デーモン・ヒル

登録日:2011/01/05(水) 20:17:04
更新日:2023/09/17 Sun 02:55:06
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デーモン・ヒル(Damon Graham Devereux Hill)はイギリス・ロンドン出身の元レーシングドライバー。1996年F1選手権ワールドチャンピオン。名前の発音は「デイモン」が一番近いが一般的には「デーモン」が浸透しておりこちらでは後者で記する。



  • チーム遍歴

1992 ブラバム
1993〜1996 ウィリアムズ
1997 アロウズ
1998〜1999 ジョーダン




経歴


F1デビュー以前


3度のワールドチャンピオンに輝いた、グラハム・ヒルを父に持つ。年少期こそ裕福な生活だったが、父グラハムがヘリコプターの事故で他界後、同乗者への遺族への補償金支払いの為にヒル家は一転して極貧生活になり、バイク便で家計を稼ぐなどして母ベティを支えるなど、若くして苦労を重ねる。

二輪モータースポーツをした後、四輪モータースポーツに転身。当時25歳という遅咲きのデビュー(父グラハムも28歳の遅咲き)、だが周りから常にワールドチャンピオンの息子と言われ続けるなど過度な重圧にさらされる事になり、F3や国際F3000では目立つ成績を納めないでいた。

F1デビュー


1991年からウィリアムズのテストドライバーに就き、1992年もその役目を続投するかたわら、ブラバムのドライバーとして契約する。しかしブラバムチームの財政状態は既に末期的。風前の灯となっていたチームの戦闘力に期待できるはずもなく、予選落ちの連続。
母国イギリスGPとハンガリーGPで予選通過、決勝完走を果たすに留まる。名前繋がりでロックバンド聖飢魔Ⅱがスポンサーに着いた事もある。

ウイリアムズ時代


1993年、ウイリアムズはエースドライバーのマンセルの引退し、セカンドドライバーであるパトレーゼもベネトンへ移籍。代わりに、エースドライバーとして一年のブランクを置いたアラン・プロストが加入し、ヒルはそのチームメイトとなる。
ほぼルーキーとしてのシーズンスタートだったせいか、プロストは勿論の事、アイルトン・セナミハエル・シューマッハの後塵に着く事も多々あった。
それでもレースを重ねるに連れてドライビングミスも減っていったが、イギリスGPではトップを走りながらエンジントラブルに泣き、ドイツGPではこれまたトップを走りながらも残り2周でタイヤのパンクで勝機を失うなど、今度は運がついてきてくれなかった。
しかし、ハンガリーGPで初優勝。その後、ベルギー、イタリアと三連勝を遂げ、最終的にはランキング3位。トップドライバーへの成長の可能性を見せた。

1994年もウイリアムズに残留。しかしプロストの引退により、チームメイトはセナに変わった。
セナは3度のワールドチャンピオン。当然エースドライバー扱いであり、ヒルはこの年もナンバー2ドライバーのままシーズンを過ごすはずだった。
ところが、この年の第3戦サンマリノGPでセナはマシントラブルから大きなクラッシュを起こし、帰らぬ人となってしまう。これにより、ヒルは急遽エースとしてチームを牽引する立場となる。
当初はチャンピオンシップをリードしていたシューマッハ&ベネトンに付いて行けないでいたが、ベネトンのレギュレーション違反からシューマッハが2レースで失格に。
これに付随して、シューマッハは更に2レース出走停止処分となり、実質4レースをノーポイントで終えることとなった。
この4レース全てで優勝したヒルは一気にポイントを稼ぎ、シューマッハとタイトル争いを演じる。
最終戦オーストラリアGPを前にして、ランキング1位のシューマッハと2位のヒルは1ポイント差。
レースはトップのシューマッハをヒルが追いかける展開に。そんな中、シューマッハがコースアウト。そのときコンクリートの壁に接触してコースに復帰。コースアウトから復帰したシューマッハをヒルは抜きにかかるが2台は接触。シューマッハはその場でマシンを止めてリタイア。ヒルは走り続けるが接触でサスペンションアームが折れてしまい、ピットに戻るがクルーにレース続行は不可能と判断されリタイア。結局、二人ともポイントを加算せずに終わり、シューマッハのチャンピオンが決まった。
シューマッハのマシンはコースアウトした時点で壁と接触してダメージを負っており、この時点でヒルに抜かれるのは時間の問題だった。結果、追い抜きを早まったヒルは、みすみすチャンピオンを逃す結果に終わってしまった。*1

