クロアチア独立国

登録日:2014/11/23 (日) 11:54:57
更新日:2024/01/01 Mon 13:53:26
所要時間:約 16 分で読めます




概要


クロアチア独立国(1941~1945)は、現在のクロアチア共和国を中心に存在した国家。

ナチス・ドイツの傀儡国家の代表的存在として悪名高い。


国家建設まで


第一次世界大戦の頃


ヨーロッパの火薬庫』として問題を抱えていたバルカン半島。

ここには様々な諸民族が住んでおり、まぁ何かと問題は多かった。
そこに、20世紀初頭の列強国が手を突っ込んだ結果起きたのがあの第一次世界大戦であることは皆さんご存知だろう。

そしてその第一次世界大戦は、ドイツを中心とした中央同盟国の敗北に終わる。
その中央同盟国側だったオーストリア=ハンガリーは、東欧における領土をほとんど失う。


戦後処理の過程において、ヴェルサイユ体制を築くまでに、この東欧における問題は一刻も早い処理が望まれた。

セルビア王国主導の汎スラヴ主義のもと、コルフ宣言に基づいた南スラヴ人国家の創設が進められた。
セルビア、モンテネグロとともに旧オーストリア=ハンガリー領のスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した連合王国が誕生した。

それが、『セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国』の成立だった。
この国家が後の『ユーゴスラビア王国』へと繋がる。


この国家は、様々な異民族が共存する『多民族国家』としての国家運営がされていくのが理想だった。

だが現実は、いや、バルカン半島は、異民族が共存できるほど甘くは無かった。


ユーゴスラビアの前身国家はセルビア王国である。
なので、政府は主にセルビア人によって運営された。

しかし、ユーゴスラビアはセルビア人以外の多くの民族が住んでいる。
ここにおいて『セルビア人VS非セルビア人』といった単純のように見えて内情は複雑な構図が完成した。
とくにオーストリア=ハンガリー内でドイツ人とマジャール(ハンガリー)人に次ぐ地位を持っていたクロアチア人の反セルビア感情が強かった。

セルビア人の王アレクサンダルは、民族対立によって国家運営が崩壊していることに危機感を抱く。
彼は1929年にクーデターを起こして独裁政権を樹立し、国号も「ユーゴスラビア」と改めた。

その彼も1934年、マルセイユで暗殺されてしまった。
この犯行は、当時クロアチア民族主義者によるものと思われていたが、現在では真相は闇の中である…。

1939年ユーゴ政府は国内の一部(一部とは言っても、その範囲は当時の国土の30%に及ぶ)をクロアチア自治州とする。
この政策で、セルビア人とクロアチア人との対立の収束を図った。

だがこの政策は国内の民族問題に更なる矛盾や対立、怨念を生む。


クロアチア独立国へ


クロアチア民族主義者が自治州を手に入れただけで満足するわけが無かった。

上記でも述べたように、自治州の設立は一層民族対立を煽ったのだ。
そして、クロアチア民族主義者が欲したのは『あくまでユーゴスラビア内の自治州』ではなく『クロアチア人による国家』である。
19世紀前半に起きたイリリア運動(古代ローマに滅ばされた民族・王国名が由来)に影響されており、大クロアチア主義の実現を目指していた。

クロアチア自治州は、あのヒトラー率いるナチス・ドイツとの関係を強化していく。


一方、そのころのユーゴスラビア王国はどうしていたか。

この頃、ユーゴスラビア周辺は不穏な空気に包まれる。
周辺国であるハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが相次いで日独伊三国軍事同盟に加わり、枢軸国となった。

