伊達騒動

登録日:2016/04/05 Tue 19:29:37
更新日:2023/11/23 Thu 20:48:15
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様々な紆余曲折を経て、戦国DQN四天王のまーくんこと独眼竜・伊達政宗を初代藩主として築かれた「仙台藩」
江戸にも負けない立派な街となった仙台を中心に栄えたこの藩は、様々な困難に直面しながらも懸命に江戸時代を切り抜け、
やがて東北地方最大の都市・仙台を中心とした宮城県の礎となっていく。

だが、伊達政宗が亡くなってから数十年後、そんな仙台藩を揺るがす大事件が勃発した。
藩主の強制隠居から始まったお家騒動が、江戸城下での殺傷事件にまで発展してしまったのだ。
下手すれば仙台藩そのものが滅亡するかもしれないと言う事態にまで陥った一連の事件をまとめて「伊達騒動(だてそうどう)」と呼ぶ。

この項目では、あのDQN野心家の血を引く者たちが引き起こした一大スキャンダルを解説していく。


【概要】

◇伊達綱宗の隠居

事の発端は、伊達政宗の孫にあたる仙台藩3代藩主・伊達綱宗(だて つなむね)が強制的に隠居させられた事件から始まる。

主な要因として「酒や遊興に溺れて家来や庶民を考えないバカ殿だったから」と語られる事が多く、後述の通り吉原の高尾太夫を斬ったなど様々な創作が生まれている。
ただし、実際の綱宗にはそのような素行不良は無く、第111代天皇・後西天皇と従兄弟同士であったため*1、朝廷と外様大名の結びつきを幕府に警戒されたからと言う説もあり、真相は謎のままである。

ただ、一関藩主であり伊達政宗の息子である伊達宗勝(だて むねかつ)=通称「伊達兵部」など各地の藩主の訴えを綱宗は退け続け、藩主の座を固辞し続けた。
宗勝は伊達家の一族としては珍しく兄であり綱宗の父親である忠宗と死別まで親交を保ち続けており、兄から息子の後見を託されていた。
その結果、とうとう1660年(万治3年)に伊達藩の家臣や各地の藩主が幕府に直接綱宗の隠居を願い出る事態となり、僅か21歳で綱宗は隠居する事となった。

綱宗に代わって仙台藩4代藩主になったのは、彼の長男(嫡男)の亀千代。後の伊達綱村(だて つなむら)である。
だが、この時亀千代はなんと僅か2歳、とても政治など出来る状況ではなかった。
そんな中で仙台藩に影響を及ぼし始めたのが、一関藩主の伊達宗勝である。

◇伊達宗勝の野望

当初、亀千代の補佐と仙台藩の実権掌握を推し進めていたのは、仙台藩の最高相談役である奥山常辰(おくやま つねとき)であった。
しかし、彼は他の重臣と仲が悪かった他、亀千代の後見役として伊達家から呼ばれた伊達宗勝らとも意見を対立させる事となった。
宗勝が支配する一関藩は元は仙台藩の領地だった場所だから自分の考えに従うのが当然、と言う考えもあったという。

だが、肥沃な土地を巡る問題から排斥運動が激化。その結果常辰は辞職に追い込まれてしまった。
その結果、仙台藩の実権は一関藩主・伊達宗勝に握られる事となった。

かつて父が築いた仙台藩を支配した宗勝はやりたい放題。自分の側近を寵愛して強い権限を与えたり、反対意見を持つ者を次々に処罰したりと次々に独裁政権を築き始めた。
この中で彼の家臣である奉行・原田宗輔(はらだ むねすけ)=通称「原田甲斐」もその存在感を増している。
当然その動きに対する反発も起き始めたが、その立場に立った者たちも様々な思惑があり、なかなかまとまらない状態が続いた。

