孫皓

登録日:2010/06/06 (日) 04:40:23
更新日:2024/01/06 Sat 10:41:51
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呉の第4代皇帝にして最後の皇帝。
在位:264-280

孫権の第三子・孫和の子。

【生涯】

第3代皇帝・孫休の崩御により、264年に皇帝に即位。
この頃は蜀が滅亡。魏も内部でのゴタゴタがあるとは言え、いよいよ呉もピンチと思われていた時期。
それだけに呉には名君が望まれていた。
そして皇帝になった当時、先代皇帝孫休の子はまだ幼少。そんな中で、「長沙桓王に並ぶ知勇」と讃えられ、名君の素質ありとして皇帝になったのが孫皓だった。

実際、最初期には
  • 官の倉を開いて貧民に施し
  • 宮廷で飼っていた鳥獣の解放
  • 嫁のない男には官女を娶らせるお前らチャンスだぞ!!
などなど、評価される政治を行っていた模様。

しかし孫家DQNの血は伊達ではなかった。
皇帝に即位すると次第に本性を現し、暴政を敷くようになった。

例を挙げると、
  • 拷問で顔の皮を剥ぐのはデフォ
  • 酒宴にて、
「おいお前飲んでねえな。朕の酒が飲めねえってか?ああ?」

「おーおーだいぶ酔っ払ってやがんな。ところで話があんだけど。」

「やっぱ朕のことそう思ってたんか。よし打ち首」
  • 「今から都を武昌に移すんでよろしく」
↓一年後
「やっぱ建業に戻るわ」
  • 後宮数千人、気に入らないメスブタは拷問かけて道端にポイ

こ れ は ひ ど い


三国志の著者・陳寿からも三国最悪の暴君と評され、それこそボロクソに書かれている。
「孫皓はどうしようもない悪人で、ほしいままに暴虐をはたらき、まごころをもって諫めたものを誅罰し、腹黒いおべっか使いばかりを重用し、民衆たちを酷使して、淫乱奢侈を極めたのである」
「(司馬炎は)孫皓の降伏なんて許さずに腰と首とを断って、万民に謝罪すべきであった。孫晧を殺さないばかりか候にまで封じたのは心が広いというよりは甘やかしだ。」

再従兄弟の孫秀などの優秀な人材も付き合い切れなくなって晋に逃げてしまった。
孫休の子たちや孫皓の弟、更には孫皓を皇帝に推戴した者たちも粛清の犠牲となった。

それでも陸遜の子の陸抗や同じ陸一族の陸凱など、陸一族の努力により斜陽の呉は支えられていた。

陸凱は当時丞相を務めており、孫皓相手にズバズバと諫言を行い、孫晧ですら陸凱存命中は彼を処罰できなかった。*1

272年には歩闡(ほせん)が晋に領土ごと逃げ込もうとしたが、陸抗の見事な指揮で無事に収束させている(西陵の戦い)。
もっとも、粛清を恐れて逃げ込もうとしたと言われているので、そうだとすれば結局孫皓の自業自得なのだが
演義では陸抗と晋将羊祜の関係を疑って陸抗を左遷しているが、史実では陸抗を詰問しただけで陸抗はその後も昇進している。

しかし陸凱は269年、陸抗は274年に死亡。
こうして、いよいよ呉の柱石となるべき人材はいなくなってしまった。
一方、魏から晋への体制変更に伴ってしばらく内政に集中していた晋は、準備を整えると279年の末ごろから呉へと侵攻を開始する。

ちなみにこの戦いで、総司令官の杜預(どよ)が、「我が軍の勢いは竹を割るがごとく」と言ったことから「破竹の勢い」という言葉が生まれたらしい。
呉が善戦したと言えるのは建平太守吾彦が建平を守り切った位(最終的にはスルーされ大局に影響なし)。
蜀は姜維が剣閣を死守し、主力軍を足止めするなど割と頑強に抵抗していたのだが、呉の方は集めた兵が戦う前から逃散し、戦いにすらならなくなってしまった。

王濬に建業を制圧されて三国時代の幕は降りる。

この時の孫皓の活躍。
  • 既に死んでいた陸抗に代わり、抗戦派の張悌(ちょうてい)を丞相に任命(しかし張悌は緒戦で戦死)
  • 降伏派の岑昏(しんこん)を斬って戦意昂揚を図る(斬ると騒ぐ臣下を止めることができなかったとも)
  • 降伏するときに部下たちに送った手紙
 「自分は不徳で失政を累ね、人々に塗炭の苦しみを味わわせて、国家をガタガタにして、祭祀も途絶えさせてしまった。
  反省点は山のようで、死んでも償えないほどだ。
  自分は思慮が足りないのに過って皇帝となってしまった。
  宮廷ではしょっちゅう病気になり、思慮は的外れなものばかりで、多くのものが荒廃してしまった。
  佞臣を侍らせて残酷なことをして、その害毒は広がって、忠臣たちが被害を受けてしまった。
  自分は愚昧なことにそれが分からず、もはや覆水盆に返らないことになってしまった。

