サッカーイングランド代表

登録日:2017/03/24 Fri 01:41:46
更新日:2022/12/29 Thu 11:49:09
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サッカーイングランド代表は、イギリスのイングランド地方を統括するサッカー組織「フットボール・アソシエーション」が組織するサッカーのナショナルチームである。
愛称は「スリーライオンズ」、本拠地はロンドン郊外に建つ「サッカーの聖地」ことウェンブリー・スタジアム。


概要


近代フットボール発祥の地であるイングランドの代表チームだけあってその歴史は古く、1870年からスコットランド代表と非公式ながら初の国際試合を含め5試合ほど戦った。1872年11月30日、同じくスコットランドを相手に世界初の公式国際試合が実施された。

後述するような数多くの名選手を輩出し、世界的にも強豪国の1つとして認識されている…はずなのだが、大舞台での戦績は今一歩である
W杯およびEUROでのベスト4以上は1966W杯優勝(母国開催)、1968年EURO3位、1990年・2018年W杯4位、2021年EURO準優勝のみで、W杯の優勝経験がありながら大陸別選手権*1の優勝経験がない唯一の国である。
近年特に指摘されているのがPK戦での弱さで、詳しくは後述するがW杯とEUROのトーナメントでPK戦による決着が導入されてから2勝7敗と大きく負け越している。

このような苦戦の原因としてプレミアリーグに外国人選手が多く自国の選手が育ちにくくなっていることや、過密日程が選手の疲労や試合レベルの低下を招いていることを挙げる声がある。
あとは食べている物の差でもあるのだろうか

2012年、ナショナルフットボールセンターのセント・ジョージズ・パークが開設されたが、こういった改革がイングランド代表の実績にどんな影響を及ぼすかは今後明らかになっていくことだろう。

ちなみに長い歴史があれどあくまで「英国の一地方のチーム」なため、オリンピックには縁がない。
一応2012年ロンドンオリンピック時等では他地方代表(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド)と合わせた「イギリス代表チーム」が結成されたりもしたが、
ロンドンの時には諸事情により男子はイングランド・ウェールズ連合チーム、女子はイングランド・スコットランド連合チームとなり北アイルランドは不参加となってしまい、リオデジャネイロではイングランドから提案したらディスられ断念したという。




近年のW杯・EUROでのイングランド代表


以下、近年のイングランド代表が歩んできたイバラの道について触れてゆく。

  • 1990年W杯
グループFでアイルランドとオランダに立て続けに引き分け。第2節までの4試合が全て引き分けであるという大接戦となり、イングランドはオランダ戦で主将のブライアン・ロブソンを欠く事態となったがエジプト戦に勝利したことによりグループ首位通過。決勝トーナメントでも初戦でベルギー、ht準々決勝でカメルーンに勝利し準決勝進出を果たすが、最終的に優勝を果たす西ドイツにPK戦で敗れ、その際チームの攻撃を牽引してきたポール・ガスコインの流した涙が話題となった。*2
3位決定戦では開催国イタリアに敗れるものの1966年に優勝して以来の堂々の4位。そしてこれ以降イングランド代表は20年以上に亘って大舞台で苦戦し続けることに…


  • EURO1992
グループAでデンマーク戦とフランス戦いずれもスコアレスドローで終え、その後開催国スウェーデンに敗れたことでグループ4位での敗退
EUROは本大会までは出場国数が8であり、大会出場を決めた時点で実質ベスト8ではある。


  • 1994年W杯
予選のグループ2でオランダとノルウェーに対しそれぞれ1引き分け1敗であったことが祟ってまさかの予選敗退
ちなみに本大会の予選では次回開催国のフランスが「パリの悲劇*3」で出場を逃したことや、日本国内ではあのドーハの悲劇が大きな話題となった。


  • EURO1996
本大会は母国開催ということで躍進が期待された。
スイスと引き分けたのちスコットランドとオランダに連勝しグループAを1位通過。
準々決勝ではスペインにPK戦で勝利(!)したが、続く準決勝ではPK戦に敗れた
相手はPK戦が比較的得意で、かつ最終的に優勝を果たすドイツであったので少々致し方なかった所もある。


