征夷大将軍(江戸幕府)

登録日:2016/09/12 (月) 11:20:36
更新日:2024/02/11 Sun 21:14:42
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征夷大将軍とは、奈良時代に制定され、鎌倉時代以降は「武家の総大将」として位置づけられるようになった官職。

この項目では、江戸時代徳川家康が初代となり15代続いた徳川家の将軍について説明する。
なお家康が拓いた幕府は彼が城を置き息子秀忠に託した街から、後世では「江戸幕府」と呼ばれている。

◆概要

徳川家の将軍は日本の実質的代表として、また関東各所や大阪・佐渡等ざっと約400万石と言われる領土を治める日本最大の大名としてその権力を振るっていた。

ちなみにこの時期の将軍は「公方様」、「大樹公」の尊称で呼ばれていたという。

前時代の足利家の将軍との最も大きな違いは、継承権順位が厳密に定められていたため致命的な争いが起こらなかったことである。
家康・秀忠の時代に「徳川宗家(秀忠直系の家系)が絶えた場合、家康の子らが初代となった御三家の尾張藩か紀州藩出身者が継ぐ」と制定され、
実際に直系が絶え紀州徳川家の吉宗が8代将軍となった後、更なる後継者対策として江戸に吉宗・家重の子が初代の「御三卿」(屋敷の所在地から俗に一橋・田安・清水家と呼ばれた)が制定された。
…まあ14代将軍決定時のごたごたなど「後継者候補および周りの連中による争い」はあったし、江戸時代後半では徳川一族同士で養子の出し合いになっていたようだが。
それでも室町時代の「応仁の乱」クラスの争いが起こらなかっただけ、十分平和であったと思う。
余談だが、徳川宗家現当主である徳川恒孝氏は会津松平家の分家出身(ただし、血筋は水戸系)のため江戸期の継承ルールに従えば、宗家の継承権は無い。

最高権力者である徳川家の将軍の「諱の漢字」は「偏諱」・「賜諱」とも言われる慣例の一環として*1、徳川・松平一門や「松平」の名誉姓を授けられた一部大名(および世継ぎ)に授けられていた。
このため寿命が長かった家斉の時代には「斉~」が付く大名が多数現れたり(島津家・鳥取池田家では3代続けて「斉~」な藩主が続いた)、家茂から「茂」の字を授かった者の中で官軍側となった島津・鍋島両当主が「茂」の字を維新後取りやめたりした。

また家康や吉宗といった「絶対的権力者」として振舞う将軍がいた一方、家治や家定のように老中達やその時々の寵臣に政治のメインを任せていた(ないし歳の若さや病弱さにより任せざるを得なかった)将軍もいた。

●目次

◆将軍総覧


・初代将軍:徳川 家康(いえやす)

在位:1603年~1605年
詳細は該当項目を参照。
言わずと知れた江戸幕府開祖にして、豊臣を滅ぼし日本を制した狸親父。1600年の関ヶ原での勝利により天下人となり、3年後朝廷から将軍に任じられた*2のだが、わずか2年後に徳川家による将軍位の世襲化を世に示すため、三男の秀忠に地位を譲り、以降は「大御所」として幕府の指揮を執っていた。
そのため歴代徳川将軍の中で在任期間の短さ(それと寿命の長さ)は末代将軍となる慶喜に次いでいる。

・2代将軍:徳川 秀忠(ひでただ)

