ポンティウス・ピラトゥス

登録日:2014/05/10 Sat 13:55:11
更新日:2023/04/07 Fri 13:11:57
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ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。

この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。

民はこぞって答えた。
その血の責任は、我々と子孫にある。

そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
――マタイによる福音書 27章 20-26節


【概要】

ポンティオ・ピラトゥスは、ローマ帝国第五代ユダヤ属州の総督を務めた人物。
一般的には『ピラト』や『総督ピラト』といった呼ばれ方がされている。

『ユダヤ戦記』や『新約聖書』などの書物に登場している。
おそらく世界でトップレベルの知名度を持つ、ローマ帝国の属州総督だと思われる。

キリスト教の影響が強い国の国民で、彼のことを知らない人は、あまりいないかもしれない。
何故ならば、かのイエス・キリストの処刑に関わった総督だと、キリスト教の新約聖書では記載されているからである。

なので新約聖書に登場したピラトの性格の方が世間的には有名かもしれない。
しかし『ユダヤ戦記』と『新約聖書』では人物像が異なっている。
そのため本項目では、それぞれの人物像について記載する。

【ユダヤ戦記でのピラト】


ヨセフスの記述によると、ピラトはユダヤ総督でありながら、ユダヤ人に一切配慮しなかった残忍な性格だったとされている。
このことから実際の歴史上のピラトの性格は、ヨセフスの語るように冷酷で傲慢な人物像だったといわれている。
まぁ、もっとも聖書の方でもピラトが残虐だったことは示唆されているのだが。


ユダヤ戦記では、そのピラトとユダヤ人たちによるエピソードが記載されている。

  • 宗教問題
早速ピラトとユダヤ人たちは問題を起こす。歴代のユダヤ総督は、ユダヤ人の宗教的な感情に一定の対応は見せていた。
そのためエルサレムの神殿には、下手に皇帝の軍旗は持ち運ばないようになどしていた。
エルサレム神殿は、ユダヤ教の神を崇めている場所だからである。

しかしピラトは、ユダヤの宗教的感覚に一切配慮することはなかった、
そのため、平然として神殿に、皇帝の肖像のある軍旗を持ち込んでしまったのだ。

当然これらのことにユダヤ人たちは激怒し、ピラトの住んでいるカエサレアに抗議をしに行った。
しかし、ピラトは何らかの対応を即座にしなかった。ようやく行動し始めたのは6日目のことである。

まずピラトは兵士を、抗議活動中のユダヤ人たちの元に送り込んだ。
そして兵士たちはピラトの命令からか『解散しなければ処刑する』と脅してきたのだ。いくらなんでもやり過ぎである。

しかしユダヤ人たちは、その厚い信仰心からなのか、それともピラトに対しての嫌味なのか、あるいはその両方からなのかピラトに対して発言をする。
それは「律法が踏みにじられるのを見るよりは死ぬ」と言う宣言を言い放った。

ピラトはこれに驚きと関心を感じたらしいのか、結局、皇帝の胸像が付いた軍旗は撤去することにしたようである。


  • 水道管工事事件
ピラトは、エルサレムに水を引くための工事を行った。
しかし、この事業においてもまたまたユダヤ人との間に問題を引き起こす。

ピラトは、この水道管工事の費用を神殿に納められた金、つまりユダヤ人たちが収めた『神殿税』から流用したのだ。
神殿税とは、当時のユダヤ人が言うならば『神への授け物』として収めたようなお金である。
とはいえ、ピラトは単純に神殿税を流用はしなかった。

さすがに神殿税を直接流用したら、ユダヤ人から相当な罵倒がされるのは目に見えて明らかだったからである。
そうなった場合、最悪な事態になるとユダヤ人からの抗議で自身が解任されかねない。

なのでピラトは、神殿の有力者などと協力することにした。
ピラトは、神殿に納められた神への捧げものであった『コルバン』と呼ばれる資金を流用した。
このコルバンは、公共事業に使うことができた。これならば、ピラトはそこまでユダヤ人の抗議は起こらないだろうとも考えたのだろう。

