地下鉄サリン事件(テロ)

登録日:2011/08/31 Wed 23:02:23
更新日:2024/04/24 Wed 23:52:36NEW!
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1995年3月20日


日本は未曾有の恐怖に包まれた



地下鉄サリン事件とは、1995年3月20日の午前8時頃、東京・霞ヶ関周辺の地下鉄電車・及び構内で起きたテロ事件

【概要】

当時世間を賑わせていたカルト教団オウム真理教が引き起こしたこの事件。

目的は殺人等凶悪な事件原因を突き止めたい警察による3月22日の強制捜査を攪乱すること。

要するに、

『何か別の事件起こせばそっちに気が向くんじゃね?』



……というのが長年定説とされたが、NHKスペシャルで元教団幹部が語った内容曰く、強制捜査は避けられないと知った麻原の「予言を成就させるため」。

どちらにせよふざけた話である。


そして――


1995年3月20日、午前8時頃。
千代田線(代々木上原行)・丸の内線(荻窪行、池袋行)・日比谷線(中目黒行、東武動物公園行)の計5箇所、いずれも通勤ラッシュの真っ只中でテロ攻撃が実行される。


【サリンについて】

毒性が強すぎて殺傷兵器以外の用途が無い無臭で肉眼では見えない無色透明の毒物。しかも高純度のものは皮膚からも浸透し、救助のため接触した(防備していない)警官や救急隊員にも被害を出す毒性と浸透力を持つ。

冤罪問題を取り上げる時に高確率で出てくる松本サリン事件の元凶でもあるステルス兵器。

地下鉄サリン事件に使われたものは純度が低かったために異臭を放っていた。
もし高純度のサリンが使用されていたとしたら、その毒性被害は何十倍にも膨れ上がっただろう。

サリンは毒ガスという化学兵器としてみればありふれているのだが
そもそも毒ガスというのは軍隊か相応の企業や研究機関でなければ扱えない兵器というのがそれまでの常識であり、
まさか貧弱なカルト宗教が自前で化学兵器を作って「戦果」を出すとは世界中の軍人の中で思っていた者は誰もいなかった。
このため各国軍の 化学兵器の教科書 にこのテロが記載されるという不名誉な歴史が刻まれることになる。

なお、この時点の日本ではサリンを作って保有しているだけでは 違法にできなかった。
医薬品や毒物劇物取締法は「有用だけど毒性があるからちゃんと管理しないと罰する法」であって
殺人にしか使えず一般人が簡単に作れないと思われていたサリンは 対象とされていなかった。
「化学兵器禁止法」「サリン防止法」は このテロがきっかけで制定された ため、法の不遡及の原則によりこの容疑者には使えず
このテロの首謀者や関与者はそのまま殺人罪や殺人予備罪で告訴し、その取調べや捜査については別件逮捕や微罪逮捕を乱発して執行するというあまりスマートとはいえない手法で行わざるを得なかった。


【被害】

再現ドラマでは新聞紙で包んだ袋状の物を傘で刺した…という表現がなされているが、信者は降りる直前にそれを車内へ置いたらしい。

3線いずれも霞ヶ関、丸ノ内線と千代田線が国会議事堂前、千代田線と日比谷線が日比谷と日本政治の中枢付近に位置する地点を狙ったようで、実際に霞ヶ関駅でも被害が出た。

事件発生後の救護活動や駅構内での救出活動の映像は、1995年やオウム真理教に触れる特集でも頻繁に使われている。

駅員がモップで掃除したので、1列車だけ死者が出なかった列車があるが、一番の地獄絵図は乗客が蹴り出して車内にも駅にもサリンが、サリンが…という小伝馬町駅。

大事な事なのでもう一度言うが、通勤ラッシュの真っ只中。パニック時であるし、神経障害の影響が出ていた可能性もあるので、蹴り出した客を一概に責めることはできない。







死者14人、負傷者は約6300人。重症患者だけでも200人。最終的な被害者数は8000人超。




病院が抱え切れる人数ではなく、救急外来は治療が出来ずに救急隊が彷徨い、数百人規模の死者を出していてもおかしくないはず………だった。


【医療機関などの対応】

事件の一報を受けた聖路加国際病院*1院長であった故・日野原重明氏*2は、片っ端から患者を受け入れ、診療科目に関わらず手が空いた医者と総力を挙げて治療に当たる。

また、サリン中毒と気づいた松本サリン事件を担当した長野の医師が聖路加国際病院の救急センターの担当医に連絡したのは不幸中の幸いであったと言えるだろう。

すぐにプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)の供出令が発令されるがサリン中毒や農薬中毒の治療に使われる薬剤は、本来病院が大量にストックするようなものではない*3

