岩隈久志

登録日:2013/12/05 (木) 02:51:08
更新日:2024/02/14 Wed 08:29:58
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岩隈久志はプロ野球大阪近鉄バファローズ東北楽天ゴールデンイーグルス読売ジャイアンツなどに所属していた元プロ野球選手。
ポジションは投手、右投右打、背番号は18
1981年4月12日生まれで42歳。東京都東大和市出身。

  • 来歴

  • 近鉄時代
1999年のドラフトで大阪近鉄バファローズから5位指名で入団。
2001年5月29日の対日本ハムファイターズ戦の8回裏1点リードの場面で初登板。
しかし9回裏に小笠原道大に同点HRを浴びてしまい延長戦の末に近鉄が勝利して岩隈自身も初勝利を得るも「自分がちゃんと抑えていたら勝てていた試合なのに申し訳ない」と喜びは無かった。
同年は後半戦で先発ローテに定着し完封1度を含む4勝2敗 防御率4.53を記録。
日本シリーズにも出場した。
2002年は23試合に出場して8勝7敗 防御率3.69と前年を大きく上回る成績をマーク。
2003年は15勝10敗 防御率3.45 リーグ最多の11完投 最多無四球試合を記録。
2004年は開幕12連勝を記録して最終的に15勝2敗 防御率3.01 最多勝と最優秀投手(最優秀勝率)のタイトルを獲得。

着実に近鉄のエースとして成長していたが・・・・・。

親会社が経営難から球団消滅にも陥っていたがオリックス・ブルーフェーブと合併してオリックス・バファローズとして生まれ変わる。
しかし岩隈はオリックスへの移籍を拒否して新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスへ金銭トレードで移籍。
一応トレードの形なので、ほぼ所属していた時期はないが経歴上はオリックス・バファローズに所属していた扱いとなっている。

  • 楽天時代
2005年は球団初年度の開幕試合投手に抜擢され1失点完投で勝利。
しかし肩の故障もあり9勝15敗 防御率4.99と不本意な成績で終わる
2006年は同年より禁止となった2段モーションを変更するためにフォーム改造を行うが固まらずにいた。
前年に痛めた肩の影響で8月末まで登板無しなど1軍定着後自己最低の成績となってしまった。
2007年は開幕投手に抜擢されるも肩の影響で登板を回避。
同年も故障の影響で思うような成績が残せず本人も引退を覚悟するなど悩む2年間となっていた。

いつしかガラスのエースと不名誉なあだ名までつけられる程になっていた。


しかし2008年、エースは帰ってきた。
2年連続で開幕投手に抜擢されると自身に勝敗は付かなかったが7回1失点の好投をした。
3月27のオリックス戦では楽天移籍後初の完封勝利を無四球で飾りその後も勝ち星を量産、6月15の巨人戦で4年ぶりの10勝目を無四球完封で挙げて8月16日のロッテ戦戦では自己最多の16勝を挙げる。
9月22日の対西武戦でパ・リーグでは2003年の斉藤和巳以来の20勝に到達、1985年の佐藤義則以来23年ぶりの21勝を挙げて最多勝を獲得。
防御率ではダルビッシュ有を抜き、勝率でも小松聖を抜いて投手三冠に輝く大活躍で21勝4敗 防御率1.87をマークして沢村賞を受賞。
同年の成績で特筆すべき点はリーグ最多の201回と2/3を投げて被本塁打が3という少なさで200イニング以上を投げてこの被本塁打数は58年の秋本祐作以来50年ぶりの快挙となった。
また、同年のチームの勝利数が65勝であるから岩隈一人で1/3近くの勝利を稼いだ。

まだまだ弱小だった時代の楽天でこの成績は歴史に残ること間違いないだろう。

2009年は第二回WBCに出場。
大会に出場した全投手の中で最多の合計20回を投げ3失点で防御率1.35を記録して日本の連覇に貢献、松坂大輔が2大会連続のMVPを受賞したが多くの野球ファンからは岩隈こそがMVPと言われ当の松坂本人も岩隈がMVPだと思っており「クマに悪いな」とコメントしていた。

