日本本土上陸作戦/日本本土決戦

登録日:2014/06/11 Wed 22:01:22
更新日:2023/12/30 Sat 05:28:27
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日本本土上陸作戦/日本本土決戦とは、1945年11月にアメリカイギリス(以下、米、英)を始めとした連合国軍が計画していた日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)とそれを防衛すべく日本軍側が計画していた防衛作戦(日本本土決戦・決号作戦)の総称である。

連合軍(米英)側は四国に陽動をかけつつ九州を制圧して北進、さらに関東に直接上陸することにより日本を降伏へ追い込むことを企図しており、逆に日本側は水際迎撃とゲリラ戦を重ねてこれを撃退、可能ならば大損害を与えて「一撃講和*1」の機会を狙った。

だが実際にはアメリカ側は上陸作戦ではなく、そこで使用するはずだった原爆を日本の広島・長崎で先行して使用。
これによって日本軍に自主的な降伏を促す作戦を取り、これを受けて1945年8月15日、日本も昭和天皇の「ご聖断」によってようやくポツダム宣言を受諾したため、双方ともに幻の作戦に終わった。
(連合側としては原爆でもすぐには戦争が終わらず1946年まで続くと想定してはいたらしい)


◆背景

1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃と共に始まった太平洋戦争だったが、翌1942年のミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなどを経て、1943年には戦況は既に連合国軍(というかアメリカ)側の圧倒的優勢となっていた。

この頃アメリカでは「日本を最終的に降伏させるための具体的な方法」についての各種計画作成が始まっており、後のダウンフォール作戦に繋がる本土上陸作戦も実はこの頃から計画が立てられていた。

しかしこの時点ではまだ「日本のシーレーンを完全崩壊させて海上封鎖を完成させれば、資源的に戦争継続が不可能になるから、さすがに降伏するだろ? 餓死者も出まくるだろうし……」という通称「ソフト・ピース」派の意見の方が主流だったので、日本本土への上陸作戦はあくまで予備計画的な立ち位置にあった。

だがその後の戦況がさらなる連合軍優位に傾いても、日本は降伏や交渉などを打診する気配を一切見せず*2、またヨーロッパ戦線の優勢などもあって、最終的には日本上陸と抵抗戦力の粉砕によって降伏を強要する「ハード・ピース」派が優勢となっていった。

そして1945年2月、英米ソ三国の首脳陣で行われたヤルタ会談の結果を受けて、ついにアメリカは「日本本土上陸作戦を具体化すべし」と決定。
日本本土上陸作戦全体を「ダウンフォール作戦」と命名し、具体的な作戦計画について進めていくこととなった。


一方で日本側だが、本土防衛について準備(松代大本営の造営)が始まったのがなんと1944年の1月であり、しかも日本各地でのより具体的な計画・準備の開始に至っては、レイテ海戦で敗北したのちの1944年末になってやっと、という有様だった。

日本首脳部は連合軍の上陸作戦を翌1945年の秋と仮定(これは連合国側の計画案と一致していた)し、急ピッチで日本各地、特に上陸の可能性が高いと踏んだ九州、四国の防衛を固めていくことになる。


◆作戦概要

アメリカ側の「ダウンフォール作戦」は2段階に分けられており、その最終的な目標は「首都である東京を制圧することにより、日本の戦争遂行機能を破壊して降伏に追い込むこと」とされた。

後に公開された資料によると、米・英・豪・NZを中心とした陸軍や海兵隊などを主力とする上陸部隊を
九州の大隈半島、薩摩半島、宮崎県から上陸し、速やかに鹿児島、宮崎両県を占領したあと、熊本大分福岡の順に攻撃を仕掛け、
また佐賀長崎両県も佐賀市、佐世保市や長崎市内に海軍艦隊による艦砲射撃や航空部隊による空爆の支援を受けながら占領する予定であった。
この九州上陸作戦をオリンピック作戦とし、通称Xデーと呼称した。
投入兵力はアメリカ陸軍と海兵隊だけで33万9000人に達し、参加する艦隊は空母が米軍が22隻、英軍が10隻の合わせて32隻、投入航空部隊は1914機が予定されていた。

一方の日本軍側も、「10月下旬から11月初旬にかけて、鹿児島、宮崎、高知に米英軍が大挙上陸する」という推察を実際に立てており、
鹿児島県や高知県では沿岸部を中心に同年2月ごろから急ピッチでトーチカの建設などによる陣地を新設したり、
鹿児島、宮崎、高知、熊本、徳島の山間部に戦車や戦闘機を米軍の偵察機に発見されないように洞窟、防空壕や森林の奥深くに隠匿していた。
もちろん、実際に戦闘は起きなかったので机上の空論になってしまうが、第二次世界大戦で最も多くの人命が命を落としていたというのは、
どの学者も共通した考えとなっており、どんなに少なく見積もっても軍民や国籍は関係なく10万人、最悪数千万人は死亡したであろうと言われている。