  今、晋は中国を平定し、賢才の抜擢のために心を砕いている。
  かつて桓公は仇である管仲を用いた。楚を去って漢臣となった張良・陳平を不忠と謗る者はいない。
  朝廷が呉から晋に移り、天子の政令が改まっても、皆が志を成し遂げることを祈っている。
  自分は皆のそうした動静を喜ぼう。

  自分の言いたいことは以上だ。」

  • 同じ頃に母の弟に送った手紙
  「昔、孫権は江南を平定して国の基となった。
   だが自分は不徳で人々に敬愛されず、失政を連続させて天命にも背いた。
   天からのお叱りをめでたいことなどとと考え、南蛮にまで反乱を起こさせ、鎮圧できないうちに晋が来た。
   人々は疲弊し、軍は敗れ、丞相の張悌は戦死し、兵は過半数が失われた。武昌より西もやられている。
   兵が戦を放棄して逃げてしまったとして兵のせいではなく私の罪だ。天が呉を滅ぼすのではなく全部私のせいだ。
   歴代皇帝に合わせる顔がない。何か手はないものか。」

……滅亡の時の様子だけを見れば、ものすごくまともである。
ちなみに岑昏は、演義だと悪宦官になってます。まあ降伏派はたいてい悪役にされるから仕方ない。


孫皓は釈放され、その後帰命候として封じられ晋に仕えることとなる。
晋に仕えた後、孫晧は立場が立場のためか暴君な話題はなくなったが、代わりに切れ者ぶりをうかがわせるエピソードが残るようになる。

司馬炎をやりこめる

司馬炎から「呉では「汝」(お前)と入った歌が流行ってるらしいね。詠ってみてよ」と言われた。
この「汝」は現代日本なら「あんた」「おめぇ」くらいにくだけた二人称である。
そうしたら孫晧から返ってきたのは

「昔は汝と隣同士だったが、今は汝の家来になった。汝の長寿を祝って一杯やろうじゃねぇか」

どう見てもこの「汝」は司馬炎。
亡国の君主の身で皇帝に向かって汝よばわりという不敬行為だが、何せ司馬炎から詠んでみろと言ったため司馬炎も咎められず、悔しがるしかなかった。

ちなみに孫晧は晋に降伏し、司馬炎に面会したところ司馬炎に許され
「この席を用意して、あなたが来るのを待っていましたよ」
と言われたのだが、孫晧も
「私も南方で席を用意して待っていたんですがねぇ…」と返したという逸話が残っている。

無礼者は誰だ


「どうして面の皮を剥いだのか」と司馬炎に問われたが、この時司馬炎は姉妹婿の王済と碁を打っていた。
ところが王済は対局中脚を投げ出しており、これを見た孫晧は
「無礼者への見せしめだ、反省はしていない」
と一言。王済は恥ずかしくなり、足を引っ込めた。

同じ質問を賈充にされた時には賈充の顔をじーっと見た上で
「主君殺しとか不忠者への見せしめだ」
と回答。賈充といえばまだ魏だった頃に皇帝弑逆を指揮した張本人として知れ渡っていた人物(実行犯一人のせいにして処罰はされなかったが)であり、賈充も黙るしかなくなった。




晋に降伏して4年後、天寿を全うした。
呉の皇族は孫皓が多く殺害してしまっており、孫皓の子孫も晋の八王の乱などに巻き込まれ死に絶えてしまったという。

とまあ、三国志の最後を飾る存在でありながら救いようのない奴みたいに描かれているし、実際暴君という評価ではほぼ一致している。

他方、彼自身は決して無能な人間ではないという意見は多い。
少なくとも最初期は名君であると評されていたし、降伏後のエピソードを見るとむしろ機転が利く人物とも思える。
また、前記した通り滅亡時に唯一意地を見せた吾彦は、司馬炎に呉滅亡の原因を問われて「宰相は賢明、皇帝は英俊。それで呉が滅んだのは天命」と答え、司馬炎を感心させて晋でも重用されている。
こうした点をとらえ、孫晧を弁護したり、孫晧の暴政の理由を推測する者も少なくない。

  • 陳寿のミスリード説
司馬炎は呉彦の前に同じく旧呉臣の薛瑩に聞いたときに、薛瑩は孫晧の悪政を正直に述べている。
薛瑩は呉の史書である呉書の編纂に携わる中心人物でありながら孫晧に処罰されたことがあり、その度陸抗や同じく薛瑩と同じく編纂に携わっていた華覈の執り成しにより復帰できた。
だが華覈は後に罷免され、その親友で同じく編纂者であった韋昭は別件で処刑されている。
そして任命当時5人だった呉書の編纂者は薛瑩のみが残ったものの、完成することなく呉は滅亡した。