シーズンでは開幕戦でダルビッシュ有と投げ合い6回1失点で勝利する。
100球未満で降板する試合も多々あり、6月途中で登録抹消されるなど再びガラスのエースとなると思われたが7月に復帰。
最終的に13勝6敗 防御率3.25を記録するが自己ワーストの1試合4被本塁打、リーグ最多被安打を記録するなど精彩を欠く一面もあった。
チームは2位を躍進しプレーオフへ出場、第1ステージのソフトバンク戦では完投勝利を挙げる。
日本ハムとの第2ステージでは8回3失点と好投するが援護無く敗戦、3敗で迎えた4戦目にビハインドの場面でリリーフとして志願登板したがひだまりスレッジことターメル・スレッジに勝負を決定づける3ランホームランを打たれチームは敗退、野村監督の引退を勇退で飾ることが出来なかった。
この際を見せ本人曰く野球で泣いたのは初めてとのこと。

2010年は自身2度目の200イニングを達成、防御率も自身初の2点台を記録。
エースとして活躍するが勝ち星は10勝9敗と伸びず無冠に終わった。
オフにメジャー挑戦を表明、球団も功労者に敬意を表しポスティング・システムの行使を容認、オークランド・アスレチックスが交渉権を獲得するが互いの条件が折り合わず交渉決裂となり楽天への残留が決定。

2011年は5年連続となる開幕投手を務め勝利を挙げる。
しかし再び肩の故障の影響で2ヵ月以上の離脱を余儀なくされ、復帰後も100球未満での交代が多くなった。
規定投球回数には届かなかったが防御率2.42、*QS達成率84%を記録する。(*QSとはクオリティ・スタートという先発投手を評価する指標で達成率が高い日ほど優秀な先発投手とされる。条件は6回以上を投げて且つ自責点3以下が達成で、6回を投げた時点で自責点3以下でも6回以上を投げて4点目以上を自責点で失点した場合はQS達成にはならない。)
オフにはFA権を行使して再びメジャー挑戦を表明。
翌2012年1月5日にシアトル・マリナーズと年俸150万ドル+出来高の契約で移籍する。

  • マリナーズ時代-

2012年
開幕メジャー入りはしたもののオープン戦で結果が出なかったため先発ローテーション入りは出来ず、4月17日まで出番が無く現地ファンからは「岩隈って誰?」 「岩隈なんて居なかった」と言われる始末。
またトレーナーからは「他のメジャー選手に比べて右肩周辺の筋肉が弱く、先発での中4日では難しい」と言われて筋力強化プログラムを開始。
すると球速も上がり、肩の痛みを無くなったと言いリリーフで徐々に結果を出し始めると7月にボルティモア・オリオールズ戦で初先発、この試合にはイチローとそのストーk・・・ではなくイチローのファn・・・でもなくムネリン(ホモリン)こと川崎宗則も先発出場してメジャー史上初の同一チームでの日本人選手3人が先発出場した。
後半戦から先発ローテに定着、9月にはダルビッシュ有とも投げ合い沢村賞投手同士の投げ合いが実現。
最終的に先発投手としては16試合に登板し8勝4敗、防御率2.65、WHIP1.23を記録。
防御率はチームの絶対的エースのフェリックス・ヘルナンデスが2005年に記録した2.67を抜いて球団新人記録となった。
オフに2年総額1400万ドル(3年目は年俸700万ドルの球団オプション)で契約延長。

2013年
スペ体質と言われていた汚名を返上する1年となった。
開幕からローテーション入りして好投を続け、開幕から18イニング連続無四球や6月10日のアストロズ戦までホームのセーフコ・フィールドでは前年から9試合連続でQSを達成し続けたりバーランダーに投げ勝つなど安定した投球でダルビッシュ有、黒田博樹と共に日本人投手の質の高さを見せつけた。
前半戦を防御率が3.02 8勝4敗折り返す。
特に夏前までは防御率1点台、メジャーダントツ1位のWHIPを記録していたなど一時はメジャー最高投手との声も上がり、更にヘルナンデスと岩隈のローテはメジャー最高の1番手&2番手コンビと評された。

