キングコング対フランケンシュタイン(ボツ企画)

登録日:2016/11/01 Tue 16:26:14
更新日:2024/04/04 Thu 00:16:27
所要時間:約 5 分で読めます




キングコングの生みの親であるウィリス・オブライエンが企画した最後の映画。
そして、『キングコング対ゴジラ』の元ネタになった作品である。

【概要】


話は1952年まで遡る。当時『キングコング』が各国でリバイバル上映され、大変な人気を博していた。その後、『原子怪獣現わる』、『ゴジラ(1954)』と怪獣映画が続き、世界的に怪獣熱が高まっていった。

その頃、リバイバル上映の成績を見て気をよくしたコングの生みの親のウィリス・オブライエンは、コングに匹敵する映画を作るべく、『ジョーヤングとターザン』、『霧の谷』(のちにハリーハウゼンが『恐竜グワンジ』として映画化)、『最後のオソ・シパプ』、『ザ・バブル』などといった作品を企画し様々な映画会社に持ち込むも、

たっぷり予算と時間をかけて作るという彼の作風上、当時『原子怪獣現わる』のヒットのせいで怪獣映画は低予算で作れるものと誤解していた映画会社からの風当たりは非常に強く、

大海獣ビヒモス』や『黒い蠍』、『原始怪獣ドラゴドン』(原作のみ)、『動物の世界』といったように日の目を見た企画もあったものの、非常に残念なことに多くの企画は没となってしまっていた。

そんな失意の彼が生涯最後に企画した映画は 『キングコング対フランケンシュタイン』 と言うものであった。それは1961年のことで、実現していればフルカラー作品になる予定だった。

結局のところ彼の戻る先はかつて一世を風靡したコングしかなかったのだ。1952年の再公開で大うけしたことから、彼の心の中に「夢よもう一度」という気持ちがあったのかもしれない。



【あらすじ】


キングコング』のクライマックスでエンパイアステートビルから落下したコングは奇跡的に生きており、再度デナムに捕獲されていた。

デナムはさらなる大儲けをたくらみ、フランケンシュタインの怪物を作ったヴィクター・フランケンシュタイン博士の孫に、アフリカのコンゴでコングのライバルとなるような怪物の作成を依頼する。
(資料によっては「コンゴで怪物を作っていた孫が宣伝のためにデナムにプロデュースを頼んだ」とするものもあるが現状ではどちらが正しいかは未確認)

それはサイやゾウやゴリラ、ワニといった猛獣の部分部分をつなぎ合わせて作ったフランケンシュタインの怪物であり、完成後デナムはサンフランシスコの闘技場で二匹にボクシングなどの興行をさせようとするも、

結局制御できなくなった怪物が孫を暴走して殺したことに端を発して二匹は脱走し、その後二体の怪獣はサンフランシスコで互いに格闘しながら、最終的には二匹纏めてゴールデンゲートブリッジの上でがっぷり四つに組みあった状態で海に転落して行方不明になる。



【作品を取り巻いた状況】


この企画はのちに『キングコング対ギンコ(King Kong vs The Ginko)』と名を変え、オブライエンはこのアイデアを餌にハリウッドのプロデューサーであるジョン・ベックを引き付けることに成功した。

「ギンコ(Ginko)」の意味は不明であるが、語源であろうGinkが「変人」を意味することから、「変な生き物」、「変な奴」、あるいは「怪物」ぐらいの意味が込められていたのだろうと思われる。またほかの説には語感がコングに似ていることからコングのスペルをもじって命名したのではないかとするものもある。

現在に残された資料から見るにコングもギンコも6メートルほどの大きさになる予定だったらしく、もしも実現していたら建物の合間を縫うような形で格闘戦が行われたかもしれない。

が、ベックはオブライエンが作ったこの企画があまり気に入らず、新たに当時『放射能X』や『巨人獣』といった作品を手掛けていた脚本家ジョージ・ウォーシング・イェイツ(ワーシング表記あり)を雇ってリライトを企画した。

彼のもとで 『キングコング対プロメテウス』 と名を変えたこの企画は 「巨人の軍隊を作る試作品として作られたプロメテウスVが自分を操っていた男に反逆し、居合わせたコングに喧嘩を挑んでサンフランシスコで死闘を展開する」 というものだったようで、
このバージョンではデナムが登場しなかったり、フランケンシュタインの怪物がより高い知能を持つものになったりと若干の相違はあるものの、この時点ではまだオリジナルに忠実であったようである。

