藤子・F・不二雄

登録日:2015/09/28 Mon 19:20:00
更新日:2024/04/15 Mon 16:13:12
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「ぼくは、とても楽しく『ドラえもん』をかきました」


藤子・F・不二雄(1933年12月1日~1996年9月23日)とは、日本を代表する漫画家の一人である。
本名は藤本(ふじもと)(ひろし)富山県高岡市出身。
ベレー帽に長身、パイプを銜えた自画像でおなじみ。

●目次

【経歴】

小学生の頃、同じ富山の氷見市から引っ越してきた安孫子素雄(後の藤子不二雄A)と共に漫画を描いて遊ぶが、
終戦後の中学2年の時に手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け、二人で本格的に漫画家を志すようになる。
この頃に、全て手書きのパロディ雑誌『少太陽』を制作したり、漫画雑誌へ投稿したりと同人活動にせいを出し、自作の反射幻燈器に使う漫画『天空魔』を二人で描いたのが初めての合作となる。

1951年には『毎日小学生新聞』に投稿した4コマ漫画『天使の玉ちゃん』が掲載され、事実上のデビュー作となる。
同年に、二人で書いた『ベン・ハー』のコミカライズを引っ提げ、憧れの手塚治虫氏の自宅へ突撃し、奇跡の面会を果たす。

後に安孫子氏は「(手塚氏が)あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」と当時の衝撃を語っているが、彼の方も「とんでもない子達が現れた……」とその漫画の質に驚いたという。
その後、手塚治虫にあやかりコンビ名を「手塚不二雄」に決めるも、あまりに露骨なため「手塚の足にも及ばない」として「足塚不二雄」に改名する。

1952年には高校を卒業し、それぞれ別の会社に就職。
しかし藤本氏は間もなく製菓会社の機械で指を潰す怪我をし、「機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう」と思い数日で退社
足塚不二雄として初の連載である『四万年漂流』を開始するも、数回で打ち切られる。
その後、初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』が出版され、これは後に日本で最も稀少価値の高い漫画本として知られることになる(しかし、ある出版社に難癖をつけられてからは作品の売り込みはしなくなった)。

1954年に藤本氏が安孫子氏を誘う形で上京。
コンビ名を二人の名字から一文字ずつ取って「藤子不二雄」へと改名し、この頃描いた読み切りから使うようになる。
やがて手塚氏がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の2人は彼がいた部屋に入れ違いで入居。
敷金を肩代わりして貰ったり、使っていた机を譲り受けたりと手塚氏からは目をかけて貰っていた。

……しかし、1955年に仕事を抱え過ぎた事と、正月ボケの悪化により連載作および別冊付録等の原稿をほとんど落とすという前代未聞の大失態を起こしてしまう。
雑誌社から干されて漫画家廃業やトキワ荘からの退去も考えるが、トキワ荘での兄貴分である寺田ヒロオ氏の勧めもありトキワ荘に復帰。その後、約一年かけて信用を取り戻していくことになる。

1961年にトキワ荘を出て以降、『オバケのQ太郎』を筆頭に、藤本氏が書いた『パーマン』・『ウメ星デンカ』、安孫子氏が書いた『忍者ハットリくん』・『怪物くん』と立て続けに大ヒットを起こす。
なお『オバQ』の少し前からコンビ揃って神奈川県川崎市に引っ越しており(家はご近所だがそれぞれ別である。念のため)、以降終生の住処となった。
しかし、1960年代からの劇画ブームにより、安孫子氏は『黒イせぇるすまん』をはじめとする大人向けのブラックな漫画を得意とするようになっていたが、これにより児童漫画を得意とする藤本氏との作風の溝が生じることになる。
また『オバQ』の頃から双方の絵柄*1にも明確な差異が生じ、同じ児童漫画でも『パーマン』以降は「合作」形式の作品が急激に減少していった。

