織田信長(戦国武将)

登録日:2009/10/17 Sat 21:11:05
更新日:2024/04/09 Tue 15:52:43
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人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか



織田(おだ)信長(のぶなが)(1534〜1582)は戦国時代の武将、大名である。幼名吉法師。通称三郎。

官職は従五位下・弾正少忠に始まり死亡時には従二位・右大臣と従三位・右近衛大将を兼職。
没後に従一位・太政大臣に二階級特進。そして大正6年(1917年)に最高位の正一位贈位。ちなみに現在最後の正一位の贈位者である。
勘違いされやすいが尾張守・上総介は自称。

あと仏敵認定された人間が呼ばれる「第六天魔王」を自分から言い始めた日本史上三人目の変人。
ただしこれは信玄が信長に送った書状で「天台座主沙門」と自称したことへの返しであるが。


尾張(現在の愛知県の西半分くらい)の戦国大名・織田信秀の次男(三男説も)として生まれる。正室から生まれたので嫡男。
生まれた際は乳母の乳首を次々噛み切ったと言う逸話もあるが、事実なら信長は乳児の癖に歯が生えてる人外になるので十中八九後世の創作*1

父信秀は「尾張の虎」「器用の仁」と呼ばれ、主君を凌ぐ実力で斉藤道三・今川義元と争った豪傑。
そんな信秀が当主を務める織田弾忠家も、かつて三管領筆頭と言われた(現在は絶賛没落中の)斯波武衛家の守護代である織田大和守家の庶流でありながら、
津島・熱田の二大交易拠点からの収入で朝廷に献金出来るくらい金があった富裕層。
つまり信長は地元の名士のボンボンであった。
教育係を務めた平手政秀は外交で主君を支えたほか、和歌・茶道に通じた文化人。この影響で信長は茶器コレクターになったのかもしれない。


生涯


幼少期

今川から分捕った那古野城をパパから貰い2歳で城主。ヤンチャをしまくりうつけと呼ばれる。
立場上一応まだ主筋と家臣の立場だった織田大和守家の拠点清州城を数騎で襲撃し放火するなどの行為もしているため、平手爺の心痛も凄まじかっただろう。

天文15年(1546年)元服。翌年初陣。そのまた翌年に織田・斉藤の和睦の証として道三の娘帰蝶(濃姫)を娶る。
当初の道三の思惑では娘婿がうつけならば尾張も盗もうとか思っていた政略結婚だったが、後の聖徳寺での会見で文字通り道三を黙らせた。

家督相続~尾張統一

天文20年(1551年)に父信秀が病没し遺言通り家督を相続。そしてさっそく尾張南部の四城が今川に裏切る。
信長は早速奪還に向かい、倍の数が相手であったが乱戦の末に決着はつかず。
結局逃げた馬を互いの持ち主に返し、捕虜もお互いに返して帰る優しいうつけっぷりを発揮(赤塚の戦い)。

天文22年(1553年)守役・平手政秀が自刃。諌死とも信長と身内の不和が原因とも。
同年、今川家が知多半島の水野氏を攻めるも信長が救援(村木砦の戦い)。強風のなか海から上陸→敵前線拠点攻略→帰り際に道端の今川支城に放火のトリプルコンボ。
道三を感嘆させ、水野氏を支配下に置いた。

やっぱり同年、織田大和守家当主織田信友による信長暗殺計画始動。しかし信友の傀儡だった斯波義統が計画を信長にチクリ、逆恨みした大和守家が斯波家当主を殺害。
謀反人の粛清という大義が転がり込んできた未来の魔王はウキウキで謀反者を懲らしめ、義統の子息である義銀を庇護し織田の頭領に躍進。まだ当主歴三年目。

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死。
後ろ盾の道三が消えた事に乗じて、実弟織田信行の当主擁立を図る林秀貞・通具兄弟と柴田勝家ら一派が挙兵(稲生の戦い)。
信長派700vs信行派1700に苦戦するも信長が大声で相手を一喝し形勢逆転という冗談みたいな勝利。しかし実母の嘆願でみんな許された。通具は死んでた。
弟の次は兄のターン!庶兄の織田信広が斎藤義龍と組み清州城奪還を計画。しかしばれて未遂に終わり降伏したから寛容の心で赦免。優しい。
でも翌年の信行リベンジは許さず殺害した。

これで安泰……と思いきや、信長追放計画が再始動。国人らによって海から今川勢を手引きするトンデモ売国計画。首謀者は斯波義銀。また身内かよ。
最早テンプレ。ばれて未遂で追放処分。元三管領筆頭を滅亡させ尾張統一を果たした。
ん?今川に取られた城?ナンノコトカナー?


桶狭間の戦い

尾張統一後の彼の最初の危機は1560年。
信長が家督を継承した時のドサクサにより尾張の南半分は隣国の大名、今川義元の物になっていた。
信長は尾張統一後それらの奪還を目指し、鳴海城・大高城の周囲を取り巻くように砦を築き包囲していた。
そこに今川義元が約2万の軍勢を率い、救援に向かった。この際に信長は2つの砦を失いながらも約2000の兵にて(兵力差には所説あり)今川軍を強襲。
折りしの雨(一説によると雹だったとも)や「金持ち喧嘩せず」の態度の今川軍の撤退などの要因が重なり、なんと敵総大将・義元を討ち取り、危機を脱した(桶狭間の戦い)。
当時は戦国大名が戦場で命を落とすこと自体が稀だったことを考えれば、まさしく大金星と言えるだろう。

因みに、信長が「圧倒的に兵力差で負けていながら攻撃側に回った戦をした」のは桶狭間が最初で最後であり、以降は「戦う前にできるだけ兵力で相手を圧倒してから」合戦をしている。

1561年、独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶと美濃(岐阜県)への侵攻を開始。その後7年の歳月の末に美濃を制圧した。
この間に近江(滋賀県)の浅井家とも婚姻同盟を結んでいる。

1568年、庇護を求めた足利義秋(足利義昭)を奉戴し上洛を開始。足利義栄を擁する三好三人衆を駆逐し、義昭を征夷大将軍に擁立する。
将軍職に就いた義昭は信長に「室町殿御父」という称号を与えて感謝の意を示すと共に、管領職*2に就くように要請したりするが、
信長自身は管領に就くことは辞退し、自身の領土の正式な安堵と、かねてより希望していた堺を含む和泉の支配、そして弾正忠への推挙を願い、叶えられた。
その後、将軍親政を目指す義昭と、従来型の幕府の再興を目指す信長との間には思惑の相違が生じ始めるが、後述の志賀の陣では信長の要請で義昭が和解に奔走する等協力関係は維持されており、
その頃までは義昭・信長共に双方に利用価値があったらしく、義昭が各地に御内書*3を飛ばし始めたのは3年後の1571、挙兵するのは1572年である。


第一次包囲網

1570年4月、朝倉家討伐の為、金ヶ崎まで侵攻した織田軍は浅井家の裏切りにより敗走(金ヶ崎の戦い)。
この後岐阜への帰路で根来の杉谷善住坊に狙撃されたが、着物を貫いたのみで運よく無傷であった。

同月28日、信長は徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、近江南部の支配権を確保。浅井領への橋頭堡を確保する。
戦いの後に横山城の城主として木下秀吉を任命する、これにより浅井・朝倉軍は琵琶湖東岸を南下することは困難となった。

