人間魚雷・回天

登録日:2014/02/15 Sat 18:16:18
更新日:2024/04/16 Tue 11:22:46
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特攻、この言葉から想起するものは何であろうか? 蛮勇? あるいは愛国心? はたまた狂信?

その辺は個人の思想故に筆者が見解を強制できるものではないが、命をもって戦果を挙げるという発想は、世界を見渡してもそこまで珍しいものではなかった。
第三帝国を名乗ったドイツも、ソ連の猛攻に晒されベルリン陥落が目の前に迫った辺りになると、ゾンダーコマンド・エルベなる部隊を組織し特攻を行っていた記録がある。

しかし旧大日本帝国軍ほど、作戦の要としてコレを起用し、命を使うような組織はなかったであろう。
機動力が売りの零戦に爆装を施す他にも、様々なモノを乏しいリソースからひねり出し企画した。
「BAKA BOMB」こと桜花、上陸艇を狙う突撃モーターボート震洋は有名だろうか。
その先陣を切って誕生した忌み子、それこそが回天である。
回天とは幕末期の艦船回天丸より取られ、「『天』を『回』らし戦局を打開する」という願いが込められたものであったが、戦局打開はならなかった。

性能諸元

  • 全長:14.75m
  • 速力:30ノット
  • 射程:23000m/30ノット
  • 炸薬:1.55t
  • 安全潜航深度:80m

※他にも速力重視の2型、電池魚雷を利用し後進や待機が出来る様になった10型もあったが量産ラインに乗らなかった。

回天を搭載・搭載予定だった主な艦

  • 伊47(回天初出撃の玄作戦にて搭載、給油艦ミシシネワ、揚陸艇撃沈)
  • 伊53(回天で護衛駆逐艦アンダーヒル撃沈)
  • 伊58(多聞隊、通常雷撃で重巡洋艦インディアナポリスを撃沈する大戦果)
  • 北上(元重雷装巡洋艦、回天搭載用に改装されるが呉軍港空襲で大破)

開発経緯

日本が誇った独自技術の粋を集めた酸素魚雷。スピード・航続距離・航跡が見えないステルス性・推進力が高いため大量の炸薬を積める積載性。すべてにおいて連合国の魚雷を上回る強大なものであった。
軽巡洋艦大井・北上の重雷装艦改装、駆逐艦島風の重雷装高速駆逐艦設計はこの酸素魚雷の性能を前提においたものである。
連合国も「ロング・ランス(長槍)」と呼び恐れた。伊19が一回の雷撃で空母を含めた二隻を沈め、戦艦を中破させた大戦果はあまりに有名である。
ところがどっこい、このロング・ランスは扱いが非常に難しい物であった。
速過ぎるが故に磁気信管を使えないため、接触信管を使用していたのだが接触感度を設定し間違え波にぶつかった衝撃で暴発、逆に当たっても炸裂せず、
酸素が充填されているためメンテナンスも大変、長射程が仇になり外れた魚雷が遥か彼方の味方を撃沈せしめるなど色々とアレな部分も多かった。
特に信管の問題、速過ぎるが故の精度の低さには頭を悩ませていた。

信管技術の発達は進まず、戦局も悪化しつつあったガダルカナル島失陥後には、すでに人間魚雷の発想が各方面から挙げられていた。
日清・日露戦争の頃からある肉弾攻撃の概念が頭をもたげたが、軍令部はそれを拒絶。
それでもこの発想は無くなる事は無く、1943年末になると甲標的搭乗員であった黒木博司大尉・仁科関夫中尉の二人が軍令部の藤森康男中佐を通し、回天の原案を建言する。
当時の軍令部総長永野修身大将は拒絶したものの、軍令部にこの発想を目に止めた者が居た事や
1944年になり戦局は悪化の一途を辿ったこと、黒木が全面血書の請願書*1を提出していた事も影響したか、
2月に海軍工廠に試作品の作成を命じる。ただし、「脱出装置の実装」という条件をつけての開発開始であった。

