スタン・ハンセン

登録日:2017/01/01 Sun 23:26:46
更新日:2023/05/16 Tue 14:51:26
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デーデーデッデーデーデッデーデーデッデーデーデッ♪
パー、パパパー、パパパーパパパーパーパパパー♪


「スタン・ハンセン(本名:John Stanley Hansen II)」は1949年8月29日生まれの元プロレスラー。
キャリアの殆どを日本で過ごしており、日本で最も成功した“ガイジン”レスラーと評されている。
プロレス史上、最大の流行技とも呼べるラリアットの元祖として知られる。
入場時にはテンガロンハットにベストとチャップス姿のカウボーイスタイルで決め、ブルロープを振り回しながら入場するのが定番だった。

四半世紀以上の期間に渡り日本マット界で活躍。
特に、全日本プロレスでは社長のジャイアント馬場との信頼関係を構築して81年の電撃移籍以来、01年の引退までの約20年の期間を過ごした。
先輩世代の馬場やファンクス、同年代にして同門の鶴田、一回り以上年齢の離れた四天王と、時代時代のトップベビーを相手に最強外国人ヒールとして立ち塞がった。

また、ハンセンが一介の若手からトップレスラーへと変貌を遂げたのが77年に初登場し、数年に渡ってプッシュを受けた新日本プロレス時代で、75年の初来日時の全日本プロレスでは「次はないな」と馬場に評価されていた馬力だけの若手だったハンセンを見事に売り出し、自身最強の敵としてみせたのがアントニオ猪木であった。

この新日時代にハンセンは先輩であるアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングル戦を実現しており、結果こそノーコンテストとなったものの、81年の田園コロシアムでの一戦は日本マット史上に残る外国人対決では最大の名勝負として記憶されている。

冒頭に書いた入場テーマ曲はケニー・ロジャーズの『So In Love With You』とフュージョンバンド・スペクトラムの『サンライズ』を組み合わせたもの。両方とも歌詞のある歌なのだがインストゥルメンタルで使用されている。特に後者はプロレス史に残る名曲の一つにして、バラエティー番組における乱闘のテーマとしておなじみ。*1

【略歴】
学生時代はアメフトで鳴らし、卒業後はプロになるも解雇されて故郷の中学で教鞭を執る。
そこをアメフトの先輩であるテリー・ファンクに声を掛けられてトレーニングを積み、73年1月1日にファンクスのホームであるアマリロ地区でデビュー。
尚、同じくアメフト部の先輩としてブルーザー・ブロディが、
共にファンクスのトレーニングを受けていた相手としてジャンボ鶴田やボブ・バックランドが居り、既に後のプロレス人生に於いても重要な関わりを持つ相手との邂逅を果たしている。

その後はフロリダ地区、フリッツ・フォン・エリックお膝元のダラスを回り経験を積んだ後に76年にニューヨークWWWF*2に登場。
無敵のチャンピオンとして君臨していたブルーノ・サンマルチノの王座に挑戦するも、ボディスラムを失敗してしまい重度の頸椎捻挫を負わせて2か月の長期欠場にさせてしまった事がある。*3
大スターに大怪我を負わせたこの一件で「壊し屋」として捉えられたハンセンは徐々に米マットでの居場所を無くしていく。

そして、WWWFと新日本プロレスとの提携から77年1月に新日マットに初参戦。
この頃からハッキリと必殺のウェスタン・ラリアットが猛威を震うようになり、同年秋の再来日より外国人エースとして迎え入れられ、新たなる猪木のライバルとして定着していく事になる。
昔から髭面の老け顔で印象が変わらないからだが、当時のハンセンは血気盛んな20代の若者であり、そのナチュラルなパワーとスピードは圧倒的な巨体を誇るアンドレをも吹っ飛ばす程だった。
試合内容としては暴れるだけ暴れてノーコンテストで終わる場合も多かったものの、猪木から当時の新日の最大タイトルであるNWF王座を奪っている。
因みに、試合がノーコンテストで終わってラリアットが出なかった場合でも試合後の乱闘で若手相手にラリアットが出る場合も多く、背が高いのが災いしたのか度々犠牲になった前田日明は、生涯で最も痛かった技はこの乱闘時にハンセンに食らったラリアットであると語っている。*4
この当時のハンセンの姿を形容して実況の古舘伊知郎は「ブレーキの壊れたダンプカー」「不沈艦」と形容。
前者は新日時代、後者は全日本移籍後も使われた為に全日時代を象徴するニックネームとして記憶されている。