またオールスターにも選出されたが先発ローテーションの都合でダルビッシュ有と共に登板機会はなかった。
マックス・シャーザーと会話するシーンがあったものの英語はあまり得意でないらしくほぼぼっちで居ることろを映されていた・・・・。

これまで多くの日本人選手が疲労でオールスター明けに調子を崩し成績を落としていったがそんな様子を見せることなく安定した投球を続けプレーオフを目指す強豪チームへの引き抜きの声も少なくなかった。
バーランダーとの2度目の投げ合いにも勝ち、現役最最強打者のミゲル・カブレラにも惜しみない称賛を送られた。
後半戦は先発試合で13登板して6勝2敗、防御率2.14、WHIP1.11の好成績で特に9月は月間防御率が0点台を記録して最後の3試合では23回連続無失点をマークするなど安定感では日本人№1と言える内容だった。
結局終わってみれば絶対的エースのヘルナンデスが後半戦で調子を落としていく中で好投をし続け実質エースとしてフルシーズン怪我することもなくローテーションを守り抜いた。

成績は最終的に同年の日本人最多の14勝6敗 リーグ3位の防御率2.66(日本人選手歴代2位) リーグ2位のWHIP1.01(同じく日本人選手歴代1位) リーグ3位の219回と2/3イニング、投手ではリーグ1位の*WAR、リーグ3位の被打率.220など各成績や指標で軒並みリーグ上位に入り総合の成績では日本人最高とも言える1年となった。(*WARは同ポジションの平均的な選手と比べてどれだけチームに勝利を上乗せ出来たかという指標。リーグ1位はエンゼルスのマイク・トラウトの9.0)
更にタイガースのマックス・シャーザー、レンジャーズのダルビッシュ有と共にサイ・ヤング賞の最終候補3人に日本人が複数人残る快挙も達成するなど全米に岩隈久志の名前を轟かせた。

結果論になってしまうが岩隈を逃したアスレチックスはきっと悔しがっているだろう……。

  • 読売ジャイアンツ時代-

その後も2016年にはメジャー最多となる16勝を挙げるなど活躍したが、2017年以降はケガに苦しみ2018年をもってマリナーズを退団。
2019年からは日本球界に復帰し、読売ジャイアンツに入団した。
しかし、右肩のリハビリが長引き、入団以降一軍での登板は果たせずであった。
2020年も復帰できず、遂に引退を表明した。


☆選手としての特徴

三振を奪うこともできるが基本的には球を低目やコーナーに決めて打者を内野ゴロで打ち取るグラウンドボールピッチャー。
制球力に優れ、30球団の監督が選ぶベストツールという投手、野手のそれぞれの能力で優れた選手を挙げるアンケートでは2013年の制球部門でアメリカン・リーグ投手の3位に選ばれた。
球種は平均球速145km/hのフォーシームと左右自在に落とすスプリッター(フォーク)を主に武器としており他にはスライダーやシュート、ツーシーム(シンカー、シンキングファストボールにも分類されることも)も投げる。
スプリッターはとりわけ日本時代から評価が高く、メジャースカウトの間で「メジャーでも最高レベルかも」との評価を受けていた。
メジャーで大成功したのは自身も生命線と言う制球力の良さが大きな要因となっている。
加えて上記の通り評価の高いスプリッターを速球とほぼ同じリリースポイントから低めへ決めることが出来たことも大きい。
また、1イニング辺りの投球数約14球はリーグ最少を記録するなど戦術の制球の良さに加えテンポの良さも際立った。
メジャーで活躍できたのは岩隈の体質を気遣って球数の制限を徹底した監督の采配がお陰でもあり、本人も「中6日で120球投げるよりも中4日で100球投げる方が体への負担が少ない」と語っている。

☆私生活・人物

  • 近鉄時代はなにわのプリンスや爽やかな風貌から投げるジャニーズいう愛称等で呼ばれていた。
  • 球界きっての愛妻家として知られている、
  • 2子の父親で東北のステキなお父さんを選ぶ「第1回ベストファーザー in 東北」にも選ばれた。
  • 妻は当時の打撃コーチ、広橋公寿の娘であり偶然美術館で広橋一家と出会ったのがきっかけだった。


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最終更新:2024年02月14日 08:29