レオポルド二世(ベルギー王)

登録日:2015/04/04 (土) 23:20:49
更新日:2023/12/27 Wed 21:47:37
所要時間:約 9 分で読めます




レオポルド二世とはベルギー王国二代目国王。
英仏独(普)が激しく覇権を競った19世紀末~20世紀初頭において、アフリカ奥地の資源豊富なコンゴを獲得しながら、
評判は最悪どころのものではないものになっているお方。

生い立ち

1835年4月、オランダと袂を分かち生まれた*1ばかりベルギー王国の王都ブリュッセルにおいて生を受ける。
なお生まれこそベルギーだが、
  • 父はベルギー政府から請われて即位したドイツ地方「ザクセン=コーブルク公国」の公子
  • 母はフランス国王ルイ・フィリップの娘
…というわけで、厳密な意味での「ベルギー人」*2ではない。
まあヨーロッパの王位は「血統の格」も重視されるのでドイツ諸侯を招くのは意外とよくあることだったりする。*3

本来次男であったが、兄ルイ=フィリップの夭折により、生まれながらにして王太子となった。
9歳になるとブラバント公(イギリスでいうところのプリンス・オブ・ウェールズ)に任じられ、順調に王太子としての立場を固めていく。

1853年にオーストリア・ハンガリー二重帝国副王の娘であるマリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚。
1855年には上院議員として政界進出を開始。順調に次代の王として成長していった。
そして、ある野望を抱くに至るのであった。

絶対植民地獲得するマン誕生

今でこそ「ベルギー? あのチョコレートしかない国?」「19世紀あたりはドイツの道路的存在でしょ?」などと言われることも多いベルギー。
しかし独立手前の1820年代に産業革命を迎えたことに加え、初代ベルギー王レオポルド一世は立憲君主を超えたカリスマ的指導力を元に近代化を進めたことで、1836年には列強に先駆け鉄道の敷設を果たすなど、一小国に過ぎる程の経済力を得ていた。ここでも「道路」なのである
しかし悲しいかな、やはり生まれて日も浅いうえに基本的な国土面積と人口面で列強からは遠く離れた小国と言わざるを得なかった。
上院議員となるころから、レオポルド王太子はそんな祖国を列強に比肩しうる大国にすべく、植民地の獲得を志していた。
隣国、いやかつての宗主国オランダ*4がジャワのコーヒー豆*5で大フィーバー状態となっていたのを見れば尚の事その思いは強くなったことであろう。

早速中近東・アフリカ・清を物色に回るなど、欲望丸出しで外遊を敢行。帰国後には上院で演説をぶち植民地獲得の必要性を説いて回った。
しかしベルギーの議員の皆さんは反応が非常に鈍かった。

議員Aさん「いや…現国王がハワイ*6とグアテマラ*7でやらかしたばっかりですし…」
議員Bさん「国庫もそこまで余裕はないですし、儲けが出るような土地はみんな取られてるじゃないですか!」

実にごもっともである。
しかしレオポルド王太子は諦めない。

「良い条件なんて待ってたらいつまでも大国になれないだろ!?今こそ動き出そうぜ!」
「さしあたっては清とか日本*8がいいんじゃないかな、連中を搾取するのは可哀想かもしれないけど、僕達はあの地域の救いだと思う」

など、十数年に渡り訴え続けた。1865年に父レオポルド一世が崩御しレオポルド二世として即位した後も植民地探しに奔走。
フィリピン・モザンビーク・ボルネオ・清・モロッコ・エチオピアなど手当たり次第に手を出したが、

英「(道路に上等な植民地は)与えられねーわ」
仏「あーげないwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
葡「お断りします」
西「バーカ!」

