隼鷹/飛鷹(航空母艦)

登録日:2013/11/24 (日) 1:03:02
更新日:2023/12/13 Wed 11:55:13
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隼鷹と飛鷹は、かつて大日本帝国海軍に所属した空母。
客船として建造され、本来ならば太平洋航路最大の豪華客船として絢爛豪華な一生を送る…はずであった悲しき艦。

性能諸元

隼鷹(橿原丸)

全長:219.32m
基準排水量:24140t
最大速力:25.68ノット
兵装:12.7㎝連装高角砲6基、25㎜三連装機銃8基
搭載機:戦闘機12、爆撃機18、攻撃機18、補用機10
建造:長崎三菱造船所


飛鷹(出雲丸)

全長:219.32m
基準排水量:24240t
最大速力:25.5ノット
兵装:12.7cm連装高角砲6基、25㎜三連装機銃8基
搭載機:戦闘機12、爆撃機18、攻撃機18、補用機10
建造:神戸川崎造船所

建造経緯

1930年代後半、日本郵船は太平洋航路においてアメリカの客船会社と激しくつばぜり合いを繰り広げていた。
しかし、日本郵船はようやく17000t級の客船を配備していたのみであり、アメリカの20000tオーバーの客船と比べると速力や設備で見劣りするものであった。
そんな中、1940年の東京五輪開催が決定。国威発揚のためにもさらなる太平洋航路の充実は日本政府としても必要とすることであった。
その情勢下において、戦時下において徴用し使う改装空母や特設巡洋艦、輸送船候補となる大型貨客船・補給艦となるタンカーの建造が海軍より強く求められていたこともあり
世界恐慌から船舶業界を保護するための施策を発展させた優秀船舶建造助成施設を利用し、表向きは五輪後も国力を示し、外貨を稼ぐための大型客船、
真の狙いは当時の機運として迫りつつあった対米開戦を見据え、非常時には空母など補用艦となりうる大型貨客船の建造を、日本郵船に政府が依頼する運びとなった。しかし…

(*^o^*)「大きな貨客船を作って欲しいんだ!」
(´・ω・`)「(助成金がさり気なく前の制度より削減されてる…大きな客船は維持費もキツイ上資金繰りに余裕もないからなあ)いやです」
(*^o^*)「そんなことを言わずにやって欲しいんだ!」
(-.-)「つべこべ言わずに作るんだよ、あくしろよ(戦争になったら使い倒すから見とけよ見とけよ~)」
(´・ω・`)「そんなー、いやよー」

…とまあ、政府と海軍が要請してもなかなか首を縦に振らなかった。企業である以上赤字を吐き出しかねないもんは作りたがらないのも真理である。
結局政府が「運用して損が出たら補填してやるから、な?」ということで資金援助の約束を交わし、戦前最大の貨客船橿原丸級二隻が建造されることになった。
ちなみに出雲丸は海軍の意向で川崎造船で造られる運びとなったが、日本郵船が川崎に仕事を依頼したのは1914年以来だとか。

船型はドイツ・ロイド社所属の大型客船ブレーメンに範をとった橿原丸級は、客室など船内施設や装飾のデザインに東京都庁舎の設計で有名な丹下健三、宮内庁を辞して川崎造船に再就職した雪野元吉ら気鋭の建築家が参加した。
基本太平洋航路の船は主な客である西洋人受けする内装を海外に発注するのが常だったのだが、国内の建築家に発注となったのは、当時の国粋主義的情勢が大きく背中を押したようだ。
この時期建造の貨客船内装には船舶内装のために考案された「現代日本様式(戦前のこの時期に流行った日本独自の様式、戦後に継承はされなかった)」という日本独自の様式が取られている。
そして、橿原丸級はこの「現代日本様式」の粋を極めた諸外国の船に全く引けを取らぬ素晴らしい内装になっていた。
機関も空母改装を視野に入れていたからとはいえ、貨客船としてはすさまじい出力であり完成していれば、太平洋航路の最速のオーシャンライナー(大洋航路船)として燦然と輝く…はずであった。
しかし、橿原丸級建造のきっかけになった東京五輪は日華事変の深刻化に伴い開催返上、さらに彼女たちが結ぶはずであった日米間の関係は最悪の状態に陥っていく。
戦争不可避という情勢の中、優秀船舶助成施設制度で作られた船舶は戦時に徴用する約束で資金援助していたということもあり
橿原丸と出雲丸、橿原丸級の二隻は1941年1月、海軍に建造途上のまま買収され出雲丸は1001番艦、橿原丸は1002番艦と名前を改め空母改装されることとなった*1
こうして豪華客船橿原丸・出雲丸は豪華絢爛に輝くことなく、米海軍と戦う剣、大日本帝国海軍空母隼鷹・飛鷹として太平洋に漕ぎ出すことになったのである。(すぐに豪華客船も、次世代艦が10年の内に竣工して陳腐化してしまったので、むしろ一瞬でも軍艦として名を残した方が幸せだったのかもしれない……)