そんな中、1つの事件が勃発した。
仙台藩内で領地を巡る争いが起きたのである。

◇谷地騒動~伊達宗重対伊達宗倫~

仙台藩の特徴に、「地方知行(じがたちぎょう)」制を取り入れていた事がある。
地方知行とは、武士たちが活躍に応じて上司(大名や将軍)から知行=土地を褒美として貰うと言う仕組みである。
乱暴に現在の会社に例えてしまえば、給料の代わりに子会社を頂くようなものである。

仙台藩の場合、この仕組みによって家臣たちは強い力を蓄えており、独眼のカリスマである伊達政宗が統治していた頃は家臣たちもこの力を存分に活かし、仙台藩の急成長に貢献した。
ただ、この仕組みは裏を返せば、限りある土地を分配するため強い力を蓄えた家臣たちが争う可能性がある、と言う事である。
他にも権限や財源の不安定化を招く事もあり、幕府や他の大名は、家臣の土地を取り上げ(地方召上)て、替わりに石高分の米を支給する蔵米知行を部分的に取り入れてゆく。

が、仙台藩の場合
(● ∀・)「会津の蘆名を滅ぼしたのに惣無事違反とかで秀吉に取り上げられちまったな……」
(● ∀・)「そうだ、佐々成政みたく、一揆が起きればそこの領主は取り潰し。つまり俺が近くの大名の領内で一揆をけしかけてもそいつは取り潰し。でもって俺が援軍に出て一揆を鎮圧すれば、取り潰しで浮いた領地が褒美で貰えるんじゃね」
(● ∀・)「この前取り潰された葛西と大崎の後任の木村吉清の評判も悪いしいっちょやってみっか」
~~~~一揆鎮圧後~~~~
(● ∀・)「俺が一揆を扇動した?何のことやら」
秀吉「蒲生氏郷が手に入れた密書とか証拠があるんだけど」
(● ∀・)「どれも偽物ですなあ(すっとぼけ)。一揆の首謀者どもは秀次どのの命令で撫で切りにしちまったし(棒)」
秀吉「ふーん(察し)、じゃあ欲しがってた葛西大崎の旧領を安堵するよ。その代わりこれまで持ってた領地のいくつか召し上げね」
(● ∀・;)(バレテーラ)

て経緯で一揆で荒廃した土地へ配置換えされ、その土地をまた家臣に安堵し復興を任せていた。
そうやって彼らが復興させた土地を今更召し上げたら反乱が起きるのは目に見えている。なので仙台藩は蔵米制の移行・並立をさせる事が出来なかった*2

そして寛文5年(1665年)、その問題点が現実のものとなった。

争いの中心にいたのは、仙台藩の中でもかなりの有力者であった伊達宗重(だて むねしげ)=通称「伊達安芸」と、
仙台藩2代目藩主・伊達忠宗の息子である伊達宗倫(だて むねとも)=通称「伊達式部」
新田開発を進めて力を付けていった両者が、土地を巡って激突したのである。
その舞台となった土地の名から「谷地騒動」とも呼ばれている。

互いの主張の食い違いや問題となった場所の広さ、そして土地の境を示す書類の控えが無くなっていたと言う事態などが重なり論争は長期化。
宗重側は両者でもう一度土地を測りなおしたほうが良いと進言したが、宗倫は仙台藩自身の判断の方が良いと考え、検分を要請した。

だが、そこから事態はさらに悪い方向へと動き始めた。
実はこの伊達宗倫、仙台藩の実権を握っていた宗勝のなのである。
そしてそれを良い事に、検分を行った仙台藩の面々は宗倫側が圧倒的に有利になるよう土地を分けてしまったのだ。


それと並行して、仙台藩内でも不穏な動きが続出。
寛文6年(1666年)、幼い藩主・亀千代の料理を毒見する係りの者が、料理に含まれていた――つまり亀千代を暗殺しようとしていたを口に入れて死亡する事件が発生。
さらに寛文8年(1668年)には宗勝を暗殺しようとする計画が暴露。犯人であった伊東七十郎や伊東一族は全員処刑されると言う事態となった。

