栗田健男

登録日:2014/10/25 Sat 19:31:08
更新日:2023/01/15 Sun 11:22:14
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栗田(くりた)健男(たけお)

国:日本
生:1889年4月28日
没:1977年12月19日
出身地:茨城県水戸市
最終階級:校長先生

栗田健男とは、日本の軍人である。
軍歴に就いていた34年間の内実に25年を海上勤務で過ごした、日本海軍で最も実戦経験の豊富な艦隊指揮官の一人であり、
海軍大学校甲種(いわゆるエリートコース)を経ずに司令長官に就任した数少ない人物でもある。

数多くの海戦に参加した事、(結果的にではあるが)連合艦隊の尻拭い的な役割を多く担っていたことから批判も多く、
特にレイテ沖海戦における「謎の反転問題」は今日でも議論される。


●生い立ちから開戦前
水戸藩士の家に生まれている。祖父は藤田東湖、会沢正志斎の弟子で東京帝大教授栗田寛文学博士である。
また、父である栗田勤は大日本史の編集員というかなりカタブツな家系であった。
当時は今よりほとんど娯楽なんていう概念がなかったので、健男もまたこの二人に負けないほど学問に励んでいた。
当時、彼は野球の腕前に定評があり、ファンも出来ていたという。もし彼がまだ生きていれば王貞治と肩を並べていただろうか?
その後、時代の変化に伴い海軍の兵学校に入校。149名いる中では28番で卒業している。駆逐艦や軽巡洋艦の艦長を勤め、水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任した。
なお、開戦前は第7戦隊司令長官の座についていた。


太平洋戦争
太平洋戦争開戦後はバタビア沖海戦、セイロン沖海戦など序盤の主要な海戦に参加し、南方作戦の成功に貢献した。
バタビア沖海戦では(事前の海戦で取り逃がしていた)連合軍艦隊による輸送船団攻撃の阻止に成功し、
セイロン沖海戦の派生作戦として行われたベンガル湾における通商破壊作戦では、
彼の第七戦隊だけで10隻以上の輸送船を撃沈してインド東部沿岸の通商路を一時完全に遮断する事に成功した。
その後のミッドウェー海戦では損傷した巡洋艦2隻を米軍の制空権下に置き去りにする形となってしまい、
評価を落としている(当時栗田艦隊は連合艦隊からの合流命令を受信しており合流を急いでいたため、損傷した巡洋艦に駆逐艦の護衛をつけたうえでトラック島への退避を命じていた)が、
敵制空圏への突入を命じたのは当時の連合艦隊司令部であることも留意すべきである。
(突入命令が発令されたのは南雲機動部隊の壊滅後であり、連合艦隊も空母壊滅を把握していた。山本長官ェ...)


●ヘンダーソン飛行場砲撃
1942年後半より始まったガダルカナル島攻防戦においては、上陸部隊支援のため金剛型戦艦を率いてガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を実行する。
砲撃によりヘンダーソン飛行場は完全に破壊され、配備されていた航空機も半分以上が飛行不能になるなどの大損害を受けたが、
僅かに残った航空機と(日本側の情報収集のミスにより)存在を知らなかった予備飛行場からの航空攻撃で上陸部隊は大損害を受け、結果として作戦は失敗してしまった。
このとき彼は危険の大きさから作戦実施を渋っていたものの、砲撃の際には用意していた対地攻撃用の榴弾をすべて撃ち尽くし、徹甲弾まで打ち込んで飛行場を徹底的に破壊している。


●レイテ沖海戦
1944年10月20日、連合軍はレイテ島に上陸。
レイテ島は日本軍の海上交通路のど真ん中に位置しており、レイテ島が占領される事は本土への資源輸送が完全に遮断される事を意味していた。
(これまでにも潜水艦による輸送船団の損害は出ていたものの、レイテ島陥落後に発生した損害の比ではない)

日本海軍は小沢中将率いる機動部隊(以下小沢艦隊)を囮としてレイテ島上陸部隊の防備を手薄にし、
その隙に戦艦を主力とする栗田中将の水上部隊(以下栗田艦隊)をレイテ島上陸部隊に突入させ撃滅する、という奇策を取るが、
足の遅い水上部隊は上陸部隊を取り逃がしてしまう危険が大きく、少しでも時間のロスが発生すれば突入が空振りに終わってしまう。
(上陸部隊は2~3日で完全に揚陸されてしまうため、それまでに突入する必要がある)
また航空部隊はすでに壊滅していたため、航空援護が全く無い状態で敵の警戒線を強行突破するしかなく、はじめから勝機の薄い戦いであった。