すでに付近に権益を持っていたり、先に手を付けていた列強に防がれたのであった。それでも諦め切れない彼は中部アフリカの奥地・コンゴに可能性を見出していた。
豊富な金やダイヤ、ゴムや象牙などの資源を持つと言われながら、鬱蒼としたジャングルが結果として植民地支配から守ってきた秘境である。
ここを何としても獲得すべく、私的機関をぶちあげて獲得に奔走した。
そして1879年、イギリスに援助を蹴られた探検家のスタンレーを雇い、現地の部族と独占的貿易条約を結ぶことに成功したが、
コンゴ川河口部に利権を持つポルトガルが領有の動きに異を唱えるとイギリスが同調、しかしベルギーの側にはビスマルク率いるドイツと、
英仏分断戦略のもとドイツが味方につけたフランスがつき、例によって列強による外交戦争の様相を呈し始めた。
そして1884年。コンゴ問題が深刻化したために開催されたベルリン会議において、
「門戸開放で自由に貿易をさせる」「中立性を持たせ、どこにも偏った肩入れをさせない」ことを条件にレオポルド二世がコンゴを獲得することになった。大願成就の瞬間である。

コンゴ自由国(自由とは言っていない)

さて、こうして獲得した「コンゴ自由国*9」。この植民地は正確に言うとベルギー領ではなかった。
ベルギー議会は国王に対し相も変わらず冷ややかであり、「併合したくねぇッス」「国庫からお金はびた一文出しませんよ」と統治にやる気がなく、
レオポルド二世が私財を投じて統治するほか無く、国庫出動を諦めた。つまり彼個人の私領であった。
この私領というところが、勘違いをさせてしまったのだろうか…

当初は各国より投資を募り、レオポルド二世自身も私財を投げ打ち、生活を切り詰める程に投資した。
そうして、鉄道インフラを整え他の植民地からの攻撃を防ぐべく要塞を作り、アラブ系の奴隷商人対策を強化し徹底して取り締まった。
どこがダメな統治なんだろう、当時としては普通じゃない?と思われたかもしれない。
しかし、生活を切り詰めてまでインフラ投資したのは「利益」のためである。
すぐに、凄惨な利潤追求が始まることとなった…。

1891・92年に連続で勅令を発し、利益率の高い天然ゴム・象牙採取をレオポルド二世の専業とした。
そして苛烈なノルマを課した結果、コンゴのゴム生産量は1893年に250トンだったのが1901年には6000トンにまで跳ね上がった。
30倍弱の急増であり、新素材として需要が高くなっていた天然ゴムをバンバン売り捌き、レオポルド二世は大きな利益を得た。
しかし、その影で犠牲になったのはもちろんコンゴに住まう黒人たちであった。
苛烈なノルマが達成できない場合、レオポルド二世の率いる私兵である公安軍*10労働者の手足を切り落とすなど、
「おまえコンキスタドールかよォ!?」「松倉勝家が改心して天草四郎に土下座するレベル」とツッコミを入れたくもなる中近世頃の植民地支配が展開された。
当時の他の植民地も確かに現代から比べたら苛斂誅求を強いていたし、過酷な労働を課していたのは間違いないが、
この頃には宗主国の下層労働者とそこまで差のないくらいに改善された地域も少なくなかったし、刑罰でも手足を切るなんてことはしていなかった。

20世紀にもなってコンキスタドールもかくやという統治をしていれば露見もするし周辺国の反発も招く。
「ベルギーがコンゴで悪政を働いている」という情報は少しずつヨーロッパ各国に広まってゆき
まさかこんな絵に描いたような暴政をやっているのか? と疑問に思ったイギリスが、コンゴのイギリス領事館に依頼して調べさせたところ全部本当だった。
イギリスなどはタイムズ紙や下院を使い猛烈な非難を浴びせ、フランスやドイツのほかアメリカも猛抗議。
無論、あわよくばコンゴを奪い取るという意志もあっただろうが、イギリスなどがこんなキャンペーンを張ったのは、

英「こんな経営じゃ南米の二の舞になっちゃうだろ!いい加減にしろ!責任を取ろうとしないベルギー政府もNG」
資本家「こんなんじゃ俺、資金を出したくなくなっちゃうよ…もっと合理的な経営法がありますよ!レオポルドさん!」