1980年代には『ドラえもん』の大ヒットにより藤子不二雄原作のアニメブームが起きるも、
その頃には二人で合作をすることはなく、それぞれの作品に専念するようになっていた。
この事はコンビ解消までは伏せられており、貰った給料も二人で折半し、自分の手掛けていない作品についても取材を受けたりしていたという。
その為『ドラえもん』の『見えなくなる目薬』やA作品の『夢トンネル』冒頭等では2人セットの「作者」として登場していた。

1987年に、自分達の死後に遺族が著作権や印税の取り分で争うことがないようにとの理由で、藤子不二雄の解散を発表。
喧嘩別れではないため、それ以降でも隣同士の部屋を仕事場とするなど、親友としての付き合いは続いていくこととなる。
ちなみに、手塚氏は藤子不二雄のことを「上京してから持って半年」だと思っていたという。

当初は「藤子不二雄F」として活動していたが、
ミドルネームみたいでかっこいいじゃないか」という石ノ森章太郎氏のアドバイスにより1年余りで「藤子・F・不二雄」へと改名。

大長編『ドラえもん』を通しての映画制作などを中心に活動していたが、若い頃の無茶(当時死の病であった結核気合いでなんとかするなど)が祟ってか、胃癌や肝臓癌を患うようになる。

そして1996年9月20日、机に向かったまま意識を失っているところを次女に発見され病院に搬送されるも、意識が回復することなく3日後の9月23日午前2時10分にその生涯を閉じる。享年62歳。

発見されたときは『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の62頁目を描いている途中で、鉛筆を握ったまま眠っている様だったという。
先が長くないことは自覚していたらしく、同作の大筋を監督の芝山努に教えていたり、死後の自身の作品の行方や、藤子プロの活動などに対して心配を寄せている内容を書いた手紙を残したりしていた。


【人物】

子供のころ、ぼくはのび太でした」 とは本人の弁で、ジャイアンのようなタイプであった安孫子氏(実際はそこまでではない)とは正反対だったという。
大人になってもそれは変わらず、業界外にも数多くの親交がありテレビ出演やエッセイ活動のあった安孫子氏とは対照的に、生涯を漫画執筆に捧げていた。

ユーモア溢れる性格で、トキワ荘時代には多くの悪戯を仕掛けたり、打ち上げでのゴルフ大会でOBを出してしまった際は「いい子だから出ておいでー」と茂みに声をかけて周囲を笑わせたりといったエピソードがある。

漫画家として子供の夢を壊さないように配慮を欠かす事もなく、ファンから「ドラえもんはどこにいるの?」と尋ねられた際は「今テレビ局にいるんだよ」と返している。
人によっては逆に夢を壊されるかもしれないが。
心の師である手塚氏とは対照的に、自分の家庭を大切にして、どんなに激務であっても毎朝家族そろって朝食をとり、娘の運動会や発表会があれば必ず足を運び、必ず日曜日には家族で食事をしていたという。

『ドラえもん』で有名だが、それゆえに同作以降の連載では『ドラえもん』の二番煎じになって自ら短期で打ち切ったり、
逆に他の作品の構想があったとしてもどの出版社からも『ドラえもん』を求められたりした。
しかも同作の連載だけは終わらせてもらえず、毎年の大長編のアイディアに苦心していた。
この辺りは「全く別の企画を立てても、結局構造がいつの間にか『ドラえもん』になってしまう」
「『ドラえもん』を描き切ったなんて一度も思っていない」という
自身の創作能力・思想に対する疑問、レパートリーの限界を匂わせた複雑な心境を吐露した発言を考慮する必要がある。
中編漫画『未来の想い出』では、とある事情で自分の未来の記憶を手に入れた漫画家が『ドラえもん』以上の更なるヒット作の構想を若いうちから練っておく描写がある……という点は、そんな経験の投影だろうか。

ジオラマやプラモデル、カメラなどのホビー全般を趣味にしており、今で言うこちら側の人。
『ドラえもん』のスネ夫の従兄弟・スネ吉兄さん登場回に代表されるようなマニアックな制作シーンを描くなど「分かる奴だけついて来い」と言わんばかりに作品へと反映させている。
落語も趣味の一つで、作品執筆時に大音量で聞いていたとか。実際彼の作品には落語の話を元にした作品が幾つも存在する。

