ガリア戦記

登録日:2017/02/10 (金) 23:01:15
更新日:2023/10/02 Mon 22:27:07
所要時間:約 15 分で読めます



概要

『ガリア戦記』とは、紀元前一世紀のローマの将軍ユリウス・カエサルによるガリア征服戦争についてカエサル本人が記した書物である。
全部で8巻存在するが、カエサル自身が記したのは第7巻までとなっており、第8巻は彼の部下が書いたものである。
なおカエサルが暇になった時に書かれたのではなく、各年の戦役終了時に書かれた、いわば報告書のようなものであり、彼の支持層である一般民衆へのアピールも大きな目的の一つだったであろう。

そんなわけで「その時代の歴史の中心人物が自ら執筆した歴史書」という世にも極めて珍しい代物が誕生し、そして幸運にも完全な形で現代に残ったのであった。

続編(?)として、ガリア戦争後の数年を綴った『内乱記』が存在する。
正確には、当時はこの2つは1つにまとめられており、後世において便宜上分割されたものと考えられている。

そもそもガリアとは

現在のフランス・ベルギー・ルクセンブルグ・スイス全土、オランダ南部、ドイツ西部のことを指していた。
まだまだ未開発であったものの、気候も厳しくはなく水も豊かなため1200万人程度の人々が住んでいたと考えられていた。
彼らはいくつかの部族に分かれており、大きいものでも4つ、小さいものだと100以上あったという。王がいる部族もいれば、ローマの共和制に酷似した部族もあった*1

文体

ガッリアは全部で三つも部分に分かれている。そのひとつにはベルガエ人、ひとつにはアクィーターニ人、三つ目には自称ケルタエ人が住んでいる(この三者はそれぞれ言語や習慣、法が異なっている)    平凡社ライブラリー ガリア戦記 より引用

上記の引用文を見てもらえばわかると思うが、基本的に今日の仮想戦記物のようなものではなく、会話はほとんど登場せず、飾り言葉もほとんどない説明文のような簡潔な文章であった。自身のことは三人称で『カエサル』と表記しており、戦いだけではなく、その地方の人々の様子や橋などの戦役中に行った土木工事などについても詳細に書かれている。これらのことが数ある軍記物の中でも異彩を放つ要因となっている。


各巻の概要


第一巻(紀元前58年)
 ヘルウェティイー族が36万8千人で移動を開始し(各本によって理由が異なっており、ガリア戦記ではガリア全土を支配するため、「ローマ人の物語」では戦に敗れたため、「カエサル 上」だともっと広大で肥えた土地に定住するためということ)彼らは目的地に着くためにローマの属州を通過しようとしてきた、これに対し軍団を連れてそちらへと向かったカエサル。時間を稼いで防備を固めて追い払うことに成功する。そして、彼らが選択した別の道で大混乱が発生。これによってカエサルは境界線を越えて出撃することを決断し、6個軍団*2で十万を超えるヘルウェティイー族と戦い勝利した。カエサルの八年にわたる長き戦いが今始まる

第二巻(紀元前57年)
 ゲルマン人の王アリオウィストゥスを下したカエサル。ローマに対して犯行を企てたベルガエ人(ベルギー人)を征伐するために出発。対するベルガエ人はスエッシオーネース族の王ガルバを中心に連合軍を結成するが、ローマ軍の接近に驚いたレミ族が離反(ちなみにこのレミ族は全ガリアが対カエサルになった時でさえカエサルの見方であり続けた)し、さらに圧倒的な兵力をもってしてもカエサルに敗れたため、連合軍はほぼ解散。各部族は次々と降伏していったが、サンブル川にてネルウィイー族と大激戦を繰り広げた。*3

第三巻(紀元前56年)
 目下のところ抵抗する勢力はいなくなったため、カエサルはいったん属州に戻り、さらに部下のセルウィウス・ガルバにアルプス山脈の制圧を命じた。((これは現地の抵抗により失敗) その後カエサルは(ゴールスワーシー氏はこれが当初の目的だとしているが)イッリュリクム(現在のバルカン半島西部)に向かう予定を立てていた。しかし、南ブルタニューを拠点としているウェネティー族が食糧調達のためにやってきたローマ軍の将校をとらえたことにより彼らとそれに同調する部族が反乱を起こした。カエサルは軍を3つに分け、自身はウェネティー族の地に向かった。しかし、彼らの要塞は陸から攻略することは不可能に近く、配下のブルータス(お前もか、の人とは別人)に命じて建造させている船団の到着を待たねばならなかった。そうして夏の終わりごろになってとうとう船団が到着し、海戦が繰り広げられる。海に不慣れなローマ人は果たして勝てるのか、そしてブルータスが勝つために作らせた秘密兵器とは……

第四巻(紀元前55年)
 ガリアでの戦役がひとまず終わったと考えたカエサルは、いよいよゲルマニア(ライン河以東のドイツ)へと戦役の対象を切り替える。
 ゲルマン最強の部族スエービー族の圧力に耐えられなかったウシペテース族とテンクテーリー族がいよいよライン河を渡河してガリアに侵入し、ガリアに住むことが出来るよう交渉をしていた。このことを危険視したカエサルは現地に駆けつける。そして、部族長と交渉している間にガリア騎兵とゲルマン騎兵との間で小競り合いが発生し、ガリア騎兵74名が死亡した。ことを重要視したカエサルは弁明に訪れた部族長を拘束し、二部族に総攻撃をかけた。急な襲撃には一切の対応が出来ず、ほとんどはあっという間に殺されるか、捕まって奴隷として売られた。その後カエサルは(こちらはローマの属州にする目的でブリタニア(今のイギリス)に侵攻。果たしてのちにチャーチルが大英帝国の歴史はこの時より始まるとしたブリタニア侵攻とはどのようなものだったのか。