1995年もウィリアムズに残留。シューマッハとチャンピオンを争うシーズンになる。しかし、戦略の甘さや、シューマッハとの個人的確執からかミスを多発。ランキング2位を獲得するものの、チャンピオンを獲得したシューマッハが9勝をあげて102ポイントを稼いだのに対して、ヒルは4勝して69ポイントを稼ぐにとどまる。マシンの戦闘力そのものはウイリアムズがベネトンより上だと評する声が多くあったにも関わらず、ヒルとウイリアムズは、シューマッハとベネトンに完敗してしまった。

紆余曲折があったものの1996年もウィリアムズに残留することが決定。この年のヒルは前年から大きく進歩したところを見せた。
何より大きかったのは、シューマッハがフェラーリに移籍したこと。
フェラーリと言えば老舗のトップチームであるが、この時のマシンはチャンピオンレベルにはなく、特に信頼性が明らかに不足していた。
そのため序盤は完走すらなかなかできずに大苦戦。結局シューマッハは1年間で3勝をあげるに留まった。
それ以前の3年間でフェラーリは2勝しかあげていなかったことを考えれば、シューマッハの手腕は流石だと褒めるべきなのだが、それでもチャンピオンシップを争うには程遠かったのである。
ヒルのチームメイトは、これまた二世ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴ。彼が良い刺激となったのか、これまでのミスや詰めの甘さが無くなり、序盤からドライバーズランキングを首位に着く。
しかし、シーズンが進むにつれ、ヴィルヌーヴの調子は右肩上がりで、優勝を繰り返してヒルとチャンピオン争いを繰り広げた。

しかし、そんな裏でウイリアムズはシーズン途中で驚きの発表をおこなう。なんと、ウィリアムズはヒルをこの年限りで解雇することを決めてしまったのだ。

この裏には実はウイリアムズにエンジンを供給しているルノーは1997年限りでF1撤退を決めてたことが絡んでいたと言われている。ウイリアムズはルノーの代わりとなるワークスエンジンを探す必要に迫られた。そこで、BMWとの契約を考えていたのだが、BMW
がドイツ人ドライバーの起用を条件としてきたため、ドイツ人ドライバーの起用に迫られたとの説が有力である。実際、翌年加入が決まったのは、ザウバーで走っていたドイツ人のハインツ・ハラルド・フレンツェンだった。

迎えた最終戦、日本GP(鈴鹿サーキット)ではポールポジションこそヴィルヌーヴが取るものの、決勝のスタートでヴィルヌーヴがミスをし、労せず首位に。終始ミスなくトップのままゴール。これまでの苦労が報われ、F1史上初の親子二代のワールドチャンピオンとなる。


アロウズ~ジョーダン時代


前述の通りウィリアムズから解雇通告を受けていたことからチームを離れざるを得なくなり、翌1997年は中堅以下のアロウズへ移籍。
開幕戦であわや予選落ち寸前、決勝でもフォーメーションラップ中に力無く止まると言うどん底を味わう。
このまま絶望的な年になるかと思われたが、第11戦ハンガリーGPにおいて予選3位に付け、決勝ではフェラーリのシューマッハを追い回しオーバーテイク(追い越し)をしトップに。
レースの大半を支配しあわやチームとエンジンを供給しているヤマハ、この年からタイヤサプライヤーとなるブリヂストンの初優勝となるかと思われたが、残り2周にハイドロリンク系のトラブルからスロットルが戻らなくなっただけでなくギアが3速に固まり急失速、ファイナルラップでヴィルヌーヴにトップを明け渡し2位でフィニッシュしたが、この快挙にファンや関係者の多くを驚かせ「マシン頼みのチャンピオン」という有り難くない評価を一転させた。
また最終戦の予選では途中までトップタイムを出しておりポールポジション獲得かと思われたが、片山右京のスピンを避けた結果わずかに及ばず4位となった。
この予選はポールポジションのヴィルヌーブ、2位のシューマッハ、3位のフレンツェンが1000分の1秒まで同タイムだったことで有名だが、ヒルのタイムは彼ら3人から0.058秒しか離れていなかった。
開幕戦で予選落ち寸前だったマシンが最終戦でポールポジションを争っているなど、誰が想像しただろうか?
このパフォーマンスにレース開始前の記者会見でシューマッハは「僕の周りには3台のウィリアムズが居る」と語っていた。