  • 1998年W杯
グループGではチュニジアに勝ち、シード国のルーマニアに敗れたが、コロンビアに勝ったことで2位通過。
決勝トーナメント初戦の相手はアルゼンチン。2-2で迎えた後半開始早々に事件が起きる。デビッド・ベッカムがディエゴ・シメオネのタックルを受けて倒されたのだが、ベッカムは倒れたままシメオネの足を引っかけ転倒させるという報復行為に出てしまい、結果ベッカムは一発退場となる。後半と延長戦を10人で凌いだイングランドであったが、苦手のPK戦で敗れた
この敗退を受けて非難の矛先は主にベッカムに向けられ、デイリー・ミラー紙は"10 heroic lions, one stupid boy"と断罪するなど、以降彼は2年以上に亘って批判され続けることとなった。


  • EURO2000
グループAに配属。
ポルトガル戦では2点を奪った後3失点するという形で逆転負け。続くドイツ戦では1-0で勝ち前回大会のリベンジを果たすものの、ルーマニア戦では先制された後2点を奪って逆転するものの、そこから2失点し再逆転され勝ち点3・グループ3位で敗退となった。
ベッカムがポルトガル戦の2点を演出しながらも浴びせられる批判が最高潮に達したのがこの時期であった。


  • 2002年W杯
アルゼンチン・ナイジェリア・スウェーデンと同じグループFに入った。
強豪が多い死の組への加入となったが、アルゼンチンに勝利し残り2チームに引き分けたことで、スウェーデンに続く2位通過を果たした。
アルゼンチン戦では本大会で主将を務めたベッカムがシメオネと和解、試合ではベッカムが決めたPKが決勝点となり、ベッカムは予選での活躍と併せて4年前の汚名を返上した。
決勝トーナメントでは初戦でデンマークに3-0と完勝するものの、続く準々決勝でブラジルに逆転負けしベスト8という成績で敗退。とはいえ相手は最終的に優勝を果たすチームであり、近年の敗れ方ではマシな方と言えるかもしれない。


  • EURO2004
グループBでフランス・スイス・クロアチアと同居。
フランス戦ではベッカムのPK失敗もあって1-2で敗れるが、残り2戦に連勝して2位通過。
決勝トーナメント初戦(準々決勝)の相手はポルトガル。開始早々先制するものの前半のうちに若手ルーニーが負傷交代を強いられ、後半に追いつかれる。延長戦ではソル・キャンベルのゴールが認められないという出来事もあり、更に勝ち越し点を決められるが、その5分後にランパードが同点ゴールを決め、試合はPK戦へと突入した。そのPK戦で1番手のベッカムがフランス戦に続き失敗、5-6で再びPKで苦杯をなめる結果となった。


グループBではやや苦しみながらもパラグアイとトリニダード・トバゴに連勝し早々にグループ突破を決め、スウェーデンと2-2のドロー。
スウェーデン戦でオーウェンを負傷で欠いたせいか決勝トーナメント初戦ではエクアドルにやや苦戦するものの、ベッカムのFKで挙げた1点を守り切り勝利した。

準々決勝の相手はポルトガル、EURO2004に続く対決である。マンチェスター・ユナイテッドで攻撃の核を担う若手であるルーニーとC・ロナウドが対決するという構図となった。
前半はスコアが動かず。後半早くにベッカムが負傷交代を強いられたのちに事態が急変する。
ルーニーがカルヴァーリョを踏みつけるラフプレーにより一発退場。カードが提示される前にC・ロナウドが主審に激しく抗議し、ルーニー退場後には彼がベンチに向かってウインクする姿が目撃されたため、イングランド国内ではC・ロナウドがチームメイトのルーニーを退場に追いやったと解釈された。
試合は10人のイングランドが攻撃を凌ぎ切りPK戦に入るものの、3人のシュートが相手GKリカルドに止められたことでまたもPK戦敗退。特にジェイミー・キャラガーは最初主審のホイッスルの前にボールを蹴ってしまい成功するものの当然認められず、蹴り直しがセーブされてしまった。そしてこのPK戦で唯一成功したオーウェン・ハーグリーヴスがカナダ出身であったため、イングランド人はPKに弱いという説が説得力を増したりもした。