未完成な呉書は粗のある部分や不完全なところが多いが、陳寿は多くをそのまま使っていることを後世で指摘されている。
陳寿らしからぬ手抜きではあるが、これには陳寿自身の感情も込められていたのではないだろうか。
また、孫晧は父である孫和の名誉回復について並々ならぬ情熱を注いでおり韋昭にも孫和の伝を立てるように言ったことがあったが、韋昭は頑なに拒否している。
こうした孫晧の史書やその編纂者に対する態度が気に入らず、また呉に対して肩入れする理由もないためあえて孫晧のことを貶めにいったのではないかというもの。

晋としては前王朝の統治者が悪いというプロパガンダも欲しいためこうした記述は歓迎すべきものだろう。
むしろ晋の方がこうした悪評を盛り込んで欲しいという指示さえした可能性もある。
だがどちらにしても史家としてのプライドが許さなかったのか、吾彦の弁明なども孫晧の伝の中に盛り込んでいる。
陳寿自身こうは書いてたけどここはおかしいなと感じられるような記述を三国志の中にいくつも盛り込んでいるため、こうして意見が割れることこそ陳寿が意図していたものであるとも取れる。

  • 二宮の変でグレたという説
最初に書いたが、彼の父の孫和は孫権の三男だが、孫権の皇太子でもあった。
ところが、二宮の変で孫和は皇太子から引きずりおろされ、あげくに自殺を強要されてしまった。
特に落ち度があったわけでもないのに、継承争いによって追放される父の様子を幼少から見せられたら……。

更に呉の臣下たちも、二宮の変では争いを激化させて孫和の死の遠因となっていた上、皇帝になった時も皇帝を蔑ろにする臣下に祭り上げられていた*2
このため、呉という国やその臣下たち自体が嫌いになってしまったとも言われる。

  • 勝てないので自暴自棄になったという説
孫晧は、皇帝即位時はやる気に満ちた賢君だったとも言う。実際、評価された政策も多かった。
ところが、268年に魏→晋への体制変更の動揺を狙って兵を起こしているが、小揺るぎもさせることができずに撤退することになってしまった。攻め込んだ将軍は戦死し兵はバラバラに帰還する大敗であった。

これらをはじめ、皇帝になって改めて晋との圧倒的な戦力差を見せつけられてしまい、その差を埋めようとする努力も実らず、
『畜生! 勝ち目なんて何処にも無いじゃないか!』と自暴自棄になった結果が暴政であるとも言われている。

  • 中央集権化を目指していたという説
三国時代は豪族が非常に強かった時代だが、とりわけ呉という国は豪族の集合体という色彩の強い国であり、肝心な時に結束して事に当たることが難しい国家体制であった。
孫権がいるうちはともかく、その後の孫亮は幼君、孫休は学問好きだがリーダーシップに優れたタイプではなく、まとめ切ることは元々難しかった。

そんな中で圧倒的な晋に太刀打ちするには、中央集権的な体制を作って挙国一致させるしかない。
そのためには中央集権に噛みつく豪族を黙らせる一方で中央権力もしっかり引き締めないといけない。
なので、人材面でも、孫晧が起用した人材は呉の有力豪族出身ではない者が多く、孫晧は彼らを使って豪族に対抗しようとした。
そして、孫晧は中央の権威を示し、豪族の後ろ盾のない新たな臣下を守るためにも処罰を重くしたり税を取り立てたり、公共事業で中央の力を見せつけようとした。

だが、実績もある豪族たちからすれば、孫晧の人事や処罰は「おべっか使いの小人を重用して、それを諫めた思慮ある賢人を罰する」と見られても仕方ない。
画期的な人材登用は、一方で人選ミスを誘発することもあるだろう。
結果として綱紀粛正は行き過ぎ、公共事業も逆に人々に負担になり、画期的な人材登用は佞臣に道を与える逆効果になってしまって暴君との評価につながった…という見方もある。

最後の手紙からして臣下に対して一定の配慮はしており、自身が呉の政治問題の責任を被ることで、今後晋に仕える部下たちに出世の道を残してあげていた、という説もある。


呉のファンの皆様、追記・修正お願いします。

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最終更新:2024年01月06日 10:41

*1 陸凱死後に家族を強制移住させて報復している。

*2 後にその臣下は「孫晧なんか皇帝にするんじゃなかった…と漏らしたという理由で誅殺されている。そもそも皇帝の即位に臣下が関わるとたいていロクなことにならない