河井継之助

登録日:2011/10/16(日) 09:47:01
更新日:2024/03/03 Sun 01:15:15
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河井 継之助(かわいつぎのすけ、またはつぐのすけ)

文政10年(1827)1月1日生~慶応4年(1868)8月16日没。
諱は秋義(あきよし)、号は蒼龍窟(そうりゅうくつ)。

長岡牧野家の家臣で幕末~明治初期にかけて日本で最初にガトリング砲を購入し、ヒャッハーした人物。

育て上げた軍隊を率いて太政官と戦い、相手方の山県有朋や木戸孝允を嘆かせ、
後世、戦前を代表するジャーナリスト・徳富蘇峰は講演で、
「維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)を足した合計値より大きくないが、三人を足して三で割った平均値よりは高い」
と評した。

軍事面での才覚だけでなく、内政・財政面でも桁違いの実力を発揮した、ギアスでも持っていたのかと疑う程のリアルチートキャラ。

あくまでも、薩摩・長州中心の王政復古に反旗を翻し、降伏を潔しとせず、牧野家の世継ぎを海外亡命させようと画策するなど、最後まで従おうとしない一面を見せた。


  • 経歴

徳川幕府を支える譜代大名の越後長岡牧野家(禄高74000石)の中級家臣(禄高120石)である河井代右衛門と貞の間に長男として生まれる。
後に妻・すがを娶る。
代々河井家の当主は、幼名を「継之助」、元服すると、通称として「代右衛門」を世襲するのだが、継之助は元服後も幼名である「継之助」で通した。

子供の頃は負けず嫌いで、剣術や馬術は自己流で済ましたが、凝り性な所があり、学問や射撃、盆踊りや釣りは熱心に行った。
のちに陽明学にハマる。

その後、江戸や北日本各地・西日本各地を遊学し、斎藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山、山田方谷から大いに影響(財政再建、海外事情、陽明学、人材登用)を受け、
その旅の感想が万延元年(1860)三月七日付で、備中松山城下から、長岡城下にいる義兄(妻の兄)の梛野嘉兵衛に、

『天下の形勢は早晩大変動を免れず、今の世界情勢は戦国時代だ。
時の勢いほど、恐ろしいものはなく、外人をまねて、風俗も制度も一変するのは、必ず近いうちだろう。

過去の日本も、大化の改新の後、遣隋使や遣唐使を送って、文学を支那に学び、唐の律令を学んで取り入れているのだから、
今日の洋風・洋式も10年後には違和感がなくなるだろう。

今の急務は、日本を欧米列強並みの富国強兵国家にするには、朝廷や幕府にこだわらないで、

「政道御一新、上下一統、富国強兵」

の国是(国の基本方針)を定めて、実現することにある。

開国はもはや自然の勢いであり、いつまでも幕府が日本を治めていると思っていたら、浅はかで嘆かわしいことであるが、
朝廷や幕府の間に薩摩島津家や長州毛利家の家臣達が介入して、離間の策を施しているのが心外だ。
幕府も朝廷に対して、軽々しい態度を取らないことだけを願いたい』

と手紙に記している。

ちなみに、当時の日本政府である徳川幕府を支える譜代大名で京都所司代や老中を輩出する家柄である以上、
牧野家から倒幕運動に走ったのは、白峰駿馬(牧野家を出奔して、海援隊に属す)ただ一人であり、
幕府に不満や反発はあっても反旗を翻すほどの大名家ではなかったことも付け加えておく。


遊学から戻ると、京都詰公用人、江戸詰公用人兼御用人、郡奉行、町奉行、中老、家老、執政兼軍事総督と権力の階段を駈けあがるとともに、
民政、財政、軍制の改革に辣腕を振い、禄高の平均化を行い、中級・下級の家臣や農民や町人でも実力があれば要職や役人として抜擢、
74000石の譜代大名を劇的に変化させ、政治改革の実を上げた。

軍制改革では、上の財政立て直しと同時に、相場を調べて、最安値の場所で米や銅銭を買い漁り、最高値で売れる場所で売り抜けた。
家臣の俸禄を最低限度に抑え、牧野家の家宝を売却し、御用金を集めたり、信濃川の通行税を撤廃して流通の自由化を促進して、
人が来るようにするなどして費用を捻出し、西洋式の最新武器を買い揃えた*1