こうして再度PKで敗れてしまった代表であるが、非難の矛先は主にルーニーを退場に追いやったとされたC・ロナウドに向けられた。しかし彼はルーニーに謝罪し和解した模様で、本大会の後レアル・マドリードに移籍するまでの3シーズン、ルーニーと共にマンUのプレミア3連覇や2007-08シーズンUCL優勝の原動力となる。


  • EURO2008
予選のグループEでクロアチアとロシアの後塵を拝し予選敗退
アウェーでのクロアチア戦ではDFガリー・ネヴィルのバックパスをGKポール・ロビンソンが空振りしオウンゴールするという出来事もあった。


堅実な志向を信条とする名将ファビオ・カペッロを監督に迎え、予選では欧州最多の34得点で突破を果たす。
そしてグループCで同居することとなったのはアメリカ・アルジェリア・スロベニア。 サン紙がEnglandAlgeriaSloveniaYanksの頭文字を取ってEASY、あるいはビートルズ以来最高のグループと表現したように、比較的戦いやすい組に入れて安心という風潮があった。
ところがアメリカ戦ではジェラードのゴール*4で先制するものの、アメリカMFデンプシーのさほど力のないシュートをGKグリーンがキャッチ…したかに見えたがボールはグリーンの手からこぼれ落ちそのままネットを揺らすという形で追いつかれてしまう。続くアルジェリア戦ではスコアレスドローに終わり、スロベニア戦で1-0で勝利して辛うじて2位通過*5を果たすという為体であった。

決勝トーナメント初戦の相手は強豪国のドイツ。とはいえ本大会のドイツは若い選手が多く経験不足であり、更にグループリーグでセルビアに敗れるなど不安要素を抱えていた。しかし試合は前半相手GKノイアーのアシストなどで2点を先制され、その後1点を返したところで事件が起きる。
ランパードのミドルシュートがクロスバーに当たりゴールラインを越えたのだが、これをノイアーがすかさずキャッチしそのままドイツ選手はプレーを続行している。そう、ランパードのゴールが認められないという世紀の大誤審が起きてしまったのである。1966年大会決勝のジェフ・ハーストによる疑惑のゴールと同様の事態が立場を変えて発生したのであった。
これにより前半を1-2で終えることになったイングランドは、後半ミュラーやエジルらドイツの若手選手が紡ぎ上げるカウンター攻撃の餌食となり、1-4で敗れベスト16での敗退が決まった。


  • EURO2012
グループDでフランスと引き分けたのちスウェーデンとウクライナに連勝して首位通過。
しかし決勝トーナメント初戦でイタリアと対戦、またしてもPK戦で敗れてしまった…。


ウルグアイ・コスタリカ・イタリアと共にグループDに組み分けされた。
何と優勝経験国3チームが同居する死の組入りであり、国民も過半数がグループリーグ敗退を予想、サン紙も4年前とはうってかわって"LORD HELP US!"とこの事態を嘆いた。
イタリア戦では先制されたのちルーニーの好アシストでダニエル・スターリッジが同点ゴールを決めクネクネダンスを披露するもののバロテッリのヘディングが決まり敗れた。続くウルグアイ戦ではルーニーのW杯初得点となる同点ゴールがあったが、主将ジェラードの僚友であるルイス・スアレスを止められず彼の2ゴールの前に敗れ、コスタリカ戦*6を待たずしてグループリーグ敗退が決まってしまった。
グループDではコスタリカの番狂わせやスアレスの噛みつきといった注目を集めた出来事もあったが、それらとは関係なしにある意味予想通りの敗退となったようである。