8月、7月に挙兵し野田城、福島城に立て籠もった三好三人衆を討つため摂津へ遠征し、野田城・福島城の戦いが発生した(別名「第一次石山合戦」)。
この戦いの最中の9月13日、顕如率いる石山本願寺が三好三人衆側に付いて突如挙兵。それに呼応するかのように浅井・朝倉軍が琵琶湖西岸を南下し宇佐山城にいる森可成らと交戦。
初戦は勝利したものの、延暦寺の加勢を受け大軍となった浅井・朝倉軍には勝てず可成、信長の弟の信治、青地茂綱らは討死した。
浅井・朝倉との決着を優先し摂津から撤退。比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣は年末まで続き(志賀の陣)、
加えて顕如の命を受けて北伊勢で蜂起した伊勢長島一向一揆衆に弟の信興が自害に追い込まれるなど、織田家は各地で苦戦を強いられる。

同年10月、苦渋の駆け引きの中、織田信長は本願寺顕如との和睦に成功する。11月には六角義賢・義治父子と和睦。
さらに信長は朝廷と足利義昭に調停を依頼して、北陸が深雪に閉ざされる冬の到来を懸念する浅井氏・朝倉氏との講和を12月に成立させ、窮地を脱した。


第二次包囲網

1571年、義昭は志賀の陣の苦境を見て信長一人では幕府を支えるのに心もとないと判断したのか、
浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏、そして甲斐の虎、武田信玄らに御内書を下しはじめた。
実はこの時点でもまだ義昭・信長の対立は決定的なものではなく、例えば武田信玄に対する上洛要請は信長と本願寺の和睦仲介を含みとしていたようである*4
一方で信長も敵対勢力相手に黙っていたわけでは無く5月に北伊勢の長島一向一揆を攻撃し、9月には前年苦しめられた比叡山延暦寺を焼き討ちする。

1572年、信長は北近江へ出陣し、浅井長政の居城小谷城に対して付城を築いて包囲する。
長政が北近江に釘付けとなったことで美濃と京都を結ぶ連絡線は安泰となり、北近江戦線は信長有利に推移する。

7月、信長は北近江に再び出陣して虎御前山砦を築き、朝倉軍による来援を阻止できるようにした上で小谷城の攻囲を強める。
北近江戦線は膠着状態だったが、8月に後に越前の火種となる朝倉家臣の前波吉継、富田長繁が織田軍に降伏している。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送り、両者の対立は決定的なものになる。

その頃、東海方面では徳川家康の度重なる挑発的行為にも耐えていた武田信玄が、織田家とも東美濃の遠山氏の家督を巡って対立が決定的となり挙兵。
徳川家領内に侵入し、山県昌景と秋山虎繁ら別働隊を三河に向かわせる。
信長は同盟関係にあった信玄の裏切りに*5「今後武田家とは一切の同盟を結ばないし許さない」上杉謙信に手紙を送るほど激怒した。
12月に三方ヶ原の戦いで東の壁、徳川家康を突破され、織田と武田の直接勝負になりかけるが奇跡的に信玄が病死。
これにより包囲網は綻びを生じ始める。

1573年1月、武田軍の勝報を受けて義昭はとうとう信長を見限り、自ら二条城で挙兵
当初は義昭との講和を目論むも、拒絶された信長は3月末に遂に京都へ出兵。
京都に着陣した頃には、摂津の荒木村重と義昭の配下だった細川藤孝が信長へ恭順。
義昭を攻めた信長だったが、天皇の勅命で4月5日に講和を結んだ。

7月には、足利義昭が信玄の死を知らずに槇島城で挙兵。
これに対して7万以上の大軍を率いて槇島城を攻撃し、18日に義昭の嫡男の義尋を人質として差し出す事を条件に降伏させた。
「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌った信長は「怨みに恩で報いる」と言い、20日に羽柴秀吉に義昭を妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。
もっとも将軍が京を追われること自体何度目だという話なので、ほとんどの人はそんな大した事とは受け取っていなかったかもしれない。
そして程なく淀城に篭る三好三人衆の1人岩成友通を討ちとった。

8月、秀吉が浅井家臣で山本山城主の阿閉貞征を調略したのを受け浅井氏の本拠小谷城を包囲すると、
家中の反対を押し切った朝倉義景率いる二万の軍勢が浅井救援の為、余呉に本陣を敷いた。
折からの暴風雨により敵が油断していると判断した信長率いる馬廻衆が、夜陰に乗じて浅井・朝倉軍の要衝・大嶽砦を攻め落とした事で、
浅井氏救援を不可能と判断し密かに越前へ撤退し始めた朝倉軍を信長は自ら先陣を切って追撃。
刀根坂にて山崎吉家、斉藤龍興ら3000の将兵を討ち取り、そのまま敵の本拠地である越前まで進撃して義景を自害させると返す刀で小谷城攻めを開始。
9月1日に浅井久政・長政親子を自害させ、金ヶ崎の戦いから続いた近江・越前平定を達成した。
しかし、越前に関しては支配を任せた富田長繁と一向一揆らにより混乱状態に陥り、後年再度平定することになる。

11月、義昭は追放されたにもかかわらず、諸大名に対して信長討伐令の御内書を乱発し、三好義継が同調する動きを見せた。
このため信長は佐久間信盛に三好義継を攻撃させ若江城の戦いで自害させた。ちなみに義昭は堺に逃亡した。
12月には松永久秀と本願寺とも和解が成立した。ちなみに松永久秀からは多聞山城を、本願寺からは「白天目」の茶器をそれぞれ手に入れている。
こうして包囲網は瓦解したかに思われたが…


生き延びた者たちの抵抗

1574年、本願寺顕如が本拠石山本願寺に篭り、各地の一向門徒を決起させて信長に対する対立姿勢を強めていった。
さらに1月に発生した越前一向一揆は5月までに越前を占領し、従来より本願寺の影響下にあった加賀を含めて北陸で強大な勢力を築き織田家に対抗しようとした。

しかし、包囲網の瓦解により圧力が弱まっていたため、信長は各地の一向一揆に対して積極的な反撃を行い、石山本願寺を塙直政を中心とする部隊に包囲させる。
2月には信玄の後を継いだ*6武田勝頼が、美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を1万5千の軍を率いて襲撃。
これに対し子の信忠明智光秀ら3万の軍を率いて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、
包囲された城兵と武田勢を挟撃しようとするも城は陥落。東美濃の城10以上を失う。

7月~9月にかけて今まで2度にわたり苦杯を嘗めさせられた長島一向一揆を完全に殲滅する事に成功する。
かつて実弟である信興を殺され、前々回の侵攻の際には重臣である氏家卜全を失い、今回は一揆側の死に物狂いの反撃で庶兄の信広や弟の秀成ら700~1000人の死者が出ており、
激昂した信長の命令で2万人を焼き殺している。
門徒による長島輪中の自治領崩壊後、長島城は滝川一益が統治した。

1575年3月、荒木村重が大和田城を占領したのを契機に、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出軍(高屋城の戦い)。
高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たためこれを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を廃城とした。
そしてこの三好康長の降伏が後々光秀および自らの運命をも変える事になってしまう。
その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。


長篠の戦い

織田・徳川両家は武田家に対しても攻勢を強め、武田家は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。

4月、勝頼は武田より離反し徳川家臣となった奥平定能、貞昌親子を討つ為、1万5000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻める。
しかし奥平勢の善戦と鳥居強右衛門の活躍で武田軍は長篠城攻略に手間取る(長篠城攻防戦)。

5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、徳川軍8000人と合流する。
3万8000人に増大した織田・徳川連合軍は18日、設楽原に陣を敷いた。

そして3日後の21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。
信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、武田軍に圧勝
高坂以外の武田四天王ら多くの武田家臣を鬼籍へと導いた。
この後勝頼は11月28日には東美濃の要衝・岩村城を、12月24日に遠江の要衝・二俣城を失い、織田・徳川との戦いは徐々に劣勢となり武田家は7年後の滅亡へ道を進む。


