていた可能性が高い。


◎ 周倉in清代 ◎

清代というのは関帝信仰(関羽を神として崇拝する信仰)が最高潮に達した時代であり、当然ながらセット扱いの周倉も大いに人気を集めた。

特にそれまでポジション的なライバルだった関平が、あまりに人気と「格」が上がりすぎて単なる関羽の付属物とするには微妙になってきたため、関羽の従者として周倉の重要性はより高まった。

当時のエンタメでは小説や演劇などのメジャーなジャンルは勿論、地方の講談や観光名所、民話などでも「関羽と、そのオトモ周倉」という形で登場することが非常に多く、既に三国志モノにおいてメジャー級の人物になっているのがわかる。
現代でも周倉の設定としてしばしば登場する「赤兎馬と並走できる俊足」「千里の行程で九百里は駿馬に乗って走り、馬がへばった残り百里は馬を背負って自分で走る」などの珍設定もこの頃の民話で生まれている。

ちなみに日本ではよく「日本人は正史と演義をごっちゃにしている」とか非難気味に言われるが、本場中国の場合はもっとしている。
当時の三国志モノの受け手であった大衆にとっては特にこれが顕著であり、周倉も普通に実在の人物だと思われていた節がある。
というか実際当時の地方史『山西通志』などでは、実在の「郷土の偉人」としてばっちり周倉が載ってたりする。

とこんな感じでなかなかの人気者となった周倉だったが、しかしそれは青龍偃月刀や赤兎馬と同じく「関羽のオプション」としての人気という面が大きかった。
この時代、演劇や小説で多くの三国志キャラたちが個性を獲得していったのに対し、関羽の従者としてメジャーになりすぎた周倉はそういったキャラの掘り下げもあまり行われず、これがのちに響いてくることになる。


◎ 周倉in現代 ◎

そしてエンタメの形態、また業界の在り方が大きく変化した現代では、周倉はやや苦しい立場に置かれている。

関帝信仰がいまだに息づく中国ではまだまだ人気は高く、三国志モノとなればかなり登場頻度は高い。
しかし「関羽の従者なら関平の方が優先」「物語の展開上、別にいなくても問題ない」「原作からして殆どまともな活躍シーンがない」などの点が顕著に響き、モブよりちょっと上、ぐらいの立場に落ち着いてしまうことが多い。
人気自体はあるため活躍シーンが増やされたりすることもあるが、やはり周倉というキャラのアイデンティティである関羽との関係という点では、養子関平の壁があまりに厚すぎる感がある。

関帝信仰とは無縁の日本になるとこれが一層顕著であり、どうしてもメインキャラに比べ影が薄くなることが多い。
また現代日本の場合、かのコーエーもそうだが「三国志演義」だけでなく「歴史としての三國志」もまた人気が高いため、そういった作品の場合は周倉は登場すらできない。
実際、蒼天航路『北方謙三版三国志』『宮城谷昌光版三国志』といった、周倉が登場しない人気作品も日本には数多い。


◎ 帽子of周倉 ◎

さて周倉といえば、なんといってもあの「帽子」こそがトレードマークと言えよう。
実際周倉は既に明代の「関羽・周倉図」でも同じタイプの帽子を被っているほどで、紛れもなく伝統的な周倉の衣装と言える。

ただし「鉢の頂点に房飾りがついたつば付きの帽子(一般に涼帽と呼ばれる)」である点は概ね共通しているが、細かく見ていくと絵や像によってバリエーションが多い。

基本的に革、あるいは絹といったソフトな材料で作られているタイプが多いが、初期の頃はつばの部分がファーになっていることも多く、これはむしろ貂帽(革の帽子)と呼ばれるものである。
まあ涼帽にせよ貂帽にせよ、基本的には北方の騎馬民族に由来するタイプの帽子であり、恐らく演義における「涼州の出身である」という設定を意識したのだろう。

またシルエットさえ同じならいいとでもいうのか、帽子ではなく似たような形の兜になっていることもある。
この手のひさし付きの兜は笠形盔(兜)と言って南宋時代から既に存在した古い兜だが、ひさしと鉢が別パーツになっているタイプのものは明~清代に普及した新型であり、ある意味(当時の)最新流行品である。

しかし意外なことに、中国における清~現代にかけての周倉は、このつばつき帽子or兜を装備していないことも多い。
というのも、あの帽子はあくまで「人間としての周倉」の装備品であって、「神様としての周倉」の装備品ではないのである。
神様としての周倉は関羽や関平と同じく、ギラギラで宝石・ポンポンだらけのゴージャスな冠(元帥帽通天帽などと呼ばれるタイプ)を被るのがデフォであり、関羽信仰が身近な中国の大衆にとってはむしろこちらの方がなじみ深い周倉だった。
このため現代中国では「周倉と言えばあの帽子」というイメージはそれほど強固なものではなく、被り物に関しては比較的フリーな傾向がある。



『横山三国志』

被り物は、布か革っぽい長方形つばの帽子系。
ちなみにこのデザインは中国の上海世界書局から出版された連環画からほぼそのまま流用したものだが、周倉自身の顔つきはさわやか系おっさんフェイスに変えられている(連環画の方は山賊らしいもさ髭おっさん)。
流石に演義の展開では回りくどすぎると思われたか、仲間になる過程は一部省略されている(これは吉川栄治の三国志とほぼ同じ)が、その他はほとんど原作そのままの周倉。
自刎のシーンがめちゃくちゃ痛そう。


