遠山景元(遠山の金さん)

登録日:2016/04/07(木) 18:52:27
更新日:2023/09/29 Fri 09:06:21
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 時は江戸時代後期、名奉行・大岡越前の時代から100年余り後。
 江戸の町は「改革」に縛られ、活気を失いかけていた。
 特に人々の娯楽は規制され、歌舞伎も寄席も次々に奪われていったのである。
 「表現規制」の嵐が、町中に吹き荒れたのだ。

 このままでは歌舞伎や寄席の芸人たちはおろか、日本中が苦しんでしまう。
 そんな人々の様子を見て、敢然と立ち上がった人物がいた。

 その名は遠山(とおやま) 景元(かげもと)、通称「遠山金四郎(きんしろう)
 後の世に『遠山の金さん』として伝わる、江戸時代を代表する名奉行である。

 この項目では、規制の波に立ち向かった庶民たちのヒーローを紹介していく。

【概要】

◇北町奉行への道

 遠山の金さんこと遠山景元が生まれたのは寛政5年(1793年)。
 海外との交渉に奔走し、長崎奉行や勘定奉行などを務めた活躍から評価が高い遠山景晋(とおやま かげくに)の長男として生まれた。

 元々父は永井家から養子として遠山家に入った身であり、息子の景元にもその影響があった。
 それ故に若い頃はかなり荒れていたようで、後にある疑惑が生まれるきっかけにもなっている。
 この頃の詳細な資料はあまり残っていないが、その後はしっかり真面目になった模様。

 文化11年(1814年)には、幕府の鉄砲隊「百人組」のリーダーであった堀田一知の妹・けいと結婚。
 遠山家からするとかなり目上の家の娘との結婚であったが、これは父である景晋の評価の高さ、
 そしてその息子である景元への期待も込められていたという。

 それに応えるかのように、景元は順調に出世。
 最初は12代将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)の世話を担当し、以降は作事奉行や勘定奉行などを務めている。
 父が隠居した文政12年(1829年)には遠山家の家督を相続し、名実共に「遠山」の看板を背負う事となった。

 そして天保11年(1840年)、北町奉行に就任。
 ここに名奉行・遠山景元の戦いが始まった。

※北町奉行・南町奉行について

 奉行時代の解説に入る前に、「北町奉行」「南町奉行」について少々解説。

 後述する『遠山の金さん』を始め、多くの作品ではお奉行様は「裁判長」のようなイメージが強い。
 勿論、北町奉行を始めとする町奉行は町民の裁きを行う仕事も受け持っていたのだが、
 それに加えて江戸の町に住む人々の調査、将軍や重役からの命令の伝達、各地の事業の陣頭指揮など、
 行政や治安維持などの役割も担っていた。
 21世紀風に言うと、「遠山東京都知事警視総監裁判長という非常に忙しい仕事だったのである。

 そのため、江戸の町には「北町奉行」「南町奉行」、そして彼らが勤務する「北町奉行所」「南町奉行所」という2人の奉行と2つの奉行所があった。
 基本的に1ヶ月交代で業務を行っており、訴訟を受け付けていない期間は未解決の事案の解決に勤しんでいた。
 また、酒や材木、書籍は「北町奉行所」、服や薬は「南町奉行所」と商業に関してはそれぞれ専門に扱っていた。
 なお刑事事件に関しては双方とも関係なく処理を行っていたと言う。

 ちなみに北町奉行所は現在の東京駅・八重洲北口あたり、南町奉行所は現在の有楽町マリオンあたりにあった。

◇天保の改革

 景元が北町奉行になった「天保」年間、日本は混乱に陥っていた。
 大凶作が要因となって起こった天保の大飢饉による人々の困窮から、打ちこわしや一揆が多発。
 大坂町奉行にかつて務めていた大塩平八郎が、苦しむ人々を救うべく「大塩平八郎の乱」を引き起こす事態まで起きた。
 さらにこの頃は海外情勢も激動の中にあり、次々に日本近海に海外船が現れるようになっていた。
 しかし、そんな中で彼らのトップであるはずの幕府の財政も悪化していたのである。

 そんな中、幕府で実権を握っていたのは老中の水野忠邦(みずの ただくに)
 農業を重視した改革で世直しをしようとしていた野心家である。

 当初は彼の政策に反発していた者も多かったが、天保12年(1841年)に大御所(元将軍のこと。この場合はオットセイ11代将軍の徳川家斉)の死去を受け、一気に幕臣を刷新。
 ここに、水野忠邦が主導する「天保の改革」が始まった。

 それまでの「大御所時代」と呼ばれる時代での賄賂の常習化や風紀の乱れ、そして幕府の地位を糾すため、忠邦は様々な強攻策を発令。
 江戸に移り住んだ農村出身者を強制帰還させる「人返し令」、江戸時代の商業組合である「株仲間」の解散命令
 金利の見直し、貨幣の改鋳など様々な政策を行った。
 だが、その大半は実情にそぐわない政策であり、多くの人々から不満の声があがった。