こうして、一時代を築き上げたハンセンだったが81年末に師匠のファンクスが仲介に入り全日本プロレスへの移籍を果たす事になる。
盟友ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカのセコンドとして登場すると、試合中は大人しくしていたものの、試合後の大乱闘で大暴れして電撃移籍をアピール。
この登場は解説の竹内宏介を含む、ごく一部の関係者にしか知らされていない上でのサプライズ的な演出であり、当初はハンセンも契約当時の状況やファンクスが外国人でありながらエースとして君臨している事についての不信感もあったと云うが、事務的で分権体制の新日マットに対して、全日マットでは馬場がプロモーター兼ボスとして君臨する、ある意味で解りやすいシステムであったことや、ハンセンが事情を知っていたかは不明だが馬場が外国人選手を優遇していた事もあってか、後には個人的に馬場との信頼関係を築き上げ、不動の外国人エースとして長く戦っていく事になる。*5
そして、この全日マットへの移籍により、本国以来となる盟友ブルーザー・ブロディとのミラクルパワーコンビ(超獣コンビ)が実現。
プロレス史上最強とも評される奇跡の名コンビで、正に手が付けられない強さを誇った。
ブロディが全日を去った後はテッド・デビアス、テリー・ゴディや天龍源一郎とのタッグも結成。

こうして、日本マットで確固たる地位を築くと、85年に全日マットとも関係の深い世界三大王座の一つAWA世界王座を獲得し、米マットにも名前を刻み込む。
しかし、このAWA世界王座はオーナーであるバーン・ガニアの望む巡業スケジュールを無視して日本での巡業を優先させた為、王座剥奪されてしまった。
ところが、転んでもタダでは起きないハンセンは通称"ニックベルト"と呼ばれるAWA世界王座のベルトを自分のトラックで轢いて破壊して突き返すという鬼畜の所業を仕出かした…。
この件についてベルトの所有者である故ニック・ボックウィンクルは晩年まで非常に憤慨していた。

この80年代には馬場、鶴田、天龍、ファンクスら全日のトップベビーや84年に電撃移籍を果たした長州力率いるジャパンプロレスと対戦。
しかし、馬場に変わる絶対のエース格として育てられていた鶴田との戦いでは両名ともに旧知で、親交も深い間柄であった為か期待外れに終わる事が多く、89年に数試合も掛けて先延ばしされた全日の看板タイトルである三冠ヘビー級王座の初代決定戦は凡戦、且つファンの納得の行かない内容に終わってしまっている。

90年に入ると、冷戦状態の続いていた新日マットと全日マットが雪解けし、交流戦が実現。
2月の東京ドーム大会では当時の新日マットに於ける最強外国人として君臨していたビッグバン・ベイダーとの対戦が実現。
ハンセンに殴られたベイダーの目が尋常じゃない程に腫れ上がった程の壮絶な戦いとなる。
4月の日米レスリングサミット大会では新日時代の後輩で、ハンセンが去った後の外国人エース、そして本国WWFでもエースとして君臨したハルク・ホーガンと対決。
自らのラリアットから生まれたホーガンのアックスボンバーに敗れる。
新日マットには6月まで継続参戦し、若手の実力派として売り出されていた闘魂三銃士との対戦が実現している。

90年10月に、SWSによる天龍ら全日マットの主力レスラーの大量引き抜きが起きる。
これに伴い、以降のハンセンは鶴田と共に、三沢光晴川田利明ら後の全日プロレス四天王の壁として立ち塞がり、その成長を促す役目をしていくことになる。*6
この時期に、漸くその強さが認められると共に完全無欠のエースとしてファンに捉えられた鶴田だったが、92年にB型肝炎の発症により事実上のリタイア。

ここから、全日マットはそれまでの路線を変更した四天王プロレス時代へと移行していく事になるが、ハンセンは尚も鶴田の後を引き継ぐように四天王の壁として立ち塞がり続けることになる。
90年代後半に入ると流石に衰えたと言われつつも*7、98年にかつてド迫力ファイトを繰り広げたベイダーがWWFからやって来るとスーパータッグを実現して暴れ回る。
翌、99年には川田の負傷によりパートナーの居なくなった田上明と組んで、ここでも大暴れ。
結果的には2年連続で最強タッグ準優勝で終わるものの、ファンからの熱狂的な支持を集めた。

