上杉謙信(戦国武将)

登録日:2009/11/15 Sun 15:23:19
更新日:2024/02/14 Wed 17:27:20
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上杉(うえすぎ) 謙信(けんしん)(1530〜1578)は戦国時代の人物、大名である。
幼名虎千代、別名長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎。生涯で多くの名前を名乗ったが、ここでは謙信で統一する。

越後守護代・長尾為景の次男として生まれた。幼い頃は寺に入って修行していたが、父・為景、兄・晴景の政治があまりに酷く、大規模な内乱を引き起こした。
内乱討伐軍、国内再建のため還俗して戦線に立つ。

しかし、その快進撃を目にした兄・晴景の疑心暗鬼により、兄とも対立する事になる。
最終的に守護・上杉氏の執り成しで和睦、長尾景虎として越後を治める事となる。領国経営を進める彼だったが、隣国・北信濃から多くの難民が越後に訪れる。

野心あふれる大名・武田信玄が信濃を攻略していたのである。無意味な戦を望まない長尾景虎だったが、この事態に対し挙兵。
5度にわたり川中島に対峙した。

また、北条氏との抗争に敗れ、落ち延びて来た山内上杉氏・上杉憲政を保護。
上杉の名跡、関東管領を継ぎ関東平定の為、関東にも進出、一時は北条家の本拠地・小田原城を囲んでいる。

さらに後年には同盟者・織田信長との関係が悪化すると、征夷大将軍足利義昭の請いに応じて挙兵を決意、手取川で織田最強といわれた柴田勝家の軍を鎧袖一触に破った。
しかし、直後に病死した。

死因は恐らく、酒と塩分の過剰摂取による高血圧から来た脳溢血とされる。
理由は後述にもあるように並外れた酒豪であった上、酒の肴に梅干し、味噌、極めつけに塩を好んで食べていたと言われているため。
3月上旬に城の厠で倒れたというのも、寒さの残る初春の越後であることを考慮すると納得がいく。

上杉家はその後謙信の甥で養子の上杉景勝が後を継ぎ、豊臣の時代で会津に栄転→関ケ原後米沢に減封と流転しながらも大名家として存続、現在まで続いている。



逸話

毘沙門天を愛し、信奉し、自らを化身と称した。陣旗にも「」「毘沙門」と記している。

義に厚かったと言われており、生涯の合戦のうちほとんどが他の武将などから救援を求められたことによるものだとか。

若い頃は、「そうだ、京都に行こう。」と僅かな軍勢で出発。事前に通行国に「京都行って来るぜ、通してくれ。」と通達する徹底振り。

酒も大好き。馬の上でも呑めるグラス、「馬上杯」を考案。乾杯!
…飲酒運転?

北条氏から人質としてやってきた北条氏政の弟を養子とし、自身の初名である景虎の名を与え、非常にかわいがった。

宿敵・武田晴信(信玄)が今川氏の経済制裁を受け、塩の輸入を止められた際には越後の塩を送っている。後にこれが『敵に塩を送る』の故事になった。
でも今川の塩止めの記録はあっても、上杉が塩を送った記録は存在しないのは内緒である(単に塩の輸出を止めなかっただけともいわれている)。

長きに渡って戦った宿敵であった信玄との関係性について、後世では両者の間にある種の友情や愛情(男色的な意味で)があった好敵手と思われることが多いが、
実際には、少なくとも謙信の方は信玄を本気で嫌っていたようである。
これについては、謙信が潔癖なまでに同盟を守ったのに対し、信玄は少しでも相手が弱みを見せると容赦なく同盟を破棄して攻め入るなど対照的な部分があり、
そういった点について謙信は信玄のことを許せず、また、相容れないと感じていたのかもしれない。
尤も、謙信も織田と同名を結んでいても義昭が信長包囲網を形成しようとした際にはあっさり手のひらを返したり、
臣従した配下をサクッと見捨てたこともあるなど、信玄の事をそこまで悪くは言えないようなこともしているのだが。
また、食事中に信玄の訃報がもたらされた際には、思わず箸を落として「我、好敵手を失え、世に又これほどの英雄男子あらんや」と号泣したとも伝わっており、
険悪ではあったものの、戦国大名としての信玄の政治手腕や実力については謙信なりに一目置いていたのかもしれない。

合戦の勝率は9割を越え、天下に名を轟かすほどだったが、雪ですぐ帰る(補給線が延びきる)上に僻地の越後からの長距離遠征であった為、領土の拡張は北陸と一部関東に留まった。
その強さは恐らく歴史上最古の「白い悪魔」と喩えられる。(源氏の源義経という説も。)
以後、この系譜はフィンランドはヘイヘ氏、ミッドチルダは高町女史、地球連邦はアムロ氏に受け継がれている。