こうして○六(マルロク)というコードネームを与えられ、開発が始まった。母体となったのは酸素魚雷の中でもやや旧式化していた大型魚雷・九三式三型酸素魚雷。
これを元に急ピッチで開発が進み、7月には試作機の試験が行われたものの、評価は芳しくなかった。
「魚雷の改造だからバックできない、一回しか突撃出来ないのはどうか」「旋回半径が大き過ぎる、操作性に問題があるのでは」
「潜水艦搭載なのに80mしか潜れないんじゃ潜水艦が危険過ぎるし、潜水艦の機動力を殺ぐ」という3つの問題点が浮上。
さらに、結局脱出装置は実質配備されていなかった。一応搭乗ハッチは手動で中から開けることは可能で初期訓練中の事故時には水中から脱出はできたものの、実戦で外洋の海中から脱出できるわけもない。
このため出撃後に外からハッチを固定して出れなくしたというのは デマ である。そんな無駄なコストをかけなくても出られないからだ。余計にたちが悪いわ
結局は必死必殺で臨む他無い兵器という面は改善されなかった。
ところが海軍はこれを制式兵器として認可してしまった。6月のマリアナ沖海戦の惨敗で追い詰められていたとはいえ、自分で付けた前提条件を破棄する辺り判断力がおかしくなっていたのだろうか…
1944年8月、マルロクに「回天」という名が付き、山口県大津島など各地に搭乗員養成のために基地が作られる。回天特攻の始まりである…

実戦での戦果

こうして搭乗員の養成と回天の量産が始まったのだが、資材不足で量産も予定通りに進まず、
さらに潜望鏡から覗いて射角・所要時間を設定し、標的のルートが航路と重なる事をお祈りしながら突撃という操縦法は、会得にかなりの手間を要した。
特に最も有効な夜間突撃は非常に難易度が高く、「手脚と目が六つないと無理」と優秀な訓練生に言わしめるものであった。
訓練も過酷を極め、発案者の一人である黒木大尉は訓練中の事故で瀬戸内海の底に沈んで帰ってこなくなった程である。
黒木大尉は発案者ということもあって無茶をしがちで、沈んだ日も荒天時に訓練を強行したが故であったが。

初陣となったウルシー環礁泊地襲撃ではアメリカの油槽艦ミシシネワと揚陸艇を撃沈せしめる戦果を挙げた。
この時、発案者の一人であった仁科中尉は黒木大尉の遺骨を抱き特攻。ミシシネワを撃沈したという。
その後も泊地襲撃を幾度となく試みるが、厳重な警戒を敷くアメリカ軍の前に大半が失敗。
より難易度が高いが確実と思われた洋上襲撃に力点を移していく。

しかし残念ながらその成果は芳しくなく、その戦果は先の2隻にくわえ

撃沈
  • バックレイ級護衛駆逐艦「アンダーヒル」
損傷
  • リバティ船「ポンタス・H・ロス」:(損傷軽微・負傷なし、死亡なし)
  • ラッセン級輸送艦「マザマ」:(中破・負傷13名、死亡8名)
  • アンタレス級貨物船「アンタレス」:(損傷軽微・負傷なし*2、死亡なし)
  • バックリー級駆逐艦「アール・V・ジョンソン」(小破・負傷なし、死亡なし)

と悲しい結果に終わっている。
出撃数(※母艦に搭載された状態で出港した数)が153基、その内49基が発射された戦果であることを考えると成功率そのものは悪くはないのだが、調達価格が通常魚雷の10倍前後にも達すること、搭乗員の育成コストがかさむこと、運用中の母艦の防御力が著しく低下すること*3などを考慮すると、上層部的には「期待外れ」と言わざるを得ない戦果であった。

しかし実際の戦果はともかく心理的効果はそこそこあったのか、フィリピン~沖縄戦にかけては、アメリカ軍の指揮官たちも回天を強く警戒している記録が残っている。
海軍中佐だった吉田俊雄の手記によれば、終戦後にアメリカ海軍から「洋上に出撃した回天部隊の動向把握と停戦命令」を日本側に要求されたとされているほど。
アメリカは民間船舶の被害統計を今に至るまで発表していないこともあって、実は商船に対してなら知られていない回天の戦果がかなりあったのでは?とも言われているが、*4推測の域を出ない。
というかそもそも使用記録から算出される命中率が15%程度であることを考えると、出撃数と喪失数を顧みるに「記録外の戦果」はあまり期待できなそうだが・・・・・・

とはいえ、基本が魚雷である回天の機動性は決して高いものではなく、また射程も延ばされたとはいっても決して十分ではなかった。
なによりもスロットル操作が微妙で、手順を少し間違えるとすぐにエンストしてしまう「冷走」という問題は根本的には解決しきれなかった。