在位:1605年~1623年
長兄・信康が粛清され、次兄・秀康が秀吉の所に追いやられた(?)ため後継者となり、幕府創始から2年後に父から将軍位を譲られて将軍となった家康の3男。
父親が偉大すぎて影に隠れたり、真田家絡みだとかませ犬になったりと良い話が少ないが、彼の治世で「幕府制度」の土台が確定したことは確か。
家康も武勇に優れ血気に逸る他の息子ではなく、治世の安定のために比較的温厚な人柄の秀忠を選んだとも言われる。
ただし、旧豊臣家サイド等の「外様大名」に対しては厳格に接し、身内や功臣でも駄目な時は容赦なく改易する等、決して手緩い真似はしなかった。
ちなみに恐妻家だったらしく、正室の「江(お江与の方、崇源院)」に隠して唯一浮気して生まれたのが後の会津松平家開祖「保科正之」だったという。
ただし、さすがに最高位の武士である将軍程の人物が側室を置かなかったというのは考えにくく(本人達が嫌がっても周囲が認めないだろう)、後世の創作ではないかとも言われる。
遺骨が調査されている将軍の一人であり、背は高くないが筋肉質複数箇所の銃創の痕跡が見つかっている事から自ら最前線に出て指揮を執る勇敢な一面を持っていたと推測されている。


・3代将軍:徳川 家光(いえみつ)

在位:1623年~1651年
江戸幕府で唯一「将軍の正妻」から生まれ、乳母「春日局」(稲葉家夫人)に可愛がられた3代将軍。
そのため家康と春日局の間に出来た子供だ、などと言われることもあるが俗説に過ぎない。
また「両親は弟・忠長のほうを次期将軍にしようとしていたため、春日局が家康に直談判して家光を後継者に定めてもらった」という有名な逸話があるが、これはあくまで後世の創作である(まあ忠長は成人後の素行があまりにもアレなのだが)。
両親からは次期将軍には厳しいと思われていたのは確かだが、これは生まれつき体が病弱だったため。
この頃までは「長男が家督を継ぐ」という概念がまだ確立していなかったのも原因である。

彼の代で「鎖国」「参勤交代」など江戸時代の大きなルールが制定された。
また彼の代から「京の貴族から正室を貰う」と言う慣習が作られ、大奥に多くの側室が置かれるようになった。
どうも本人は正室と不仲だったらしく、そもそも若い頃は女性にあまり関心を示さなかったためか「家光ショタコン説」なるトンでも話もあったりする。


・4代将軍:徳川 家綱(いえつな)

在位:1651年~1680年
父が早くに死んだため、わずか11歳で将軍となった家光の嫡子。
他人を気遣ったり、細かい事に気配りをしたりと心優しい人物であったらしい。また、釣りや絵画が趣味であった。
浪人の増加による治安悪化をきっかけとして先代までの武断政治から文治政治への政策切り替え、
「寛永の大飢饉」と呼ばれる大不作が起こった反省から、農業の興隆政策や海運の興隆政策等が取られていた。
しかし大奥があっても男子が出来ず、最晩年に後継者争いが勃発。
中には鎌倉幕府に倣って「徳川家の血が入っている皇族を後継者に」なんて話も出たが、
結局は弟の綱吉が継ぐことになった。


・5代将軍:徳川 綱吉(つなよし)

1680年~1709年
春日局の養子「堀田正俊」*3に薦められ将軍となった家綱の弟(家光の四男)。
学問が好きで母親孝行で…とここまでは良かったのだが、「松之廊下刃傷事件の裁定*4」・「側用人柳沢吉保に対する極端な寵愛*5」など駄目話が目立ち、
行き過ぎたトンでも動物愛護法「生類憐みの令」のせいで「犬公方」等と後世で謗られるようになった。
更にフィクションでも『水戸黄門』のモデルと成った従叔父徳川光圀との対比や忠臣蔵絡みから、あまり良い扱いになっていなかった。
一方で彼の治世である『元禄時代』は文化・経済が興隆した時でもあり(同時代人は松尾芭蕉など)、近年では「学問好きなぶん平和的な政治をしたんじゃね?」等と褒める声も存在する。
実際に元禄4年と同5年に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは自著『日本誌』にて「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」と評価している。

