坂井三郎

登録日:2009/12/31(木) 03:57:50
更新日:2024/02/23 Fri 18:51:05
所要時間:約 9 分で読めます




大日本帝国海軍に所属していた実在の人物。
最終階級は海軍中尉。
別名:不死身のサムライ
撃墜数50機以上?

「大日本帝国海軍の誇る上級エースパイロット」

日中戦争からの古参にして、終戦まで生き延びた数少ない撃墜王の一人。

戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。
代表作となる戦記『大空のサムライ』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。
一時期は世界中の戦闘機乗りのバイブルと言える存在にまでなっていたそうだが、近年の研究で多くの戦果やエピソードの誇張、捏造が疑われており、読み物としてはともかく史料としての評価は失墜しているのが現実である。
また、以下に記載される数多くの武勇伝もソースは坂井三郎氏の自伝のみであるものが殆どであり、現在では多分に誇張され、そもそも捏造された可能性が高いと考えられているエピソードが多いことに注意していただきたい。


かなり豪快な人物であり、戦時中フンドシ一丁で迎撃に参加した事がある。
(入浴中に「敵機来襲」の報を聞き、そのまま出撃しようとしたが、さすがに「全裸」はマズかろうと、フンドシだけは締めたとか)
また、いい年して中々の悪童だったらしく、赴任先の現地住人が飼っていたニワトリを盗んで叱られても、懲りずに次は豚を盗んだ
更に、使用禁止指定を食らった麻薬成分入りのタバコを愛飲し、周囲にも勧めて上官に怒られたこともある。
ただし、タバコの件に関しては兵学校出の士官あたりにしかまともな物が支給されなかったことに対する抗議と嫌味の意味合いが非常に強く、
実際にその点に言及したため件の上官は怒りを露わにしつつも、まともな品質のタバコを大量に融通してくれた。

台南空の撃墜王であった無二の悪友でもある西沢広義と太田敏夫の3人により、
無断でポートモレスビーの米軍セブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りをブチかましたりしたことがある。

あまりにも凄まじい絶技だった為か、敵である米軍からも拍手喝采。

「次ニ来ラレルナラバ緑色ノまふらーヲ着ケラレタシ。大イニ歓迎スル」

と、フルボッコにされた米軍からも招待状が届くほど。
この招待状のせいで、弟子にして「稀代のツンデレ上官」でもある笹井醇一中尉から厳重な注意を受けたとする逸話が残っている。
つか、めちゃくちゃ怒られた。
……とここまでは本人の主張だが当時の台南空の出撃記録には該当するものがなく、米側の記録にも残されていないため、この逸話は懐疑的にみられている。


彼には、僚機の被撃墜記録がない。
これは簡単に達成できることではなく、
同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍のエーリッヒ・アルフレート・ハルトマンも1機撃墜(搭乗員は生還)されていた事実が判明したことから、
第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。
飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」「僚機を殺したことがないこと」であり、
撃墜スコアでは無いことは彼の著作に何度も書き記されている。

……とここまでは本人の主張だが、実際は僚機の被撃墜記録が残っている
確認出来るものでは、台南空時代の昭和17年5月12日のポートモレスビー攻撃で第2中隊第1小隊長機で出撃した際に、3番機の小林民生一飛が被弾不時着水(搭乗員は軽傷のみで生還)しており、さらに横空所属の昭和19年6月24日に硫黄島で米艦載機を迎撃した際、3番機と4番機の柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還となっている(坂井は第3中隊長第1小隊長)。死人に口なしとは言え酷い。
また自機を壊した事が無いという話も、昭和16年12月12日のフィリピンクラークフィールド飛行場攻撃で被弾損傷して不時着しているので事実ではない。
いずれも当時の行動調書及び戦闘詳報に残されている記録である *1


1942年初頭、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島の敵基地への侵攻途中で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、
偵察機撃墜後に侵攻する日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機*2に遭遇した。
当時、当該エリアを飛行する敵国機は軍民・武装の有無を問わず撃墜する命令が出ていた*3
容易に撃墜可能な状況ではあったが、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと考え、
生け捕りにしようと味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ。
この時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。
その様子を見たことに加えて母親が中学生時代の恩人と重なって見えてしまい、流石に闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。
坂井は敵機に手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
また、書類偽造でもやらかしたのか純粋にミスっただけなのか、当日には任務的に輸送機を発見できない状況であったことが戦闘行動調書に記載されている。

いくら人間的には正解とはいえ、命令に背いて撃墜せずに逃がしたことは恥ずべきことと感じていた坂井は、戦後の著作にもこのことを記述しなかった。
零戦の機動力の如き捻りを加えて「捕虜にしようと威嚇射撃したら裏目に出て、断雲を利用されて全速力で逃げられた」と改竄していたのだが、
これには上記の理由に加えて当時はマッカーサーが戦犯追及に熱中していたため、「絶対に関わりたくなかった」という私情も含まれている。
が、年を重ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明かした。
なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、
当該パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いたという。
当然2人は再会し、互いの無事を喜び合った。

