阿弥陀如来

登録日:2015/11/20 Fri 11:16:51
更新日:2023/12/26 Tue 21:50:43
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阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)


『阿弥陀如来(梵名:アミターバ、アミターユス)』は大乗仏教(顕教)の尊格。
西方極楽浄土の教主。
浄土宗、浄土真宗の本尊としても知られる。
大乗仏教が成立していく中で誕生した顕教の代表的な尊格であり、日本にも飛鳥時代には伝来していた。
我が国では平安時代後期からの末法思想の流行を皮切りに鎌倉時代の法然、親鸞らの登場を経て民衆に広く根付いた浄土信仰の主として特に親しまれている“仏様”でもある。
※日本人が思う所の一般的な“仏様”のイメージは大体がこの御方を指していると思われる。


由来

古代インドの王(無浄念王)であったが、苦しみの中にいる民を救いたいと願い仏門に入り(僧となり)、法蔵(法蔵菩薩)を名乗り修行に明け暮れた。
悟りの末に西方極楽浄土を拓いたとされる。

極楽浄土のイメージの原型は小アジアからエジプトに至る古代オリエントの楽園(理想化されたオアシス)=西洋世界での楽園のイメージと起源を等しくしていると推察されている。
後の浄土信仰での姿を見ても、絶対的な帰依者たる砂漠の地域で生まれた一神教の主神的な性格を持つ尊格(救い主)でもある。

梵名はアミター(無限)=バ(光)、及び=ユス(命)とされ、これを音写して阿弥陀如来と訳出された。
この名は梵名を漢訳した無量光、無量寿如来(仏)として異名としても用いられている(※無量光如来=アミターバは密教系の名称であるらしい)。
他、中国では無碍光如来、不可思議光如来とも呼ばれ、浄土信仰でも用いられている。
このことから、太陽神であり帰依した者たちの救済者としてのヴィシュヌの影響もあるとも言われている。

大乗仏教が展開する中で、開祖たる釈尊の智慧を独自に解釈、宗教的な観点から民衆を救う為の功徳を抽出、集約していく中で生み出された御仏の一つである。
こうした、教義の体系に沿う形で宗教的な「神」に相当する存在として生み出された「仏」を報身仏と云い、彼らは釈尊よりも以前に生前の報い(解脱)により既に「仏」となっていた存在であると説明されている。

大乗仏教で生み出された如来の多くがこれに相当し、やがては開祖たる釈尊もまた、幾度もの輪廻を繰り返して来る中で仏陀となる下地を作って来た、とする信仰が定着していった。

チベットでは第二祖パンチェン・ラマの本性であると考えられており、また、アミターバ(密教尊)とアミターユス(顕教尊)は別々の尊格として信仰されている。

脇侍として観音、勢至菩薩が付いており、仏教では阿弥陀如来の第一、第二王子が共に仏道に入った姿である、と解釈されている。
三尊形式の仏像や図像化の他、浄土信仰では「山越図」にも三尊は描かれ、いつの日にか阿弥陀が入滅した後には観音が、観音が入滅した後には勢至が後を引き継ぐと説明されている(※不死設定の筈だが釈尊に準えたのかもしれない)。

また、同じく浄土信仰の「来迎図」に見られる様に死者(念仏者)を迎えに来る際には二十五菩薩を従えてやって来るとされている。

密教では五智如来(五仏)の一尊として西方を司る(胎蔵界では無量寿如来)。また、釈迦如来(密教では北方の不空成就如来と同体とされる)と共に大日如来の脇士とするとの説明がある。


浄土信仰

平安時代末期からの末法思想の流行と共に興り、鎌倉時代に流行した阿弥陀如来の念仏信仰。
元来の仏教思想(密教、禅も含まれる)が、それぞれに形態は違っていても結局は釈迦の語る様に己が仏道を実践していく事により悟りを拓き解脱(輪廻転生からの脱却)を目指すと云う、実践的な思想と修行と探究こそを目的としていたのに対し、浄土信仰では本人が悟りを拓かずとも阿弥陀如来に帰依して「南無阿弥陀仏」と一心に唱えれば、阿弥陀の拓いた極楽浄土(阿弥陀の国土)に生まれ変われる事が出来ると説かれ、これが唯一無二の衆生済度の道である、として説き広められた。
※従来の大乗仏教では、衆生の解脱の道は仏法に従い幾世もの輪廻を繰り返して正しく生きる事でいつの日にか叶う、とまでしか定めきれていなかった。