また悪法と言われる生類憐みの令だが、戦国期以来のヒャッハーな風潮を糺すためだったという評価もある。
しばしば動物のためだけの狂った政策のように強調されて描かれて叩かれるが、その実は病人や子ども・老人といった弱い立場の人間の保護が含まれている。
生類憐みの令について「徳川実記」「折たく柴の記」によれば、家宣が廃止すると宣言し、吉保も廃止に賛同したとあるのだが、『楽只堂年録』によれば、家宣は「いずれもあひ守り、断絶なきやうにすべし」としながらも、罰則を無くして罪人が出たり経済的負担が増えたりしないようにしたとある。どちらも事実上は廃止であるが、前者と後者では家宣および幕府のとった行動の意味が異なるものになる。
なお殺生である鷹狩りは、徳川吉宗が8代将軍になったのちまで復活することはなかった。

余談であるが綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もあるという指摘がある。
具体的には、
  • 元禄8年頃から始まる奥州の飢饉
  • 元禄11年の勅額大火
  • 元禄16年の元禄地震・火事
  • 宝永元年前後の浅間山噴火・諸国の洪水
  • 宝永4年の宝永地震・富士山噴火
  • 宝永5年の京都大火
などである。
当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っており、
次政権の新井白石は、元禄8年以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評している。
これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰のためである。
実際には先述のように元禄期は文化・経済が栄えており、貨幣改鋳は当時の貨幣不足な社会状況の中で必要とされていた政策だったと見直す意見が出ている。

彼もまた子宝に恵まれず、生まれた男児も夭逝したため、甥(兄の綱重の息子)の家宣が後継者となった。
その死については異論があり、女絡みで刺殺されたと書く資料も存在するが、近年の研究では麻疹とも、餅を喉に詰まらせたことが原因の窒息死であるとも言われている。
なお、身長124cmだったという説も存在し、当時の成人男性の平均身長は155㎝で、これが事実なら笑い事にならないレベルのちっさいおっさんだったという事になる。
理由としては、愛知県岡崎市にある大樹寺に慶喜を除く将軍14人の位牌があり、家宣・家重・家慶・家茂の4人については位牌の大きさと東京都港区の増上寺にある遺体の実測身長が概ね一致していたため、他の10人も位牌の大きさ=身長ではないか? と推測したというものである。
だがこれも上記のケンペルが直接会ってるにもかかわらず立派な体格だったとしか書いてない(当然ケンペルが嘘を書かなきゃいけない理由もない)ことや、
当時これでもかと巷に溢れていた綱吉の各種悪口の中に身長の話が全く出ていないことからも、綱吉幼女説以上の話にはならないとされる。
そもそもこの説は後述の家継や吉宗の身長に関してもツッコミどころのあるトンデモ説である


・6代将軍:徳川 家宣(いえのぶ)

在位:1709年~1712年
元甲府藩藩主で、綱豊と名乗っていた。かつて家綱の後継者争いの時に、綱吉とともに将軍候補に挙がるも敗れたという過去を持つ。
家綱の弟で綱吉の兄である徳川綱重の子であり、先代の綱吉及び先々代の家綱どちらから見ても甥にあたる。
学者「新井白石」や、甲府時代の家臣から譜代大名に出世させ老中にした「間部詮房」を腹心として堅実な外交政策(朝鮮との交流など)や経済政策を行った。
しかしわずか3年で他界。幼子が後を継いだ。


・7代将軍:徳川 家継(いえつぐ)

在位:1712年~1716年
わずか5歳(現代の年齢では3歳と8ヶ月)で将軍となった家宣の嫡子。新井白石を始めとした、父の遺臣が引き続き補佐をしていた。
しかし、彼もわずか3年で儚く命を落とした。
ここに徳川宗家は絶え(一応家宣の弟の清武が存命だったが、こちらも息子の代で断絶している)、いよいよ「御三家」から後継者が選ばれる事になった。
ちなみに前述の綱吉の身長124cm説によれば、彼の身長は135cmだそうである。記録の残る明治35年の日本全国の身長測定結果では、彼と同じ6歳の男子平均身長は106.9cm。
この説を本気にするなら明治35年の12歳男子の平均身長133.7cmすら超えており、小学一年生にして中学一年生よりも身長が高いことになるのだが、彼がそんな巨人症だったなどという記録は残念ながらない。