……とここまでは本人の(ry、坂井の主張に沿うような戦闘記録はどちら側にも残っておらず、また再会したオランダ人従軍看護師というのも坂井が主張するのみで今日までそのような人物の実在を示す証拠は確認されていない。そもそも当時の赤十字でそうした人探しのような活動を行っていた事実は確認できず、再会までの経緯が非常に不明瞭になっている。


戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し、ゼロ戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが*4恥ずかしそうに彼に接したときには、
機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かしてゼロ戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。

……とここまで(ry、案の定そうした事実は確認できていない。


ちなみに最強技は

「木の葉落とし」

ただし他の搭乗員からは嘘つきだ!と断じられており、この機動の存在は曖昧になりつつある。

この技は、上昇中にスロットルOFF→エンジン回転トルクによる左横滑りが発生→
失速によるランダム機動→敵機後ろについた時点でスロットル全開→敵機追尾→全弾発射→撃墜となる
あまりにも危険な反則技なので自己封印した程。
(現在のジェット戦闘機では再現不可能の絶技。双発ジェット戦闘機ならば使えない事は無いが)

実際に、この技を使う人はほとんど居ない(危険極まりない無謀な技)らしいが?
この技は「ファントム無頼」の神栗コンビや、「D-LIVE」の斑鳩悟も使用する。

ちなみに、この技は失敗するとエンジンストール(エンジン停止)を引き起こすのでホントに禁止技。
レシプロ機は再始動出来ないので構造上、不可。

この技を食らうと

「あ…ありのまま 今起こったことを話すぜ!
『おれは ゼロ戦の後ろについたと思ったら いつのまにか後ろにつかれていた』
な…何を言ってるのかわからねーと思うが?おれも 何をしていたのかわからなかった…
操縦桿を握る腕がどうにかなりそうだった…
回り込みだとか瞬間移動だとか
そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……」

となってしまう。まあ嘘くさいが

とはいえ、これに関しては実戦ではほとんど使わなかったという話もあったりはするが、
「こういった必殺技を持っていると、巴戦(ドッグファイト)の時に余裕を持ってあたれる」との事で、
前述の「六割」の思考に余裕を持たせて底上げするという役割を果たしていたと思われる。
また、空戦においては「空戦で勝つ人は必ず勝てると信じて頑張り抜いた人」と言及した一方で、「格闘戦は最後の手段」*5「まずは見張り、これが空戦の鉄則」とも説いている。
敵機斜め後ろ
なお、撃墜スコアの大半は7.7mm機銃によるものであり、零銭の20mm機関砲に関しては使い勝手の悪さに終始不満を抱くのと同時に、威力だけは素直に評価していた。
また、7.7mm機銃の威力不足をきちんと認識していたので、「12.7mm機銃をしこたま抱えている米軍機が羨ましかった」ともぶっちゃけている。




2000年9月22日、厚木基地で催されたアメリカ海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、
体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。
検査中に主治医に配慮して、

もう眠っても良いかな?

と尋ねたのが最期の言葉となった。

……ただしそんな彼もやはり人間。理解者を失った戦争後期以後は人間関係が上手くいかず、部隊で度々揉め事を起こしていた。
戦後も、ねずみ講を生み出した天下一家の会の広告塔的人物になってしまったばっかりに、かつての仲間たちに迷惑をかけて大いに嫌われ、知名度を下げている。
そのため、葬儀の際に偶々すぐ近くで開かれていた零戦パイロット達の会合の参加者30名の内、葬儀に参列してくれたのは4名だけであったという。

以上のように、記録とは辻褄の合わないエピソードの多さや「自己宣伝が過ぎる」といった人物評など、自伝で描かれている「サムライ」像と現実には乖離が見られる。
果たして、どちらがより本当の「坂井三郎」の姿なのだろうか?



  • 逸話(人間関係)

彼は局地戦闘機 紫電装備の343空の教官を務めていた。テストパイロットであった関係もあって抜擢されたのだが、ここで一悶着を起こす。
343空戦闘301隊『新選組』隊長にして、日本海軍航空隊後期を代表するエースパイロット菅野直大尉(撃墜72機)を、
20代前半という若齢と海軍兵学校卒のエリートという経歴から、『ジャク』(当時の海軍の隠語で未熟者の使えない搭乗員の意味)と愚弄し、
『あんな威勢だけのヒヨコを源田はなんで選んだ?あんなペーペーの餓鬼よりも、岩本(岩本徹三)とか連れて来い!』と公言してはばからなかった。
それを耳にした菅野の腹心のエースパイロットの杉田庄一曹長(死後中尉)は周囲が恐怖におののくほど激昂。
あの野郎はこの俺が殴り殺してくれるわァァァァ――ッと言わんばかりの発言を周囲に公言するほどに人間関係は険悪であった。*6