フランス式軍制を導入し、ガトリング砲、四斤山砲、臼砲、十二斤野砲など大砲31門、エンフィールド銃、スナイドル銃、
シャープス銃等々小銃2000挺を保有し兵力も家臣団と農兵を合わせて歩兵3個大隊約1000人と砲兵要員約200人に再編成し、鬼教練で精鋭に仕上げた。


中央の政局に関しては、元治元年(1864)九月十四日梛野嘉兵衛付書簡に、

『幕府の長州征伐は、諸大名を制御する威権の無い事を天下に示すことになり、事態をさらに悪化させる恐れがあり、賢明な考えとは思えません。
長州侯の領地を御召し上げるだけの御覚悟が無ければ、第二、第三の長州侯が出てくることは著しく明らかなことです。

攘夷、尊王とはなどと浪人共が言いふらしていますが、それは誠に愚かな事です。
天皇の下すべての人民は王臣であり、天皇を尊ばないものは一人もいないでしょう。
攘夷とは何たる事でしょう。例えば洋艦が来航しようとも、我が国の綱紀を立て、兵が強く国が富んでいれば、恐れるに足りません。
その準備もいたらず、攘夷攘夷と騒ぎ立てるのは臆病者の戯言で、心が痛みます。

むしろ、我々は通商の道を開き、外国を利用して国を富ます事が出来ます。
無禄の浪人共の仕業なら一笑に付すことも出来ましょうが、薩摩・長州が外国と戦争を起こしたのは無謀の振る舞いでしょう。
将来の天下大乱の兆しと思います。
今は容易ならざる時代、上下一致して、綱紀を引き締め、財用を充実して、兵力を強くして、一朝有事の際、御家名を汚さない心掛けが必要といえましょう』

と書き記している。


大政奉還後、当主の牧野忠訓を擁して上坂。
王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官に過去の徳川政治の実績を擁護し、攘夷運動の胡散臭さを批判し、
徳川慶喜の新政権内での指導的地位の就任(=大政再委任)にするように建白書を提出したが、返答は無かった。

戊辰戦争では、徳川方に兵糧攻めを提案したが無視され、江戸や横浜で情報を集めて長岡に戻り、太政官に内戦の非を主張したが、
ボタンの掛け違いから挫折、力づくで戦争を止めるため、反太政官同盟である奥羽越列藩同盟に加盟し、中越一帯で一進一退の攻防を3ヶ月続けた。

そして、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還するが、その直後、戦況視察で負傷。
指揮の取れないまま敵の攻撃を受けてしまい、再度の落城で長岡軍は再起をかけて会津へと向かう。

会津に入った河井は只見村で休息を取り、その際に松本良順医師の診察を受けるが、この時点で既に手遅れの状態にあり、
河井も自らの死期を悟ったようで、周囲の人物に後図を託したり、外山修造に「これからは武士ではなく商人を目指せ」とアドバイスしたりしている*2
その後、河井は亡命先の会津松平家領塩沢村で、傷口が悪化して慶応4年(1868)8月16日に没した。

辞世の句は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」*3
戒名は忠良院殿賢道義了居士。


なお、太政官と同盟は越後方面で4~6倍の戦力差があったが、河井の友人と自称する外国人武器商人たちが同盟に武器を提供し、
河井の焦土戦術と奇襲戦法を組み合わせた手段を選ばないやり方が互角の戦いにしたのである。

その後遺症で領内の8割が焼け野原になり、巻き込まれた被災者・部下から恨まれたのは仕方がない。
河井は被災者を救済すると公言したが、途中で死去したため、後を小林虎三郎が行うことになる。(これが米百俵の逸話である)

河井亡き後の牧野家は、会津松平家、米沢上杉家、仙台伊達家と亡命先を転々とし、明治元年(1868)9月23日に降伏。
牧野家は官位、所領を没収されたが、74000石→24000石への石高の減少、当主を忠訓から忠毅へ交代、藩治職制により長岡藩と改めて再出発をすることが赦された。