しかし「有機リン系農薬を作っているので、解毒剤はグループ内で用意するのが(住友製薬の)責任」と赤字にもかかわらず住友グループで製造していたものを全国から新幹線・飛行機などあらゆる手段を講じてPAMが東京へ集められた。






諸君も不審物を見つけたら、

触れない、嗅がない、動かさない

の三原則を思い出し、冷静に対処しよう。


【その後……】

1995年3月22日。
オウム施設への強制捜査が始まる。だが決定的な証拠は見つからず。

1995年4月9日。
実行犯だった医師が別件で逮捕される。
この実行犯は麻原のことを後に「自己愛性人格障害」と診断している。

1995年4月12日。
数多くのテロ・犯罪に関わりサリン事件にも運転手として参加した幹部が逮捕。

1995年4月24日。
本事件をはじめ、オウムのテロ行為の数々を指揮したナンバー2の幹部が暴力団員に刺殺される。
(ちなみに彼は物理学専攻で、洗脳用ヘッドギアを開発するなどヤバげなマッドサイエンティストだった)
因果応報かもしれないが、この事件のせいでオウムがらみの事件が一部わからなくなってしまった。

1995年4月26日。
この間にサリン製造に関わった幹部2人(製造主任の元獣医と化学の専門家)が共に逮捕される。
ちなみに彼らのうち化学の専門家は「科学者としてサリン製造に興味をもったことはなく、本当は嫌だった」とのこと。

1995年5月6日。
上記の通り、別件逮捕された医師が自供。このことにより捜査の焦点は一気にオウムに向かっていく。

1995年5月15日。
実行犯の1人および本事件の総合調整役だった幹部が逮捕される。

1995年5月16日。
主犯格、麻原彰晃こと松本智津夫および実行犯2人、運転手1人が逮捕。この時、麻原はサティアンの隠し部屋に隠れていた。

1995年5月17日。
サリン製造に関わっていた最後の幹部が逮捕される。
彼はサリンの原料を隠し持っていた人物であり、医者としての教育を受けていた。

1996年11月14日。
運転手役1人が逮捕される。

1996年12月3日。
逃亡中であり、特別指名手配を受けていた最後の実行犯が逮捕される。

2000年3月2日。
ロシア人の信者達が麻原奪還のために自動小銃などを持ち込んで日本に入国しようとする。
しかし、穏健派となったオウム幹部などの通報によって計画が発覚。失敗に終わる。

2003年4月。
麻原彰晃に死刑が求刑される。
一連のオウム事件に関わった者で死刑を求刑された者は13人となった。

2011年12月31日。
この事件の引き金となった「目黒公証役場事務長拉致監禁事件」で、警察庁から特別手配されていた幹部が、警視庁に出頭して逮捕されてから、
残る二人の特別手配犯への世論の意識が高まる。

約半年後の2012年6月4日。
神奈川県相模原市緑区の旧城山町に潜伏中だった特別手配犯が逮捕される。
しかし、この被疑者は、本件に関しては嫌疑不十分により、同年8月31日付で不起訴となった。

その11日後の6月15日。
東京都大田区西蒲田のJR蒲田駅近くにある漫画喫茶で、新聞などを読んでいた最後の特別手配犯が逮捕された。
警察官が店員の証言から最初は「似ていない」と思ったが、後ろ姿で確認、職務質問をかけたところ、彼は本人であることを認めたのだ。
事件発生から17年以上経てようやく犯行に関わったと見られる人物の身柄を押さえた。


我々は無差別テロ攻撃を受けた事を、今もまだ後遺症で苦しんでいる人達がいる事を忘れてはならない。

2018年7月には刑が確定した麻原らの死刑が執行。
事件から25年を目前とした2020年3月10日には、サリン中毒による低酸素脳症のため被害者の1人が亡くなられ、死亡者は14人となった。


同年1月17日に起きた阪神・淡路大震災の恐怖も冷めやらぬうちに、追い打ちのように起きた首都でのテロ事件。
おりしも平成不況の只中、世紀末も間近という時期に立て続けに起きた凶事により、日本では終末思想が一時期のブームとなった。

なお、サリンを撒かれた丸ノ内線02系・日比谷線03系・東武20000系・JR203系の車両のうち、日比谷線03系が最後まで残っていたが全て引退した。
(203系当該編成はフィリピン譲渡。20000系は両側の先頭車のみが栃木地区のローカル運用向けに転用された。)





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最終更新:2024年04月24日 23:52

*1 災害拠点病院を想定し、非常時には廊下や礼拝堂など至るところで救急救命処置が出来るようになっていた

*2 聖路加国際病院が対応できたのも同氏が東京大空襲での凄惨な光景とそれを救えなかった苦い経験、そして北欧の病院視察から周囲から過剰投資と批判されながらも緊急用設備を整えたため

*3 搬送患者は全国でも年間100人に満たない。農薬中毒治療では1日2本程度。サリン中毒の場合は2時間に2本