だが結局は無駄であった。
ユダヤ人たちは、一連の行為に怒りを覚え、激しい罵倒を繰り返した。

そこでピラトはこの鎮圧を収める行為に出た。
大量の群集の中に兵士を送り込み、そこで不意打ちのような攻撃を仕掛け、鎮圧することにしたのだ。
しかし死者が大量に出ると問題になるとでも思ったのだろうか、兵士の持っていた武器は、剣ではなく『棍棒』を持たせ制圧させた。
そして鎮圧に成功したのである。
だが、結局はこの鎮圧劇により命を落とした人は数多くいたという。


  • サマリア人との騒動
この事件が今のところ、ピラトの記述に関する最後の事件である。

ある時、大勢の武装したサマリア人が、ゲリジム山に集合した。
サマリア人の集団は、そこにモーセが大量の財宝を埋めたとの伝承に期待して集合したのであった。なんで武装してたんだろうか…

この事件にピラトは関与したようである。
彼の手下の軍隊はそこで、首謀者などの鎮圧にあたった。そこで数多くのサマリア人を殺してしまったようだ。

サマリア人たちは(そもそも何故か武装して山に集合したことは無視して)ピラトの上官に苦情を入れることにした。
そしてピラトの上官であったルキウス・ウィテリウスがやり過ぎと判断したのか、ピラトにローマ皇帝のもとに行くように命じる。
ピラトはローマ皇帝の目の前で今回の事件について釈明することになったのである。そこで、彼はローマへと向かった。

しかし彼の旅の途中に、当時の皇帝だったティベリウスはこの世から去った…
ティベリウスの死去が記載された記述から、ピラトの辞任は紀元後37年のことであったと推測されている。
これ以降のピラトの行方を描いた確かな書物は存在しない。


【新約聖書でのピラト】


多分こちらのピラトの方が、上述のユダヤ戦記のピラトより有名だと思われる。
聖書でのピラトの様子は、イエスに対して従来言われている残虐な性格は見せていない。
また新約聖書では珍しい、洗礼者ヨハネとともに『非宗教的な歴史書で確かな存在が確認されている』人物でもある。

ピラトはマルコ、マタイ、ヨハネ、ルカのいずれの福音書にも記載されている。
そこでイエスの処刑に関与することになる。

各福音書ごとに記載すると、描写の違いから、項目がさらに長くなるためとりあえずまとめて説明する。

ピラトは『イスラエルの王を名乗り、国民を扇動した』という罪状で送り込まれてきたイエスと対面することになる。
マタイ福音書の記述によるとイエスに対して、罪状は確かかどうかの尋問を始める。

しかし尋問の結果、ピラトはイエスに何の罪も見いだせなかったとの答えを出す。

彼は最初からイエスの処刑に関しては消極的だったようである。福音書ではその理由が記載されている。

まずピラトは元々イエスがユダヤ人たちの妬みから、無理矢理罪状をつけられ送られてきたことを知っていたようである。
また福音書では、ピラトの妻がイエスに関する夢を見て、イエスに関わらないようにピラトに進言したと記載されている。

またピラトはイエスの処刑に関して様々な行動をしている。

この裁判に絡むと面倒なためか、まず敵対していたヘロデ・アンテパスの元にイエスを送り込んだようである。
結局は、イエスはヘロデの元で侮辱を受け、派手な服を着た状態でピラトの元に送り返されている。
ちなみにこの一連の流れの後、ピラトとヘロデは仲が良くなったとか。

また、ピラトはイエスを民衆の目の前に連れ出した。
そこで彼は「この男に私は何の罪も見いだせない」と発言し、イエスを鞭打ちをして釈放することを提案する。
しかし民衆や祭司長たちはその提案を却下した。

ちょうどその時期は"過ぎ越しの祭り"*1のころであった。
慣例では祭りのたびに罪人の1人に恩赦を出すことになっており、ちょうどイエスの他に殺人等の罪で捕まっていたバラバという男がいた。

ピラトはイエスとバラバ、どちらを解放するかを民衆に問うが、民衆はバラバのほうを釈放し、イエスを十字架に付けるように要求する。

また「イエスを釈放するならば、あなたは皇帝に背くことになる」といった発言を祭司長などからピラトは警告される。
この警告に恐れをなしたピラトは、結局処刑の要求を呑むことになった。

最終的にピラトは水を持ってこさせ、民衆の目の前で手を洗った。
そしてこの項目のアタマにあるやり取りを行い、自分の無実を主張し、イエスの処刑に関してはユダヤ人に責任があるとした。

