ノーベル賞を取り損ねた人々

登録日:2016/04/07 Thu 12:46:00
更新日:2023/11/30 Thu 15:41:04
所要時間:約 8 分で読めます




この地球上のありとあらゆる賞の中で、権威・知名度がトップクラスと言っていいノーベル賞
選考においてしばしば物議を醸すこともあるものの、基本的には科学・文学・平和活動および人道支援に名を残す名だたる偉人たちが受賞者に名を連ねていることには異論は無いであろう。

しかし、様々な理由で、「本来であれば受賞に値したと言われているが、結局受賞しなかった」という人も多数存在する。
その理由としては政治的な理由、業績が正当に評価されるのに時間がかかった、本人の辞退などが挙げられる。
根本的な理由としては、受賞資格に「受賞決定時に本人が生存していること」(1973年以前はノミネート時に生存していること)が定められているためであり、
結局運が悪かったとしか言いようがない人物も多い。

本項目では
  • 業績、知名度からすると受賞に相当すると評価されているが受賞しなかった人
  • ノーベル財団が公表した資料から、相当受賞に近い位置にいたと判定されるが結局受賞しなかった人
  • ノーベル賞の受賞規定*1が今後変更されない限り受賞できない、既に死亡している人

以上に当てはまる人々を紹介していく。

なお初期のノーベル賞は現在と違って一部門の定員が一人であり(現在は文学部門以外は3人)、かつ現在のように既に功あり名を遂げた人の顕彰というより、
気鋭の若手に今後の健闘を促す意味も込めて授与するという意味合いも強かったため、現在とは単純に比較できないことに注意。


+ 目次

一覧

医学生理学部門

ロザリンド・エルシー・フランクリン

この手の話題になると必ず名前が挙がる女性科学者。
本来の専門は化学であるが、DNA構造に関する先駆的な研究を行い、あのワトソンとクリックによる二重らせんモデルが生まれるきっかけを作ったと言われる。

しかしこの過程がやや疑惑があり、彼女の共同研究者であったウィルキンスが彼女が撮影した画像を勝手にワトソンとクリックに見せたと言われることがある。

1958年に病没。その後ウィルキンス・ワトソン・クリックの三人がノーベル医学生理学賞を受賞したが、上記の経緯により彼女にも受賞可能性があったとされる。

なおやや喧嘩っ早い性格だったとされ、上記のエピソードの際にはウィルキンスともすでに不仲だったと言われる。
もし性格に問題が無くて、かつ早死にしなければ、DNA研究の歴史に大きな名を残していただろうとも言われている。

木村資生

「分子進化の中立説」を唱え、海外の教科書にも名前の載っている日本人研究者。
進化学は学説の評価に時間がかかる分野であることもあってか、受賞することは無かった。
あと5年生きていれば受賞していただろうとも言われる。

なお(広義の)進化学分野で受賞した人にはトーマス・ハント・モーガンなどがいる。

野口英世

千円札の人。
1913年から1927までの間に計9回も候補に挙がりながら受賞を逃した。*2
研究者として最も脂が乗っていた時期が第一次世界大戦と重なってしまい、ノーベル賞自体が中止となったのが痛かったと言われる。

ただし、彼の研究者としての業績は人間性も含めて現在かなりの部分が否定されている。
狂犬病や黄熱病の病原体を発見したとされることについては、現在ではウイルス(当時の技術では見えない)が原因だと判明していることから否定されている。
梅毒の純粋培養についても追試に成功した例が存在しない。

そのためもし受賞していれば、日本人初の受賞者になったと同時に、後述のフィビゲルと同程度かそれ以上に「間違った奴に授与した」と批判されただろう。

山極勝三郎

人工癌研究の先駆者。
日本人の間では「不当に受賞できなかった悲運の研究者」として知られている。

化学物質によって癌ができることを発見した功績で計4度に渡って候補に挙がった(ただしうち2回は日本人の推薦によるもので、内輪褒めと見なされた可能性がある)が、
癌は寄生虫が原因だとする説を唱えたヨハネス・フィビゲルのみが受賞した。
当初はフィビゲルと山極の共同受賞が検討されたが、二人とも受賞に値しないとの意見が出るなどかなり紛糾した。
現在ではフィビゲルの学説は特殊な場合にしか成立しないことが分かっており、「本来なら普遍性のある山極が受賞するべきだった」と言われている。