・8代将軍:徳川 吉宗(よしむね)

在位:1716年~1745年
元々は紀州家の4男に生まれ、分家して松平頼方の名で越前国葛野藩主を務めていた。
しかし、親兄弟が「なぜか」次々に急死した事で急遽紀州家を継承、(親兄弟の葬儀代で)借金塗れの上、地震や津波の被害でガタガタだった紀州藩の財政を見事立て直す。
このときに5代将軍綱吉から「吉」の字を授かり「吉宗」と改名。その後将軍家が絶えた事で宗家の継承者となった幸運児*6
農政を重視し質素・節約生活を奨励した『享保の改革』、それに伴ってのサツマイモの全国普及方針、「目安箱」「御庭番」の設立など(家宣時代の政策否定でもあったが)、さまざまな行動から「米将軍」「(幕府の)中興の祖」と敬われた。
幕府三大改革のうちの唯一の成功例とも言われる。というのも年貢が米(「兵糧攻め」のリスクや慣習上、銭による税は定着していない)である以上、「世間の景気が良くなるとコメの価値が下がり、逆に武士は不景気になる」という事情から、三大改革はいずれもコメ対策・景気対策で頭を悩まされていたのだが(世間が少し不景気なことが武士の好景気を意味するため)。
時代劇『暴れん坊将軍』のモデルな他、『大岡越前』もこの時代の話。
上の倹約の一環として、大奥から美女をクビにした(美女は再雇用先も多いという理由らしい)ということから、醜女マニア*7だったとも言われる。
6代将軍徳川家宣の定めた(実際には新井白石が改訂し、7代将軍家継が短命だった事もありそのまま用いられ続けた)「正徳令」を破棄して、綱吉が定めた「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。
それらのことから、吉宗の施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いという指摘もある。
ちなみに彼の身長は6尺(180cm)の大男という当時の記録があるのだが、前述の綱吉124cm説によれば吉宗は155cmのはずであり、当時の記録は吉宗政権のプロバガンダによる捏造だと訴えている。身長は高い方が箔が付く!のためだけにわざわざ吉宗の太刀や鎧や履き物に至るまで身長6尺に合わせて作られ、本来の身長の記録はいかなる庶民の記録からも抹消されたとのことである。


・9代将軍:徳川 家重(いえしげ)

在位:1745年~1760年
吉宗の嫡子で、治世前半では父が「大御所」として君臨していた。
史料などの表現を割引いても「滑舌が極端に悪く」その上「遊びすぎで病気がちだった」ため、「(御三卿の田安家開祖となった)弟・宗武を将軍にしたら」なんて案もあったとか…
滑舌の悪さや遺骨の研究から*8幼少期から脳性マヒを患っていた、という説もあるが、少なくとも将棋はできたため知性は健常だったとも言われている。
しかしながら大岡忠光*9など良い部下に恵まれたおかげか治世は安定しており(『享保の改革』の反作用としての事件も多かったが)、それなりに長生きし子供を残している。
ちなみにコント『志村けんのバカ殿さま』のモデルでもあるほか、何故か女性説が存在する。


・10代将軍:徳川 家治(いえはる)

在位:1760年~1786年
家重の嫡子。父親を差し置いて祖父から教えを授かった期待の子。しかし、就任後は部下に政治を任せ、趣味に生きていたという。
一代で譜代大名となった側用人「田沼意次」を引き立て老中にし、彼の代では田沼の政策から経済面・海外対策を大きくした政策が行われた(頓挫したが大規模干拓という農地拡充政策も行い、後に水野忠邦が再開するもまた頓挫した)。
しかし、経済面を重視し過ぎた反作用で贈収賄が多くなったりするなど、負の面も現れ出していた。
彼も子に恵まれず(1歳を迎えられたのは家基という息子のみであり、彼も18歳で怪しげな急死を遂げた)、再び御三家・御三卿から継承者が選ばれた。