越前一向一揆制圧戦

8月、武田家に大勝したことから越前の一向一揆勢を叩く余裕が出来たのか2年ぶりに越前に進攻した。
信長率いる織田軍は3万余が陸から、海から水軍数百艘が進み上陸後、各地に放火した。
対する一向一揆側は各地で抵抗をしたものの、数で圧倒する織田軍の前に敗北を重ね一揆は完全に崩壊した。
それでも殲滅の手をゆるめず「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命令し、
一揆衆1万2250人以上が討ち取られ、さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる。
こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。

戦後処理として越前8郡75万石を柴田勝家に与え北ノ庄城主に命じ、
越前府中10万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えて府中三人衆として勝家の補佐・監視役を担わせた。
それ以外に金森長近は大野3万石、原長頼は2万石を与えられた。また信長は「越前国掟」を作っている。
こうして、柴田勝家を総司令官とする北陸軍団が誕生した。

11月4日に信長は権大納言に任じられ、さらに7日には征夷大将軍に匹敵する官職で、武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。


第三次包囲網

しかし、毛利氏の庇護下に入った足利義昭が懲りずに、信長包囲網の再構築を企図していた。
追放されたとはいえ当時の義昭は形式的にはいまだに室町幕府の征夷大将軍であり、将軍として御内書を各地の大名にバラ撒きまくる。
結果、長らく対立していた本願寺、武田氏に加えて北陸の上杉氏、中国の毛利氏・宇喜多氏、紀州雑賀党らによる第三次信長包囲網が形成されてしまい、
さらには丹波の波多野秀治、但馬の山名祐豊がこれに合流。
信長は石山本願寺を塙直政に包囲させ、一向一揆を鎮圧した越前には引き続き柴田勝家を送り、加賀一向一揆の鎮圧と北陸への侵攻を命じる。

1576年4月、信長は冷戦状態が続く石山本願寺に対して攻勢に出ることを決断。塙直政、明智光秀らを中心とする軍勢が天王寺方面を攻略しようとした。
しかし、6年前の野田城・福島城の戦いでも織田方を脅かした鈴木孫市ら雑賀衆はこの時も本願寺方についており、鉄砲の扱いを熟知した雑賀衆の前に織田軍は苦戦。
5月30日の三津寺の戦いでは畿内統治の要の塙直政が討死し、明智光秀が天王寺砦に籠城する結果となった。

天王寺砦に籠城する光秀らを信長が後詰して発生した天王寺合戦では、
3000あまりの寡兵ながらも信長の陣頭指揮で15000の本願寺軍を相手に何とか撃退に成功したが、信長自身が負傷するほどの激戦であった。
この後に佐久間信盛を本願寺包囲軍の主将に置いて作戦を包囲戦に切り替えた。
同時期に柴田勝家が越前から加賀に侵攻。かつて加賀一向一揆を束ねた指導者の多くが先の越前一向一揆制圧戦時に死亡しており、加賀一向一揆は織田軍優勢となった。

織田家有利の戦況の中、北陸では一向一揆と同盟を結んだ上杉謙信が越中から能登へ侵攻を開始。
さらに中国の毛利輝元は石山本願寺への海上からの補給を試みる。
毛利家の補給作戦については7月13日の第一次木津川口の戦いでは、輝元配下の村上元吉らの活躍により織田水軍を破り、石山本願寺への補給を成功している。
また、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化・対立し、
謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが同調した。
謙信は11月から畠山氏の籠城する能登七尾城を包囲するが、堅城であるため落とせず、翌1577年3月に本国の越後が後北条氏の侵攻を受けたため撤退している。
11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。

1577年2月から紀州征伐を行った。これにより雑賀衆は打撃を受け、形式的な降伏をした後に紀伊から撤兵した。
これにより、本願寺に対する包囲はより厳しいものとなる。
しかし8月に入り、包囲の要衝である天王寺砦を守っていた松永久秀が突如砦を焼いて撤退し、謀叛を起したが、信長は嫡男信忠率いる4万の軍勢を大和に派遣。
10月10日に久秀の居城である大和信貴山城を陥落させ、文化財破壊人久秀はコレクトしていた茶器もろとも爆発した。
その一方で柴田勝家は加賀侵攻を継続していたが、11月4日に手取川の戦いで上杉軍に大敗するなど北陸では苦戦を強いられていた。
ちなみにこの年信長は義昭の地位を上回る右大臣に就任した。1578年1月にはさらに正二位に上り詰める。

3月13日、上杉謙信急死。実子がおらず後継者を定めなかった事から、上杉家は養子の景勝と景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。
この内乱を利用し劣勢だった柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中にも侵攻する勢いを見せた。

4月8日には「丹波の赤鬼」こと赤井直正が病死、丹波でも織田優勢となる。
だが毛利家本隊や寄騎していた宇喜多氏が播磨に進出。2月に三木城主別所長治が毛利方に寝返り、播磨の戦況は悪化。

4月18日、毛利勢は3万以上の軍勢で尼子勝久・山中幸盛が守る上月城を攻める(上月城の戦い)。
秀吉は三木城攻めを継続させつつ援護のため高倉山に進出。援軍も到着するも、信長の命令により播磨平定が優先される*7
結果として秀吉は三木城攻めに専念するため、勝久らを見捨てざるを得なくなる*8
7月3日尼子勝久・山中幸盛ら尼子再興軍は力尽き、落城後両者は処刑される。

毛利勢の播磨への進出を受け、10月に荒木村重が謀叛を起こし有岡城に籠城した。
これにより石山本願寺包囲網の一角に穴が開き、包囲されている三木城への補給も可能となったため、信長は即座に有岡城を包囲した。
その後1ヶ月以内に村重の部下である高槻城主高山右近、茨木城主中川清秀、摂津多田山下城の塩川国満らを降伏してきたためか信長は鷹狩りとかして遊んでいた。
一方、有岡城降伏勧告に向かった黒田官兵衛が捕虜になる。

12月4日には再び石山本願寺へ海上から補給しようとした毛利水軍と織田水軍が交戦。
前回の敗北を活かして建造していた鉄甲船を投入した甲斐もあり、九鬼嘉隆率いる織田水軍が勝利を収める(第二次木津川口の戦い)。

1579年になり荒木村重は有岡城にて、別所長治は三木城にて織田家に包囲され、石山本願寺も海上補給の失敗により孤立を深める。
丹波の波多野氏、赤井氏なども織田勢の攻勢を受けるなど、徐々に織田軍優勢になって行く中、
5月に波多野氏の八上城陥落、8月に赤井氏の黒井城が陥落し、孤立を深めつつあった有岡城では9月に城主荒木村重が逃亡し落城、荒木一族は処刑された。*9
村重はその後、信長死後までは道糞(どうふん)、信長死後は道薫(どうくん)と名乗り余生を過ごす。
女子供すら見捨てた彼が「糞」と名乗った心中は如何に…。

別所長治は抗戦を続けていたが、備前の有力国衆で八丈島から泳いできた人の父、宇喜多直家が毛利から離反した事により、完全に補給路が断たれる事になった。

同年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされているが、これについては諸説ある。
詳しくは徳川家康の項目を参照されたし。

また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗する。
信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じる(第一次天正伊賀の乱)。

1580年1月、三木城が陥落し別所長治が自害。正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、顕如らは本願寺から退去。
これにより10年に及ぶ石山合戦が終結し、第三次信長包囲網もほぼ瓦解した。
因みに本願寺から退去した顕如だが妻と仲良く余生を過ごしたらしい。信長を散々苦しめて余生を平穏に過ごしたのは彼くらいだろう。

