長谷川勇也(プロ野球選手)

登録日:2014/08/23 Sat 19:16:11
更新日:2024/02/21 Wed 07:19:01
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長谷川勇也は、福岡ソフトバンクホークスに所属する元プロ野球選手。

山形県鶴岡市出身 1984年12月22日生まれ。
身長180cm 体重80kg
右投左打 外野手 
背番号30(2007年~2011年)24(2012年~2021年)
酒田南高等学校-専修大学-福岡ソフトバンクホークス



経歴

2006年の大学生・社会人ドラフト5位で福岡ソフトバンクホークスに入団。
当初から瞬足強打の大卒ルーキーとして活躍が期待されていたが、プロ野球選手としてのスタートは決して順風満帆なものではなかった。
プロ入り1年目となる2007年は、春季キャンプで一時A組に選ばれるものの左大腿骨頚部を疲労骨折。1年のほとんどを棒に振ってしまう。
2年目の2008年、見事に一軍昇格を果たし、王貞治監督(当時)からは「松中のような鋭い打球を飛ばす。」と評価される。
しかし終わってみれば打率.235と奮わず。おまけに外野守備では連携ミスを連発した。
ある試合では、フライを捕球しようとしていた多村仁志に強烈なタックルをかまし、足の骨を折る重傷を負わせてランニングホームランを献上。
またある試合では、右中間の打球をライトの柴原洋とお見合い。(この打球を慌てて処理した柴原は持病の腰痛を悪化させ二軍落ち)
その後、柴原に代わって守備に就いた中西健太と交錯し、再びランニングホームランを生み出す。
この他にもいくつか守備でのミスを犯し、関東の応援団は一時的に応援をボイコット
自身も8月にバント練習をしていた際左手の小指を骨折。二軍での調整を余儀なくされ、そのままシーズン終了を迎えることとなった。

呪いにでもかかってるんじゃないかと心配になるような2年間を過ごした長谷川だが、2009年にはその才能が開花する。
春先から好調をキープし、主に6・7番打者としてレギュラーに定着すると、プロ・アマ通じて自身初となるサヨナラ打を打つなど活躍。
打率はパリーグ4位の.312を記録し、オールスターにも初選出された。
また、この年は後ろを打つ松田宣浩(打率.281)と田上秀則(本塁打26本)も好調で、7番長谷川8番松田9番田上の並びはもうひとつのクリーンアップと呼ばれた。(しかし、松田がケガで46試合しか出場できなかった為、この3人が並んだ期間はあまり長くなかった。) 

2010年は打率.255、本塁打3本と大きく成績が下降。
2011年も3月~4月の打率が.182と低く、新戦力の内川聖一、頭角を現した福田秀平の活躍に押され、スタメンを外れる機会が増えてきてしまう。
しかし、ジワジワと調子を上げ、最終的に打率.293、出塁率.379と、いずれもパリーグTOP10に入る成績を残した。
クライマックスシリーズでもその打力を発揮し、打率は.545を記録するなど大暴れ。
2連勝で迎えた第3戦では、10回に同点タイムリー、12回にはサヨナラタイムリーを放ち、チーム初のCS突破に大きく貢献した。

2012年は打率.278と、前年より若干成績を落としたが、翌2013年、長谷川は選手として大きな飛躍を遂げる。
この年、長谷川はキャンプでの練習中に打球が頭を直撃し、頭がい骨陥没骨折の重傷を負う。
開幕一軍スタートどころか、選手生命への影響さえ危惧されたが、異様な回復力を見せなんとか開幕一軍の座をキープに成功。
春先は頭部に特殊なパッドを巻いた痛々しい姿で試合に出続けるも好調を維持し、1番打者として定着。
5月半ばに中村晃が台頭してからは5番に回ったが、この打順がピタリとハマって3番内川4番松田と共に打線を牽引する活躍を見せた。
特に交流戦は圧倒的で、まさに無双と呼ぶに相応しい暴れっぷりを披露。
交流戦史上最高となる打率.418をマークし、交流戦MVPを獲得。オールスターにも選出され、敢闘賞を受賞した。
後半戦もその勢いは衰えず、全試合にフルイニング出場し、打率.341、本塁打19本、83打点を記録。
自身初となる打撃タイトル(首位打者・最多安打)を獲得し、ベストナインにも選ばれた。
シーズン198安打、複数安打57試合、猛打賞22回はいずれも球団新記録で、フルイニング出場での首位打者獲得は史上5人目という、まさに記録尽くめの1年だった。