ちなみに、戦後の客船と比べても橿原丸級は排水量27000tオーバーということもあり、ぱしふぃっくびいなす(約26000t)や世界一周クルーズでお馴染みの飛鳥(約29000t)と比べても大きさで一切引けをとらない豪華客船になったという。
飛鳥Ⅱ(50000tオーバー)と比べたらさすがに劣るが、飛鳥Ⅱは外国船の改装である。

第二次大戦での活躍

さて、いざとなったら3ヶ月での空母改装を目標に建造されていた橿原丸級だったが、実際にやってみると客船としてかなり出来上がっていたとはいえ結構な時間を要することとなった。
結局完成したのは隼鷹が1942年5月、飛鷹が同年7月とやや遅くなった。まだ日本はイケイケドンドン鬼畜米英敵じゃねぇ状態であった頃ではあるが。

隼鷹は完成後すぐの5月末、軽空母龍驤と共にMI作戦…ミッドウェー島攻略作戦の支援作戦のため、アリューシャン列島の米海軍根拠地ダッチハーバー攻撃に出陣。
任務を完遂し、事前の想定通りにミッドウェーでもう息も絶え絶えな米海軍機動艦隊にとどめを刺すべく南進しようとするが司令部からは引き上げ命令が下される。
そう、ミッドウェー海戦は正規空母四隻以下多数の艦を喪う大惨敗に終わってしまっていたのだ。
「まともに行けばふつうに負けてたのに日本がなんかおかしなことやって勝手に負けてくれた、ラッキー☆」とは米海軍の回顧である。
この敗戦が、積載量こそ正規空母に匹敵するが装甲と速度が低くあくまでサブとして生きるはずだった隼鷹と飛鷹の運命を変えた。
赤城・加賀・飛龍・蒼龍と主力空母を一気に四隻失い、雲龍型や大鳳の生産を急がせたものの当座を凌ぐには全く数が足りないため
積載量で飛龍蒼龍と互角である隼鷹飛鷹を当面の主力空母として押し立てざるを得ない状況になってしまったのだ…

その後、7月にようやく完成した飛鷹と共に第二航空戦隊を結成し激戦の南太平洋ソロモン海方面に進出。しかし、飛鷹の機関が故障してしまう。この修理のために飛鷹はしばらく離脱となる。
隼鷹が参戦した南太平洋海戦ではミッドウェーでは少ない損害で済んでいたベテラン搭乗員をバタバタ落とされてしまう。しかし米海軍の空母でドゥーリットル空襲に参加した武勲艦ホーネットを新一航戦の翔鶴・瑞鶴・瑞鳳と連携し仕留めている。これが日本の機動艦隊最後の勝利となった。
この後は、補充要員を入れては落とされ、ベテランも失うような負けが続きパイロット育成がgdgdになっていく。
1943年は大きな海戦への参加はなく、主に航空機輸送などに従事する。そのさなか、飛鷹が三宅島沖で魚雷3発を浴び、更に隼鷹も沖ノ島近海で被雷しダメージを負う。両艦とも幸いにも修理が効く損傷で済んだ。

そして1944年、この年はもう戦況がヤバイというのは火を見るより明らかと言える状況になってしまったが、いよいよミッドウェーの戦訓から重装甲を施した新鋭空母大鳳がスタンバイに入り、さらに雲龍型も年内に完成し始める目処が立ち
装甲と速度に欠ける飛鷹と隼鷹が機動艦隊の先陣きって戦う状況から脱却するかに思われた。
同年6月、ついに新鋭の大鳳がデビュー。久々の正規空母3隻体制でマリアナ沖海戦に臨んだのだが…1944年6月19日の戦闘において、ささやかな希望は一瞬で砕かれる。
技術レベルパイロットの質全てでアメリカは日本のそれをもうはるかに凌駕しており、日本の航空機が航続距離で優っていることから立案されたアウトレンジ戦法で未熟なパイロットが長い飛行で疲労したところに
レーダーで日本の飛行隊の動きを察知し待ち構えていたアメリカのベテランパイロットが新鋭機で容赦なく襲いかかり、
防衛網を掻い潜り敵艦に肉薄しようとしてもVT信管と初期のCICすら備えた防空巡洋艦による強力かつ統制の効いた対空砲火でバタバタ叩き落とされてしまう。
米軍いわく、「七面鳥撃ち(お祭りの射的みたいなもの)か何かかなこれは、笑いが止まらねぇぜHAHAHA」と小馬鹿にした感想を述べるほどの航空戦での無残な敗北を喫し、米機動艦隊のダメージはほぼゼロで攻撃は完全に失敗してしまう。
しかもアウトレンジ戦法で反撃を受けるはずがない小沢艦隊に対して、米艦載機の空襲が始まるという想定外の事態が発生。もちろん急に米艦載機の航続距離が伸びたというわけではなく。
『往復するだけの燃料がないなら片道攻撃した後に艦載機は海に捨ててパイロットだけ回収すればいい』
という、貧乏国日本の発想を超えた米軍の物量の前に、小沢の机上の空論は脆くも崩壊。そのまま制空権を完全に握られて反撃を浴び、いままで小破すらしたことのなかった瑞鶴がついに小破、
その瑞鶴の代わりに雨あられと被弾し結果として護ってきた翔鶴がついに沈み、さらに大鳳も突貫工事が祟ったか一発の被雷が原因で轟沈。目論見の一切は粉砕され、小沢中将麾下の機動艦隊はいきなり瀕死に追い込まれてしまう。