 そして、特に江戸の人たちを苦しめた政策の1つが「祭礼風俗の取締令」であった。
 「節約重視」「風紀取締り」を看板に掲げ、忠邦は芝居小屋や寄席、歌舞伎、書籍を次々に規制でがんじがらめにした。
 特に当時大人気だった歌舞伎はその影響をもろに受け、役者の生活統制など熾烈な弾圧が加えられたと言う。

 現在で例えると「漫画やアニメの禁止」「ドラマの内容の規制」「俳優の生活規制」――つまり表現規制に等しいものである。

◇遠山景元&矢部定謙VS水野忠邦&鳥居耀蔵

 天保の改革に対して、景元もある程度は賛成していたようで、乱れすぎた風紀や贅沢の抑制などを町の人たちに命令していた。
 だが、彼はこの政策に対して疑問や不満を抱いていた。
 確かにある程度の規制は必要かもしれないが、だからといってこの改革はやり過ぎではないか、と。
 町民ばかりに規制を行い、武士には何のお咎めもなし、という不公平さもその要因であった。
 特に、江戸の人々の娯楽や仕事を奪う「綱紀粛正」には、大きな抵抗感を抱いていた。

 一方、彼と共に南町奉行を務めていた矢部(やべ)定謙(さだのり)も、この改革に抵抗感を抱いていた。
 当時の商業上欠かせない組織となっていた「株仲間」の解散が人々を苦しめるのではないか、と危険視していたのである。

 そして両者は互いに協力しながら、水野忠邦と真正面から対立するようになった。
 定謙が株仲間解散反対を訴える一方、景元は芝居小屋や寄席、そして歌舞伎を守るために奔走。
 娯楽の全てを消し去ろうとする忠邦から、非常に厳しい制限*1がつきながらも何とか存続させる事が出来た。

 だが、両者を待っていたのは、水野忠邦からの逆襲であった。

 天保13年(1842年)、矢部定謙が南町奉行を解任
 名目上の理由は過去の不正であったが、実際は忠邦と親密だった目付・鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)の策略だったとされる。
 懸命に無実を訴えた定謙であったが、その行為も問題視された結果、罪人として改易されてしまった。
 その3ヵ月後、彼は命を落とした。
 抗議のため絶食した事が理由である、と伝えられている。

 そして、空席になった南町奉行にはよりによってその鳥居耀蔵が就任。
 忠邦の下で非常に厳しい取締りを行い、江戸の人々を大いに震え上がらせた。

 状況が悪化する中でも景元は孤軍奮闘。
 わざと株仲間の解散命令を出さなかったり、「人返し令」をある程度緩和させたりと忠邦らに抵抗し続けた。
 やがてその姿勢は、後述の通り江戸の人々から熱烈な支持を集める事となった。

 だが、ついに景元も忠邦の前に敗れる事となった。
 天保14年(1843年)、耀蔵の策略により大目付に着任。
 一応出世ではあったが、その役割はただの伝達役であり、実質的な「左遷」であった。



 ところが同年、状況が大きく変わった。
 改革失敗の責任を取らされた水野忠邦が、罷免させられたのである。

◇南町奉行・遠山景元

 天保の改革に不満を持っていたのは町民ばかりではなかった。
 負担を強いられた各地の藩も、一部の幕臣からも、大奥からも、果ては紀州徳川家からも反対意見が噴出。
 さらに立場が危ういと考えた鳥居耀蔵が裏切るという事態まで起きた結果、水野忠邦の改革は失敗に終わったのである。

 その後忠邦は再び老中に戻るも、その際に逆襲を受ける形で不正を暴かれた耀蔵は失脚*2
 さらに弘化2年(1845年)、これまでの責任を取らされて水野忠邦は再び罷免され、二度と老中に戻る事は無かった。

 そして同年、町民から離れる仕事を強いられていた景元が町奉行に復帰。
 かつて大岡越前も勤めていた「南町奉行」として、再び活躍する事になったのである。
 同じ人物が南北両町奉行を務めるのは勿論、このような形での「降格人事」が行われるのはかなり異例であった。
 景元の評価はそれほど高かったのである。

 景元は天保の改革でボロボロになった江戸の商売や娯楽の復興に尽力。
 株仲間も復活し、人々の暮らしに明るさが戻ってきた。
 忠邦の後を継ぎ幕府の実権を担う事となった老中・阿部正弘からも頼りにされていたという。

 その後、嘉永5年(1852年)に家督を嫡男に継いで隠居し、「帰雲」と称した。
 俳句を読んだりしながら、のんびりと余生を過ごしたという。
 そして嘉永8年(1855年)、名奉行・遠山景元は63歳でその生涯を閉じた。

 余談になるが、彼が亡くなる二年前にはマシュー・ペリー代将率いる黒船が来航。
 そして江戸幕府の廃止が宣言されて「明治時代」に入るのは、遠山景元の死から十三年後のことであった。


【遠山の金さん】

この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろってんだ!