また、恐竜にも造詣が深く、仕事机に化石を置いていたり、アシスタント*2翼竜のイラストを一瞥して即座に「腕の関節がおかしい!」と指摘したりしたこともあるという。

手塚氏からの影響で映画好きでもあり、自ら8mmカメラを買いトキワ荘メンバーで西部劇を撮影したり、日本でいち早く『スター・ウォーズ』のパロディをやっている。
他にも安孫子氏と同じくゴルフをたしなんでいたが、のび太の野球と同じく「下手の横好き」で、とある作品では「藤木・F・不二雄の方が下手だぞ!」とメタ発言めいた自虐ネタにしているほど。

日本一の手塚ファンとしても有名で、少年の頃から手塚作品の初版本を全て買い集めては周囲に薦め、期待通りに相手が面白がってくれないと「こいつ鈍いんじゃないのか」と不満だったという。
どう見ても作品を誰かに布教するオタクのすがたである。
中学卒業時には、冒頭で述べたように安孫子氏と手塚治虫宅に訪問するほどだった。
漫画家として強く尊敬するあまり、ファンレターの返事を生涯大事に保管し続け、手塚氏を批判した編集者を出禁にしたこともあったという。強火手塚治虫推し……?

お湯をかけるだけで食べられるのが魔法のようだからだという理由で、インスタントラーメンを好物にしており、一方で若い頃の徹夜のお供であったためフランスパンが苦手だったという。

自身の作品のアニメでは『キテレツ大百科』のファンで毎週見ていると公言していた。
なお、野々花みよ子の声優が荘真由美から本多知恵子に代わった際は二人の声質が似ていたので、藤子もしばらく変わったことに気づかなかった。

『ドラえもん』のジャイ子(ジャイアンの妹)があだ名のままで本名が明かされなかったのは、ジャイ子の本名を明かすと同じ名前の女の子が学校でいじめられるかもしれないと配慮したためである。
これは藤子の死後、2006年2月19日放送のテレビ朝日系『〜ドラえもん誕生物語 藤子・F・不二雄からの手紙〜』にて関係者が告白したことにより初めて明らかになったもので、それまでは「藤子は『(ジャイ子の本名は)そのうち漫画の中で書きますよ』と答えていたが、結局書かれることがなかっただけ」と説明されていた。

スネ夫の弟スネツグは連載初期には登場させていたものの、次第に藤子がスネツグの存在を忘れてしまいスネ夫は一人っ子と設定された。
苦肉の策として、スネ夫に弟はいるが養子に出されアメリカで暮らしているというエピソードが描かれている。

ガチャ子がフェ―ドアウトした理由は「ガチャ子がいると焦点が分裂して違う漫画になってしまう。ガチャ子はいなかったことになりました」と後に語り、藤子自ら存在を抹消している。


【作風】

三菱ユニのB鉛筆とゼブラのかぶらペンを愛用し、不必要な線を排除した、シンプルな画面構成となっている。
単行本化の際は加筆修正やコマの追加を行うことが多く、特に『ドラえもん』では収録回の厳選まで行ったため、一時期は三桁の未収録回が存在していた
登場する女の子には強いこだわりがあり、単行本では加筆修正を何重にも行い、『ドラえもん』のアニメ化の際もしずかちゃんの作画には注文が多かったという。

SFを「S(すこし)F(不思議)」と解釈し、『ドラえもん』のような非日常が存在する日常を描いた作品が多い。

児童漫画ではレギュラーメンバーを

という顔ぶれにするのがお約束。
ただし『キテレツ大百科』では少年のほうがメインでマスコット枠のキャラクターはその相棒、『パーマン』では主人公の日常にマスコット枠がいないなど、完全に固定されているわけではない。

一方で、少しどころでないレベルのハードSFな作品も少なくなく、藤子不二雄時代の読み切り群『SF短編』では、相棒に負けず劣らずのドス黒い鬱展開が半数を占めている。
強烈な社会風刺としばらくステーキを食べたくなくなる後味の悪さで有名な青年漫画処女作『ミノタウロスの皿』の発表時には、「自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました」と、なかなかダークなコメントを残している。