政治以外の面では書画に優れ、前述の趣味として父と同じく将棋を嗜んだ。
将棋に関しては、彼の物とされる棋譜集(碁・将棋の対局での手順を記録したもの)「御差将棋」が現存している。
その棋譜集には、彼自らが新たに考案した「いろは棋譜記号」が使用されている。
また、晩年には詰将棋の図式集「象棋考格」を記している。


・11代将軍:徳川 家斉(いえなり)

在位:1787年~1837年
御三卿一橋家からの養子で、家治の従兄弟甥にあたる。
稀代のハーレム将軍。将軍在籍年も「征夷大将軍」として最長の50年だった。
大奥を最大限に活用して子作りに励み、生まれただけで計53人、成人人数で28人という将軍家史上最大の子供数を誇った絶倫将軍。家治の子供事情を見ていたらわからなくもないが……
あまりの子供の多さに養育費や持参金で幕府の財政が大幅に悪化した。
そして子供たちを片っ端から嫁や養子として各大名家に配った結果、家斉直系が絶えた現在でも「津山松平家」(家康の次男秀康の系譜)として子孫が残っている。
なお正室は一橋時代からの婚約者だった島津家の「茂姫(篤姫、寧姫、寔子、広大院)」を近衛家経由で娶っており、この前例が後の13代将軍と「篤姫」の婚姻に繋がった。

治世の前半では田沼失脚後に従兄弟伯父でもある老中「松平定信」*10が吉宗時代及び白河藩統治経験を生かして農政重視の「寛政の改革」を敷くも(この時期が『鬼平犯科帳』の背景)、
行政のみならず政治面・対蘭学面でも極端な統制を行い、かつその割にメリットが少なかったことで遊び人の家斉に疎まれ、家斉が実父に「大御所」称号をプレゼントしようとするのを拒否された事等もあり定信は失脚。
その後は先代や定信時代の家臣が次々にいなくなったことから、緩いその場しのぎな政策*11が多くなり、
文化面では「化政時代」と称される華やかで芸術の発達した時代になったが、海外船の度重なる来訪、「大塩平八郎の乱」等で政治・経済共に傾きが始まってしまった。
ちなみに、大奥に籠り遊びまくっていたという印象が強いが、馬術に優れ、鷹狩りを熱心に行うなど、曾祖父である吉宗に似た一面もあり、将軍としてはそれなりの素質は持っていた人間であった。


・12代将軍:徳川 家慶(いえよし)

在位:1837年~1853年
家斉の嫡子。治世序盤では父が大御所として君臨していたが、父の死後父親が遊んでいたせいで緩んでいた政治を引き締めるべく、老中として「水野忠邦」を取り立て、水野の考える「天保の改革」を薦める事で綱紀粛清・農政復興・収賄政治の廃止を目論んだ。ちなみにこの時期が「遠山の金さん」こと遠山景元の活躍した時代。
だが蓋を開けると「寛政の改革」がぬるく見えるくらいの言論統制・監視・密告時代と化し、家斉の時代多少は楽になりつつあった蘭学者等が被害を蒙った。
また「享保」「寛政」時にはまだ効果があった節制政治も、田沼時代・化政時代を経て経済重視の流れが進んでくると意味が薄くなり、
最終的に「上知令」なる大規模「幕府直轄地一元化計画」で幕府の力を強めようとしたら「土地を獲るな」という大名たちの反発で失敗し、水野は失脚(一応海外問題発生時に少しだけ戻ってきたが)。
その後は落ち着いた政治が戻るも、アメリカからの「黒船来航」によって一気に海外問題が深刻化。そのショックか、同時期に急死してしまった。
ちなみに14代将軍家茂の紀州藩主時代の名「慶福」、15代将軍「慶喜」の名はいずれも彼から「慶」の字を「賜諱」としてもらっている*12
なお、父にはさすがに及ばないが彼にも27人の子供がいる。ただし、その中で20歳を超えたのは次代の家定ただ一人。
これは、当時の大奥の女達の化粧には白粉が多量に使われており、更にその白粉に鉛が含まれていた事から赤ん坊の身体に鉛中毒の影響を与えてしまい命を縮めてしまったためらしい。
また、慶喜を実の子以上に気に入っていたらしく、一橋家との繋がりも薄いただの水戸家の七男坊だった慶喜が一橋家当主になれたのは家慶の力によるもの。