1998年にはジョーダンに移籍。序盤はチームがレギュレーション変更に対応できず苦戦を強いられるが、彼自身の開発力もありマシンは改良に成功。序盤は1桁順位の獲得がやっとだったが、シーズンを折り返した辺りから、入賞を繰り返すようになってく。
第13戦ベルギーGPは豪雨の中スタート。赤旗が出る程のアクシデントが起こるなど大混乱の中、仕切直しのスタートから2位を走行。
だがトップのシューマッハが周回遅れのデビッド・クルサードとクラッシュし代わってトップのままフィニッシュ。久々の優勝で喜びを爆発させる場面も見えた。
また最終戦日本GPは追い上げるシューマッハをブロック、ファイナルラップでウィリアムズのフレンツェンを交わして4位フィニッシュ、ジョーダンを初のコンストラクターズ4位へと導いた。

1999年の。この年のチームメートはハインツ・ハラルド・フレンツェン。奇しくも、ヒルがウイリアムズを離れたときにその後任となったドライバーだった。この年はフレンツェンが2勝をあげてランキング3位へと大躍進した一方で、ヒルはポイント獲得は僅か4戦にとどまり、表彰台はゼロ。地元の第8戦イギリスGP限りで引退と噂されたが、結局最終戦まで出走したもののモチベーションがまるで無いような走りを続けていた。最終戦のリタイア理由は何と戦意喪失という悲しいものであった。しかしジョーダンチームとフレンツェンの活躍にて彼の開発力が貢献していたことは間違いないであろう。

引退後はBRDC(イギリスレーシングドライバークラブ)の会長に就任し、母国グランプリの長期開催の実現などを行った。

【余談】
どのチームメイトとも良好な関係を築いており、特に96年のチームメイト兼ライバルのジャックとは二世ドライバー、音楽が趣味など共通点が多い。

ウイリアムズが突然ヒルを解雇してしまったのは前述の通りだが、これがその後のウイリアムズの不振の発端となったという意見もある。その理由は、ヒルの解雇が「空力の鬼才」と言われたウイリアムズのマシンデザイナーのエイドリアン・ニューウェイが96年シーズン中にマクラーレンへ移籍した原因となってしまったからである。
ニューウェイはウイリアムズの空力性能を洗礼させ、常勝マシンに仕立て上げた功労者であり、当時もウイリアムズのマシン開発における中核を担っていた。
そんなニューウェイだが、実はウイリアムズのドライバー選定に関与できる契約をしていた。
マシンの開発には実際にマシンに乗ってその良し悪しや改善点を正確に指摘できるドライバーが必要不可欠だからである。一方で、ニューウェイはヒルのエンジニアも担当しており、彼の開発ドライバーとしての能力を高く買っていた。
ところが、ウイリアムズ側はニューウェイに話を通さずにヒルを手放すことを決めてしまったのだ。
つまり、ニューウェイはウイリアムズから契約内容を反故にされた上、自分のマシン開発に必要不可欠な人員を勝手に解雇されてしまったのだ。怒りのあまりウイリアムズを出ていくには十分な理由であった。
この2人が去った結果、97年のウィリアムズはチャンピオンを獲得するものの大苦戦を強いられた上、それ以降はチャンピオン争いからどころかレース優勝も遠のくなど低迷。一方でニューウェイが加入したマクラーレンは、98年にミカ・ハッキネンらの活躍でダブルタイトルを獲得した。
後にフランク・ウィリアムズも「二人を手放したのは大きな失敗だった」と述べた。


顔がそっくりと言われたビートルズのジョージ・ハリスンとの仲など、音楽関連の交友が多い。また若いころにはバンドも結成しており特にギターはプロ並みだったといわれる。

史上初の親子チャンピオンのほか、カーナンバー0での優勝や入賞、1995年最終戦と96年開幕戦の2戦連続同一グランプリ(共にオーストラリアだがコースが異なる)優勝といった珍記録を残している。

地毛は白だが現役時代は老けて見られるのを嫌い黒く染めていた。色を戻し年を重ねた現在のルックスはまさに英国紳士に相応しいイケメンダンディである。

2012年ロンドンオリンピックではドイツ代表としてデイモン・ヒルというが出場し、団体戦で銀メダルを獲得した。

追記・修正は是方博邦の「HEART OF EARTH」を流しながらお願いします。



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最終更新:2023年09月17日 02:55

*1 ただし、シューマッハがコースアウトしたのは先の見えないブラインドコーナーであり、ヒルはシューマッハがコースアウトから戻ってきた様子しか目撃しておらず、その前に壁と接触してダメージを負っていたことは認識していなかった