混迷を極める仙台藩の中、ついに伊達宗重は立ち上がった。
元から彼は宗勝に対して良い印象を思っていなかったが、件の領地問題で完全に決意したのである。
これ以上宗勝の良いようにされては、仙台藩は完全に狂ってしまう、と。

そして寛文10年(1670年)、宗重は自らの申し条を記した上訴文を幕府に提出した。
騒動の解決を、武士たちの最高機関に託したのだ。


◇寛文事件

寛文11年(1671年)、一連の騒動の吟味を始めるため、宗重は江戸へと向かった。
領地問題や宗勝のやりたい放題ぶりを訴えた彼の話を受け、さらに仙台藩の家臣が江戸に派遣される事になった。
まず仙台藩の家臣である柴田朝意(しばた としもと)=通称「柴田外記」と、宗勝の信頼を受けていた家臣・原田宗輔が江戸に到着。
その後、彼らの証言の食い違いを受けて古内義如(ふるうち よしゆき)=通称「古内志摩」も呼ばれた。

3名のうち、朝意は仙台藩の中でも重役である「奉行」の立場にいながら伊達宗勝に実権を握られていた事もあり、彼に不満を持っていた。
そのためか、柴田は宗重の訴えをより確実にするような証言を行った。
義如も同様の証言を行ったため、宗勝側にいた宗輔が不利な立場になってしまった。

そして3月27日、幕臣の最高職・大老である酒井忠清(さかい ただきよ)の屋敷で2度目の審問が行われた。
そして朝意の審問が行われている最中、事件が起きた。

控え室にいた原田宗輔が、背後から突然伊達宗重を斬りつけたのである。

宗重も刀を抜いて応戦したが傷は深く、その場で死亡
その後宗輔は審問が行われている部屋に突入するも、柴田がそれに応戦し斬り合いとなり、彼も斬り殺された
だがその柴田までもが、事態に混乱した酒井家の家臣によって斬られてしまい、命を落としてしまったのである。

最悪の事態となった屋敷の中、古内義如のみは席を外しており、難を免れた。



◇事件の処罰・顛末

下手すれば仙台藩そのものが改易=滅亡しかねない大事件であったが、何とかその事態は免れた。
4代目藩主・亀千代改め伊達綱村がまだ幼く、責任を取るような立場ではない、と判断された事が理由である。
また、「鬼の小十郎」こと片倉重長の養子である片倉景長(かたくら かげなが)などの奮闘で仙台藩の混乱が防がれた事も大きい。

一方、殺傷事件を引き起こした原田宗輔の一家は、男は1歳の孫に至るまで1人残らず切腹あるいは斬首、女性は他の家に預けられ、原田家は断絶した。
彼の上司であった伊達宗勝も、これまでの責任を一気に取らされる形で一関藩を改易=滅亡させられ*3、妻子ともども各地の藩で永預(ながあずけ)=拘禁処置が取られた。

なお、生き残った古内義如は一時宇和島藩に据え置かれたものの、事件解決を受け無事仙台藩に帰国する事が出来た。
だがその後病に倒れ、2年後に命を落としている。

こうして、ようやく伊達家の騒動は終わりを――。






――告げなかった。
よりによって、騒動の中心にいた綱村自身が騒動の火種を持っていたのである。

◇伊達綱村の隠居

成長した綱村は、仙台藩をより栄えさせるため様々な政策を行った。

海岸には防風林、地上には運河を設置し、人々がより暮らしやすい土地を作るために貢献。
学問においても多数の学者を招き、藩の歴史を後世に残すため奮闘した。
そして寺院や神社など宗教関連でも多大な功績を残している。
平泉にある「義経堂」は、綱村の政策の一環で建てられたものである。

これらの功績から、綱村を「仙台藩中興の名君」と称える声もある。
財政面を無視していたという致命的な欠点を除けば。