太政官から反逆首謀者を出せといわれたので長岡藩は河井と戦死した家老の山本帯刀を申告し、太政官も両者の家名断絶を長岡藩に伝える。
長岡藩は更に存命中の三間正弘を首謀者として差し出し、三間は東京で獄中に繋がれる事になる(後に釈放され石川県知事に)。

河井家の遺族は長岡藩の意向で、森家が引き取り、源三が世話人となる。

父は明治4年(1871)に長岡で死去。母と妻は源三が札幌農学校の教師として赴任したため、源三ととも北海道に移住。
江別に住んでいたことが記録に残っている。母は明治21年(1888)、妻は明治27年(1894)それぞれ病没。

河井家の家名再興は太政官により明治16年(1883)2月16日に認められ、
同22年(1889)2月11日の帝国憲法発布に伴う大赦令により、河井の反逆罪という汚名は濯がれることとなった。


  • 作品

時代劇では大河ドラマ「花神」の後半の主人公として登場、高橋英樹が熱演。
テレビ朝日の特番では阿部寛、日本テレビの二時間時代劇では中村勘三郎がそれぞれ演じている。

2021年6月18日には、映画『峠 最後のサムライ』が公開予定(主演・役所広司×監督・小泉堯史)。

ゲームではコーエー(現:コーエーテクモホールディングス株式会社)の「維新の嵐」シリーズに登場。
PC9801版ではシナリオ3の佐幕派側の主人公として選ぶことができる。

続編の「維新の嵐・幕末志士伝」では長岡藩家老として学力・兵学・国外見識に高い人物として登場する。


  • 余談

◆河井の反対派のその後
『峠』で河井を煙たく思う上司として出てくる先祖代々の家老「稲垣平助重光」(小説では年上らしい感じだが実際は年下だった)。
彼は行政面で功績を上げられず、河井の活躍の余波で降格・減俸になった。
その結果、反発する形で勤皇派になっていた。

史実での彼は開戦後出奔・河井とは逆に太政官との降伏交渉に奔走し戦後の牧野家の助けになるも、その時いろいろ振り回され、
「なんで敵前逃亡して交渉した」
と叩かれた所為か戦後町人として一生を終え、彼の娘はその後アメリカで結婚生活を過ごし、著書『武士の娘』で名を残した。

また江戸留学時代、河井も師事していたことがある佐久間象山の愛弟子だった等から稲垣と別ベクトルで継之助とは違う思想者だった「小林虎三郎」。
彼は「今は薩長に頭を下げてでも戦争を回避した方がまし」と考えていた。
彼は開戦後おとなしくしていたが、河井の死後「大参事」なるトップクラスの役職となり、戦後長岡に学校を開いたり、他藩からの寄付「米百俵」を学校のために使うなどして長岡の偉人として名を残した。

人間やりたいことをどうやるか、またどんなタイミング・周囲の世論でやるかで人のためになっても評価が違うという事かもしれない。


  • 後継者たち
彼の生き様から、様々な分野に後継者が存在する。

◆外山 修造(とやま しゅうぞう)1842~1916
牧野家領内の生まれで、尊皇攘夷の志士として故郷を出奔、紆余曲折の結果、河井に師事する。
継之助の遺言である「商人になれ」という言葉を胸に、慶應義塾をへて大蔵省に入省。国立銀行の立て直しをした後、辞職。

外遊後アサヒビール、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。阪神電鉄初代社長となり、関西財界の礎を築いた。


◆城 泉太郎(じょう せんたろう)1856~1936
河井の親戚筋に当たる。
慶應義塾を卒業後、英語教師を務める傍ら自由民権運動に携わった。

城の政治思想の特徴は戊辰戦争での敗戦経験の影響を強く受けたもので国体の見直しを訴え、共和政体論を主張していたことにある。

昭和2年(1927年)に憲兵隊により取り調べを受けたことにより、自身の原稿類を焼き捨てた。


◆ジェームズ・ファブル・ブラント 1842~1923
河井の友人を自称するその一。
スイス生まれのスイス人で電気工学を学び、国民皆兵のスイス軍では射撃隊下士官の経歴を持つ。