前述した通り、趣味や流行りモノを作品に取り入れることが多く、
「自分の好きなものをモチーフにする」をモットーに千を超えるひみつ道具を産み出している。
また戦争経験者でもあるため、戦争に関しては虚しいもの、恐るべき物、愚かしい行為と描いたが多いが、兵器自体に関しては格好いいものとして描いている
環境問題に関しても『ドラえもん のび太とアニマル惑星』などの作品で提起しているが、一部では「やり過ぎた」と反省しているものもある。

アニメ化の際は、細かいチェックや要望などは行わなかったが、前述のしずかの件や当初は短編映画の企画であった『ドラえもん のび太の恐竜』を長編にするよう提案するなど、要所要所で重要な判断をしている。

作品内では数多くの名台詞を産み出しているが、本人曰く「文章が苦手」だったそうで、
藤子不二雄時代のエッセイ『二人で少年漫画ばかり描いてきた』ではメインを安孫子氏が執筆し、合間のコラムを藤本氏が執筆している。
また、『ドラえもん』の8誌同時連載(『小学一~六年生』、『てれびくん』、『コロコロコミック』)をこなしたこともあるが(それに加え、同時期に読切も多数描いた)、自他共に認める遅筆だったらしい。

物語に連続性のある長編連載作品に取り掛かる時にも、視覚的な面白さを重視する反面、事前に綿密なプロットを組まずに「ラストシーンをどうするか」をすら決めていない姿勢で臨み、引きの際にいきなり新展開を描く程だった。
その方針のしわ寄せとして「大長編ドラえもん」では、広げた風呂敷を畳むのに毎回苦労していた。
大長編にデウスエクスマキナ登場→決着のパターンが多いのはその名残で、特に『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』における敵を強くし過ぎてドラえもんの勝ち筋が無くなってしまい、後付け設定でちゃぶ台返ししてなんとか収拾を付けたエピソードはあまりにも有名。
ちなみに翌年の『ドラえもん のび太と鉄人兵団』でも同じ失敗をしており、本人的にもあまり満足のいくオチにはならなかった模様。

そして、その短所は制作現場、特に背景美術の製作班に大きく響き、「事前に美術設定・小道具設定を固めるより、先にレイアウト*3を起こして下さい」「予定になかったけどこのシーンを新しく書いてください」という無茶な注文をアニメーションプロデューサーが頭を下げて、お願いしたという…。
アニメーション方面での長年の相棒だった芝山努監督でさえ、「月刊連載で全5回だったら、4回目までが映画の前半で、最終回がやっと後半でテンポが急に早くなる」と批判し、せめてもの抵抗として、ない時間を割いて美術設定を盛っていた。

【代表作】

  • 天使の玉ちゃん(1951年~1952年)※合作
  • UTOPIA 最後の世界大戦(1953年)※合作
  • 海の王子(1958年~1961年)※合作
  • てぶくろてっちゃん(1960年~1963年、1966年)
  • すすめロボケット(1962年~1965年)
  • とびだせミクロ(1963年~1965年)
  • オバケのQ太郎(1964年~1967年、1971年~1973年)※初期は合作・アニメ化
  • パーマン(1966年~1968年、1983年~1986年) ※アニメ化
  • チンタラ神ちゃん(1967年)※合作
  • 21エモン(1968年~1969年) ※アニメ化
  • ベラボー(1968年~1969年)
  • ウメ星デンカ(1968年~1970年) ※アニメ化
  • モジャ公(1969年~1970年) ※アニメ化
  • SF・異色短編(1969年~1995年) ※一部作品が舞台・アニメ・ドラマ化
  • ドラえもん(1970年~1996年) ※アニメ・舞台化
  • ポコニャン(1970年~1978年) ※アニメ化
  • ドビンソン漂流記(1971年~1972年)
  • 仙べえ(1971年~1972年)※合作
  • ジャングル黒べえ(1973年~1974年) ※アニメ化
  • パジャママン(1973年~1974年)
  • キテレツ大百科(1974年~1977年) ※アニメ・ドラマ化
  • みきおとミキオ(1974年~1975年)
  • モッコロくん(1974年~1975年)
  • バケルくん(1974年~1976年、1984年) ※『月曜ドラマランド』枠でSPドラマ化
  • バウバウ大臣(1976年)
  • Uボー(1976年~1979年)
  • エスパー魔美(1977年~1983年) ※アニメ・ドラマ化
  • 中年スーパーマン左江内氏(1977年~1978年) ※ドラマ化
  • T・Pぼん(1978年~1986年) ※アニメ化
  • ミラ・クル・1(1979年)
  • 大長編ドラえもん(1980年~1996年)
  • 宙ポコ(1983年)
  • 宙犬トッピ(1984年)
  • チンプイ(1985年~1991年) ※アニメ化
  • 未来の想い出 (1991年) ※実写映画化


