宗教

登録日:2010/12/20 Mon 14:39:39
更新日:2024/03/24 Sun 21:05:18
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心の空洞を癒すものとして、必要なとき、常に頼れる絶対者を求める根源的、精神的な営み。
また、その必要性を求めることの意義を説く教え(新明解国語辞典第六版より)。



私は神の存在は信じるが宗教は信じない

ーギルバート・グリッソム


注意!
ここより先には編集者の思想、偏見、意図が入り込む余地があります。
決してそういうものだ、という確定事項ではありません。また宗教における価値観を否定、非難するものでもありません。



宗教と一口に言ってもその種類は様々。
何を崇拝するか、何をすべきか、何をしてはいけないか等の決まり事も様々。
しかもある宗教ひとつを取り出してみても、救われ方やすべきこと、あるいは信仰の対象さえ違うこともある。
これらを宗派と呼ぶ。


有名な宗教と宗派をあげるなら


このあたりだろう。
これらは世界宗教ともいい、世界中のあらゆるところに分布している。


もとは一つであったはずがなぜ分裂するか。
大抵は「理解の仕方、あるいは見解の違い」である。

これが宗教間問題に発展すると、さらに面倒なことになる。


宗教間の違いは、例えば複数の神を信仰するものと唯一の神を信仰するものでは、すでに前提が違う。

」という万能の偶像を作り上げてそれを崇拝するものと、
人間が抗えないもの(≒自然)を神という絶対者に置き換え崇拝するものでは、そもそも足場が違う。


なぜ見解に違いがおこるのか。
それは創始者が布教をする際に言葉を変えて信者になることを薦める、あるいはすでにある教えを信者が改めて解釈する、等々枚挙に暇がない。
一番大きな理由としては布教をするには口伝である、あるいはそういった外的要因でしか伝達ができないといった部分にあるだろう。

逆に信者が全て同じ理解、同じ見解をもっていれば、それは布教ではなく洗脳である。
しかしある程度の一致は組織上必要であり、誰もが自分勝手な意見を言い出すとそれは分裂の原因となるので、ほどほどのバランスが必要である。




宗教が布教される理由は普通、

「わたしは救われる為の偉大な答えを得た。わたしだけが救われるのでは、皆に悪い。救われるべきはわたしのみでなく、人類であるべきだ」

という隣人愛からであるはず。
そもそも宗教が「悪意から救われる」為の、悪く言えば逃げ道である為、
もしそれ以外の理由であるならばそれは「宗教を広めたいから広める」というようなまるで信者が増えれば増えただけ得がある、
というように本末転倒なものになりかねない。


その為、布教をする機会があるならば「それを信じ実践することで何が得られるか」をじっくりと説明したあとで答えを聞くべきだろう。
宗教を信じる自由があるとともに、それは宗教を信じない自由も示しているのだから。




宗教の自由といっても、誰もが平等にどんな宗教でも信じてもいいという訳でもない。
政教分離の原則があり、宗教と国家は決して交わってはいけないとする国(むしろ国家≒宗教とする国もあるが、日本は憲法で定められている)もある為、
そういったところでは国家に属する人間はある程度そういった面で自己を殺す必要もある。

但し、政教分離とは「国家権力が特定の宗教を優遇も弾圧もしてはならない」というものであり、政治家が宗教と縁のない人生を送ることを強いるものではない。あくまでも一個人として(政治家としての立場を持ち込まないで)関与することには特に問題は無く、何かにつけて「公人か私人か」を報道機関が確認したがるのもそういうところに理由がある。
また、宗教者である人が政治活動に参加したり、何らかの政治的意図を含んだ発言をしたりすることも政教分離論とは無関係である。あくまでも公権力の行使のされ方が主たる問題であるため、公務員たる立場にない宗教者に対して、持ってもいない権力の使いようを問うのがいかにトンチンカンな議論であるかは言うまでもない。

なぜ政教分離が実施されるのか。
それは宗教によって他人の殺害を認めるだけでなく、推奨あるいは命令することも可能になりうるからである。
但し日本の場合は戦後日本の精神的支柱を取り去って「骨抜き」にしようとした当時のアメリカの思惑も絡んでいる。