99年1月に馬場が死去。
三沢新体制、更には00年の分裂後も残留するが、00年11月に両膝の怪我を理由に引退を宣言。
年明けの01年1月28日に行われたジャイアント馬場三回忌追悼興行で試合も無しに引退セレモニーを行った。
この引退セレモニーでは新日本、全日本の選手が居並び、生前の選手に10カウントゴングが捧げられる異例のものとなった。

その後は、新日本プロレスから飛び出した武藤敬司体制となった全日本プロレスにもご意見番として協力。
三冠ヘビー級王座の管理元であるPWF会長を07年まで務める。

二人の息子に野球を、地元の子供達にスポーツを教えつつ悠々自適の生活を送り、09年には息子のシェーバー・ハンセンがシアトル・マリナーズの6巡目に指名されたことを喜んでいた矢先に三沢の訃報を聞き、それを惜しむコメントを発している。

10年3月に、かつてのライバルにして元WWF王者であるアントニオ猪木がWWE殿堂入りを果たして、このインダクターとして登場。

16年3月にはハンセン自身のWWE殿堂入りが発表され、ベイダーがインダクターを務めた。

【得意技】

ウェスタン・ラリアット(西部風投げ縄打ち)
最大の必殺技にして、一撃必殺の神通力を誇ったプロレス史に残る必殺技。
自身のベースであるアメフトの技術を応用した技で、現在では反則技とされる、相手の首に腕を引っ掻けて倒す“腕タックル”をプロレス技としてアレンジした技である。
ハンセンの場合は相手の首を左腕でカチ上げるようにして振り抜き、その衝撃を柔軟な下半身で吸収して自分は微動だにしないというのが基本型で、ショートレンジからも充分な威力や距離を確保出来るのが特徴。
当初は相手をロープに振って返ってくる所に決めていたのだが、猪木の0.X秒のラリアット等、カウンターも決められやすかった為か走り込んで放ったり、相手の頭を引っ掴んで放ったりと、バリエーションが増えていった。
晩年はほぼショートレンジから放つパターンをフィニッシュとしている。
技に行く前に左腕のサポーターの位置を直すアピールするが、この場合には不発に終わるのがパターンで、観客にとっても試合が終わりに近づいているサイン。そして、実際のフィニッシュまでの攻防が始まるサインとしても受け取られていた。
前述のように“首折り神話”こそ大袈裟に脚色されたエピソードではあったものの、格闘王と呼ばれた前田が恐れ、三沢が冗談抜きで星が飛ぶ、とまで語った威力は絶大。
この為、ハンセンとの対戦ではラリアットの威力を殺す為の左腕殺しが焦点となる事が多かったが、秋山準は「どんなに攻めても結局は一発(でやられる)じゃないですか」「あれだけ体重があると何処に当てても決まってしまう」とまで語っている。
長州や小橋健太ら、ハンセンからラリアットを受けて、自分に合った形にアレンジしつつ技を覚えた選手はいたが、武藤体制の全日本プロレスでエースを務めた小島聡は、直接に引退していたハンセンから技を伝授されたことで知られる。
実際、伝授後の小島のラリアットはハンセン式の無理なく腕を振り抜くカチ上げ式に変化している。

■エルボー
ハンセンの場合は巨体を利して放つエルボードロップと、フライングメイヤー(首極め投げ)からの連携として背後から胸元に落とすエルボーバット、相手をロープに振って返って来る所に見舞うバックエルボー等を得意としていた。
エルボードロップの際には「ディーヤッ!」の掛け声を観客も合唱するのが晩年の定番だった。

■ショルダーブロック
肩口から突っ込む体当たり。
スーパーヘビー級の選手も吹っ飛ばす威力がある。

■ドロップキック
巨体ながら、打点の高さ、フォーム、共に優れる。
ブロディとのコンビでは息の合ったダブルドロップキックを見舞い、インパクトを記憶に刻み込んだ。

■逆エビ固め
巨体を利して極める為、決め技となることもあった。
AWA王座を獲得した時のフィニッシュもこの技である。

■ショルダーバスター
相手を逆さまに抱えて肩口を自分の膝にぶつける痛め技。

■抱え式バックドロップ
怪力を活かして高い位置まで吊り上げてから放っていた。
85年には馬場の巨体をロープ越しにエプロンから引っこ抜いて投げ落としてフォールを奪いタイトル戦線から離脱させた。

この他、若い頃には馬力一辺倒でペースも考えずに戦えたハンセンだが*8、年齢を重ねて体力が低下してくると小器用に様々な技を繰り出すようになったとされる。
パワーボムの様な大技の場合は、持ち前のパワーもあってか、フィニッシュとなってしまう場合もあった。

