西太后

登録日:2012/02/11(土) 23:10:05
更新日:2023/11/18 Sat 18:56:14
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西太后とは中国・清朝九代皇帝、咸豊帝の皇后だった人物。1835年~1908年。



●目次


【人生】

彼女が皇后になる前の経歴は鮮明では無いが中流家庭の出身であったと言われている。

彼女が后選定制度である「選秀女」を通過した事から始まる皇后生活は、ただでさえ混乱していた清王朝を更に掻き乱す事となった…。

■垂簾政治


彼女は十人いた側室の第三皇后であったが、彼女が咸豊帝の長子・載淳(のちの同治帝)を出産した事から次第に発言力を高めていく。
元々、読み書きも出来、教養も高かった彼女は咸豊帝の秘書官を勤めるなど政治にも積極的に介入していた。
何より、恐ろしいまでの権力欲を秘めていた。

まず、咸豊帝の臨終にてその床の傍らで、
「皇帝様!お世継ぎは誰!?…え、やっぱり私の子ね!?そうに決まってるわね!?(咸豊帝何も言わずポックリ)」ってな感じで、
わが子を皇帝に仕立てまんまと皇帝の母、「太后」となる。

そして、かつて咸豊帝によって失脚させられた弟・恭親王や同じく側室であった東太后と組んで邪魔な役人を罷免、逮捕し、処刑する事にも成功(辛酉事変)。

東太后は元々政治に興味が無く、更に同治帝は幼少であったので邪魔になった恭親王を宮廷から追い出し(苛め抜いて政治意欲を無くさせた)、
まんまと清国の実質的な頂点に君臨した。
そして、側近を見せしめに失脚させて周囲に脅迫するなどして、ヒステリックな女性のご機嫌を伺う政治体制が整ってしまったのだった。

我が子・同治帝が世継ぎを残さずに死んでしまった際も、慌てて妹の子・光緒帝を強引に即位させ自らの地位を安定させた。
この時、息子の后であった阿魯斗氏の事ももはや邪魔なだけの存在だとネチネチと苛め、自殺に追いやった。
しかも、彼女のお腹には子供が宿っていたらしい。

なお、東太后も後に急死しているが、当時から西太后による毒殺説が囁かれた。


■混乱の中で


そんな日々の中で彼女は自らの権力を思う様に奮い、毎日悠々自適な贅沢三昧の日々を楽しんでいた。
そしてそれは、日清戦争の最中にさえ続けられた。

西洋に良いようにされている清国に対し明治維新以降、着々と力をつける日本。
西太后は勝ち目など無いと言うが「反日愛国」を掲げ、降伏などあり得ないと言う光緒帝は開戦に向かう。
その結果はご承知の通り、清の敗北であった。

西太后はこれに激怒し光緒帝と対立。手を回して彼を幽閉させてしまった。
何故そんなに怒ったのかと言えば、この敗戦で自分の還暦祝いの規模が相当縮小されてしまったかららしい。
かなり力を入れて準備していた彼女には我慢ならなかったのだ。

その後、義和団の乱で日本・イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリアの連合が北京を陥落させた際、
彼女は光緒帝を連れて逃亡(この時光緒帝が連れていた珍妃と言う女性は邪魔だったので自害を命じた)。

西安に逃げ込んだ彼女は税金を西安に集中させ、再び贅沢三昧を楽しんだと言う。

その後、光緒帝が息を引き取ると(その後に即位するのは清朝最後の皇帝・宣統帝)、その翌日、74歳で他界した。

彼女は同治帝を皇帝にしてから死ぬ間際まで、その権力をただの一時も失う事無く実に満足そうに、安らかに息を引き取ったそうである。


■贅沢三昧の日々


権力を欲しいままにした彼女は実に贅沢三昧な日々を送っていた。
姪が皇后となり自らが隠居した後には、北京郊外の湖に贅の限りを尽くした建物(現在この美しい庭園は世界遺産にすらなっている)を造っている。
その造営費には何故か海軍の軍事費が充てられた(表向きには湖で訓練させるための施設とされた)。
この建物のせいで海軍は十年ほど兵器を更新出来ず、国にはかなり痛手となった。

更に西安逃亡後も日清戦争で国がガタガタになる最中、血税をたっぷり使い来る日も来る日も大好きな京劇を楽しみ、
食事は毎日100品余り用意して一口ずつしか食べないなどの贅の限りを尽くしていた。

日清戦争のせいで縮小された還暦祝いのウサを払うように、
67歳の誕生日祝いには北京へ返り咲いた祝いを兼ねて15億円(当時の日本の国家予算の15〜20倍ほど)もの費用を投じる始末。

また、国を混乱させた西洋の文化もすっかり気に入ってしまい、西洋風のパーティーすら開いていたと言う。

そんな彼女の遺言は、「以後、絶対に婦人を政治に関わらせるな。清の家法に背く行為である」

…国費で贅沢三昧に振る舞った彼女だったがその生涯、誰一人として彼女を止められた者はいなかった。
真に恐ろしい女性である。


【余談】

■再評価?