とは言え、日本でもこの規定はあいまいで、政治家が「個人」としてでなく「政治家」として宗教施設を参拝したり、
地元の神社の信者総代として活動したりすることもある。



宗教における大きな問題といえば、先に述べた国家による弾圧や虐殺、戦争の原因となったことだろう。

日本で見れば靖国神社関連、国家に属するはずの政党を支援している団体が宗教に関連している等、
宗教にうるさく関与していない国であるのに問題は発生している。

宗教を信仰する人間がいるように、そうでない人間もいる。
そのような思想を持つことを無宗教と言うが、完全に無宗教である人間はあまりおらず、また無神論者とも区別される。
無神論者は神を否定する*1が、無宗教者はそもそも神とか仏とか、そういった類いを気にするのではない。
また日本人で無宗教を謳う人物は、大抵無宗教ではなかったりする。
というのも意識の問題であり、本人に自覚がなくとも実家が檀家であれば仏教徒扱いになるし、
そもそもことあるごとに神社や寺に行き願い事をするあたり、ある種複数の宗教を浅く信仰しているともとれるからだ。


外国で無神論や無宗教と言うと善悪の判断基準が無い→何をするかわからない→距離を置くべき人間と認知されることがあるので要注意。
無宗教ですと名乗ったら「こいつは人の墓に小便引っかけるようなマネしても平気な奴なんだな」くらいに思われたり、特に反共産主義的な思想が根強い国では、マルクス主義が宗教を否定していたこともあり、「無宗教=敵」、早い話がスターリンやポル・ポトの同類と認知される恐れもある。
何か特殊な理由があるのでない限り、どうせ親の家には仏壇くらいあるだろうからブッディスト(仏教徒)とかシントイスト(神道信者)と言っておいた方が無難な場合が多い。

たとえ違う宗教であっても、宗教信者であるというだけで無宗教よりは安心と言うことも多いのだ。
なんだかんだで、世界宗教と言われているような宗教は一般人に無理のない平和的な教義のものが多い。
メジャーな宗教を信仰しているだけでも「人を大事にする信仰を持っている人」という印象を持たせることができるのである。



日本では某真理教某学会といった一部の過激でアレフな宗教の存在、
伝統的な宗教でも厳かであるはずの結婚や供養一つに莫大なを要求する等といった拝金主義な活動が目立つ
(もちろん運営や維持する上で必要な資金もあるので一概に法外とは言えないが)等の理由により、宗教には否定的な人が多い。

かと言って、節度ある範囲で信仰している人を「宗教を信じているから」と言うだけで、
面と向かってカルトだの基地外のクルクルパー扱いしたり、いじめや村八分等で迫害したりするのも、それはまた信教の自由を侵害していると言える。


よくある間違いとして、「宗教法人には全く課税がされない」という思い込みがある。
収益を得た手段によっては法人税の課税があり*2、所有財産に対する税金も宗教法人だろうが関係なく課税されるものがある*3。さらに言うと、宗教者個人の給与・報酬に対する所得税や住民税は普通の就業者と同じ条件であり、むしろ昭和27年の省庁通達がいまだ有効なせいで宗教活動専従者は雇用保険と労災から排除されている分、公的保険に関しては一般的なサラリーマンよりも待遇が悪い。

ちなみに宗教法人がその本来的活動(宗教活動)で得た収入に法人税の課税が無い理由は、法人税の目的と課税の客体がそもそも何であるのかを正しく理解しているとすんなり納得できるのだが、その説明を長々ここで行うのはアニヲタwikiの趣旨とは到底相容れないので、Wikipedia「宗教法人」等もよく参照されたい。


追記修正よろしくお願いします。

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最終更新:2024年03月24日 21:05

*1 そもそも神の存在しない宗教も存在する

*2 法人税法施行令5条に指定された業種を行った場合は、課税の他、収支報告を税務署に提出する義務が生じる。また、宗教活動それ自体と経理を完全分離しなければならないなど制約も多い。

*3 例えば自動車税。地方税法に規定された免除対象者に宗教法人は入っていない