1863年、日本との修好条約を締結に来たスイス使節団の一員として来日。
締結後、使節団は帰国したが、ブラントは日本に残り、横浜で仲間と共に時計・宝石・武器を扱うファブル・ブラント商会を設立。
長岡牧野家、薩摩島津家、宇和島伊達家等に武器を販売してしていた。
牧野家がガトリング砲を購入したり、薩摩島津家の情報も断片的(横浜での武器取引など)ではあるが、この人から得ていた。

戊辰戦争後も日本人と結婚して横浜や大阪で商売を行い、四男三女の子供を授かり、母国に帰ることなく日本に住み続けた。


◆スネル兄弟
ヘンリー・スネル 1843~?
エドワード・スネル 1844~?

河井の友人を自称するその二。
バイエルン王国生まれで父親の仕事の都合でオランダの植民地・インドネシアに移住し、そこで育つ。

十代でオランダ国籍を名乗り日本に来日、横浜で牛乳・牛肉・日用雑貨を扱う商会を設立。
若いながら横浜居留地の代表者に選ばれ、住民のトラブルを処理するなど、苦情処理役として働いていた。
併せて、日本に人手を割けない欧州諸国(オランダ、プロイセン王国、スイス、デンマーク)の書記や通訳などを申し出て働くなどしていた。

慶応3年(1867)11月、米沢上杉家の重臣・甘粕継成は大阪に向かう蒸気船の中で河井と兄弟が意気投合して談笑していたと日記に記している。
その後、甘粕もこの兄弟と仲良くなり、会津松平家の家臣や殿様も兄弟を河井の紹介を通じて仲良くなり、平松武兵衛という名前を与えている。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の武器購入を担当し、金や武器はイギリス嫌いの外国人商人を通じて集めて新潟港に送り込んだ。

戊辰戦争後、太政官から呼び出され、同盟への武器譲渡は安政の五か国条約で定められた正規の政府以外への販売禁止にあたるとして賠償金を求められた。

被告のエドワードは、

『スイスやデンマークと交わした通商条約には正規の政府以外への武器の譲渡も認められており、最恵国待遇により五か国条約の国にも適用される。
そもそも、戊辰戦争中、欧米諸国は内戦に中立の立場を取っていて、太政官と同盟は交戦団体という政府の一つ手前の扱いになる。
長崎で外国人商人から武器を購入するのが許されるなら、新潟で外国人商人から武器を購入するのも許される。
私を裁くなら、先ず長崎の外国人商人を裁くのが先だろう。順番がおかしい』

と主張。
この時エドワードはオランダ国籍で被告人として立っていたので、最恵国待遇が適用され、太政官の訴えを退けた。

ヘンリーは生き残りの会津武士やその家族を連れてアメリカ・カルフォルニアに渡り、そこを開拓して新天地を得ようとしたが挫折。
長岡藩にも手紙を送り、商社を設立し、海外貿易を行い、外貨を獲得して、その利益で領地を復興させると宜しいと提案しているが、「米百表」モードの長岡藩に無視されている。

二人ともその後の行方は分からない。

兄弟が河井に惚れ込んだ理由は、合理主義に毒されたヨーロッパ人が失った何かを持っているから、という証言がある。
戊辰戦争中、河井の為に順番待ちの客を無視して武器(元込め銃)や金を融通し、
牧野家の武器購入担当者も日本の商人に、あの様な人は居ないと驚かせたが、
河井は「あいつらの本質は怜悧、義理や人情などないよ。客の心を惹く為にわざとしているに過ぎない。」と言い切った。



追記・修正は牧野家家臣団をフランスに亡命させてから、お願いします。

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最終更新:2024年03月03日 01:15

*1 アメリカの南北戦争が終わり、南北戦争用に大量生産したり、開発が間に合わなかった新兵器類が世界中で余っていた事も関係する

*2 ちなみに戦後、外山は河井が遺した福沢諭吉宛の添え状もあって慶応大学で学んだ後、実際に商人となって大成功を収めている。

*3 実際には会津に入る前、大怪我をして一人では歩けない自分を自嘲して詠んだ句であり、河井自身には辞世の句のつもりは恐らくなかったと思われる。