8月、佐久間信盛・信栄親子に対して折檻状を送り付け本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫り佐久間親子は高野山行きを選んだ。
詳しくは改易の項目も参照されたし。

同時期に古参の林秀貞と安藤守就も、言いがかりかつての謀反の企てや一族が敵と内通した事を理由に追放した。
この頃、秀吉が播磨国・但馬国をも攻略した。


馬備え

1581年2月28日、信長は朝廷からの求めに応じて京都の内裏東の馬場にて信長はじめ織田一門の他、丹羽、柴田、明智ら織田軍団による大々的な馬揃え*10を開催した。
正親町天皇は大喜びで、もう1回やってとアンコールまで要求し、信長も後日それに応じたという。

3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられると、これに対し「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。
朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。

3月24日、信長からの返事が届き朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出し、譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。


第二次天正伊賀の乱

9月3日、信雄を総大将とする五万の軍勢が伊賀に侵攻。伊賀衆は比自山城に3500人(非戦闘員含めると1万人)、平楽寺に1500が籠城し徹底抗戦の構えを見せる。
伊賀衆は先手を打ち、野営していた蒲生氏郷に夜襲を仕掛け勝利。さらに筒井順慶にも夜襲を仕掛け、多くの兵を討ち取る。
これに激怒した氏郷が平楽寺を攻め、一度は撃退されるも滝川一益の援軍を得て再攻撃、平楽寺を陥落させた。
残る比自山城は丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し落とせなかった。しかし総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡し、翌日にはもぬけの空だった。
その後、織田方の調略を受け連携を欠いていた所を各個撃破。伊賀全体で9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された。

11日に柏原城が開城され伊賀国を制圧した。残党は徹底的に捕縛され殺されたが、一部の者は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。
10月9日には信長自身が伊賀国に視察に訪れ、阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。

10月25日には秀吉が4ヶ月にも亘る兵糧攻めの末に鳥取城を落城させた。更には11月中旬、菅達長の岩屋城を落として淡路国を攻略した。


高野山包囲

1581年になると高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。
使者十数人を派遣したが、高野山が使者を全て殺害した。
また別の資料では、1580年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付けた。
続いて同年9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。
1581年1月にはこれがきっかけとなり、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、反抗をはじめた。
信長は一族で和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを命じる。

1月30日には高野聖1383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑。
10月2日、信長は堀秀政を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。
10月5日には高野山七口から筒井順慶も加勢として総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。

1582年に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。
武田家滅亡後の4月、信張に変わり信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。
しかし決着はつかず本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了する。


甲州征伐

武田勝頼は長篠の大敗後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、
人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦を模索したが、前述のように信長が「武田家とは二度と同盟しない」と強硬姿勢を貫き膠着状態になっていた。

1582年2月1日、勝頼の妹婿で木曾谷の領主木曾義昌が信長に寝返り武田滅亡の足音が甲信地方に響き始める。
この報を聞いた勝頼は激怒し、木曾義昌の人質を磔にして処刑。
木曾征伐の為、従弟の武田信豊を先手とする軍勢5000余、勝頼率いる1万も後詰として出陣する。

2月3日、甲州ブドウ欲しさに勝頼による木曾一族の殺害を知ると
信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河から盟友の家康、相模・伊豆・上野から家康の娘婿の北条氏直、
飛騨から金森長近、木曽から織田信忠の総勢10万が四路より進軍を開始。

信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、
出陣にあたって信長は、
「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」
「信忠は若いから攻める気満々だけど無茶すんじゃねーぞ!」
「信忠に何かあったら許さねーぞ!」
親バカじみた書状を出している。
後続として信長率いる本隊が進軍する予定だったとされ、ルイス・フロイスの『日本史』には、この信長本隊は兵6万を率いる予定だったと書かれている。死体蹴りってレベルじゃねーぞ

まず森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。

2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出立し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。
しかし、既に相次ぐ調略や軍事侵攻で戦意を失っていた武田方の投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失う事になった。

北条家は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、駿河東部に攻め入る。
2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の戸倉城・三枚橋城を落とし、
続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。
上野方面では氏政の弟・北条氏邦が厩橋城主北条(きたじょう)高広に圧力をかけ、真田昌幸の領地をも脅す。

3月2日に織田軍3万余は総攻撃を開始。高遠城に籠る仁科盛信ら3000は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。
織田方は織田信家が戦死するなど被害を受けたが、信忠自身も高遠城の塀に上り指揮するなどして織田軍に城門を突破され、
仁科盛信・小山田昌成・大学助らは戦死し、同日の内に落城した。
逃げ散る武田勢の中で唯一徹底抗戦を貫き、武田武士の力を見せつけた盛信の首のない遺体は彼を崇める地元の領民によって埋葬され、そこは今も「五郎山」と呼ばれている*11

2月28日、木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し逃亡。
1000の兵と共に新府城に撤退後、3月3日に勝頼は新府城を放棄し郡内の小山田信茂を頼り逃れる。

勝頼を追う信忠は高遠城陥落の翌日3日に本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。
3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。
3月5日、信長率いる織田本隊は安土城を出発、3月6日には揖斐川に到達した。
ここで嫡男・信忠から仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。
この頃前線の破竹の進行ぶりを聴いた親バカ信長は「こんなに早く終わるなんて思ってなかったからゆっくり観光するわ」と手紙に書くほど完全に遊びモードに入っていた。

3月7日に信忠は甲府入りし、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、全て処刑した。

新府城を放棄した勝頼とその嫡男の信勝一行は郡内を目指すが、その途上で小山田信茂が離反。
岩殿行きを断念し、勝頼主従は天目山を目指して逃亡*12

3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に対峙する。
勝頼の家臣土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。
勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘し一度は撃退した。

しかし衆寡敵せず、3月11日に勝頼・信勝父子は自害した
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。
勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかった事から、急いで陣中にあった『楯無』*13を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。
その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。

勝頼父子の首級は京都に送られ、長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。
因みに武田家は信玄の次男海野信親と五男の仁科盛信、七男の信清の子孫が残党狩りを逃れて生き延びており、
確かに武田家の嫡流は途絶えたが、その血筋は残った。

3月21日に信長は観光しながら諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取る。
4月に入り信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原で、生涯初めて富士山を見たとされる。
4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。
一方、信忠勢は武田の残党狩りを開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲、残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否。
恵林寺住職・快川紹喜が残党の引渡しを拒んだ事によって、寺は長谷川与次・津田元嘉・関成重・赤座永兼の4人に焼き討ちされた。

武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及・処断されたが、上野・信濃・駿河の国衆についてはあまり追及されなかった。
例外は、諏訪一族で抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資と縁戚関係にある朝比奈信置・信良ら、織田・徳川から離反した飯羽右衛門尉・菅沼刑部丞・菅沼伊豆守などである。
この事実から、信長は事後支配の為、武田本国である甲斐の有力者は滅ぼし、それ以外はそのまま織田政権に組み込もうとしたと考えられる。
4月10日に信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。駿河を得た家康から饗応を受けながら、21日に安土城に凱旋し甲州征伐は完了した。


本能寺の変

近江に安土城を建設した後、毛利討伐も大詰めという段階になった信長は、長宗我部討伐の準備を進めていた。

しかし、天下統一も目前に迫った1582年。
毛利攻めをしていた秀吉の応援に向かう道中、京都の本能寺で休息を取っていた信長は、謀反を決意した家臣の明智光秀に奇襲される。
謀反の報を聞いた信長は「誰の仕業か」と調べに行かせ、光秀の軍と判明して「是非に及ばず」と呟いたとも、
最初に「信忠の謀反か」と問うて家臣に光秀の謀反と訂正されたともいう。