◆SF・異色短編

ここでは本ウィキに項目があるもの・及び各種他メディア化されたものを紹介する。
●OVA『藤子・F・不二雄のSF短編シアター』

●SPドラマ『藤子・F・不二雄のパラレル・スペース』

●『劇団21世紀FOX』で舞台の原作・原案になったもの
  • オヤジ・ロック、コロリころげた木の根っ子、三万三千平米、定年退食、あのバカは荒野を目指す、夢カメラ(『ヨドバ氏シリーズ』の一作) 、カンビュセスの籤、流血鬼(1989年『藤子・F・不二雄のSUKOSHI FUSHIGI もの語り』):但し「オヤジ・ロック」・「定年退食」・「夢カメラ」は一部設定のみ登場し、他も舞台に合わせて改変されていた。
  • みどりの守り神、老年期の終わり等(1994年『SUKOSHI FUSHIGI もの語り・Ⅱ〜あたらしき 緑の日々〜』)
  • 光陰間引き、宇宙人、カンビュセスの籤(2001年『2001ー』)
  • 殺され屋、イヤなイヤなイヤな奴、アン子 大いに怒る、ノスタル爺、あのバカは荒野を目指す、流血鬼(2001年『デュナミス・ボックス』 但し再現ではなく各種要素をミックスした原案的扱い)
  • 休日のガンマン、定年退食、気楽に殺ろうよ、幸運児(2002年『F・f・ーエフー』

●『週刊ストーリーランド』でアニメ化
  • 絶滅の島
  • 流血鬼

●『月曜ドラマランド』枠で実写化
  • 夢カメラ
  • アン子 大いに怒る(旧題:赤毛のアン子)

●その他実写化・アニメ化
  • 世界名作童話(テレビ朝日版ドラえもんで1993年に制作された番外編「ドラえもんめいさく劇場」にて。アニメ化原作に採用されたのは「ジャックと豆の木」パート)
  • 山寺グラフィティ(『学校の怪談』内のドラマ「逢いたい」の原作)
  • 未来ドロボウ(世にも奇妙な物語)
  • 宇宙からのオトシダマ(藤子・F・不二雄ミュージアム内での上映作品。但しキャラの殆どは『ドラえもん』キャラに置き換えられている)

●その他


【余談】

神奈川県川崎市多摩区には、藤子不二雄にまつわるものを展示した藤子・F・不二雄ミュージアムがある。


追記・修正は藤子・F・不二雄大全集を揃えてから。


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最終更新:2024年04月15日 16:13

*1 主に表現の仕方が大きく異なり、藤本氏よりも安孫子氏のほうが毒っ気のあるリアクションを多用する傾向にあった。同じキャラ同じ表情という条件で描いた場合はそこまで差がない。

*2 『ドラベース』等の著者むぎわらしんたろう氏

*3 カット毎の場面設計のこと。当時の(少なくとも1997年までの)「大長編ドラえもん」の制作現場の状況を漫画家のスタジオで例えると、「効果線・エフェクト等が描けても、背景が描けるかどうかわからない漫画家のアシスタントに背景を頼む」レベルの暴挙である…。