赤壁の戦い

登録日:2010/03/13 Sat 21:53:56
更新日:2024/03/04 Mon 10:30:56
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赤壁の戦いとは208年に、現在の湖北省赤壁において曹操軍と孫権劉備連合軍との間に起こった戦いで、官渡の戦いを超える三国志史上最も有名な戦い。

経緯

事の発端は7月の曹操軍の南征から始まる。
目標は荊州を治めていた劉表及びその庇護下の劉備であったが、
劉表は曹操の到達前に病死、彼の息子はすぐさま降伏し、劉備は長坂にて必死の逃避行の末、魯粛と会見し、夏口に布陣。

孫権陣営は当初帰順しようという意見が多数であったが、周瑜と魯粛が説き伏せ、孫権の決断の後、
劉備の使者である諸葛亮との間に同盟を結ぶ。

曹操軍もおよそ十五万とされる兵と荊州で得た水軍を率い、長江を下ってゆく。


戦闘

両軍は赤壁にて激突、緒戦は疫病に苦しむ曹操軍が敗北する。曹操軍は後退し烏林に布陣。

両軍は睨み合いを続けたが、曹操軍の船と船が密着していることに気づいた黄蓋が偽降の計を用い、
自らが降伏するように見せかけ、その間隙をついて火を放ち、散々に打ち破ることに成功する。
陣営まで火は届き、大量の人や馬が焼死及び溺死する。

曹操軍は這々の体で敗走し、周瑜と劉備は曹操軍を追撃、孫権も合肥を伺うが、合肥を救援に向かった蒋済の計により、孫権は包囲を解いて本拠に戻る。

それでも追撃の手は南郡まで及び、江陵を守備する曹仁と周瑜、劉備の軍は対峙。

夷陵を甘寧が数百で奪取したり、曹仁がそれに五千近くの兵を送ったり、周瑜が自ら甘寧を救援したりして夷陵を支配下に置く。

その後周瑜は曹仁の副将の牛金を包囲するが、曹仁がなんと数十名でこの包囲網を撃破し牛金を救出、
更に周瑜に矢傷を負わせるが、ついに包囲されてしまい、補給路の北道も関羽に封鎖されてしまう。

必死に堅守する曹仁だったが既に戦闘開始から一年が経過していた故に疲弊・困窮してしまったが、
誰かが封鎖していた筈の北道から李通の救援軍が包囲網を破ったため、曹仁はなんとか江陵から脱出出来た。

そのまま周瑜は南郡を、劉備は荊州南部四郡を平定することに成功。

これで一通り赤壁から起こった一連の戦は一応の決着を見る。

所で、諸葛亮の名前がほとんど出なかった事が気になった人が居るだろうが、
正史にて明らかになっている彼の動向は「劉備と孫権の同盟を取り付けた」ぐらいであり、史書の彼の伝では赤壁について「曹操は赤壁にて敗北し、兵を引いた」としか書かれて居ないのである。

つまりは赤壁戦時における孔明の動向は現実では空白になっているがため、大活躍した…というのは創作以外の何者でもないということになっている。


考察

何故起こったか、であろう。

●何故、曹操は長江を下り、周瑜は長江を遡ったのか
恐らく中国史における大きな謎の一つであろうと考えられる。
曹操の性格、今までの戦歴からして、江陵を落とし荊州を平定し、劉備を追い払った、
これで普通は魏の南征を終結させたはずである。残った孫権らは大した力はなく、後でじわじわ締め付ければそれでよかった。それを、わざわざ大軍を率いて長江を下り孫権討伐をする理由がわからない。

中原と河北を制した曹操の慢心、というのは思考停止以外の何物でもあるまい。

良く言われるのは、戦の発端が曹操の脅迫文であったこと。
しかしこいつの出典は孫呉を賛美する『江表伝』であり、内容が明らかにおかしい為に正史に採用されていないのだが、
他に曹操の侵攻を説明する目処が無いのである。
孫権の項でも触れられているが、ここにも文を載せようと思う。

『近く勅命を奉じ罪人を討つべくして南に軍旗を向けたが、

荊州は抵抗することもなく降伏をした

これより水軍八十万を率いてゆく

呉の地にて孫将軍と共に狩りをしようではないか』

この文章の突っ込み所は四つ。
まず八十万というのは各地の曹操軍全てをかき集めた兵数であり、先ず現実的では無い*1
そもそも荊州攻めには皇帝の勅命を奉じている訳で無いし、当時の孫権の所在地は呉ではない
更にこの文が発され受け取った時から両軍が進発しても、長江赤壁にて衝突しない筈なのである。
が、他に理由とできるものも見つからず、演義を始めとした創作物はこれを脚色し、様々な赤壁像を作り上げている。
そもそも「赤壁の場所」自体が正確に判明しておらず、近年では史実上の存在を疑問視する歴学者もいる始末。


戦の結果

赤壁の戦いの意義として、大きくは3つ。

●孫呉政権が曹操打倒の可能性を見いだす
孫呉は豪族の寄り合い勢力であり、彼らがバラバラであればどうしようも無いのだが、
赤壁での勝利により曹操を倒すということが現実的なものとなり、呉郡豪族が一丸となるきっかけを生み出した。

●劉備が足掛かりとなる土地を得る
曹操の勢いが完全に止まったスキに、劉備は徐州以来であった領土をついに得た。そこが隣接する益州・巴蜀の地を盗る足掛かりとなっていく。

●曹操の中華統一の頓挫
破竹の勢いにて中原と河北を統一し、残すのは僅かと思われた曹操が赤壁で喫した敗北は痛恨の極みであった。
この後も、勢いづいた孫権、劉備の両陣営には濡須口や漢中にて苦しめられることになり、ついに曹操一代では天下に手が届かなくなってしまった。


上記三点から、三国志の帰趨を大きく分けた戦いであるのは間違い無い、と思われる。


追記、修正宜しくお願いします。

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最終更新:2024年03月04日 10:30

*1 まあ兵数を大幅に水増しして号するのは今も昔も洋の東西を問わず行われていることではあるが