 人々の娯楽を守った遠山景元=遠山金四郎の評価は当時から絶大で、寄席での講談や歌舞伎の題材として何度も上演された。
 それらの物語を題材にした小説家・陣出達郎(じんでたつろう)の作品で、ほぼ現在の『遠山の金さん』の物語がまとまっている。

 遠山の金さんを代表する要素と言えば、何といっても背中に描かれた桜の刺青
 町人・金の字こと「遊び人の金さん」に扮して自ら潜入調査に向かった金さんは悪人たちにこの桜を見せつけ、相手をバッサバッサと気絶させていく。
 そして、騒ぎを聞いて駆けつけた北町奉行所の部下たちにひっ捕らえられた悪人たちが、遠山景元の前でシラを切り続けていると――。


やかましいやい、悪党共!
この桜吹雪に、見覚えがないとは言わせねぇぜ!

 ――あの「遊び人の金さん」の口調で一喝し、背中の桜吹雪を見せ付けるのだ。
 こうなっては言い逃れは不可能。悪人たちはひれ伏し、抵抗しても遠山の見事な反撃で跳ね返されるのである。
 ちなみに、事件に巻き込まれた被害者や善人には内緒にしてもらうようこっそり頼んでいるので、多くの部下は「お奉行様=金の字」である事に気づいていない。


 現在に至るまで幾多もの映像作品が作られているが、特に有名なのは初代将軍中村梅之助さん、市川段四郎さん、杉良太郎さん、
 高橋英樹さん、松方弘樹さん、8代将軍松平健さんなどが演じたテレビ朝日の『遠山の金さん』シリーズだろう。
 また、桜吹雪を見せ付けるという描写は重視していないものの、TBSの時代劇『江戸を斬る』シリーズでも第2作目から主役を務めており、
 西郷輝彦さんが主役を勤めた際は鳥居耀蔵との対立、南町奉行への転任など史実のエピソードも織り込まれている。

 『笑点』で度々林家木久扇師匠がモノマネを披露したりそのせいで座布団を没収されたり、『金ちゃんラーメン』のCMなどでパロディが製作されたり、
 「ガースー法人聖黒光り学園」の生徒たちの前で名(?)裁きを行ったり、現在もなお名奉行として愛され続けている。

【「桜吹雪」について】

 「遠山の金さん」と言えば上記の通り桜吹雪の刺青だが、史実の「遠山景元」については詳細がはっきりしておらず、
 右腕だけ、左腕だけ、花びら1枚だけ、桜ではなく女の生首が描かれていた、そもそも刺青なんてしていないなど様々な説が出されている。
 またそして彫り物をする時に激痛の余り逃げ出したというちょっと情けない話もある。
 奉行と言う立場にあるものが刺青など持っての外なので、このような事態になるのも当然かもしれない。

 ただ、実際に袖をすぐ下ろす癖があったようで、肘に何かあったのは確からしい。
 また、上述したとおり若い頃は頭は良いがやりたい放題のどこぞの副将軍と同じような不良だったらしく、刺青もこの頃につけたものかもしれない。 

【補足】

◇史実の名裁き

 景元が北町奉行に就任した翌年の天保12年(1841年)、12代将軍・徳川家慶が謁見する場で裁判を行う機会があった。
 歴代将軍が1度行っている、各地の奉行の仕事ぶりを拝見する「公事上聴」である。
 その中で景元は見事な名裁きを見せたらしく、家慶から「奉行の模範だ」と大いに称えられたという。

 実力は勿論、将軍のお墨付きという高い評価も、忠邦らが景元を「罪人」として罷免できなかった要因だったのではないか、と推測されている。

◇痔持ち

 上述したとおり、町奉行は都知事・警視総監・裁判長の仕事を一手にこなす激務であった。
 『遠山の金さん』のように出歩く暇など無く、座りっぱなしの勤務も多かった。
 その事もあり、景元は長年に悩まされていたと言う。
 そのため、尻の痛みから馬に乗ることが困難であり、特別な許可を得て籠に乗って江戸城に入っていたらしい。

 なお、大岡越前こと大岡忠相もで苦しんでいた事が資料に書かれている。
 町奉行の真の敵は、ある意味激務尻の痛みだったのかもしれない。




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この追記・修正に、見覚えがないとは言わせねぇぜ!!

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最終更新:2023年09月29日 09:06

*1 一部を除いて閉鎖、中身も教育物のみ許可、歌舞伎小屋の郊外移転など。

*2 ちなみにその後地方大名の元で長い間軟禁されたがそこで人々のために尽くして領民の尊敬を集め、何と明治維新後に解放・天寿を全うした。