当時、ユーゴスラビアは連合国と強い関係を持つギリシャと友好関係にあった。
しかし、周辺国の状況から、枢軸国による侵攻に備える必要が出る。

1941年3月25日、ユーゴスラビアは日独伊三国軍事同盟に加わり、枢軸国に協力することを約束した。
その一方で、国内ではこの判断に対して強い抗議活動が起こった。

3月27日、政権はイギリスの支援を受けたクーデターによって転覆した。
このことにより、ユーゴスラビアは枢軸国への態度を変化。

新政権は、反ナチスの姿勢を取っていた。
ユーゴスラビア王国は公式には三国同盟に留まるとしながらも、枢軸国への協力の決定を破棄する。しかし、


イギリス「ごめんね…今は君に協力できる状況じゃないんだよ…」

ユーゴスラビア「あのさぁ…」


イギリスは現実的にユーゴスラビアを枢軸国から守れるはずが無かった。
ユーゴスラビアは追い込まれ、1941年4月6日に


ドイツ「俺がじっくり料理してやるわ・・・みんな見とけよ」


ドイツ国防軍はユーゴスラビアへの侵攻を始め、程なくユーゴスラビアは制圧された。
パヴレ王子を含むユーゴスラビアの王族は国外に脱出してしまった。

ドイツ・イタリア・ハンガリー・ブルガリアの枢軸軍がユーゴスラビアを解体。
ザグレブで蜂起したクロアチアの民族主義組織ウスタシャのアンテ・パヴェリッチは『クロアチア独立国』を建国した。

当時のナチスも対ソ連に備えていたので、バルカン半島に占領下の統治を行う人員を割きたくなかった。
そんな訳で、ウスタシャやユーゴスラビアへの領土に関心があった枢軸国側などの、ユーゴスラビア解体を望んでいた勢力にバルカンの統治を委ねることにした。


クロアチア独立国


領土


クロアチア独立国の領土は、基本的には自治州時代の領土が中心となっている。

だが、ウスタシャはそれだけでは飽き足りなかった。
彼は、枢軸国によって分割された旧ユーゴスラビア王国から以下の領土を割取した。


スロベニア(ドレンスカ地方)
クロアチア(ただしダルマチアはイタリアが占領)
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ヴォイヴォディナ

実は本来、ヒトラーはユーゴスラビア解体の方針を決めていた際に、ボスニアはクロアチア独立国に含めない予定だった。
これは、ヒトラーが小クロアチア主義という事でこの話題を解決しようとしていたためである。
だが、後にムッソリーニがクロアチア領土に関して任されると、アトリア海沿岸を自国領土として併合するのと引き換えに、クロアチアのボスニア併合を許可した。

この領土的野心がクロアチア独立国の領内に3分の1のセルビア系住民を抱え込ませ、地獄の門が開かれるとも知らずに……。


国内政治


建国当時、サヴォイア家からアオスタ公アイモーネを象徴君主として迎えている。

彼はクロアチア建国の英雄トミスラヴ王の名を冠し、トミスラヴ2世として5月18日に形式上の国家元首である国王に即位した。
ただし、あくまで象徴的な意味合いだけで、決して如何なる実際上の権力も持っていなかった。

それに、トミスラヴ2世はクロアチア人によるテロを恐れ、自らの領国には足を踏み入れず、イタリアに留まった。


そんなわけでパヴェリッチは独立と同時にポグラヴニク(国家指導者または総統と訳される)となって首相と外相を兼務した。
国王が国内に不在であるクロアチアにとって、ポグラヴニクより上の地位は事実上存在しなかった。

更に彼はファシズムの先駆者であるヒトラーやムッソリーニを真似て単一政党による独裁政権を樹立し、自身の親衛隊を創設。
独裁政権なので、当然他の政党はすべて非合法化されてしまった。


外交


■国家承認

ナチスの傀儡国家とは言っても、クロアチア独立国はその後少なからぬ国家から承認を受けた。

クロアチア独立国の建国は直ちにカトリック教会の聖職位階制や多くの司祭から歓迎された。
ウスタシャも、バチカンの承認が幅広いクロアチア人の支持を得ることに繋がるため、バチカン市国との関係を重要視していた。


結果的に第二次世界大戦の終結以前には枢軸国を中心として、中立国とも関係を結び以下の19ヶ国が承認をした。
なお、第二次世界大戦が勃発した1939年当時の独立国の数は60カ国にも満たなかった。