菅野や杉田らは南方の劣勢な中で生き残ってきたのだが、日中戦争時から参戦していた彼からみれば『経験不足の若手』なのだ。
だから後期の負け戦でエースとして有名になった彼らを見下していたのだ。
もはや343空が結成された時の時勢は彼の知る、日本軍が『空を支配する王者』ではなくなって久しく、
彼の愛機零式艦上戦闘機ももはや時代遅れのロートルでしかなかった。
軍が求めるのは混戦でも生き残れる防弾性能をもつ局地戦闘機 紫電であり、彼が愛する零式艦上戦闘機ではなかった。
菅野や杉田はそれをよく実感し、目にしてきたからこそ紫電改に搭乗していた。

彼は他の多くのベテランパイロットと同様に紫電と紫電改を二流メーカーのでっち上げと侮蔑し*7、搭乗しなかった*8
だが、彼が知る練達の士らが過去の栄光に成り果てていた事を受け入れられなかった故の戯言と、周囲から見られ、『老害の古参』と白眼視され、疎んじられた。
そのため武藤金義との交代は彼を疎んじる若手の提言と、
開戦時からのエースであった彼の面目を建てるための源田実大佐が考えた苦肉の策であるという推測が当時の若手搭乗員によって起てられている。
坂井の方も尾を引いていたらしく、特にお互い親しみを込めて愛称で呼び合う仲だった武藤が戦死した件に関しては終生負い目を感じており、
気にする余り「自分の身代わりになって戦死したように感じる」とまで語った。

もっとも、菅野はデストロイヤーと言われる程に乗機の扱いが大変乱雑で何機も壊し、僚機を空中分解に追い込んだことさえある。
言ってしまえば日本軍的には極めて懐に優しくない人材でもあったのだ。*9
乗機を自壊させたことのない*10坂井にしてみれば、大事な機体を何機も自壊させる菅野はどうしても評価できる人物ではなかったのであろう。
また、対B-29戦では海軍機で一番適任だった雷電に目を背けて、紫電や紫電改ばかり求める上層部と他の若手達にも十分問題はあったのである。
ただし、それは的外れでもなく、雷電は坂井と同世代のベテランパイロットが多数属していた横須賀航空隊のテストで、『対戦闘機に不向きであり、制空戦闘も可能な紫電改を増産すべき』という提言が出され、その影響で、雷電の生産数は予定から大幅に減らされ、戦線には希少と言えるほどに出回っていなかったからだ。
その提言が間違っていた事はB-29の本土空襲と、雷電に搭乗した若手による護衛戦闘機撃墜で証明されたが、次期主力機という、三菱との約束を反故にした海軍は面子的に雷電の増産命令を今更出すわけにもいかないので、増産されつつあった紫電改を改良するという選択肢を選ぶしかなかったのだ。
*11


上記のように戦後はねずみ講組織の広告塔になってしまったため、戦後の零戦パイロット間では鼻つまみ者状態だった。
本人もその点は自覚していたのか、実子に全てを明かしている。
恐らく坂井はあの世で飛び回る前に、笹井中隊の面々から戦後の行いの件で鉄拳制裁を食らったと思われる。
航空自衛隊からも色々と批判されていたが、「単なる(零戦操縦)職人」との指摘に対しては、むしろ(零戦操縦)職人であることを誇りとして、それのみに存在意義を見出していたので、その旨を説明して軽く一蹴した。なんと硬派な。

ちなみに、著名なモンゴリアン型妖怪である水木しげる氏が、自らが執筆した戦記物漫画の不人気に悩んで相談しに来た際、坂井は「戦記物は勝たないと駄目なんだ」とアドバイスしている。
もっともな話であるが、勝ち戦を知っていて劣勢になった頃は負傷で負け戦を知ることができなかった坂井とは対照的に、勝ち戦を知らない水木氏はアドバイスを中々活かせず苦労したんだとか。




名言
  • 「自爆します」と宣言したヒヨッコ(ピヨピヨレヴェル)パイロットに対して、
    自爆だと!?この俺が許さん!右腕がヤラれたら左腕で戦え!!両腕がヤラれたら、口で操縦桿をくわえて帰って来い!!最後まで、絶対諦めるな!