結果的にイエスは十字架刑により、処刑される。


新約聖書の福音書に出てくるピラトは、ユダヤ戦記のピラトと比べるとそこまで残虐性がないようにも見える。
とは言え、どちらの書物にも記載されているようにユダヤ人に対して好意的ではなかったようだ。

またピラトが残虐な人間だったことは『ルカによる福音書』でそれらしいことが示唆されていることから、良い人間としては描かれていない。
そして、イエスの裁判から分かるように彼自身は総督の立場を守るために、色々と苦労しているように見える。

それであって、何故かピラトが新約聖書で『イエスを解放しようとしたけど駄目だった人』として描かれているのは裏の事情があるとする説がある。
原始キリスト教がローマ帝国内で普及するためにこのような描写がされたという考え方だ。

ローマ帝国側の人間だったピラトをこのような人物に描くことでキリスト教が、帝国に逆らわない宗教としてのアピールがあったのかもしれない。
そしてこれによってイエスを処刑した罪を、ユダヤ人に被せるといった目論見もあったとするならば、この説も一定の説得力を持つ。

どちらにせよ新約聖書で、イエスの裁判に関わったとされるピラトは、属州総督として後の世にかなりの知名度を残すことになった。


【謎】

  • ピラトの経歴

ピラトはまず、総督就任前に何をやっていたかに関しては、どの書物でも一切触れられていない。
ただし属州総督として就任したのは、当時ローマ帝国で力を持っていたセイヤヌスが関わっているという説が存在する。

話がそれるが、ピラトがユダヤ人軽視での統治を行ったのもこのセイヤヌスの影響と言われている。
確かな説ではないが、セイヤヌスはユダヤ人が嫌いだったという話がある。
その結果ピラトの統治はユダヤ人軽視になったのではないかと言われている。

  • ピラトの末路
総督辞任後のピラトについてはよく分かっていない。

歴史家であり、ギリシア教父だったエウセビオスは、ガリアに流され自殺したとしている。
しかしエウセビオスの記述は、護教的記述の面が強く、説得力があるとは言えない。

東方諸教会や一部の宗派では、ピラトはイエス処刑後に罪を償い、キリスト教の熱心な信者になったとしている。
だがこれも、歴史的な視点から見ると作り話的な側面が強い。

このようにピラトの最後を書いた書物の多くはキリスト教の書物が多い。
その最後は、どれも歴史的な根拠に乏しく、歴史的資料としての正確さはあまりない。

とりあえずピラトは一般的には、今のところは『自殺』扱いとなっている。


【評価】

  • キリスト教内
前述したように、一部の宗派では聖人扱い、あるいは同情的な人物とされている。

しかし彼に関しては批判も多い。
一般的なキリスト教では『最終的には自己の保身のために、罪のないイエスを処刑した』という批判がされている。

  • 総督として
ユダヤの総督でありながら、ユダヤの宗教に一切配慮しなかったとして当時の資料や歴史家の間では酷評されている。
性格に関しても穏やかな面はあまり見られず、彼のエピソードは冷酷さを感じさせるものが多い。

とはいえ、当時のローマ帝国の属州であったユダヤは何かと宗教的な問題が毎回起きていた。
そんな中、10年ほど総督を務められた彼は、なかなか有能だったのではないかと言われている。

歴史的資料としての信頼性はないが、新約聖書でもイエスを処刑した際のエピソードでは、彼の保身の上手さが見える。





と、このように、彼の評価はキリスト教内の宗派や信者によって見方が異なっている。
キリスト教内でも評価が安定しない人物というのは面白い。

彼に関しては聖書を読んで、
『自己保身のためにイエスを救わなかった』か『結局イエスを救えなかった人間臭い人物』のどちらに見るかによって評価が変わるのだろう。

また彼自身は、歴史上に間違いなく存在した人物ではあるのに、彼の経歴や末路について残された謎が多い。
彼のいた時代から2000年近く経ってしまっている現代では難しいかもしれないが、彼に関しての新資料が発見されることを願いたい。




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最終更新:2023年04月07日 13:11

*1 エジプトで奴隷扱いされていたユダヤ人のために、神が下した災いの一つに由来する。