結果的に日本人の山極が落選し西洋人のフィビゲルだけが受賞したことから、東洋人差別が原因だと言われることも多い。
ただし日本人は第1回から候補に挙げられていること、この13年前にはすでにインド人のタゴールが文学賞を、
自然科学分野に限ってもこのわずか4年後に同じくインドのチャンドラセカール・ラマンが受賞していることなどから、
人種差別云々と言うより単純な判断ミスではないかとも言われる。


物理学部門

トーマス・アルバ・エジソン

ニコラ・テスラ

「受賞していそうで受賞していない人」の代表格。
二人は不仲で有名だったことから、
「エジソンとテスラは共同受賞を打診されたが、「あんな奴と同じ賞なんかいらん!!」と双方が辞退した」
もしくは
「エジソンは貰う気満々だったが、テスラが辞退したためエジソンも貰い損ねた」
というエピソードがしばしば語られている。

しかし実際にはエジソンが候補に挙がったのは1915年、テスラが候補に挙がったのは1937年のそれぞれ一度だけであり、同時に候補に挙がった事実は確認できないことから、
このエピソードは後世の作り話であると思われる。

ちなみにノーベル賞には「共同受賞者のいずれかが辞退した場合には他の候補者も受賞できない」といった規約はなく、
実際に後述のキッシンジャーとレ・ドク・トのケースなどがある。

ジョージ・ガモフ

ビッグバン理論の提唱者。
業績はどう考えても受賞級だが、理論が正しいことが証明されるまで時間がかかったため受賞できなかった。
ちなみに酒豪家で有名で、酒を控えて長生きすれば受賞できたのにという声もある。


化学部門

ドミトリ・メンデレーエフ

理科の時間に誰もが覚えさせられる、周期表の提唱者。
1906年に候補に挙がるが、わずか一票差で落選。その翌年に死去した。
あと数年でも生きていれば間違いなく受賞しただろう。

ヘンリー・モーズリー

そのメンデレーエフの周期表を大きく前進させるモーズリーの法則の発見者。
第一次世界大戦に従軍し、ガリポリの戦いで戦死。わずか27歳だった。
早逝しなければ受賞は間違いなかったと言われる。

ちなみにガリポリの戦いの指揮官だったチャーチルは後に文学賞を受賞している。一応部下の悲願を果たしたことになる……とはいえ、ガリポリの失態はチャーチルの指揮の責任とするならこれほど皮肉な話も無いだろう。


リーゼ・マイトナー

オーストリアの女性化学者で、オットー・ハーンと共同でウランの核分裂を証明。しかしハーンのみが受賞し、マイトナーは受賞できなかった。ニールス・ボーア等マイトナーの受賞を支持する人もいたのだが…
ただ、彼女は後年にそれ以上の名誉に与っている。没後の1997年に、109番元素の正式名称をマイトナーの名に由来するマイトネリウムとすることが決まった。なお1997年の新元素の命名の検討では105番元素をハーンの名からハーニウム(元素記号Ha)と命名することも検討されていたが、結局105番元素はロシアの都市ドゥブナからドブニウムと命名された。この結果、元素の命名に関してはマイトナーとハーンはノーベル賞受賞の時とは立場が入れ替わる格好になった。

文学部門

レフ・トルストイ

ロシアを代表する大文豪。
1901年の第1回ノーベル賞では自他ともに認める最有力候補だったが、まさかの落選。
以後も受賞に恵まれないまま世を去った。
その理由としては本人のリベラルすぎる思想が嫌悪されたとも言われる。

ちなみにその死因は、奥さんと喧嘩した挙句家出して、野宿したことで風邪をこじらせたため、というしょーもないものである。

魯迅

国語の教科書でもおなじみの中国を代表する作家。
1936年に受賞を打診されたが、「中国文学はまだその域に達していない」と辞退した。
その後、中国人作家では老舍や沈従文などが有力候補に挙がったが、早逝などで受賞に至らなかった。