信長は同じく本能寺に詰めていた森蘭丸らわずかな手勢と共に、自ら武器を持って明智軍に奮戦するが、多勢に無勢。
次々に手勢が討ち取られていく中、自身も怪我を負った信長は、そこまで付き従っていた女房衆に脱出するよう促した後、燃え盛る本能寺の紅蓮の炎に消えた。

同日、長男の信忠も戦死したことで現当主と次期当主を同時に喪った織田家は大混乱に陥り、やがては歴史の表舞台から去っていった。
そして、信長がその生涯をかけた天下統一事業は、彼の仇である光秀を討った秀吉に引き継がれていくこととなった。

因みに、本能寺の火が消えた後、明智軍は炎の中で自刃した信長の遺体(遺骨)を捜索したが結局は見つけられずに終わり、巷では信長が密かに本能寺を脱出したという噂が流れたという。
その後も信長の遺骨の行方は現代にいたるまでずっと不明のままであり、その理由について、寺に備蓄してあった火薬に引火して遺体が爆散した、ひそかに脱出して別の場所で自刃した、
信長を慕う僧侶等に秘密裡に回収された上で供養されたなど、さまざまな説が唱えられている。
実際には焼死体が多すぎて判別できなかったというのが正しいところだろう。


★逸話

鷹狩り、水練など嗜んだとされる。意外な趣味では舞い、女装。良く口ずさんだのは謡曲『敦盛』。
「人間五十年 下天の内を比ぶれば
 夢幻の 如くなり
 一度生を受け 滅せぬ物の在るべきか」
ちなみにこのフレーズ、現代語で解釈するのと、当時の感覚(仏教の言葉も含めて)で解釈するのとでは意味がかなり違う。
気になる人は作家・藤原京氏の解釈を参照してみるとよい。



聖徳寺の会見

濃姫と結婚する際、舅の斎藤道三は信長の器量を試す為、会見場で事前に隠れて信長の一団を見ていた。
長さ三間の槍や多数の鉄砲に圧倒されるも、いつも通りの馬鹿な格好を見た道三は安心。略装で会見に臨むが、そこに現れたのは裃に着替えた信長。
その堂々とした態度に道三は感服。「後生、我が子はこの男の門前に馬を繋ぐ(軍門に降るという意味)だろう」と言ったという。

人材登用

戦国大名にしては珍しく、地元の在郷勢力のみならず、
明智光秀や細川幽斉といった幕臣、羽柴秀吉や滝川一益といった新参者、
さらには美濃三人衆と言った敵方勢力の者まで幅広く重用するなど、出自に関してはさしてこだわらなかった。
ただ、軍団長格まで出世しているのは光秀と秀吉を除けば全員尾張時代から付き従う重臣達。
能力主義と同時に古参も重用していた事も確かであり、実際はバランス重視の差配をしていたと言えるだろう。
そもそも人材の登用・運用は武家階級・下級層・文化人と出身毎にしっかり分けている。

これの補足として、当時の戦国大名の家臣は上司→部下と言うような単純な構造ではなく、個人の(先祖代々の)領地を所有して独自の勢力を持ち、
大名にはあくまで利害関係で従っているだけという物であった。
信長は当初はうつけと言う評価の為に譜代家臣団からの評価は低く、また信長自身の野望のためにも人材が必要であり、
特に領地や譜代家臣と言ったややこしい要素がなく才智も兼ねた羽柴や滝川等は、まさにうってつけだったと言える。


一方で使えないと判断した者に対する苛烈な処分も厳しく、例えば簗田広正は馬廻→尾張の小領主→いきなり加賀一国の領主(仮)にまで出世したものの、
加賀一向一揆との半年の戦いで失敗を重ねた事で、尾張の小領主に再び転落してしまった程である(まぁ信忠の与力になってるけど)。

彼の名誉の為に言っておくが、手持ちの兵はわずか数千に過ぎず、
後任の柴田勝家が数万の兵を以てしても4年の歳月を費やしている相手であり、勝利はもとより半年持っただけでもマシな相手である。
尤も転落とは言え小領主に戻されただけで済んだのは追放された林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝などに比べれば幸運とも言える。


苛烈さとは裏腹に実力ある者などには温情のある差配も多く、一度は敵対した柴田勝家や林秀貞*14の重用などもそれにあたるだろう。
あのボンバーマンこと松永久秀も実は有能な男として評判が高く、信長から温情の有る差配が目立ったことからこれに値する。
というか彼は3度も謀反→恭順を繰り返しており、しかも3回目の謀反でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命しようとしており、相当甘い対応である。
明らかに生かしておくとマズイであろう弟とその母親も一度目は許している。

また、陣中で勝家と仲違いをし、行軍中に無断で帰還*15した事により敗北の一要因を作った羽柴秀吉に対して激怒したものの、
程なくの信貴山城の戦いにおいて手柄をあげた事で許されて中国地方攻略担当に抜擢したり、
かつてお気に入りのお伽衆の1人を殺害して逃亡した前田利家に関しては、数年の月日を経て手柄を立てた事で帰参を許しているので、
やらかした者でも後に手柄を立てれば不問にしたり、再度取り立てたりする寛容さもあった事がうかがえる。


軍事政策

鉄砲に早く注目した大名の一人であり、大名になる前から鉄砲を大量に発注した。
また日本で初めて大砲を量産し、そして初めて船に搭載を命じた人物。
付け城(砦)を築いて敵を包囲する戦術を多用しており、桶狭間の戦いの原因となった砦群や美濃攻め時の墨俣城、長篠における馬防柵などが代表的。
特に同格か格上相手には大体この戦術を採っている。しかし攻勢となると文字通り神速の勢いで攻め込む。六角・朝倉・武田など被害者は多い。

一方で金ヶ崎の撤退劇や三方ヶ原で家康への援軍をケチるなどして敗戦も目立つが、状況を見れば兵力温存を優先しているとも見える。
地方の一武将から日本統一しかけていただけあって、勝敗を早くに見極める先見の明や大局眼にも優れていたことがうかがえる。
なお信長本人も合戦になると結構な割合で前線に出るなど豪胆。平時も鍛錬を絶やさなかったとか。


経済政策

メジャーどころでは、関所による税の取り立ての撤廃による流通活性化、全ての銭に価値比率を定める特徴的な撰銭令、日本中央政権初の金銀への貨幣価値の付加など進歩的な政策を多く行っている。
現在で言う自由貿易論者。
因みに楽市楽座*16六角定頼と今川氏真という先人がいるので先駆者というわけではない。

そしてマイナーどころでは、百姓貴族に係わらず国民全員を安土城に招待して拝観料(現代で1500~2500円程度の料金)をせしめる、
江戸末期まで続く日本で初めて通貨の変動相場制を採用、豊作時の農産物価格暴落を防ぐ為に政府が一括取引を行う現代アメリカのダンピング法の国内版みたいな政策(座組)を開発、等をやっている。

ホントに16世紀の人間かコイツ。

なお、座組制度は複雑すぎたせいで同時代の人間たちが全く理解できず、結局後世まで残る事は無かった。


延暦寺焼き討ち(宗教関係)

信長の悪業として知られる延暦寺焼き討ちだが、近年の調査で信長の焼き討ちで燃え落ちたのは根本中堂等の少数の建物にとどまっているとされている。
ほとんどの歴史ある建物は、極悪非道で有名な室町6代将軍・足利義教の焼き討ちや、細川政元の焼き討ちによって既に焼失しており、
昔は信長が全てを焼き払ったと伝えられていたのだが、どうやら信長が攻める以前から廃絶していたらしい。