2014年は5番・ライトのレギュラーとして定着。
8月に球団記録の297試合連続フルイニング出場を果たすなど活躍していた(ただ6・7月は調子を落としていた)が9月に右足首を骨折。
その後は代打起用が主であった。最終的には打率.300、6本塁打、55打点と前年ほどではないが十分戦力になったと言える。
オフには右足首を手術したがこれが長谷川の野球人生に影を落としていく。

2015年は前年のこともあり、外野手ではなく指名打者としての出場が主。
それでも調子が良いとは言えず、結局4月半ばから9月半ばまでは登録抹消し、出場は30試合で打率.224と一軍昇格後ワーストの成績を残してしまった。
しかし復帰後はそこそこ活躍し、本塁打も5本とそう落ちたわけではなかった。

2016年は5番・指名打者たまに左翼手として定着。122試合に出場
打率.271、10本塁打、51打点と復活をアピールする1年となった。
ホークスの選手会長に就任、ASにファン投票で出場してホームランを打つ、通算1000試合・通算1000安打達成、などメモリアルな活躍であった。

2017年は開幕こそなんとか1軍入りしたものの、成績は低迷し1軍と2軍を往ったり来たりする日々が続く。まあ4番起用なんかもあったが。
結局出場は23試合、打率.216とにとどまった。
ポストシーズンでは初のCS先発出場もあり、CS・日本シリーズともに攻撃面で貢献した。
オフには再び右足の手術も行った。

2018年はオフの手術も影響で大きく出遅れたが、左の代打要員として打率.296を記録。

2019年も若手の台頭で大きく出場機会を減らしたが、後半はやはり代打要員として起用され日本シリーズでは殊勲打を放つなど勝負強さを見せた。

2020年は久々に開幕スタメンをゲットし、打棒も好調だったが足のケガ&新型コロナウイルス感染のダブルパンチで2か月ほど棒に振ることに。終盤には復帰しまた代打の切り札として活躍した。
また日本シリーズでチャンスに凡退し地を叩くシーンはホークス選手の勝利への意識の高さを象徴する場面として有名になった。
オフはFAを行使するうわさも出たが残留が決定。

2021年は身体のダメージや打撃成績の低迷もあって引退を決意。引退後翌年の2022年からは一軍打撃コーチに就任した。


プレースタイル・選手としての特徴

打撃
高いミート力と選球眼が武器のアベレージヒッター。
じっくりと球を見極める慎重なバッティングが持ち味だが、2013年からは積極性が増し、ボール球スイング率が2前年の22.0%から29.9%に上昇。
しかしそれ以上に打率や長打率がアップし、殆どの指標で入団以来最高となる成績を残した。
入団当初は松中二世と呼ばれ、長距離砲として期待されていたが、2008年の小指骨折のアクシデントで握力が35kgまで低下し、小指が完全に曲がらなくなってしまった。
そのため、下半身強化に努め、腕力に頼りがちだったフォームも修正したところアベレージヒッターとして覚醒。
打率と引き換えに本塁打数は伸び悩んだが、2013年は広いヤフードームのレフトスタンドにホームランを放つほど逆方向への打球が伸びるようになり、自身初の二桁本塁打を記録した。

アウトコースに上手く対応出来る一方で、インコースはやや苦手であり、調子が悪い時はインコースに来た球をカットできず三振に倒れる姿が目立つ。
また、 バントが苦手であり、よく2連続で失敗し追い込まれる。
しかし、そこからヒッティングに切り替えてヒットを打ったり、バントの体勢から四球をもぎ取ることもあり、ファンからは「バントを指示するなという高度なアピールなのではないか」と言われている。
2011年での日本シリーズでは、バントミスをした翌日の試合でヒッティングを指示され見事ヒットを放ち、三度の飯よりバントが好きな秋山監督から「性格上、打たせた方が良いと思った」というコメントを引き出した。長年のアピールが実を結んだ瞬間である。


走塁
走力は並以上のものを備えており、レギュラー定着後は毎年二桁盗塁を記録している。
2013年までの通算盗塁成功率も80.7%と高く、投手からすれば出来るだけ塁に出したくないバッターと言える。走塁も上手く、江夏豊からは「そつのない走塁が出来る」と評されている。
近年は足の負傷もあり大きくスピードは低下したが、走塁への意識は高く要所でハッスルランを見せる。