ちなみに「中国人初のノーベル賞受賞者は2010年に平和賞を受賞した劉暁波」と言われることが多いが、
これはあくまでも中華人民共和国籍の人物に限られる。実際の中国人受賞者は中華民国籍の1957年が最初。その他の例はWikipediaの中国人・華人のノーベル賞受賞者も参照。

ボリス・レオニードヴィチ・パステルナーク

ソ連の作家。政治的理由によって受賞できなかった人の代表格。
1959年に受賞者に決まるが、作風がロシア革命を否定的に書くという、ソ連当局に思いっきり喧嘩を売っているものだったため、
散々圧力をかけられて辞退させられた。

他に政治的圧力を理由とする辞退者には、1939年にナチスの圧力でゲルハルト・ドーマクが医学生理学賞を辞退しているが、
彼は戦後の1947年になって改めて受賞している。

ジャン・ポール・サルトル

1964年に受賞者に決まるも辞退。
そもそもあらゆる賞を受け取らない主義だったようである。
この理由で受賞を辞退した人は流石に他にいない
なお哲学者で有名だが、小説も執筆している。

なお哲学者ではアンリ・ベルグソンとバートランド・ラッセルの二人が受賞しているが、この二人は哲学書での受賞である。
1953年のチャーチル(自伝で受賞)を最後に文学作品以外での受賞は途絶えていたが、
2015年にジャーナリストのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが久々のノンフィクションでの受賞を果たした。

安部公房

ノーベル委員会の委員長が日本の新聞社の取材に答え、「急死しなければ確実に受賞していた」「非常に、非常に近かった」と述べたことがある。
ただし上述のようにノーベル賞の選考過程は50年を経過しないと公開されず、現在までに公開された資料には安部公房の名前は無い。
上記の発言はあくまで非公式のものと捉えるべきだろう。

ちなみに実際に候補に挙がって受賞しなかった日本人作家には三島由紀夫、谷崎潤一郎、西脇順三郎、賀川豊彦の四人がいる。


平和部門

マハトマ・ガンディー

非暴力・不服従運動を主導したインド独立の父。
3回にわたって候補に挙がり、特に3回目の1948年はほぼ受賞が決まりかけていたが、選考中に暗殺されてしまう。
当時はノミネート時点で生存していれば受賞資格はあったが、賞金を誰が受け取るかという問題が発生したため
結局お流れになってしまった。

インドの旧宗主国のイギリスの圧力が噂されることも多いが、この経緯を見る限り運が悪かったのが原因のようだ。

レ・ドク・ト

ベトナム戦争終結に尽力したベトナムの政治家。
和平を結んだアメリカのキッシンジャーと共同での受賞を打診されたが、辞退したためキッシンジャーのみが受賞した。
結果的に「戦争を始めた国のリーダーだけが受賞」という変なことに……


番外編

アルバート・アインシュタイン

光電効果の法則の発見により1921年に物理学賞を受賞しているが、相対性理論では受賞していない。
相対性理論は専門家にとっても極めて難解であり、選考委員が正しく評価できなかったという理由から。
これは当時の選考委員がバカだったというわけではなく、相対性理論を「どこで何のために役立てるか」が当時の時代では定められなかったが故に受賞資格を逃したのが大きいという。

なお、制度上ノーベル賞は別の業績で2度受賞することも可能で、実際に現在までに4人が2度受賞している。

似たようなケースにマレー・ゲルマンがおり、素粒子の分類の業績で受賞しているがクォークに関する業績では受賞していない。

ラルフ・スタインマン

2011年に医学生理学賞を受賞したが、受賞発表の3日前に68歳で世を去ってしまった。
受賞決定時点では存命ということで受賞は取り消されなかったが、本人の立場からすれば生きている間に賞を取り損ねた無念が残る。





追記・修正はノーベル賞の最終候補に残ってからお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • ノーベル賞
  • 科学史
  • 文学史
  • 平和
  • 運が悪い
  • 三振
  • 九振
  • 科学者
  • 研究者
  • 作家
  • 小説家
  • 政治家
  • 活動家
  • 一覧項目

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年11月30日 15:41

*1 1973年以前はノミネート時に生存、それ以降は受賞決定時に生存していること。

*2 ただし最終候補の時点でも候補者は数十人以上はいる。