また僧侶の殺害こそ事実なものの、これも信長が完全に悪人というわけではない(後世の文章や伝聞などの影響がかなり強い)。
まず焼き討ち自体は前年にあらかじめ予告しており、決して奇襲的に行ったわけではない。
加えて当時の延暦寺は「女人禁制、飲酒禁止」のはずなのに遊女を連れ込み、酒を般若湯と呼んで飲むなど風紀は完全に堕落していた。

そしてそもそも延暦寺は法華宗との戦争で京都を大炎上させた好戦的な武装勢力であったことも忘れてはいけない。
更に仏や天皇の威光などを盾としながら、織田家の重臣、森可成や信長の実弟、信治らを討ち取った朝倉・浅井連合軍を匿ったり、
ゲリラ戦を行ったりなど何かにつけて敵対行為や軍事行動を行っている。
ならば農民には優しかったかといえばそうでもなく、彼らのうちの大勢が死ぬと分かっていて一揆をけしかける*17等、
お世辞にも僧侶の『聖職者』というイメージにそぐわない行動を取っていた。

しかもここは地理的・拠点的に見ても要所である。
また過去を省みると鎌倉時代には延暦寺自身が園城寺などの敵対する寺院を焼き討ちにしたこともある。
焼き討ちされても文句は言えないとも言える。

ただし僧とは関係なく、日用物資の商売に来ていた商人や逃げ込んだ一般人まで容赦なく惨殺したのは非道と呼ばれても仕方のない事ではある。
とはいえその一般人も、僧侶と分かって酒やら女やら売ってた者ばかりのはずなのでこちらもやはり微妙なところでもある。
世情を鑑みても真っ当とは言えないが、こういう者達がその後一揆扇動…なんてものもよくある話だった。
また、寺院勢力に関しては黄金とかかなり蓄えていたので、経済活動というか現代の寺では考えられない程に金銭に関する動きがあったはずである。

事実「堕落した教団に、織田信長が天に代わって鉄槌を下した」という評価も当時から現代に至るまであることは間違いないのだ。


最後に信長の内心まではさすがに分からないが、決して宗教の否定はしていないし仏教を軽んじることもなかったとされている。
むしろ軍事に関わらず仏教の教えに殉じるのであれば、敵対者であれど信仰の自由を許し、純粋な寺としての統治ならば認めている。
敵対することはほとんどなかった神道に関してはかなり分かりやすく、熱田神宮に塀を奉納*18したり、伊勢神宮の式年遷宮を復活させたり、石清水八幡宮を修復したりしたと伝わっている。
それ以外にも道教儒教キリスト教など、宗教関連の知識も幅広く吸収している。
キリスト教については当時の宗教の腐敗っぷり*19に、西洋の知識・土産などを欲していたのもあるからか、お互いに良好な関係を築き上げている。

現代の日本や世界状況とは異なり、宗教を禁止するのも常だった戦国の世においてはむしろ寛大と言っても過言ではない。

仏教に対する敵対イメージは前述の宗教勢力の腐敗と敵対行為に対する対応、
そしてキリスト教勢力のイエズス会と一部の仏寺(主に当時の本願寺)によるイメージ戦略が大きいとされている。


信長の気性と批評

信長の欠点の一つに挙げられる執拗さは有名で、10年にも及ぶ石山本願寺との戦いが終わった途端、担当をしていた佐久間信盛父子を、
「おまえがこんなに長引かせた」として、討ち死に覚悟で働くか高野山に追放されるかの二択を突きつけて、結果追放*20したりしている。
同時に24年前の反逆や、8年前の謀反未遂を持ち出して林秀貞と安藤守就を追放している。こちらは問答無用。特に林秀貞に対する理由は不明

これらに関しては、畿内や尾張に所領を持つ土豪勢力上がりの武将*21や、無能者や危険人物を一掃する事で家臣団の再編と引き締めを図ったとする説がある。
他にも没収された所領の大半が息子たちに譲られている点から信長の血筋の地盤固めとも取れる。
しかし幾分穏やかな転封どころか、家臣団に動揺を与えかねない追放扱いは問題だと信長も認識していたはずなので、後者の可能性は何とも言えない。

特に佐久間信盛追放には諸説があり、
信長視点での彼の直近の行動は(他の家臣は命懸けで動いていたり手柄をあげている最中に)勢力の大きさの割に中々動こうとしなかったり、怠けがかなり目立っていたことは確かである。
程度はともかくとして放置しておいても他の家臣に示しがつかなかったことは確実であり、信長による19ヶ条の折檻状の内容にもこれは表れている。
折檻状は難癖じみたものも含まれていたり内心別の考えがあったかもしれないが、基本的には信長の心境を書いたもののように思われる*22

手柄をあげた者を高く評価していることは当然として、身命を賭した者も高く評価している。
また、部下に対しても、しきりに天下からみた評判を気にしており、目に見える功績に留まらず過程も考慮していたことが各所からうかがえる。

また、光秀の妹が亡くなった際悲しんだり、秀吉の妻ねねが夫の浮気にやきもきしているといった手紙を信長に出した時には、
ねねは秀吉にとって過ぎた嫁だとたいへん褒めちぎり、どこの馬の骨ともしれない浮気相手よりもお前の方がよっぽど良い女なのだから自信を持て、と励ます手紙を返すと共に、
ねねに自分からの手紙を秀吉にも見せるよう促して間接的に秀吉の浮気を咎めている。
他にも真偽不明だが、民と割とくだけて接することがあったという話が幾つもある。

これらから公人としては冷静で冷徹な面が強くて苛烈なエピソードも多々あるが、私人としてはむしろ情に厚く、寛容で温厚な人物という、
現代でいう公私の切り分けが比較的はっきりしていた人物だったと推測される。


奇抜で古いしきたりにこだわらない革命家やら破壊者とよく言われているが、実は非常に律儀な性格であり、
だまし討ちや裏切りが当たり前だった戦国時代には珍しく信長の側から盟約・和睦を破った事は無いと言っても良い。
以下同盟者一覧。
斉藤家→道三没後自然消滅
浅井家→朝倉家と戦う際は連絡するように言われるも、連絡せずに攻めた結果裏切られる 
武田家→武田が信長包囲網に参加した為、解消
上杉家→勢力拡大に伴い互いの利害関係が衝突し、その後義昭の包囲網形成の呼びかけに上杉家が応じたために解消
毛利家→上杉家とほぼ同じ
徳川家→信長没後、小牧長久手の戦いまで

ただし浅井との関係については同盟条件であった朝倉との不戦を難癖をつけ反故しているため、これについては理不尽な行動だと言える。
発端は朝倉が信長の参内招集に応じなかった事なのだが、そもそも朝倉が信長の命に従う義理はなかった。

また一向一揆した農民を許すと言って皆殺しにしたりもしているため*23、これが正しければ割と胸三寸な感じである。
とはいえ種類にもよるが一揆は宗教団体であり、上層部が黒といえば黒と言わんばかりに、
たとえ良政を敷いていても宣戦布告もなしにいきなり反乱・敵対して、田畑などを荒らしたり部下や自分を殺しに来るという、
為政者にとっては危険で理不尽な存在、現代でいえばテロリストなので殲滅されて当然というところもあり、テロの報復ないしテロリストの根絶という所が大きい。
実際信長に対する一揆は悪政で苦しんだ行動というよりは、既得権益*24を奪われた寺院勢力や武士などの誘導による敵対行為が主で、
しかも早くから信長に従い信頼が厚かったとされる実弟の織田信興も一揆が元で命を落としている。

また信長は一揆には厳しく臨んでも前述の通り宗教そのものはむしろ保護に励んですらいるので、むしろ温厚な方であろう。
じゃあ、安土宗論はどうなんだ?と思われるかもしれないが、そもそも日蓮宗自体が当時過激な宗教でもあったので、止むを得ない部分があったとされる。現在では一応答えっぽいものも出ているが。