・13代将軍:徳川 家定(いえさだ)

在位:1853年~1858年
黒船来航による鎖国制度の危機の時に将軍となった家慶の嫡子。
ものすごく病弱だったため、ほぼ飾り状態であり、黒船対策は父の代からの老中「阿部正弘」や「堀田正睦」が行っていた。
障害を持っていた可能性も示唆されており、上記の大奥の白粉の鉛の影響が少なからず彼の身体にも影響を与えていたと思われる。
また2度正室に先立たれ、「日米和親条約」が締結された後に島津家から近衛家経由で「敬子(篤姫、天璋院)」を娶るも、それでも子供は出来ず、
晩年には後継者として「(一橋家の)徳川慶喜」を推す島津家や水戸家と、「(紀伊家の)徳川慶福」を推す大老「井伊直弼」*13らの間で権力争いが勃発。
最終的に家定は「徳川慶福」を後継者として指名。その直後に他界した。
なおハリスが残した謁見時の記録に、不随意運動と思しき「急に横を向いたり足を踏みならしたり」といった記述があり、彼も脳性マヒが疑われている。また天然痘の後遺症で顔にあざが残っていたとも言われる。

趣味が料理という、当時としては珍しい料理男子。特にカステラなどのお菓子や煮豆・ふかし芋をよく作っていた。
「ガチョウが好きで城の庭でよく追い回していた」というのは創作である。

NHK大河ドラマ『篤姫』においては、キーキャラクターとして活躍する。


・14代将軍:徳川 家茂(いえもち)

在位:1858年~1866年
紀伊家当主(家斉の実子)の子で幼くして父の跡を継ぎ、13歳で将軍就任後に「慶福」から改名した若き将軍。
とても良い人で、勝海舟ら家臣たちに敬われ、政略結婚で結ばれた孝明天皇の妹「和宮親子内親王」とも仲睦まじかったという。
また和宮との結婚後朝廷へと挨拶するため家光以来となる京への「上洛」を敢行。新選組新徴組の原型となった浪士組結成理由となった。
しかし大老井伊直弼が討たれた「桜田門外の変」などの乱が絶えず(上洛も長期化から京での人質化を懸念して家臣が出兵する騒ぎに)、和宮との結婚後天皇に誓った「攘夷」も、大規模開港を延期させるくらいがやっとだった。
結局は「第2次長州征伐」*14のため、大坂まで向かった後に病に倒れ、わずか20歳で他界した。
遺言では後継者に田安家の亀之助(後の徳川家達)を指名したが、幼君を許すような情勢ではなく、一橋家の慶喜が継いだ。
大の甘党でもあり、遺体を研究した結果、虫歯が30本という、ある意味歴代将軍の中でも特に凄い記録を残している。


・15代将軍:徳川 慶喜(よしのぶ)

在位:1866年~1867年
水戸家の正室から生まれた子の一人で*15、12代将軍家慶に気に入られ一橋家の養子となり継承権上位になるも、家定死去後の「安政の大獄」に巻き込まれ逼塞。
地位回復後はまだ若い家茂の「将軍後見職」等として扱われ、彼の死後、京に居ながら15代目として選ばれた歴史上最後の征夷大将軍
その活力・血筋(母が皇族「有栖川宮」の娘)などから期待されていた人材だったが、なぜか「徳川宗家」相続と「将軍就任」の間が空いていた。
孝明天皇が他界し跡を継いだ明治天皇の周囲を薩摩藩などが固めるなど、討幕の勢いが高まる中、土佐藩等から勧められた「大政奉還」を決意。実行することで幕府を解散させた