ドイツ国(枢)
イタリア王国(枢)
大日本帝国(枢)
ハンガリー王国(枢)
ルーマニア王国(枢)
ブルガリア王国(枢)
フィンランド(枢)
スペイン(中立/反共同盟に加盟)
スロバキア共和国(枢)
デンマーク(ドイツ占領下)
中華民国南京国民政府(枢/汪兆銘政権)
満州国(枢)
タイ(枢)
スイス(中立)
フランス国(枢/ヴィシー・フランス)
アルゼンチン(中立)
スウェーデン(中立)
バチカン(中立)
セルビア救国政府(枢)

(枢)のついている国は枢軸国(その後離脱した国を含む)。
(中立)のついている国は第二次世界大戦中に中立を守った国。


■対国外

1941年6月15日、クロアチア独立国は日独伊三国軍事同盟に加わる。
また同年6月22日、独ソ戦の開戦とともにソ連に宣戦を布告、東部戦線に2万の兵を送り込んでいる。

同年6月26日には反共同盟に入り、完全に対ソビエト状態になった。
更に12月14日、今度は米英に宣戦を布告を行う。

1942年9月、パヴェリッチはドイツを訪問し、アドルフ・ヒトラーの許可を得て、スラフコ・クワテルニクを解任。
政府の再編を行うこととなった。


セルビア人の虐殺


このクロアチア独立国を語る上で外せないのは、異民族に対する大虐殺だろう。

クロアチア独立国は、国内に強制収容所を建設した。
そこで、セルビア人はもちろん、ユダヤ人やジプシー、更には同胞のクロアチア人の反対派を大量に逮捕・収監した。

これは、単純にナチスを真似たという訳では決してないのだ。

その根底にはユーゴ全体の歴史から育まれてきた『異民族に対する底知れぬ憎悪』が存在した。
そして、一番の憎むべき異民族であるセルビア民族への虐殺が迷いもなく開始された…

■法律

クロアチア人がスラブ民族ではなく究極的には血統的にも種族的にもゲルマン民族に属することを証明したい。

1941年4月30日には、国籍法が採択された。

これで全ての非アーリア系市民は、無国籍者とされた。
ちなみに、主要民族のクロアチア人はスラヴ民族なのだが、この国家ではアーリア系とされ、この法は適用されなかった。
都合のいいものである。

また同日、民族間の結婚を禁止する法律も採択された。

これにより、クロアチア人以外の民族には人権が消え去ったのである。
つまり、人扱いをされなくなった。


■収容所

この国を真にクロアチア人の国にし、セルビア人から浄化するために、ウスタシャである我々が使わない手段は無い。
セルビア人は数百年にわたり我々を危険に陥れたし、今後も機会があればすぐに我々を脅かすであろう…

クロアチア独立国の最初の絶滅収容所はヤドヴノ絶滅収容所。

名前から見たらもうお分かりになるだろうがこの収容所に入るということは『ここに収容=100%死ぬ』を意味していた。
ヤドヴノにはゴスピッチ経由で毎日1000人前後のセルビア人やユダヤ人が全国各地から到着し殺されたのだ。

また、ゴスピッチ収容所群はヤドヴノまでの中間施設として存在した。
ゴスピッチでは、警察長官と県知事が収容所を組織し、収容所防衛は武装ウスタシャが担当した。

特にこの虐殺で悪名高いのはヤセノヴァッツ収容所。

この収容所は「バルカンのアウシュヴィッツ」と呼ばれている。
ヤセノヴァツ収容所群は6つの収容所で構成されていた。

ヤセノヴァツにはインフラが存在しているという利点があった。

ザクレブとベオグラードをつなぐ鉄道の近くにあるという交通面でも抜群。
周辺も川に囲まれていたため、外からの攻撃・監視を受けにくく、脱走も困難だった。

しかも、この地域は19世紀に灌漑計画があった土地という事実がある。
この事実をウスタシャは利用し、この場所は灌漑を行う「労働キャンプ場」で「ここで危険人物とされた囚人を働かせて再教育をする」という宣伝をした。
その宣伝を新聞に載せるなどもしていた辺り、とんでもない鬼畜の所業と言える。