しかし、ここでも不運が襲う。ベックの必死の頑張りにもかかわらず、アメリカ本国では十分な資金が集まらなかったのだ。困りに困った彼が藁をもつかむ思いで持ち込んだ先。

…それが『ゴジラ』を作っていた東宝映画であった。


【流れに流れて】


この時点で東宝には『ゴジラ』の続編企画は海上日出男が1950年代に書いた『ゴジラの花嫁?』が一応あるにはあったが進んではいなかった。

しかし、 「キングコングのライバルとなりうる怪物ならばゴジラしかいないであろう」 との考えから、

オブライエンやイェイツが執筆していた脚本・プロットはあっさりと取り潰され、フランケンシュタインの怪物はゴジラに変わってしまった。
*1
さてここで「プロデューサー側からの反論は出なかったのか?」と思う人がいるかもしれないが心配はご無用。






ベ ッ ク は イ エ ス マ ン だ っ た の だ 。
ベ ッ ク は イ エ ス マ ン だ っ た の だ 。


大事な事なので二度言いました。






かくして『キングコング対ゴジラ』と名を変えたこの企画は米国ではユニヴァーサルから配給されることとなり(制作時コングの版権は50年代に倒産したRKOの株を大量に買い取っていたユニヴァーサルにあったため)、
米国公開版ではマイケル・キースやハリー・ホルコム、ジェームズ・ヤギなどといった新キャストのシーンと、『大アマゾンの半魚人』などユニヴァーサルホラー映画で使われたBGMを追加して1963年に公開することとなった。

のちに新聞でキングコングとゴジラが対決することを知ったオブライエンは自分のアイデアが歪められたと知りひどく落胆し、しかも自分に一切連絡もなかった*2ことから一時は怒りのあまり東宝を訴える寸前までいったというが資金難から断念せざるを得なかった。

しかしそれでもなお彼は本作の映像化を諦めきれず、かつてしたためた脚本を独自にアメリカの各所映画会社に持ち込んだが、こういう形になってしまった以上相手にしてくれるところはもう存在しなかった。

公開後、『キングコング対ゴジラ』は観客動員数1255万人というゴジラシリーズ最大のヒットとなり、米国のコングファンにはコングのデザインにコレジャナイ感を感じる者もいたが、おおむね世間的には好意的に受け止められ、1963年6月3日に公開された後は米国でもドライブインシアターを中心に110万ドル以上の興収を記録した。

そしてこの成功を受けてゴジラは怪獣プロレス路線へと本格的に変わっていくことになるのだが、それはまた別のお話。

……しかし、オブライエンはこの作品を目にすることはなかった。

1962年11月8日の深夜、自宅で発症した心臓発作で寂しく息を引き取っていたのだ。享年76歳。
死因については妻のダーリーン・オブライエンが「『キングコング対プロメテウス』の取引の欲求不満が溜まったせいですよ…」と後年語ったという。
彼が自分のアイデアがどうなったのかを見るチャンスがないまま亡くなられたのは良かったというべきか、それとも否かは解らない。

だが、元の企画のままであったのなら、恐らく今では『猿人ジョーヤング』や『コングの復讐』のように知る人ぞ知る作品に留まり、2021年にリメイクされることはまずなかったであろう。

またフランケンシュタインの怪物が怪獣と戦うというコンセプトは、その後『フランケンシュタイン対地底怪獣』で実現することになる。






こっちのバージョンも見てみたかった人は加筆・修正をお願いいたします。


この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 怪獣映画
  • キングコング対ゴジラ
  • どうしてこうなった
  • ゴジラ
  • フランケンシュタイン対地底怪獣
  • 没企画
  • キングコング対フランケンシュタイン
  • 怪獣
  • 特撮映画
  • キングコング
  • アメリカ
  • 日本
  • 没脚本
  • フランケンシュタイン
  • キングコング対プロメテウス
  • ウィリス・オブライエン

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年04月04日 00:16

*1 フランケンシュタインの方はといえば東宝で1962年2月には『ガス人間第一号』の続編として生き残ってしまった水野が藤千代を蘇生させるためにフランケンシュタインの怪物を研究している科学者を狙う『 フランケンシュタイン対ガス人間 』の案が出されている。

*2 ちなみにオブライエン以外のコングの著作権所有者からの使用許可は取得済みであった。