藤井将雄

登録日:2017/04/17 Mon 19:51:21
更新日:2024/03/07 Thu 20:30:12
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藤井将雄(ふじい まさお)とは、かつて福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に所属していたプロ野球選手(投手)であり、『炎の中継ぎ』である。

1968年、福岡市に生まれる。本名は「政夫」。10歳の頃両親が別居、母親に連れられて唐津市に移る。
高校卒業後、日産自動車九州に入るとエースとして活躍。1994年には都市対抗野球ベスト8、社会人日本選手権出場に貢献。また広島アジア大会日本代表に選ばれ、金メダルを獲得した。
これらが評価され、この年のドラフト4位でダイエーに入団。背番号15。
この年西武からやって来た工藤公康を慕い、また2年先輩の若田部健一とは大親友だった。

当初は先発だったものの、伸び悩んだため3年目から中継ぎに。ところがこれがぴたりとハマり、転向翌年からは右の中継ぎエースに。
1999年にはリーグ最多記録26ホールドで南海時代から続いた暗黒を振り払う優勝に貢献、プロ入りの時に語っていた「王貞治監督を胴上げする」というを見事に果たした。

しかし、この年の夏から藤井の体に異変が見え始める。彼はマウンド上で度々咳き込むようになっていたのだ。
この時、周囲は「登板過多からの疲労では?」と見ていたが、この年の日本シリーズ前に行われた身体検査で、その原因が発覚する。



彼は肺がんに罹っていた。
しかも余命3ヶ月、すでに末期だったのである。



なお、この時藤井本人には「間質性肺炎」と偽った病名が伝えられ*1、この事実を知っていたのは家族、中内オーナー代行を始めとするフロント上層部、王監督などの首脳陣の一部、後援会、そして後援会の会長からその事実を伝えられた若田部など極々一部の者に限られた。
なお、若田部は選手の中で最初にこの事実を伝えられた1人で、当時「嘘だろと思った」と語っている。

日本シリーズで、ダイエーは中日ドラゴンズを破って35年ぶりの日本一を達成。
しかしいくら優勝に貢献した藤井と言えど、病状からして戦力外になってもおかしくはなかった。
だが球団はシーズン中の活躍を踏まえ、年俸倍増という形で契約を更改。
そして、11月の優勝記念パレードの翌日、入院することになった。

翌年もダイエーは好調で、藤井本人も二軍で登板できるまでに回復した。
しかし最期のマウンドになるかもしれないと思った王監督が「今すぐ一軍に来い」と電話したところ、「二軍で結果が出ていないのに一軍には上がれない」と固辞。そんななか、6月末に病院に再入院することとなる。
その時に選ばれたのは、シーサイドももちにあり、福岡ドームが見える国立九州医療センターだった。

そして10月7日にダイエーはリーグ連覇を達成。
その時、若田部は背番号15のハリーホーク人形、所謂藤井ハリーを持って歓喜の輪に加わった。この映像を見た藤井はを流したという。

…しかし、藤井はこの時、肺に管を通し、心臓や肺には水が溜まった状態だったといい、もう先は長くなかった。
そして、V2を見届けた6日後の10月13日、容態が急変。31歳でこの世を去った。32歳の誕生日を3日後に控えていた。

3日後の誕生日に告別式が行われた。
出棺の際棺を担いだのはこの年から巨人に移籍した工藤と親友の若田部を筆頭に、秋山幸二、小久保裕紀、城島健司、松中信彦など、当時のホークスの主力選手たちだった。この内工藤と若田部は遺体の火葬に立会い、藤井の右腕の遺骨を持ち帰った。
また、王監督は「神様は時にむごいことをする。いい人ほど早く召されてしまう」と語った。

そして迎えた日本シリーズ。
この年は王率いるダイエーと現役時代の王の盟友・長嶋茂雄率いる巨人との「ON対決」だったが、この第1戦に先発したのは奇しくも巨人・工藤、ダイエー・若田部だった。
それぞれ遺骨を忍ばせて投げ合った対決、勝ったのは若田部だった。
しかし最終的に、日本シリーズでダイエーは巨人に破れた。

藤井が亡くなった翌年から2022年現在まで、ホークスの背番号15は誰も背負っていない。将来的には永久欠番になることが示唆されているが、一方で今に至るまで永久欠番に指定されていないのは「藤井は永遠に現役」という考えがあるからだともいえる。
ちなみに工藤は2009年に横浜から西武に移籍した時、長年代名詞となっていた「47」ではなく「55」を背負うことになったのだが、この時工藤は「藤井の5が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けようと決めていた」と語っている。

福岡ドームのロッカースペースにあった藤井の荷物は、今もその一部がロッカールーム内のメモリアルスペースに残されている。
ソフトバンクホークス仕様の藤井ハリーも用意されており、彼の化身はいつまでも選手たちを見守っているのだ。
ロッカールーム改装の際には藤井スペースもリニューアルされ、ソフトバンクホークス背番号15藤井将雄のユニフォームも用意された。
藤井と現役時代をともにした斉藤和巳は、引退セレモニーの際にソフトバンクホークス背番号15のハリーホークを脇に抱いていた。
かつて胴上げの輪に加わった手書きで15の背番号が書かれた藤井ハリーは、現在は遺族の元にあるとのことである。

更に福岡ドームの15番ゲートは「藤井ゲート」という名前が付けられ、藤井の功績と、亡くなった際に公式サイトで出されたメッセージ「皆様へ」のプレートが飾られている。
近年では、福岡ドームのロッカールームが改修されたことを伝えるホークス公式Twitterのツイートで、ソフトバンク仕様の15番のユニフォームが飾られ、遺品が備えられたスペースを撮影した写真が使われて話題になった。
この他、ソフトバンク仕様の15番FUJIIの限定ピンバッジが毎年数量限定でファンクラブ向け来場特典として配布されている。
チームがダイエーホークスからソフトバンクホークスになった今でも、藤井将雄はその背番号15を背負い続けているのだ。

奇しくも広島東洋カープ津田恒実とは「『炎の』という異名をとった(藤井…炎の中継ぎ、津田…炎のストッパー)」「背番号15を付けていた(津田はその後14に変更)」「30前半で病死」「若手投手陣のリーダーだった」などなど、共通点が多い。

彼は今でも、空の上からホークスを見守っているだろう。
常勝軍団になったホークスは、彼の目にはどう映っているのだろうか…

もしかしたら、津田と天国で投げあっているのかもしれない。

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最終更新:2024年03月07日 20:30

*1 これは「マウンドに再び上がりたいという気持ちがあれば気力で克服できるかもしれない」という家族の嘆願から。なお、間質性肺炎もかなりの重病で、肺がんよりはまだ多少の希望があるという程度