この作戦は中国地方や近畿地方、関東地方への空爆を行なう拠点飛行場を建設するのが目的であったため、鹿児島か宮崎に広大な滑走路を建設し、
そこを足がかりとしてB29や中短距離爆撃機や攻撃機による東京やその近郊都市への攻撃が容易になっていたであろうと推測されている。
仮に沖縄を取った後に日本を空襲などを一切せずに海上封鎖して資源の輸入を止めるのを続けるだけで
冬が過ぎる頃には国民が共食いでもしなければ持たない程度には食糧や燃料が尽きるレベルである。
アメリカとしては原爆を使わず時間をかけていると共産主義勢力が侵攻してグダグダになりかねない状況だったので
そこまでして日本国内をガナルカナル島に変える理由が無かっただけでどちらにせよ日本は詰んでいた。

◆東京包囲作戦

この九州上陸作戦を成功させた後、連合軍はさらに伊豆大島などを占領し、1946年3月ごろに米英軍を連合国陸軍第8軍、第1軍という2つの部隊に再編。
それぞれ神奈川県の湘南海岸(具体的には鎌倉から大磯の広い範囲)と、千葉県の銚子市から九十九里浜にかけての外房地域から上陸する見込みとなっていた。
作戦名はコロネット、通称Yデーと呼ばれた。
計画では、湘南から上陸した第8軍は三浦半島を制圧する部隊、横浜市と川崎市を制圧する部隊に分けた後、相模川を北上し、
相模原市と町田市付近で進路を東に変えて進撃、外房から上陸した第1軍はそのまま現在の北総線・京成本線沿いを西へ二手に分けて進撃する予定であった。
人数は直接的には54万人、予備兵力を含めると100万人を越える兵数であった。
その後、10日を目処に現在の千代田区、中央区、港区、文京区、墨田区と台東区のそれぞれ一部を包囲する格好で進撃をやめて、
日本軍と政府に対し降伏を求める予定であった。
航空部隊は最新鋭のジェット戦闘機やターボフロップ機などを大量に導入し、海軍部隊も南関東沿岸への猛烈な艦砲射撃を行なって、日本側の戦意の喪失を狙っていた。


なお、上記は米国主導の作戦であり、ソ連による侵攻は含まれていない。
もしコロネット作戦が行われるまで戦争が継続していたとすれば、おそらくは北海道、場合によっては東北でも対ソ連の本土決戦が行われていたことだろう。


◆日本の対応

これに対し、日本側は「決号作戦」と呼称して、大量の特攻兵器と湘南地域と外房地域における陣地の建設、
一般市民に対し「米英などの連合軍がもし現われたら、竹やりや包丁、ナタ、斧、こん棒などで抵抗すべし」という「一億総玉砕」を唱え、
都心への連合軍の進攻は不可避と考えていた。
ただ、ご存知の通りこの時点で日本は燃料の不足、特攻兵器を増産しようにも資材はない。
生き残っていた空母や軍艦、民間からの徴用船すらまともに運用できない中ではこれまた机上の空論で、実際に湘南や九十九里で満足な陣地どころか塹壕すら掘れなかった。
だが、日本軍は戦国時代の鎧甲冑や火縄銃、明治初期のスナイドル銃までもかき集めて抵抗する意志があり、戦国時代のような騎馬隊を特攻させ、
あまりの時代錯誤ぶりに混乱するであろう連合軍を四式中戦車三式中戦車で殲滅する計画を立てていた。時代錯誤すぎだろ……

更には優先していた九州の防衛陣地もコンクリートの不足などによって工事も計画通りには進んでおらず、作戦までに間に合わないのは火を見るよりも明らか。
弾薬類も九州へ優先的に回されそれなりに戦えるようにはなっていた、が東京などの備蓄を回してどうにかというレベルであり九州が陥落すれば弾薬不足になるのも明らかだった。

他にも、日本軍は反撃手段の秘密兵器として、ジェット戦闘機「橘花」、「火龍」、ロケット戦闘機「秋水」を投入するつもりであり、
少なくとも特攻一辺倒では無かった*3
従来型でも、紫電改の改良型、烈風などの高性能レシプロ機を用意するなどの努力を払っていた。

陸戦では機甲師団は温存し、特攻隊主体で迎え撃つ手はずであった。
竹槍の先端に成形炸薬弾をつけたようなものや、「国民小銃」と称して、火縄銃を一般人に持たせるなどの狂気の沙汰としか思えない計画が立てられ、
良識派の陸軍高官は武器庫に戦国時代の鎧甲冑や江戸期の青銅砲、明治初期のスナイドル銃まで集められたのを目撃し、
「駄目だこりゃ……」と、本土決戦を諦めたという逸話が現在に伝えられている。
今となってはアンサイクロペディアの記事か何かにしか思えないが、実は当時のマスコミや陸軍主流派は本気で本土決戦を煽り立てており、
青年将校らはそのために「沖縄を時間稼ぎに使った」と認識していたという。
長崎原爆投下も、陸軍諜報部の高官が「343空は本土決戦の重要戦力なのだから、こんなところで消耗させるな」と、部下の報告を握りつぶしたがために、
原爆の投下を防げなかったと、その当事者であった諜報部の少尉は後年、「私の報告さえ海軍に届いていれば……」と証言し、
原爆投下の阻止が出来なかった事を嘆いている。