というように、中近世並の残虐でひたすら毟り取るしか能が無いレオポルド二世の経営を、生かさず殺さず程よく〆て絞り、時には譲歩し懐柔するなど、
きちんと管理監督していく近代型の植民地経営に切り替えさせ、王の私領ということで口を出さずにいるベルギー政府に責任をもって統治させることが主眼であった。
無論、あのイギリスが他国の失策につけこんで奪い取ろうとする意図が皆無だったとは思えないが、
セシル・ローズが大幅に拡張したローデシア(ザンビア・ジンバブエ付近)のような直近の自国植民地に不安を与えるような真似をさせない方を優先したというのも一応説得力はある。
また英国王室とベルギー王室が親戚*11だったためその縁もあったのだろう。


しかしレオポルド二世はもちろん、経営にやる気のなかったベルギー政府や国民もこぞってイギリスに猛反発するという事態になった。
「ボーア人*12から奪ったように奪おうとしているな!」「汚いなさすがイギリスきたない」といった論調が主流を占めた。
当時はボーア戦争が終わり、トランスヴァール共和国やオレンジ自由国といったボーア人国家がイギリスのケープ植民地に吸収されて間もない頃であったので、
この反応はレオポルド二世のやらかしをもってしても当たり前の反応ではあった。

多数の国際的な非難とイギリスの自業自得ともいえる風評に対する不信感を受けつつも、そこまで王様が悪辣なことをやっているわけがなかろうと考えていたベルギー政府と国民。
じゃあ本当かどうか調べて白黒つけてやろうじゃねえか!! とベルギー政府が調査団を派遣し確かめたら、やっぱり全部本当だったという地獄のような結果に。
これには政府も国民もまとめて絶句。ついに国内からも猛烈な批判の声が出始める。


さすがのレオポルド二世も貴族を使ってお手盛りの「現状調査」を行い、部族民にある程度の権利を与える動きにつながるなど、
一時の酷い状況よりは改善したかに見えたが、非難は止まなかったため、
たまらずベルギー政府はコンゴ自由国の統治改善が出来ないなら政府に譲渡するように迫ったものの、レオポルド二世は無論のごとく拒絶した。
国庫から一銭も出さず、ある程度は利益を吸いながら都合が悪くなったらよこせと言われれば当然の反応ではある。
コンゴでやったことを度外視すればだが。
結局議会は止まぬ非難を食い止めるべく、1908年にコンゴ併合を決議。
立憲君主国においてこれ以上議会と争えば最悪廃位まで行ってしまうのでレオポルド二世はついに所有を断念した。
こうしてコンゴ自由国はベルギー領コンゴとなり、残虐刑は禁止となるなど当時の植民地経営としては割と普通の統治となった。
レオポルド二世の所有が始まった時は3000万の人口を誇ったにもかかわらず、一番ひどい時は900万にまで激減するほどの苛烈な統治の時代は終わったのである。

…ところがどっこい、このベルギー政府も黒人への差別的待遇は相変わらずで、積もり積もった不満が爆発する形で1960年にコンゴは独立。
この際にベルギー政府は甘い見通しや独立運動の激しさから拙劣極まる対応をやってしまい、さらに深まったコンゴの混迷は「コンゴ動乱」と呼ばれたが、それはまた別の話。

晩年

コンゴを失ったレオポルド二世であったが、その前から私生活の方もめちゃくちゃであった。
国民はもちろん、家族も残虐な統治で家名を地に落とした彼を忌み嫌った。
そのためか、跡継ぎが夭折し男子が居ないところによりにもよって愛人を作って男の私生児*13を二人設けるなど爛れた生活を送った。
もちろん、地に落ちた名声は更に深い底に沈んでいった。
1909年、腸閉塞で危篤となった彼は病床に司祭を呼びつけて愛人との結婚式を強行。その数日後に崩御。
もちろんこの結婚は無効となり、愛人とその子供は王宮より叩き出された。
跡を継いだのは甥っ子のアルベール一世であった。

レオポルド二世は葬儀については簡略に済ませるようにと残していたが、「甥っ子で相続したのにそこ適当だと後で何言われるかわかんないし、派手に国葬やろう…」
とアルベール一世は気遣いから盛大な国葬を執り行ったが、これはレオポルド二世の尊厳を考えると完全に裏目であった。
国民は葬列に猛烈なブーイングを浴びせ、一説によると棺にはツバを吐きかけられたという。