  • EURO2016
ロシア・ウェールズ・スロバキアと共にグループBに組み入れられる。
ロシア戦では後半ATに追いつかれドロー。イングランド代表はEUROでの初戦に勝ったことがなく(本大会も含めると5引き分け4敗)、暗雲が立ち込める結果となる。ウェールズ戦ではガレス・ベイルのフリーキックで先制されるものの、いずれも交代メンバーのジェイミー・ヴァーディとスターリッジがゴールを決めて逆転勝利。スロバキア戦ではスコアレスドローに終わるもののグループ2位となり決勝トーナメント進出を決めた。
そして決勝トーナメント初戦の相手は幸運なことに格下のアイスランド。試合も開始4分でルーニーがPKを決め幸先よく先制…したのだが、その後前半のうちに2点を奪われ逆転され、後半に巻き返すこともできずに試合終了のホイッスル。イングランドは本大会最大の番狂わせの犠牲となってしまった

そしてこの敗退を受けて、皮肉の得意な国内メディアは代表チームを徹底的に扱き下ろした
デイリー・メール紙は「いなくなって清々した」、デイリー・エクスプレス紙は「わけがわからない」、デイリー・テレグラフ紙は「イングランド最大の恥辱」と辛辣な言葉を並べ、元イングランド代表FWゲーリー・リネカーはTwitterで「我々の歴史上最悪の敗北。イングランドはプロサッカー選手より火山が多い国に負けた。アイスランドは良いプレーをした」とコメントした。
折しもイギリス国内では国民投票によりEU離脱が決められており、イングランドがEUからもEUROからも離脱することや、デービッド・キャメロン首相とロイ・ホジゾン監督の辞任表明が重なったことを皮肉るジョークが流行した。キャメロン首相の後任に「欧州から撤退する国を率いるのにうってつけの人物」としてホジゾン監督を推すジョークもあった。


  • 2018年W杯
グループGでベルギー・パナマ・チュニジアと同居。
チュニジア戦はハリー・ケインの2ゴールで勝利、初出場のパナマ相手に6-1の大勝。
グループリーグ最終戦のベルギーに敗れ2位通過となるも、結果的に強豪国の少ない楽な山に入ることに成功。

ベスト16のコロンビア戦、後半のPKで先制するも、結局ATに追いつかれ延長戦に。
しかし延長戦でも決着はつかず、試合はPK戦にもつれ込む。
今までPK戦を大の苦手としていたチームであったが……なんと3-4で制したのである!
W杯でPK戦を制したのは初めてのこと。まさに歴史が動いた瞬間である
この勝利により、「ベスト8に入れば上出来」と言われていたチームは俄然勢いづき、続くスウェーデン戦は2-0で勝利。実に7大会ぶりとなるベスト4進出を決めたのだった
準決勝クロアチア戦。開始5分でFKを得ると、キーラン・トリッピアーのチーム初シュートが先制点となり、幸先の良いスタートを切る。
さらに相手は2戦連続PK戦を戦い抜いており、体力的にも有利に思われたが……
クロアチアはそこから驚異的な粘りを見せ、後半イヴァン・ペリシッチのゴールで追いつかれ、再び延長戦にもつれ込む。
結局相手エース、マリオ・マンジュキッチに逆転弾を決められ、さらに先制点を挙げたトリッピアーが負傷退場して万事休す。
3位決定戦では再びベルギーに敗れるものの、前評判を考えるとまさに大きな躍進を見せてくれたと言っても過言ではないだろう。


  • EURO2020
グループDに所属。対戦相手はクロアチア、スコットランド、チェコ。グループ初戦でW杯ロシア大会ベスト4の再戦が実現した。
クロアチア戦はラヒーム・スターリングのゴールを死守し1対0で勝利。見事にリベンジを果たした。
次のスコットランド戦はスコアレスドローに終わったが、3戦目はチェコに勝利し勝ち点7でグループ1位突破を果たした。
しかしここまで得点を取ったのはスターリングだけ。点取り屋のケインはいまだノーゴール。