あまり注目はされないが内政にも手腕を発揮
戦をするには大量の資金が必要であるが、交易、金山などに目をつけ運用することでそれを賄っている。
山内上杉家の重鎮太田資正からは謙信について「領民を慈しんでいる」と評されており、民政や殖産興業にも辣腕を振るって領民の生活水準の向上にも成功していた。

ちなみに女性説も存在する。
主な理由としては生涯不犯、定期的に腹痛を起こしていたこと(生理痛?)、緻密で丁寧な文書を書いていたこと等が挙げられている。
その為、よくそちら方面のゲームでは女体化され、にゃんにゃんされる。
女体化こそされずとも、性別不詳だったり中性的な容姿だったりすることも。
神罰が降ろうとも上杉神社に安置されている御神体を調べたいものである。
もっともこの時期は女性の領主も結構存在しており、わざわざ性別を偽るメリットが見当たらないため、女性説は俗説の域を出ないと見做されている。

2007年の大河ドラマでは謙信役にGacktが起用された。
「むさい坊さん」「渋いクール」などのこれまでのイメージを払拭しつつもどこか常人離れした新たな謙信像を作り出した。
2009年の大河ドラマでは「渋いクール」に戻ったが今までのイメージと少し離れたボサボサのバサラ髷である。


因みに裁判史にも大きな影響を残している。
ある時、謙信の若い部下が重度の軍法違反を犯して処刑されると言う事件が起こる。
証拠も十分で尚且つ犯した罪自体も処刑が当然と言う内容だったのだが、彼の父親が「裁きは当然だが父として耐えられない!!」と刀を抜いて事情を説明に来た使者に切りかかって近所一帯を巻き込む大乱闘の末に父親は斬殺、母親と妹は逮捕されてしまう。
謙信は
「父親は息子を失ったショックで突発的な発狂を起こしたのだ。家族にも止めようが無かっただろう。」
と、逮捕された母親と妹を無罪放免として、自分のポケットマネーで生活が落ち着くまで面倒を見てやった。
この「突発的な発狂の場合、家族は無罪放免」という判例は江戸時代にも継承されており、元禄赤穂事件に多大な影響を及ぼしたと言われている。
同じ公務中の刃傷事件でも
  • 内匠頭の叔父の内藤忠勝→乱心認定されたので、姉や弟は無罪放免
  • 浅野内匠頭→乱心認定されなかったので、弟は座敷牢送り、叔父は謹慎
と親族が連座されるかどうかで大きな違いが出ている*1
浅野家家老の大石内蔵助達譜代家臣達は内匠頭の弟の浅野大学が無罪放免になっていたらその家臣として雇用されていた可能性が高いにも拘らず、その道を閉ざされたので仇討ちを叫ぶ強硬派に合流した一面も有るとされている。


ここから先、義将のイメージを壊したくない人は観覧注意




















実は全く義将ではない。

戦いを一つのビジネスとして考え、関東遠征はそのたびに人をさらい物を奪っていた。
さらった人は人身売買に使っていた。
戦国時代の武将の中でもこれに対しては群を抜いていたという。
武田信玄に塩を送ったのも義ではなく敵国へのスパイが目的だった。
先述のように領民に対しては民政や産業を充実させる有難い君主だったので高評価が伝わっているが、敵国の領民に関しては容赦が無かった。

生涯不犯であったために実子がいなかったが、養子は四人も取っていた上に、跡目を誰に継がせるか明言しないまま謙信が急死したので家督相続の際に家中は揉めに揉め、
謙信が生前どちらかに家督を継がせるとしていた姉の実子である上杉景勝、北条家からの養子である上杉景虎の間でお家騒動の『御館の乱』が勃発。
その勝者となった景勝が上杉家の家督を相続したものの、上杉家の軍事力はこれによって低下した上、内乱の隙を衝いて攻め込んでくる者も出るなど、威信にも瑕が付く結果を招いた。

また、兄に不満を持った家臣に担ぎ上げられて家督を継いだ謙信だったが、相続直後はそれを不服とする一族に反乱を起こされたりと家中は揉めた他、
謙信の領国経営自体も、初動はあまり順調とは言えなかった。
どのくらいかというと、

内政、外交、戦、朝はおはようから夜のおやすみまで、大好きな酒の時間でさえも、父の長尾為景を引き合いに出されたりした。

あげく、

病弱で当主を交代した兄からもやいやい言われたりした。

謙信が何か行動を起こす度に、長尾家の古株達や越後の国人達にケチをつけられまくっていたのである。

好敵手の信玄も、家督相続の際には一悶着あったし、国人の扱いもで解決と、わりと苦労しているのだが、
あちらは父親が超絶KYウルトラ脳筋だったのに対し、
こちらは今でこそ謙信自身の方が有名だが、当時は父親の「越後のチート」こと長尾為景の威光がそれこそ越後全体に知れ渡っていた。