余談だがヤセノヴァツ収容所周辺の地域はもとはセルビア人が多数を占める地域であった。

収容所完成後はヤセノヴァツを中心拠点とした、ウスタシャ帝国の拡大と住民の粛清は続いた。
42年5月8日に住民の殺害と追放が終了してついには従来の住民がいなくなってしまった。
つまりヤセノヴァツ周辺のセルビア人絶滅は完了したわけである。

さらに言うと、この収容所に関する議論はヨシップ・ブロズ・チトーが死去するまでの戦後35年間にも及び議論することを事実上禁じた
収容所などの痕跡は全て抹消され、クロアチアにおいてこの収容所の悲劇を闇に葬る風潮ができた。
収容所跡などから発見された遺骨などの調査結果も、チトー政権下では公表を一切禁じて口封じした。

これはチトー統治の下「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれたユーゴスラビアの血塗られた民族をまとめるのには効果を発揮したが、その結果、後の歴史議論においてこの収容所の悪名が知れ渡りにくいという事態になってしまった。


■虐殺・処刑・改宗

われわれはセルビア人の3分の1を殺害し3分の1を国外追放し、残りをカトリック信仰に改宗させてクロアチア人にする。
そうすれば新しいクロアチアから完全にセルビア人を排除でき、10年以内に100パーセントのカトリック化が可能である…

まぁとにかく色々な処刑方法が試みられた。

使う道具はナイフや機関銃など一般的な物に留まらなかった。

ハンマーやつるはし、鞭などといった多彩なものが使用された。
鉄の棒や木槌も使用され、あげくにはベルトを使ってセルビア人などを殺した。
ちなみに、当時囚人の衛生などを管理していた医師が回想録において、殺害用の道具は50通りは出てきている。

人を殺せるものは何でも使ったのである。

殺害方法も、絞殺や火炙りだけではなく凍死、窒息、餓死など様々であり、中には人間を生きたまま精肉機に放り込む「人間ハンバーグ」という物まであった。
よく人はここまで残忍になれるものだ…。

セルビア人をどれだけ苦しめて殺すか方法が様々考えられた。
逆に、即刻に効率よく殺す方法も考えられた。

殺す相手には老若男女関係なかった。

その虐殺の魔の手は物事を理解しているか怪しい子供にまで及んだ。
乳幼児ですら、川に投げ込まれながら殺されていった。


一部のセルビア人は強制的にカトリックに改宗させられた。

これらはセルビア人をカトリック化させることで、強制的にクロアチア人にしようといった政策からだった。
収容所で殺されるよりはマシだったかもしれないが、自分の信じていた宗派を無理矢理改宗させるというのは極悪な行為である。

これらの行為で心を痛める兵士は多くは無かった。

何故なら、虐殺現場にカトリック司祭を同行させることで自らの行為を正当化したのだ……。

司祭の方でも、もちろん虐殺に反抗した者はいたにはいた。
しかし、多くのカトリック聖職者が直接的に、或いは間接的にウスタシャの暴力行為に関与したのだった。
そもそも、ウスタシャの政権を支えて広大化に貢献したのは、何よりもこの司祭などの宗教勢力の援助が大きいのだから、それもそのはずである。

むしろこの虐殺行為に驚きと嫌悪感を示していたものが多かったのは、ナチスドイツの人間だった。
ドイツ人は、戦略的にこの地域での過剰な虐殺を嫌ったこともあるが、普段迫害を行っている彼らですら恐怖を覚える程だったのだ。




最終的には1945年に至るまで、クロアチア国内では凄惨な殺戮劇が繰り広げられた。

ナチス・ドイツは、この国家でのセルビア人の過剰な虐殺は好まなかった。
狂気的な虐殺は、セルビア人の反発を招きかねず、ヨーロッパ東部での政策に影響を及ぼしてしまうことは必然的だったからだ。