ベルギーを列強にしたいと希ったの当時の情勢を鑑みれば間違いではなかったものの、やり方が非常に不味かったがために人心の離反を招き、
自身も名声や評判をひたすら損なう行動をするという負のスパイラルに陥ってしまった。

とはいえ、悲しいどころか己の野心で暴走して国益を損ねた時点で、駄目君主の烙印は甘んじて受けるべきであるし、一切同情できる余地はない。

没後~現在

その後、コンゴの首都はレオポルドウィル(現在のキンシャサ)と名付けられるなど彼の悪評はベルギー本国では風化していった。

が、第二次世界大戦後、ボードゥアン1世はコンゴ独立の際の演説で彼をたたえる演説を行った結果、独立指導者のひとり、ルムンバの憤激を買い早々にベルギーに戻る羽目になるなど、子孫にまで迷惑をかけることとなった(なお、真偽は不明だがサーベルまで盗まれたらしい)。

このように、彼の存在は後々までコンゴとベルギーの関係に暗い影を落としている。
なお、2005年にはコンゴの首都キンシャサでレオポルド2世の銅像が建てられたが、一日で撤去されるという珍事が起きている。


余談

人格面では残虐行為を嫌う優しさを持った人間ではあった。
残虐な統治で大いに悪名を高めたものの、それ自体は不本意だったようで現地の監督官らには残虐行為をやめるよう度々働きかけはしていたようである。
なお、天然ゴム生産ノルマは特に変えたりしなかったので結局現地の監督官は前述の通りの残虐行為を働き労働者を死ぬまで酷使した。
ゆっくり働かせてノルマ達成出来なければ自身が罰せられるのだから当たり前の話である。
そしてそのことは決して認めない、ナイーブで貴族然とした「優しさ」に留まったのが悪名を高める結果となった。

また健康にこだわりを持っており、雨の日に髭を濡らさないよう仕舞うカバーを作らせていたり、
病人の接近を嫌い、側仕えの者が風邪を引いた場合治るまで出仕させないなどしていたという。
そのため、側仕えの者たちは仮病を使ってサボっていたりしたとか。誰だってそーする?

妹にシャルロッテ・フォン・ベルギエン、またの名をメキシコ皇后カルロータがいる。
メキシコ保守派とナポレオン三世の意向で皇帝となったマクシミリアーノ一世の妻であったが、
ナポレオン三世に見捨てられたマクシミリアーノがメキシコで苦境となり、助けを求めて欧州を回るが尽く断られて精神を病み
マクシミリアーノがメキシコ自由主義軍により処刑されたことを知ると完全に狂い、夫の死を認めずマックスと名付けた人形と寝食を共にするなど狂人として人生を終えてしまった。

彼は正妻との間に一男三女(但し息子は早逝)、前述の通り愛人との間に二男の子供を設けた。
だが長女ルイーズはあっさり夫を見限り駆け落ちし放蕩人生を過ごし、次女ステファニーは夫が若い女と謎の死を遂げ(映画『うたかたの恋』の原作)父と財産や再婚相手の件で揉めたりし、三女クレマンティーヌはナポレオンの親戚と結ばれるも父に死ぬまで結婚を認めてもらえずといずれも苦労の人生を送っている。

またこれは蛇足だが、レオポルド二世の又甥(アルベール一世の息子)であるレオポルド三世は、WW2時の対応への評価により国民間の争いを招き退位するという不運に遭遇している。