ベスト8をかけて戦う相手はドイツ。後半30分にスターリングのゴールが生まれ、さらに後半41分に初めてケインのゴールが生まれてベスト8に進出した。
準々決勝はウクライナと対決。ケインの2ゴールやMFのヘンダーソンにゴールが生まれ4対0で圧勝。
ここまでの試合で相手に1点も与えない堅守で勝ち進み、ベスト4に進出した
準決勝は、フィンランド戦でエリクセンが心停止を起こして倒れるというショックを乗り越えて勝ち進んだデンマーク。*7
前半の早いうちにデンマークのゴールが決まり先制される。イングランドはこれが初失点。(ちなみにこのゴールは直接フリーキックで決まったゴールでこの大会ではじめての直接フリーキックだった。)
しかし前半のうちに相手のオウンゴールで追いつき、後半でも決着はつかず延長戦へ。
延長前半12分、スターリングがペナルティーエリアで倒されPKを獲得。
相手の足がかかってないように見えるためデンマークはもう抗議するもVARの介入はなく、ケインがゴールを決め決勝へ進出。

決勝の相手はイタリア。ウェンブリースタジアム開催とだけあってイングランドの完全ホーム状態。
ここで見せたのが左サイドバックのルーク・ショウ。ここまで3アシストを決めていたのだが、この試合では前半2分にクロスをボレーで合わせて早々と先制弾を決める。
しかしここで屈しないのがイタリア。後半22分コーナーキックの膠着状態からDFボヌッチがこぼれ球を押し込み追いつき1対1で終了し、延長戦に突入。延長戦でも決着はつかず、PK戦へ。

先攻はイタリア。
1人目はイタリア、イングランドともにゴールを決める。(キッカーはヴェラッティとケイン)
2人目はイタリアが失敗し、イングランドはマグワイアが右上隅に決めてリード。
3人目はイタリアがきっちりと決める。しかしイングランドはラッシュフォードのキックは完全に逆をついたにもかかわらず、左ポストに当たってしまいゴールならず。
4人目もイタリアはきっちりと決める。イングランド4人目は目覚ましい活躍をクラブチームで見せたサンチョ。しかしGKドンナルンマに止められてしまう。
5人目、イタリアはGKピックフォードがかろうじて止める。これでイングランドが決まればサドンデス。キッカーはサカ。ゴール右に蹴るも再びドンナルンマに止められてしまい試合終了。
イングランドはまたしてもPK戦に勝てなかった。
しかし準優勝は見事であり、若い選手が台頭するイングランドはまだまだ進化を見せることだろう。

主な選手


○ビリー・ライト
イングランド代表で初めて100試合出場を達成したDF。105試合中90試合で主将を務め、1950年・1954年・1958年とW杯3大会に出場した。
クラブでは引退まで一貫してウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCに所属し、3回のリーグ優勝を経験した。


○ボビー・チャールトン
イングランド史上最高の選手と呼ばれている人物。
若くしてマンチェスター・ユナイテッドの主力に定着するが、1958年に飛行機事故で多くのチームメイトを喪い*8(ミュンヘンの悲劇)大きなショックを受けた。しかしその後立ち直り主将としてチームを牽引、FAカップやリーグ優勝を経験し、事故から10年後にはイングランドのクラブ初となるチャンピオンズカップ(現在のUCL)優勝を果たした。
代表では106キャップ49得点の実績を残し1966年のW杯優勝にも貢献、同年にはバロンドールも受賞した。


○ボビー・ムーア
1966年W杯優勝時を含め、代表108試合中90試合で主将を務めたDF。
長年所属したウェストハム・ユナイテッドでも象徴的な存在であった。


○ジェフ・ハースト
1966年W杯決勝で3得点を決め、イングランド優勝の立役者となった。
2022年W杯でフランスのキリアン・エムバペに並ばれるまで、長らくW杯決勝でのハットトリックは唯一の記録となっていた。
しかし、延長前半に決めた勝ち越しゴールがラインを越えていたかどうか微妙であったため、論争の的になった。