これについては
  • 戦争を避けたかった
  • 幕府を解散させても新政府が徳川家を重用すると思っていた
  • 尊皇を重んじる水戸学を学んでいたため、天皇への反逆を良しとしなかった
などという説があり、「徳川家の政治力」温存を考えていたのは確かだろうが、いずれにしても、その後の
  • 王政復古の大号令
  • 徳川家のみに対する辞官納地(大名辞めて朝廷に領地を返せ)
等と朝廷(というか後の新政府勢)の無茶ぶりが続き、結局「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。
敗北するや会津藩・桑名藩主*16や老中達を連れ、速攻で江戸へ帰還(この時既に元将軍だったため、将軍として江戸にいなかった唯一の将軍となった)。
最終的に「徳川宗家」当主の座も家茂の最も近い血縁者である田安家の「徳川家達」(当時6歳)に譲り、謹慎・隠居の道を選んだ。
この時、天璋院なんかは「慶喜どうなってもいい(≒死んでもいい)*17から徳川家を残してくれ(意訳)」という手紙を残しているので、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。
出身地水戸で起きた「天狗党の乱」を収める時実行者達にまったく温情を掛けず、会津藩等「戊辰戦争」で酷い目に遭った連中に対して何のフォローもせず、江戸開城時あてにした(?)幕臣の勝海舟もそれまでは邪険に扱っていたなど、無責任さが目立つなどと言われることもある。

もっとも大政奉還により倒幕の口実を奪ったり、二条城から大坂城に移り、経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたりと、辞官納地を事実上骨抜きにするといったことも行っており、また「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した一番の要因は攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸が匿っていたために発生した江戸薩摩藩邸の焼討事件を切っ掛けに、勢いづく会津藩ら慶喜の周囲の諸藩兵を抑えきれなくなったためとされている。
なお『海舟言行録』によると勝海舟(明治時代に慶喜の10男を養子にした)は、明治31年に慶喜が元江戸城だった皇居へ初めて参内した翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼしたという。
現代では、「戦うことを恐れた臆病者(幕臣の小栗忠順の案が採用されていれば戊辰戦争で旧幕府側が勝利できたとも言われる)」や「天下を考えて平和的な手段を模索した智者」といった評など、再評価の流れもあっておそらく江戸幕府の歴代将軍で最も評価が分かれる人物であると思われる。

後半生は徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を創設し、隠居先の静岡で趣味に生きる生活を過ごし(晩年は公爵となり東京に再移住)、将軍になる前に生まれた正室の子はすぐ他界したものの、維新後側室2人との間に21人もの子をもうけている。
幕末からの趣味の一つに当時日本に来たばかりだった「写真」があり(明治時代には自ら撮影に挑戦していたという)、歴代将軍の中で唯一写真が現存し、また複数バリエーション(若いころの写真と老後の写真)が存在する。

明治維新後

この後は当然ながら将軍ではないので、徳川家当主に当たる人物をおまけ程度に記載する。

16代当主:徳川 家達(いえさと)

在位:1868年~1940年
田安徳川家に養子入りした家斉の弟の孫。慶喜から当主の座を譲られ、新政府から徳川家70万石の相続を許可された。
維新後の徳川氏は他の元大名と同様に華族となったが、高等教育を受けられる華族は貴族院議員や学者を多数輩出。
家達も帝国議会成立後は貴族院議員となり、31年にわたって議長を務めるなど政界の大物であった。
ただし徳川氏という立場故の遠慮もあり、総理大臣候補に挙がったにもかかわらず固辞している。

17代当主:徳川 家正(いえまさ)

在位:1940年~1963年
家達の長男。
現在の東大法学部を卒業すると外交官としての道を歩み、オーストラリアやトルコなどの公使となった。
当主を引き継ぐと父同様貴族院の議長を務め、憲法改正に伴い最後の貴族院議長となった。

18代当主:徳川 恒孝(つねなり)

在位:1963年~2022年
家正の子が早世したため、長女の次男を嫁ぎ先の会津松平家から養子として取られた。
日本郵船の副社長を務め、また徳川氏の保有する美術品や文書などを管理する記念財団を創設した実業界の大物。
実業方面で十分多忙なのに徳川家関連の式典に欠かさず出席。元華族も楽じゃない。