陸軍はこの時本土決戦に備えて軍の再編を行っており東京に本部を置き、鈴鹿山系から東の本州を防衛する第1総軍、それより九州までの西を防衛する第2総軍を組織していた。
だがその第2総軍の本部は広島市に置かれ、広島への原爆投下で組織・指揮系統に壊滅的な被害を被っており、既に機能不全に陥っていた。
兵士・武器・設備どころか指揮系統すらも滅茶苦茶になっていた第2総軍がもし作戦が決行されていた場合、予想以上に犠牲者を出した可能性は決して低くない。

このように、少なくとも陸軍の大多数は本土決戦のために兵力温存こそが正義と考えており、
「都市を失っても、敵を本土決戦で100万人殺せばいい」とばかりに考えていたようである。
良くも悪くも日本陸軍は、同盟国の鉄血宰相の言葉を実践しようとしていたのが窺える。
その後の第二段階で、現在の長野県松代に陸海軍司令部と政府機能を連合軍が上陸をした段階で移転、天皇を始めとした皇族や高級官僚もろとも松代に退避させ、
第三段階で更に支那戦線に居る陸軍主力で天皇や皇族を護衛して疎開させる計画であった。

昭和天皇がポツダム宣言を受諾した背景には、九十九里の陣地が全く出来上がっておらず松代へ退避する時間が稼げないこと、
仮に成功したとしても行き当たりばったりな指令しか松代から出せないことなどがある。

ちなみに、連合軍は暫定統治機構組織を作って日本政府の権限を移そうとも考えていたが、
当時の日本人の多くは連合軍基準で言えば「狂戦士」と言えるくらいに敢闘精神旺盛な人々であったため、
たとえそれを成立させて、天皇陛下の言葉であろうとも「無理矢理言わせられている!」と解釈し、原爆を何発落とそうとも、あくまで戦い続けた可能性が高い…と思いたいが実際のところは違うようだ。
本土決戦前の日本は極度の食料・物資不足で沿岸に配備された固定師団にすらろくに食料が配給されず、大本営は各師団に現地での自給自足を命じるありさまだった。
そのため軍による農村や現地住民に対する略奪や窃盗、強引な徴収が絶えず行われ、将校は徴収した食料を闇市に横流しするなど軍規は乱れに乱れ、住民も軍に対する反感を強めていた。当時の憲兵司令官は敢闘精神など微塵もみられなかったと戦後に供述しており、実際この時期軍による犯罪が激増したため憲兵の数は2~3倍に拡大されている。
連合軍の被害予測は最悪の場合で死傷者27万人、最も楽観的なマッカーサーの予測で5万人だった(戦死者数ではない)。海上封鎖で主役に立ちたい海軍は多めに見積もり、本土戦で活躍したい陸軍は少なめに見積もったわけだが戦死者が5万を超える予測はなかった。
日本人数千万の犠牲と引き換えに連合軍の若年人口をすり減らし、米英ソは史実の戦後の繁栄を迎えられないという予測は過大評価のようだ。


日本側は最悪民族そのものが絶えたかも知れない
だが、「米国民が民族そのものを滅ぼす戦いに賛成するとは限らない」という主流派の分析もあったという。民主国家である連合国の事を考えるとそれは的外れではない。

ちなみに、軍部は松代からどうやって他の場所に移る予定だったのかはあまり考えていなかったようである。
すでにこの本土決戦前の時点で日本海軍は形骸化していたので満州へ移動可能な船は軍艦含めても無かったはずであり、その辺を考えていなかったのが窺える。
一応は終戦時点でも大陸との物資の輸送は何とか行われていたものの、既に日本海にすら潜水艦が侵入して通商破壊が行われる状況となっており、
安全性を考慮すれば事実上大陸への移動は不可能だったといえる。




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最終更新:2023年12月30日 05:28

*1 敵に甚大な損害を生じさせることでショックを与え、戦意をくじいて和平を引き出そうという虫の良すぎる計画

*2 もっとも日本の国内では既に米内光正や吉田茂などを中心に、密かに和平工作に向けた計画も行われていたのだが、東条英機をはじめとした主戦派の妨害で全く進んでいなかった

*3 ドイツからジェット戦闘機の情報を得ていたため、起死回生をジェット戦闘機に賭けていたといわれている。