コーエー『三國志』シリーズ

被り物は、銅か革っぽい丸型つばの兜系(IVから)
統率と知力・政治が低く、武力だけが突出して高いという典型的な純武官タイプで、同タイプな中ではなかなか悪くない性能をしている、。演義の活躍の反映と言う事なのか、水軍適性が高いことが多い。
こういった統率・武力・知力がアンバランスな武将はそのタイトルの戦闘システムによって使い勝手が大きく異なるが、基本的に使いやすい武将とは言えない。大体副将にされるか鉄砲玉としギリ使われるか。
トップ層の実力がチートじみている劉備軍においては決して目立つほどの存在ではないが、その古巣である張角勢力(黄巾党)においては非常に重要な人材。
張角勢力では周倉よりさらに下の三流、四流の武官が多数を占めており、しかもみんな賊だけに義理も低く使いづらい。そんな中で義理最高、能力もまあ及第点の周倉はまさしく掃き溜めに鶴状態。
そんな彼だが、三國志14では「水軍育成」「捕縛」「操舵」といった呉勢力以外では貴重かつ有用な政策・個性を与えられる。
同じような能力の武官たちと明確に差別化されると共に、水軍がそんなに強くない劉備軍(及び黄巾)に無くてはならない存在となった。

『三國無双』シリーズ

被り物は、布っぽい楕円つばの帽子系。これは最早涼帽というかソンブレロ帽なのでは……
当然のように皆勤賞ながら長らくモブだったが、発売予定の次回作『真・三國無双8』でついに脱モブすることが発表された。CVは沢城千春。
日本ではイマイチ地味さが否めない周倉へのテコ入れか、非常に珍しい(しかし中国のサブカル分野では徐々に増えてきた)若イケメン周倉になった。下手すると関平より年下に見える。
武器は大サツ刀(正確に言えば龍頭大サツ刀)と呼ばれる、一応実在するが極めてキワモノ系の武器。
本格参戦する8に先行して、無双☆スターズに参戦している。


『BB戦士三国伝』シリーズ

被り物は、ガンダリウム・コンポジット製っぽいモノアイフレーム。所属する翔(演義の蜀に相当)のキャラたちの演者の大半が主役級のガンダムな中で、何故か周倉の演者はドーベン・ウルフ。一応ガンダムMk-Ⅴが発展した姿とされてはいるが原作ではモノアイ持ちの敵メカとして登場した機体であり、デフォルトでガンダム顔な上にパイロットが主人公と心を通わせたためかSD系列では主人公陣営に属することもあるサイコガンダムと違いドーベンウルフが主人公たちの味方に抜擢というのは類を見ないといえる。

「流浪の豪鬼」と称される元山賊だが義理堅い怪力の大男。曹操軍に捕えられており、助命を条件に関羽の力を試すべくぶつけられたが、指一本で完敗。関羽の力を認めてその脱獄を手助けし、以後彼に付き従い関羽や関の背中を護るようになる。モチーフがヤクトドーガとなり原作と異なり闇落ちして孔明と敵対することになったホウ統と異なりちゃんと周倉している。
プラモはまさかのホンタイさん流用である。御尊顔が余るのも相変わらず。また、コミックワールドでそこらの武器をガチャガチャと合体させたくだりは時折ネタにされる。


『三国志大戦』

カードによってキャラもイラストも全然変わる。ただし常に脳筋低コストなのは変わらず基本的に槍兵。
他軍は黄巾族時代で、復活持ちの1コスト槍と使い潰すのに最適だが計略は最も汎用な強化戦法と今一つ。
蜀の方は筏に乗っている槍武将で、激戦区の1.5コストで武力要員かつ勇猛持ちなので一定の位置にあった。
3になると勇猛はそのままに1コスト武力4とコスト比武力を高く設定され、一躍一線級…かと思いきや同武力でより知力が高い姜維という驚異が現れ立ち位置を半ば奪われてしまった。
一方で他軍から群雄となりイラストが新規に書き下ろされた周倉は1.5コスト武力要員と立場が入れ替わっており、しかも群雄の方は何故か弓を持っている。

リブート後はどちらも1コスト武力4征圧0の槍。群雄の方は相変わらず復活持ちな上に勇猛と結構盛られているが計略はやはり汎用。
一方蜀の方は復活がない代わりに知力が1上がっていて汎用計略と群雄の方に比べ総合的には劣っていたが、なんと気合を入れる専用計略を貰った。
気合を入れると撤退するまで武力と制圧力が上がり若干の自動回復と凄まじいものとなり、群雄の方を圧倒的に凌駕する。
低コストということで撤退させ続け使い潰すか、低コストとはいえ撤退させずに頑張らせる気合を見せるかの二択という、なかなか対照的な二枚に仕上がっている。

更にVer3.0ではラッパーと化して登場。どういうことだYo!
新たに登場した連弩兵の武力要員で、斉!っとSay射する。
ちょくちょく援軍の範囲回復という固有計略を持って来たが、こちらの立ち位置はどうなるか。今後に注目である。






「……どうか、どうか、てまえを良項目にして下さい。いま追記:修正を仰ぐこと、井の底から天日を仰ぐにも似ております」
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最終更新:2024年03月18日 17:14

*1 仏の左右に立ち、その助手を務める別の仏のこと。仏教に限らず、中国では道教でも同じような形態が見られる