19代当主:徳川 家広(いえひろ)

在位:2023年〜現在
恒孝の一人息子。恒孝が高齢になったため、2023年1月1日に当主を継いだ。
政治学や経済学の学位を有するインテリで、経済関係の著作もある。立憲民主党から選挙に出馬したことも(結果は落選)。
ベトナム人女性を妻に迎えたことで親ともめたりもした。



◆余談

メディアへの登場

各種創作作品に徳川家の将軍は無数に登場しているが、
  • 善悪いずれに捉えても使いやすい家康
  • 家康の付録なのが多めな秀忠
  • 春日局や活劇系の話によく出てくる家光
  • 忠臣蔵や水戸黄門絡みで出番の多い綱吉
  • 『暴れん坊将軍』と大河で主演だった吉宗
  • 幕末を舞台にすると必ず出てくる家茂・慶喜
がメインで登場する機会が多く、4・6・7・9~13代は空気や背景キャラになりやすい。また家斉は時代劇自体への出番は多いものの大河と全く縁が無かったりする。
通史として江戸時代を扱う作品なら全員出番があるが、それでも家継・家重・家治の出番は少ない。





追記、修正は継承権順位を厳密に定められている方がお願いします。

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最終更新:2024年02月11日 21:14

*1 この時代より前の例では後醍醐天皇が足利「高」氏に自らの名前「尊治」の一字を与え「尊氏」と名乗らせてやった事等。

*2 このため、江戸時代開始時として関ヶ原の戦いの1600年と将軍任命時の1603年の2説がある。

*3 綱吉即位後大老になるも、春日局が結婚していた稲葉家の人間によって殺された。

*4 後の忠臣蔵の発端となった

*5 老中格にする、家宣の治めていた甲府を与え大名にする、松平姓を与える等

*6 表向きの理由は「他の後継者候補が家康の玄孫世代だった中唯一家康の曾孫世代だった」からと言われている。

*7 ただし当時の美人の基準は現代と異なる点に注意する必要がある

*8 歯がすり減っており、脳性マヒのため不随意運動で歯ぎしりをしていたのではないかという説がある

*9 大岡出雲とも。大岡越前の遠縁の親戚。家重の言葉を聞き取る事ができた唯一の幕臣

*10 田安家出身ながら白河藩松平家の養子になり、次代で桑名藩に転封。余談だが彼の孫で備中松山城主を継いだ「板倉勝静」は家茂・慶喜に仕える老中となり、最終的には旧幕府軍とともに箱館まで行ったあと、先に降伏した家臣の説得で官軍側に降伏した。

*11 小判の金純度を減らして製造数を増加させインフレになった等

*12 ちなみに「慶」をつけた大名の一人な長州藩主毛利「慶親」は、「禁門の変」等による長州藩暴走の罪によって名前の「慶」を取り上げられ「敬親」と改名している。

*13 「日米修好通商条約」を強行採決し「安政の大獄」を敷いた強権派で、「兄たちが次々と倒れ藩主に」という吉宗に似た経緯の持ち主だった。

*14 ちなみにこの戦争の結果、家宣の弟が開祖で慶喜の異母弟が治めていた「浜田藩」の大半が長州藩に獲られている。

*15 珍しく正室が子沢山な人でかつ父が精力旺盛な人だったため、異母兄弟に大名家の養子となった人が複数いた。

*16 ちなみに2人はともに尾張家の分家「高須松平家」から養子に出された実の兄弟で、桑名藩主は前藩主の子(松平定信の玄孫)を養子にしていた。

*17 元々、慶喜は家達が成人するまでの中継ぎ扱いなので徳川宗家としては死んでも問題なかった。むしろ、隠居後の扱いの難しさを考えると死んだ方がお家騒動などの懸念がなくなり好都合だったりする。水戸家や一橋家でも同様。