というか、実際にセルビア人のクロアチア独立国及びナチスへの反発は大きくなった。
そのため、クロアチアに度々その虐殺の抑制を申し入れたが、効果は無くほぼ無視されていた。
バルカン半島を任せた結果が抵抗勢力の強大化を呼び込んだとは、ナチスも涙目か。

この期間中に70~100万人ものセルビア人が殺害されたと言われているが、正確な数ははっきりしていない。
まぁ数が多かろうが少なかろうが、地獄と見間違えるかのような虐殺が行われたのは事実である。


崩壊


1943年10月12日、イタリアが連合国に降伏。

これによって、形式上の国王トミスラヴ2世は王位を放棄してしまった。
そしてポグラヴニクであるパヴェリッチが名実ともに国家元首となる。

しかし、1945年にはナチス・ドイツも連合国に降伏。

それにともなって「クロアチア独立国」そのものが崩壊。
ウスタシャも当然壊滅。
パヴェリッチは、大戦中に親独的でありながら連合国とも駆け引きした中立国のフランコ政権下スペインへ亡命する。

そして5月8日、クロアチアは完全に独立を取り消された。

クロアチア独立国の領土はすべてユーゴスラビアに戻された。
領土は主にクロアチア社会主義共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国に分割された。


その後


パヴェリッチはクロアチア独立国の夢を捨てなかった。

フランコ独裁政権の保護を受けており、無事だったのだ。

彼は新生ユーゴ領内やヨーロッパ各地に潜伏しているウスタシャ残党と連絡を取り合い、再び祖国復権の夢を実現させようとした。
が、セルビア人以外の民族や時には同じクロアチア人にまで害をなした連中が歓迎される訳がなく、パヴェリッチは57年に襲撃を受けて重傷を負い、2年後の59年に死亡した。
当然の結果である。

一方、迫害されていたセルビア人も完全な被害者では無かった。

セルビアも「チェトニック」と呼ばれる反ナチス組織が、枢軸軍への抵抗もそこそこに、クロアチア人やムスリムを相手にSSから問題視される程の残虐な手段で虐殺を繰り広げていた。
また、ウスタシャの迫害に対するこのような報復行為に目を付けた後のクロアチアは、これらを「セルビア人の侵略行為」として批判する材料に用いた。
この事実もあり、結局双方の遺恨は消え去ることは無かった。

虐殺の中、囚人と化した親から引き離された乳幼児などのセルビア人の幼子は、幸運な場合としてクロアチア人家族に引き取られた例も少なからずあった。
そんな子供達は、カトリックの洗礼を受けて「クロアチア人」として生涯を生きていくことになった。
親こそは殺されたが、物心もつかないのでその記憶もなく、心優しきクロアチア人に引き取られて何だかんだで幸せになれた……とはいかなかった。
これらの子供達は、やがてユーゴスラビアの内戦でセルビア人を殺すことになり、同じ血を持つ民族を殺す「兄弟殺し」と化してしまった者もいる。

このようにクロアチア独立国の存在は、後のユーゴスラビア紛争の遠因となっていたのだった…。

後にクロアチア共和国が誕生した際に、ヤセノヴァッツでの話はセルビア人の「神話」扱いにした。神話…?
91年のユーゴスラビアにおける内紛の中、クロアチア軍はヤセノヴァッツ博物館の歴史的資料の大部分を破壊した。
これにより、この独立国時代の歴史を解明していくのにさらなる支障をもたらした。







追記・修正はユーゴスラビアを占領してからお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • ユーゴスラビア
  • クロアチア
  • セルビア
  • クロアチア独立国
  • トミスラヴ2世
  • ウスタシャ
  • アンテ・パヴェリッチ
  • 枢軸国
  • 独裁
  • 第二次世界大戦
  • 世界史
  • ヨーロッパ史
  • 差別
  • 民族問題
  • 迫害
  • 虐殺
  • 傀儡国
  • バルカン半島
  • 国家
  • 国家項目
  • 世界の国シリーズ
  • 枢軸国最強の狂気

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年01月01日 13:53