これは阿弥陀の四十八の誓願の内、最も重要とされる十八番目の誓願……「あらゆる世界の人々が、私の建てる極楽という国に生まれたいと願って私の名前を称えたとき、それがかなえられなかったならば、私は仏とはならない……の功徳から生まれた信仰である。
この為、純粋な浄土信仰は浄土教として分けて仏教とは別の教えである、
と考える場合もある。

聖徳太子の死を悼んで作られた「天寿国繍帳」など、日本仏教の初期から導入されてはいたのだが、中国で成立した阿弥陀の本願を救済の道と説く浄土教は日本では本来の仏道から見れば易道(優しい道)とされて長らく埋もれたままになっていた。
しかし、現世に地獄が現れたかの様な末法乱世の世に、阿弥陀への帰依と功徳を説く念仏を呟き諸国を放浪した法然を筆頭とする念仏僧達によって民衆の間に急速に説き広められていった。
ここから、衆生の他力本願による救済を掲げる我が国の浄土信仰が誕生したのである。

日本では、中国の仏典解釈による末法到来の予言(1052年=永承7年と考えられていた)と前後して、実際に数々の怪異(災害、重大事件)の勃発と朝廷権力の凋落、武士の台頭、平安時代以降に権力を持ちすぎた仏教教団の腐敗が極まっていた時代と重なっており、僧侶が貴族より力と資金を持ち、自分達の力を誇示して朝廷すら脅す増上慢を見せていた(※国策により増やされた仏門、仏閣を維持する為に僧の粗製濫造や税を逃れる為に化けた偽坊主達の出現により僧侶の質も後代になる程に落ちていた)。

そんな時代を憂い「世の地獄を心の地獄」として、源信らが地獄からの救いの姿として流布させた地獄絵図と極楽往生の構図は人々に急速に広まり新たな信仰を生む一方で、現世からの救いを求めて自ら命を断つ者が続出する等、厭世的な空気が流れてしまったとも云う。

……そうした中で遂に立ち上がった法然は、既に名の知られた高僧であった身にも拘わらず“己自身の解脱”を否定してまでも極楽往生の素晴らしさと、その実現の為に“一心に念仏のみを唱え阿弥陀に帰依する道”を説き広め、漠然としていた極楽浄土への憧れを実践を伴った真の信仰へと昇華させてみせた。

つまり、本来は如何に言葉と思案を尽くしても現実には実現困難である仏教思想の救いのゴール(解脱による輪廻からの脱却)を、別の所(極楽往生)に設けて“シンプルにして実行力のある形”で救済を語ったのである。
※例えば、真言密教の語る「即身成仏」等は、空海の様な天才ならともかく、凡夫には到達不能の境地である、と誰もが薄々は感じていたであろう真実をぶっちゃけ、古代のバラモンの様に地位に固執して思想で遊ぶ仏門に楔を打ち込んだのである。

そして、後に弟子である親鸞は法然自身は如何に否定しても実際には相も変わらず超然的であった師とも違う、浅ましい凡夫でしかない己を深く深く内省した末に、今の生すらが阿弥陀に生かされている結果に過ぎず、善悪もまた縁から生じる結果でしか無いのならば、人の身には阿弥陀に縋る他に救いは無いと云う“絶対他力”の境地を見出すに至った。

……尤も、法然等の行動は末法の世では純粋な成道(解脱)が適えられないと云うのならば(※浄土教の信仰に依ると末法では仏道修行は成功しないとされている)、衆生を救う為には他力本願に“縋るしかない”……と云う、砂を噛むような想いから絞り出された境地であった。

……しかし、権力を維持する事しか考えない延暦寺を初めとした仏教教団からは“仏法を壊す行為”と捉えられ(※パトロンであった貴族や朝廷の人気を奪われていた恨みもあったのだろう)、法然とその弟子達は権力や出身の仏門からも追われる身となり追放や僧籍の剥奪、弟子の処刑までをもされてしまった。