家督を継いだばかりの謙信は、還俗したての坊主上がりとあまり良い目を向けられなかったのである。
これらの長尾家の態度にプッチーンした謙信は、


「長尾家のバカ!もう知らない!!」


と、

こないだまで居た寺に引き込もってしまう。

当然長尾家は大慌て、今更こちらをチラチラ見てくる兄者を当主に戻す訳にもいかず、更に、

大熊「なんかここ空気わりぃ。オレ武ちゃんとこに行くわ。」

と、空気を読まないクマーまで出て来てしまう。

そんな長尾家ヤバイの状況で、謙信は何をしていたかと言うと、


寺で昼寝



寺で昼寝



大事な事なので、二回言いました。

それを聞いた長尾家の愉快な仲間達は、
「コイツただもンじゃねぇ!」
と、勘違い(後筆)し、その日の内にあなたには逆らいませんという内容の血判状をしたため、寺に送り届けた。

謙信はこの血判状をみて長尾家に戻り、当主としての自信と自覚をもったという。



(長尾家マジどーでもいいと、寺で寝てばっかいたのは内緒)



さらに無敗ではない。
さらに無敗ではない。
大事なことなので…。

たとえば1566年3月に上杉謙信は15000人の大軍を率いて、原胤貞以下2000の兵がいる下総臼井城を包囲し、
臼井城へ上杉軍の猛攻をかけ落城寸前までいった。
だが、たまたま城内に居合わせた男が関東一円に聞こえた軍師白井胤治で、落城寸前の城の指揮を原胤貞から託された。

胤治は「上杉軍は大軍で味方は寡勢であるが、士気はお味方の方が勝っています。かならずや、謙信めを蹴散らしてくれましょうぞ!」と士気を鼓舞した。
一方、「この程度の小城なぞ一気に攻め落としてしまえ!」と3月26日に謙信は総攻撃をかける。
対して、胤治はなんと城門を全開にして謙信の本陣目がけて突撃をかけ、不意をつかれた謙信軍は大混乱に陥り一時撤退を余儀なくされた。

翌日、「勢いに乗る白井はかならずや攻め込んでくるだろう」と本陣で手ぐすね引いて待っていた謙信だが、一向に敵は攻めてこない。
ついにしびれをきらした謙信は、海野隼人正が「本日は千悔日と言い、先に行動を起こすと敗れるという日です。敵城には白井浄三という名軍師がおり、おそらくその指図でしょう」と止めるのも聞かずに総攻撃をかけた。
それを待っていたかのように、胤治は臼井城の城壁を一気に倒し、轟音とともに取り付いた上杉兵数百を崩れた城壁の下敷きにした。
「はわわ」とばかりに謙信はあわてて全軍に撤退命令をだすも、城内から原の軍勢が一気に襲いかかり上杉軍は5000の死傷者を出して命からがら逃げたという。

なお、「領土的な野心を持たなかった」と言われることもあるが、これは関東、信濃方面の攻略が上手く行かないまま雪やら一向一揆やら謀反やら他国の侵攻やらで毎度引き返す羽目になっただけであり、越中などは普通に攻略し支配下においている。

先述の太田資正は
「謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其の二つは大悪人ならん、怒りに乗じて為し給ふ所多くは僻事あり、是其悪き所なり。又勇猛にして、無欲、清浄にして、器量大、廉直にして隠す所なく、明敏にして能く察し、慈恵にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其の善き所なり。末の世には有り難き名将なり。是故に其八つは賢人と申すなり」
と評している。
勇気と状況分析力・判断力、部下の諫言の妥当性を理解して素直に受け入れる度量の大きさ、廉直さ、領民を慈しんで民政を充実させた実績は高く評価しているが、怒った時の残虐性は戦国時代の基準でもドン引きするレベルであった




彼を取扱った作品

海音寺潮五郎「天と地と」
宮下英樹「センゴク天正記」
半村良 「戦国自衛隊」

ゲーム

太閤立志伝
戦国無双
決戦III
戦国BASARA
信長の野望
戦国大戦
戦国ランス
戦極姫
戦国乙女
桜花センゴク 〜信長ちゃんの恋して野望!?〜
戦国✝恋姫
Fate/Grand Order
(上記8つでは女性として登場。信長の野望シリーズでは天道から性別の選択が可能となっている。BASARAでは中性的な容姿と口調で、担当声優は女性だが性別は不明)


極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし*2




追記、修正は、トイレで脳卒中で倒れない程度でお酒を嗜んでからお願い致します。

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最終更新:2024年02月14日 17:27

*1 しかも、浅野内匠頭の場合、稲葉、秋元、土屋の三老中が狂人ではないか?と将軍・綱吉に感想を述べている

*2 訳:私が死んだあと極楽に行くのか地獄に行くのかはわからないが、私の心は雲のかかってない月のように、一片の曇りもなく晴れやかである。