【余談】
  • 日本マットを主戦場とした事もあってか大変な親日家であり、二人目(現在)の奥様も日本人である。
    初来日した外国人レスラーの教育係でもあり、居酒屋での食事の仕方や箸の使い方を教えていたという。
    ちなみに朝食に「納豆、生卵、焼き鮭」で白米を食べられるぐらい和食にも馴染んでいる。
  • 日本のように団体に育てられるのならともかく、自分のネームバリューのみで生きるレスラーとしては稀有な、金銭欲では動かされない性格の持ち主で、それが壮年に入る頃から晩年までを全日マットに定着させる要因だったと思われる。
    義侠心もあり、馬場亡き後、更には三沢らが去った後の全日本プロレスにも協力し続ける等、故郷への愛着や恩義は日本人以上に日本人的とも評される。
  • プロレスでは、時として巧い選手や悪役の方が試合をコントロールして、相手を引き立たせる役目を負うと言われるが、ハンセン自身も「バッドガイ(悪役)はグッドガイ(いい奴)にしか務まらない」と語っている。
  • ラリアットの余りの流行に対しても好意的で、ファンがあーだこーだと論争する中で「真似されるのはいい技の証拠」とあっけらかんと答えている。
  • ハンセンの決めポーズと云えば、牡牛の角を模したサイン(テキサスロングホーン)を掲げ、『ウィーーーーーーーーー!!』と叫ぶものがあるが、06年の「週刊プロレス」のインタビューで、青年を意味する『youth!!』と叫んでいたと判明。
    これは来日当時、プロレス界は主力の高齢化が進んでいたため、「俺たち若者が上の世代を食ってやるぞ」という思いを「ユース(youth)」に表していたのだという。
    日本人のヒアリングでは全く聞き取れていなかったらしい。
  • 上記のブルーノの一件やAWA世界王座のゴタゴタもあり、プロモーターからの評価は低かったものの、大ヒールとしての人気は非常に高くWWEでも同じテキサス州出身であるJBLがファイトスタイルを含めて模倣するなど後進のレスラーにも大きな影響を与えている。


おおっと、ここでハンセンのラリアットが決まったー!
そして今度は追記・修正固めだ~!
ブレーキの壊れたダンプカーになすすべのないwiki篭り、もはや反撃の余地は無いのか~!!


この項目が面白かったなら……\ウエスタン・ラリアっと/

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最終更新:2023年05月16日 14:51

*1 ちなみに、前奏にある馬の嘶きと駆ける音、鞭音は別々の効果音のレコードからのサンプリングミックスであり、曲のつなぎの部分にスペクトラムの2ndアルバムOPTICAL SUNRISE収録曲『MOTION』の導入部の音を入れている。

*2 ※現WWE。当時のオーナーはビンス・マクマホン・シニア

*3 ※所謂“首折り事件”ボディスラムの失敗で垂直に落とされたサンマルチノは脛椎を損傷。ハンセンはこの後にマネージャー(ボブ・カリー)に促される形で凶器サポーター攻撃を行っており、日本ではこれが“ラリアット”による首折りとして喧伝された。尤も、この一件でプロモーターであるオーナー陣営からは白眼で見られたハンセンだが、自分を対戦相手に抜擢したばかりか「サンマルチノをラリアットで骨折させた男」というギミック(?)まで付けて必要以上に責任を負わせないように配慮して仕事を失わせなかったサンマルチノには感謝しており、後の日本行きを薦めてくれたのもサンマルチノだったとの事。

*4 ※恐ろしいことにハンセンはド近眼の為、眼鏡が無い試合時には相手もハッキリと見えていないのである。

*5 ※この当時は新日vs全日で裏工作による選手引き抜き競争が行われており、新日側が衰えがあるとはいえエース格のアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜いた事に対する報復だったと見られている。しかし、この現役エース格のハンセンを引き抜かれた事は新日側の大きなダメージとなり、事実上の敗北宣言とも取れる休戦協定を馬場に申し込んだと伝えられる。

*6 ※新日マットでは既に三銃士が躍進をしていた時期でもあった為、世代格差を強く意識してきた全日マットでも次世代のエース候補の育成は急務であった。

*7 ※この時期には四天王のブランド化が進み、ファンからもトップクラスの日本人偏重の傾向が強まってもいた。

*8 ※試合巧者の馬場をして驚かせられたと語っている。