ノートン一世

登録日:2012/02/27(月) 15:37:10
更新日:2024/03/12 Tue 13:20:54
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彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。

彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない


―――1880年1月9日『ニューヨーク・タイムス』より引用




ノートン一世(1818年2月4日 - 1880年1月8日)とは、1859年より21年間にわたりアメリカ合衆国を統治した、人類史上最も敬愛すべき皇帝である。

何?アメリカ合衆国は共和制?皇帝はいない?

うん、まあ、その通りである。


オチだけ言ってしまえば、ノートン一世ことジョシュア・ノートンは自分はアメリカの王様ですと主張し続ける不審者でしかないのだが、
ジョシュア・ノートン……否、ノートン一世陛下はその一言だけで片付けてしまうには大変惜しい、奇妙な魅力を持った男でもあった。
では、アメリカ合衆国皇帝・ノートン一世について、彼の生い立ちとともに見ていこう。


◇前半生『ジョシュア・ノートン』として~


ノートン一世ことジョシュア・ノートンは1814年にイギリスの資産家の家に生まれる。
南アフリカで育った彼は1849年にサンフランシスコに邸宅を買い、そこへ移住した。
父親の遺産を投資に活用し、実業家として成功した彼であったが、ペルーの米に関する投資*1で失敗し、全財産と家をまるごと失ってしまう。
彼はそのことで気が狂ったらしく、以降1年の間世間から姿を消す。



◇皇帝即位宣言

一年間の失踪の後、ノートンはアメリカ合衆国の共和制には不備があり、絶対君主によって解決するという信念のもと活動を始める。
1859年9月17日にサンフランシスコの新聞各社に「合衆国皇帝」として即位宣言を送る。

大多数の合衆国市民の懇請により

喜望峰なるアルゴア湾より来たりて

過去九年と十ヶ月の間

サンフランシスコに在りし余、

ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを

自ら宣言し布告す。

―――合衆国皇帝ノートン1世


当然ノートン一世なんてもん誰も知らないし即位を許した覚えもないので、ほとんどの新聞は無視を決め込んでいたのだが、ある新聞が悪ふざけ半分でそれを掲載する。

以来、21年間にわたりノートン一世(自称)の統治が始まった。


◇皇帝の生活

ノートン一世の執務は主に新聞を通じた「勅令」によって行われた。
本人はもっともらしく「勅令」と言っていたが、要するに新聞への投書である。
彼はアメリカ議会に皇帝として解散を命じたが、当然ながら議会はこれを無視。
ノートン一世はアメリカ議会を「反逆者たち」と呼んで陸軍に制圧するよう命じたが、やっぱり無視された。

こうした命令の他にも、国際連盟の設立や宗教間の紛争の禁止、オークランドとサンフランシスコ間の架橋などを命じたが、いずれも実行されることは無く、それに関して苛立ちを見せることもあったという。

執務と離れたところではノートン一世は彼の領地(自称)であるサンフランシスコを頻繁に散歩視察した。
軍装にステッキを携えサンフランシスコの街路を巡り、市民の生活に気を配っていた。


◇ノートン一世の治世


とまあ、おかしな男ではあったのだが、ノートン一世の主張はわりとまともな内容が多かったこと*2、為になる面白い話を提供してくれる学ある人物であったこと、会ってみると優しくて穏やかな性格のいい人だったことから、いわゆる「街の人気者」として愛される存在になっていった。
正式な皇位こそないものの市民から愛されていたので、その市民を相手に商売をしている企業もそれに従わざるを得ず、ノートン一世は本物の皇帝のような特別待遇を受けることもあった。

以下、ノートン皇帝陛下の華麗なるエピソードの数々。

  • サンフランシスコの劇場では、皇帝が二匹の愛犬とともに貴賓席にやってくるまで幕が上がることはなく、観客もノートン一世を起立して迎えた。

  • パシフィック鉄道が、ノートン一世に食堂車の料金を請求したためにノートン一世から営業停止命令を受けた際には、市民たちがノートン一世……ではなく鉄道会社に抗議。
    それに驚いた鉄道会社からノートン一世に終身パスを献上したという事件もある。

  • アーマンド・バービアと言う若い警官が彼は精神病患者であるとして病院での治療を受けさせる為に拘束した事があるが、それを知った瞬間にサンフランシスコ市民がブチギレ
    新聞までもが参加した大規模な抗議活動が始まるにも及び、当時のサンフランシスコ警察署長は即刻ノートン一世を釈放した後警察の公式見解として謝罪
    バービア警官の先行きが不安になるところだが、ノートン一世が彼に特赦(本人談)を与える寛大な処置をとった事で大事に至らずに済んだこともあった。
    なお、当時の記録を調査したところ、ノートン一世の行動や発言には統合失調症の痕跡らしきものが見受けられた。つまり、(あくまで可能性とはいえ)マジで精神病患者だった可能性がある。バービア警官に幸あれ。

  • ノートン一世はたびたび自作のドル札を作って、それで支払いを済ませることがあった。ツケとか言わない。
    当時のサンフランシスコではそのオリジナル紙幣は額面通りの金額として使うことができ、普通の紙幣に混じって流通していたとか。
    彼が亡くなった現在では、それらの紙幣は当時の1000倍近い価値になっている。

  • 公的にも皇帝は承認されていた事があり、国勢調査ではノートン一世の職業の欄には「皇帝」と記載された。

  • サンフランシスコ市も皇帝に敬意を払い、彼の軍装が古くなれば儀式を行い、新しい軍装のための資金を支出した。
    ノートン一世もこれに対して、感状と終身貴族の地位でこれに応えた。

  • ある時、サンフランシスコで失業者たちが移民に対して「仕事がなくなったのはお前らのせいだ!」と暴行を働く事件(と言うか暴動)が起きていた。
    そこにノートン一世が現れ、「皇帝の座にありながらこの体たらく、どうか許してほしい」と泣きながらひたすら謝罪し続けたことでとても暴動が続けられるような雰囲気ではなくなり、結果的にその事件は丸く収まったという。




◇皇帝の死


皇帝ノートン一世は1880年1月8日の夜、科学アカデミーでの講演に向かう途上で倒れた。
気づいた警官が馬車に救援を要請したが、馬車が病院に到着する前にノートン一世は息を引き取った。
翌日、サンフランシスコの新聞は悲しみと敬意に満ちた追悼文を掲載し、皇帝の崩御を報じた。

実質的に、サンフランシスコ市民に養われていたに等しいノートン一世はものを殆ど持っておらず、死後見つかったのは僅かな現金、愛用のステッキ、無価値な株券、ヴィクトリア女王とやりとりした手紙*3だけ、という貧しいありさまだった。

ノートン一世の国葬(?)を行うべく、ビジネスマンたちのクラブが資金を募り、大規模で厳粛な葬儀を行った。
葬儀にはあらゆる階層の人々3万人がノートン一世皇帝陛下との別れの為に集まり、葬列は2マイルにも及んだという。

ちなみに、晩年は彼の経歴を知らない若い層を中心に、「ノートン陛下はガチで元王子様なんじゃ?」と思う人も居たらしい。



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最終更新:2024年03月12日 13:20

*1 正確には投機

*2 たとえば、当時はまだなかった「国際連盟」を設立するべきだとか、サンフランシスコに橋を作れだとか。どちらも現在では実現されているのはご存じの通り

*3 女王に色々とアドバイスしていたらしい