第五巻(紀元前54年)
 偵察としても遠征としてもあまり良くなかったブリタニア侵攻だったが、カエサルは再びの侵攻を決意し、今度は昨年の失敗に倣って入念に準備をした。遠征直前にハエドゥイ―族の騎兵によって混乱が発生した*4ものの、再度ドーヴァー海峡を渡った。しかし、前年度の失敗を生かせず嵐によって船団が再び大破。
 それによってブリタニア人が連合軍を結成(何度目だこの展開)し、カエサルに戦いを挑み、陣営の設営などにかかりきりだったカエサル軍に損害を出した。*5 しかし、だんだんとカエサル軍は敵の主力である戦車隊(砲弾ぶっ放すような今のそれではない)を追い払えるようになったため、敵の攻撃は弱体化し、さらに連合軍も離反者が増えて崩れかけていた。カエサルは離反者から総大将の本拠地を聞き出して攻撃をかけ勝利し、さらに彼らが逆転を試みてローマ軍の船団に攻撃をかけたが失敗したことにより和平交渉が行われ、カエサルに対して降伏した。*6
 こうしてカエサルはガリアに戻った。しかし、その年の冬にエブロネース族のもとで冬営していた15大隊(1.5個軍団)が彼らによる奇襲と策にはまったことにより全滅。そして、すぐ近くで冬営していたキケロ*7の弟にも攻撃をかける。孤立無援のキケロの弟の運命は。

第六巻(紀元前53年)
 カエサルは各部族の族長を招集し、来ないものは本拠地に軍団を動かして脅して無理やり参加させた。これにより、ガリアで反抗するものがいなくなり、カエサルは昨年のエブロネース族の長を捕らえることと、現在は控えめになっているとはいえど、カエサルに敵対する勢力への援軍を防ぐために再びゲルマニアに侵攻した。しかし、敵対するスエービー族は森の奥に引きこもって出てこなかったため引き上げ*8、長の方は結局取り逃した。
 また、この年にカエサル・ポンペイウスとともにローマ政界の有力者として活躍していたクラッススが名声を求めてパルティアに侵攻したが、返り討ちにされ戦死した。このことがのちのローマの内乱の発端の一つであったことは言うまでもない。

第七巻(紀元前52年)
 ガリア戦役もいよいよクライマックス。ガリアが再びローマに対して反乱を起こし、そこで彼らの指揮官に就任したウェルキンゲトリクスはガリア人に対しこれまでとは違う対応を見せつけ、瞬く間に支持を広げる。そしてカエサルがガリアで初めて事実上の敗北をしたことにより、とうとうレミ族など少数を除いた全ガリアがローマに対して反乱を起こした。そして、繰り広げられるアレシア攻城戦。7倍弱の軍勢を持つガリア精鋭軍に対してカエサルはどのような奇策を用いて立ち向かったのか。そして、ガリア戦役の結末は

第八巻(紀元前51年)
 この巻のみカエサル暗殺後にヒルティウスがアレシア攻城戦後について記したものとなり、文体は他の七巻とは異なる。
 特に大きな戦争は起きず、反抗する小部族をカエサルが圧倒的な兵力で打ち倒していくだけだった。


その後、元老院と彼らが味方に引き入れたポンペイウスとの関係が悪化。とうとう彼らがカエサルに「元老院最終勧告」を出したことによりそれは決定的となった。こうして、カエサルと配下の軍団は、「ここを超えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅。進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた」というカエサルの言葉とともに、ルビコン川を渡り本国に侵攻し、ローマは内乱に突入した。
こうして物語は『内乱記』へと続く……



参考資料
平凡社ライブラリー カエサル著 『ガリア戦記』
白水社 エイドリアン・ゴールズワーシー著『カエサル 上』・『カエサル 下』
新潮社 塩野七生著 『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前』

現在も多数の翻訳本が出版されている。
一度ぜひガリア戦記を読んでみてはいかがだろうか。



修正するとは!アニヲタよ、お前もか・・・

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • ガリア戦記
  • ユリウス・カエサル
  • ローマ
  • 報告書
  • ガリア
  • ローマ人の物語
  • 軍記
  • 世界史

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年10月02日 22:27

*1 例えば最大部族のハエドゥイー族(ローマ人の物語ではヘドゥイ族・カエサル 上ではアエドゥイ族)ではウェルゴブレトゥスと呼ばれる最高職がおり、任期は1年で個人は二期務めることが出来ず、その個人が生きている間は同じ家族のものも就任不可能

*2 そのうちの2個軍団は戦闘に参加せずに陣営地にとどまる

*3 このとき生き残ったネルウィイー族は六万の兵士の内500人・500人いた族長はたったの三人しか残らなかった。ただ、数年後に6万人を抵抗勢力に派遣したりしているので、これには誇張も含まれている可能性が高い

*4 海が怖くてついていくことを拒否し、さらに他のものに呼び掛けて逃亡を図ろうとし、実際に逃亡したところを殺害された。

*5 この戦いで軍団副官が一人死亡

*6 ただ、カエサル帰還後はこの約束はほとんど守られなかったようで、ブリタニアがローマの属州になるのはこれより100年後の皇帝クラウディウスによる侵攻を待たねばならない

*7 カエサル時代の政治家・弁護士。地方出身で、共和政こそが最高の政治体制だという点ではカエサルと敵対していたが、良き友人だった。極度の手紙魔で友人に送った手紙の数はキケロ―書簡集≫という本が出せるくらい多い

*8 ただ、カエサルにはゲルマニアを征服する意思も時間もなく、紀元前52年の戦いでゲルマン人の介入がほぼなかったことを考えると、ある意味成功したとも言えなくもない。