様々なプロジェクトに乗り出した結果、仙台藩の財政は悪化
何とか解決しようと奮闘するも、どんな事をやっても事態は悪くなるばかりであった。
さらに、彼の周りの家臣にも少々問題があった。
重役にいる家臣は、揃って古くから綱村に仕えている人たちばかりだったのである。
当時の幕府に習い藩主勢力の集中を図ろうとした結果なのだが…。

この事態を受け、各地の伊達一族や古くからの伊達家家臣は、こんな事はすぐに止めて欲しいと訴えた。
一応は謝った綱村だが結局それは口だけに過ぎず、状況は全然変わらなかった。
その事態を受け、反綱村派の面々は藩主を強制的に隠居させる策を考え始めた。
数十年もたたないうちに、またもや同じような事態が起きたのである。

綱村の親族であった*4高田藩主・稲葉正往(いなば まさみち)は当初強制隠居に反対し、訴えを差し止め続けた。
しかし、その後何度も隠居要望が出されるにつれ、次第にこの混乱は世間に知れ渡り始めた。
そしてとうとう、5代将軍・徳川綱吉にまで届いてしまったのである。

再び勃発した騒動が将軍にまで届けば、藩の存続が危うくなってしまう。
老中に出世していた正往は、この事態を受けて自ら綱村を説得。
流石にこんな事態になってしまえば、綱村も隠居以外の選択肢は無かった。





こうして、今度こそ伊達騒動は終焉した。
綱村時代にどん底に陥った仙台藩の財政は、彼の後を継いだ5代藩主・伊達吉村(だて よしむら)によって復興する事となる。結局その後また悪化する事になるのだが


【実録・創作など】

日本を代表する有力藩で起きた大スキャンダルと言う事もあり、この伊達騒動を纏めた記録は多い。
江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』、仙台藩の公式記録『治家記録』が主な公式記録となっている。

一方、この騒動を基にした二次創作も早速各地で製作され、人形浄瑠璃や歌舞伎の形で上演された。
当時は存命の武士を描いたナマモノ系作品は実名を使う事がタブー視されており、過去の時代の人々に当てはめる形で物語が製作されている。
その中でも代表的なのは、室町時代を舞台にした人形浄瑠璃・歌舞伎『伽羅先代萩』、応仁の乱の時代を舞台に怪談累ヶ淵の要素も加えた歌舞伎『伊達競阿国戯場』である。
どちらも現在に至るまで多くの役者に演じられており、『伊達競阿国戯場』は登場人物のスピンオフ作品まで出来るほどである。

これらの作品に共通するのは、伊達宗重(伊達安芸)たちは善」「原田宗輔(原田甲斐)や伊達宗勝(伊達兵部)は悪と言う構図である。
窮した宗輔が宗重を斬るという事態になってしまえば、当然そう考えてしまうかもしれない。

また、事態の発端となった綱宗の隠居の原因は「仙台藩乗っ取りを企む甲斐と宗勝の暗躍でバカ殿になってしまったから」としており、彼らの極悪ぶりを説得力あるものにしている。


だが時は経ち、1950年代にそのような考えに一石を投じる作品が現れた。
山本周五郎が手掛けた歴史小説『樅の木は残った』である。

この作品では、原田甲斐(=宗輔)は友や周囲からの信頼を失いながらも懸命に仙台藩を守ろうとした忠臣として描かれている。
事件の黒幕は伊達兵部(=宗勝)と、彼と共に仙台藩乗っ取りを目論んでいた老中・酒井雅楽頭(=忠清)であり、
甲斐は彼らに取り込まれる形で本意無く乗っ取り側になってしまった。
そして殺傷事件そのものも事態の発覚を恐れた雅楽頭自身が命じたものであり、
甲斐は自分が極悪人と伝えられようとも、自らの命を捧げてでも仙台藩を守るという凄まじい忠義の意志で上訴の主である宗重らを斬り、