全体的な評価として、
軍事方面では強大な大名達に囲まれていたものの、周到な戦略に加えて運も味方したことで切り抜け*25
戦を繰り返しては勢力を拡大していったが、闇雲に混乱を生じさせたわけではなく戦後の民衆統治までしっかりと考えており、
政治・行政・軍事いずれにも彼なりの独特な考え方でしっかりと気を配っており、間違いなく有能な人物であると言えるだろう。
後の豊臣・徳川も彼の施策を参考にしたのでは?と思わしきところが多い。
ただ彼に迫る頭脳の持ち主はほとんど居なかったからか、参謀は居なかった模様。

特に治安や街道などの交通面の安全を向上させていたため、民衆からの人気が高かった。
また入京の際には略奪禁止を徹底し、些細な物を奪った兵士ですら許さず即座に処刑したため、
織田軍の兵士は恐れて道に落ちている物すら拾わず、とても規律の取れた態度に民は安堵したという。

秀吉・家康が禁教として嫌ったキリスト教と上手く付き合えたのも、彼の政治手腕の高さをうかがわせる。
世間の評判も重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していた等、古いしきたりや権威に拘る一面も強い。
名君とはどんな存在なのかとか武将や領主も人気商売の面が強いということを理解していたのだと思われる。


将軍義昭追放に関しては挙兵後も説得から入り、攻めた後もなるべく穏便に済まそうと何度も講和を持ちかけ、最後には天皇まで担ぎ出して一旦講和している。
2度目の挙兵の際にも部下はともかく、当の義昭本人は殺さずに追放にとどめるなど、従来のイメージからは印象が離れる。
ただしこれは征夷大将軍である義昭を殺す事で被るデメリットを考えた上でもあるだろう。
落ちたりとはいえ足利家は当時においても武士の棟梁であり支持している地方勢力は多数存在していた。
また信長の指針と戦力を考えると天下統一した頃には義昭が暗躍する事で、周辺諸国から攻撃させる形にすることで正当な理由で侵略できると考えていた可能性も一応は考えられる。
もっとも敵対した頃に関しては確実にそんなことを考える余裕はないし、他国と友好関係を続けられるならそれで良いと考えていたと思われるが。

新しい物に興味を惹かれるようなイメージが強く、多数の事例から鑑みてもそうだと言えるのだが、
一方で必要かどうかの吟味もしており、興味の無いものや使い道に欠けるものなどは目新しい南蛮品でも返却したという伝承がある。


余談

祭り好きで相撲大会や祭りを開いて自身が参加して踊るなど「うつけ」と呼ばれた頃と変わらない自由奔放さがあった。
ノリノリで女装した事もあり、記録によれば似合っていたらしい。かなりの美男子(勿論、当時の基準でだが)であったことがうかがえる。
他にも自ら城の工事現場の監督を担当、工事の音頭を取る、安土城を一般公開して自ら見物料を取り立てた、
(度々目撃した)乞食を救ってやってくれると自分は嬉しいとその周辺の住人に要請をした、などの伝説がある。


自分が退いた後の織田家に安泰までしっかりと考えており、嫡男の信忠には英才教育を行っていた。
信忠には信長ほどのカリスマ性はなかったようだが、後継者として育成されただけあって決してその能力は低くなく、
首尾よく信忠に権力が受け継がれれば、信長の死後も織田家は繫栄したことであろう。

信長にとって誤算だったと思われるのは、「本能寺の変」の直後にその信忠も光秀の軍勢と戦い、自害に追い込まれたことであろう。
「本能寺の変」の報せを受けてすぐに京都を脱出したならば、信忠は生き残る可能性は少なくなかったのだが*26
信忠は二条城に立てこもって光秀の軍勢と抗戦する道を選んでしまい、結果的に戦死してしまった。
信長は自らの経験もあり、後継者争いを避けるためだったと思われるが、次男以降には英才教育を行わず、他家に養子にやるなどしていたため、
信忠の死によってこれが裏目に出て、信長・信忠亡き後の織田家を牽引できる跡取りがおらず、やがて歴史の影へと追いやられることとなる。
信長の弟たちも兄の死後に表立った行動はせず、次代のリーダーの下でひっそりと働き続けている。

信長の死後、空白となった天下人の座に信長の家臣であった秀吉、そして信長の同盟相手であった家康が就くこととなるが、
彼らも織田家が天下を統べる大名家として安泰であったら、主家、あるいは同盟相手から天下を奪おうなどとは思わなかったことだろう。
家康とは良好な関係を築き上げていたこともあり、(乗っ取ることも考えていたと思われるが)秀吉が台頭し始めた時には信雄にすんなりと味方している。
また、良くも悪くも織田家の転落は家臣の光秀1人が引き起こしたもので、勢力争いに繋がるものではなかったため、実権を失っても滅亡は免れている。


毛利元就とは衝突することもあったが、その後は利害の一致などもあって実は仲が良く、
彼の没後もその息子の吉川元春・小早川隆景とも一応は手紙を渡していたとされる。
ならどうしてしばらくしてから毛利家との仲が悪くなり最後は毛利家と戦っていたのかと言うと、前述しているがほとんど将軍様の仕業。


世間一般で語られてきた残虐な面は、信長の死後に勢力を吸収し天下を取った豊臣秀吉が、
自分の権力の誇示と織田家を簒奪したと言うレッテルを逸らす為に行った印象操作である可能性があり、それによって信長が二面性のある人物像として語られている可能性もある。
実際確度の高い史料では、冷徹な判断が必要な場面以外では、情の深さを示す記述や、略奪を禁止しようとするなど世間の評判も気にしていると思しき記述も見られるのに対して、
秀吉系の史料ではかなり残虐な人物であるように記されていたり、徳川系の史料でも徳川家の正当性を主張する方向で残虐的になっていたりする。
というか、よく信長がやり玉に挙げられるが、戦国時代は人身売買や老若男女問わず皆殺しなどの「道徳? 人権? なにそれおいし(ry」な出来事が日常茶飯事な時代であり、
  • 喧嘩したからと言って味方を見捨てたり、(勝てる敵且つ恭順しない限りは)陰湿な絶対鏖殺マン
  • 敵方の女を部下相手に競売にかけて戦費確保する温泉オタ
  • 捕虜を奴隷として売る戦バカ
という風に、戦国大名も現代日本人が聞けばドン引きするような所業を平然と行っており、
信長に限らず秀吉・家康など天下人含め戦国大名はほぼ全員がろくでなしと思った方がいい。
まあ油断したら寝首をかかれる時代なので、現代の基準で考えてはいけないのだが。
農民ですら近所で戦が起きたら弁当片手に見学しにいき、戦が終わったら死体漁りをする時代が戦国時代なのである。


歴史学会では、2010年あたりから「さしたる異端性はなく、あくまで旧来の秩序を重んじた人物である」という評価が増えている。
むしろ逆にやけに裏切られる側であり*27、単純な残虐行為についても当時においてはむしろ大人しい部類*28

教養に関してもとんでもなく、武士の上に京の貴族の間では田舎の新参者として扱われるような立場だったにも関わらず、
なるべく軽んじられることがないように完璧と言っても良い程の教養を身に着けていたとされる。
趣味の鷹狩りを通じて後世において公家の中における傑物とも称される近衛前久とも仲良くなっている。


大の甘党で、宣教師が持ってきた果物やお菓子を献上して貰った時には、大層気に入っていた。
最も当時はサトウキビの栽培なども進んでおらず、甘味が非常に貴重な時代だった。
他にもお茶漬けの原型とされる「湯漬け」を好み、合戦前には手早くそれを食べて出陣することもあったとか。
桶狭間の戦い直前に食べたのが有名。