○ゴードン・バンクス
イングランド史上最高のGKとの誉れ高い「イングランド銀行」
1966年W杯では、準決勝でポルトガルのエウゼビオに1点を決められるまで開幕戦から5試合を無失点に抑えた。
特に1970年W杯1次リーグのブラジル戦、「サッカーの王様」ペレのヘディングシュートを阻止したプレーは、サッカー史に残る語り草となっている。


○ピーター・シルトン
1970年~1990年にイングランド代表最多記録の125試合に出場したGK。
ノッティンガム・フォレスト時代にリーグ優勝やチャンピオンズカップ2連覇を経験、その後多くのチームを転々とし40代に入っても現役を続け、47歳で引退するまでに1005試合に出場した。
1986年W杯でのマラドーナ*9の神の手および5人抜きの被害者でもある。


○ケビン・キーガン
小柄ながら豊富な運動量が持ち味であった"マイティ・マウス"。
リバプール時代にチャンピオンズカップ制覇・UEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)制覇2回・リーグ優勝3回、ハンブルガーSVではブンデスリーガ制覇・チャンピオンズカップ準優勝に貢献し、1978年と1979年に2年連続でバロンドールを受賞した。
代表では63試合に出場し21得点を挙げたが大舞台での活躍には縁がなかった。またEURO2000では代表監督を務めた。


○グレン・ホドル
両足を遜色なく使いこなしたMF。
クラブではトッテナムのUEFAカップ優勝やASモナコのリーグ優勝に貢献した。代表では1986年W杯ベスト8の原動力となるなど53試合出場。
1996年には39歳の若さでイングランド代表監督に就任。1998年W杯でのガスコイン外しは議論を呼んだ。


○ブライアン・ロブソン
運動量・パスセンス・ミドルシュートが持ち味のMFで、クラブと代表の両方で主将を務めた。
マンチェスター・ユナイテッドではエースナンバーの7を背負っていた。1982年W杯1次リーグフランス戦では試合開始1分でゴールを決めた。


○ゲーリー・リネカー
代表通算80キャップ48得点を記録したFW。
1986年W杯では6得点を挙げ得点王に輝き、代表キャリア末期(EURO1992など)には主将も務めた。

地元のクラブであるレスターでキャリアをスタートさせ、その後エバートン→バルセロナ→トッテナムと渡り歩き、レスター・エバートン・トッテナムそれぞれでリーグ得点王に輝いた。キャリア晩年にはJリーグ黎明期の名古屋グランパスエイトでもプレーした。しかし……

フェアなプレースタイルも特長で、20年間の現役生活でレッドカードはおろかイエローカードすらもらったことがなかった
また古巣のレスターへの想いは今も強く、2015-16シーズンの奇跡の優勝の際には予てからの公約であったパンツ一丁でのテレビ出演を実行した。


○スチュアート・ピアス
イングランド史上最高の左SBと呼ばれた選手。その熱いプレースタイルから"サイコ"のニックネームで親しまれた。
1990年W杯では大会を通じ好パフォーマンスで準決勝進出に貢献したが、準決勝の西ドイツ戦でクリス・ワドル共々PKを失敗してしまった。他1992年・1996年のEUROでも活躍するなど、代表戦78試合に出場した。


○ポール・ガスコイン
高いドリブル・パス技術を持ったMFで、愛称は"ガッザ"。
1990年W杯でベスト4に貢献したこと、そして準決勝敗退の際に流した涙が話題となり、社会現象となるほど国民の人気を集めるようになる。
一方でキャリア中期からアルコール依存に悩まされ、引退後現在に至るまで飲酒運転や暴行などで度々逮捕されているようにトラブルメーカーとしても有名。


○アラン・シアラー
1990年代のイングランドを代表するFW。プレミアリーグでは3年連続得点王に輝いたほか、プレミアでの通算260ゴールは歴代1位である。
1994年半ばからEURO1996直前までしばらくゴールが生まれなかった(シアラーパズルと呼ばれた)が、EURO1996では5得点を挙げ得点王となった。