10月23日より戦闘が始まった。
まず、旗艦にしていた愛宕と随伴していた高雄・摩耶が相次いで被雷。愛宕と摩耶が沈没し、高雄は大破したため駆逐艦に曳航されて退避することになる。
この海戦のさなか、彼はデング熱にかかっていたのだが泳いだ際に吹っ切れたという。ただ、旗艦が大和になってしまい、艦内は宇垣纏と栗田が陣取り、異様な雰囲気になったのである。

24日にはシブヤン海でハルゼー率いるアメリカ軍機動部隊(以下ハルゼー機動部隊)の艦載機の猛攻を受け、大和型戦艦「武蔵」が撃沈され、
他の補助艦艇にも大小の損害が出たため一時反転を決定。
これを受けてハルゼー機動部隊は栗田艦隊への攻撃を打ち切り、小沢艦隊を全力攻撃すべく北進を開始する。囮作戦の(一応の)成功であった。
栗田艦隊の側では日没前に航空攻撃が止んだ事などから再反転し進撃を再開した。
しかし、通信の混乱から栗田艦隊の側では小沢艦隊の状況を把握できず、また小沢艦隊からも同様であった。

25日、栗田艦隊はサマール沖にて米軍の小型空母部隊と遭遇し、大規模な砲撃戦になる。
この部隊は上陸部隊の直援のために配置された上陸支援部隊のひとつであり、小型の空母でありながら多数の航空機による強力な攻撃力を持っていた。
制空権を完全に掌握され、大規模な空襲を受けながらの攻撃は困難を極め、
栗田艦隊は米軍の小型空母1隻と駆逐艦3隻の撃沈と引き換えに、虎の子の巡洋艦部隊はほぼ壊滅、
かろうじて戦闘可能だった艦も全力での戦闘は無理、という大損害を出してしまい、戦闘能力は大幅に低下してしまう。

海戦終了直後、栗田艦隊は座標「ヤキ1カ」に米軍機動部隊がいるという報を受け北上を開始する。(なお、日本本土の軍令部でも「ヤキ1カ」は把握していた)

これが栗田健男による謎の反転である

結果としてその座標に敵機動部隊は存在せず。
レイテ沖海戦は武蔵・瑞鶴・扶桑・山城などといった日本軍に残された数少ない主力艦艇を大規模に使いつぶしただけの完敗で終了した。


●謎の反転について

小沢艦隊が大きな損害を受けつつも囮に成功しながらその犠牲を無駄にした、という点で批判される事が多いが、
そもそもサマール沖海戦後も100機単位の大空襲を断続的に受け続けていた事、
何よりサマール沖で(小沢艦隊が引き付けているはずの)米軍機動部隊と遭遇した時点で、囮作戦成功という「正解」にたどり着くのは到底不可能であり、
実際海戦後も彼は処罰されていない。(彼が遭遇したのは大型空母が主力のハルゼー機動部隊ではなく小型空母で構成された上陸支援部隊ではあるが)

また、度重なる空襲と海戦で栗田艦隊の戦闘能力は激減しており、
指揮下の戦艦5隻中1隻、重巡洋艦10隻中8隻(残存した2隻中1隻は弾薬残量1割以下)、駆逐艦15隻中7隻が沈没または戦線離脱し残りの艦も大小の損害を受けている。
弾薬、魚雷も消耗していた事を考えれば壊滅といってもいい状態であることも留意すべきである。
上陸部隊も、栗田艦隊がレイテ湾に突入する以前に既に揚陸を終えており、退避が可能な状況であった(要するに「時間切れ」だった)ことを考えれば、
レイテ湾への突入断念と機動部隊への攻撃は合理的な判断であり、強いて責任があるとするならば、このような無茶な作戦を命令した海軍上層部にあるといえるだろう。

軍事評論家の伊藤正徳氏曰く
無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった

他方、ここで無謀承知で突っ込み、奇跡的に勝ったならば一発逆転とはいかないまでも講和への機会とでき、
敗北したとすれば、日本国内において降伏やむなしという結論に至る材料になり、その後の沖縄戦や原爆投下といった悲劇は防げたのではという説もある。
とはいえ、栗田の立場でそこまで考えて突撃するべきであったと求めるのも、難しい所であろう。




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最終更新:2023年01月15日 11:22