逆に酒には滅法弱く、少し飲むと倒れた。
そのくせ宴会では同じく酒に弱い光秀に無理矢理大杯を押し付けたり、酒を不味そうに呑む彼を咎めたりしている。
ちなみに、信長はこのように光秀をよくいじめていたようなイメージがあるが、実際はお互い助け合った戦友で信長も光秀を厚遇しており、
上記のような信長の言動を光秀がどう受け取っていたかは分からないが、当の信長としてはいじめのつもりはなく、気安く接していた感じではないかと思われる。
ココらへんは現在における会社の社長と幹部くらいの関係っぽい。

涙脆い一面もあり、寵愛していた吉乃(本名、類)が没した時には大泣きしたという。
また、荒木村重を説得しに行って幽閉された黒田官兵衛を裏切った故に戻ってこなかったと判断し、彼の息子である黒田長政(当時松寿丸)を処刑するように命じたが、
後に官兵衛は荒木に幽閉されたが故に戻れなかったことを知り、救出された彼に合わせる顔がないと涙ながらに恥じ入ったという。
なお、長政は処刑を命じられた竹中半兵衛が「処刑した」と報告しつつも部下の不破矢足に命じて匿わせていたために生きており、
それを知った信長は大いに喜び、半兵衛の命令違反を不問としている。

長篠城攻防戦において命を捨てて仲間を救った足軽の鳥居強右衛門勝商のことを称え、立派な墓を建立させたとされている。
確かに立派な味方筋の兵だと言えるのだが、結局のところ余所の足軽なので異例の対応と言えるだろう。


独特の芸術センスを持つ。安土城は赤、金といった極彩色に彩られた。
またネーミングセンスも秀逸。以下、一例。

  • 金柑(禿頭の明智光秀に)
  • 禿鼠(禿頭で貧相な顔の羽柴秀吉に)
  • 奇妙(奇妙な顔だったのかな、長男信忠に)
  • 三七(三月七日生まれの三男信孝に)
  • 三介(次男信雄に)
  • 人(デーモン小暮閣下に聞かせたいよ。六男に)
  • 酌(側室・お鍋の子供に。鍋には酌が合う)
※ただし「金柑」は後世の創作である事が半ば確実視されている他、「禿鼠」もねねに宛てた手紙の中でそう表現したのみで、本人に面と向かって呼んだアダ名かは不明。

また、チ○コ柄の着物を愛用した時期があったりと(一説にはそれを着て濃姫を迎えに行ったとも言われる)色々カオスな方である。


創作における織田信長

豊臣秀吉、徳川家康と並んで、例え歴史に興味がなくとも、日本人ならばまず名前が出せるほど有名な戦国武将だけあって、
創作物でも、歴史モノに限らず様々な作品に幅広く登場する歴史上の人物の一人である。

キャラ付けに関しても様々で、その作品で主人公・味方・敵のどのポジションに置かれるかにもよるが、
  • 乱世を終わらせるべく邁進した革命児
  • 味方には優しく敵には厳しい、よく出来た上司
  • 血も涙もない恐怖の象徴たる魔王
等など、見比べる作品によっては「本当に同じ史実の人物がモデルなのか?」と思えるほどまるっきり違う人物像になっていることもザラ。
『第六天魔王』を自称していたこともあり、比喩などでなく本当に『魔王』に変貌してしまうパターンもある。

また、日本ではメジャーになりつつある女体化した歴史上の人物が登場するような小説・ゲームなどでは、
例え戦国時代が物語の舞台というわけでなくとも、その知名度の高さから(女性説がある)上杉謙信らと並んで女体化され(て登場させられ)やすく、
戦国時代が物語の舞台となる作品であれば、まず間違いなくメインヒロイン枠に据えられる。

なお正室である濃姫とはいろんな創作で相思相愛のおしどり夫婦にされがちだが、史実でこの2人の関係がどのようなものであったかはイマイチ不明である。
そもそも濃姫はあの斎藤道三の娘でありながらその足取りすらよくわかっておらず、だからこそ多数の創作が産まれたのだと推測される。
とはいえ史実の信長はどちらかというと信忠を産んだ側室の吉乃を溺愛しており、一説には「信長正室待遇説」といった物すら存在する。

ともかく上記の2人は本能寺の変までには亡くなったらしく、その後は興雲院という側室が側室達のリーダー格を務めていたようだ。
そんな彼女の通称は「お鍋の方」。この珍妙な呼び名に関してはどうにも信長は側室や子供に台所用品の名前をつけて遊んでいた為らしい。息子らだけじゃなく側室までそのネーミングかよ…。
秀吉の妻であるねねや義理の姪である淀殿とも仲が良かったらしく、息子が関ケ原の戦いで西軍に着いたため生活に困窮した際はこの2人に助けられ、1612年まで長生きした。
とは言え比較的地味な彼女だったが戦国大戦にて衆道を愛する腐女子というキャラ付けが成され知名度が上がることとなった。



創作での出番の多さゆえにこういう本まで執筆されるほどである。





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最終更新:2024年04月09日 15:52

*1 そもそも歯が生えてれば乳を飲む必要がない

*2 室町幕府のナンバー2であり、鎌倉幕府における執権と似通った職である。

*3 室町幕府の将軍の、私的な書状という体裁をとった公文書。私的性が強いが命令書と同じく法的効力があった

*4 加えて、信長だけでなく武田にも幕府を支えてほしいという意図があった

*5 信玄から見ると遠山氏の家督問題に信長が介入したことは「宣戦布告」に等しいため当然の振る舞いなのだが、どうも信長は遠山氏の家督問題がそれほど大ごとだと思ってなかったようである

*6 当主ではなく陣代、すなわち代理当主だったという説もある

*7 秀吉は6月16日に密かに京へ向かい信長の指示を仰ぐも、信長の方針は変わらなかった

*8 その際に場内の尼子再興軍に城の放棄・脱出を持ちかける書状を送ったが尼子主従は黙殺、徹底抗戦を選んだとされる

*9 岩楠という4歳の男子のみが乳母の機転で逃され、和泉国の荒れ地…後の岸和田市荒木町にて豪農となったとされる

*10 現代風に言うと軍事パレード

*11 首は京都で獄門にかけられたが胴体は残された

*12 なお天目山は1417年に当時の武田当主・信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地でもある

*13 武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた鎧。勝頼はこれと同じく重宝である『御旗』の使用を許されていなかったともされる

*14 理由は不明だがこちらは後に追放

*15 どれぐらい悪い行動か分かりやすく言うと、切腹&お家断絶を命じていても何らおかしくないほどの行動

*16 特権商業業者の排除による規制緩和策

*17 どう転んでも国力が低下し、国力が低下したら困窮から信徒も増え……と余りにも美味しい策だったので当時の寺はよくこれを狙っていた

*18 熱田神宮敷地内に現存しており、今でも見る事が出来る。

*19 私物化が横行

*20 実際は出奔だが、信長としては正当性を示すために追放扱い

*21 厳密な家来ではなく同盟関係に近い

*22 少なくとも明らかに不自然な内容ではない

*23 諸説あり

*24 当時は仏教と名の付く軍事団体みたいな寺が多かった

*25 謀反が相次いだり、敵がよく結託したりなど同じぐらい不運でもあるので、正しくは悪運が強いという感じ

*26 それだけの時間的猶予はあった

*27 ただし当時の日本においては「強いものにつく」「恩義のあるものにつく」のどちらもがごく自然な価値観

*28 もちろん残虐行為も多数行ってはいるのだが、特に目立つ残虐行為に関しては明らかに先に酷いことをされているケースが目立つ