だが魚雷を一回り大きくしただけという極端な小ささのため、アメリカ軍としては一旦発射された回天に対して有効な対策を持つことができず、
発射前に母艦ごと沈めること以外はなんとかして回避するしかなかった。
洋上で撃沈された駆逐艦アンダーヒルの場合、発進した回天は敵艦の動向を把握しつつ巧みな操縦で、回避を繰り返すアンダーヒルに見事命中した。
この件は詳細なバトルレポートがアメリカ側に遺されており、沈着冷静な操縦ぶりと勇敢さが惜しみなく(アメリカ側から)賞賛されている。

本土防衛戦になった場合、各地の基地からわずかな望みを胸に、無数の回天が伊号に乗って洋上襲撃任務に行けなかったくらいの未熟な搭乗員を載せ
米軍に突撃する地獄絵図が展開されるところであったが、1945年8月15日に日本が降伏し終戦となったため、その地獄は現出せずに済んだ。

出撃:49基
撃沈:駆逐艦1、給油艦1、揚陸艇1
その他与えた損害:大破1、小破4
搭載母艦損害:伊号潜水艦6隻
戦死搭乗員平均年齢:21.1歳


後世の評価

最悪である。まあ仕方がないところであろうか…。
とはいえ、イヤイヤな人間を無理やり乗せただの(むしろコンセプトの時点で搭乗者が率先して突撃しないと当たらない)、
ハッチは開けられないようにされただの(水中じゃなければ問題なく開けられた。単に最も必要な場面では開けられなかったというだけである)、
一切の戦果を挙げられなかっただの(最初の方は一応戦果を挙げている。それが魚雷よりはるかに高い製造コストと、厳しい訓練を潜り抜けた優秀な兵士とに見合うか*5は別問題)、
大嘘や誇張で叩く様な向きもあり、あまり正しい評価をされているとはいえない。
せめて脱出装置だけでも妥協しなければもう少し風当たりは弱かったかもしれない。

なお回天の搭乗員は全員予科練、つまりエリート中のエリートである(しかも全員志願)。
燃料や機材が足りなくなり、パイロットへの道を閉ざされた若者達が回天を選んだのだ。

余談だが世界一般的に「人間魚雷/有人魚雷(Human torpedo/Manned torpedo)」と言えば「敵の港に潜入して船を攻撃する潜水工作兵が搭乗する水中スクーター」を指すのだが、
日本でのみ回天が強烈なインパクトを残しているためイメージするものが異なるという弊害も残している。

回天を取り上げた作品

  • 出口のない海(横山秀夫/小説・映画)
  • 真夏のオリオン(脚色福井晴敏/映画)
  • 特攻の島(佐藤秀峰/漫画)
  • 金田一少年の事件簿(天樹征丸・さとうふみや/漫画)

など


ちなみに艦隊これくしょん -艦これ-では、運営から回天をはじめとする特攻兵器そのものは実装しない(特攻兵器に改造された物や特攻兵器母機となった物などは改造前や特攻兵器を積まない状態を「本来の仕様」として採用・実装している)旨が明言されている。
また、史実で回天と縁のあった一部の艦娘は「アレ」とぼかしながら(どちらかと言えば「名を口にするのも忌まわしい物」と認識してる感じ)も回天の搭載を嫌がる台詞がある。




追記・修正は特攻志願書に二重丸してからお願いします。

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最終更新:2024年04月16日 11:22

*1 黒木は戦時中のいわゆる「皇国史観」の第一人者である歴史学者・平泉澄の薫陶を強く受けた「皇国青年」であり、平泉自身も戦後黒木に言及している。

*2 ただし視認した回天を攻撃中、過失や火器の暴発で負傷者11名を出している

*3 回天は小型な分限界深度が浅く、搭載したままでは母艦もその深度までしか潜れないため、発見されやすく&撃沈されやすくなってしまった

*4 ただし公表されていないだけなので実際のところは不明瞭である。少なくとも作戦行動中の潜水艦は8/15に玉音放送を聞けたような艦は無いだろうし、まず停戦させなければ油断した友軍が食われる、という意味でさっさと連絡しろとなったのかも知れない。

*5 特攻戦術自体の矛盾ではあるが、そもそも特攻を成功させられる程の技量がある兵士ならば、特攻でその命を散らせるのはあまりにも惜しい訳で…