表向きには「この時に自身も斬られる」という形で自らも命を落とした…という設定になっている。

物語の題名の「樅(もみ)の木」は、たった1人で懸命に戦う甲斐の屋敷に生えていた1本の樅の木のこと。
何も語らず、ただ立ち続けている木と、周囲に何も語らずに仙台藩に殉じた甲斐の生き様を重ねているのかもしれない。

現在に至るまで何度も映画化・ドラマ化が行われているが、最も有名なのは1970年に放送されたNHK大河ドラマ『樅の木は残った』だろう。OPが怖い事でも有名


逆に、同じ歴史作家の海音寺潮五郎は『列藩騒動碌』で宗勝や原田甲斐、酒井忠清の視点からも事件を考察している。
元々、宗勝は兄の忠宗の遺言で甥である綱宗の後見・補佐を依頼されており、仙台藩の内政に意見する事は当然の責務であり、原田甲斐を含めた当時の藩士達の感覚では「忠宗様が指名された後見人が殿に意見するのは当然だろう」と思うものが相当数いてもおかしく無かった。
一方、悪役扱いされている酒井忠清であるが、子供の出生記録を見ると前妻と死別後の再婚前の独身時代に作った1人を除くと全員が正妻の子であるので、海音寺は『家庭では律儀な愛妻家であったのでは?』と推察している。
だから、当時の人間としては綱宗の女性問題に強い嫌悪感を抱いたとしてもおかしくは無いし、其れを何者かが誇張していたら藩主不適格と考えても不思議はないとしている。



【余談】

◇綱宗・綱村のその後

僅か21歳でご隠居になってしまい、江戸の屋敷で暮らすこととなった伊達綱宗は、その後はのんびりと芸術活動に従事。
得意の絵画では多数の名作を描き、現在も仙台市博物館でその一部が保存されている。
そして正徳元年(1711年)、71歳で死去。
遺体は仙台へと戻り、祖父・政宗や父・忠宗と同じ場所に葬られた。
なお、幕末から明治初期にかけて活躍する伊達宗城は、血統的には綱宗の男系子孫である。

一方、綱村は隠居後61歳で死去。
遺言に従い、彼以降の藩主は死後に建物「御霊屋(霊廟)」が建設されていない。

◇主要人物と伊達政宗の関係

今回登場した「伊達」の苗字を持つ者と初代藩主・伊達政宗の関係は以下の通り。

  • 伊達綱宗…最初に述べた通り、伊達政宗の孫。
  • 伊達綱村…綱宗の息子で伊達政宗の曾孫。
  • 伊達宗勝…こちらも先述の通り伊達政宗の息子。
  • 伊達宗倫…伊達政宗の孫であり、綱宗の弟である。
  • 伊達宗重…政宗から「伊達」の苗字を名乗ることが許された伊達定宗の息子。政宗・定宗の曽祖父が共に伊達稙宗である。また、父である定宗の妹は伊達政宗の息子・亘理宗根の妻である。

関係系図

伊達稙宗┬―晴宗―輝宗―政宗┬忠宗-┬綱宗綱村
    |          ├宗勝宗倫
    |          └亘理宗根
    |          |
    |        ┌――娘
    └亘理元宗―重宗┴伊達定宗―宗重


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最終更新:2023年11月23日 20:48

*1 後西天皇と綱宗の生母が実の姉妹であった。

*2 結局仙台藩は幕末まで地方知行制だったという

*3 ちなみに一関藩自体はこれから10年後、綱村の従兄弟田村建顕(父は綱宗・宗倫の兄で宗勝と共に後見人を務めていた田村宗良)によって再興し、浅野内匠頭が江戸屋敷で切腹する等がありつつも明治維新まで続いた。

*4 正往の妹が綱村の正室であり、正往は綱村の義兄に当たる。