守備
前述の通り、走力は並以上のものがあるため守備範囲は狭くなく、肩も弱くはない。
一軍定着当初は打球判断のミスが目立っていたが、それも年々改善されている。また、球際に強く目の覚めるようなファインプレーを度々見せる。
しかし、瞬足強肩好守が揃う他球団のセンターと比べ守備力が劣っているのは明白であり、センターでスタメン出場した試合の終盤は鷹の英智こと城所龍磨がセンターに入り、長谷川はレフトに回ることが多かった。
2014年からは柳田悠岐の成長もあって、ライトにコンバートされた。
最近は指名打者のほうが多いが、柳田も離脱しがちなためかレフトのこともある。


エピソード

愛称は「ハセ」「ハセユー」。ネット上では主に「ハッセ」と呼ばれる事が多い。たまに「ハセガー」とも呼ばれる。
また、チーム内で「もえちゃん」と呼ばれていた事がチームメイトにより暴露された。
最初に呼んだのは当時ヘッドコーチだった森脇浩司で、由来は、交流戦で巨人の野間口貴彦投手からヒットを打った為。
(当時、野間口投手はモデルの押切もえとの熱愛が報道されていた)

チームの先輩である小久保裕紀や松中信彦と同様に練習の虫として知られ、試合後でもミラールームで延々とフォームチェックを繰り返していると内川や小久保がコメントしている。

いぶし銀なイメージが強く、女性ファンより男性ファンに支持されやすい選手である。
主力選手でありながらグッズの種類が少なかった為、同じくいぶし銀なイメージが強い中村晃とユニットを組ませてグッズを売り出そうという案が球団から出ていると報道された事がある。

素朴なルックスと職人的なバッティングスタイルから寡黙な人間だと思われがちだが、チームメイトによると実際は面白い人物らしい。
2011年のビールかけでは、テンションが上がったのか球団マスコットのハリー・ホークの中の人の名前を呼ぶという大失策もとい珍プレーを披露した。

2012年から背番号を「30」から「24」に変更した。
大学時代から付けていた愛着のある番号であり、数年前から変更を希望していたらしい。
なお、元々24番を付けていた内川は、前年で引退した柴原が付けていた1番を受け継いでいる。

2013年から打撃フォームを大幅に変更。
カクカクした独特なルーティーンが印象的なフォームになり、長谷川がロボットにトランスフォームする球団CMも作られた。
岡田彰布など、昔の選手の動きを参考にしたらしい。

2013年、200本安打の期待が高まった8月末に、イチメーターならぬハセメーターを持ったファンが球場に現れるようになった。
惜しくも200本には届かなかったが、2014年も同じファンがハセメーターを持って球場に姿を見せている。

2011年12月1日、斉藤和巳が結婚を発表し話題を集める中、ひっそりと結婚を発表。
あんまり話題にならないまま翌シーズンを迎え、2012年9月7日にめでたく第一子となる女の子が誕生した。
(その際、王貞治会長に「女の子なんだって?おめでとう!ちゃんと奥さんに似たんだろうね?」と、そこそこ失礼なコメントを頂いている)

2008年に小指を骨折→翌年覚醒
2013年キャンプで頭がい骨骨折→タイトル獲得
と、大きなケガをする度にパワーアップして帰ってくる為、ネット上では「サイヤ人なのではないか」と言われている。


発言集


「目指すところは三冠王ですね。フォーム次第で飛ばすこともできるだろうし、これから本塁打をドンドン打てるようになっていくかもしれない。そこを目指さないといけない。全打席ヒットを打ちたいし、本塁打も打ちたい。ヒットを打って喜んでいる場合じゃないんです。」

(2013年交流戦MVP獲得の会見で、印象に残った場面を尋ねられて)
「強いて言えば、(ホームでの)中日戦の第2試合(6月9日)。前日に4安打したことで気持ちに隙ができてしまい、そこからの東京ヤクルト戦、巨人戦は思い描く打撃ができませんでした。隙を生んだ自分の甘さが印象に残っています」

(東京ドームで杉内からホームランを放った吉村に対して)
「ドームラン、ドームラン!」

(京セラドームでの試合で同点タイムリーを打ち、その後のヒーローインタビューで)
「前のバッターの柳田が「歩かせても良いよ」みたいな四球だったので意地で打ちました。ライトからも、温かい、凄く面白みのある声援(要するにヤジ)を頂いたので、更に熱い気持ちになりました。」


(アナウンサーに「今シーズンはどんな所(プレー)を見て欲しいですか?」と聞かれ)
「新しくなった芝を見てください!」




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最終更新:2024年02月21日 07:19