○ガリー・ネヴィル
引退までマンチェスター・ユナイテッドで過ごしたフランチャイズ・プレーヤー。ポジションは主にSB。
1998-99シーズンにはプレミア・FAカップ・UCLの三冠など数々のタイトル獲得に貢献し、2005年から2011年の引退まで主将も務めた。
弟のフィリップ・ネヴィルもマンUやエバートンおよび代表で活躍した選手である。


○デビッド・ベッカム
ご存知イングランドサッカー界のスーパースター。その甘いマスクなどピッチ外での話題も豊富であり、2002年W杯の際日本では彼の髪形が流行したことも記憶に新しい。
マンチェスター・ユナイテッドではネヴィルやスコールズ共々若い頃から期待をかけられ、背番号7を背負い三冠などのタイトル獲得に貢献。その後はファーガソン監督との関係悪化もあり、2003年には銀河系軍団ことレアル・マドリードに移籍した。
代表では1998年W杯での報復行為で大きな非難を浴びたが、その後2002年W杯予選で信頼を回復させたことは上述した通り。2006年W杯後に主将の座を辞したがその後も度々代表に選出され、最終的に115試合に出場した。2010年W杯は負傷で選手としての出場は叶わなかったが、選手とコーチ陣の間を取り持つ役としてチームに帯同した。


○ポール・スコールズ
ネヴィル同様引退までマンチェスター・ユナイテッドに所属した。
1998-99シーズンの三冠に貢献するなど、11回のプレミア制覇・2回のUCL制覇を含めた数々のタイトルを獲得した。
一度現役引退した後、ファーガソン監督の要請で1年程復帰を果たした。


○リオ・ファーディナンド
クラブでは主にマンチェスター・ユナイテッドで過ごし、2000年代の快進撃を支えたDF。
代表では81試合に出場し、1998年・2002年・2006年と3回のW杯でメンバーに選出された(2010年W杯は直前の負傷により離脱)。
イタズラ好きな一面があり、企画でチームメイトにドッキリを仕掛けたことがある。


○マイケル・オーウェン
17歳でリバプールのトップチームデビューを果たした"ワンダー・ボーイ"
18歳で出場した1998年W杯アルゼンチン戦で挙げたゴール(センターサークル付近からドリブルし2人抜いた)は現在でも語り草となっている。2001年にはバロンドールを受賞した。
その後はレアル・マドリードで1シーズン過ごしたのち再びプレミアに戻ったが、キャリア中期からは度々故障に悩まされていたようである。


○フランク・ランパード
キャリアの大半をチェルシーで過ごした万能型MFで、3度のプレミアリーグ優勝や2011-12シーズンのUCL優勝を経験した。2017年2月に引退。
代表では似たタイプの実力者であるジェラードとの共存問題は監督の悩みの種であった。
IQ150の頭脳の持ち主でもあるらしい。


スティーブン・ジェラード
リバプールのレジェンド。
中盤ならどこでもこなせる万能型MFであり、2004-05シーズンのUCL優勝に貢献した。2016年11月に引退。
代表では通算114キャップ、2010年W杯~2014年W杯で主将を務めた。


○アシュリー・コール
全盛期は世界最高の左サイドバックとも称された名手。
ユース時代からアーセナルに所属していたが、2006年にライバルのチェルシーへ移籍。両チームでプレミア制覇を経験した他、チェルシーではUCL優勝の美酒も味わった。
代表では2014年までに107試合出場。


ウェイン・ルーニー
キャリア初期を地元のクラブであるエバートンで過ごしたのち、モイモイFOOTBALL GENIUSモイーズ監督との関係悪化もあって2004-05シーズンにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍した。マンUでは歴代通算得点ランクでボビー・チャールトンの記録を抜いて現在1位である。
技術や得点力も高いが、フィジカルや献身性も併せ持っており、マンU入団当初はスタンドプレーに走りがちでボールロストも多かったC・ロナウド*10よりも評価が高かった。後にパフォーマンスを向上させた彼と、元アルゼンチン代表のカルロス・テベスも加えた悪童トリオ攻撃陣の躍動は2007-08シーズンのUCL優勝へと繋がった。マンUでのキャリア晩年は主将も務めた。
2016-17シーズンを最後に退団し、古巣のエバートンに復帰した。エバートン入団後間もなく代表引退を表明したほか、アラン・シアラー以来2人目となるプレミアリーグ通算200ゴールを記録した。
代表デビューは17歳111日と当時の最年少記録であり、現在イングランド代表歴代通算最多得点記録保持者である(こちらもボビー・チャールトンの記録を抜いて1位となった)。
若い頃はラフプレー・暴言・アルコール依存・トイレ以外の場所での放尿などの素行不良でも知られた他、薄毛など容姿をからかわれることも少なくない。