…いや真に恐ろしい女性であると語られて来たと言った方がいいだろう。
というのも、前述された西太后の悪事とされてきたことの多くが、
彼女(保守派)と対立した変法派(改革派)が流したプロパガンダや、海外の新聞で取り上げられたものが、
あたかも史実のように取り扱われてきた根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており、
むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている。
これは史料の問題から永らく分からないことが多かった為、これらのプロパガンダばかりが取り上げられてきたが、
80年代以降の原文書(档案史料)の公開により、中国の学会でも、政治的に許された範囲とはいえ西太后の再評価が行われている。

ここからはその再評価を元に、西太后の功罪について簡単にピックアップしてみよう。


功績

  • 19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し、アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功

  • 国内勢力の調停者として内政を安定させつつ、技術的近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった。

  • 従来、政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功。

  • 義和団戦争後、遅まきながら抜本的近代化政策である「光緒新政」を実施、これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった。
    ただしこうした抜本的な近代化は、清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった、
    とはいえ「光緒新政」により、中央への権力回収はかなりのレベルまで進展する。
    しかし皮肉なことに、地方政府の力を弱めるという改革の成功のため、地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまい結果として、
    20世紀初めに実施された「光緒新政」は、ソ連のペレストロイカと同じく政権の屋台骨を崩してしまう、
    一方で彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたという指摘もある。


失政

  • バランサーであるがゆえになかなか抜本的な改革が出来ず、清朝の旧態依然とした構造を保持することとなり、
    後に宮廷内で排外勢力が台頭した際、義和団事件にて八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる。

  • 皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと、そのため政治系統が複雑化し死後の混迷の原因をつくった。

  • 根本的には西太后は保守派であり、義和団を当初は支持するなど彼女のやろうとしたことには時代錯誤な面も多々あった。
    (但し、純粋に清朝としての史観から見るとそうとも言い切れない)

  • そもそも、「光緒新政」はその名の通り、失脚前の光緒帝が変法派と行おうとした「清国版明治維新政策」をほぼ流用したものであったが、
    元々の政策を西太后は保守派の求めに応じて戊戌の政変で潰している。
    …もっとも変法派は伊藤博文を顧問として招聘する計画を進めており、伊藤の提案した「日中米英の合邦」という青写真を丸のみしようとしていた。
    これは清国の国家主権という意味では解釈によっては危うい事態に追い込まれていると西太后が考えても無理はなく、
    それに基づいて変法派を粛清したという説が最近有力になってきている。

  • 贅沢三昧は事実、しかしながらその大浪費のお陰で、今日の中国に宮廷の食生活、歌劇や刺繍といった文化が民衆の中に浸透したという説もある

海軍経費流用について

西太后の悪徳で最も大きく取り上げられることの多い北洋海軍経費流用についても、再検討がなされている。
流用自体は事実であるものの、従来は西太后の個人的欲望という史料的裏づけが乏しく無理のある要因に帰結させていたためである。
現在としては流用理由として以下の様な新説や考察がなされている。

  • 西太后は対外的には平和外交を指向する性格であり、海軍力をあまりに強くすることで国内の主戦派の強硬論が強くなるのを、抑える意図があった。
    (これは史料的裏づけがまだ弱い論です)

  • 清朝の軍隊は統一的編成になっておらず、各部隊を統括する官庁、地方官にゆだねられ、
    軍事力が各派の政治権力にも繋がっており李鴻章の北洋海軍だけを特別に強化することは出来なかった。

  • 海軍の艦艇を購入することは、貴重な銀を国外に流出させることであり、
    国内の庭園修築に使用するという内需拡大政策であり、同時に政権の安定を国民に印象付ける政策でもあった
    (首都の庭園が丸焼けのままでは政権の権威に関わる)
    また、流用予算は庭園費だけでなく、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍や広東水師(海軍)の増強の方に充てた可能性も指摘されている。

  • 清国の構造的問題として当時の清朝の財政は国税と地方税、各省庁間の税収の区分があまり無く、もともと各役人の権限の及ぶ所からの流用が構造上存在した。
    ついでに言うと北洋海軍の最大の後援者であったのは西太后であり、彼女の後援が無ければ北洋海軍自体が作られなかったりする。

結局のところ、「西太后」と言うのは清国崩壊の負の要因をすべて背負わされた反英雄のような偶像なのかもしれない…





西太后の新事実判明の際には同志諸君によって
追記・修正が政治的に許された範囲で行われることを我が党は望んでいます。

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最終更新:2023年11月18日 18:56