  • 余談
ラバウル勤務にて右側頭部挫傷。
被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。
出血多量による意識喪失を繰り返したが、母の叱咤する声が聞こえ、意識を取り戻す。
ぼんやりとしか周りが見えない中で、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。
その後、治療のためにラバウルを止む無く離れたのだが、この時のダメージで右眼を失明している。
以降、彼は右眼が見えない状態でありながら任務をこなしている*12


  • 更なる余談
大陸配備時に被弾。実はこの時に乗機の破片が左眼を直撃したため、失明した…筈なのだが、
完全に失明が確定するような過程で損傷したにかかわらず、破片摘出後にワセリンで拭いてもらったおかげで0.8程度にまで低下しただけで済んだ
しかもその代わりに右眼の視力が爆発的に上昇している。
そして右眼が失明してしばらく経ってから、なんと上記のエピソードにて失明していたハズの左眼の視力が復活(!?)。
つまりラバウル時代は(ほぼ)常時隻眼状態で任務にあたっていた……とされるがそもそもそんな重症では無かったという説(目の負傷ではなく他の病気)もある。


  • その裏のこぼれ話
坂井の視力が最低限回復した時、坂井の母の片目がほとんどの視力を失っていた。その事を知った坂井は涙したと言う。

大日本帝國海軍最強空戦中隊とも呼ばれた「台南空笹井中隊」の最初期メンバーで有り、終戦後まで生き延びたのは、彼のみ。
ラバウルを離れた後、笹井の死に関しては精神的配慮から坂井に対しては半年間も伏せられた
実際、笹井の戦死を知った際は「その時ラバウルにいれば死なせなかったのに」と悔恨と無念を吐露している。

一般的に知られる撃墜数64機という数は、彼の著書の英訳版を出版したマーチン・ケイディン記者が宮本武蔵にちなんで(勝手に)つけたものである。
撃墜数について坂井自身は
「堕とした機体には全部人間が乗っているんだから、見方を変えれば殺人鬼だ。
自分の撃墜数が何機だとはあまり言いたくない」とのこと。
単に話盛りすぎて正確な撃墜数が分からないだけじゃ……


ストライクウィッチーズの「大空の白スク侍」こと坂本美緒の元ネタの人である。













追記修正お願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 軍事
  • 軍人
  • 大空のサムライ
  • リアルニュータイプ
  • エースパイロット
  • 天才
  • 佐賀県
  • 叩き上げ
  • 空の英雄
  • チート
  • 隻眼
  • 「もう眠っても良いかな?」
  • 撃墜王
  • 伝説
  • モキュモキュ
  • ゴクゴク
  • 涙腺崩壊
  • 坂井三郎
  • 疑惑の人
  • 賛否両論

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年02月23日 18:51

*1 僚機損失の前者は昭和17年4月~昭和17年5月台南空飛行機隊戦闘行動調書、後者は昭和19年7月20日付横空硫黄島派遣隊戦闘機隊戦闘詳報で。自機の不時着は昭和16年12月~昭和17年1月台南空飛行機隊戦闘行動調書に記載あり。国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトで閲覧可能

*2 坂井はダグラスDC-4と回想しているが実際にはDC-3と思われる

*3 現在では信じ難いかもしれないが戦時中ではこう言った命令は至極当たり前の物であり、どこの国でもやっていた

*4 スコアでは坂井に及ばない事から。坂井当人は上記のようにスコアは完全に二の次にしていたのだが。

*5 この考え方は格闘戦を最重視していたベテラン勢としては珍しい

*6 後年のインタビューでは杉田の活躍ぶりを褒め称えていることから杉田が一方的に嫌っていたという説もある。

*7 紫電は欠点が多い機体であったので的外れとも言い難いが…

*8 紫電改そのものはある程度評価こそしており、搭乗しなかったのも正確には隻眼のせいで乗せてもらえなかったから、との説も根強い。

*9 しかしながら、菅野が評価されるのは戦歴の短さに反比例する戦闘技術にあり、戦争後期の日本海軍としては、貴重な即戦力になる人材だったのも確かである

*10 一応、乗機が半壊した事例はあったのだが、そうなった原因は敵機の攻撃であって彼が自壊させた訳ではない。ちなみにその時の負傷でラバウルから離れる羽目になった。

*11 坂井に海軍最強と評された最古参パイロットの赤松貞明中尉は、ベテランでほぼ唯一、一撃離脱戦法に特化した雷電を使いこなし、雷電の性能を活かせない周囲に対して『雷電が対戦闘機に不向きなのではない、他の連中が雷電に不向きなのである』と非常に強い不満をぶつけたことがある。この逸話はあまりにも有名だが当時、雷電は設計年度が戦前のため一世代前の旧型機と見なされていたという事情に加えて、上記のテスト報告が追い打ちとなってその運命に暗い影を落としていた。坂井自身、『雷電を使いこなせるのは赤松中尉しかいない』とも言っており、雷電が日本人にとって癖がある機体だったのは覆しようのない事実でもある。

*12 流石に実践参加回数は激減したが、8月17日に零戦52型で米軍のB-32を損傷させたとの情報があり、空戦は問題なく行えた模様。…一体どうなってんの!?