しかし、飛鷹と隼鷹にとってはここからが地獄。翌日も続いた戦闘において飛鷹は深刻なダメージを負い、曳航も検討されたが消火ポンプが壊れて消火できず、突然艦載機移動用のエレベーターが飛び出して元の穴に戻る(なお、これで傾きが治った模様)など曳航してもこれは駄目なダメージだと判断され、マリアナ沖に沈められ処分となった。
日米間の架け橋となるはずであった出雲丸は、空母飛鷹としてマリアナ沖に散った。

隼鷹もこの日の内に直撃弾を浴びてしまい、こちらは生き延びたものの発着艦不能という空母としては最悪のダメージを負い戦線離脱確定となってしまう。
そのおかげ?と言っては何だが、エンガノ岬沖・機動艦隊地獄の囮任務は回避出来たため、生きながらえる事はできた。
マリアナ沖の後に日本に帰国。修理後は艦載機が台湾沖航空戦・レイテ沖海戦で消滅したため、ようやく完成した雲龍型空母の天城らと共に大型の輸送艦として輸送任務を行うが、1944年12月9日に艦首と右舷機械室に魚雷を浴び、艦首を10mほど吹き飛ばされ、13ノットしか出ない状態になってしまう。
帰り着いた佐世保で船体は修復されたが、機械室の修理には手が回らずそのまま終戦。

終戦後は北上や酒匂など巡洋艦のみならず、駆逐艦も駆り出された復員者輸送任務につく事を期待されたが、
改装前提とはいえ、客船として設計されたにもかかわらず艦首をぶっ飛ばされたり何度となく魚雷や爆弾を浴び続けたため船体がガタガタになっており
更に機関が壊れたままで外洋に乗り出すことが出来ず、前述の事情もあって解体処分が決まり1947年8月1日、完全に解体された。
財政や時世が許すのなら、豪華客船に再改装して、油と煤にまみれた生活から脱却し艶やかに生きる人生もあったかもしれなかった。しかし実際は海軍が細部まで空母にしていたために、客船に戻すのは非現実的な選択であった。終戦の時点で客船として生きる道は絶たれており、現実は残酷なものであった。
(もし修理が叶っても、もはや細部まで空母化していたためと、数年の間に客船としても陳腐化しており、新式を与えたほうがむしろ安上がりという皮肉な状況が生まれていた。軍艦から客船に改装するにも膨大な費用がかかり、軍艦として生きるほうが安上がりという試算も出されていた。そのために、もし解体を免れたとしても空母としてしか生きていけなかっただろう)

ちなみに、日本郵船はこの戦争で飛鷹隼鷹を含めて徴用された船のうちなんと八割を失っている。
そのため、日本郵船資料館では1940年前後のコーナーはこの事への恨み言を綴るコーナーと化しているとか。そりゃあお国のためとはいえ無茶を強いられて八割沈めちゃった☆じゃあキレるよなあ…

フィクションでの活躍

架空戦記では、れっきとした空母ではないということからほぼほぼ軽視されて超兵器の引き立て役にもされていない。
少なくとも筆者は寡聞にして知らない。

戦略シミュレーションゲームでは、改装空母カテゴリなどで登場。
積載量が多いため多くのゲームやシナリオでミッドウェーで沈んだ四隻がいても二正面になったときの主力や後詰など十分に役割が持てる存在である。
とはいえ、装甲や速度に難があるのは宿命なので正規空母よりは扱いにくい。

艦隊これくしょん -艦これ-では最高クラスの軽空母として登場。積載量は正規空母並なので正規空母の少ないうちは大いに活躍してくれることだろう。しっかり脚の遅さと薄い装甲も再現されているが。
ちなみに、分類が軽空母になっているのは珍しいことのようだ。


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最終更新:2023年12月13日 11:55

*1 前述のように、そもそもが「戦争になったら空母にする前提」で建造された客船であるため、他の商船改装艦とは異なる少し特殊な例ではある。