なお、ものすごく意外だが『ターザン』の原作小説第1巻に名前だけ登場しており、よく読むと物語に間接的にだが大きく関与している人物だったりする。
(以下のページ出典は厚木淳訳の創元文庫版のもの)
  • ターザン18歳の時(1906年前後)、前人未到だったジャングルに東の方から黒人たちが来て、ターザンの育ての親のカーラ(大猿)がこの部族の狩人に殺されてしまう。
    彼らはP104~106やP276の説明によると、コンゴ自由国で白人将校にこき使われたので反乱を起こし、一度は勝つが援軍に鎮圧されそうになり前人未到のこの地まで逃げる羽目になったそうなので、過酷な支配の余波にターザンたちも巻き込まれたことになる。
  • さらにターザンの実父グレイストーク卿は「『ヨーロッパの別の強国が原住民を徴用(コンゴ川とその支流のアルウィミ川でゴムと象牙を収奪するのに使用)すると言いつつ実質奴隷として拘束している』という訴えが英国植民地から届いたので1888年調査に向かった。」とP10~12で説明があり、年代や場所を考えるとやはり彼もコンゴ自由国と隣接する英国植民地に向かう予定だったらしい*14

ちなみにP276では「大偽善者ベルギー国王レオポルド2世」と酷いことを書かれているが、実際20世紀初頭の欧米ではこういう批判が数多かった。


追記・修正をお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • ベルギー
  • 国王
  • コンゴ
  • レオポルド二世
  • 王様
  • 帝国主義
  • ターザン
  • 世界史
  • 国辱
  • 黒歴史偉人伝
  • 自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪
  • 検索してはいけない
  • 無能
  • 無能な働き者
  • 搾取
  • 独裁者
  • 虐殺
  • ホロコースト
  • 大偽善者
  • 悪意なき災厄
  • 人間の屑

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年12月27日 21:47

*1 1830年に独立

*2 ベルギーの主な民族構成は「オランダ語圏のフラマン人」・「フランス語圏のワロン人」から成り立ち、ドイツ語圏の住人はかなりの少数派。

*3 他には近代に入りオスマン帝国から独立した比較的新興国家のルーマニアやブルガリアもドイツの名門貴族から国王を招いている

*4 オランダ統治時代のベルギーは政治的にも経済的にも従属的な立場に甘んじていた

*5 「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と言われるバイタリティを活かし、死ぬほど原住民をこき使っていた。この時に生まれたのがジャコウネコのウ●コから作られた高級コーヒー「コピ・ルアク」だったりする。

*6 ラッドアンドカンパニーなる企業と提携し植民地化を目指したが、その会社が資金難に陥ってしまい頓挫

*7 こちらも企業との提携でサントトマス地区を獲得したが、様々な要因から大赤字に陥り撤退

*8 明治維新が違った形で推移した場合、こういう連中の食い物になっていた可能性が高い。様々な問題はあれども維新志士の頑張りが日本を救ったといえる。背筋が寒くなる話である。

*9 ベルギーの公用語であるフランス語での呼び名を和訳するとコンゴ独立国。このコンゴ自由国という名前は英語での呼び名を和訳したもの。英国ならではの諧謔表現を含んだネーミングである。

*10 士官こそ白人であったが、兵卒など実働部隊は西部アフリカの黒人が担当していた。植民地支配の救いの無さである。

*11 レオポルド一世とヴィクトリア女王の母が姉弟でかつ一世の他界した前妻が英国王女、レオポルド二世とヴィクトリア女王夫妻がいとこ

*12 ケープタウン付近を植民地としたオランダ人やそこに移民としてやって来た宗教的マイノリティ・ユグノー、ドイツ系新教徒らが南アフリカで土着化して生まれた民族。後から乗り込んで土地やら利権やらを奪っていったイギリス系とは険悪で、アフリカーナー・ナショナリズムなる概念が生まれたのもこの頃で、これが後のアパルトヘイトにも繋がっていくことになる。黒人からしたら「一方的に故郷を奪い搾取しやがるクソ野郎がテメェの土地みたいなツラして見た目そっくりなクソ野郎といがみ合ってんだ」って話だが。

*13 ちなみに一人は子供のうちに亡くなったが、一人は78歳まで生きたという。

*14 なお、途中で彼はトラブルに巻き込まれ目的地につけずアフリカ西海岸に妻とともに取り残され、そこでターザンが産まれるが1年ほどで両親死亡、その時同時期に子猿を亡くした母猿が赤ん坊を拾い…という流れになっている。