その理念は、弟子や信徒の手により今の世まで繋がる救いの道として残ったが、その一方でネガティブな方向にも働き、権力(金貸し、領主、荘園管理者たる寺門)に対する搾取される側のレジスタンスとして起きていた一揆の中でも、新たに法権力を求める力として信徒の暴力を利用した面もある本願寺教団の威勢(一向宗=一向一揆の大元。不本意とはしつつも教徒を抑える事は出来なかった)を生む事や、本来の法然らの思想が大きく歪められた末に念仏教団による従来の仏教の否定は疎か、攻撃にまで繋がると云う悪影響も生んだ。

寺院を持とうとしなかった法然らはともかく、彼らの教えから生まれた新仏教もまた教団化すると権威への固執から堕落の道へと進み、後の浄土信仰では因果応報の都合のいい解釈により宿業の名の下に階級、病人や障害者への蔑視、迫害と差別も横行した。
また、阿弥陀に見捨てられたら“即”地獄に落ちると云う極端な考えの定着により、念仏教団への固執と一揆の正当化……etc.本来の浄土信仰は勿論、元々の仏教ですら否定されている歪んだ思想がまかり通るようにもなった。


……こうした混乱は室町幕府崩壊後の戦国時代まで続いたが、仏門の増上慢と一向一揆を仇敵と定めた織田信長と本願寺派の長きに渡る激しい抗争と和解を経て遂に鎮火(石山本願寺の陥落)。

……後に乱世を勝ち抜いた徳川の治世の時代には檀家制度の推進もあり、各地の寺院と民衆との間に新たな関わりが出来る等、漸くの落ち着きを見せていく事になる(※それはそれで、ムラ社会の中の葬式仏教化=仏教の形骸化を招くなど新たな問題を発生させた)。

尚、末法の概念は元々の仏教思想には無く、中国仏教で成立した(※ヒンドゥー等の影響も考えられる)。
地獄や極楽浄土の概念も中国で整えられていったもので、これらには道教思想の色濃い影響が見られる。


姿

釈迦如来に倣ったシンプルな如来形で、当初は右手是無畏印、左手与願印を結ぶ如来共通の姿をしていた。
平安時代に密教が伝来されると曼荼羅中の阿弥陀如来の姿に倣った作例も見られる様になり、座像では法界定印の様に見えるが第二指を曲げる独自の印形を結ぶ座像(鎌倉の大仏が代表的)と、末法思想に顕れた浄土信仰の主としての施無畏印、与願印に似るが親指と人差し指で円を作る来迎印を結んだ阿弥陀立像は、共に阿弥陀如来独自の形式として以降の作例の基本となった。
背面からは梵名に倣い、放射状に光を放つ光背を持つ。
前述の様に座像も多いのだが、浄土真宗では「観無量寿経」の「住立空中尊(※死の間際に阿弥陀が迎えに来る)」という表現から立像しか認められていない。

像の作例としては観音と勢至を従えた三尊形式も多く鎌倉浄土寺の阿弥陀三尊像が有名。

他、変わった作例としては京都禅林寺の見返り阿弥陀像などがあり、とにかく作例が多いだけに特徴的な仏像も多数である。


種字

■キリーク

真言

■オンアミリタテイゼイカラウン

豆知識

仏教の広がりと共に元々は仏教用語であったものが一般的な用語や諺になったりしているが、特に阿弥陀仏に関わる言葉が多い事で知られる。

■他力本願
本来は前述の様に「阿弥陀の力を借りて往生を目指す」事を指す。
転じて、単に「他人任せ」の意味で使われる様になった。

■あみだくじ
元々は放射状に広がる形をしていた事から、阿弥陀仏の光背に準えてこう呼ばれる様になった。

■十八番(おはこ)
前述の様に阿弥陀の四十八の誓願の内、一八番目の誓願が重要とされた事から、転じて「得意とする事」を指す言葉となった。(ただし「十八番」の語源に関しては團十郎一族が得意とした歌舞伎の荒事の演目の数に由来するという説、武士が嗜むべきとされた「武芸十八般」に由来するという説など諸説ある。また、「十八番」と書いて「おはこ」と読むようになったのは江戸時代の戯作者「柳亭種彦」が書いた「正本製」が初出である。)





追記修正は南無阿弥陀仏と唱えながらお願いします。


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