○ジョン・テリー
チェルシーの主将を務めるCBで、闘志あふれるプレーが持ち味である。
2007-08UCL決勝では自身のPK失敗が祟って優勝を逃したが、2011-12UCL決勝でバイエルン・ミュンヘンにPK戦に勝利し優勝を果たした(テリー自身は出場停止であった)。
代表では2003年~2012年に78試合出場。不倫疑惑や人種差別疑惑で主将の地位を剥奪されるという騒動に巻き込まれたこともあった(後者に関しては裁判で無罪が確定している)。


○ピーター・クラウチ
身長203cmを誇る長身FW。2006年W杯および2010年W杯に出場した。
純朴な人柄から国民の人気が高く、ゴールを決めた後にはロボットダンスを披露することがある。


○ジョー・ハート
イングランド代表正GKを長く務め、2010年W杯後に代表のレギュラーに定着した。
マンチェスター・シティでは2010年代に入ってレギュラーの座をつかみ、2回のプレミアリーグ制覇などを経験したが、足元の技術に不安があることで新監督のペップことグアルディオラの信頼を得られず、トリノ、ウエストハムにレンタル移籍後、バーンリーに完全移籍。
しかしこれは後に代表GKの一人となるニック・ポープの控えとしてであり出場機会は少なく、移籍した2018年以降は代表には呼ばれていない。


○ハリー・ケイン
トッテナムに長く所属するFW。
2014-15シーズンにリーグ21得点を記録する大ブレイクを果たし、3度のプレミア得点王に輝いている当代の絶対的エースストライカー。
だがいかんせんトッテナムがビッグ6の中では格下なのも災いし、個人タイトルは山ほど持ってるのにチームとしてのタイトル経験ゼロという無冠の帝王としても有名。
代表デビューはEURO2016予選のリトアニア戦であるが、ルーニーと交代で入った79秒後に代表初ゴールを記録した
EURO2016本選ではなぜかコーナーキックのキッカーを任され、このホジソン監督の不可解な采配が批判されたりもした。




最後に
EURO2020の後、PKを外してしまった3人(奇しくも全員が若手の黒人選手であった)に対する人種差別の投稿が相次いだことが判明。
貧困に苦しむ人たちに無料給食を届けたラッシュフォードにもその矛先が向けられ、本人も出自に関しては決して謝罪しないと宣言した。
サッカーをこよなく愛する者として人種差別は絶対にしてはいけないと声を上げなければならないだろう。



追記・修正はPK戦のトラウマを克服してからお願いします。



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最終更新:2022年12月29日 11:49

*1 EURO・コパアメリカ・アジアカップなど

*2 ガスコインは累積警告により次戦の出場停止が決まっていたという事情もあった

*3 予選最終戦であるホームでのブルガリア戦で、引き分けでも出場決定という状況で試合終了間際の失点により敗れた

*4 このゴールが決まったタイミングでイングランドのテレビ局ITVがCMを流してしまうという失態を犯したという出来事があった

*5 1位通過のアメリカとは勝ち点と得失点差で並んでいたが総得点数が少なかった

*6 スコアレスドロー

*7 当のエリクセンは周囲の迅速な対応のおかげで、無事に一命を取りとめている

*8 自身も負傷したが一命を取り留めた

*9 イギリスとアルゼンチンはフォークランド紛争で対立していたため、アルゼンチン国内はこの勝利に大きく盛り上がった

*10 ルーニーより1年早くマンUへ移籍